子どもが沈黙する、日本の言語環境。空気読む(言葉が育たない)文化??

PISAで「無回答」が多すぎた問題。

大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。

はっきりいいます。
(おとのねさんそこらへんはっきりしています)
休みない定期テストと外部模試、宿題、課題は、学校の生徒(自らを学畜と、進学校の生徒が自分で称していました)管理システムです。
お子さんの心を、刑務所送りにしていませんか?
刑務所でもたくさん、学ぶことはありますが。。。。
僕は、脱獄しました笑

学校の囚人管理システムから、大人になったら、今度は会社の奴隷(社畜)管理システムに移行します。
本当に「いい」会社、社畜になっても守りたい大切なものに出会えたなら、しあわせですが。。。

日本の「こけん」のために?
親の「こけん」のために?

日本や親から子どもが自立していく場所が、おとのねです。

PISAの「定期テスト対策」する日本。
「テストの勉強したの!?」という言語環境が、子どもの大切なタネを殺していませんか?
子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。

言葉の発達が遅いのが、「言葉を使う経験」が少ないからか。
それとも、スローラーンなだけか。

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「褒めて伸ばす」はいいことか。外発的動機付けの【アンダーマイニング効果】とは?

絵本とともに学ぶ発達と教育の心理学
悪いことではないでしょ!

好きだからやってできるようになるのが内発的動機といい、
「褒められて、煽てられて、煽られて」やるのは外発的動機という。

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蛇足1
伸ばそう、として褒めるのではなく、
がんばったね!やろうとしていたことが、できたね!という喜びの共有くらいがいい。
動機付け、「やらせよう!!!!」と意図して褒めるのは、僕の流儀ではない。

蛇足2
「すごい」とおもったら当然のように、感動は伝えるし、
「この子は、これがある」ということはもちろん伝える。
それは自分には見えない、その子の武器だし、魅力だし、磨いていくといいもの、自分を生かすものだから。
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さてその上で、褒める、「君はできる」「俺たちは強い!」「俺は海賊王になる!」とか言い聞かせて、もしくは言われて、思い込むといい結果がでる現象を、ピグマリオン効果という。神話に出てくる、望んで、望んで、欲しいものが得られたピグマリオンという人物の名前からこう言われています。いわゆる、「引き寄せの法則」というやつです。

で、この「褒め」や「賞賛」が逆に、もともとあった、内発的動機を剥ぎ取ってしまうケースもある。
それをアンダーマイニング効果と呼ぶそうです。

富山中部高校の生徒で「勉強は好きだけど、課題は嫌い」という子がいました。
その子は心を大切にしているから、勉強と課題を分けて考えられるのですね。

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親や教師(他者)が望むように言葉をかけるのは当然だ。
「自由に選びなよ」という言葉さえ「自由になればいい」という望みを言葉がけしているのだから。
(そうそう、自分で選べることは内発的動機を与える。自律性を高める。それは大切)

僕なら「しあわせになりなよ」というだろう。
「大切なものを大切にしてごらんよ」というだろう。
そのために世界をきちんとみたらいい、というだろう。
助けが必要なら求めてもいい、というだろう。

大人は、子どもに、願いをかけるのだ。
人は、人に、願いをかけながら暮らしている。
言葉は、チカラだ。

それを祈りともいう。

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言葉への意欲、それは食欲の如し。

クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々

遠慮はいらない。

かぶりついて

指でつまんで汁をなめなさい

あごにたれないように……

芯も

軸も

内皮も

核も

種も

外皮も

捨てるところはないのだから。

『クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々』の中で紹介されている、イヴ・メリアムが命ずる「詩の食べ方」

言葉が出ない、とか、言葉が遅れている、という話をよく聞く。それで支援センターなどに行く人も大勢いる。支援センターはてんてこ舞いだ。それよりも食べる時間、味わう時間をつくるのはどうだろうか。

「この子、もしかしたら…」といって不安になるお母さんがいる。「診断」をうのみにして「治療」をさせようとしてしまう。クシュラの母親も医者に「知能障害時センター」に通って治療を受けるように申し出た。けれども、母親は施設に預けるのではなく、クシュラの“正常な部分”をみつけ、決意を持って不断の刺激を与え続けた。たった一つ、開かれた扉を見つけ、開き続けた。

18ヶ月の時に、クシュラがかなり進歩をとげつつあり、その進歩は、自分たちがあたえた励ましと刺激が、少なくとも一部には成果をあげていたのだ、とそう信じる根拠を、両親はつかんでいた。そのときに「正常でない」と烙印をおされたのである。両親は、それを的外れだと思った。施設へ、という忠告は、自分たちの努力に対する嘲りだとも思ったのである。

医者は診断はできても、人間を育てる「専門家」ではない。人間を育てるのは人間だ。

ジョアン・タフ著の『意味の焦点ー上手な幼児との対話』は、「教師、親をはじめ、成長期の子どもたちとつきあうすべてんぼ人たちが、乳幼児期に言語が果たす役割をより深く認識する助け」として書かれた。著者は、子供が考えていることをヒュオプ原子、同時に思考を深めようとするようにする言語の発達にとって、もっともよい機会を与える家庭環境を規定している。著者がとりあげたのは、3歳の男の子のマークが育つ家庭環境で、とくに大人との関係に注目している。「マークにとって大人とは、情報を提供する人、思考や議論にさそう人である……マークは、質問をすると情報が得られる、問題を解決する努力はほめ言葉となってかえってくる、そして言葉は過去の経験をよみがえらせるものだ、ということを学んだ。」このような大人と子どものかかわりあい、つまり複雑な言い回しを使って、議論し、予見し、計画し、熟考する両親という手本が、マーク自身の話し方に反映されている。こうしてマークは「考える道具」を獲得していく。(p.185)

食事も、言葉も、家が基本だ。そう考えた時に、オトノネができることなんて、本当に小さなことで、もう適当にやってもいいんじゃないかと思えてきた。僕は少し力を抜いてもいい気がする。家庭教育をお手伝い、くらいにしておこうか。

多くの「個別指導塾」がアルバイトの若い学生、学校と関わり合いのない先生との「会話の場所」になっているのも、子どもの心の表れなのだろうとおもう。子どもは大人を求めている。

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自我同一性という言葉が誤解されている件

アイデンティティーと呼ばれているこの言葉は曖昧すぎて笑える。

今日こんな文章を目にした。『こどばが誕生するとき』 p.244に書いてあった。

われわれは社会的なイメージと身体の力の結びつきを探求せねばならない。しかもこの課題は…集団同一性と自我同一性の相互補完が、より大きな共通のエネルギーを、自我の総合と社会組織の双方に提供することを意味している。

かの有名な、自我同一性という言葉を作ったエリクソンの言葉だ。

自我同一性の集団・文化的同一性にもとづく達成は、自我を強くすると同時に、かつ、社会も強くする。どういうことか。僕はこんな風に理解した。

自分であることは、自分が所属する社会組織のメンバーとしての自分をも負うことであり、自分の力は、社会組織の力にもなる。自我が強くなるとは、所属する社会への意識が強まるということだ。その手助けをするのが、オトナという存在だ。オトナは社会の体現者であり、子供が社会の意識、社会の言葉を受け取る存在だ。

人はひとりで何かを成し遂げるには、あまりにもか弱すぎる。自我なんてものは一人ではつくれない。人はそういう生き物だ。アイデンティティーが「自分探し」という言葉で表されるが、実は、「仲間探し」のことであると、エリクソンはいっている。「自分らしさ」とか、「独自性」という意味では、どうやら使われていないようだ。多くの日本人は見事に誤解しているし、保育士試験の本を開いても、自我同一性という言葉は一人歩きしている「日本の西洋化」をアピールするタテマエ言葉になっている。

どんな会社でもいい。お金さえ手に入れば。どんな学校でもいい。遊べるなら。。。

私は、自分を強める、成長させるのと同時に、今いる組織を強めようとしているんだろうか?そこに心はあるんだろうか?所属する場所を選ぶのは、どうだろう。その組織を強めて、社会的な影響力をもたせて、いいんだろうか?私の時間の大部分を費やし、活動する組織は、私が同一化する価値がある場所なんだろうか????(働くことの価値はお金だけなのだろうか?私は「お金」なのだろうか?おとのねさんが独立してみようとおもった理由もここにある)

エリクソンが「身体的なむすびつき」という言葉で表そうとしたのは何だろうか?

やがて、青年期が到来したとき、性的生産力を発揮し始めた身体と集団・社会との結びつきのなかに自我形成の一段と明確なテーマが現れる。それが「自我同一性」である。このテーマは、それまでの年齢において自我が蓄積してきたセンスをすべて対象にした自我の再構成と再強化である。ここで、身体のむすびつきにおいてテーマをあたえたのが社会と文化であったように、テーマの達成に関しても、社会と文化は一定の方法を用意している。したがって、テーマの達成にともなって、自我は「強い自我」になるが、その強さは社会ない存在または文化ない存在としてのセンスを強くすることでもある。(以下、エリクソンの言葉)「幼児期の主要な危機の一つ一つが解決されるごとに子どもが体験する社会の健全性と文化的連帯感に基づいて、同一性の感覚は徐々に充実していく。そのような同一性の感覚のみが人間生活における周期的なバランス…を約束すると、われわれは結論した。しかし、この同一性の感覚が失われ、自我の統合が絶望と嫌悪に…屈服するところでは、必ずそれに関連した一連の幼児期の恐怖が一斉に動員されがちとなる。なぜなら、文化的同一性という『世襲財産』のなかに、安全に錨を下ろした同一性のみが、運用可能な心理社会的平衡を生み出すことができるからである」

ちなみに、センスとは自我感(これが私よ!という肯定感)であり、テーマとは危機、発達のなかで直面していく課題のことである。エリクソンが提唱した8つあるテーマのうち、一番最初にあるのは「基本的信頼」である。ひとりぼっちにならないこと、社会のなかにいること、ひとと繋がっていること、である。そして、

身体的という表現は、自分が文字通り身を置いている社会、という意味で捉えたらいい。人はとにもかくにも、「そこで生活している」ことに規定される。「強くなる」ことは、共同体との繋がりをもつこと、といえるが、エリクソンの時代と、現代とでは世界は変わってきている。エリクソンのいう「強い自我」のあり方が、この時代には少し合わないような気が、(部分的に修正、追加しなくちゃいけないことがあるような気が)する。

で、本題だが。オトノネは超弱小、人が全然来ない弱小塾です。育英とか大手の塾にみんないく。所属する。それがお金になり、力になる。時代のスタンダード、競争社会(脱落社会)、親の欲望重視、日本という歴史、社会に錨を下ろしているからかもしれない。オトノネはその対岸に錨を下ろしている。オトノネ世界へ、みんなこないかなー!!!!!!!!!!と思いながら、オトノネはどんな世界なのか、きちんと人に伝えられないオトノネの曖昧さを感じる。

価値観が多様化したこの時代に、学者はなにもしてくれない。学者の代わりに、たくさんの人がSNSで情報を発信してくれている。社会が、変わったのだ。社会が変わったのだということを学んでいこう。

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幼児期と児童期の違い。空想の友達。

『ことばが誕生するとき』

言語のもう一つのあり方が社会的言語である。そこで大切な言語の昨日は、情報を伝達する機能である。「かつて・あそこ」で見聞きしたことを、「いま・ここ」で他者に伝えるという機能を果たすのがスヤ快適言語である。小浜は、子供が言語のエロ素敵な側面だけではなく社会的な側面を我が物にしていく過程において、子どもは〈死〉を自覚し、〈話〉の虚構性をシリそれと同時に「虚構性としての自己」を認識するようになるのではないかと主張している。幼稚園から帰宅した時、母親が「幼稚園でお友達と何をして遊んだの?」と尋ねるとしよう。子どもは、この問いに答えられるようになるとき、「いま・ここ」にいる母親から心を遊離させ母親というエロス的存在が不在であった空間=幼稚園に飛ばし、そこでの先生や友達との関係的な出来事を、「かつて・あそこ」(幼稚園)にも「いま・ここ」(家庭)にもない空虚性に他ならない〈自己〉の視点から語るのである。幼稚園には母親はいなかった(母親の不在)。いま母親のいるここに、幼稚園の友達や先生はいない(かつて経験を共有しあった他者の不在)。「いま・ここ」と「かつて・あそこ」をつないでくれる他者は存在しない。子どもは、このとき、語る人になることの孤独、あるいは語ることの空虚性に直面しているのである。小浜によれば、子どもがエロス的言語を離れた社会的言語を獲得するようになることは、子どもがエロス的な関係性から遊離した空虚な〈自己〉を手に入れ、そこから〈話〉人として〈話〉を構成するようになることを意味しているのである。隠して、幼児期は終わり児童期が始まる。そして、「いま・ここ」の“自己”と「かつて・あそこ」の“自己”とを関係づけようとする記憶とよばれる“自己”の物語が同時に開始されるというわけである。以上の小浜による幼児期と児童期の理論的な区別は、いくつかの観察や実験データからも裏打ちすることができる。ピアジュの初期の研究「自動の世界観」によれば、5〜7歳の子どもたちはよく死を問題にするが、5〜6歳以下の子どもたちはそのような質問は怒っていないという。このようなデータも、幼児期と児童期との違いの一つを死の自覚におく小浜の考え方を支持しているように思われる。ただし、今日の子どもたちはピアジュの調査した半世紀前に比べ、もうすこし早く児童期に足を踏み入れている用ではあるが。たとえば、小浜の娘は4〜5歳頃に夜寝床に入る前に遠くを見る目つきをし、そして目に涙をいっぱい浮かべ「ねえ、ママ、あたしが死んだら川に捨ててね」と語ったり、「ねえ、ママ、あたしが大人になったら、ママはおばあさんになって、それから死んじゃうんでしょう」と語ったという。筆者の二人の息子の観察データもほぼこのような時期に死の自覚が始まることを示している。「死」を自覚し始めることは、小浜によれば、空虚性としての〈話〉を獲得し始めることと密接に関連している。(『ことばが誕生するとき』p.78)

児童期以降の子供は、自分の体験や思考を、母親やちhc位親がすべて共有してくれているわけではないことを知る。エロス的関係性から遊離し空虚性である〈話〉の世界に足を踏み入れることによって、子どもは、他者と分かち合うことのできないもの。・他者には理解してもらうことのできないものがあるのだということに、直面させられる。かつて、子どもと世界を分かち合っていた全能の他者(お母さん(オトノネさん注))は今やいない。「いま・ここ」に不在なのは、幼児期に世界がまだ分かち合われていた時の“自己”でありその相手であった“他者”である。子どもは、そのような“自己”や“他者”を「いま・ここ」に呼び戻そうとする。かくして、“もう一人の私”や“秘密の友達”が子どもの“私的なもの”を共有してくれる“他者”として出現することになる。“私的なもの”とは、人が現実の他者と共有することができないものである。もしそれが誰かと共有されれば、それは“共同的なもの”あるいは“エロス的なもの”になる。(『ことばが誕生するとき』p.82)

いつも近くにいた人がいなくなって、不安になったり嬉しくなったこと、いろんなことを受け止めてもらいながら育ってきた子どもが、多くの時間を一人で過ごすようになる。現在なら首がすわったら保育所で多くの時間を過ごす、といえども、やはりお母さんに身体的にも、感情的にもべったりする時期が幼児期だ。そのべったりを超えて、自立していく段階が、児童期であり、学童期だとおもえる。お母さんから離れるために、「虚構を語る言葉」を使って、ここにない世界と言葉で関わりながら、少しずつ、子どもは自分でなんとかすることを学ぶ。これを手伝うために、社会的言語、〈話〉をすることが大切なのだとおもえる。

オトノネひろげるシェアぼたん

行儀と振舞い。世界の翻訳。言葉の響き。

日本人は行儀が良いとされる。

行儀が良すぎて、振舞いとしては味気がない場合がある。

僕は「それをやったらマズイ!」ことを子どもが学ぶプロセスに関心がある。

例えば身を守ること。公園から脇目も振らずに飛び出すのはまずい!死んじゃう!と自覚して振る舞えるのはいつだろう。(走っていく自分がどの位置にいるのか、車というものがどんなスピードできて運転手は何を考えているか、そもそも、公園は、どこまでか???車に当たったらどうなるか、痛いのか、、、一体、どうやったら公園の外に飛び出たら危ないとわかるのだろう????)

経験しないとわからない、ということもあるのだろうが、とある野外教育者は「怪我をしない子は、最初っから最後まで怪我をしない」という。怪我をしない子は、頭の中で、体で、「世界のしくみ」のシミュレーションができるのだ!(こうしたら、ああなる、初めは、慎重に、慣れてきたら、少しずつ力を入れてやってみよう・・・とか)

もしかしたら、「マズイ」のはわかっているけど、行きたくて行きたくてしょうがなくて自制(感情のコントロール)ができないのかもしれない。

最近、オトノネにきて皿回しの棒を、目の前に持ってきて、膝でバギッと折って見せた子がいる。文字通り、破壊した!(僕とお母さんが呆然としてチーンとした雰囲気を感じ取ってか、その子はその後、しばらく机の下でしずかーに、反省していた。)

そのモノがどんなものか、というよりも、「みてみて!僕はすごいでしょ!」というのをみせたかったのかもしれない。

「それは誰かのもので、誰かが大切にしているもので」という感覚がわからないのかもしれない。「僕がこういうことをしたら、他の人はどう感じるだろう?」ということを感じるように、大人は子どもに関わっているだろうか。きちんと伝えているだろうか。「この世界のしくみを翻訳して子どもに伝えていくこと」それこそが子どもを育てることであって、お母さんの大切な、大切な仕事なのかもしれないとおもう。お母さん以上の適役は、いない。

「手のつけられない」年齢は、子どもにとっては、「世界を翻訳してもらって、自由になったからだの使い方、心の使い方を学ぶ時期」だとおもえばいい。何が正しいのか、どうやって感じたらいいのか、ハッピーになるには作法があることを、子どもは言葉を通じて、大人の真剣な眼差しを通じて、学ぶしかない。(大人を見て学ぶことができるだろうか?こんなに自由に走ったり飛んだり、掴んだり、壊したりできるようになったのに!嬉しくて嬉しくてしょうがないだろう)

言葉の使い方に気を使ってみよう。「こうしたら、ああなるでしょ?」という理路整然とした言い方だけでなく、「こういうときは、こうするのよ」という言い方もしてあげていい。その場をとにかく離れて、落ち着いて話しかけてあげてもいい。「どうしてあんなことしたの?」と言ってあげていい。もちろん、その言葉がきちんと子どもに悲しみや怒りすら、傷つけずに、受け取れるように、伝えられる響きを持っていなければ、言葉が心から使われてはじめて、言葉は「伝わる」のだと、僕は思っているのだが。

オトノネひろげるシェアぼたん

いじめのない社会(学校)は存在しないか。

いじめっ子もいじめられっ子も、ある典型的な特徴を持っている傾向があることを研究者たちは発見してきた。たとえば、いじめられる子の大部分は、やりかえせずにいじめっ子の要求に屈し、泣いたり、防御の姿勢をとったりすることで、いじめを助長している。また、いじめられる子供は、過干渉や過保護な親に育てられた経歴を持っている可能性が強い。こうした育児行動は不安、自尊心の欠如、依存心などを助長し、いかにも傷つきやすい印象を周囲に与える子供を生み出す。いじめっ子は犠牲者の依存心や傷つきやすさをあてにしていることが多い。相手がやり返さないことを知っているのだ。だから、いじめっ子が自分のパワーを感じるのにもってこいなのだ。もちろん、いじめっ子も社交性に問題を持っている。彼らは愛情や温かさがほとんどない家庭の出である場合が多い。家族の者たちも、気持ちを分かち合うことができないと報告する。いじめっ子の親はときに質っ気が厳しく、子どもをよく罰する。最後に、いじめっ子は痛みや苦しみを引き起こすことを想像したときに、普通の子ほど不快感を覚えないことをしてきしておいたほうがいいだろう。(『子どもの遊びは魔法の授業』p.325)

養育者は子供の感情に気がつき、問いかけ、言葉をうながし、感情を整理するレッスンをしていくことで子供の社交性を育てることができる。言葉はなんのためにあるのか?テストでいい点をとるためではない。子どもが残酷な世の中を生きる「心の強さ」を育てるためにある。僕はそう信じている。否定的感情を言葉にせず、抑圧したり暴力に向かわせるようになったら、自分や他人を傷つけることになる。それはしあわせな、リッチな暮らしとはいえない。

いじめのない世界はつくれるかもしれない。多くの大人がよりリッチでありさえすれば。(リッチネスについては別の記事でたくさん書いています。検索してみてください^^)

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉の質。分析的方法とゲシュタルト的方法の違い。

『子供は言語をどう獲得するか』

分析的方法とゲシュタルト的方法の違い。p.174

難しく聞こえるかもしれないけど、「パズル」のように言葉を組み合わせるか、「写真」のように言葉を見せるかの違い。例えばこういう状況ではこういうといった言葉の使い方はゲシュタルト的に覚える(文章をまるまる覚えて使う)方法が有効だろう。

例えば「本日はお忙しい中・・・」みたいなものだ。

分析的方法とは、言葉の使い方を知っていて、自分で新しい語と組み合わせる方法。(中学生から習う英語の文法の学習のよう・・・)「●●ってどういう意味?」の●●にいろんな単語を入れて文をつくる方法だ。もちろん、この分析的方法で文を作り出す以前に、ゲシュタルト的に、まとまって、一つの塊として、区切らずに、言葉を真似て使っていい。

で、この話が何につながるかといえば・・・

言葉には指示的な、記述的な言葉が(指示的用法)ある一方で、感情的な表現(感情表出用法)もある。

「これはおおきな犬だ」「お母さんが帰ってきた」などは指示的用法であり、「ありがとう」とか「やめてよ」というのは感情表出用法である。感情表出用法はゲシュタルト的である。指示的用法は分析的である。

で、子供はなぜか(親からの影響か、何らかの原因があるかわからないが)どちらかの「戦略」を優先的に使って言葉を覚えて行くのだそうだ。ある子は分析的に言葉を使う。覚える語彙が多い。ある子は感情表出的に使う。多彩な、質的に豊富な彩どりある言葉をたくさん覚える。

学校で評価されるのは指示的・分析的方法である。けど実際に人間同士が感情を伝え合う時にはゲシュタルト的な、まとまった、感情表出用法が大切になってくると僕は思っている。

こんな生徒がいた。

僕が採点したテストを返却して、僕の採点が、計算が間違っていないかチェックする時間。ある子がひとり、前に来て、ゆっくりと、ごくごくいつもどおりの口調で、(やややさしめに)こう言った。「私の回答用紙、もう一度計算してもらえませんか??」。。。僕は感動した。そんな言い方があったなんて!なんて素敵すぎる表現なんだ!「ここが違うんですけど」とか「ここおかしくないですか?」とか「ここ丸です」という生徒はいたけど・・・

心が開けることば、心が、思いやりが感じられる言葉が育つように、私自身が言葉を選んでいかないとなぁとおもう。もう大人だけど。もう一度!

たぶん、心は言葉、言葉の響きがつくる人の気持ちのことなのだ。人に言葉をかけるとは、誰かに対して喋るとは、人の心の音楽に自分の音楽を重ねることだ。もし他人の心を、音楽を乱すような言葉を使えば、他人は怒るに違いない。言葉は響く。自分にも返ってくる。

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉のプロになるための1万時間の4段階。

プロになるには1万時間練習しなくちゃいけない法則があるのだという。(科学的な根拠は知らない。嘘かもしれないしまぁどうでもいいけれど発達の目立つ時期が『ことばでつまずく子どもたち』(p.91)に書いてあって少なからず2年のサイクルがあると書いてあるので少しは信じられるとおもう。

簡単なメモ
3−10ヶ月:言葉を理解する
2−4歳:会話力を獲得
6−8歳:文字を読む(促音、濁点などを音読しながら意識して読む。字と音韻の一致)
10−12歳:文字を書く
14−16歳:文章を書く

で、生まれてから言葉が出る、二語文、会話らしい会話ができるようになるのが2歳の終わり、つまり0歳からの3年間だとしよう。1万時間を3年で割ると、1日あたり9時間。まぁ子供が起きている時間、ずっと学び続けているとすればそのくらいになるか。

で、3歳の段階では、言葉のプロ、というよりも、言葉の学習者として一流だとおもえばおもしろい。(興味関心をもって意欲的に他者の会話を聞こうとする、聞ける、安心してこの世にいられる感覚)

と考えると。。。。

で、3歳になってから6歳になるまでの3年間で、言葉のプロ、になれるはずだ。けど話し言葉に限られる

というように、次々と考えていくと・・・!!!

次の3年間でプロになれるとしたら・・・文字を(口に出して、意味を知って)読むことのプロ、になれる。書くことはできないかもしれないが。文字を、気持ちを込めたり、速度を変えたり、いろいろな表現で、書かれた文字を読むプロにはなれそうだ。小学校低学年。

小学校が終わるころには、文字を書くプロになっている。いやでもこれ、どうなんだろ・・・文字、小学生とか中学生の時とかまだ僕はかなり(今以上に)汚くてうーん。。。。まぁいいや。

とりあえず行けるところまで想像の羽を伸ばしていこう!

中学生になったら、話し言葉で表せていた心を紙に写し取る、書き言葉のプロになっている。そのときには本居宣長や小林秀雄の言葉を思い出しながら先生は指導にあたるべきだろう。書くとはなんぞや。心のどういう営みだ。「丸々した。面白かった。」ではないはずだ。

小学校で理科や社会を、高校受験のように「系統的に習う」必要性を私はあまり感じない。理科はただの不思議をおうあそびだし、社会はおもしろそうな人の写真をみて物語を読む時間だ。言葉の時間、音楽の時間、美術の時間、図工の時間、あそびの時間、それだけでどれだけ、人間らしく、人間が成長できることか。もちろん、言葉の時間に算数や第二外国語を入れてもいい。

中学生なら、もう達人の域に達しているはずだ。ただどうしてだろう?大人が想像する中学生、未熟な中学生、まだ高校生になっていない中学生、自立していない、未発達な中学生というイメージが子供を幼くしてしまっているだけだと僕は思っている。

オトノネひろげるシェアぼたん

近代ではなく現代に必要なことを学ぶ

多くの言葉が失われている。

多くの心が失われている。

多くの体が失われている。

うすっぺらい言葉と薄っぺらい心と薄っぺらい体が溢れている。「ムカつく!」という言葉は「むかむかする」であって、相手を叩くようなバシッとした言葉ではなく、心の中で処理しきれない、もぞもぞしている段階の言葉、「胃がムカついている」という使い方をしていた。それが今では「イライラ」するになっているかもしれない。むかむかする経験わまだコントロールできている感じがするが、イライラとなると、もう棘が立って痛々しい。

教科書で学ぶ言葉は漢字二文字の堅苦しい学術用語だ。そんな言葉を学ぶよりも、もっと豊かに生きるために必要な語彙を学ばないのか。(もちろん、二字熟語を学ぶのは悪いことじゃないが、大切なものを忘れては困る)

豊かな言語環境(時間をかけて、自由に話せる)、豊かな心の環境(信頼できる人間関係)そして身体の環境(リラックスでき、自分の姿勢を保てる場所)が最上の勉強環境であって、それは塾でも学校でもない。

体の感覚を失えば感情も言葉も失う。

心や感情を失えば言葉も身体も失う。

言葉を失えば感情も身体も失う。

そのバランスをとるために、オトノネにきてくれたらいい。ヨガも教えるよ。(まじです)

やってみようよ。

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