頭がいい人は人付き合いもうまい?

生徒がそんな質問を僕に投げかけた。

答えは「ひとそれぞれ」だろう。

「お勉強」ができるからといって人付き合いがうまいわけでもない。
「お勉強」ができても、引きこもりで人嫌いな歴史上の著名人はたくさんいる。

「お勉強」ができないけど、人付き合いがうまい、人もいる。
上手い下手が何を表すかはさておき。

人付き合いが上手い人は、「頭はいい」けどただ「お勉強」をする環境や動機がなかっただけかもしれない。
わからない。

「お勉強」ができるけど人の気持ちがわからないサイコパスのような人(魔王)が集まった場所もある。

ーーーー

とにかくその生徒が人間づきあいで今、多くのことを学ぼうとしていることがわかった。
勉強も、それなりに笑、進んでいる。

同じ状況でも、人によって感じ方、認知の仕方、処理の仕方、反応の仕方は違う。
ストレスを和らげる、その方略を学ぶことが、感情知性にとっては大切で、感情知性と呼ばれるものがなかったら、学力といった、より高度な(人によっては知的に楽しい)ストレスには耐えられないかもしれない。

ーーーーー

この子は「コミュ力が高いと、他の大人とか先生にもウケがいい」という観察・分析もしている。
実はこの子、芸術家の能力を持っている(パーソナリティー特性ビッグファイブ で開放性が高い)せいか、認知能力が高いようにおもう。
それを「お勉強」にどれだけ注げるか。

「お勉強」のために、どれだけ、「お勉強以外」を頑張るか。

僕はそうおもう。

オトノネひろげるシェアぼたん

【今日の面談】不安定な状況の大切さ。生活習慣病・ひきこもりは「自然」か。

最近、春先で頭がぼうっとしていて話題がたまに飛んだりします。
自覚あり。

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今日、飛び入りで面談があった。
言葉のレッスンに興味をもってくれたお母さんが来てくれた。

そこで「子どもがモニターラブ」な状況を話してくれた。
人と関わるよりも、モニターと関わる方が、好き、らしい。

それで「ちょっと心配」というお話だ。

ーーーーーーー

最近、お金の勉強をしながら、
全米No.1バンカーが教える 世界最新メソッドでお金に強い子どもに育てる方法

家庭教育の重みを感じる。

「自然」に任せていては「やりたいほうだい」になってしまう。
けれどもやりすぎると心が荒んでしまう。

いやいや、簡単なことで、家族のルールを決めたらいいんだろうか。
言葉がけなしに、自然と「できる」ようになることはない。
「いいか」「わるいか」の判断が自分でできるようになるには、試さなくてはいけない。

「それをやったら、どんな悪いことがおきるのか」

子どもはわからない。

何が「いい」のか。
何が「悪い」のか。

それを大人がどこまで伝えたらいいのか。
「大切なこと」はなんなのか。

それを学ぶための適切な「ギャップ」が必要なのだろう。
ギャップとは生態学用語で、生態系が局所的に変異するための環境の変化のこと。

それは時として不慣れで不安定になる状況を作り出すだろう。
けどれそれによって新しい生態系が生まれる。
あたらしい仕組みが生まれる。
あたらしい関係性がうまれる。

新しい技能、新しい価値観、新しい感性が生まれる。

その不安定な「ギャップ」は、「お勉強」の本質だ。
新しい言葉、新しい規則、新しい物語を取り入れるために、記憶を再編成する。

不安定な状況を作り上げる。
これが教育の一つの役割かもしれない。

そして、不安定さの中で、学ぶための命のエネルギーを絶やさずに、どうして教育の価値を謳うことができるだろう。

不安定さに対してどのようにバランスを取るのか。
その方法が、その子のキャラクターになる。

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「子どもがモニターラブ」な状況についていえば、、、
大人を含めた社会全体がモニターラブになっていると思えば、とても「自然」なことだともおもう。
(例えば、食生活を考えてみると、「健康的な」=「自然」とは言えないかもしれない)

人との付き合いが希薄になってきた世の中と思えば、それも「自然」だとおもう。
外で遊ぶのが好きでない、という子は普通にいる。

だからモニターを使ってどんなことができるのかを極めるのもいいかもしれない。
(インドネシアの小学生でyoutubeで英語の動画を見まくって英語が喋れる子がいた。そういう使い方は誰もが「OK」というだろう)

その子は趣味で絵をかくというのだから、タブレットで絵を描いて投稿するのもいいだろう。
お絵かき日記をつけるのもいいかもしれない。

「モニター」からでも多くのことを学べる。

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大人の知らない世界に子どもたちは生きている。(少なからず、別の世界をもっている)

ゲームの世界、ネットの世界、、、、
(もしかしたら、大人であっても、人によって世界は違う)

学校でもなく、ゲームやネットでもない世界があるんだ、わくわくできる場所があるんだ、とおもえたら、
そんな経験をしたら、そんな人と出会ったら、新しい扉ができるだろうか。

新しい扉の価値は、人生を豊かにする価値。
ネットの世界では、無限にコンテンツを享受できる。
扉はいつだって「リンク」の先に開いている。

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「人との付き合い」はネットの世界と現実の世界では違う。
どの世界で暮らすのか、、、、「自然」はモニターの世界へと人を誘うかもしれない。

現実の世界は、魅力がない、、、、のかもしれない。。。。
現実の世界の魅力を、大人は伝えているだろうか?子どもは感じているだろうか?

子どもは、何を「よろこび」と感じているんだろうか。

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気質はかわらないかもしれない。
インドアが好きな子、だっているだろう。

けど、

「本人の気持ち」が一番、というけど、本人の中に眠っている気持ち、というものもある。

かもしれない。

家の窓を開けて空気を入れ替えるように、子どもの心に風を送り込んであげることを、子育てに取り入れるのもいいとおもう。
美術館に行く、お出かけする、公園で遊ぶ、山に行く。。。

年齢によっては、もう「できちゃってる」子もいる。
9歳、がひとつの目安。

自分の能力の限界を知って、その中で、うまく生きようとする。
そんな9歳の生き方を理解してくれる大人と出会った子どもはしあわせだ。

オトノネは、ある意味で子どもの「ギャップ」になるだろう。
学校に適応した子にとっては「自己」が求められるオトノネは脅威だ。

キビシイ笑

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教育とはなんだろうか、ということをちょっと考えてみた。
伝えるべきこと、伝えてはいけないことが何か、僕が教師になった時からもんもんとしていること。

縄文時代であれば、はっきりと「生きる仕事」の手伝い=学びだったろう。
それも大人の真似から始まった。
大人の手伝いから始まった。

教育は、子どもではなく、大人の問題なのかもしれない。

「大切なこと」はなんだろう。
お守り
【自然な子育て】とは何かー学者たちの出した簡単な答えーストレス『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』

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飴玉が目の前にあるという環境で窒息死してしまう人がいる。
足腰が弱って寝たきりになって、寝たきりが加速して死んで行く人がいる。
ストレスで飽食したりアルコール中毒になったりして死んで行く人がいる。

「自然」は恐ろしい?

生まれて死んで行くだけなのに、やたら心配しちゃうなぁ

環境、遺伝、それから意志。

環境は変えられる。
意志は変えられる。
遺伝も変えられる(エピジェネティクスの範囲で)。

生まれて死んで行くだけなのに、やたらやきもきしちゃうなぁ

オトノネひろげるシェアぼたん

富山県で家を買ってローンという借金をして得たものは何か【大人の宿題】も完全個別×子別

このブログを書いた後で、「ああ、僕は今、怒っているな」と感じました。
どうにもできない、自分への怒りです。

あまりにも大きな、一足飛びに解決できない歯がゆさ、無力な自分への怒りです。

そこのところを了解してもらった上で、読んでいただけたらいいかともいます。

==========ー

家を買って、、仕事をして借金を返して暮らす多くの富山県の人たち。

富山県で共働きが多い理由を考える。
【ある古老の語る仮説】富山県で共働きが多い理由。

そして、子どもが・・・家に、閉じこもる。(いやべつに、いいんだけどね)
ひきこもるとは。不登校の機能。

家を守っているんですか?
子どもを守っているんですか?

何を、買ったんですか?
あなたの買った家の、価値は、なんですか。

家のリッチネスを、使っていますか。
家が、牢獄になっていませんか。

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こんな質問をされたら、「うっ!」となるだろうか。

困っているけど声を出せないお母さんなう
言いたいことが言えない。

大人の宿題、大人の学びを、オトノネは大切にしています。
学ぶための、考えるための、いろいろな知識というものがあります。
考えるにせよ、学ぶにせよ、「知る」ことは大切です。

ただ、「知る」ということ一つも、「学び」の一部であって、ほとんどのお母さんたちがやりのこしている【大人の宿題】だということを、多くの人が知らないのが現実です。
↓下の記事は難しいと思うので簡単にいうと、「現実の世界をみようとしても、感じようとしても、心がブロックされていたら、学べない、見えない、感じられない」ということです。
【暗黙の次元って何?】安冨歩さんの『複雑さを生きる』『合理的な神秘主義』のメモ

「学び」が始まるには、、、「堕落」が一番だと、今はそうおもいます。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

もしくは、「言い訳」をしている自分に気がついて、「飛び降りる」こと。

変わるというのは、そういうものなのだ。
だから、富山県は変わらない。
日本は変わらない。

変わるのは、人間しかない。

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富山ブラックにはいろいろなしかけがある。

家を買うことになっている。
「ローンを組むことになっている(この言い方は、経済界の作った呪いであり、正確に言うと「借金を背負うことになっている」)」。
共働きすることになっている。
「内申点」で学校から脅しを受けるようになっている。
お母さんが、不安になるように、作られている。

富山県の「どうしようもない」文化が、制度が、子どもを「どうしようもない」状況に追いやる。

たぶん、子どもは保育園で不当な扱いを受けているだろう。(残念ながら、僕の目から言わせれば、、、、社会福祉法人という組織自体が狂っている。そこで働いている人で、狂っていない人がいたら、奇跡的だ)
それでも、何が起きても、子供をお母さん自身が守ることができない、らしい。
なぜなら、借金を返すために、仕事をしなくちゃいけないから??????????????????

「どうしようもない」

「どうしようもない」

どうしようもない?

ということで、悪口を言ったり、愚痴を言ったり、息抜きに励むようになる。

「どうしようもない」

その無気力、無力感で富山県は、というか日本という場所は満ち溢れている。
学習性無力感・学習性無気力とは?
【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。高岡高校の生徒はなぜ自殺したのか。
富山のメンタルヘルスと「怪獣」
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
ブラックはラーメンだけでいい。学校はホワイトであってほしい。

そんななかで、独自の進化笑を遂げる人もいる。
ひとりひとり違う。

だが、富山という文化で育った心が「自然」と向かう先は、他者に付合することだ。(富山に限ったことではないが)
自立する、選択する、積極的自己責任を負う、といったメタスキルが弱いから、自然と生きる知恵として「決められたことをする」生き方になるしかない。
教育衰退国、富山で生きる知恵だ。(日本が全体、そうなっているが、富山はまたかなりヒドイ。そのデータ、根拠は随所で出しているので探されたし)
「育英」に入れる、というのも、知恵の一つだ。だって、判断する力が、行動する力が、弱いのだから、与えられた情報だけでやっていくしかない。

だがその「知恵」が、子どもの「命」を輝かせるかは、また別の話だ。

「宿題はやらなくちゃいけないものだ」という「知恵」が、多くの子どもたちの心をすり減らしている。
「家を買って借金を背負う」という「知恵」が、多くのお母さんの心をすり減らしている。

これは、事実だと、僕は思う。(そう見える人には、そう見えている)

==========

人は皆、誰もが、投資をしている。
借金をして家に投資したなら、家からいいものをたくさんもらったらいい。
もらえるだけの投資をしたらいい。
そうして「安心」のために塾に行かせるお母さんがやたら多いのだけれど。

家に投資をした。
それだけ大きな額を投じた。
であれば、投資をした分だけ、そこから得たらいい。

得られないとわかったなら、、、借金返済を長引かせて子育てが終わってから「宿題」として返していくのはどうだろう?

人は皆、投資家。
「自分」という資産の価値を理解した人間が、別の価値と出会い、自分の価値を上げていくプロセス。

たとえ、それが「お金」でなかったとしても。

「もの」に価値を感じる人がいる。
そういう人はブランドとか、見た目、にこだわる。

「もの」ではないものに価値を感じる人もいる。
そういう人は、旅行とか、食事とか(「もの」か?)、そういうものにこだわる。

あなたにとっての「家」の価値はなんでしょうか
投資した分だけ、その価値を享受しているでしょうか。
(僕だったらその家が子どもの心を豊かにするために、そして僕自身が研究するのに勝手がいいようにつかわれるだろう。「家」だって「組織」だって、生かすのも殺すのも人間次第)

もしかしたら、それだけ大きな投資をした「家」をきちんと使ってあげたら、うまくいくことがあるのかもしれない。

==========

一人では愚痴もいえない人がいる。
(そもそも愚痴は一人でいうものではないが。。。)

「なんか違うんだよなぁ」と思いながら、その感情を、情を、どうしたらいいかわからない人がいる。

答えはない。
答えは人からもらうものではない。
ただ、ひとりでは「自分の答え」がなかなか出せないのも事実。

そのプロセスが、ひとりひとり違う。(だからオトノネは完全個別×個別)

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ある人は、「いいもの」を感じることもできない。
ある人は「わるいもの」を感じることしかできない。

「いいもの」を感じる心が、潰されてしまっている大人がたくさんいる。
誰かから与えられた「いいもの」に合わせて心を潰している大人がたくさんいる。
(「学校の宿題はやらなきゃいけないもの」だとおもっている人がたくさんいる)

子どもはもちろん、その影響を受ける。
不登校やら、ひきこもりやら、ネット依存やら、なにやら、大人たちが「わるい」とおもっていることは、たいてい「いいもの」を潰されている子どもたちから出た、心をまもるしくみであって、まったく「わるい」ものではない。

僕は逆に、「いいもの」だとおもっている。
それをきっかけにして、大人がどう感じるのか。
感じ直すのか。

これが大人の宿題だ。

どんな生き方をしたいですか?
どんな声をあげたいですか?

日本国富山県ではこういう問いを発すること自体が「不自然」に感じられてしまう文化がある。

お母さん自身が、「ああしなきゃ」「こうしなきゃ」「しかたがない」でいっぱいになっていて、「いいもの」を受け付けられない文化がある。

お子さんと一緒に最後に笑ったのはいつですか。
お子さんの表情をみて、はっとしたのはいつですか。
お子さんの成長を感じられたエピソードはなんですか。
お子さんの話を聞いて、感動したことはありますか。

これが大人の宿題の、基礎の部分だ。

カリキュラムつくろうかな笑

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大人の宿題は、なかなか大変だ。

家を買ってしまった。
借金をしてしまった。
借金を返さないといけない。
お母さんもあくせく働かないといけない。
子どもは・・

ーーーーーーーー

お金でなんとかしてください。
仕事をしているんでしょう?
お金を稼いでいるんでしょう?
なんのために?
家を買うために?
じゃぁ、その家をつかって、ちゃんと満足して子育てをしてください。

こうやって、突き放すこともできる。
(相手が気づく速度、感じる速度を無視して、殴りつけること、暴力)

「家に価値がある」から買ったんでしょ?
それで子どもが困ってる?お母さんが困っている?
自業自得だ。

こうやって、頭で考えることもできる。(言葉で殴りつけることもできる)

「家」のせいにすることができる。
「学校」のせいにすることができる。
「富山」のせいにすることができる。
「日本」のせいにすることができる。

で、「自分」は?
今ここで、この記事を読んでいる「自分」は?

自分自身の大人の宿題を放り出しておいて、「自分」を棚に上げておいて、何かのせいにしたい気持ちもわかる。
それだけお母さんは、アウシュビッツ状態だ。
アウシュビッツは自由・平等・平和の象徴か。

だがしかし。

お金を払って買った、借金を作って買った家に、子どもを閉じ込めて、お母さん自身を閉じ込めてしまっていないか。

それも、現実かもしれないということを、感じられるだろうか。

現実だと認めて、ではどうするか。

これが大人の宿題です。

踏み出したお母さんを、オトノネは応援します。


ーーーーーー

ぼくたちはたびたび、「外」に解決策を求める。

まぁ、一人で心は変わらないとおもうからしょうがないのだが。

だが「外」に原因を求め、「外」に解決策を求めているだけでは、足りない。
悪口ばかりいって、誰かのせいにする何かのせいにすることで何かにすがることで自己欺瞞を続ける人は成長しない。

いやまぁたしかに、「外」に向かうことで解決することはあるかもしれない。
けどそれは正確に行って、解決ではない。

「外」で心を大事にすることを学んで、再び「内」に行けるかどうか。

場所を変えたら、例えば日本を出たら、「沈黙の文化」を使わなくていい、とかそういうものはある。
子どもが沈黙する、日本の言語環境。空気読む(言葉が育たない)文化??
大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。

僕自身が、日本では感じられないことを、日本の外でたくさん感じてきた。
それは、僕の場合。

学びのプロセスは、ひとりひとり違う。
だからオトノネは完全個別×子別です。

ーーーーーー

学ぶか学ばないか。
自分ごとにするか、他人事にするか。

頼ってもいい。
けどそれが学びにならなければ、ただお互いに、人間性を、心をすり減らしていくだけだ。

それでは塾や学校と変わらない。
【ビジネスの原理】情を売る。

頼ってもいい。
ただその中で、学び取らなければ、ただただ、「命」を消耗するだけだ。

メタスキル という言葉は、「学びのための能力」と僕は簡単に説明している。
「学び」の回路を閉ざしている何かを、取り払うことで、この回路は動き出す。

だが富山の文化は「学び」の回路を閉ざすようにできている。
(「内申点」の異常な高さは、富山ブラックの象徴だと僕はおもっている)
富山県立高校入試の内申点の配点が異常に高いことを知っておくと後悔しないかも。

「責任」とか「義務」という言葉が呪いの言葉になっていることが、言葉の文化が、「学び」のプロセスをズタズタにしていることも否めない。
学校の責任と義務(責任について・・・いくつめ?)
「責任」という言葉について
責任
医療が発達して学校教育で排除される子どもが生まれる。教育はテクノロジーの責任を取っているか。

「命」がよろこぶ言葉、「命」が「生きる」言葉を使おう。
そして「命」がちゃんと輝けるように、「命」を守ろう。

ーーーーー

そのための、「学び」を始めるきっかけにオトノネがなれたらいいとはおもうのだが。

頭の中が借金でいっぱいのお母さんに、なんと声をかけたらいいのか、僕にはわからない。
僕は伝わらない言葉は使いたくないし、何を感じてくれたら伝わるのかを、一瞬一瞬、感じようとしている。
どんな声をかけたらいいのか、レッスンを通じて、僕自身が、感じていく、そしてそれを伝える。それがオトノネです。

頭の中が課題でいっぱいのお子さんに、なんと声をかけたらいいのか、僕にはわからない。

僕からしてみれば、子どもも大人も、同じ状況にいる。
それなのに、大人は高みの見物をして、子どもを「塾」や「学校」でどうにかしようとしていることが多いから、やるせない。

自分の宿題をしてほしい。

ーーーーーー

子どもと暮らしていて、感動するエピソード、成長したと感じるエピソードを、心から話すことができるだろうか。
子どもの「いいもの」を「いいもの」としてみられない状況では、「命」の輝きを感じられない状態では、お母さんは、子育てをなんでしているのか、わからないのではないだろうか。

これが大人の宿題です。

子育てが「仕事」になっていませんか。
【子育てを仕事にしてしまったお母さんへ】大人が子どものときにやりのこした宿題『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三

お母さんが家のローンを払う「暮らし」をする傍ら、子育てという「仕事」をしていたら、子どもは一体どこで、心を大事にしたらいいのか、僕にはわからない。


というわけで、少なくとも「学校の宿題はやらなくてもいい」というお母さんに問い合わせをしてほしいおとのねさんです。
「学校の宿題はやらなくてもいい」とおもっていないお母さんの「学び」のプロセスを動かせる自信は、オトノネにはありません。

愛を学ぶ、といってもいい。
「は?」
と思った人!
いますね笑
こちらをご覧ください。
愛とは何か?

借金地獄に子どもを巻き込んでいるなら、子どもは傍迷惑だ。
家を守る?
家に、子供を守ってもらう?
子どもを犠牲にして、家を守る??????
(いうても子どもは別にそんなこと感じちゃいないくらい生きているからまぁ大丈夫なんだろうけど。いくらでも人柱になりますよ。それがしあわせかはわかりませんが)


お金の使い方、時間の使い方、お母さん自身の「命」の燃やし方を、オトノネは、お母さんに問いかけます。

お母さんが「子どものために」買ったピアノが呪物になってしまうように、
お父さんがお母さんが買った家に縛り付けられてしまっているなら、やっぱり変だ、と感じるだろう。

心が大事。

【アタッチメント(愛着)の深い意味】幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、しあわせの種をまける。学童期のくもんとそろばんにお金をかけるまえに。
【お母さんもお父さんも必読】『ライフシフト-100年時代の人生戦略-』
【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
意味不明な世界。不確実な世界で生きる「合格実績病」のお母さんに送る言葉。
「子どもの子ども」のためにお母さんにできる大切なこと
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。
好きなことをするお母さん!Hug*smile
お母さん、子どもを守るために、参政しよう。
子供の自立とお母さんのライフサイクル
勉強ができない理由はお母さんのしつけと習い事?
句読点が書けない?お母さん、心配しすぎ!
お父さん、お母さん、お子さんのビジネスに投資しませんか?
教育と福祉の架け橋がない。お母さんが学ぶべき子どもの発達のこと、現代の社会のこと、現代の育児本に書かれていないこと。
まだまだ小学生。思春期はいつ来るのかな?来るのかな?笑
成績が伸びない勉強しない簡単な理由。勉強より大切なこと。
保育士、お母さんたち必読の書。平井信義さんの「意欲」と「思いやり」の子育て。

ーーーーーーーーー

ところで、借家と、家を買うことの違いはいろあるけど、僕は「自分なりにカスタマイズしたい」なら家を買うのがいいとおもう。
それも、「自分の創造性を高めるために」という理由だ。
家の構造、家の雰囲気一つで心は変わってしまう。
自分が「創造的に」なるために家を立てるのはいいことだとおもう。

別の人は「見栄」のために立てるかもしれない。

家を買うといことは、その土地に自分を固定する、ということでもある。
それでいいのか。富山でいいのか。もっと、冒険してみたくないのか。考えてみてもいい。
誰かが言っていた。とあるお金持ちの人だ。「僕は家を買わない。子どもがいじめられたら、引っ越すことしか、僕にはしてやれないから」だそうだ。

お金の話をしたら、借りるのも買うのも、一世代だけが住むなら同じだと僕はおもっている。
手に入れた「家」が一代で終わるなら(子どもと富山にしばらないなら)、買う価値はない。

要するに家を買うという文化によって、富山人は富山で生まれた人を富山に縛り付け富山化させる。

これが、魔王の世界だ。

古い世代と新しい世代の関係性が、問題だ。
なぜこんなに新しい人たちは弱いのか?言いなりになるのか?
2つの文化【自己疎外・人間疎外】と境界を侵害するナルシシズム

オトノネひろげるシェアぼたん

【学びのプロセス】先生によるいじめとは何か『生きる技法』『経済学の船出』安冨歩

【学びのプロセス】先生によるいじめとは何か『生きる技法』『経済学の船出』安冨歩

最近、問い合わせがあった。
学校で、先生にいじめられた子の話だ。
もちろん、よくある話で、社会的に、組織的に、合法的にいじめられる。

だからそれは「いじめ」ではない。
どれだけ富山県の外にきたお母さんが富山県で「いじめ」に合おうとも、富山県の中では、「いじめ」は「文化」であり「常識」であり「自然」であり「正しいこと」としてただただ、したがって行くしかない、みたいな、諦めの世界に人を誘う。

いじめに対して、このような大人の姿勢から子供が何を学ぶだろうか。
「いじめられたら、諦める」

「諦める?」

それが何を表しているのか。
「生きる」ことを意味しているのだろうか。それとも「死なない」ことを表しているのだろうか。
「命」を握りつぶすことを意味しているのだろうか。
それとも、「命」が輝くことを意味しているのだろうか。

もしくはいじめられたら、いじめた人に「攻撃する(いじめ返す)」大人もいるだろう。組織的に、計画的にいじめ返す人がいる。
いじめられた!といって、他人を攻撃することを意図した悪意ある大人もいる。

そしてもう相手が反撃してこれないように、徹底的に、潰す。(体裁的には相手が勝手に潰れるようにも見える)
多くの組織が、全体主義的な「ハラスメント」を別の組織に仕掛けている、といえるだろうか。あー頭が回らない。

大人の社会そのもの、と考えてもいい。

苛め、卑しめ、というものは、とても人間らしい、人間の、醜い部分であって、心のある、とても深い場所から生まれてくる。

ーーーーー

ある子は、遊びに誘った同級生から「今日は○○ちゃんとあそぶから、あなたとは遊ばない」と言われたらしい。
これを、いじめ、ととることだってできるし、ただの心の構造、とみることもできる。
「遊ぶとは、誰かと契約関係を結ぶようなものである」という心があるかもしれないし、
「その子の“占有物”にならなければ、“遊ぶ”ことにはならない」という心があるのかもしれない(爆)。

わからない。

とにかく、

苛め、卑しめ、というものは、とても人間らしい、人間の、醜い部分であって、心のある、とても深い場所から生まれてくる。

いじめは問題ではない、「いじめ」という現象が立ち現れたときに、その「心」とどう関わるかが問題なのだよ。
なぜなら、いじめは、なくならないからだ。

いじめとどうかかわる?

本当は、自分自身が、自分をいじめているのかもしれない。
本当は、お母さんから、いじめられているのかもしれない。

苛め、卑しめ、というものは、とても人間らしい、人間の、醜い部分であって、心のある、とても深い場所から生まれてくる。

============

生きる技法
『生きる技法』ではこれに対してズバッと方略を提示する。

「破壊的構え」の人を、バッサリ切るということだ。
(ちなみにではあるがメンタリストのダイゴさんも同じようにいう)

あまりにも手ごわい、心が追いつかない脅威に対しては、心を守るために逃げる、関わらないという選択肢が有効だと僕も思う。
僕自身が、自分の心を守り育てるために環境を選び続けて来た。

バッサリ切る、といっても安冨さんは、自分に余裕があるなら相手が「創造的構え」をとれるような姿勢を取るのが、「学」としては理想的だというが。
これは並大抵のことではない。

僕自身も、坂口安吾のいうように、「堕ち切る」ことによってしか、学びのプロセスを始動できない、とおもっている。
もしくは、「破壊的な人」に構うことにエネルギーを注ぐより、自分が「創造的な人」となって「創造的な人」と人間関係をつくることのほうが、第一優先だ、といってもいい。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

破壊的な構えをもった人は、欺瞞にあふれていて、対話というものができない。
何かにとらわれていて、心を開くことがない。ただ情報処理を行い、事前にプログラムされたシステムを発動させるだけの機械だ。
巧妙に、相手の心につけこみ、破壊するウィルスだ。

学校に蔓延している。
会社に蔓延している。
時として、家庭にも、蔓延している。

いじめをハラスメントとしてみれば、世の中に、いじめのない場所を探す方が難しい。(そんな場所をつくることが、「生きる」ためには大切になってくる)

===============
経済学の船出
『経済学の船出』安冨歩

この本では、「貨幣経済は縁切りによって安定する」「貨幣経済はもともと安定と不安定を繰り返す複雑系である」「貨幣は人間の関係性をよくする手段にもなるが、ハラスメントを引き起こす道具にもなる」ということが書かれている。
ざっくり笑それでいいのかな??

いじめを安冨歩さんのいう「ハラスメント」だとしてみよう。

以下の文章は、安冨さんはなんも喋っていない。
僕が考えたことなのであしからず。

ーー

私たちは貨幣を用いたいじめの加害者でもある。
「安い製品」を買うことで、発展途上国の富裕層と貧困層の差が広まる(というか、富裕層が貧困層にハラスメントする社会システムを作り上げることが問題なのである。)
「安い授業料」を払うことで、肝心の、生徒に向き合う講師は困窮し、紹介会社は富を肥やす。

これは、いじめではないのか。

私たちは、マクドナルドにいくことで、家庭教師のトライ、あすなろを利用することで、もしくは「塾」に行くことで、または百円ショップを使うことで、いじめに加担している。
見て見ぬ振りをしている、傍観者になっている、それもいじめの一部だとしたら、立派ないじめであるし、卑しめでもある。

といってしまってもいいのだろうか。

「限りある資源」をどうつかうか(どう減らすか)。
生きるために…

という方向と

「限りある資源」をどう増やすか。
生きるために…

という方向があるだろう。

すると、お金はテクノロジーであり、どう使うか、使い方次第では、人間の精神を規定してしまうものになる、ということは簡単に想像がつく。
機械やテクノロジーによって、人間のあり方はだいぶ、制約をうけるようになった。

貨幣にも、その働きがある、ということを、思い出した方が良さそうだ。
僕自身、常々、思い出せずに暮らしてしまっている笑

工場で作られるような食べ物を買うことは、コンビニ弁当を買って暮らすことは、なるほど、便利かもしれない。カップ麺で暮らす人もいるだろう。
もし全員がカップ麺生活をし始めたら?きっと誰も、お手製のラーメンを食べられなくなってしまうかもしれない。「小麦粉」から自分で作らない限りは・・・極端な話だが。

安いものを手に入れるのと同時に、「阻害される人」がでてくる。みんなカップ麺だけ食べてたら、生の麺をつくる人がいなくなってしまう。「どうせみんなカップ麺食べるんだ。。」といって、いじめ抜かれていると、想像してみるとどうだろうか。
「安い製品」を買うことで、発展途上国の富裕層と貧困層の差が広まる(というか、富裕層が貧困層にハラスメントする社会システムを作り上げることが問題なのである。)
「安い授業料」を払うことで、肝心の、生徒に向き合う講師は困窮し、紹介会社は富を肥やす。

「いじめられている人」の存在に気がつかないなんて、普通のことだし、まさか自分が加害者だなんておもうことなどそうそうない。
はたまた、「すべての人のことを知ろうとしたら、感じようとしたら、頭が狂ってしまう」といわれたら、なるほどと思える。

いじめは、普通の出来事なのだ。
自然な出来事なのだ。

いくら「牛肉は地球を壊すから食べちゃダメ!」といわれても、食べるのだ。
いやいや、食べる回数くらいは減らせるだろうが・・・

人間的な、出来事なのだ。
(SDGsは開発国の良心の呵責を埋める免罪符として機能している側面がある)

それこそ、「限りある人間」という存在をどう生かすか、どうやってこの情けないほどに「有限」な人間が生きていけるのか、はっきりとした態度がとれるようになったら、すこしは楽になるだろうとおもう。

その一つの考え方が、

そもそも「生きる」とはどういうことか。
という視点になるんだろうと、私は思うのだが。それを安冨さんは「学」に求めるのだし、「神秘」に求めるているのだろう。

破壊と創造の神シヴァに、聞いてみようか?笑

「死なない」ことを夢見るのではなく、「生きる」ことを夢見てみよう。
どうもよのなか、大人たちは「死なない」ことに全力を尽くしているような気がして、危うい。
否定形の夢は、否定を取った形で実現するらしいからね!(『生きる技法』)

===================


先生からも同級生からもいじめられている子のお母さんは、「学校に行く意味はなんですか」と聞いてくれた。

すごくいい質問だなとおもった。

僕の答えはこうだ。

「世の中、いじめなんて当たり前だ。その中で、どう生きるか、それを学ぶために学校がある。休むでもいい。言い返してみるでもいい。素直に従って隷属するのでもいい。やってみて、試して、心に感じたことをきちんと抱きしめて、そうしてじゃぁどうしようかと、心に聞いて見てほしい。休んでもいい。行かなくてもいい。行ってもいい。どうでもいい笑ただお母さんが、もしくは誰かが、その子の学びのプロセスを支えてあげることが、大切です。学校は何かを学びに行くところです。学べなければ意味がありません。今の状態で、何を学びますか?今、お子さんにとって、学校は、意味のないところのように私は感じます。もう学ぶことは学び尽くしたのか、学ぼうにも学べない状態なのか、わかりませんが。」

「いじめ」は「自然」。
「けんか」と同じ。

「いじめ」は「自然」。
「すれちがい」と同じ。

「いじめ」は「自然」。
「嫌な人」がいるのと同じ。

「いじめ」は「自然」。
世の中が、暴力で満ち溢れているのと同じ。

「いじめ」は「自然」。
暴力的な人が、組織のトップになりやすいのだから。

「いじめ」は「自然」。
だれもが劣等感や妬みや怒りや慢心をもって生きている。

決して、「いじめ」は、なくならない。
大人になったら、思う存分、いじめられるのだし。(思う存分、いじめる人もいるということ)
それにどう向き合うのか、向き合わないのか、かわすのか、つきあうのか、、、、

ただし、いじめはコミュニケーションの一つのあり方であって、反応次第では、関係が変わるかもしれない。
暴力、支配、干渉、過保護、人間疎外、自己疎外、そういったことが「自然」な世界で人とどう関係して行くか。自分をどう守って行くか。

ーーーーーーーーーーーー

「諦めて」学校に適応できるように、心を「つくりかえる」のでもいい、「何くそ」とおもって、学校の外で「創造的な」人間関係をつくるのに心を注いでもいい。
だがもし、学校という場所の狂気をきちんと認識して、学習の場として「もう無理」のサインを子どもが出したら、それは、きちんと受け取る以外に、その子の魂を守ることはできない。

その子自身が、その子でしかない、その子だからつくりあげる「心」そのものが、その子です。
「学」そのものが、その子です。

まだ学校の先生に、いじめた子に、何か働きかけられそうなのであれば、働きかけてもいい。
「だめだこりゃ」とあきらめられるまでやってもいい。
(ただ本当に学びの回路がないのか、それとも伝え方を強くしたり、伝え方を変えたらいいのかは、判断がつかない、つきにくいのが難点)

一方で、富山県の人たちの多くは「学校に、いけたらいいわね」とか「行く」ことが前提にあるらしい。
しかもそこにはコミュニケーションが介在しない。学校に、合わせる、というのが前提にあるらしい。
そういう呪文、呪縛、呪いから、身を守る方法をお母さん自身が学ぶ機会を、お子さんは与えてくれたのだ、とおもう。

破壊的な構えをする人は、学ぶことがない。
富山県の学校は基本、破壊的だ。
従属を求める。
ただ破壊兵器のように、相手を支配するために振る舞う。
(それは富山県の「文化」であって、「自然」であり「正常」であるがゆえに、恐ろしい)
富山のメンタルヘルスと「怪獣」
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。高岡高校の生徒はなぜ自殺したのか。
【ある古老の語る仮説】富山県で共働きが多い理由。
富山県で共働きが多い理由を考える。

このような関係性から何かを学び取るには、、少なくとも、学びの「フィードバック」をくれる人が必要になる。
「フィードバック」の機構それ自体を変えるような学びは、学びあえる人がいなければ、つくられない。
その大切な存在が、お母さんであると僕は信じている。(友達でもいいのだが・・・そういう友達とめぐりあえる子はしあわせだ)
子ども時代に、母親からこのような学びを替えれなかった場合、大人になって、この宿題に取り組むことになる。
コドモとして未成熟なオトナ

ーーーー

電話をくれたお母さんは「安心した」といっていた。
自分の感覚がおかしいんじゃないかと、もんもんとしていたのだ。周りの人が狂っているので。

オトノネに電話をしただけで、世界が変わる。
オトノネは、そんな場所です。

学習の回路が開いた方でなければ、なかなか利用することは、難しいでしょう。

学習の回路が開けずに、身体的に、もしくは心的に、死んでしまう人が、たくさんいます。
そういう稀有な人のための、オトノネです。

ーーーー

稀有な人が、富山で育った人にも、県外で育った人にもいる。
遺伝が50、環境が50という世界で、ひとりひとりが個性ある心をつくっていく。

狂った社会の中で、ハラスメントが横行する人間関係のなかで、心を大事にするプロセスを止めずに守り抜く気質というものが、あるのだろうか。

とある発達心理学者は「発達とは、鈍感になっていくことである」と言った。
脳は「効率化」のために、全ての音を聞き取れていた赤ん坊を、学習によって限られた音しか聞き取れない大人にする。
世界から与えられる多くのメッセージを、切り刻んで、部分的にしてしまう。
社会は、文化は、その感じ方、モノの見方を教える装置だ。「効率的に」私たちが暮らせるように、人を、狂わせる。

その装置の中で悶え苦しむ魂がある。
僕自身がそうだし、同じように苦しむ人がいたら、オトノネに遊びにきたらいい。

狂った社会の中で、ハラスメントが横行する人間関係のなかで、心を大事にするプロセスを止めずに守り抜く気質というものが、あるのだろうか。

それこそ、神秘に委ねられた、ありのままの世界として受け取るしかない、暗黙の次元に属する問いであろう。

『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ

オトノネひろげるシェアぼたん

まだまだ小学生。思春期はいつ来るのかな?来るのかな?笑

実話。

「オトノネにきて、感じたことは?」と、
オトノネに通うかどうかまだ迷っている子に聞いた。
「えっと、本がいっぱいある」
「他には?」
「教室が普通の家」
「笑他には?」
「自由」
「爆他には?」
以下略。

マルバツをつけてほしいのか?笑
一問一答型の、富山県の高校入試の問題形式がそのまま思考パタンになったかのような、穴埋めしたら済むような、やりとり。

いやいや、ちょっと・・・君は、人間だよ?

「いま答えてくれたことは、他の人でも感じられたよね。君じゃなかったら感じられないことは?」
こうして、やっと僕が聞きたかった返事を聞くことができた。

中学生である。
小学生ではない。
だが、小学生だ。
いつまでたっても、小学生。
【ずっと小学生その2】学校に魔王がたくさんいるのはなぜか。

どうしてこのようなやりとりになるのか。
質問の仕方が悪かった、ということもあるかもしれない。

「自分を出す」恐れがあったのかもしれない。
「自分の感情を出す」経験がなかったのかもしれない。

お母さんのこの子への関わり方を見ると、合点がつく。
この子は、感情を殺して生きている。
感情を殺さなければ、親子関係を結べない、と、この子は判断したのだ。
実際、そうなのだろうと、僕は感じた。

「自分殺し」がごくごく当たり前の世界。
政治がどうこう、という話は、まず、親子関係が支配的でないかどうか、子どもの自由を、個人としての人格をどれだけ認めているのか。選挙以前の、基本的人権の問題である。

多くのお母さん、お父さんは、ごくごく、当たり前に、子どもの心に傷を追わせ、子供の魂を毎日毎日、黙らせ、殴り殺している。
当の本人は、親は、それに気がついていないことが、あまりにも、多い。

自由という、権利がある。
だがその権利を使えないなら、守らないなら、ないのと同然だ。

この子は、無事に、思春期を迎えらるだろうか。
【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
【中学生】思春期前か、思春期中か。とにかく最後の子ども時代。何をして過ごすか。
【思春期】は2歳のウハウハ期(イヤイヤ期)と似ている気がする。
思春期とは何か
【思春期】の課題は【幼少期】とは違うというお話。
【第一思春期】子どものゴールデンタイム2歳のイヤイヤ期(ウハウハ期)の心の状態は高校生が溺れている「課題の海」と似ているような気がした。【性格の強み】
大人にとっても大切な「ファンタジー」と思春期。
思春期が一つのテーマになっているオトノネさんの気にしていること。
思春期と中学校と高校の違いと子どもの可能性と個別化と。
受験勉強ってなんだろう。思春期との関係。塾の先生の役割。バリ島の儀式。
女性のメタ認知と【思春期】とライフステージ。ビジネスの原理と子育ての原理が乖離している世界で
【何のために子どもを育てるか】第二次思春期に社会化しないまま会社人になった人が孤独のスパイラルを生む可能性について。

何かのきっかけで、親を離れた時に、どうか、自由に生きてほしいとおもう。

この子は、「学習」する以前に、苦しんでいる。
勉強をしたくないのに、無理やり、やらされている。
でないと、親子関係を生き残れないと、判断したのだ。

子どもは、親に気を使っている。
思春期前までは!

カモン思春期!
けどそれも、自然に来るわけではない。
思春期を迎えられるように、きちんとなんとか育てていかないと、、、、人格も個性も薄っぺらくなる。

こういうお母さん、お父さんが、大人の宿題にも取り組めるのが、オトノネです。
子供だけにやらせるなんて、不公平だ!笑
大人の宿題

オトノネひろげるシェアぼたん

不健康な社会という「自然」の中で健康を保つには。「自然」でいちゃだめ??

「子どもに選ばせています」というお母さんがいる。

なるほど、聞こえはいいかもしれない。
とても「自然」に聞こえる。

しかしこういうこともある。

このような「全体」をみれば、「不自然」に聞こえるだろう。

「選ばせている」といいながら、一部ではしっかり管理していたり。
まぁ人間はそういうものなのだが。。。

どこまで責任を負わせるか。
中学生ならどこまで?
そういった見極めをするのが、大人であるかもしれない。
いやいや、「これは無理」とか「こういう助けが欲しい」という言葉が子供からでてくるように、小さい頃から関わりあうのがいいのかもしれない。

きっとそうだろう。
子どもを賢く育てるとは、そういうことなのだろう。

例えば変質者が「向こうのお友達もあとでくるってよ」といって誘拐しようとするとしよう。
変だな、とおもえたらいい。

「友達がくるんだったら、いかないとな」という心で溢れてしまっていては「いや、やっぱり変だ」と思えないだろう。
心の隙間を、魔王は狙ってくる。(世の中に溢れている商品などは、全部消費者の心の闇をターゲットにしている。塾がそうだね)

心のあり方を育てなければ、子どもを檻に閉じ込めておくしかない。
檻の中で学ぶことはない。

ひきこもるのではなく、閉じ込められている子どもが大変多い。

ーーーーー

本当に自分で選べていない人生を、多くの子どもは送っている。

人生を、お母さんに決めてもらう。
選択をお母さんにしてもおらう。
その習慣がつく。

「こうしたい」気持ちを認めてもらえない子は、喋るのをやめる。
主張するのをやめる。心を閉ざす。

受け身。
目の前に誰がいるのかわからない?
「あなたの心はどこにあるの?」

ーーーー

社会的参照、という言葉がある。
『マシュマロテスト』ウォルター・ ミシェル.1歳児の【社会的参照】は大人でも有効な件。情動調整のためのリラックス。励まし。
「いいの?わるいの?あぶないの?大丈夫なの?」「どうしたらいいの?」ということをお母さんに聞くことだ。

子どもが何かしようとしていることを、励ますことだ。

したくもないことをやれやれということではない。
したくもない勉強をさせに塾に通わせることではない。

それができるのが、1歳だか1歳半だか、はいはいを始めたり動き出して、お母さんのそばを自分から離れるようになってから。それは身体的な「離れ」であり、同時に心理的な「離れ」でもあった。

それが大きくなるごとに、成長するごとに、どんどん「離れ」でいくのが、自然なはずだ。
それを、親が離さなかったらどうなるか。

心の成長が止まる。

自分で決定できない。
自分の身を自分で守れない。
誰かのいうことを聞くしかない。
自分に自信がない。
代わりにエンタメでやりすごす。

ーーーーー

子どもが巻き込まれる「自然」には、モノというものもある。
スマホが最たるものおだろう。
スマホに親が求めるものは?なぜ使わせる?どうつかったらいい?
結局、スマホもスキル。メタスキル 次第で、使い方は変わる。

子どものためにピアノを買う、というのは、どういう「自然」なのだろうか。
ピアノが上手くなるように?
けどそれは本当にその子が望んだこと?
その子にとって、家にあるピアノは、「練習しなくちゃいけない」ただの呪物かもしれない。

ピアノという、目の前にある「自然」は、子どもの心をどう作り上げているのか。

情報も「自然」の一部だ。

お父さんお母さんの口にする言葉。
テレビから流れてくるニュース。
ドラマ。

それを処理して行く心ができているだろうか。

「勉強」「宿題」という言葉を、子どもたちはどう受け取っているんだろうか。
「寝る時間」を内在化できないで「眠らされる時間」という規則としてしか受容できない。

自己管理ができない人間になるのだ。

ーーーーーー

「自然」とはなんだろうか。
これは僕の高校生の時の問いだ。

自然という言葉に僕は憧れを抱いていた。
なにか素晴らしい原理を含んでいるように思えていた。

自然を守ろう!

だが、人間という「自然」な生き物をこの歳までよくよく見ていると、自然がとても不自然に思えてくる。

自然を守ろう!

という言葉のオトノネは何か。

僕は「自分の自分らしい姿を守ろう」ということなのだと今は思っている。
だから、その子のその子らしい姿は何か。この問いを、オトノネにくるお母さんお父さんに投げかけたい。

オトノネは、お父さんお母さんと一緒に、その子のその子らしさを守る自然を育てたいとおもっています。

ーーーーーー

「自然」とはなんだろうか。

「魔王」がいたるところにいるこの世界(学校は特に密度が濃い)で、「魔王」に支配されることが、「自然」なのだろうか。
むしろ、「魔王」に対する免疫力、抵抗力、心の強さを作り出すこと、つまるところ「魔王に心を支配されない」「魔王に利用されない」ことなのだとおもう。「自然」に負けない、これが「自然」なのだ。「自然」を知らずに、「自然」を語れない。

で、「自然」って何なの????

まず、お母さんお父さんが、宿題を始めよう。
【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
コドモとして未成熟なオトナ
いつまでたっても、小学生。
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。【嫉妬学】和田 秀樹


親の安心のために利用されている子どもたちは、僕にとって「不自然」だ。

わかりにくければ、こう表現しようか。

「いつまでその手を握っているつもりですか?」

生きているのに、死んでいる、心中社会の真っ只中で、オトノネは声を上げています。

オトノネひろげるシェアぼたん

成績が伸びない勉強しない簡単な理由。勉強より大切なこと。

成績は伸びない?

僕の経験上、というよりか、これまでに中学生が「勉強ができるようになる」という事例を眼前で目撃したことがない。
というか高校生でも、成績が伸びた、という子を目撃しない。

大抵の場合、成績は伸びないのだ。
なぜだろう?

今までに働いてきた塾、学校、どこでも。
「成績」というものを目標に据えて勉強するとしたら、ほとんど成績が伸びることを期待しても、期待はずれになりそうだ。

成績は伸びない。
(ただし定期テスト対策でガリ勉「させれば」中学校まではなんとかいける。定期テストだけ伸ばしてどうするのかわからないけど)

なぜか?

メタスキルを伸ばさないと成績は伸びないからだ。
心がないと、成績は伸びないからだ。
メタスキル とはなにか。
生き方そのものだとおもう。

お勉強よりも大切なことができていないから「勉強しない」「成績が伸びない」のです。

勉強=作業
勉強=とりあえずこなすもの

になってしまっていたら、学びのメタスキルを「お勉強」につかうことはできない。

勉強=作業
勉強=とりあえずこなすもの
というしくみをつくっている学校では「成績」など伸びるはずがない。
学校のしくみ【753教育】とは何か。学校って何?
小学校もサバイバルな件。
「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金。まだ誰かが「非国民!」と叫ぶ声がコダマする日本。
【高校選び】進学高校の高校生たちのブラックな青春が青になるとき

学校が、本来どういう場所なのか。
軍隊養成所でも、神風特攻隊をつくる場所でもない。
差別を生み出す場所でも青春を灰色にする場所でもない。

はずなのだが。

こういう学校をつくろうと、昔から活動している人がいる。にもかかわらず、、、である。
佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。「学校」つくったら!

ーーーーー

例えば、

「サボる」というスキルある。
このスキルをつかう心が、メタスキル だ。
自分が本当に学びたいこと、やりたいことと「やらされること」のバランスをとるために、「サボる」のである。
このスキルを、もちろん、「勉強しない」ということにも使える。
スキルをどうつかうかを決めるのが、スキルの使い方を決める能力が、メタスキルだ。
心だ。

「サボる」というスキルは行為レベルだからすぐにだって誰にだってできそうだ。
ただそのスキルをどのように使うかを決める能力、メタスキル は、簡単に手に入らない。
心だからだ。

ーーーーー

成績が伸びない、のはなぜだろう。

お勉強よりも大切なことができていないから「勉強しない」「成績が伸びない」のです。

とりあえず宿題をすることで、とりあえず出された課題をすることで、とりあえずぼうっと授業にでることで保たれてきた心がある。心が自分を守るために作り上げてきたシステムだということができる。

わからないところがあっても、別に知りたいわけでもないから放っておく。それも心のシステムであり、メタスキル だ。
「それ以上関わらない」という、人生に必要なメタスキルだ笑

それは成績を上げるという「望む成果」を出すために使えるメタスキル(心)ではない。
そもそもやってもおもしろくない、何も起きない、わくわくしない、そんな「作業」を求める子どもがいたらちょっとあやしい。

勉強しない、もっとよい勉強を目指さない、いわれないとやらない、というのは、子どもの「自己防衛」のメタスキルといえるだろう。

「いや、勉強どころじゃないんだよ」
「より良い自分?なにそれ?」

子どもはもう日常生活の堅苦しさ、狭さで心が疲れている。
「なんでもっと好きに生きてちゃいけないの?」

と、どこかでおもっているかもしれない。

その大切な問いに、大人はどう答えるだろうか。
個別化・自立のための小学生の「お勉強」法(小学3年生からの家庭教育)


お勉強よりも大切なことができていないから「勉強しない」「成績が伸びない」のです。

ーーーーーーー

宿題という作業はするけど学ぼうとしないのはなぜか?

もっと大切なメタスキル が育っていないからだ。
そのひとつは「自己決定」のメタスキルだと僕は思う。
「自己責任」のメタスキル だと僕は思う。

「長時間」「みんな一緒」「やらされる」組織からの自立と、組織の選択。

宿題すらやらないのは、なぜか?

宿題をやらない、というメッセージを大人はどう受け取るのか?

僕は、子供の中で「勉強」=「学校でやらされること」になっていて、
「勉強」=「したくないこと」であって、
「勉強」=「自分が選んでやること」ではないことが、問題だとおもう。


勉強しなくてもいいのだ。
もっと大切なものを、大切にできないのなら。

(お金がなくてもいいのだ。もっと大切なものを、大切にできるなら)

勉強がなぜ大切なのか。
という問いではなく、
勉強が一番大切なのか。
勉強よりも大切なことは何なのか。

問いかけてほしい。

お勉強よりも大切なことができていないから「勉強しない」「成績が伸びない」のです。

ーーーーーー

大人が用意した世界、価値観の中で過ごし、暮らしている。
本当は○○したい・・・けどお父さんお母さんに怒られる・・・先生に怒られる・・・(めんどい)

結局これは小さい時に遊ばないとこうなる。
これは、事実だ。

遊びと習い事は違う。
「稽古」と「習い事」の違いと「労働」
保育園もサバイバルな件(オトノネさん唖然)ー「あそび」という名の労働
お稽古事を「させる」ことは全くオススメしない理由

遊びは主体的だ。自分たちで遊びを決める。遊びを工夫する。おもしろくなければおもしろくする。
そういう心のしくみをつくらずに、9歳を迎えてしまったら。。。中学生になったら。。。

やり直し、自己調整、最終調整をするために「思春期」を使うしかないのだが、学校という戦場のなかで「思春期」をろくに過ごせずにそのまま未成熟なまま大人になる子が多い。
大人にとっても大切な「ファンタジー」と思春期。

僕自身、いくつかやり残した宿題がある。
意欲ある遊びの中で子供が学ぶ数学的推理力・機能的推理
好きなことをして学ぶ。遊びながら学ぶ。子どもの自然な姿。
収束的あそびと拡散的あそび。
散漫なあそび、散漫な食事
学童:厚労省:非認知能力 v.s. 学校:文科省:認知能力
学童期に大切な「学び」を保障する場所。
遊びの破壊力(山田さんありがとうございます)
筆ペンは、遊び道具である。
8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
保育所にある「あそび」道具
オトノネにあるおもちゃ
野性のチカラと企業戦士の矛の先と戦闘ゲームと虫取りとあそび

ーーーーーー

「目標をもとう!」という言葉がある。
今まで大人が、本当に自由に子どもに目標を持たせたことがあったか?
無謀にもみえる目標に立ち向かう子どもたちを応援したことがあるか?
そうして工夫しながら、達成しようとする子どもをみたことがあるか?
お父さんお母さんはそれにどう関わったか?見守ったか?

管理するだけにエネルギーを浪費してこなかったか?
心配するだけにエネルギーを浪費してこなかったか?

「目標をもつ」というメタスキルが、弱いなら、「目標をもとう!」なんて言葉は虚しく響くだけで心は動かされない。

ーーーーーーーーー

成績は伸びない。
「自己決定」「自己責任」のメタスキルが弱いならば。
ただ「学びの環境」がなかったから、環境のせいにすることはできる。
それでお父さんお母さんは塾を選んだり探したりする。
けど結局は、子ども自身の能力に応じて学ぶしかない、という部分がある。
メタスキルの程度に応じて、学べる。


お勉強よりも大切なことができていないから「勉強しない」「成績が伸びない」のです。

(学びのメタスキルの中でも「お勉強」だけのスキルしか伸ばせずにイイ高校イイ大学イイ会社に入って最後は燃え尽きて精神病になる人がどれだけいるのか。そんな大人の心を背負って、子どもは育つ)

成績は伸びない。
これが塾や学校で十分に経験してきて、僕が出した答えは、
「メタスキル 」だった。

メタスキルを伸ばすということは????

メタスキル を伸ばすとは、生き方を学ぶということだ。
生きるとはどういうことだろうか?
教育の根底には、子育ての根底には、この問いがある。
アウシュビッツで生き残った人の言葉のチカラ
好きなことを仕事にする?できることを仕事にする?趣味?の意味。『三太郎の日記』
創造力とは何か。『子どもの心的世界のゆらぎと発達』

それ相応の、大人の関わり合い、環境の整備が必要になる。
それを可能にするために、オトノネをつくりました。

【自然な子育て】とは何かー学者たちの出した簡単な答えー『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』
【アタッチメント(愛着)の深い意味】幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、しあわせの種をまける。学童期のくもんとそろばんにお金をかけるまえに。
『未来のイノベーターはどう育つか』トニー・ワグナーのメモ
『マシュマロ・テストー成功する子・しない子』ウォルター・ミシェル のメモ
【お母さんもお父さんも必読】『ライフシフト-100年時代の人生戦略-』
『幼児教育の経済学』ジェームズ・J・ヘックマン
ごっこあそびのチカラ!『残酷すぎる成功法則』再読でマシュマロ実験の意味を知る。


お勉強よりも大切なことができていないから「勉強しない」「成績が伸びない」のです。

オトノネひろげるシェアぼたん

「自己内対話」のメタスキルを伝える

メタスキル をもっている人は、どうやって勉強しているんだろう?
「できる」人と「できない」人の違いはなんなんだろう?

オトノネは、メタスキルを伸ばすために考えます。

例えば、「今の自分が取り組める量は、このくらいだ」というメタ認知をする能力。
この能力がないと、ただただ量に圧倒されて「できない」で終わる。

一斉授業であれば、ただ受けるだけで終わり、このメタ認知は育たない。
どんどん先に進むのにただついていくだけだからだ。

個別指導だと・・・分量を少なくするとか、やる範囲を狭めるとか、工夫はしてもらえるだろう。
もしくは丁寧に一問一問解説をしていくだけで終わるだろう。
それはそれでその子の役に立つかもしれない。
(ただしそれでメタスキルを育てずに先生に依存してしまう子もいる。)

オトノネは?

もしかしたら、「問う」メタスキルが使えていないのでは・・・・とおもう。
「問う」メタスキル は、実は、小さい頃に誰でも通ってきた遊びから学べることだ。

当てっこゲームというものがある。
誰か1人が、答えを決める。例えば、ライオン。
それから最初にヒントを出す。「毛が生えています」
それから、当てる側の人間は質問していく。「かわいいですか?」
YESかNOで答えられることもあれば、そうでないこともある。
「どこに住んでいますか?」

ライオンというもののありとあらゆる情報を、頭の中でつなげていく。
クイズが面白くなるように、答え方も考える。質問の仕方も考える。

ーーーーー

答えを「温暖前線」にしてみよう。
ここにたどり着くために、いろんな質問をしてみよう。
「どの単元ですか?」・・・地学ですね。
「宇宙と関係ありますか?」・・・ありませんね。
「寒い暑いに関係ありますか?」・・・・ありますね。(この時点で地質の範囲ではないとわかる)
「動きますか?」動きます。
「雨と関係ありますか?」ありますね。
「前線って言葉は入っていますか?」入っていますね。
「積乱雲ができますか、乱層雲ができますか?」。。。乱層雲です。
わかった!温暖前線だ!

というように。

こうした「問う」「答える」の繰り返しを、誰かとやるとゲームになる。
これを、1人でできるか?(「温暖前線」が答えになるような問いを自分で作れるか)

1人で問いを立て、答えるというメタスキルだ。

このスキルは人間の精神活動そのものだと僕はおもう。

ーーーーー

こういった学び方は、日常生活の中で出会ういろんな違和感、不思議に「問う」ことから自然と身につくもの。
大人が「それ、何?どんなの?教えて」という問いかけをすることで、子どものなかにできる言葉のチカラ。
大人の助けを借りて、内言が開花する9歳以降、子供は自分自身で内省をするようになる。

一つの言葉をいろんな言葉で説明していく。
つながっていく。
理解していく。

そうしたつながりを、問いを立てずにただただ「暗記」していく「定期テスト対策」でメタスキル は育たない。

もちろん、「問題」を解きまくることで「問い」をもらい続けることもできる。
与えられた「問い」に答えながら、「答える」ことができる。

けどそればかりでは「問う」スキルは得られない。

中学生くらいになったら、ほとんど成績の順位がかわらない(?)というのは、その時点ですでにこのメタスキルが「できる」子と「できない」子がいるからではないか。自問自答のメタスキル、抽象化、仮説をつくり始める年齢は9歳だ。小学校卒業までには「問い」を深めることができるようになる。

中学校になると、その範囲が広がる。
「問う」スキルが前提となって、宿題やら何やらがでてくる。

「問う」ことができずに、「教えてもらう」ことしかできない子が多いのは、そのせいかもしれない。

ーーーーー

自ら「問う」ことを励まさず、「行為」を要求するだけの大人が多すぎないか。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

他者から与えられる「問い」も大切だ。
だがそれに答えるためにもっと多くの「問い」を発するのが「自己内対話」である。

他者から与えられる「問い」も大切だ。
自己内対話だけでやってしまうと鬱になることもある。
他者は必要だ。
そのバランスをとることが、大切だとおもう。

「話す」こともメタスキルだ。

ーーーーーーーーー

自己内対話のメタスキル、実は多くのスポーツ選手や芸術家がもっている。
「どうしたら、こうなるのか。よくなるのか。早く走れるのか。早く投げられるのか。強く蹴れるのか」
「どうしたらいい音がでるのか。どんな色が欲しいのか。どうやって書いたらいいのか。何を書くか。何を奏でるか」
その答えを探す道そのものが対話。

練習。
この場合は、肉体との対話になるわけだが。。。

スポーツができるのに、「勉強」はできない、、、という人もいる。
それがその子の特性だと認めなくてはならないかもしれない。

だとしたら、その天の才を自覚しながら、伸ばしながら、せめて「勉強」ではなく、自分自身の人生を「問う」、流されずに進んでいくメタスキルを伸ばしてほしいとおもう。

「問う」メタスキル は、きっとチカラになると、僕は信じている。
「問う」ことの限界も、その中で見えてくるはずだ。

その時その時、人生で「問い」、本気で「応える」積み重ねをしていくと、深みのある人間になると僕は思っている。

ーーーー

メタスキル はメタスキル を育てる。
「問う」メタスキル によって、「聞く」メタスキル も育つ。
他者理解、他者との対話メタスキル も、育つ。

メタスキル とは、そういうものなのです。

オトノネひろげるシェアぼたん

【オトノネ原論】学習障害・不登校は呪いの言葉?祈りの言葉?オトノネとは何か。

先日、子どもが学習障害で、、、、というお母さんから問い合わせがあった。
発達障害、学習障害、言葉の遅れ…こういった問い合わせはよくあること。

かつて書いた記事がある。
学習障害LDか、スローラーンなだけか。

↑この記事に描かれている基準を学習障害とするなら、学校に通う子どもの半数以上は、学習障害をもっていることになってしまいます・・・それって障害?

こちらの記事もどうぞ。
診断名とは何か。Human Disaster

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「うちの子は学習障害です」という言葉を、使わない方がいい。
というのが僕の考え。

学習障害ですという言葉が意味するものはなんだろうか。

学習障害の「日本」での定義にあるように、スローラーンなだけで自然な発達をしている子の現状を学習障害と呼ぶのは変だ。

学び方には一人一人特性がある。

「うちの子は学習障害です」という言葉は、「うちの子は学び方の特性が学校の教え方、学校の学ばせ方と合っておらず、義務教育として受けるべき教育を受けられていない」という状況を伝えるものだと僕はおもう。

その声は、本来、本来!学校に届けられるべきものである。
学校は、本来、本来!学びの「家」であるからだ。
ただその声が届かない。それが現実だ。
学校は、その声を聞けない。
子どもたちの、お母さんのオトノネは、なかなか届かない。なかなか響かない。
(いやいや、対応してくれるところもありますが。それが中学になったら?高校になったら?社会人になったら?世の中、いい人ばかりではない。では、どうしましょう???)

↓【オトノネ原論】はもう少し下に行くと始まります笑↓

学習障害で困っているなら、学校の仕組みで困っているのだとおもわなくてはいけない。
自民公明党のつくりあげた学校のしくみを変えるには?

いやどの政党でも同じだろ・・・という方は、最近できた政党を調べてみてください。

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教育基本法には次のような文言がある。

第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

能力に応じてとは、何か。

診断書は、「その子には、その能力がない。だから、教育はこの程度でいい」ということを証明するものになってしまわないか。
診断書をもらわないと、支援級にいけない(少人数だけでも子どもには救いになる)などのルールがあるために、「うちの子は学習障害です」「発達障害です」というお母さんがいるかもしれない。

言葉を使う人間、言葉を使う人の心。

学習障害という言葉を通じてお子さんの特性をはじめて理解できる人もいるかもしれない。
けれども、「学習障害」とか「発達障害」という言葉を使うことで、何か悪霊のようなものが、取り付いてきやしないかと、僕は不安になる。

「不登校」という言葉も同じだ。

日本は、言葉にチカラを感じないことが多い。
「うちの子は不登校です」ではなく、「うちの子は古いシステムとは別の新しい学び方・生き方を模索しているところです」ぐらいに、具体化していった方がいい。その方が、心が元気になるはずだ。
「名詞」の抽象性

言葉は心。

【マシュマロ実験】で「忍耐が大事!」の「忍耐」って何?
ちなみにマシュマロテストの結果は今、覆されたというか、補強されて、親の経済能力が影響するという話です。その詳細も、重要ですが。

抽象の効果

「蛇」は抽象語か

↓【オトノネ原論】はじまります↓

言葉は心。

心は言葉。

音には心があります。
言葉は音で伝わります。
音の意は心にのってやってきます。
漢字をみるとまさにそう書かれていて笑えますね^^
(仏教でもそんなのあったような気がしますが、言葉という現象を理解するとそんなかんじになるとおもいます)

「不登校」「学習障害」という言葉に否定的な意を添えるか、肯定的な意を添えるか。
それは人の心にかかっています。
「不登校」「学習障害」という同じ言の葉、同じ音、であっても、その言葉の根っこ、オトノネは違うのです。

心を伝えるための言葉、その意味は、使う人の心によって変わって来ます。
誰かが使う言葉は、お母さんの元気をなくすかもしれません。

文化的に、社会的に、否定的な意を乗せられた言葉があります。
また本来、肯定的な意であったものが、否定的に使われている言葉もあります。

その言葉が、お母さんにとって、お子さんにとって、祈りの言葉になるのか。
呪いの言葉になるのか。

オトノネは心配しています。

(この考え方を使うと「ポジティブな言葉を使おう!」というセミナーになり、さらなる被害者がでてきます笑どっかの記事で書いたような。。ありました。定期テスト対策の弊害【自己改革・心理学系セミナー編】要するに、言葉を使う人間の心次第で、いくらでも言葉は意を変えて、呪いにも、祈りにもなるということです。人を助けたり、傷つけたり、よい「心」があったとしても、よい「意」が伝わらないこともあります。わるい「心」をよい「意」で伝えることもできます。)

「成績が…」「点数が…」「将来が…」「宿題が…」「勉強が…」そのお母さん、お父さんの言葉が、心が、伝わっているでしょうか。
世の中で呪いの意で伝えられている言葉を、お父さん、お母さんは心でどう受け止め直したらいいでしょうか。

お母さんがお子さんに使っている言葉が、祈りでありますように。
子どもの周りにいるすべてのオトナたちが使う言葉が、祈りの言葉でありますように。

言葉のチカラを育てるレッスンがあります。

オトノネの言葉のレッスンとは?

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ちなみにMSDのマニュアルにはこのように定義されています。
学習障害 – 23. 小児の健康上の問題 – MSDマニュアル家庭版

学習障害に対する最も有効な治療は、各小児に合うよう入念に調整した教育を行うことです。

オトノネに、遊びに来てくださいね^^

人一人の中でも、言葉がせめぎ合っていることがある。
自分を呪い殺すような言葉を使っていないか?それはどんな心からやってくるのか?心とどう関わればいいのか?
僕の心の中にも、か細い声で、祈り続けている僕がいるのかもしれない。

そんな声を、聞き取れるように、心を尽くしています。

言葉は、生きるチカラです。

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できないこと、しないこと、やれないこと、やらないこと。

小学生の時、僕は宿題を熱心にやらなかった。その時決まって先生にいうセリフがある。「宿題はできませんでした」と。しかし気が付いていた。「やろうとおもえばできたのだが、やらなかったのだ。だからできませんでしたではなくてやりませんでしたと言った方が正確ではないか」と。しかし、子供ながらに「やりませんでした」と言った場合、めんどくさくなるということを察知して「できませんでした」を採用することにした。それが小学6年生の話だ(自分のためにならない作業をどうしてこの時期、遊ぶ時間を減らしてまでやらなくちゃいけないんだろう?)。

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この時期になると志望校を決める、今までの勉強法を振り返って焦る、そんな時期。
不安になる時期だ。これでいいんだろうか?いわゆる「自称進学校」の生徒のお母さんから「うちの子は大丈夫でしょうか」という問い合わせが増えるこの時期。

今まで勉強をしてこなかったから、これからやればできる、と考えることもできる。
「やってなかっただけさ!」その通りだ。が。
『ビリギャル』の成功例や数々の風の噂が生み出す(そして多くのお母さんたちがそこにしがみつく)バイアス(心のお守り)の存在はさておき。

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勉強を果たして、してこなかったのか。
してこなかったのかもしれない。
やれなかった、のではないかどうか。
要するに、意思ではどうにもならない迷宮ラビリンスに入っている可能性はないか。

だとしたら、「これからやればできる」というのは、とりあえずうろうろと歩き回っていた迷路をダッシュで駆け抜けようとするのと同じで、同じ迷路の中にいることには変わりがない。

というのが僕の考えだ。

しなかったのではない。
できなかったのだ。
やらなかったのではない。
やれなかったのだ。

迷路から抜け出せなかったのだ。
道に迷って、もうダメだと、とぼとぼと歩いていたのだ。走れる気力がなかったのだ。走らなかったのではなく、走れなかったのだ。

迷路から抜け出すか、自分でできる?
もちろん、迷路を疾走してもいい。
もし抜け出したいと思うなら、「もう無理!」なら、オトノネに来てみたらいいとおもう。

一人じゃできない、やれない、のか、
一人でできる、やれる。のか。

オトノネは、一人じゃできない、やれない、わからない、そういう人のための学び場です。

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今から初めてみるといいかもしれない。
「しなかっただけだ。やればできる。できないのではない、やらなかっただけだ。」と考えてみて、ダッシュで迷宮を駆け抜けて成果が出る人もいるだろう。
なにせ発達は人それぞれ、十人十色、いろんなゴールの仕方がある。
やってみたらいい。できなかったら?できなかったのだ。。ということがわかるのは、おそらく合格発表が出てからだろう。そうして多くの人が、受験という経験を、受験という儀式を、未完了のまま、ただただ終える。「長い定期テスト期間だった」と。

オトノネなら、迷路を進むか、迷路に穴を開けてとりあえず抜け出して最短距離を走るか、そもそもゲームを降りるか(爆)というところから、問いかけたいとおもっている。もちろん、ひとそれぞれ。迷路から出た時の、あまりにも長い、遠い、ゴールまでの最短距離を目の当たりにして愕然とする人もいるだろう(自称進学校でバイアスをかけられた多くの生徒たち)。そもそもゴールが見えないほどの迷宮でずっとさまよっていたのだから。塾や学校の課題、一斉授業という小さな世界でしか暮らしてこなかったのだから。途方も無い世界の広さに、驚くかもしれない。遠くのものがもう見えなくなっている子もいる。

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有名な話だが、野生動物は、体の調子が悪いとき、自分で「必要なものを食べる」「必要なだけ休む」。
放牧された牛は、自分の健康管理を自分でする。草を選んで食べるのだ。

それと同じことが、人間にも言える。
与えられた飼料(課題)だけを食べて健康を保てていればそれでもいい。
けどそれでどれだけの鶏が短命で、病気になっていくか。

自主自立とは、「自分で選んで食べる」ことだ。

何をどう食べたらいいのか。
選ぶ力、食べる力は、小学生までにほとんどできあがっていると、僕はおもっている。

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人それぞれに完全に対応するのがオトノネの完全子別指導です。

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こちらは

富山市の個別×子別指導学習塾オトノネ堀川教室

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お子さんへの期待に「愛」が込められていますか?
今のお子さんの姿を、きちんと見れていますか。見えないですか。見ることが、できませんか。見てみませんか?
受験勉強と、定期テスト対策勉強は違うのだということを、ご存知ですか?

思えば、フランチャイズの塾で働いていた時代、「あ、この子は、お母さんの影響が強すぎて勉強に迎えていないんだ」という生徒がたくさんいた。自営業を始めた今ならそのことをきちんという。言うからお客さん来ないんだろう。自分のしていることに気づかないお母さんが多い。フランチャイズ時代は、「お母さんは塾に、安心感、自分はこれでいいのだという安心感を買いに来る。だから「無理」な生徒でもだれでもかまわない、とにかく買いては保護者だ。お母さんさえ安心できればいい。多くのお母さんは子どもの成績はみているかもしれないが、子供はみていない。」ということを学んだ。

オトノネの生徒が増えないのも、そういった事情があるからなのだとおもう。

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