子どものゴールデンタイム2歳のイヤイヤ期(ウハウハ期)の心の状態は高校生が溺れている「課題の海」と似ているような気がした。

いやー、保育士すごい。

休日だけ働いている保育所、二人の兄弟がいる。
一人は2才、一人は4才、あ、もう5歳か。

で、春から一緒にいるのだけれど、、2歳の子が、なんと、お盆に入ってからイヤイヤ期に入ったらいい。
実際、「イヤ」とか「ジブンデ」というレパートリーを使う。

この時期は高次認知的情動、くやしとか、悲しいとか、嫉妬とか、見栄とか、複雑な感情と付き合い始めるとき。
新皮質と辺縁系が合わさって社会的に有効な感情と、その調整法学んでいく時期。
【学ぶチカラ】情動・感情が現状打破するチカラになる話。また、情動・感情で他人に騙される話。高次認知的情動とは?

今までと違った行動パタンになりお母さんは「!?」となるらしいが。
保育中に僕がみた姿は、まさに、意欲の塊だった。

けど今までのすなおーな感じとは違っているところで、戸惑う僕。
そんな僕の目の前で、保育士さんはふつーに、自然に関わり合いをもっている。

関わり合う中で、「いや、これはやってほしい」ということをちゃんと伝えてそれを受け取ってもらえるのは、信頼関係というか、保育士がその子の心を尊重しているからだと。
子どもとうまくいかない!とおもったら?

伝えることは伝えるという凛とした態度は変わることがない。
ただ、その子が「いろいろと頭の中があっぷあっぷ状態!」であることを理解して、一つずつ、気落ちを抱きしめている。

という感じ。

ーーーーーーー

「ジブンデ」といって、今までやったことのなかった「ぞうきんがけ」をやった!
(モンテッソーリ教育の本で「お手伝いをしてもらう」というのがあったが、これはまさに、2歳の意欲を日常生活で発揮してもらうということだろう。よくできているなぁ)
笑顔で、どこで覚えたか、ちゃんと足を踏ん張って、ぞうきんをかけていく。くねりながら!

こんな意欲あるイヤイヤ期!
イヤイヤ期じゃなくて、ウハウハ期だぜ!
「おれっちったらあれもできるぜ!これもできるぜ!こんなに、感じてるんだぜ!」

ウハウハヾ(*´∀`*)ノ

思えば、はいはいができるようになったり、両手が自由になった時も、ウハウハしながらいろんな挑戦をした。
この時期はこの時期なりの身体能力、言語能力を駆使して、意欲的に、学んでいくんだろう。
(今まで貯めて来た、日常生活の所作を大人に混じってやることが、よいのかも?しれない。ある意味で、ままごとは、最強の拡散的あそびのようにおもう)
収束的あそびと拡散的あそび。

「イヤ」というとき、何か他のものに心が奪われているような。
「イヤ」という言葉は、「今頭の中それどころじゃないんだけどどうしたらいい?」みたいな響きに、僕は感じた。

ーーーーーーー

自称進学高校で課題に潰されている子がいる。それを、とある子が「課題の海で溺れている」と表現してくれた。
毎日毎日押し寄せる、頭がいっぱいになって身動きがとれなくなる「課題の海」で溺れている高校生は「イヤ」ともいえず、「今それどころじゃないんだけどどうしたらいい?」という気持ちでいるかもしれない。

その心を理解して、一つ一つ、気持ちを抱きしめてあげるだけでも、その子は落ち着いて、持ち前の意欲を発揮できるようになるかもしれない。

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寝起きが悪い、2歳児。お昼寝の後に、おやつを食べることになっている(食べることになっている)。

だがしかし、
布団から出ても座り込んで、ぼけーっとしている。
どうしたものかな。。。と思っていると、保育士さんが「お散歩する?」と聞く。

その子は、頷いた!

大人になっても、いろんな気持ちがあるけど、体が付いていかないこともある。
そういう時に、どうしたらいいか、この子は今、学んでいるのかもしれない。

最後に。
ウハウハ期は、1年くらいしたら終わるそうだ。
高次認知的情動との付き合いができるようになり、次は、抽象語を学ぶ、内言を鍛えると同時に他者の心に近づいていく怒涛の時期に入る。
ウハウハ期に入ってから、彼の言葉の使い方がはっきり変わった。
どしどし、言葉を使ってくる。

けど「ドウシテ」
とか「ナニ」とは聞かない。

今は、それどころではないのだ!

それは、3歳以降、次の段階の課題であるようです。

あせらず、たゆまず、心ゆくまで。
自分にあった発達段階、自分にあった発達の道を、ひとりひとりが鼻歌を歌いながら進んでいってほしいとおもいます。

そんなおとのねさんでした。

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ちなみにその子は全然おやつを食べなかった。今日、朝マックをしてきたというから、全然、お腹が空いていないのだ。
散漫なあそび、散漫な食事

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ツイッターで、2歳のウハウハ期のツイートをみつけて、この記事を共有させてもらいました。
(おとのねさんがコメントにリンクを貼ったのを、みていただきました)
返事をいただけて、なんだか、とてもうれしくなりました。

SNSの使い方、研究中です!

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なかなか変われない人、変われない組織の「自己防衛」のしくみと子どもの「抑圧」

だれもが、プロセスの中にいる。
いつ起きるかわからない心の動きで、人生が変わって行ったり、同じことを繰り返したりを繰り返しながら、進んでいく。

オトノネにきて、新しい心の動きが、人生を新しいプロセスに向かわせるように変わっていく人もいる。
いろんな人がいる。

ぐるぐるしながら、進んでいく。
いろんな人に出会いながら、人と出会うことで、変わっていく。

僕もそうしてオトノネを始めることになった。
人との出会いと同じくらい、お母さんにとっては「子ども」と出会うことは、とってもとっても、大切なことだとおもう。
誰かと一緒にいるから、何かが起きる。

近くにいる、誰かの心を大切にしているだろうか。

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心がつながるのが怖い

感情、の本を探している時に気になったので借りてきた。

こちらはカウンセラー、心理学のための本で、「自己防衛」で関係がつくれない人たちの話を読むことができる。

「自己防衛」とは、どうしようもない状況で情動が引き起こした防衛反応のこと。

それは、理不尽な身体的、精神的暴力を振るわれたのを「自分が悪いんだ」とおもうことも含まれる。

また、関係を避ける、といった振る舞いにもでる。

「自己防衛」は主に、思春期以前の経験が元になっている。
無力感、悲しみを抱いた時に、「若さが故」に心がはじき出した最適解。

その時は、役に立った。
困難を切り抜ける作戦として、有効だった。

しかし、
自己防衛が大人になっても、無意識のうちに繰り返される場合、「うまくいかない」といって苦しむ人がいる。

「何か変だ・・・」

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この本は、子供の頃の自己防衛が大人になってから「人を愛せない」で困っている人たちに焦点をあてている。

心は成長したのに、子どものころにつくりだした作戦が無意識のうちにまだ働いている状態が、苦しいのだ。

「なんか変だ」という違和感を感じたら、きっと、大人になったその人が、その人の中にいる子どものときの自分に語りかける時だ。
カウンセラーは、そのお手伝いをする。

本人が気がつかないような身体のメッセージがある。
少しづつ、忘れていた、無意識に落とされてしまった心、気持ちを拾い上げていく。

自覚して、言葉にして、思い出して、そして、今、その場で子どもの頃の自分と対話をする。
そうしたプロセスが、「大人な私」と「子どもだった私」を出会わせる。

こう語りかける。
「もう大丈夫だよ。子どもの頃の君は、そうするしかなかった。つらかったんだ。心から、君がつくった作戦に感謝する。そのおかげで今の僕がある。けど、もう大丈夫だよ」と、心から、心から語れるようになるまで、向き合う。

「誰も信じない」という作戦をとった子どもがいる。
けどもう今は分別もついたし、心も強くなった。信じてみないかい?
怖くなったら、誰かの力を借りよう。君は一人じゃない。大丈夫だよ。

子どもの頃に受けた精神的、肉体的暴力を大人になってから繰り返す人がいる。
自分の無価値さを無意識のうちに心に刷り込み、おかしくなってしまった心の防衛のために、「他者に暴力を加える」という、自分がされたことを他者にも繰り返す。「暴力を加えた人」を防衛のモデルにするしかない、子ども時代の記憶が、無意識に繰り返される。厳しく育てられた子ども。厳しいのは、親の愛情だと思っていた。そう信じるしかなかった。けど今は、そうは思わない。僕は強くなった。親は私を愛してはいなかった。だから、僕は暴力を繰り返さない。

「大丈夫だよ、ほら、だって、今、あなたに僕の姿がみえるでしょう。僕のことを抱きしめてくれているでしょう。僕を、ちゃんと感じてくれているでしょう?」

子ども時代に欠けていたものを、大人になってから誰かに求めることもある。(それは子ども時代、に限ったことではないが。)
けど、その子が欲しかったものは、他の人からは手に入れられない。ことが多い。
大人になったから、強くなったはずだ。もう大丈夫だ。欠けているものは欠けている。けど、その悲しみを何かで埋めようとしていた子どものころよりも、「もっと、より」今は強くなっている。大人の私は、子どもの君(もしくは、大人になった後の、あの時の、あなた)を、おもいやれる。

だから、大丈夫だ。

悲しみを暖かく抱きしめる、今の私と、かつて悲しみにくれていた私が、出会う。

自分を抱きしめてみてもいい。
大切な誰かを抱きしめてみてもいい。

自分の心と、相手(自分自身)の心、を感じられたら、きっと、何かが動き出す。

動いていく心を感じてみよう。

ーーーー

無意識に触れる時、体のどこかが反応し、心の底で情動がうごめき、頭のなかでその動きを捉えることができる。
感じること、を通じて、子どもの時の自分(もしくは大人になってからの、あの時の自分)、無意識に落としてしまった、本当の心を知る。

感情に触れられない、心に触れられないまま、「防衛」「抑圧」を繰り返してしまうと、それからも不幸な人生を送り続けることになるかもしれない。現実不可能な願望を抱き続けるかもしれない。そうして、今目の前にある世の中と、今、大人になった私の折り合いがつかなくなる場面がでてくる。

そうなった時、助けてくれる人が、近くにいるだろうか?
自分に向き合う、自分を感じる時間をつくれるだろうか?
(あくせくと、残業や課題でおわれていないだろうか?繰り返される「自動思考」で頭がパンクしていないだろうか?)

「悲しみ」を避けていたら、「悲しみ」と一緒になってやってくる(物事は大抵そんなものだ)他の何かを得ることができない。
今、大人になって、「もっといい作戦」を考えられるはずなのに・・・・

「防衛」とは「感じないようにする」ことだ。
本当の自分を感じないようにして、誰かのために命を捧げることも、「防衛」といえる。
心を安定させるために、「その時」選んだ、最適解。

だから、防衛を解いて、感じることは、ある意味とてもつらいことだ。

一人では、とてもやっていけないくらい、つらいこと。

だから、、、、
だから、一人でがんばれる!とはおもってほしくない。

ーーーーーーー

自己防衛とは、無意識に繰り返される心の「生き残り作戦」である。
もうそれは、古い。新しいものにしたらいい。

そんな時に必要なことは、思い出し、子どもの時の心に気がつき、対話すること。
これは「学びの共同体」の「学び」そのものだし、ナラティブアプローチともいえるし、無意識に溜め込まれたその人の経験が生み出した「情動の仕組み」を理解することでもある。回避していては、理解はできない。対話をする場がなくては、理解ができない。そもそも、気が付いていないことが多い(だからカウンセラーは、まず、まずはクライアントがクライアント自身の感情に気がつくような働きかけをする)。

「愚痴をいう」という行動で「防衛」するという作戦がある。
「しゃーなしでもやる」という行動で「抑圧」される心がある。

もしかしたら、癖になった「防衛」や「抑圧」の影で、本当に見て欲しいあなたの一部が「僕には気づいてくれないの?」と、声をだしてすすり泣いているかもしれない。

目の前で苦しんでいる保育園児、小学生、中学生、高校生に気がつかない親や保育士、学校の先生と同じだ。
君の中で、泣いている、悲しんでいる君がいるかもしれない。

本当にいるんだろうか?

ーーーーーー

多くの親の「怒り」が子どもに向けられている。
それが習い事の嵐だったり、勉強勉強という言葉だったり。
「怒り」の奥にある色とりどりの感情に気がつかない。
「怒り」に気がつかない。

「怒り」にもいろんな名前がある。
妬み、憎しみ、悲しみ、恨み、、、、、

怒りの底にある、親が経験した悲しい出来事に、向き合えない。
自分が向き合えなかった感情・出来事を、子どもに向き合わせることをしている親がいる。

子どもは、お父さん、お母さんが好きだから、

満たされなかった願望・欲望と付き合うことができず、折り合いをつけ、前に進むことができず、対話ができず、子どもにそれを再現させようとする人がいる。「私は◯◯だったから、この子には!」というセリフを使ったことがある人が、きっといるでしょう。

けど子どもは子どもで親とは違う人生を歩むものだ。
同じ人生を歩かせようとしてはいないか。

子どもはやさしい。
お父さん、お母さんを愛している。
だから、命をかけて、命を燃やして、身を捧げて、応えようとしているかもしれない。
その子の、一番大切なものを、捧げていく。

それは本当に「その子」のためだろうか。

子どもが大切な「今」を差し出している。
大人は、そんな子どもの心に、どんな「今」を差し出せるだろうか。
大切なものを、差し出せるだろうか。

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富山市の民間学童保育

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悲しみの経験を思い出して、今でも悲しがっている自分の心のために、今日も、1日の終わりに、祈りをかけよう。
「まだ私はうまくやれていないかもしれないけど、いつも泣いている君の隣に、私はいるよ。ちゃんと気が付いているよ。感じているよ」

そうして悲しみを自分の一部にすること。

少しずつでも、少しずつでも、、、、

ーーーーー

痛みや悲しみを引き受けられるようになると、たくさんの出来事に出会うことができます。
苦しみや悲しみを避けることに使われるエネルギーで、苦しみや悲しみを暖かく抱きしめられるようになったら、いいなぁと、僕もいつもおもっています。

弱い人を助けようとする自分は、弱い自分と向き合う代わりに、その人に関わろうとする。
(これを心理学用語で投影といいます。別に悪いことではありません。そういう現象を、投影といっているだけです)

嫌いだな、と思う人が、実は自分の中で「まだ統合できていない」自分の姿だったりする。

情動が動いた時、そこには何かしらの「心の作戦」があるとおもったらいい。
心に向き合う時間を大切にしたい。

人を愛したい、とおもうなら、自分を愛するようにしよう。
愛せていない自分を誰かに映し出してしまうとき、宇宙は、離れていくようである。

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古い時代の作戦をそのまま使っているケースは、よくある。
個人だけではない。学校、保育園、組織は体制を変えることができない。
「もう大丈夫だよ。そのとき必要だった仕組みは、もう今はいらないんだ。大丈夫だよ」

という対話を、一体、組織の中で、誰かしているのだろう。

人生を変えるのは、多くの痛みを伴うこともある。
輝いていた自分が、とつぜん、光を出さなくなるような、ギャップを感じるかもしれない。
それを支えられるような段階に達した時、人は、「危機」に見舞われる。

人を成長させるプロセスがしくむ、劇の幕開けのタイミングは、なんとも巧妙だ。
「え?大丈夫だよね?もう乗り越えられるでしょ?」

痛みを感じないわけではない。
痛みと寄り添えるようになること。
痛みを抱きしめられるようになること。

それだけで、プロセスは動き出す。

大切な自分を守れるようになったら、勝手に向こうから、儀式はやってくる。
学ぶべきものを学ぶべく、人は人と出会う。

心が大事。

ーーーーー

自己防衛の仕組みと受験生になんの関係があるかといったら。

だいたいみんな、「やらされ」て過ごす小学校・中学校時代。
多くの受験生にとって、「やってたことをやる」習慣や、「できる自分」へのプライドがある。

「やらなかったら怒られる」から、「やらない」ことから生まれる不安・恐れを隠してしまったかもしれない。
「当然、できていたことができなくなるなんて許されない」と、「やらない」ことが怖くなっているのかもしれない。

大学受験は、そんな高校生たちが生まれてから今までつくりあげた、「防衛」「抑圧」と向き合う時期だと、僕はおもっている。

それを僕は、高校生の発達課題だとおもっている。
思春期だと、おもっている。

もっと自由になるために、心を大事にしてみたら、不思議なことが起ってくるかもしれないよ。

先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、おとのねさんも、そんな「成長」のプロセスの中にいる。
僕はプロセスの中にいる一人の人間として、学校の先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、僕自身をも、大切にしたいとおもっている。

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戦争をさせられる子どもたち(学校という経験・受験という経験)

第二次世界大戦、というか太平洋戦争が終わるためにはたった一人の人間の声が必要だった。
アメリカは日本に核爆弾を二回落とした。「もうやめようぜ」と??

それでも日本は戦い続けた。
戦争は終わるのだ、と、気がついていた人がいたかもしれない。
けれど、最終的に、戦争が終わるには、たった一人の人間の声が必要だった。

もしその声がなかったら、今でも戦争を続けていたかもしれない。

一体、子どもたちの戦争は、いつ終わるんだろう。
課題・宿題という名の訓練。定期テストという名の実践訓練(三日三晩くらい、眠らない場合もあるだろう)。
精神的な暴力を振るう教師(体罰は禁止されているが呼び出しと指導という名の叱責は禁止されていない)。
そして、受験という名の、戦争。

僕が声を出していってみよう。
「もう、戦争はおわったよ」

えーっと、今度、ラジオ局にお金払って、流してもらおうかな笑

大学受験は、戦争ではない。
けど、「生きて帰ってくればよし」と言ってもいいほど、本当に「戦争だ」と思えてしまうほど、子供にとっては、過酷で残酷な経験になりうる。心を、殺してしまうかもしれないのだから。

心を閉ざして「戦争トラウマ」に陥る子どもも、たくさんいるだろう。

そんな戦場にいて、笑いながら暮らしている子どもたちがいる。
5年後に、10年後に、この子たちが聞く「時代のヒット曲」はどうなっているんだろう。
欅坂(けやきざか)46の「アンビバレント」を聴きながら(子どもの「時間」)

学校を、こうして、戦争に喩えてしまえるほど、泣いている子どもたちに、泣けずに、笑っている子どもたちに僕は出会って来た。

なんでだろうね??

素敵な「学校」もたくさんあるとおもうよ。
戦争のない国へ、行ってもいいんです。
日本では、現在、住む場所も、仕事も、学校も、選べる時代です。

「やーめっぴ!」

といって、やめれば、それで終わるのですが。
やっぱり、「みんなと一緒」じゃないと怖いですか?

怖い、かもしれません。
だから、戦争は終わらないのかも、わかりません。

———————-

ジョンレノンのWar Is Overが頭の中に、流れて来たのは僕だけですか?

ーーーーーーー

日本はかつて、戦争による特需で潤った。それが高度経済成長期という現象を生み出すチカラとなり、8050問題の80の人が生まれた。
その後、景気は後退し、今、再び「小学英語」「プログラミング」「センター試験に変わる英語の検定試験」「ダンス・武道(あれ?結局入ったっけ?結構昔の話だよね)」によって特需を得ようとしているのかもしれない。僕の、読みが、深いだけか。もはや妄想の領域だ!頭おかしくなってきたから寝ます。子ども同士を争わせる戦いに、子どもを送り込むのは、誰でしょうか?

いやまぁ、そんなの屁でもないぜ!っていう子も、もちろんいるとおもうんですが。
早く戦争を終わらせるために、必死でペンを握る子もいます。

そんな大変な、受験とい経験を、学校という試練を乗り越えながら、通り過ぎていきながら、学べることを、学んで行って欲しいと思います。

オトノネひろげるシェアぼたん

学校教育の政治的背景(県立高校生は富山県の政治と教育ビジネスに巻き込まれている?)

富山県の異常さは本当に、よくわからない。
(石川県も異常らしいが、高校生の顔をみると、富山県の方が、異常に、病的な子どもたちが多い気がする。みんな疲れている)

僕たちの知っている学校ではない。
強制収容所で働いている労働者みたいだ。
(ちゃんとお昼休みと部活動というレクイエーションが与えられている!)

けどそれがなんとなくわかった気がしたので報告。

ことの発端はコレ。
公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2(富山・石川は教育県ではない)

石川、富山の平均所得は他の「大都市」と同じレベルに高いという不思議が、教育に使われる予算も「大都市」と同じくらいに低い不思議と結びついたデータでした。

なぜ富山県の平均所得は、日本海側にあって、閉ざされた地域にあって(地理的には発展しにくいはずが)、高いのか。
これが不思議だった。

路上における犯罪者検挙数の割合も東京並み。

所得格差も大きい。

けど人口は減っている…

人口は減っているのに、新築住宅がバシバシ建っている。

よくわからない富山県。

そしてお金にがめついという曰くつきの、富山県(高岡市は高岡商人でさらに有名)。
歴史的に、奈良の都以前に、歴史に葬られ都があるのではないかと僕はおもっている富山県(というか能登)。

富山には富山の歴史がある。
その歴史とどう関わるか。
それは今生きている人たちが、歴史を相対化して、離れて見て、決めることではないだろうか。

ーーーーーー

ある日、誰かが僕に教えてくれた。
「富山の県長(だか市長)は東大学閥なんだよ」

ああそうか。

富山中部、富山高校、高岡高校が東大にこだわる理由があるとしたら(東大でなければ、いけないらしい)、政治的な影響力を強めるために、子どもを育てていると考えたら、つじつまがあう!(合わせているだけで、本当かどうかは、誰もわかりません)

自分の味方になる議員数を増やす、ということ。
次の世代でも、自分の社会的な地位をまもれるということ。

封建的な考え方だが、まぁ確かにつじつまがあう。

だから、富山中部、富山高校、高岡高校(最近は全然進学校でもなんでもない高校までもが生徒を課題漬けにしているようで意味がわからない)は、子どもに「意図的に」ストレスを与えて、政治家になった後の恐ろしい「政治家世界」を生きるためのストレス対応能力を鍛えているのだと。選抜を行なっていると。課題、テストは、計画された「潜在的カリキュラム」である。と、僕は「妄想」に近いほどの「推測」をしてしまう。

学校は変わらないだろう。
政治が変わらないならば。

政治は変わらないだろう。
人間が変わらないならば。

人間は変わらないだろう。
もし、ひとりひとりがもっている「天の才」を守り育てられないならば。
子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

ーーーーー

この政治的な策略に、子どもをどう関わらせるか、どう守るか。
お父さん、お母さんの知恵が試されるところかもしれない。

学校をやめなくてもいい。
学校をラクラクとサバイバルできるように、小さい時から関わるだけでもいい。
サバイバルしながら、多くの子どもたちが、「才」を失ってしまっているように僕はおもう。
だれかをしあわせにする、大切な「才」だ。

小学校に入る前に塾に通わせたり英語をやらせたりするよりも、大切なことだ。と、僕はおもう。
「子どものしあわせ」ではなく「子どもが関わる多くの人のしあわせ」を考えなくては、その子は犯罪に巻き込まれて死んでしまうかもしれない。
「その子のしあわせ」が、習い事をしたら手に入るのか。英語塾にいかせたら手に入るのか。某有名大手学習塾に入れたら手に入るのか。

ーーーー

有名な話、大手の予備校と行政は繋がっている。繋がる土壌・文化が、日本にはある。
塾・予備校業界との癒着…下村文科相がむさぼる「教育利権」
教育委員会が塾の下部組織なのか、その逆かはわからない(お金をたくさん握っているのは塾だろう。とすれば、教育委員会の方が弱いのかもしれない…)

どちらにしても、「うちを信じろ!」と、競い合っている。
が、どちらも「経営重視のシステム授業」、「受験対策」、「古い時代の勉強法」は変わりばえしない。
レッドオーシャンだ。

こうした組織の価値観しか知らないお父さんお母さんが、「あっちでもこっちでも、似たようなもの?他の選択肢はないの?」とおもってくれたら、おとのねを選んでくれてもいい。こちらはブルーです。

参考:
「学校の課題だけで合格できます」は本当か。塾の合格実績を全て調査して検証。

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靴を履く文化がない地域で、靴を売ろうとした人がいる。
「うーん、ここは文化がないから、売れないなぁ」
「どこにも競合がいない、チャンスだ!」
どちらで考えるか。

ビジネスは、需要を作ること。
需要がなくても、作り出すこと。
靴を履くように「させる」こと。

そうすると、何が起こるか。

戦争はビジネスだ。
争いのタネをつくることから始める。
そして武器商人は、儲ける。

塾はビジネスだ。
争いのタネ(古い時代の価値観)をまく。
そして、経営者は、儲ける。

必要もないことを、「それは、やらねば!」とおもわせる。
モデルに靴を履かせて歩かせるとか。
靴の効用を宣伝するとか(布教活動だ)
合格実績や合格ストーリーを乗せるとか。

そして、それがいつの間にか、スタンダードになり、文化になる。(それそれは、ただただ自然な現象として)

こういうことが、起きる。

教育はビジネスだ。
プログラミングを必須化して、英語を必須化して、教育業界は動いた。
需要を作り出した。
それがただのビジネスに留まるか、それとも、社会を調整する、時代に「適応する」子を育てることになるか。
学校の成績のために習い事を増やすだけの結果に終わったなら、日本の教育はただのビジネスでしかないだろう。

もう、戦争も、経済成長も、終わりましたよ?

オトノネひろげるシェアぼたん

難関大学を目指すあなたへのメッセージ

一流の学習者になってください。

課題の海で溺れている、課題の森で迷っているうちは、一流にはなれませんよ。
(実は課題の海で溺れながら、第一志望校にはいけなかったが難関大学に合格した子はいます。課題をやっていなかったら、第一志望校に入っていたことでしょう。まぁ今その子は笑っているからいいでしょう。そういう子もいます。いろいろですから)

目の前に現れる矢継ぎ早の定期テスト、やたらうけさせられる意味不明な進研模試、参加任意と言って強制される土曜模試、与えられた課題をこなすことに心を砕くのは一流の「労働者」であっても、一流の「学習者」ではありませんよ。

学校には学校の都合があります。
一流は、一流なりに都合をつけて生きています。

一流の大学は、「労働者」は求めていません。

AO入試を探してみてください。
あなたは大学に「求められいる」人間ですか?

一流の学習者になってください。
日々、自分にフィードバックして、改善を積み重ね、全力を尽くしてみてください。

「あれ?うまくいかない」とおもってもなお、「労働者」であり続けるなら、そのまま試験に挑んでみてください。

もしかしたら、合格するかもしれません。
大学が求めている人材ではないと、僕はおもうのですが。

「あれ?うまくいかない」とおもえないのも、大学受験の難しさ。
(僕も当時、うまくいっていなかったことに気がつきませんでした)
若さゆえか。

だから僕はオトノネをつくったんですけどね。

大学受験というものは、とてつもない、かけがえのない経験になります。
いろんな人と出会って、助けてもらいながら、突き進んで、早いとこ高校を卒業しましょう。
一番近くで見守ってくれている人へ、感謝の気持ちを抱きながら。

進んでいってほしいとおもいます。

世界で奇跡的に生まれたあなたの命を大事にしてほしいとおもいます。
しあわせを育てられるように。誰かの心をあたためられるように。

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富山市の民間学童保育

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オトノネひろげるシェアぼたん

ついに解明?物理がわからない、理由。

自称進学校で物理でお悩みのみなさん。

お待たせしました。
なぜみなさんが物理がわからないかわかりました。
「やるべき順序でやるべき学びをしていない」という当たり前のことでした。

理由1:数1A2Bが終わっていないのに物理をやらされている。
数学的な道具を持たずして速度とかベクトルだとか角度とかやるから、頭がこんがらがる。(矢印が出てこない参考書はない)
理由2:学校が使わせる参考書でろくな解説をしてくれていない。
理由3:「問題の解き方」を教わるだけで「物理」を学んでいない。(体系的に学べない)

人によって、理由は違うと思いますが。
最近オトノネに来てくれた自称進学校の生徒が物理に悩んでいる理由は上の通りでした。

自称進学校の生徒が面談に来てくれて、判明したことです。

ちなみに、「中学校の間は、物理が得意だった」そうです。

今度、課程表みて、一年生から物理やっている学校のリストアップをしてみましょう。
理系の人は、その学校を避けるといいとおもいます。
(けど最近ブログにする記事が溜まっていて、しんどいです。誰か調べて教えてください)

進学校に行って意味不明な課題をやるくらいなら、定時制に行って、塾できちんと教わったらいいとおもいます。
学校に足を引っ張られたまま合格できるほど、難関大学に合格することは簡単ではないのですよー。
「みんなと一緒」に慣れてしまっていて、抜け出せそうにないなら。
小学校・中学校で身についてしまった「定期テスト」に反応する敏感な神経を取り除けるかどうか。

と、オトノネは考えています。

いや、定期テストもやる!難関大も合格する!というなら、僕はそれもありだとおもう。
やってみてほしい。ただ、僕はそのパタンで合格した人を一人もみたことがない。ただの一人も・・・
でも可能性はゼロじゃない。
君は君だけのストーリーをもっていていい。
自分の受験であって、僕の受験ではないから。
自分の人生、思い切って、やってみてほしい。
本気をみせてほしい。

誰もが自分の条件のなかで暮らしているから。
自分が決めたルールで受験をしたらいい。
自分でルールを決められるのだから、きっと素晴らしい受験になるだろう。
実りのある受験という経験をしてほしい。

本気で難関大学に合格するなら、引っ張られている足をどうするか、心が大事だと、オトノネは考えています。
定期テストのために生きるか、受験勉強に生きるか。あれか、これかを選ばないといけないのが、難関大学。
難関大学に行く人は、そもそも定期テストのための勉強などしていないと僕はおもうのだが。いかがだろうか。

定期テストの結果と
受験の結果のデータが欲しいんだけど、だれかくれないかな?

オトノネひろげるシェアぼたん

学校が子どもの障害になっている場合。障害物レースのルールは?

お父さんお母さんや学校の先生が、その子に「させている」「歩ませたい道」が子どもにとって「障害」になるかもしれない。

いわゆる障害児(不定型発達児)が「いわゆる健常児(最近は定型発達児と言うようになったらしい。いいことだと思う。)にとってのふつう」を目指そうとしても目指せない「障害」があるように。

課題の海で溺れてボロボロになりながら、沈んでいく子もいる。
けどそれは誰にとっても起こりうることだ。
明日死ぬかもわからない時代があったのだ。
そう思えば、漆黒のブラックな会社、学校の出来事もとても自然なことだと思うことができる。

障害を乗り越えて立派な人間になると考えるなら、乗り越えられるように手助けしてくれる人がいればその子は幸せだろう。

超えることのできない障害物が目の前に現れた時、レースをヤメて、とりあえず障害物の横から回り込んで前に進んでもいい。
前に進めぬほどの障害物なら、しばらくそこで、休んでもいい。逃げてもいい。

障害物が、ただそこにいるだけでなく、子どもの自然を壊す脅威になることもあるから。

障害物レースのルールは、ない。
教育基本法によれば、ルールは、お母さんが作れるらしい。
ただ、障害物を壊そうとしても壊れないだろう。
ただ、障害物に語りかけることはできる。もしかしたら、動いてどいてくれるかもしれない。(障害物を岩だとおもってみよう。動いてくれそうか?心を込めて、本気で、唱えてみよう。アブラカタブラ!)

前に進んで見た後で、後ろを振り返ってみると、そこにはなんの障害物もなかったのだと、目を疑うかもしれない。

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好きなことを仕事にする?できることを仕事にする?趣味?の意味。『三太郎の日記』

iPS細胞を自前でつくった山中伸弥教授は世の中のために研究をしていたか。

と聞かれたら、いやいや、ただ、楽しかった、やりたかった、つくってみたかった、という純粋な遊びごころで研究していたんだろう。

表向きは、社会貢献とか、いろんな飾りをつけられても。
人の役にたつこと?いやいや、自分が好きだからやったんだよ。

結局は、何かを成し遂げるときは、情熱、ロマン、遊び心、本気になれる純粋な何かに向き合うメタスキルが大切になってくる。

そういう話を、した。

かつて阿部次郎の『三太郎日記』を塾の先生から借りて読んで読みきれなかった。
けどそこにこんなことが書いてあったらしい。

生きるための職業は、魂の生活と一致するものを選ぶことを第一にする。

けど、そこでこう言われた。
「魂の生活ってのが何かわかりませんよ。私自身、魂が震えるような経験をしたことがないですからね!」

そうだ、雪をみたことがなければ、雪がどんなものかわからない。
自分の心を知らなければ、心がどんなものかわからない。

もちろん、ほんとうにわかるなど到底できない心であるが、それが震える経験を、一体私はいつしただろうか?
そう、阿部次郎は魂の生活と、肉体の生活を分けた。世の中で求められている肉体労働(ブラック!)とは別に、魂が喜ぶ生活を目指すのだと、言っている。魂がしあわせになる生活と、一致するように、できるだけ、仕事を選べと。もしそれができないなら、仕事とは別に、魂の世話をしなさいと。

心を大事に。

けど僕も、魂が震える経験、「これが僕の仕事だ」と、実はまだ言い切れていない。
いや、本当はわかっていて、それに向かっているけれども、まだ仕事にはなっていないだけかもしれない。

ーーーーーーー

できることを、仕事にする、という考えもある。

できることは、自分がポテンシャルを、タネを、しあわせを育てる扉。
できることをするのは、当たり前。

できることを進めて行くうちに、人と出会ううちに、自分のチカラを感じて、好きになって行くこともあるだろう。

多様化されてきた時代、自分の適性をみつけたり、自分の仲間をみつけるだけでも時間がかかるかもしれない。
「いい会社」を狙う作戦で、失敗してもいい。

「そんなもんだ」とおもって進んでみて、「あれれ?」と思った時に、もう一度、思春期の課題にもどってもいい。
オトノネは、大人の思春期、絶賛、応援中。

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学校の「課題」ではない「本当の課題」をお手伝いするオトノネです。

教育の現場の方と最近話す機会があり、こういう話題になった。
Teachers do not teach. Students learn by themselves.

子どもは大人の背中をみて育つ。

という言葉がある。

たとえば今の世の中、「好きなことをしなさい」「やりたいことをやりなさい」という言葉が溢れている。
けど学校の先生は好きで学校にいるわけではないし、やりたいことをやっているわけではない。
(そのなかで生徒をちゃんとみてくれる先生と出会えたなら、しあわせだ)

思春期に教わるべきなにかを学校の先生から学ぶことはできない。いや、そんなもの教わるものでもないのだろうか。
高校卒業までにしておきたい発達の課題、は、大学まで先延ばしか。学校は学校で、自分たちの課題で忙しい。高校生の課題に付き合っている余裕はない。
何しろ、お金がないのだ。「大学進学実績」を出さなければ、予算が入らない、潰される、統合される、先生が職と名誉を失うかもしれない(自己保身)。。。。そういう恐怖と戦っている。もう教師という仕事に魅力がない。公務員試験に合格し教員になった人が、やめていく。そんなことは、かつて、絶対になかった時代は終わったらしい。試験を受けたら入れる、そんな時代になった。人材が入ってこない。人材を選べない。。。。(素晴らしい先生もいますよ、もちろん!)

大学に入ったら、大学に入ったで、みな「就活」をするという。まぁ、そりゃそうか。
生き方、世の中について教えてくれる人はいない。そんなもの教わるものでもないのだろうが。

結局、自分で気づく、自分で学ぶ、自分で道を作っていくというメタスキル をもっていないと、どこかでこの課題をやり直すことになるだろう。自立するということだ。学校からも。親からも。
親が80になってもこの課題に取り組み続ける人もいる。
そしてこういった人たちの福祉のために国は予算を削る。負の連鎖ですね。

僕も含めて、人間はそういう生き物なのだろうけれど。。

もう時代は変わって、やるべき「本当の課題」が変わったと僕には思える。
(今の僕の課題は大企業に勤めてお金を稼いで結婚して家や車を買うことではない。)

お母さんがそれを知っている場合が多い。
なぜか、オトノネにきてくれるお母さんは、それを知っている。。。
けど、「じゃぁ、実際どうしたら?」がわからないことが多い。
それを手伝うのがオトノネだ。

子どもは、だから、自分でこの道を開こうとして、友達関係を広げたり、ネット社会に溶け込んだりする。その他色々。つまるところ、社会化したり、特殊化する。個別化する。わかりやすくいえば、役割を探す。自分が溶け込むべき風景を探す。と僕には思えるのだが。

子どもは子どもで、自分でなんとかしようとしている。彼らの本当の課題に取り組もうとしている。僕は僕なりに一緒になんとかまぁできることというか見守るくらいしかできないかもだけど(やるのは本人だ)、それでも言葉をかけ、想いをかけることはできる。オトノネは、「本当の課題」に取り組もうとしている高校生を応援しています。

発達段階として適切な課題に取り組めず、「課題」に心をすり減らされているだけだとしたら、なんと苦しい高校生活だろう。

教育の現場に長く勤めていた方と最近話す機会があり、そういう話題になった。
Teachers do not teach. Students learn by themselves.

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「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

僕は昔、某自立学習型フランチャイズで働いていた。
家庭で、学校で、無理をしている子と出会ってきた。
そもそもが勉強以前、心が悲鳴をあげている。

が。

お父さんお母さんも、その子の現状に気が付いていない。
(だってもうその子は悲鳴をあげる元気もない)
本人は??気づいていない。
擦り切れている心が、普通の状態になってしまった。
(だってもう電気ショックで無気力になることを学習してしまっている状態だもの)
学習性無力感とは?

もうそれはその子の「正しい生き方」になってしまっていた。
「無意味だ」「これは違う」と頭ではわかっていても、続けてしまう。
頭と心が離れてしまうほど、「させられ続けてしまった」人がいる。
あまりにも理不尽な、ただただ唖然とさせられる状況に陥って、混乱している人もいるだろう。

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「なんか変だ」
「なにかがちがう」と思った時、
「違和感」を感じた時から、本当の学びが始まる。

この「違和感」を感じられるような言葉にも、時間にも、人にもなかなか出会えない不幸な世の中になってしまったようであるが。

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学びがはじめられる段階にない、ただただ状況に流されている人とたくさん出会ってきた。
僕自身、まだ始められていない学びもあるだろう。

そこで思い出したのが、坂口安吾の『堕落論』。
こちらの青空文庫から無料で見られます!

文章は、人間がある種の理想を掲げたあと、「自分はこうあるべき」という観念を守り抜こうとする努力の末、それで?という話。最後の部分を引用します。

戦時中に誰もが思い描いた大国「日本」、
明治維新によって失われた武士の世界を蘇らせるための「武士道」
純潔、貞操を守ろうとする未亡人の「処女性」

これらは全て「こうあるべき」と掲げられた観念であり、ファンタジーである。
捨てられない、という点で、子どものファンタジーとは別物のように僕は思う。

安吾はのたまう。
人間を人間として救うためには(自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには)、「堕ちる道を堕ちきること」をしなくてはならないと。

その根拠は「特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。」という箇所であろう。

人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

体が壊れてから、心が壊れてから、痛みに悶えてから、闇の中に心を閉ざしてから。
堕ちることでしか、次へ進めないことがある。(体を壊してからリクルートをやめて今に至る藤原和博さんとかが有名)

失敗しないように、しないように、、、とおもっていることがそもそも堕落の始まりだったりする。
(毎日部活、課題、親に与えられた夢を背負い「しなくちゃいけないこと」で潰れていく高校生)

正しいことを貫こうとすること自体、堕落である。人間は脆弱で愚かな生き物だ。
(もちろんこの安吾の言葉は人間の堕落性を説明するために使われているのであって、人間の強さは別にあるだろう)

「ちがう」ことを認めざるを得ないところまで、人は堕落を続ける。
堕ちるところまで堕ちたところで、気がつく。と安吾はいっている。

僕自身、身体的、精神的な痛みを伴う経験がなければ人は変わらないとおもっている。

堕ちきったあとに、自分を救おうとする人のために、おとのねをつくったのかもしれない。
自分を救おうとして、堕落ができない人たちと対極にいる人を、ニーチェは「超人」と呼んだと僕はおもうのだが。
不登校の子どもたちは、超人になる可能性を秘めている。
ひきこもりの子どもたちは、超人になる可能性を秘めている。
そういうこともできるだろう。

心をすり減らしながら暮らしている人が、多すぎる。
学校の先生とかね!けど学校の先生は堕ちるところまで堕ちない。堕ちないように、行政が守っているから(この言い方は正確ではないだろうが)。

健全に、堕落してみよう。
堕ちるところまで、堕ちてみよう。
そしたら気がつくかもしれない。
「課題、やっても意味ないんだ」と。

進学高校の6割以上の生徒にとっては、真実であることが、すでに科学的に統計的にデータ化されているわけですから。

まだ観ていない方はこちらもどうぞ。
富山中部高校、高岡高校、富山高校の偏差値・進学実績の影で泣いている高校生がいます。

金沢泉丘高校、二水高校、錦丘高校の偏差値・進学実績の影で泣いている高校生がいます。

学校の定期テストの成績と高校受験・大学受験の結果が関係ない話。

それから最近の発見ですが。
こちらも。

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2
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今まで頼りにしていた価値観を捨てることはとても難しいことだ。
本当に、難しいことだ。めったにあることではない。

「そのように」体も神経を整え、心も「そのように」なるように作られてしまった人たちがいる。
目の前の不幸が見えない。目の前の子どもが、自分の心が見えなくなっている人がいる。
習い事を無理やりさせるお父さんお母さんも、学校で平均点を取らせようとするお父さんお母さんも、同じ。

誰もがそんな状態になりうる。
(オトノネだって、オトノネの価値観の中にいる。捨てることは難しい!だから、日々つくりかえれるように、いろんな人に会い、いろんな勉強を続けている)

学校の先生も一人の弱い人間だ。
ストレスに耐え家庭を守らなければならないしくみ(ブラック)の中にいる犠牲者ということもできる。
馬の耳に念仏、というより、「あの時はわからなかった」経験を思い出すだけでいい。
そしたら学校の先生をかわいそうな人だと思い、許してあげることだってできるかもしれない。
そして、「じゃぁ自分は、どうするか」を考えたらいい。学校から自立したらいい。
もちろん、助け合えることは助け合ったらいい。

だからこそ、心を開く習慣、目の前にいる相手をそのまま見つめ、自分の心を「離し」て関わる瞬間が、大切になるのだとおもう。

堕ちることは悪いことではない。
堕ちきった後で、底を蹴って戻ってこれるだけのメタスキルと、誰かの助けがあるならば。

課題の憂さ晴らしにゲームをしたり、ショッピングセンターに行く、部活頑張る、という「ストラテジー」を確立する高校生もいる。
ブラックな仕事の後に居酒屋にいったりカラオケにいったり旅行したり、ゴルフするサラリーマンの姿が重なる。
今の高校生たちは、輝かしい未来を想像して大学に入り、社会に出て落胆しないだろうか。。。
そしたら8050問題再来!(心配事だらけでごめんなさいね)

けど彼らはそれはそれで、うまくやってるということもできる。
ストレスマネージメント!(けどそれで人生終わっていいの?大丈夫、トリックスターはこの世に存在する!と僕はおもっている)

ーーーー

蛇足すぎるがこんなことを想像した。

学習性無気力の実験は、檻の中で行われた。
本当なら、本当の犬なら、こんな場所にはいない。
本当の場所にいる犬なら、試行錯誤できるし、実際にそれでなんとかなる。
なんとかならなければ、死ぬ。

学習性無気力というのは、「自然」でない状態から生まれる病かもしれない。

本当なら、本当の人間なら、こんな場所にはいない。
本当の場所にいる人間なら、試行錯誤できるし、実際にそれでなんとかなる。
なんとかならなければ、死ぬ。(いや、死にはしないだろう。人間なら、誰かが助けてくれるものだから!。。。)

学習性無気力というのは、「自然」でない状態から生まれる病かもしれない。
それが「ひきこもり」という症状であるとしたら、人間は檻の中に閉じ込められた「犬」と同じだと揶揄することもできる。

檻の中を出ればいい。
ただそれだけで、救われる命もある。

守ることによって、救われない心がある。
守るとはなんでしょうか。愛とは、なんでしょうか。

愛とはなにか?

人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。

落ち抜けず、守られ続けた人間が起こした事件が、コレでしょう。
堕ち抜くことを妨げられ、救われず、自分自身の処女を刺殺したり、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだしたりできなかった、誰か別の人間の生き方、観念の世界に宙づりにされてしまった人がいる。
8050問題の解釈と学歴、マスコミ、景気の関係

言葉って、難しいですね。
だけど大事じゃないですか。

わんわん!

心が大事。

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生まれた時から、小学校のときから、中学校のときから、ずっと、その子はその子です。
塾や学校を選ぼうとするまえに、お子さんは、お父さんお母さんを選んで生まれてきたんです。

そう考えたら、、、、
お子さんを塾や学校に任せるなんて、ちょっと残酷に思えませんか?
塾に行かせる前に、学校に行かせる前に、大切なこと、ありませんか?
個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

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