
池袋からちょっと先、西武線に梅ヶ丘という駅がある。そこの羽根木公園でガムランの演奏会があるので見に行った。
一週間前だが、ちょうど雨で延期になっていたときのこと。私はプレーパークというものを知らなかった。
とにかくコドモが生き生きとしている。
遊んでいる。遊べる場所だった。
この場所ができたきっかけは、地元のお母さんたちが「あそびばをのこしたい」ということで行政ともかけもって、地元の大工さんにも協力してもらって、遊具をつくったり、料理やら工作ができるように、そして何よりも「◯◯禁止」ということがないあそびばを守ってきたという。今はNPO法人として活動している。それでもそこにいるお母さんたちは知り合いで、仲よく喋っているような姿もみられる。鍋がおいてあって、火をタイて焼きそばを作る親子もいる。屋根の上を飛び回っているコドモがいる。屋根の上、大丈夫か?と思えるが、大丈夫なのだ。オトナが心配になるほどコドモはやわではないし、挑戦すること、恐れること、自分の力の限界を知ること、泥まみれになって一生懸命になることを学ぶんだろう。
昔、昔、私は「子ども環境学会」なるものに関わっていたことがある。さまざまな事例紹介のなかにこういった施設はなかった。いつからできたんだろう?学会の中で発表されるもの、本の中だけで得られる知識なんて薄っぺらかったなぁ、暮らしの中から、生きながら、人と関わりながら、つくられていくもの、関係といったものに今まで疎かったと私は思う。友だちと会って、話して、遊んで、喧嘩もして、走り回る。ここも東京だ。東京にも暮らしがあるんだと思えた。今まで知らなかったことで、驚いた。知らないことがたくさんある。暮らしていくうちに、わかってくるものかもしれない。
とても大切な看板があった。
自己責任だ。
もちろん怪我をした後、何かあったらオトナがフォローすることもある。
最近考えている。コドモの喧嘩、オトナがみた時に「ん?それはちがうぞ!教えてやらねば」という態度で仲裁に入ったり、オトナの速度で、オトナのやり方でコドモ同士の関係に割り込むこと。オトナの「伝えるべきこと」は何なのか。プレイパークにインドネシアの人が来ていた。結婚して子どもが3人いるという。「いつも喧嘩してさぁ」「そんなときあなたはどうするの?」「やれやれ〜っていうよ!」僕が韓国でオトナ同士がフル喧嘩したときも、ソンセンニンから「どっちが勝った!?」と冗談半分に聞かれた。んー。
コドモの喧嘩、コドモのモメゴトは放っておく。
そうすると、彼らに何が起きるだろうか?彼らはものすごく考えるだろう。
「これが正しい」とオトナが喋って、納得させる、行動を規制するよりも。
「◯◯ちゃんはこうだったんだよね」とコドモのまだ不十分な言葉を翻訳する必要がある時期もある、と本には書いてあるが。
オトナは黙って、みている。コドモの動きをみて、気持ちをみて、コトバを聞く。
ボクはまだ悩んでいる。僕が見学をしに行った保育所でのできごと。僕はコドモに交ざっていたのだが。
男の子が女の子の読んでいた本を取って目の前で読み始めた。
うーん。「それはいけない!」とはいわなかった。もしかしたら、「絵本読んで!」と女の子たちにせがまれていた僕に嫉妬したのか!?
それで本を奪って邪魔をしたのか!?もしこれで「人の読んでいる本をとったらいけないよ!」といっても、彼らの気持ちを知ったことにはならない。彼らが何かを学び取ることにはならないだろう。もし本当に、例えばの話、嫉妬という感情があったとして(他の子のもっている「そのもの」をほしがるのはよくあることだ)、その気持ちを、どうしたらいいんだろう?たぶんオトナも、コドモも、それを探している。たぶん、見つからない。見つからないのだ!だから笑ったり泣いたり、ご飯を食べたり、散歩をして、嫉妬の気持ちと、嫌な気持ちと、一緒になって笑おうとするんだろう。
本当にオトナが強く「ダメだ」とか「いけない」と伝えることがあるだろうか?
信頼のないところに、感情のないところに、何が生まれるだろうか。
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