【自己愛とは何か】コフートの『自信がなくても幸せになれる心理学』和田秀樹

自信がなくても幸せになれる心理学
『自信がなくても幸せになれる心理学』和田 秀樹

コフートという心理学者はそれ以前のフロイトの「自我」ではなく、「自己愛」もしくは「自己」という新しい言葉で人間を理解しようとしました。フロイトの考えた「自我」という言葉は、「自分の問題は自分の内部で、一人で解決する。自我を自分で鍛える」という背景をもっています。けれどもコフートは「人一人の問題は、どうやら一人では解決できなさそうだ。足りない部分をを他者で充実させよう」という背景を持った言葉を必要としたのです。心理学の人間観を変えるために、言葉を新しく作ったのです。「自我」は他者とは離れた心の内部にあるもの、「自己」は他者が触れられる、まさに他者が関係できるもの、と理解していいとおもいます。

コフートは、人間の行動のすべての原点は「自己愛」にあると考えました。人間とは「自己愛を満たすために行動する動物だ」と定義したのです。(略)実際、本書を読んでいただければわかるとおり、人が喜んだり、安心を感じたりするのは、この「自己愛」が満たされた時だと言い換えられます。逆に、人が落ち込んだり怒ったりするのは、「自己愛」を傷つけられた時です。(p.14)

コフートは「自己」という言葉とともに「自己対象」という言葉をつくりました。「自己」が「自己愛」を満たすための対象のことです。単純に言えば、甘えられる、認めてくれる相手のことです。

従来は

自己の充実=自分を鍛える(自力)

でしたが、

自己の充実=自己対象をもつ(他力)

ということに視点をかえました。
(もちろん、他力を発揮するための自力の部分は必要ですよ!)

コフートは、「甘え上手になりましょう」「頼りになりそうな人を見極める力をつけましょう」ということを提唱したのです。(p.19)

「自己の充実」とは、他者に支えてもらうために「他者を心理的にうまく頼る能力を高めよう」「他者とうまくつきあう能力を高めよう」というものです。(p.68)

人を頼りにするというと、依存である!とおもえるかもしれません。たしかに「よろしからぬ依存」はあるでしょう。ですがコフートは「健全な依存」を目指します。

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ここで僕は行為レベルと言葉レベルでの「依存」の区別をしたいとおもいます。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。
例えば「忙しいから代わりにやって!」とか、自分の代わりに誰かに手伝ってもらう、利用することは行為レベルです。
それはそれでいいでしょう。関係性があって、の話であれば。(もしくはそれがきっかけになって、関係性ができるのであれば)
ですが大切なことは言葉レベルでの「依存」だとおもいます。
相談する、素直に話す、悩みを、離す。
話をしながら、自己愛を充たしていく。
心が、大事にされる。

この境界線をいくのが、いわゆる「夜のお仕事」の現場でしょう。
ですが大抵、どちらかに分類できます。

最近の言葉で言えば、doingかbeingかということです。
言葉は両方に使われます。
抱きしめるという非言語でも、言葉レベルの関係はもちろん可能です。
そうすると、行為レベルと言語レベルという言葉は不適切かもしれません笑

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コフートは、自分を愛するために、誰かに頼ることを「よし」とします。
「人間、生きているだけで誰かの迷惑になる。気にすることはない。大丈夫だよ」と僕も誰かに言われた記憶があります笑

迷惑になるから、もしくはプライベートが他人に漏らされてゴシップになる、という恐れから、言語レベルで他者と関われない、つまり自己対象を喪失している人がいます。日本の地域社会では恨みと妬みと虚栄となにやらわけのわからないものが渦巻きがちで、なるほど、うまく自己対象をみつけられないかもしれないな、というのが私の直感ですが。

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自分を愛せない人に、他人を愛することはできません。コフートが「自己愛」を否定しないのは、こういったことにも起因します。要するに、「自己愛」が悪いのではなく、「自分勝手」が悪いのです。迷惑をかけたくないが故にカラに閉じこもってしまう人などは、その意思に反して、場合によってはむしろ「自分勝手」な人だということすらできます。(p.29)

コフートは人間を「自己愛を満たすために行動する動物だ」と定義しましたね。
なので、誰かの自己愛を充たせるようになったら、自分の自己愛も充たしていい(みたしてもらう)ことは「よし」だし、誰かに自己愛を充たしてもらったら、その人の自己愛も充たしてあげることは、とても「自然」である、ということです。

「自分がかわいいのは誰でも同じだよね」と思えるのが理想です。これが、後で出てくるコフート心理学の最重要キーワード、「共感」のための、第一歩にもなるのです。(p.31)

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ここで利己的な人間のことを思い出してみよう。
もらえるだけもらって、返さない・・・・
「いい人」「誰かの自己愛を充たす人」が、「我慢」をしていたら・・・・
病気になる人もいるでしょう。
「我慢」をしなくても、例えば「ありがとう」の一言で自己愛を満たせる人は、病気にはならないでしょう。関係の作り方、心のあり方は、人それぞれですね。

give and take

という言葉があります。

win winという言葉もあります。

アメリカのネィティブインディアンの世界では、
give away
という言葉があります。与え尽くす、という関係です。

健全な依存関係とはなんでしょうか?

「健全な依存関係を築けることが、成熟した人間の証である」(p.32)

健全な依存関係とはなんでしょうか?
give and takeの世界でしょうか?
give awayの世界でしょうか?
(もしくはtake away?????)

コフートは、何よりも人間の主観を大切にするという考え方をしますから、「やったほうが得だから、頑張ろう」という発想も肯定します。つまり、損得を考えて行動したとしても、コフートはそれを責めません。他の誰でもなく、自分自身が満足していなければ、人に親切にすることもできません。あなたが満足するためには、時には損得で動くことだってある。そう考えるのが、コフート流です。程度問題はあるでしょうが、頭が回ってつい損得勘定をしてしまう人も、そう気に止むことはないのです。(p.32)

つきつめれば、「この人嫌だな」とおもったら、関係をつくらなくてもいいということでしょう。
誰にでも親切に、などというのは菩薩にお願いしましょう笑

自分の心のあり方を知った上で、それを認める。
もしそれで関係がうまく築けないのであれば、心のあり方を問うてみる。
それがgive and takeでもgive awayでもいい(take awayでもいい???)。心に素直にしたがってみる。まずは、関わってみる。

そういうプロセスが、「成熟」のためには必要だということでしょう。
コドモとして未成熟なオトナ

「自己愛」とはいってもそれぞれにレベルがあって、そこにはいびつな自己愛と、成熟した自己愛があるとしました。自分さえ良ければいいと相手を見下すような態度をとったり、人をバカにしたりすうるのは、いびつな自己愛によるものです。たとえば、「お前は浮気をしているだろう」などといいがかりをつけて妻を殴る夫は、「自分だけを愛して欲しい」「殴って自分だけスッキリしたい」という勝手ばかりで、妻には何も与えていません。そこにあるのは、いびつな自己愛だけです。(p.67)

子育てはどうなるだろううか。
お母さんの愛情は無償だとかいう言葉があるけれど。。。それは「自然」ではないでしょう。

母親は子供からちゃんと愛や喜びを受け取っているのです。子どもの笑顔や喜んでくれる姿があるからこそ、母親は大変な子育てをどうにかこうにか頑張っているのであって、決して一方的な関係ではありません。その少雨子に、やっぱり子供が扱いにくかったりきむずかしかったり、または自分になかなか懐いて狂えないと言った子があれば、いくら母親でも、ついついムッとしてしまう場面もあるわけですお母さんだって人間なのですから、当然のことです。(p.76)

お母さんが来ても反応しない、笑わない子がいます。

愛着理論の研究をするとよくよく観察されるケースです。
そういう子は、先天的に表情が読み取るのが苦手といった条件で生まれてきている可能性の他に、お母さんと関わっても何ももらえないし、逆に悪いものをもらうから、顔もみたくない、という状況を表しているときもあります。

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「まさかその一言でそうなるとは・・・」という事態があるでしょう。
「そんなはずでは・・・」ということも、よくあることかもしれません。

「役」や「立場」を超えて人間関係をつくることが異常に難しげな文化をもつ日本。

「自己愛」をみたそうとしていろいろなことを喋ったり、誘ったりすると、相手が予期せぬ反応をすることがある。
「ラインの番号、教えてくれない?」「いやだ」
「付き合ってくれない?」「いやだ」
「ご飯食べにいこうよー」「いやだ」
「ねぇねぇ・・・」「・・・」(そっけなさすぎですね笑)

こういう答えが返ってきて傷つくということは、話者同士にまだそこまで関係ができていない、という教訓としてうけとるといいかもしれません。(親子関係がこれだとひどいことになりそうです)

ここで相手を理解する、「共感」するということが大切になってきます。
「なんで嫌だっていうの!」と腹を立てていたら、、、、アレレです笑

「自分がかわいいのは誰でも同じだよね」と思えるのが理想です。これが、後で出てくるコフート心理学の最重要キーワード、「共感」のための、第一歩にもなるのです。(p.31)

「いやだ」という言葉のオトノネを感じれるかどうか。
感じられるなら、「そうだよね!じゃぁ別の人誘おう!」とか、「じゃぁ今日は一人でご飯食べるか!」ということにいなって心の健康が保たれる。

相手の状態を推し量って理解して認める。
相手のことだから本当かどうかはわからない。
だがとにかく他者の心はわからない。
わからないものをどうしようもない。
「どうしたの?」と聞いてみるのもいいが、そういう関係かどうか。

・・・・・

「健全な依存」に至るまでのプロセスは長い。
これを子ども時代に学んでおいたら、またそれなりの人生があるのだろう。

自分の感情を知り、相手の感情を知り、ただただそれを見つめてみること。
「しょうがない」ことは「しょうがない」と諦めるプロセスを踏むこと。
「それでも!」と思う気持ちがあるなら、、、、それで人がどう反応するか、やってみること。

自分の心のあり方を知った上で、それを認める。
もしそれで関係がうまく築けないのであれば、心のあり方を問うてみる。
そういうプロセスが、「成熟」のためには必要だということでしょう。

お子さんとこういう関わり合いをしてきましたか?

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「悲劇の人」という言葉をコフートはつくりました。

「悲劇の人」は、成長のプロセスをふまずに、少しずつ「自己愛」の充たし方を、人間関係の方法を学ばずに。一気に「自己愛」を満たそうとする人のことです。「○○があったら」とか「○○したら」、自分は変わる、幸せになる、満たされると勘違いしている人のことです。「白馬の王子様が来てくれたら、私は幸せになれる!」と思っていたり、「お金があれば私は幸せになれる!」と思っている人です。

「子どもが○○になったら」と考えているお父さんお母さんは「悲劇の人」です。

もしも、あなたの周りにそういう人がいたとしたら、できる範囲でグチを聞いてあげてもいし、どこかしらほめてあげてもいい。少しでも、あなたにできるう範囲の安心感を与えて認めてあげることが、彼らを少しずつ変えていくことになるのです。そうすれば、認めてもらった、ほめてもらったと感じた人の「足りない部分」が少し埋まります。埋まってくると、心にも余裕ができてきます。すると、性格も穏やかになってきます。となれば、ほかにもその人と話してみよう、話してみたいと思う人がでてきます。恋人ができる可能性も上がってきます。こうして他者が介入する方法で、人は変わっていけると、コフートは考えたのです。

コフートは、「運」がなかった人たち、すなわち「悲劇の人」たちの治療として、「かつて満たされなかった感情を、もう一度、治療者との間で満たしてあげる」ことで、彼らを救おうと考えました。さらにその治療は、医師でなくてもできるといいいました。いったいどんな治療なのでしょうか。(p.35)

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自己の充実のために満たしてあげるといい大切なものは、「認められること」「褒められること」だといいます。
いってしまえば、赤ちゃんがハイハイしたり、二本足で立ち上がったりしたときにみんなが「きゃー!すごいすごい!」とかいうあれでしょうか。

褒められると気持ちが変わる。
楽になる。
「自分も捨てたもんじゃないな」と思えるような体験をする、ということでしょう。

世の中にでまわっている「誉め殺し」では逆に「なんだよ、嘘くさい」と感じてしまう人もいるでしょう。
「自分も捨てたもんじゃないな」と思えるような体験をする、ということでしょう。

褒める、ということをこうとらえてもいいかもしれません。

「本当は自分ってよくがんばったな、とおもうけど、自分で自分を認めてやれない。そんな時に、誰かが、自分が出せない自分の代わりに、褒めてくれる」ことで、自分が自分を認められるようになるのだと。

「ねぇねぇ!みてみて!」といって、自分がつくったものをみてほしい。
自分が「やったったぞ!」という感情をきちんと感じたい。
どんな言葉で自分を認めたらいいのかわからない。

どう感じていいかわからない、けど興奮している。「この気持ちって、なんなんだろう!?」
そこで、子どもはお母さんに「みてみて!」とか「きいてきいて!」という。

ただ、一緒に感じてあげたらいい。
「よくつくったね。うれしいんだね。」
にっこり笑ってあげたら、子ども自分の笑顔をしっかり感じることができるだろう。

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世界を知るための言語も同じ。
「青」という言葉をどうやって学んだだろうか。
「青」という言葉の中で、誰かと「青」という言葉を共有して初めて「青」を感じられるようになる。

「よろこび」も。
「かなしみ」も。

言葉を与えることで、「青」を眺めることができる。
「よろこび」を感じることができる。

そこには、生まれたから始まり指差しで開花する言葉の習得と似ている。
「この感情は、何ていうの?どうしたらいいの?」
「泣いていいんだよ」「笑っていいんだよ」「それは悲しいってことなんだよ」「それは嬉しいってことなんだよ」

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こうして「自分を愛する(自分を大切にする)」ことが「他者を愛する(他者を大切にする)」ことを通じなければ為されないことだと、子供は理解するかもしれません。
また、「自分を愛する」ために必要な他者は、誰でもいいわけではない、ということも学ぶでしょう。

あきらめず、いろんな人に声をかけ通づけていれば、必ず、「お前のこと、よくわかるよ」と言ってくれる人物は現れます。「わかってくれる人」というのは、頼れる人の第一条件です。まずは、「わかってくれる人」を探しましょう。もちろん、自分が行動しなければ、そんな人が現れることもありませんから、そこは自分で頑張らねばなりません。ここは重要なポイントです。(略)たとえそれがインターネットのなかであったとしても、自分と似たような感覚をもつ人や頼りになる人に出会えたなら、私たちの心はずっと楽になります。その出会いは、あなたを変えるきっかけにもなるでしょう。頼れる人、あなたを「わかってくれる」人とのコミュニケーションを通じて、あなたのいい部分が引き出され、「どうせ私なんてダメだから」といったネガティブな部分がなりをひそめていくことが期待できます。(p.40)

人付き合いが狭い範囲に限られてしまうと、かなり窮屈を感じてしまうでしょう。
「立場」や「役」にがんじがらめの人間関係の中では、「わかってくれる人」と出会うのは難しいかもしれません。
みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩
そこで、歩き回る、探しにいくというのもいいし、ネットをつかってもいい。

とにかく、人に出会うこと。
人は、一人では変われない。
人は、一人では豊かに生きられない。

そういう前提が、コフートの心理学にはある。

例えばライブ会場。
同じアイドルが好きな人たちが集まる、というだけでも、人は居心地の良さを感じる。
アイドルに会いたいからいくのはもちろんだが、同じ人を、同じグループを好きな人がいる、ということも、ライブの本質ではないでしょうか。「カッコイイよね!わかるわかる!」という言葉を介さなくても、ライブ会場にいるというだけで、「共感」の空間にいられる。そういう魅力があって、若い子たちはアイドルのライブに夢中になっているような気もします笑

ポイントは、等身大の自分を認めてくれる人がいるかどうか、です。(p.43)

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人と出会う、認めてくれる人を探すということを難しい!と感じる人もいるでしょう。
狭い人間関係の中で、立場と役の縛りの中でしか人と付き合えなかったなら、なおさらです。
(本当は、学校や地域でそういう人と出会うのがいいのですが、そうならないのが現実です。学校も立場主義ですから)
みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩

「私には無理・・・」とそこで諦めるのか。
「ちょっと、やってみようかな」とおもえるのか。

コフートの出した答えを使うか使わないかは、その人次第です。
オトノネで一緒に初めてみませんか?

おそらくお子さんの方が早く変わるでしょう。
お子さんが変化するのをみて、お母さんが変わる、というのが、通常のプロセスです。

お子さんとオトノネの関係から、学んでみてほしいとおもいます。

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日本では名の知れた心理学者にアドラーがいる。アドラートの違いから、コフートの考え方を理解してみよう、と和田秀樹さんはいいます。

アドラーの考え方というのは、このように「目的論」ですから、「いつも目的をちゃんともち、また目的に対する解決方法をフレキシブルに変えていくことで、人間というのはいくらでも変わることができる」と考えた、と要約できるでしょう。

例えばここに、一人の不良少年がいたとします。治療者が彼の話を深く掘り下げて聞いていくと、過去に「親に愛されなかったと判明し、それが彼がグレた理由だと見えてくる。これが、フロイト流の考え方でしたね。対してアドラーは、勉強で認められず劣等感を抱えた少年には、「勉強で認められない代わりに悪いことをして認められよう」という「目的」があるのだ、としました。ですから、「こんな悪いことをしやがって」と周囲が騒ぎ立ててしまうと、それは不良少年の目的を満たすことになるため余計に悪いことをするようになる、と考えます。では、アドラーは、その不良少年をどうしたらいいとかんがえたのでしょうか?

みなさんは、『あしたのジョー』という漫画をご存知でしょうか。ドヤ街をうろついていた一人の不良少年が、ボクシングと出会い、最強のボクシングチャンピョンと試合をするまでに成長するお話です。アドラーは、この漫画の主人公である矢吹丈(ジョー)のように、「不良少年として目立つ」という目的ではなくて、「ボクシングチャンピョンになって目立つ」という目的をもったらいいじゃないか、と考えるわけです。つまり、悪いとされる目的を、別のいい目的にすり替えるのです。目的が変われば行動も変わるわけですから、必然、不良少年として悪行を重ねることもなくなります。

これがコフートなら、「その少年には愛情が足りていないから、周囲が愛情をもって接していこう」という考え方になります。

『あしたのジョー』でいえば、プロモーターとしてジョーをさまざまなかたちで支えるとともに、ひそかにジョーに好意を持ち続ける財閥令嬢、白木葉子といった役割でしょうか。もちろん、この白木葉子だけではなく、ボクシングの師匠である丹下段平をはじめ、多くの下町の人たちに支えられ、応援されたからこそ、ジョーは「下町の星」として、ボクサーの道を進んでいくことができたわけです。これが、コフート流の解釈です。

「原因」に働きかけるのがフロイトだとすれば、「結果」に働きかけるのがアドラーですから、「矢吹丈という不良少年にボクシングを教える」というのがアドラー流の解決法であり、ジョーがボクサーとして正しい道を歩み始めたなら、過去に親の愛情を受けずに施設に育ったことや不良少年であったことなど、もうどうでもいいことだ、ということになりますう。一方、コフートはそれでよしとはしません。あくまでもジョーの孤独な心を支え、愛情をかけ、いってみればジョーを内側から治療しよううとします。(p.59)

人は一人一人違っていて、心の健康度、心の強さ、心の習慣も違います。
コフートの考え方は、一番根源的であって、母性的であって、平和チックでしょう。「弱くてもいい」、それでも幸せになれると。
アドラーの考え方は、ある程度自己が確立していて、心のインフラができている人には向いているかもしれません。父性的
(こういう分け方もよろしからぬ時代になっていますが・・・)であり、「自分を高めていく」ことで得られるしあわせがあるのでしょう。

この両方が、成長のプロセスで一人の人間の中で回るなら、それがいいのかも知れません。
「目的」だけを追求することは、ある意味で、「孤独」になるかもわからない。(そこでアドラーは「共同体感覚」という言葉でこの危険性を回避するようにいいました。)
「目的」を追求するうことに夢中になって、サイコパスになるかもしれない。(そこでアドラーは「共同体感覚」という言葉でこの危険性を回避するようにいいました。)

「孤独だっていいじゃないか」という強さがある人は、アドラー流で考えてもいい。
だがその時に必要になる「共同体感覚」はどうやって手に入れるのか???この本では詳しく書かれていないが、それこそコフートの基礎があってのアドラーということはできないだろうか。子どものときの宿題をやったら、大人の宿題ができる。順序があべこべの人もいるが。。

「自分は自分だ」と思えるようになるためにも、コフートの考え方は、助けになるのではないかとおもいます。

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人によっては、「目的を持つ」ことに高いハードルを感じる人がいるでしょう。
がんじがらめになって自分の命のエネルギーを感じられない人がいます。
「立場」や「役」の世界にどっぷり浸かって、自分を感じられない人がいます。

そういう人たちには、フロイトのやったように「原因」をまずは事実として受け入れてから、コフートのいうように、まずは少しずつ「自己」を満たしてゆき、最後になにか「目的」と出会えたなら、アドラー流でいく、というプロセスを辿るとよいのかもしれません。

お母さんたちにもいろいろな人がいます。
心の段階もひとそれぞれです。

お子さんも、ひとりひとり違います。

ビリギャルのさやかさんは「目的」と同時に、坪田先生という「わかってくれる人」と出会いました。
なによりも、「わかってくれる」お母さんがいました。
ただ「いい先生」と出会えなかっただけで、不良?になっていたのでした。
学校で劣等生のレッテルを貼られていたわけですから・・・

大抵のお子さんは、コフート流の関わり合いを必要としていると私は感じています。

お子さんには「今」何が大切なのか、オトノネにきて、感じてみませんか。

アドラーとコフートでは、同じ「共感」という手段にしても、その目的は似て非なるところがありました。先ほども述べたように、アドラーは「相手の目的を知る」ために共感し、目的を達成されるう解決方法を提示してあげる、いわyる「勇気付け」を行い、コフートは「相手の心理ニーズを理解する」ために共感し、相手が不安ならそばにいてあげるし、ほめてほしいのであればほめてあげるわけです。いうなれば、アドラーは人間の本質的な「強さ」を信じた人。そして、コフートは人間の「弱さ」を肯定し、包みこもうとした人、です。(p.70)

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コフートのいう「自己の充実」のための心理的ニーズは3つしかないそうです。

鏡自己対象ニーズ
 自分が褒めて欲しい、認めてほしいポイントを押さえてくれていて、心理ニーズを満たしてくれる対象

理想化自己対象
 「この人は頼りになる」「この人がいればなんとかなる」「この人がいるから大丈夫だ」と思える対象
 
双子自己対象
 自分によく似た存在がいるうということで安心感、ちょっとした一体感を感じる対象

面白いことに、相互に凸凹でも、同時に自他が心理的ニーズを満たすことができる、ということです。

相互依存関係について、私はよく、こんな例え話をします。クラスにすごい秀才と、その秀才にいつもノートを借りてばかりの劣等生がいます。周囲の学生たちは、その劣等生のことを、「あいつはあの秀才のおかげで進級腕きてるよな」とか、「人に頼ってばかりで、ダメなやつだよね」なんて噂していました。そんななか、等のレッウ統制がみんなの前で、秀才に向かってこんなことを言います。

「真面目にとったノートを教えもなく貸してくれるなんて、お前みたいな性格のいいやつ、見たことないよ!」と。

秀才の誉れ高いその学生にとって、「成績がいいよね」「秀才だよね」なんていわれることに、たいした感動はありません。自分でもわかっていることだからです。しかし、この劣等生はみんなの前で、自分の「性格」をほめてくれた!いわゆる「ガリ勉」の彼は、どこか周囲の学生から嫌煙されることも多く、この劣等生の言葉は最大級に嬉しいものでした。隠して劣等生の一言によって、秀才である彼の「自己愛」は満たされ、二人の間には立派な「相互依存」の関係が気づかれたのです。(p.87)


関係において、どちらか一方が、というわけではない。
お互いにその場にいたり、何らかの行為や言葉を交換する、時間を共にする、その価値を交換できる。
能力の差があっても、give and take、自己の満たし合いはできる。

そのために必要なのは、正直に思ったことを話すこともそうだけど、、
やはり共感能力ではないだろうか。
「この人、どんな気持ちなのかな、僕にノートを見せてくれるその関係を、どうやって続けていけるかな。。。気持ちよく、この関係を続けたい。。。」

「共感」とは、相手の立場に立って物事を考えたり、想像してみることです。なぜ共感することが大切か?それは、共感することで、初めて見えてくるものがあるからです。あなたの周りの人を参考に、相手の立場にたって、「この人は、何をいわれたら嬉しいのだろか?」と、改めて考えて見ましょう。(略)相手が「本当は私は、自分のこういうところに中うう目してほしいんだけどな」と思っている、そのニーズをおさえることが重要なのです。相手が「認められたいとおもっているポイント」を見つけて、認めてあげるのです。(p.84)


共感するとは、自分があげたいものではなく、相手がほしいものを感じること、
自分の感情ではなく、相手の感情を汲み取ることです。

言葉だけではなく、行動でも、共感できます。
「ご飯でも食べに行こうか」「ドライブしようか」「飲みに行くか」

ナースコールを押しまくる患者さんがいたとする。コフートならどうするか?

おばあさんにナースコールを押させているのは、「不安」です。不安は、消えるまで人につきまといます。身体の不自由なお年寄りや病気をしたお年寄りが慣れない環境におかれれば、その不安は察するにあまりあるでしょう。不安が消えない限り、おばあさんはナースコールを鳴らし続けることになります。したがってこの場合は、「無視せず徹底的に対応すること」がコフート流の対応方法であり、それは実際、医療現場の正解です。(p.125)

相手の心を理解する、共感する、オトノネに耳を傾けるということ。

子どもであれば、例えば「勉強できない」というおもいから、なかなか宿題をしてこなかったり、スムーズに進まないことがあるでしょう。それでも時間をかけて、少しずつ、自信をつけて行く。「大丈夫だ」と思えるまで、付き合う。

そういう時間が、大切だということでしょう。

ーーーーーーー

この共感の能力を最大限に利用して人を恐怖に陥れるサイコパスという存在もいる笑

相手に気持ちのいいことをしてもらっているなら、当然こっちも、気持ちの良さを返す。
利己的かもしれないが、自己愛をみたすということは、お互いのニーズを満たし合うということなのだろう。

この考えが凝り固まると、「立場」や「役」というものが現れてくるかもしれません。
「あなたは私にこうすることになっている!」「わたしはこうしてるのに、あなたはしてくれない!」

そんな時は?
それこそ人間関係、崩れたり、ひっついたり、いろんなことがあっていいと思います。
離れて見て、お互いに気がつくこともあるでしょう。

別の対象を見つけてもいいでしょう。
大切な人であれば、相手のニーズに耳を傾けてもいいでしょう。
成長を願うからこそ、離れることもあるでしょう。
と、私はおもうのです。

が、

だが!

だがしかし!

コフートはその点、一貫しています笑

仮に他人に甘えすぎたり、自分のことばかり考えたりするような人がいたら、その人は周囲から好かれるでしょうか?難しいですね。だから注意が必要です。自分の満たされない気持ちを自分勝手なやり方で相手に埋めてもらおうとすれば、それこそストーカーとか、そういうことになってしまいます。

コフートは、人に好かれないとか、自己愛が満たされていないとか、そういったうまく「相互依存」ができていない状態のときに、人は不安定になるのだと言います。「俺は誰にも認めてもらえていない」「誰も私のことなんて好きじゃない」、誰でもそんな気分位なってしまうことはありますが、そう思っている時、私たちは自分で自分を大切に思うこともできず、不安定な状態になってしまいます。いわずもがな、四六時中そんな思いに囚われている人は、四六時中不安定ということになります。

対して、「愛情を十分に受けている人は、心が安定していて、必要以上に甘えよう、愛情を得ようという考えにはいたらない」とするのが、コフートの人間観です。(p.102)

つまり、「甘え方」「相互依存の上手な仕方」がわからないのだから、存分に甘えてみないと治らない。心が安定するまで、甘えることだと、言っているようですが????いいの???

甘えてくる人を甘やかすなんて、まさに「猫に鰹節」じゃないかともいえます。でもコフートは、「甘えてくるということは、すなわち自己愛が満たされていない状態なので、もう少し愛情を与えることで均衡のとれた状態に戻すことができる」、と考えるのです。(p.104)

この時、「甘えさせてるよ!」と親が思っていても、子どもが「甘えられていない」、子どもの心が「安定」していないのなら、「甘えが足りない」と、コフートは判断する。

一貫している笑

「親である私は愛情をかけているうつもりだ」では足りず、「子ども自身が愛情をかけられているとわかるように」接することが必要です。これがうまくいかないと、例に挙げた二人のよううに、「勉強ができなければ愛されない」とか、「顔がキレイだから愛されるんだ」という人げられない気持ちを生んでしまい、それが歪んだ価値観にまで繋がってしまいうるわけです。(p.107)

こうして、「健全な自信」をもった子どもは、競争で一番になれなくても、お金がなくても、うまく自己主張ができなくても、満足感を持った人間でいられる、のだそうです。

だが!!!だがしかし!

大切な人なら「甘やかせつくす」のもありかもしれないが、全くの他人の「悲劇の人」出会った場合は???

とりあえずいやな人と絵あった時に「ああ、この人はかわいそうな人なんだ」と思えばいい、ということです。(p.132)

もし大切に思う人であれば、話を聞いたり、共感したり、ほめてみることで心理的ニーズ、自己愛を満たすのでしたね。
素の自分を認めてもらえずに着飾っている人には、素の部分を認めるような関わりを。

何かが変化したら、、たぶん、その人はそれに気づいてほしいのかもしれない。
こうして、関わり合いは、続く・・・

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心理的ニーズは3つあった。
そのうち「双子自己対象」ニーズはまだ登場していない笑

こんなところにでてきています。

コフートの場合は、叱るのではなく、「こういうミスってやりがちだよな。俺も若い頃はよくやらかしたもんだよ」とか、「次からはこういうふうににゃってみような」というように、相手の「双子」感を引き出しつつ正して行く、というやり方をします。(p.143)

お互いに、自己愛を満たし合いながら生きている人間同士、なかよくやる作法がある。
コフートは、3つの心理的ニーズという言葉で、その作法を教えてくれている。

オトノネひろげるシェアぼたん

『子どもを生きればおとなになれる』クラウディア ブラック

『子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方』クラウディア ブラック , 水澤 都加佐
子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方

内なるこども=インナーチャイルドの本来の姿は「周囲の世界と絆で結ばれた子」
直感、自発性、生命力の塊。

私たちアダルトチルドレンは、心の中に慢性的な喪失を抱えています。けれど、自分が何を失ったのか、はっきり気づいていません。そこにあるのは漠然としたむなしさ、何かが足りないという感じ、今の自分ではだめなのではないかという不安です。こおの漠然とした喪失感を何か別のものや人で埋めようとしたり、必死で大丈夫なふりをしてみても、むなしさは消えません。私たちに必要なのは、自分が何を失ったのか、その正体を明るい日の光の下で確認してみることです。そしてそれをきちんと言葉にすることです。(p.15)

悲しみや不安、喪失体験をすることをサポートする親。
愛、親のサポートを喪失した子ども。

サポートしない、だからこそ強く育つこともある。
手をかけずに、自然に育った。いやいや、ご飯を食べて寝るところがあった。
それだけでも、強い子はたくましく成長する。

そうでない子もいる。

ーーーーー

子供というのは「権利の目録」を手にしてこの世に生まれてきます。それは次のような権利です。
・誰かの期待通りの存在だからではなく、ただありのままの自分として大切にされる。
・親の喪失を埋め合わせるための存在ではなく、その子自身として慈しんで育てられる。
・一貫性と、安全と、暖かさと、理解を与えられ、無条件に愛される。
・ひどく傷つくような状況から守られる。
こうした基本的な権利を奪われているということは、つまり見捨てられているということです。私たちはときに否認の力を発揮して見捨てられた体験などなかったことにします。「私はちゃんと面倒をみてもらっていたわ。ママもパパもあまりうちにいなかったかもしれないけれど、お姉さんがいたもの」。(略)家族の中で見捨てられによる喪失を体験することは、トラウマを引き起こします。それによって、自分自身やこの世界が「いいものだ」と感じる力が著しく損なわれてしまうのです。(p.24)

この具体例として次のようなものがある。

親が自分の感情や考えや行動に責任を持たず、子どもにその責任を負わせようとすること。
親が自分のニーズを満たすために子供を利用すること。

例えば

子どもを自分がうぬぼれるために使う。
子供が親と違った考え方や行動をすると拒絶する。
自分が果たせなかった夢をかなえてほおしいと望む。

要するに子どももの権利、子どもの自治権、子どもの独立性。独自性を認めないこと。

あなたは親である私のニーズを満たすためにここにいる、というのは勘違いですね。
あなたより親の私の気持ちが優先だ、というのは、勘違いですね。

なんの勘違いかって、自分と他人の勘違いです。
子どもの問題を、自分の問題だとおもうことも、勘違いです。
親の問題を、子どもの問題だとおもうことも、よくありますが、勘違いです。

子どもを恥ずかしいと親が感じるのは勝手ですが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
子どもを心配する親の気持ちはわかりますが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
親が他人の目を気にしているのを、子どもに押し付けて、子どもに「命令・干渉・説得」をするのは人間としての分を超えています。

こうなって育ってしまったら、どうなるでしょうか。

自分の感情がわからなくなる、相手の基準に合わせたり、愛してもらうことに一生懸命になって、自分がいなくなってしまうかもしれません。人間関係への依存、愛の渇望、それから宗教や心身症、薬物、アルコール、ギャンブルへの道が続いています。また弱いものへの暴力、受け入れられない怒りを他者にぶつければ家庭内暴力、児童虐待、モラハラ・パワハラになります。恐れの感情が強ければ、創造的になれずに既得権を守ろうとして小さく生きていくことになります。(そういう人が政治家として日本を動かしているのですから、この国は病気です)それが例えば、夫婦、家族という既得権を離したくない、僅かでもその関係性にすがらなくては生きていけない状態になれば、家庭内の暴力を愛情表現、もしくは自分に落ち度があると考えることになります。そのような仕組みが、できてしまうのです。

ーーーーーーーーーー

さぁ、統計を調べる時間だ(ああ、また魔王とこんにちわだ)

児童虐待(2018)15万9850件
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00517/
アルコール依存症者の疑い(2019)292万人
職場でのモラハラや精神的なストレス(生きづらさ)を強く感じている人の数だろう。

調査・日本の飲酒実態


家庭内暴力(2018)7万7482件
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43011460Y9A320C1CR0000/

不登校・長期欠席者(2019)327901人
自殺 332人
3) 小・中学校における,長期欠席者数は,240,039人(前年度217,040人)である。 このうち,不登校児童生徒数は164,528人(前年度144,031人)であり,不登校児童生徒の割合は 1.7%(前年度1.5%)である。 4) 高等学校における,長期欠席者数は,80,752人(前年度80,313人)である。 このうち,不登校生徒数は52,723人(前年度49,643人)であり,不登校生徒の割合は1.6%(前年度1.5%)である。 5) 高等学校における,中途退学者数は48,594人(前年度46,802人)であり,中途退学者の割合は1.4%(前年度1.3%)である。 6) 小・中・高等学校から報告のあった自殺した児童生徒数は332人(前年度250人)である
https://www.mext.go.jp/content/1410392.pdf

自殺(全員)20598人
https://www.mhlw.go.jp/content/201812-sokuhou.pdf

家庭内暴力(2019)9,042件
https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/jokyo_tokei/kakushu/dv.html

犯罪認知件数(2018)
警察庁の統計によれば,平成29年における刑法犯の認知件数は,91万5,042件,検挙件数は,32万7,081件となりました。
http://www.kensatsu.go.jp/hanzai_gaiyou/keihou.htm

離婚件数
2018年の婚姻件数は59万件で、離婚件数は20万7000件です

日本人の離婚率はどれくらい?離婚統計から見る離婚率の推移とは?

精神疾患 419.3万人
精神疾患により医療機関にかかっている患者数は、近年大幅に増加しており、平成26年は392万人、平成29年では400万人を超えています。(認知症が70.4万人含まれている)
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/data.html

概数でもとめましょう。

児童虐待16万
アルコール依存症者の疑い300万人
不登校・長期欠席者33万人
自殺 2万600人(内、児童350人)
家庭内暴力9000件
犯罪認知件数91万5000件
離婚20万7000件
精神疾患349万人
足し算してみましょう。
813万600件(人)

日本の人口は
  【令和元年12月1日現在(概算値)】
    <総人口> 1億2615万人で,前年同月に比べ減少 ▲28万人 (▲0.22%)
https://www.stat.go.jp/data/jinsui/new.html

問題飲酒で児童虐待で不登校で家庭内暴力で犯罪者である人もいるだろうけれど、概算して6.4%となった。え?意外と少ない?
認知されていない虐待とか、いじめとかをふくめたらもっとおおくはなるだろうけれど。
会社のモラハラやアカハラなど、あげたらきりがないだろう。

10人に1人くらいかとおもってるんだけどなぁ。。

二次的な被害の件数(例えば家族や友達、いじめられる人やいじめ集団)を数えれば、数値にはでてこないものすごい人数になるだろう。

これ、30人のクラスにしたら・・・面白いかもね。1学年の方がいいかな。
子どもが何人で、何人が孤独死して、何人が犯罪者になって、、何人がアル中になって、、、、何人が児童虐待をして。。。。何人が、自殺して。。何人が離婚して。。。。

うわぁ、魔王だろ笑
そういうリアルな数字だからこそ感じられることもある。

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激怒は、表現することを決して許されなかった怒りが積み重なった結果として出てくる場合もあります、押さえ込んだ怒りは、心の中に根付きます。それは時とともに膨らんで、しつこく居座った恨みとして化膿するかもしれないし、もっとよくあるのは、慢性的なうつにおちいる場合です。こうして怒りのはけ口がない状態が続くと、あるときいきなり敵意に満ちた行動として爆発し、暴力行為や殺人に至ることさえあります。こうした行為は、痛みに耐えられず、葛藤を解決できず、他の選択肢に気づくことができずに、感情が蓄積された結果なのです。(p.53)

気が付いてほしいのは、こうした社会現象は、すべて心の問題であるということ。

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「うちの子はいい子でなければ」「うちの子は一生懸命勉強しなければ」という観念に続くのは「…だから私は必ずそうなるようにしなければ」です。けれど、結果が出るのは愛しまれ励まされることによってで、コントロールによってではないのです。

生活を秩序立てようとする努力が無駄というわけではありません。少なくともある程度のお時間における、ある程度の秩序は欠かせません。けれど私たちはしばしば、生活の全ての面や周囲の人みんなの人生をコントロールしなければという思いに駆られてきたのです。

なにはコントロールできて、なにはできないかについて、アーネスト・カーツはこんな風に言っています。

ベッドに入るかどうかはコントロールできる。
 眠りはコントロールできない。
本を読むことはコントロールできる。
 理解するかはコントロールできない。
遊びを始めることはコントロールできる。
 ゲームに勝つかどうかはコントロールできない。
知識を蓄えることはコントロールできる。
 知恵を得るかどうかはコントロールできない。

コントロールできることとできないことの違いを学ぶのは、自分の限界を受け入れる第一歩です。(略)コントロールを手放すのは、自分はすべての答えを知っているべきだという幻想を放棄し、あらゆることを管理しなければならないという思いを放棄することです。過去は変えられないという事実を認め、未来をコントロールする力を持たないことを認めましょう。私たちに残されているのは、今ここにある現実の暮らし。「今、ここ」に生きることなのです。(p.136)

オトノネひろげるシェアぼたん

『反応しない練習』ブッダの教え。草薙龍瞬

『反応しない練習』草薙龍瞬
反応しない練習

メモ書きを始めると、長くなった。
心のしくみが、苦しさの原因が、体系的に書かれていたんだろうか。。。。。

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人は苦しむものなのだ。
なぜか。欲があるからだ。
これを渇愛(かつあい)という。
人は渇いているのだ。

私は今、心が、何かを求めている。
渇いている。

といういことをまずは認めようぜ!
というお話。

正確には、本には「正しく理解すること」と書いてある。
「過去の思いを、今日1日に感じる思いを、毎日見えてくるがままに、よくみること。そして、将来を信頼すること。それだけで十分です」と。

苦しみの正体(しくみ)を知ること。
苦しみは避けられることを知ること。
そうすれば、苦しみに溺れる必要はないと。

まぁ、言葉にしたら、簡単だけどさ。。。。

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「心の状態をみること」
今自分がどんな状態にあるのか、感情を持っているのか、言葉にする。

緊張している。
息苦しい。
泣きそうだ。

そうすると、体が反応したとしても、楽になる。
客観視できる。

楽な気持ちでいる。
落ち着いている。
楽しい気分だ。

ということも、感じて言葉にするといいのだろう。

言葉にする以前に、そのものをよく感じることも大切だ。
現代の言葉ではマインドフルネスという。
感じていることを、ちゃんと感じる、感覚に集中する。
そうすると心が落ち着いて、反応しなくなると。
苦しみにとらわれなくなると。

心の状態は3つに分離されるらしい。
・貪欲(過剰な欲求
・怒り(不満など
・妄想(ぼんやりなにかを思い浮かべている状態

心の外に意識を向ける。
体に意識を向けると心が落ち着く。
ふーん。

で、感じているものを的確に「3つのうちどれか」を当てていくと、モヤモヤは晴れるらしい。
これが「心を浄化する修行」と書かれています。
ふーん。

ーーーーー

心の状態の中でも、妄想が一番、身近だろう。

妄想、の中に、「判断する」ことが含まれているようだ。
この「判断する」ことが、苦しみの元、らしい。
妄想、の中には、期待や要求、願いも含まれる。

判断しようとする心は、どこかに「執着」している状態にあるという。
執着を手放せば、心は楽になると。

手放す、ということは他の本にも書かれていること。
『対象喪失の乗りこえ方』

「こうしなければいけない」「こうあるべきだ」ということも、妄想だと書いてある。
頭の中にしかないこと、実際には、ない、もの。

そうした判断(妄想)のなかでも、有益なもの、真実のものもある。
その判断が、現実に今役立っているのか。

子どもが熱を出したら、もちろん、手当てをしなくちゃいけない。
そういうことは、役立つ判断だ。

不安も、妄想だろう。
将来、、、、、将来、こうならないように。。。

将来??

「真実であるか」それから「有益であるか」を判断するといいと。
宿題をすることが、「有益」なのか。

「真実か」
「有益か」をはっきりさせるのは、いいことかもしれない。

宿題をしなかったらこうなる。
宿題をしたらこうなる。

どちらに「益」はあるのだろうか、ということを妄想(判断)することは、「益」があると僕はおもう。
宿題をしても、心は乱されるだけなのだから。その状態で得られるものは、他人の承認でしかない。自分は強くなれない。
他人(先生や学校や将来出会う誰か)に承認してもらうことに傾きすぎているような気がする。
みんな孤独を恐れている。
差別を恐れている。

「恐れ」によって育てられたコドモがどんな心のしくみをつくるんだろう。

ーーーーー

著者に言わせると、認められたい、成績を上げれば認められるから成績を上げる、とう思考は完全な妄想で、ヴァーチャルだという。それこそ、ゲームの世界。

「なんで勉強しなければいけないの?」と考える子どもは、学校の勉強がただの観念、記号、妄想に過ぎないということが直感的にわかっているのでしょう。別に楽しいわけでもなく、知的欲求を満たせるわけでもない。「快」でもないのに続けるなんて、心には管理不自然です。ただ、子どもにも承認欲はあるので、その欲一つで反応して、「成績の良し悪しで自分の価値は決まる」という価値観のなかで頑張ろうとしています。周囲は、そういう価値観で判断してくる大人たちばかりなので、成績による優劣・勝ち負けというバーチャルな判断が、実際に存在するかのように錯覚してしまうのです。もしブッダのような“悟れる”子どもなら、「犀のつののごとく、ただ独り歩む」のっかもしれません。が、「大人に認めて欲しい」という気持ちでいっぱいの子どもたちには、「よし自分も頑張ろう」と「イノシシのごとく張り切って」しまいます。こうして学力をめぐる「競争」に、いつしか巻き込まれてしまうのです。(p.160)

学校というヴァーチャルな存在が、学校という場所によってリアリティーを帯びている。

ーーーーーーーー

自分が正しいとおもったことでも、相手にとっては正しくないことがある。
そういったものは真実ではない。らしい。

ーーーー

同じようにして、怒りが「有益か」と考えたら。。
有益な時もあるだろうな。。・。

とおもう。
怒り自体は否定するものではなく、感じるもの。
「ああ、起こっているな、今」と言葉にしたり、ちゃんと感じるだけでもいい。

ーーーー

自分はこういう人間だ、と考えることも、判断であり妄想であるらしい。
「自信がある」自分を思い描くのも、不安な現実を埋めあわせるための妄想だという。
「自信がない」というのも、妄想。「真実」でも「有益」でもない。

自分を判断せずに「今できることをやっていこう」と考えよう、と書いてある。

あ、これは引用しよう。

どんな世界でも、成果を出せる見通しがつくには、「10年かかる」と言われます。仕事なら、20代のうちにスキルや人脈を身につけて、30代に入ってから責任のあるぽsとを任されるうようになりまs。スポーツや芸術の世界で活躍している人たちも、経歴を見れば、幼い頃から激しい練習を積んで、10年あたりをすぎてよやく頭角を表し的明日。どの世界にも、“時間の蓄積”が必要なのです。本当は、今この瞬間に、なんの判断も必要ないのです。ただ「やってみる」だけ。そうやって、「体験を積む」だけでよいのです。(p.92)

ブッダは、ふつうの人なら腹をたてるようなことを言われても、「無反応」で返しました。というのも、「苦しみのない心」を人生の目的とする以上、「反応して心を乱されることは無意味である」と、はっきり知っていたからです。どのようなときも決して反応せず、ただ相手を見据えて、理解するのみーその立場に徹していたのです。このブッダの合理的態度から学べることは、「反応しないことが最高の勝利である」という理解です。仏教における勝利とは、相手に勝つことではありません。「相手に反応して心を失わない」ことを意味するのです。(p.100)

学校に行かない子は「小さなガンジー」で、学校でうまく生きている子は「小さなブッダ」といえそうだ笑

ーーーーー

けど、思うに、こうして「反応しない」ことで、世の中に暴力が蔓延してしまった、というのは事実だとおもう。
これも妄想だ!といわれてしまいそうだが。

仏教が、宗教が個人の、共同体の狭い中での生活を超えて影響力をもたないのは、こういう原理があるからか。
政治の仕組みが排他的なだけだろうか。

「世の中を変える」というのは、なるほど、確かに妄想に聞こえる。
そう考えると・・・・ブッダの考えは、、、、うーーん。

ーーーー

友達に言われた言葉で傷つく、怖くなる子がいる。
どうやってそういう心のしくみができるのだろう?

激しく、反応してしまう。
感じることは否定しない。
その次、感情のコントロールは、学べるものだと僕はおもっている。

ーーーーー

いじめる子にはどうやって反応したらいいのか?
いやいや、反応しないことになっている。

だったらこうしてみるか。

怒りを感じた。悲しみを感じた。
それを、きちんと感じてみよう。
文字に書いてもいい。

もちろん、話をしてもいい。

これが感情と付き合うということになる。
「ああ、あの時の怒りが、まだ残っているのだな・・・」
「ああ、こんなことが不安なんだな・・・」と自覚するだけでも、楽になる。
きちんと自覚すれば笑

心に残っているクセをとるのは、なかなか難しいのだけれど。
(物書きが文体を変えることが難しいように)

————–

反応しない、といったら、誤解があるようだ。

相手の感情をどう受け取ったか、相手の嫌な振る舞いをどう感じたかを相手に理解してもらうのは、よいという。
「やめてよ」というのもOK.「私はこう考えている」というのもOK。

ただ、相手がそれでやめるかどうかは、期待しない。
それで相手が自分の考えに賛同するかはわからない。期待しない。
とにかく自分の感じたことを口にして、今の自分を相手に理解してもらうのは、よいという。

言葉にして、理解されたら、感情はリセットされるという。
たとえ不一致だとしても。「そうか、あなたはそう理解したのか。」という理解が、受容が、お互いにできれば。というお話。

苦しめ合うために、関わっているのではない。
理解し合うために、お互いの幸せのために、関わっているのだ。 (p.120)

ーーーーーー

欲求の満足が幸せに繋がるのは、本人が「快」を感じられる場合だけでs。逆に、もし欲が膨らみすぎて、「焦り」とか「不安」とか、「結果が出ない」「頑張っても認めてもらえない」という不満になってしまうのなら、その欲求はいったん手放さないといけません。「苦(不快)を感じたら仕切り直しなさい」というのも、ブッダの思考法です。(略)欲求を生きるエネルギーに変えて「快」を感じる生き方は、合理的です。(p.124)

心の反応は、「心がけ」次第で、強くもなり、弱くもなります。もしあなたが毎日の「快」を大切にして、楽しい時は「楽しい!」、心地よいときは「心地よい!」と、素直に感じ取るように努めていると、「快」は、もっとはっきりと、鮮明に感じ取れるようになります。

心地よさを、どうやってかんじたらいいか。
心地よさを感じる心のしくみがあるような気がする。
そうした経験をコドモ時代にできたら幸せだ。

「心地よさ」を感じられるような時間を、大切にしたい。
そのために瞑想だとか、禅だとか、マインドフルネスでドロドロした感情を手放すことを、この本はオススメしているのだろう。

============

世の中は、煩悩、妄想を掻き立てるように作られている。
その方が、お金持ちにお金がたくさん入ってくるからだろう。
テレビを見れば、、、料理番組、家番組、、CMでは車、化粧品、新製品、、、

お金の話になって、生徒に聞いたことがある。
「お金を何に使いたいの?」
「おいしいものたべたい!」

なるほど。・・・

人間らしい笑

こうした欲が動き始めて「じゃぁ働くか!」でお金のために働いて得られる「不快」と「快」のバランスが壊れたのが日本なのかもしれない。

テレビを見ない、とか、会社をやめる、とか、「不快」の原因となるものを断つのも手だ。
人間関係を断つ、というのも、一つの手だ。
距離を置く、手元から、離していく。
「苦しみ」の渦の力(学校や会社)から離れていくのは、一つの手だ。
平均とか、偏差値とか、普通とか、比べたがる世界から一歩身を引くのは、一つの手だ。

ブッダは、こんなことまでいったらしい。いっちゃうんだ笑

関わりから愛情が生じる。愛情から苦悩が生じる。愛情からわざわいが怒ることを理解して、犀(さい)の角のようにただ独り歩め。(p.143)

心を守るために。

そうしてもっと別の「快」をみつけたら、笑えるかも!
(「快」を求めすぎてうまくいかなかったら、そこで修正していったらいい。)

心を守るために。

マイナスを減らすと同時に、プラスを増やしていこう(僕が苦手な分野だ)。
お気に入りの服を着る。
お気に入りの音楽をかける。
お気に入りの道を歩く。
お気に入りの人と喋る。
お気に入りの料理を食べる。

自分を変えていく、そういう意味で髪型やファッション、お化粧、アイテムを使いこなす女性を男性は見習ったらいいのか笑

===========

承認欲は誰もが何かしらの形でもっているものだとおもう。
それがプラスに働くなら、ひとりひとりが「成長」するなら、承認欲もいいものだろう。
けれども自分の承認欲のために他人の不幸を増やしている人がいる。

ここのところ、ブッダはどう考えたのかな?

==

他人の物事のために、自分のなすべきことを捨て去ってはならない。自分の物事を熟知して、自分のなすべきことに専念せよ。(p.154)

ブッダも宿題はオススメしていないようだ。

ーーーー

ここでまた元に戻る。

人はけして満たされることなく、何かを貪り、何かを勝ち得ようと望んでいる。それは、求める心(タンパー)に突き動かされて、心渇いている姿である。(p.158)

求める心には終わりがない。
心は、求めるものなのだ。
心は、渇くものなのだ。

この世界は、戦いと、言い争いと、心配事と、悲しみと、物惜みと、「わたしがいるぞ」という慢心と、傲慢と、誹謗中傷に取り憑かれている。やがて必ず喪失にたどり着くさまをみて、私は虚しくなった。(p.163)

時代や場所が変わっても、世界はみなおなじ、なのかとおもう。

喪失という言葉がでてきた。
子どもの自立と喪失経験『悲しみに言葉を』
『対象喪失の乗りこえ方』

競争社会、暴力の社会では多くのものを喪失する不安感に満ちている。
でもそれが現実。ヴァーチャルではない。現実をみよ。
で、心の仕組みも学んだら、現実でどういきるか、その答えはひとりひとり違う。

ブッダは3つの手順を話してくれているようにおもう。
まず心のしくみをしりなさい。
次に現実の世界を観察しなさい。
そうして、あなたの答えを導きなさい。

競争という価値観に埋もれる人もいるだろう。
勝ち組(自民公明党)になんとか入って差別(競争)を助長することで身の安全を守ろうとする人もいるだろう。(勝ち組=差別者だ)
したたかに、喜びに溢れる生き方を選ぶ人もいる。

今の日本はひどいというが、いつの時代も人間はみじめなものだと、ストリンドベリーという戯曲家はいっている。

私たちが目覚めるべきは、競争雨という現実、社会の現実に対して、日頃「どんな心で向き合っているか」という、最も根源的な部分です。外の世界は二の次。競争という現実も、後の話です。(p.168)

心が大事。

「なにくそ!政治が悪いからこうなんだ!」というのも、現実だが、それにどんな心で向かい合うのか。
政治のせいにして、自分の心を不快・不満で満たして、人生終わりでいいのか。

「なにくそ!学歴社会!(いやそれもう終わってるけど)」というのはヴァーチャルで、そんなこともうないけど、それに気がつかずに子供の心を「苦しみ」で埋め尽くしてはいないか。

ーーーーーーーー

ここで、ブッダが教える、人生の大きな心構えー世界に対する向き合い方ーを知っておきましょう。それは、慈・悲・喜・捨と呼ばれる、4つの心がけです。(p.172)_

慈しみの心・・・相手の幸せを願う心。自分の都合や欲求を通すことではなく、純粋に「相手が幸せであるように」と願う心のこと。
悲の心・・・相手の苦しみ・悲しみをそのまま理解する心。相手の「悲」に共感すること。
喜の心・・・相手の喜び・楽しさをそのままりかいする心。相手の「喜」に共感すること。
捨の心・・・手放す心、捨て置く心、反応しない心。「中立心」ともいいます。たとえば、欲や怒りという反応に気づいて、ストップをかける心がけのこと。

かつて僕は愛について書いたが、この知恵と振る舞いと言葉遣いというのが、この慈悲喜捨にあたるといっていいかも。
愛とは何か。

これを僕は子供の時に学べたら、かなり幸せな人生を送れるだろうなぁ、とおもっている。
競争、偏差値教育で育てられたら、、、暴力を複製していくだけなんんだろうなぁ。。。

ーーーーー

五つの妨げに気をつけよう。ということが書いてある。

快楽に流される心
怒り
やる気の出ない心
ソワソワと落ち着かない心
疑い

こうした心が、よりよい人生を妨げると。
妨げられないようにするためには、「現実をみる(妄想だと理解する)」「反応せず、心の今の状態を受け止める」とう既述の方法をとったらいいのでしょう。快のエネルギーを使うのもいいでしょう。


強い自分もいれば、弱い自分もいる。
「快」のエネルギーを使う自分がいるとおもえば、それを弱めてしまう自分もいる。
ということを認めて、その全部を「ああ、これも、あれも、僕の一部か。全部か。。」などと平然としていられたら、それこそ「平和」なのかなと。おもいます。

苛立つときもある。
嬉しい時もある。
動的に、平衡をたもっていく心。

人の心は明鏡止水とはいいがたい。
人間は、清濁併せ持つ心をもっている。

ーーーーーー

承認欲はある。ただ、相手に求めるのではなく、自分に求めていく、成長していくのでなければ、苦しみを生む。

他人は、別の宇宙に住んでいる、と僕はおもう。
別の宇宙の他人と関係を結べることが、幸せなんだとおもう。

今、という時間をどう使うか。

自分が認められるために、できること、なすべきことをやろうというのは、すでにお伝えした「正しい努力」です。外の世界を見ないで、自分の内側にある「同期」や「今、自分がもっているもの(できること)」を見ることから始めます。

自分が持っているものー性格、資質、スキル、才能、経験などーは、他人と全く違っていることは一目瞭然です。もともと立っている場所が違うのですから、嫉妬しているその相手と同じ成果が手に入るはずはありません。また努力の方法、いわば「歩く道のり」だって、かなり違ってくるはずです。(p.195)

僕自身がオトノネでつくりだしたキーワード、「個性化」というのがそれだろう。
誰かと比べるのではなく、その子が今もっているものを最大限に使う。
それは強さになる。
もし誰かの作った土俵に上がるなら、相手と比較できる強さが必要かもしれない。
競争は、自然なものだ。
だが競争は、共生の一部であり、一つの側面にすぎない。

森の中に種が落ちれば、タネから芽が出る。
芽が出ない種もあるだろう。
芽がでたら?命が吹き出してきたら?

種がもっていたチカラで伸びていく。
大きな木の梢から漏れてくる光を浴びて。
(もし「光を!」といってお父さんお母さんがその芽を植木鉢に入れて一番高いところに置いたとしよう。風が強かったり天候の変化をもろに浴びて育ちません笑定期テスト対策はやめましょう)

誰もあるかない、誰もいったことのない道をみつけるのは大変かもしれない。
勇気がいるかもしれない。
けどそれも、自分への、子供への信頼があればできるはずだ。

天の才を信じよう。

命のチカラを信じよう。

僕も、、、、

道中、楽しみながら。

道中、出会いを、楽しみながら。

自分の歌を歌おう。

嫉妬から自由になるというのは、まずは、相手に目を向けている状態から「降りる」ことです。相手は見ない。「相手は関係ない」と考えて、怒りからも降りる。さらに、「他人と同じ成果を手に入れたい(他人と同じになりたい)」という妄想からも降りることですそうやって、しっとという感情から、まず完全に降りてしまいます。

その上で、もしまだ認められたいという気持ちがあるなら、「では、自分に何ができるだろう?」「わたしは、今自分にできることをじゅうぶんにやっているだろうか?」「まだできることがあるのではないか?」と考えるようにします。すると、自分自身の能力を高めていくこと、仕事・生活を改善していくことに心が向かうようになります。(p.196)

自分を見つめ続けて、やってみて、歩いてみて、それでも満たされなかったら、その都度、考え方を変えたらいい。
決まったコースなどはない。
「わたしには別の役割がある」

(それを、頭のお堅い人生の諸先輩たちは「我慢がたりない」とか「飽き性」とかいうけど、気にすることはない。)

大人になってもいつだって、人生は曲がりくねったり、岐路にたったりする。
その時に、最善をもって、後悔なく、前に進めるためには、、、、オトノネで学んだらいいとおもいます笑

日蓮宗の「蓮」の由来は聞いたことがあったが、ブッダの言葉としては初めて読んだ。

道の者たちよ、例えば青い蓮、紅の蓮、白い蓮が水の底に生じ、水の中でせいちゅ雄牛、自ら上に現れ出て、しかも水に汚されていないように、道を遂げたものは、この世の中で成長し、この世のうちに生きているが、この世に汚されていないのである。(p.200)

ーーーーー

興味深いのはブッダ自身が、「自分自身」と「正しい生き方」のみをよりどころにして、他のものに決してすがるな、と伝えていたことです。現代の仏教では、「ブッダ」と「サンガ」(僧侶・長老の集団)への帰依を人々に求めますが、ブッダ自身の思考は、そうではなかったのです。

最晩年のブッダは、旅の途中、長年付き添ってきた弟子のアーナンダに、こう語りかけます。

何時はもう、何者にも頼る必要はない。この世界でただ自らをよりどころとして、他の何ものもよりどころにしない(依存しない・執着しない)ことだ。正しい生き方(ダンマ)をよりどころにして、他のうつろう者、人間の思惑や言葉にすがらないようにせよ。(p.207)

思惑・言葉に溢れた時代の中で、それにすがらないとは、、、、
誰かが言ったことを「正しいこと」と思うわけでもなく、自分の心の外の移ろう世界の一部として捕らえろいうことだろうか。
すがりつこうとする心は、苦しみを生み出す、ということだろう。

それらは喪失するのであるから。

喪失の経験は避けられない。喪失した後の、喪失という経験をするとうのは、ブッダのいう「正しい生き方」に向かうプロセスの一部なのだろう。
『対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~』加藤 諦三
子どもの自立と喪失経験『悲しみに言葉を』

現実は、汚い。
現実は、酷い。
現実は、苦しい。

そんな現実を認めた上で、
現実にどう関わるか?

ブッダが教えるのは現実を「変える」ことではありません。「闘う」ことでもありません、現実は続く人生は続いていく。そうした日々の中にあって、せめて自分の中に苦しみを増やさない、「納得できる」生き方をしようーそう考えるのです。(p.217)

「納得解」という考えは、テストではわからない大切なチカラとして藤原和博さんが「よのなか科」でつくりだしたものです。
正解のない人生を歩むチカラを。。。

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【ヒトラーに捧げる】『対象喪失の乗りこえ方』加藤 諦三

『対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~』加藤 諦三

対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~

前書きにこう書いてある。

人は自分を支えてきた夢を捨てる時につらい思いをする。しかし、若い頃描いた夢がすべて実現するなどということはない。 「これが私の人生である」という落ち着いた気持ちになれるまでに、人は色々の感情を味わわなければならない。一つひとつの悩みを、その時その時に解決しながら生きている人がいる。逆に悩みが解決しないままで生きているひとがいる。その違いは悩みの核心を理解するか、しないかである。核心を理解できれば、先に進める。この本ではその核心を理解しようとした。(略)孤独に苦しんでいる人がいる。しかしその人は今現在、実際に「孤独と追放」をされているだけではなく、小さい頃に体験した「孤独と追放」を再体験して苦しんでいるだけということがある。小さい頃の体験で、長い人生を無駄にして良いのか?(略)仕事も、勉強も、運動も、恋愛も、何もかも「自分の不幸に気づかないようにする」ためであることがわかる。やることなすことすべて「自分の不幸に気づかないようにする」ための行為である。極端に言えば、息をするのも「自分の不幸に気づかないようにする」ためである。しかし大切なのは、現実に直面して先に進むことである。そのためには逃げている不幸に正面から向き合い、それを整理して心の中で消化することである。心の新陳代謝を活発にすることである。幸せの幻想を捨てて、先に進むにはどうしたら良いかをこの本では考えた。(p.5)

『悲しみに言葉を』は学術的に書かれているが、こちらは、もっとエッセイ風、というより、作者の思いを思う存分ぶちまけている文体である。

過去を恨むことに人生を支配されてはいけない。
「私は、愛のない家庭の育ったから、愛のある家庭を築きたい」といって早く結婚をして、失敗する人と、成功する人がいる。成功する人は、その自分の成長した家庭を自分の運命として受け入れた人である。断念した人である。その苦しみと悲しみを心底味わい、命をかけて乗り越えて心理的に成長する。その上で自分は「愛のある家庭を築きたい」と願い、行動する。(略)困難から立ち上がる人は、今までのひどい人間関係を直視する。そして、その人たちとは距離を置く。その人たちを恨むことで、その人たちに絡んで行かない。恨み続けて自分の人生を台無しにしない。つらい運命の自分を受け入れる。(p.24)

こっちで書いたことの、一つの答えがこの本では提示されている(驚いたことに、だ。)
子どもの自立と長男信仰と喪失経験『悲しみに言葉を』

つまり、「長男信仰」だろうがなんだろうが、それを「困難」と感じたところがスタート。それにどうやって自分を関わらせるかで、人生は変わるのだと。

結局、教育なのだ。
結局、心なのだ。

家庭を変えるなどできない。
誰かを恨むことでは変わらない。

自分が変わるしかない。
少なからず、きっかけは、(どれだけ小さくてもきっかけはきっかけだ)自分にある。

得られなかった「幸せな家庭生活」(つまるところ「嫌な思い出ばかりの家庭生活」)で暮らしている現状そのものが、悲哀のプロセス(喪失経験)の始まりなのだと。(ちなみにこの本では、「引っ越し」も「住み慣れた生活様式からの離別」として対象喪失の一つに数えている。なるほどだ。定年退職も、社会的な地位の喪失、今まで築いてきた関係性の喪失、という意味で、喪失だ。天下りというのは、こういう関係性を喪失させないようにするためのしくみだろう。未成熟な大人たちの「生き残る作戦」だろうか。長男が「家」に帰って来るようにしむける仕組みもある。これも長男を喪失しないように、という未成熟な大人の「甘え」だろうか。もうそんなことはどうでもいい。私は私で生きる。だって、私の生きている時代は、もうあなたの生きた時代ではないのだから。といえるようになれば、きっと楽に生きられるのかもしれない)

対象喪失には色々なものがある。失恋も、近親者の死も、故郷からの別れも、希望の喪失も、役割の喪失も様々なものがある。夫を失った妻がいる。悲しみを回避するために子供の教育に逃げた。子どもの幸せのために子供の教育に集中したのではない。夫を失った悲しみから逃げるためである。教育熱心の動機は苦痛回避である。表面的には立派な女性に見える。しかし子どもは躁鬱病になった。彼女はよりつらくなる。人は対象喪失の悲哀を経て回復する。一般に健康な人間は対象喪失にどのような反応をするのか。事業に失敗する、失恋する、そうした喪失が起きた時、誰でも素直に受け入れられない。夢ではないかとおもったり、何かの間違いではないかと思ったりする。失恋の場合であれば、「あの人は私の愛をためしているのではないか」「いつかきっと帰ってくる」などなど様々なことを考える。誰にでもそうした対象喪失を否認する時期がある。しかしやがて、失恋ということを認めざるを得なくなる時が来る。そうなれば今度は、自分を捨てていった恋人を恨んだり泣き叫んだりする。激しい憎しみにかられ、怒り心頭に発することもある。捨てられたとわかっても、なかにはしつこくつきまとう人がいる。そういう時期というものがある。これをいつまでもすると、相手の中にまだのこっている愛情まで失う。そのような悶え苦しむ時期を経て、喪失を最終的に受け入れていく。「だめだった」と断念する。そして断念の時を経て、新しい情熱の対象を発見する。しかし、これはあくまでの正常なケースである。逆境に強い人のケースである。逆境に強い人は解決を焦らない。待つことができる。アドラーが生きるのに望ましくない性格として「待てない」ということをあげえちるのがまさにその通りである。生きていく以上、誰にでも逆境は避けられない。誰にでも逆境の時はある。その逆境をじっと耐えられるかどうかである。逆境はすぐには終わらない。心も体も消耗する。冬が終わり、三寒四温で春が来るように、いつかやがて心身ともに回復するという心の姿勢が大切である。いつか時を経て傷ついた心が、自分のパーソナリティーのなかに組み込まれて、豊かな自分に成長する、そう信じて焦らない。それができれば人生を最後まで無事に生き抜ける。対象喪失の悲哀の過程を完遂すること。その一つひとつの完遂が、最高の自分への道である。その対象喪失の連続の中で人は成長する。(p.18)

スピード感のある、しかしなんとも爽快な書き方だ。
どストレートだ。見習いたい。

ある意味で神経症的傾向の強い人とは、断念できない人である、断念しようとしながらも断念できない、。それが人間である。しかし「それにもかかわらず」人間は断念しなければ生きていけないとフランクルはいう。私もそう思う。自らの運命を受け入れるということは、断念するということである。私は20歳前後の頃、枕元にニーチェを置いて寝ていた時がある。ニーチェのいう「運命を愛する」ということも、断念することであろうと私は理解している。まさに断念こそ「出口なし」といわれる人間の最後の出口なのである。絶望と断念は違う。断念は生きることである。逆境の中で生き抜くことである。(p.28)

断念できないのが人間だが、それでも断念せよ。というのは、目の前で断念できずに悶え苦しんでいるひとには酷だろうか。

「これが私の人生である」という落ち着いた気持ちになれるまでに、人は色々の感情を味わわなければならない。それは定年退職のような時ばかりではない。例えば自分は音楽が好きであった。しかし音楽を捨てなければならない時も来る。自分は音楽では食べて行かれない、そういう現実に直面しなければならない時もくる。希望の喪失である。自分の可能性が一つひとつ消えていく。そして悲哀を味わい絶望し、やがて「これが私の人生であった」と、素直に自分の人生を受け入れる。そうして心安らかに生きていく。そこに自分の人生の固有の意味を感じる。それこそが対象喪失の悲哀の過程を完遂したことである。(p.40)

どこか、日本仏教の説教を聞いているような・・・

実際、「オトナ」たちの話を聞くと、いろんな「諦め」をしてきた人がいるわいるわ。
諦めて(受け入れて)、捨てて、別の道にいって「落ち着く」という道筋は自然におもえる。

試してみた、信じていることを、貫こうとした。
本気でやってみた。進んでみた。
けどやっぱりちがったようだということはごくごく普通にある。

それなのに子供達に「こうしたらああなる」と言い続けたら、子どもは誤った心のしくみをつくるかもしれない。
教えてはならないことなのだ。

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断念する、ということに関しては、『残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する』にも書いてある。
残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する
ごっこあそびのチカラ!『残酷すぎる成功法則』再読でマシュマロ実験の意味を知る。

ようするに、「やり続けたほうがいいのか」「途中でやめたほうがいいのか」という問いだ。
いくつかのケースを具体的に示した後に出した答えは、、、「五分五分」であった。

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こんなことが書いてあった。

絶望してカルト集団に入っていく人も、もし執着していることを断念できたなら、カルト集団に入らなくて済んだのである。(p.48)

子どもに教えるべきは、断念する、ということなのだろうか。
例えば、ねだっていたものを断念する。
例えば、なりたかったリレーの選手になれなかったことを受け入れる。
テストで欲していた結果が出なかったのを、受け入れる。

この受け入れ(断念)が、本当に本人の納得いく形で行われなければ、恨みやら妬みになるかもしれない、とおもうのは僕だけだろうか。

本気でやって、やりぬいて、それで、ダメだった・・・そこまで子どもが味わい尽くすまで、大人は待てるだろうか。

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いいヒントがあった。

心理的に安定して成長した人は、目的を変えることもできるし、適切な目的なら引き続き頑張る。まず心の葛藤でエネルギーを消耗していないから、目的が適切なら、妨害に打ち勝とうとする努力の強化ができる。(略)執着性格者は、心のゆとりがないから、そのことに執着する。頑固とか意地をはるというのは、心にゆとりのない時の心理である。周りが敵の時である。ケチで頑固を特徴とするう肛門性格などは、実は何よりも心のゆとりがないということである。(p.56)

変化をつけるには、どうしたらいいか?
心のエネルギーを、葛藤で消耗させず、ゆとりをもつように、まずはすることだと。

ゆとりをつくる、エネルギーを消耗させない、という振る舞いは「小さなガンジー」とか、引きこもりとかいう現象になることもあるだろう。うつ状態になるのは、心の健全な回復プロセスの一部だと考えていい。

同じ「会社をやめる」でも、怠け者で「イヤ」になって会社を辞める人と、柔軟性があるから会社を辞める人がいる。この二人は生きる姿勢が根本から違う。この同期の違いを理解しない指導者は、創造的な人を「こらえ性がない」などといって、才能を潰してしまう。柔軟性があるから、会社を辞める人は次のことを始める。怠け者は会社を辞めても次にすることがない。
「会社を辞める」にも、色々な人がいる。
第一にうつ病の人や燃え尽きる人がいる。やり直しのきかない人、エネルギーのない人。そういう人には願望がない。
第二は怠け者だから辞める人。
第三は心が柔軟だから辞める人。
(略)
心の空洞がもたらす執着や無気力は、「このままこの道を進んではいけない」というメッセージである。(p.59)

だから、同じ「学校をやめる」「学校に行かない」にも3種類ある、ということだ。
(「不登校」という言葉がどれだけ曖昧か、意味不明か、現象の一部を切り取っているだけか、わかるだろう)

逆に考えると、同じ「学校に通う」「学校に行く」にも3種類ある、ということだろうか。
第一に、「学校に行くのは偉いんだ」「皆勤賞はすごいんだ」とか「私はいい子だ」とか「私はあの子よりすごい」と優越感で通う人。(「暴力・服従」)
第二は、イヤでイヤで仕方ないけど「行く」ことになっている人。(「非暴力・服従」)
第三は、心が柔軟だから通える人(先生のいうこともテキトーに聞く)。(「非暴力・不服従」)

学校に行く子のなかにも、「小さなガンジー」がいるようだ。

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「長男」を家に結びつけて離さない長男信仰は、空虚になったおじいちゃんの心を満たすために、存続している?古き良き時代への種着か。長男という確かな(?)「システム」の頂点には、まだ私がいる・・・・その幻想を支えたいのか?DVをうけても気がつかないお母さんと、DVするお父さんの関係のようにおもえてしまう。

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「僕は4番打者で投手になりたい」と願う。
すると、そうなれないことに悩み苦しむ。
そうなれないのは他人が悪いとなってしまう。
心理的健康な人は、「自分の野球の能力ではどのポジションかな」と考える。
自分の適性や能力や素質といったものを考えて、「選手になれるかなれないか」と考える。
そしてどうしたら選手になれるかを考える。
選手になれなくても苦しまない。
なぜなら自分を受け入れているから。(p.74)

これって、個性値教育だよね、。
イチローがこれだよね。

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自分を受け入れずに、騙し続けることを、自己欺瞞といったり、自己疎外といったりもする。
また自分を卑下する自己蔑視ともいえる。「どうせ自分は、、、」というやつだ。
心理学の用語ではよく、抑圧、とか、自己防衛、という言葉をつかう。
本当の自分の姿を欺いてみせたり、自分自身が本当の自分を感じないようにすることだ。
僕ならば、自分の声を、殺す、ということになるだろう。

自己実現・自己表現・自己表出をせずに、自分の声を出さずに、隠してしまう、本当の自分を閉じ込めてしまうことだ。
そう考えると、自己実現というものは、ありのままの自分を「今ここで」出すことを表しているにすぎないのではないか。

と思える。

小さな自己実現・自己表現が連続して行く先に、今の大人たちがよく考えるような「成功」が待っているようだ。
本当は、小さな(ありのままを出していくという!)「成功」が山のように、積み重なっての「実現」ということになる。

なるほど。

自分で言うのもあれだがいい考えだ。

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八方美人、誰かに合わせて自分を出さない、媚びへつらう、認められたい人は、孤立感をもっている。
どこかに所属するというだけで、強くなった気になる。
けど本当は「本当の自分」でないために、孤立感に悩み続ける。
こうすると、所属する組織に依存することになる。(それが自治会でも会社でも政治組織でも家庭でも友達でも)

自分を守るために、他人の虚栄心、自己中心性、利己主義を満たす道具に自ら進んでなる。
自分を守るために、暴力の一部になる。

孤立している「本当の自分」を認めずに、実現せずに、誰かに気に入られることで(隷属することで)満たされようとした心がある。
自分の意思をもたず、付和雷同する、いじめられていた側が、いじめる側になる。「だって、そうしなきゃいじめられる(孤立する)」
孤立する、という自分の本性と向き合うのは大変かもしれない。
孤立させられた(つながりを失った)という現実を認めるのは大変かもしれない。

それでも、「その手を離してごらん」というのが、この本の、シンプルな答えのようだ。

仮面をかぶって自己卑下をし続けて本当の自分を隠し続けられるほど、人は強くない。

たよりないけどその手を離してごらん、私たち人間には、それしか生きる道はない。(p.183)

なるほど
これはもはや、知恵のレベルで、言い聞かすしかないのだろうか。
こっちの歌よりは安全で役に立つとおもう。

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話が逸れてしまった。
自己蔑視・自己卑下は例えば「お前はダメなやつだ」と言われたり他人に期待されてそうなったとか、原因はいろいろあるけど結局は自分に対する怒りを生み出す。「お前はダメだ!」「お前はこうしなくちゃいけないんだ!」と自分が自分自身に言う(自己実現しない)のが自己卑下であるから、本当の自分は「何くそ!」と怒るのである。これが、人が変わった時に、例えば弱者に対して、現れる。

本当は自分自身に感じている怒りを、弱者に、ある時は子供に、ある時はパートナーに向けて打ち付ける。
(それが学校の先生とか保育所の先生とか会社の上司であることもこの時代、よくあること。)

誰かに満たしてもらえなかった感情を、別の人で満たそうとする。
その間、喪失は終わることなく、不安、怒り、妬み、恨み、苛立ちで自らを、もしくは他者を傷つける。
子供のよくやる、癇癪というやつだ。
子供として未成熟な大人は、こうして誰かを傷つけ続ける。

モラハラ、パワハラ、DV、児童虐待、いじめ、犯罪は、実現されなかったことがらへの癇癪である。
こどもとして未成熟な大人は、こうして暴力を世の中にばらまく。

子供として未成熟な大人は、こうして誰かを傷つけ続ける。
いつまで傷つけるのだろうか?

私は教育心理学者バスカリアの本を訳した。そのなかに、人は心理的に辞めば病むほど行動の選択の幅は狭くなる、とある。悲しみや靴から自分を守るために、自分の心を操作することでも挫折するが、また単純にこの対象喪失の悲しみに耐えられないというケースである。逆境を抜け出す人は焦らない。苦しみは瞬時に消えるものではない。時が熟するのを待つことである。なく時期があってこそ、苦しみを耐えていかれるよううに成長もする。朗らかに生きられる日が来る。いけないのは成長できないことである。長い人生には演歌をう歌う時期もあれば、同時に明るい南米の歌があってもいいのである。心豊かな人生とは、対象喪失に適応した人生である。それは決して悲哀のない人生ではない。悲哀に満ちた人生である。しかしそれは、その時々で悲しい過去と縁を切った人生である。心貧しい人とは、対象喪失という状態への不適応である。それは、先に進めない人生だから。(p.167)

俳優の字を語った時に、
優を憂う人と書いた。それがなぜ、優れていることになるのか。
こういう文章をよんではっとする瞬間があるのだなぁ。。。。
言葉の重み(俳優と演出家の役割)

なるほど。

子育てで大切なのは、断念すること。
これはケジメのことだろう。
躾(しつけ)ではなく気締め(ケジメ)が大切。『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』
感情知性といってもよい。
アンガーマネージメントといってもよい。
社会認知的スキルといってもよい(?)

自分の生きて行く道にいは必ず自分の生き方を妨害する人がいる。その人を「悔しい」と思っていたら、生きる道を踏み外す。ひどいい仕打ちにあって、「悔しい!」と眠れない夜を数越している時がまさに人生の道を踏み外す時である。自分を見失う時である。自分の中に核となる部分が無ければないほど、人はこのマイナスの感情に振り回されてしまう。その「悔しい」という感情で緊張し、所望し、病気にもなり早死にするのである。「あいつとは関係ない」と心の中でその人たちを断ち切ることである。回復力、復元力、立ち直り力の強い人は、皆心のなかに核をもっている。(p.195)

この「核」が何を示すのか、この本には書かれていない。。。笑!

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擬似成長、という言葉をマズローは使ったらしい。
これは僕の「コドモとして未成熟なオトナ」と似ている言葉のようにおもう。

擬似家族。
「仲のいいように見える」家庭の子が親を殺す。
社会的には適応しているが、情緒的には適応できていない。
仮面はかぶるが、心は、無意識は荒れ狂う感情を抑圧するうことにエネルギーが消費され、成長することがない。
外から見れば、成長している、円満な家族であっても、心理的には成長していない、戦争状態である。

小学生、中学生、高校生の生理学的な「思春期」すらも抑圧されている子がいる。
命が、、、、、、、命が。。。。。。。

これは家族単位での自己卑下であり自己抑圧、自己欺瞞、であろう。
これが学校単位、地域単位、国単位であるとしたら・・・もう本当に、どうしたらいいのかわからなくなる。

そうだ、まず、自分なのだ!

自己否定・自己卑下をやめて、どんなに小さいことでも自己実現・自己表現・自己認識。
子どものときなら、お母さんが排泄物を処理してくれたように、体に悪い、心に溜まってしまう感情を拭い取って気持ちよく笑えたかもしれない。今、ひとりで、どうしたらいいのか?わからなくなったら?

まずそのわからない苛立ちをそのまま抱いてみることなのだろう。
焦らない。ひとつひとつ、感じていけばいい。
投げ出さずに、時間をかけていい。
実はそれが、アーノルド・ミンデルのプロセス指向心理学の原理なのだが。

オムツにうんこをもらしてしまったとしよう。
「うんこでびしゃびしゃだよ!うわー!びしゃびしゃだ!」
しばらくその不快さを味わって、当たり散らすかもしれない。「気持ちわりんだよ!」と誰かに暴力を振るうかもしれない。誰かに媚びへつらってオシメを変えてもらいたいと告げるかもしれない。それでも誰もおしめを変えてくれないところまで、うんこと付き合ったのち、自分で新しいオムツを用意して、自分でうんこを処理することになるのかもしれない。

うんこをすることを禁止されている人がいるかもしれない。
もう、うんこをしたくても、できない体になってしまったような・・・
「まぁ、それならそれで出るまで待つさ」といえるかどか。
「うーん、野菜食べてみようか?」
お腹が痛くても、出ない、ということもあるかもしれない。

ながい、ながい、時間がかかる。
この辛いプロセスを、誰かと一緒に、片方の手を離す代わりに、もう片方の手を握ってくれる人がいてくれるなら、しあわせだ。

オトノネは、その片方の手になりたいとおもっている。
できんのかな笑いやいいや、やってきた。

メモ:交流分析のグールディングと言う人が書いた『自己実現への再決断』という本があるらしい。どんなものか。

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手を離そう。
休もう。

止めよう。

大人も子どもも。

手放すには、落ちき切るまで、落ちていかなくてはいけないのかもしれないけれど。
それも、プロセス。

「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

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あ、そうそう、ヒトラーも安倍さんも劣等感の塊ですね。
そういう風に、育てられたのです。

さて、誰に悪口をいったらいいでしょうか?
歴史の勉強をしなかったあなた自身でしょうか。
彼らを生んだ母親でしょうか。
父親でしょうか。
それとも彼らの学校の先生でしょうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

子どもの自立と喪失経験『悲しみに言葉を』ジョン・H. ハーヴェイ

悲しみに言葉を
『悲しみに言葉を』

喪失(そうしつ)経験、という言葉がある。

誰かを失った、何かを失った。。。
安定していたものが、不安定になる。

そういう気持ちを言葉にすることが、安定への第一歩だ。という本。
喪失の経験が、成長につながると。

でも、そうした喪失を体験すれば、誰でも成長することができるのだろうか。私には、そうは思われない。本書で私は、喪失から何かしら肯定的なものに変容しようとするときに大切なことは、喪失を意味付けること、喪失から学び洞察を得ること、そして経験にもとづいて何か肯定的な事柄を他者に伝えるという、心の中の大変困難な作用であることを主張したいとおもう。(略)ヴィオストの本の真価は、生きている間じゅう、人はさまざまなタイプの喪失を経験するのだといことを伝えている点にあると思う。(p.5)

例えば、志望校には入れなかったことも喪失経験になるかもしれない。
バラ色の結婚生活だったものが、変わったことも、喪失経験といえるかもしれない。
「うまくいく」と思っていたことが失敗することも、喪失かもしれない。

女の人であれば、流産、子供ができない、、、といった状況も、喪失体験と呼べるかもしれない。
男性には感じられない深い命の感覚を、女性はもっていると僕はおもう。

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ちなみにこの本で取り扱っている喪失経験は次のよう。

親しい人の死による喪失
離婚・離別による喪失
理不尽な暴力による喪失(DVや性的虐待、犯罪)
戦争や大量虐殺による喪失
病気や事故による喪失(慢性的な病気や加齢を含む)
貧困、ホームレス、失業

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目次を読んでいると、こんな項目がみつかる「西側からの『喪失の輸入』ー映画・テレビの暴力とタバコ」
モノが、モノの移動が、喪失をもたらすという視点だ。

また、「公認されていない悲嘆とスティグマ化」では自殺や近親相姦、摂食障害にもふれている。
公認されていないとは、「悲しむことが認められていない」という意味でとらえてよいかしらん。

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人生のある時点における重大な喪失に圧倒されてしまい、その喪失を十分に消化できないまま、その後の人生で出会う喪失によってさらにひどく打ちのめされてしまう人もいる。(p.6)

打ちのめされるタイプはビッグファイブでいうところの神経質傾向がある人だろう。
打ちのめされずに、他人に暴力を振るう、支配的になるというタイプもいる。

打ちのめされる(自分を打ちのめす)にしても、(誰かを)打ちのめすにしても、どこかに歪みが生まれる。
自分自身の内的な問題として心に抱える心の仕組みを作った人などは、自分から苦しみに耐えかねてカウンセリングを受けるかもしれない。宗教に入るかもしれない。

打ちのめす側(例えばDVとか、ストーカーとか、犯罪とか、ネットで誹謗中傷、脅しをかける人とか)の問題は、なかなか取りざたされない。(日本の政治家のほとんどは、打ちのめす側にまわる。学校の先生も一部は自分が打ちのめされ、ほとんどの場合、こどもを打ちのめすことをしている。本人は、気づいていない。)

じつは打ちのめす側の人が、世の中にたくさんいる世の中が(打ちのめす側が有利な世の中が)、現実なのだが。

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僕は、人が生きるために大切なものが、最初からなくなってしまったのではないか(喪失している)と感じている。
簡単に言えば、人が生きるために大切な「人間」がいなくなってしまったと、感じている。
かつては、共同体の中で、精神的な支柱になるようなシャーマン、巫女、知恵をもった人がいた。
現代では、なかなかみつからない。(それで間違ってカルトに入ったりする)

そんななかで、「人間」と出会えた人はしあわせだ。

大地とともに、空を見上げることを教えてくれる人がそばにいてくれたら、しあわせだ。

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心は、語りたがる。

人も、語りたがる。(嫌な気持ちを口にするだけでも、愚痴るだけでも、気持ちが晴れるものだ)

『悲しみに言葉を』では、語るということが心にどんな開放感、前進する力を与えるのか書いてくれている。

悲しみを忘れるわけではない。
悲しみは忘れられるものではない。
ただ、悲しみは自分の一部であるし、それに寄り添って言葉をかけてあげる、悲しみの言葉を、自分が聞いてあげること。祈ること。そうした行動を積み重ねること。それを喪失経験という。

喪失を、きちんと、経験するということだ。

まるで、自分の中にいる悲しんでいるこどもを抱きしめて、声をかけてあげるようだ。

忘れる、ということとは、少し違うような気がする。

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話し始めると、まとまりがないかもしれない。
そのまとまりのない状態も、こどもにもよくあること。
言葉にしながら、気持ちを整理していく。

その時間が、プロセスが大切。

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子供の成績が悪くて、もしくは子供の振る舞いが気に入らなくて「怒る」感情は、どこからくるのか?それも「悲しみ」に還元できるのか?(実は怒りの方が一次的な感情であるらしいのだが。そうすると、この本のタイトルは『怒りに言葉を』になるだろう)

といったことを考えてみてもおもしろい。
バリ島では、感情は3つにまとめられている。
怒りと悲しみと、平穏である。

ーーーーーー

離婚を乗り切るための有用な入門書としては、クラインクの『人生の問題に対処する』があげられる。彼のアドバイスは論理的かつ直接的である。彼によると、全体的に、どうしたら悲観の過程を進められるのかを知ることが必要だという。これには、われわれは他者や他者の決定を自分のものにしたりコントロールすることはできないという事実を受け入れることが含まれる。われわれはしばしば、たとえば彼らの決定が自分の欲求や利益に反するものであっても、それを尊重し受け入れなければならない。

親は、子供をコントロールできない、ということを、きちんと、本当に、心から、受け入れられるか。

コントロールにもいろんな程度があるだろう。
「育英に通わないと、お母さんが困るから」といって育英に通い続ける子がいる。
コドモはお母さんに気を使って、自分を犠牲にして生きているかもしれない。
親が、子供の選択肢を限りなく限定していることが、多々ある。

それでいて、「子供に選ばせている」という人がいるから、なかなかだ。
「あなたのため」は呪いの言葉でもあるが、脅迫でもあると僕はおもう。
詐欺でも使える言葉の響きをもっている。
ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる⼦どもたち

ツイッターのコメントで見るニュースサイト・セロン

悲哀の仕事という課題を成し遂げるために十分に時間を取ること。それには、喪失という現実を受け入れること、苦痛や非嘆を経験すること、新しい生活に適応すること、新しい生活をうまくやっていくこと、などが含まれる。

受け入れるためには、長い時間がかかるかもしれない。
その間に、子供は成長して行く。成長する姿を、オトノネで感じながら、お母さんが「子どもを失う」、つまり子供が自立していく経験をしていくことが、大切なのかもしれません。

それは、考える、とか、無理やりそのように思考する、といったものではありません。

心が、大事なのです。

時間がかかることかもしれません。
だから、お母さんにも、お子さんにとっても、オトノネを大切にして欲しいのです。
響き渡るための、時間を。感じるための時間を、大切にして欲しいと思います。
その貴重な時間を、不安でいっぱいの定期テスト対策で終わらせて欲しくない、というのが、オトノネの思いです。

「この子はもう、大丈夫なんだ」と思えるようになるまで、お母さんがお子さんにしがみついたり、お世話を続けて行くと、サポステに行くことになります。高学歴な人が、社会に出られない、どうしたらいいかわからないという状況になる背景には、「させられた」勉強、「させられた」人生に対する無力感があるとおもっています。親が用意してくれなかったら、できない、という状態です。

子供を自立させる、それは、お母さんにとっては「こども」の喪失経験になるかもしれません。
こどもが「おとな」になることをお母さんが恐れていたら、こどもは「こどもとして未熟」のままオトナになるかもしれません。

これが、僕が「10歳になったらもうオトナ」と言う理由です。「こどもとして成熟」していなくてはいけない。10歳からは「未熟な大人」として関わって欲しいのです。そうして18歳には、「成熟した大人」として子どもが一歩、踏み出せるように。

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最後に、この本には「適応」という章がある。
喪失の経験を完了するための、語る以外の方法があるとしている。

その中のEMDRは、トラウマをなくす、忘れるために、記憶を思い出すと同時に眼球を左右に振るといいう動作をするだけである。
またロゴセラピーは苦悩を身体的・心理的な問題ではなく、目標の欠如から生まれるとして、意味ある目標へと向け直す方法をとっている。ブリーフセラピーやヨガ・ダルシャナの考えと類似している点だ。

例えば、ピアノを弾いたり、音楽をしたり、絵を描いたり、そういうコミュニティーの中で自分の新しい姿を想像すること。(例えばそれが旅行だとか食事だとかブランドのバックとかで作り上げる新しい自分では、消費だけだからおすすめしたくない)


怒りや悲しみに対して、「不安」や「絶望」を餌として与えないこと。
もっと別のもの、平穏を育てよう。という考え方だ。

そうして「子供」や「家庭」、「会社」以外に意味を作り出すことは大切だとおもう。
自分の人生を自分でつくること。
自分で選ぶこと。

これができて、成熟した大人になるのではないかとおもう。
だから大学受験というか、就職試験というのは、成人の儀式だと、僕はおもうのだ。
受験勉強ってなんだろう。思春期との関係。塾の先生の役割。バリ島の儀式。

「そんなもの、わからないよ。新しい意味なんて」という人は、ダイゴのこの動画をみてもいいかもしれない。

人生の意味の喪失、これも、喪失経験かもしれない。慢性的!??

それから、こういう言葉が役に立つかもしれない。アインシュタインの言葉らしい。

人間は、私たちが宇宙と呼ぶ大きな全体の一部である。人間は、自分自身、そして自分の考えや感情を、それ以外のものと切り離されているかのように思っているが、それは人間の意識がなせる一種の錯覚である。この錯覚は私たちを個人的な欲望の世界に閉じ込め、自分の周りのごくわずかな人たちにしか愛情を向けないようにしてしまう。この錯覚は、私たちにとって監獄のようなものなのだ。私たちの課題は、この監獄から自らを解き放つことである。それは、私たちの思いやりの輪を広げて、生きとし生けるものすべてを、美しい自然の全てを包み込むことによって可能になる。(p.348)

日本であれば、「家系」とか「家」という概念はすでに壊れただと認める段階にあるのかもしれない。
そういう、宇宙的な時代がやってきている。

人は、宇宙に行ったらしいが、魂は地球においてきてしまった。
そんなかんじだ。

「家系」とか「家」とか「分家」とか「本家」とか「長男」という言葉で、どれだけの人が足止めを食らっているのか。(その悲劇を、本人は認めていない。喪失を、きちんと経験できていないとおもえば理解しやすいだろう)

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ある人は、人生の意味、自分の価値というものを埋める物語をつくるために、ボランティアに没頭する。
ある人は、お金儲け、会社の仕事に没頭するかもしれない。
ある人は、「古き良き時代」の喪失経験をしたくない(できない)ために、子どもを「つなぎとめる」ことに没頭するのかもしれない。立場主義を貫き既得権を放棄したくないということだろうか。古い世代の物語をきっと、ずっと語り続けるのだろうか。「おじいちゃん、今、2020年だよ!?こんな世の中なんだよ!?」と教えてあげたらいいのだろうか。経済学講義をしなくてはいけないのか?サポステの話をしたらいいのだろうか?大切な家族なら、そうして喪失経験を一緒にしてあげることも必要なのか?家族とはなんだろうか?

もしかしたら、子供自身が「そのような家に生まれてきたのだ」ということをきちんと受け止めること(喪失経験)だ大切なのだ、ということもできる、、、、かもしれないと思うと、誰が悪いわけでもない。

一体、どうしたころだろう??????

いろんな「心の反応」が混ざり合って、人間の社会は作られている。

ある人は、「こどもとして未成熟」なままで、政治家になってしまったりもする。

いろんな「心の反応」が混ざり合って、人間の社会は作られている。
そのバランスをとるための政治が、偏っているのは、僕にはいただけない。
暴力であふれた世界は、僕にはいただけない。

僕はだから、これから、音楽をすることになるんだとおもう。
それが僕の中で、僕自身のバランスをとることなのだと、そうおもう。

結局、誰かが悪いのではない、自分自身をよくするしかない、ということなのだろう。

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悲嘆に対して、ネガティブな感情に対して、中村天風は様々な実践を説いた。
笑う、ということだ。

中村天風の実践哲学における「笑い」で食卓を見直す

笑顔に包まれた食卓、それだけでも、人は生きる意味を作り出せる。

本当に、ただそれだけでも。

笑いあえる仲間に出会えた人は、しあわせだ。

誰にでも実践できること。

お試しあれ!

オトノネひろげるシェアぼたん

フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。

社会人もオトノネで学んでいる。

精神保健福祉士の資格をとるために一緒に勉強している人とテキストをみながら、フィンランドの自殺率は実は日本より高かった(過去形)ことを知った。
フィンランドの自殺率

元の記事はこちらから
https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-034-08-09-g267

ではどういう試みをしたか?
というと。。

1972年、各自治体に保健医療センターの設置が義務付けられた。
1984年、日本で宇都宮事件の時、フィンランドはすでに入院医療から地域ケアへと施策を変えていた。
それから最速と言われる速さで入院医療が減る。それを支えたのは、保健医療センターとプライマリ医と他職種によるケアであったと。

フィンランドでは全国で200の保険医療センターがあり、その5つのセンターが集まったところに専門医のいる医療機関がある。さらに重篤なケースは全国に5箇所ある大学病院で対応する、というシステムだ。

精神保健、メンタルヘルスは病院の中だけでどうにかできることではない、地域、家族、学校、職場、あらゆる場所で鬱になる人が出て来て、自殺に至る。アルコール依存症のケースもある。それは病院の中だけで、定期テスト対策のように「対策」しても無駄だ。フィンランドはプライマリケアに尽くした。そもそも「定期テスト対策」にならないような生活、暮らしを作り出すようにした。そのための人材が、ソーシャルワーカーだ。

日本が15に対してフィンランドは150。
(そもそもソーシャルワーカーとは何か?ということを日本人は知っているだろうか)
読んだことがないけれど、ソーシャルワークとはなにかを理解するのに、これが一番だろうという本を紹介しておきます。
ソーシャルワーク

「定期テスト対策」ではない、暮らしレベルの福祉のために、フィンランドという国は施策を重ねて来た。
その結果が、この自殺率の減少。(再喝)
フィンランドの自殺率

日本でどれだけのメンタルヘルス、精神保健、心の健全さが保たれる社会的なしくみがあるだろうか?
フィンランドにある保健医療センターに該当する施設は、日本では精神保健福祉センターであり、県にひとつ。
いやいやそれ以外にも、サポートする場所はあるだろう。。。例えば、保育所はお母さんのメンタルヘルスの相談設けることになっている。
「タテマエ」は。

実際は、そうなっていない。
結果が、伴っていない。

子供の精神福祉のことだけを考えても。
児童相談所はてんてこまい。
スタッフは忙しすぎて、忙殺され、やめていく。
児童養護施設ははち切れる。
児童虐待が止まらない(子供は減っているが)。

成人の精神保健の現場も、日本はなんら変わっていない。

精神科のベットの数はなかなか減らない。塾や学校に縛り付けるのと同じように、多くの人が精神科のベットに縛り付けられている。

在院日数も日本はダントツだ。

入院にはお金がかかる。(しかしそれでお医者さんはお金儲けをしているのだからどうしようもない)
多額の税金が、「定期テスト対策」に使われる。
もっと多くの人にとって有益になる方法は?

クリエイティブに考えられないだろうか。
考えられていない、のが現状だ。それが日本の精神文化だとしたら??
それを国レベルで変えるのは教育しかない。大人がしくみをつくるしかない(が、自民公明党は作る気がない)。

これは精神保健だけの話ではない。

学校も、職場も、家庭も、地域も同様だ。

ーーーー

最後に一つ。
日本の人口は1億2千万くらい。
フィンランドの人口は600万人くらい。

それに対して先ほどの精神科スタッフの数をみてほしい。
この数字をどうみるか。
一体、日本人は、「なんのために働いているのか」
一体、日本政府は、「なんのために働かせているのか」
自民公明党はまだ昭和の夢をみているような気がするのは、僕だけか。

日本のシステムが壊れていることを数字で理解できないなら、教育がなんのために行われているのか、わからない。

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こちらは

富山市の個別×子別指導学習塾オトノネ堀川教室

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富山市の個別指導塾オトノネ堀川教室

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とりあえずお母さんが定期テスト対策をやめさせるところから始めたらいいと思います。

寒い国は自殺者が多いといいます。
鬱々しているからだと。では、どうやって北の国の人はメンタルヘルスを保ってきたのでしょうか?
それが富山県の精神文化なのだとおもいます。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県高岡市という子育ての条件。幸福度と自殺者。

さて、富山県の、日本の精神文化とは、なんなのでしょうか?

—–

ちなみに、フィンランドが発祥らしい、「オープンダイアローグ」なるものも有名だ。
対話、対話、フィンランドはオトノネの友達だ。

オープンダイアローグ

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。
高岡高校の自殺は、政治が根本的な原因?

オトノネひろげるシェアぼたん

定期テスト対策の弊害【自己改革・心理学系セミナー編】

よく「セミナー」で「マインドセット!」とか「ポジティブ!」とかいうのがある。そういった講演会が、学校でも行われているらしい。僕が聞いた話は、金沢で、だが。

それで生徒の何が変わるだろう。ビッグファイブで学んだ言葉を使えば、神経質傾向の人が楽観的になるスキーマを作り直すことだ(そんな大変なことをセミナーはやろうとしている?いやいや)。モチベーションを高くするとは、外向性を高めるということだ。それがたった一回の「セミナー」で変わることはないだろう。そうして「定期テスト対策」的にポジティブな言葉を喋るようにと完璧主義、誠実性の高い人が習慣を変えようとしたらどうなるか。今現に、課題に疲れ果てている、家庭が不安定で神経レベルで回路が出来上がってしまっている子どもの心に届くだろうか。「夢をもて!目標を高く!」という。その目標が、自己理解に基づいたものなのか。競争に駆り立てられて、設定させられたものなのか(難関大学の名前を口にする高校生によくあるパタンだ)。セミナーは心の弱い人を引き込むキャンペーンだ。「変わりたい」人に「変われる」夢を与えてお金をもらう。言葉で、身振りで、感情に訴えかけ、元気をもらう。それでお金をもらう。もちろんそれで人生が変わる子もいるだろう。一部には(将来、セミナーで大金をはたいてしまう子になるかもしれないから注意)。

けれど、今本当に多くの子どもたちが悩んでいるのは、神経質傾向だとおもう。ポジティブになれないのだ。神経質傾向の子どもに「ポジティブになろうぜ!」といったら、ポジティブでない自分に余計な劣等感を抱くかもしれない。そういう危うさを大人は判っていて、ポジティブな人を学校に呼んでいるのだろうか。学校で子どもたちは「選択できない」危うさと隣り合わせだ。

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オトノネのお母さんからこんな話をきいた。
夜公園を歩いていると、向こうから、親子が歩いてくる。
子どもは小学生くらいだ。
疲れた・・・という子ども。
それに親は「あ!ネガティブな言葉はダメだっていったのに!」と怒鳴りつける。

どうしようもない。
それが定期テスト対策。
マニュアル型学習。

心が大事。

コーチングにしても、マインドセットにしても、セルフコントロールにしても、言葉をメモしてその通りに「作業」することで変わるくらい簡単な心なら、もう誰もがしあわせになっているはずだ。
大切なことなら、「作業」はもうやめよう。

それはそろばん、ピアノの練習から始まったかもしれない。
それは学校の宿題から始まったかもしれない。

大切なことなら、心を大事にしてほしい。

僕らはあまりにも、現代の機械文明に慣れすぎた。
スイッチを押したらなんか変わるとおもっているかもしれない。

人間は生き物だ。
人間は動物だ。
人間は命だ。

人間は、機械のように、そう簡単にカスタマイズできない。

この話によると、不安傾向25%は遺伝。神経質傾向は41%遺伝。
「自己啓発系セミナー」はストレスにしかならない。体育館に集められた子供達の少なくとも4分の1は苦しい時間を送っている。それでいいわけないでしょ。


ーーーーーー

子供達は、一発限りのイベント、瞬間的なきっかけではなく、持続的な学びの環境を求めている。と、僕はおもう。一時的な祭りではなく、日々そこから学び取れる、経験をつみながら成長できる環境だ。学校の先生が変わらないで、どうして生徒だけ変えようとするのか。大人は大人であれ。子どもは子どもであれ。大人も子どもも、定期テスト対策はもうやめようよ。定期テスト対策がお金になるのは知っているけどさ。それは子育てじゃないよ。お金儲けだよ。

日本国民は、市民としてみられていない。なぜなら、納税の義務を負わされた労働者であって、権利を持った市民として、自由を使っていないから。自由を使うための学びをしていないから。もちろん学校は子どもを義務を負った労働者として育てる。それは悪いことではない。家庭が、権利と自由、個人の尊重を教えているならば。学校を批判するとき、同時に家庭を省みたらいい。家庭を顧みるとはなにか。家庭の中で、権利と自由、個人が尊重されているかどうかである。それはつまり、親が、子供の権利と自由、個人としての尊厳を守っているかどうかなのだ。「個人」とはなにか。「個人」は文化的なものだ。近代が作り上げた人間だ。日本の遺伝子・伝統に逆らって「個人」を重んじるなら、そのように子育てをしないといけない。もしそれを、望むなら。「個人」とはどのようにしてできるのか。それは、自己認識をもった人間であり、自分の命、自由や選択に対して責任をもつ人間のことでもある。自分が選択する、自分が決定する、自分が感じたことを表現する、そういうあたりまえのことができない学校から離れて、親が凛として子どもを育てること。そのために、親は社会的な資源を、仲間を、子育てのために準備(もしくは子育てしながらつくりあげていく)することが大切だ。日本の子育てシステムは壊れている。その壊れたシステムを正しく「自然」にもどす手がかりを、オトノネは大切にしたいとおもう。

オトノネひろげるシェアぼたん

心療内科に行く前に:医療の現場も【テスト対策】!?その薬、飲んで大丈夫?

こういう話を聞いて、怒りを感じてしまう。
けど怒っても、何もいいことがない。。。。
別のチカラにしよう。

だからぼくはオトノネをはじめたのかな。

ーーーーーーーー

ある子が。

ある子が。

心身症で困っている。

その子は、薬を飲んでいる。
医者にかかって、薬を処方してもらえる。

テスト対策のように、その場で、手軽に、症状をなんとかしようとしたい気持ちはわかる。

けどその副作用の甚大さと、「症状」がでてくる心のしくみの深さを考えれば。

心身症を薬でなんとかしようというのは、よほどの決断でなければできない、とぼくはおもう。

副作用によって、大切な心を自分で守っていくチカラが奪われる可能性がある。
副作用で「別の体調不良」になり、それをさらに調整する元気も心にないとしたら。。悪循環だ。
そのリスクを背負ってまで、薬を処方する、薬を飲む価値があるのか(もちろん、危機的状況を脱するために、飲むこともあるかもしれないが、常用するのは。。。)。

クスリで活かされる魂もあれば、クスリで殺される魂もある。

結局、心次第。

学校教員が宗教団体で救いを求める時代、クスリなしでは生きていけない日常だとしたら、どんなにそれが不健康な状態なのか。

どうしたらいいのか。

その答えとして「クスリ」を安易に選んではいないか。

ーーーーーーー

短期的な救いのために、必要な応急処置があります。
例えば発展途上国で食糧難に陥っている人にとって、とにかくすぐに食料を渡すことが必要です。
一方で、持続的に、自給的に食料を手に入れられるようになる仕組みは?時間がかかります。ですが、自立して、自分の力で
短期的な食料供給(定期テスト対策)に頼らずに自分で自分の身を守るライフライン(恒久的な自己管理システム)をつくることが、オトノネの仕事です。

ーーーーーーー

医者は心身症を、心を理解しているんだろうか?
医者も点数稼ぎで忙しくて、心をみる余裕がないんだろうか。

体が出している自然な痛み、問いかけを受け取らずに、薬で抑圧していいのか。
抑圧しなくては生きられない心と体。
生きるってそんなもんだっけ。
痛みは、身体からの、無意識からの、心からのメッセージであって、別に薬を飲むことが悪いことではない。
そのメッセージを受け取った上で、「じゃぁ、ちょっと今は、待って。準備ができたら、君を救いにゆくよ、準備ができたら」といえるか。

そのうち良くなるさ、と受け身になっていないか。
仕方がないんだ、と諦めていないか。

学校の先生は学校の先生という立場でやらなきゃいけない業務がある。
医者先生も医者という立場上、何かしないとその後クレームが来るかもという不安もある。
それぞれが、お互いの都合で関係し合っている。

お互いの都合でだ。
だから自分の都合を、自分の目線で考えられるように、学ばなくてはいけない。
積極的自己責任を負うために。

学ぶとは、他人の都合と折り合いをつけながら(尊重しながら)、自分の人生を自分の都合で自分が生きるということかもしれない。
「先生、お言葉ですが、私はコレコレこういう理由で、このようにします」と言えばいい。

ーーーー

知っている、知識としてもっていることの大切さを感じる。
と同時に、正しい知識を医者先生すらもっていないことに違和感を感じる。

アレルギーで苦しんでいる人がアレルギーに効く薬の副作用で悩んでいる。
ガンで苦しんでいる人が抗がん剤を飲んで悩んでいる。

薬をやめて食生活、運動、健康を総合的に見直すだけでアレルギーと付き合えるようになる。
薬を飲まずに、漢方にしただけで(お茶を飲んだだけで)ガンがよくなる。

そういう事実を、真実をしらずに、テスト対策でことを済ませてしまって、大丈夫だろうか。

あれ?これちがうんじゃない?と「違和感」を感じたら、学び始めよう。
大人も、子どもも、みな学ぶ過程にあるにんげんだとぼくは思う。

みんな生きるので精一杯。
医者先生も学校先生も、見る人の人数が多すぎて困っている。

だからオトノネは、完全個別にこだわっています。

医療に関する問題提起記事はこちら
医療が発達して学校教育で排除される子どもが生まれる。教育はテクノロジーの責任を取っているか。

オトノネひろげるシェアぼたん

夢見る時間を大切にする。

日常の動作がはじまってしまえば、消えてしまう。
きっと大切なものを見せてくれている。
けど、日常の中で、すぐに消えてしまう大切な時間がある。

記憶に残そうとしても、意識しようとしても、残らない。。。。

「夢見ている」状態でペンを握って、記録しよう、という考えが浮かんでも、夢見ている状態で、手を動かすことができない。
(自動書記ができる人がいるらしいが、僕にはまだ、まだ!できない)

いろんなものが詰まっている僕の頭が、話しかけてくる断片的な物語。
つじつまがない、子どものおしゃべりのような、物語。

意味がよくわからない話でも、子どもにとっては、何かしらの心の働きがあって、言葉になってでてきているものだ。
そうおもうと、子どもの「今日ね!◯◯ちゃんがね!」という話ひとつが、愛おしく感じられる。

ーーーーーーーー

インディアンの人たちは伝統的に、黄昏の時間、夜の時間をdream timeと呼んで、特別な時間にしている。
夢を見ているような状態をdreamingという。

心を大事にしたいなら、眠りを、休息を、そして仲間を大事にしないとなぁ。
やっぱり、《放課後の学校》は無料にするか。

学習塾で、お金稼ぐ?
オトノネさんの単価は、どんどん低くなります。
そのうち空気みたいに、無料で、大切なものになるのでしょうか。

それでも、いい生き方だと、思えてしまうくらい、僕は今空気に憧れています。

そうしたファンタジーを大切にして、現実の壁を乗り越えて、プロセスを進めていこう。
というわけで、無料でいいですね?

1万6千円とか、普通の値段にするのは、いやです。
それよりも、無料にして、何が起こるか、みてみたい。

そっちのドキドキの方が、僕にとっては大切な事のように思える。

あれ?またコンビニのバイト始めないとムリじゃない?笑

誰か、影分身の術を教えてください。

ーーーーーーーー

夢にいろいろ、教えてもらおう。

意識の世界ができることなんて、ほんとうに、小さなことなんだ。
それは不可解かもしれない。偶然かもしれない。
そんなものが今の僕をつくってきた。

だから、寝ます笑

ーーーーーー

ファウストは、いろいろなことを知っていました。
ですが、大切なことがわからず、メフィストフェレスという悪魔と手を組むことになりました。

悪魔はファウストに、夢を見させたのです。

悪魔という名前でなかったとしたら、メフィストフェレスは、立派に、ファウストの「止まってしまった」思考、もう意識の世界では動かすことのできないプロセスを、動かしたのでした。そのように解釈することができる。

悪魔の名前を、感情知性と言うこともできる。

だから、寝ます笑

ーーーーーーーー

僕が最後に、死ぬまでに曲をつけたいという戯曲が、実は、ファウストだったりするのです。
友達だもん。

すごく普遍性がある物語。
今の高校生たちにも、見てほしいな。
高校生バージョン、つくるよ笑

そういう芸術家としての僕を、まだ日本でちゃんと見てあげれていない、気がしている。
いつも、いつも、後回しになっちゃうね。ごめんねー。

夢で会えるかな

オトノネひろげるシェアぼたん

なかなか変われない人、変われない組織の「自己防衛」のしくみと子どもの「抑圧」

だれもが、プロセスの中にいる。
いつ起きるかわからない心の動きで、人生が変わって行ったり、同じことを繰り返したりを繰り返しながら、進んでいく。

オトノネにきて、新しい心の動きが、人生を新しいプロセスに向かわせるように変わっていく人もいる。
いろんな人がいる。

ぐるぐるしながら、進んでいく。
いろんな人に出会いながら、人と出会うことで、変わっていく。

僕もそうしてオトノネを始めることになった。
人との出会いと同じくらい、お母さんにとっては「子ども」と出会うことは、とってもとっても、大切なことだとおもう。
誰かと一緒にいるから、何かが起きる。

近くにいる、誰かの心を大切にしているだろうか。

ーーーーーーーーーー

心がつながるのが怖い

感情、の本を探している時に気になったので借りてきた。

こちらはカウンセラー、心理学のための本で、「自己防衛」で関係がつくれない人たちの話を読むことができる。

「自己防衛」とは、どうしようもない状況で情動が引き起こした防衛反応のこと。

それは、理不尽な身体的、精神的暴力を振るわれたのを「自分が悪いんだ」とおもうことも含まれる。

また、関係を避ける、といった振る舞いにもでる。

「自己防衛」は主に、思春期以前の経験が元になっている。
無力感、悲しみを抱いた時に、「若さが故」に心がはじき出した最適解。

その時は、役に立った。
困難を切り抜ける作戦として、有効だった。

しかし、
自己防衛が大人になっても、無意識のうちに繰り返される場合、「うまくいかない」といって苦しむ人がいる。

「何か変だ・・・」

ーーーーー

この本は、子供の頃の自己防衛が大人になってから「人を愛せない」で困っている人たちに焦点をあてている。

心は成長したのに、子どものころにつくりだした作戦が無意識のうちにまだ働いている状態が、苦しいのだ。

「なんか変だ」という違和感を感じたら、きっと、大人になったその人が、その人の中にいる子どものときの自分に語りかける時だ。
カウンセラーは、そのお手伝いをする。

本人が気がつかないような身体のメッセージがある。
少しづつ、忘れていた、無意識に落とされてしまった心、気持ちを拾い上げていく。

自覚して、言葉にして、思い出して、そして、今、その場で子どもの頃の自分と対話をする。
そうしたプロセスが、「大人な私」と「子どもだった私」を出会わせる。

こう語りかける。
「もう大丈夫だよ。子どもの頃の君は、そうするしかなかった。つらかったんだ。心から、君がつくった作戦に感謝する。そのおかげで今の僕がある。けど、もう大丈夫だよ」と、心から、心から語れるようになるまで、向き合う。

「誰も信じない」という作戦をとった子どもがいる。
けどもう今は分別もついたし、心も強くなった。信じてみないかい?
怖くなったら、誰かの力を借りよう。君は一人じゃない。大丈夫だよ。

子どもの頃に受けた精神的、肉体的暴力を大人になってから繰り返す人がいる。
自分の無価値さを無意識のうちに心に刷り込み、おかしくなってしまった心の防衛のために、「他者に暴力を加える」という、自分がされたことを他者にも繰り返す。「暴力を加えた人」を防衛のモデルにするしかない、子ども時代の記憶が、無意識に繰り返される。厳しく育てられた子ども。厳しいのは、親の愛情だと思っていた。そう信じるしかなかった。けど今は、そうは思わない。僕は強くなった。親は私を愛してはいなかった。だから、僕は暴力を繰り返さない。

「大丈夫だよ、ほら、だって、今、あなたに僕の姿がみえるでしょう。僕のことを抱きしめてくれているでしょう。僕を、ちゃんと感じてくれているでしょう?」

子ども時代に欠けていたものを、大人になってから誰かに求めることもある。(それは子ども時代、に限ったことではないが。)
けど、その子が欲しかったものは、他の人からは手に入れられない。ことが多い。
大人になったから、強くなったはずだ。もう大丈夫だ。欠けているものは欠けている。けど、その悲しみを何かで埋めようとしていた子どものころよりも、「もっと、より」今は強くなっている。大人の私は、子どもの君(もしくは、大人になった後の、あの時の、あなた)を、おもいやれる。

だから、大丈夫だ。

悲しみを暖かく抱きしめる、今の私と、かつて悲しみにくれていた私が、出会う。

自分を抱きしめてみてもいい。
大切な誰かを抱きしめてみてもいい。

自分の心と、相手(自分自身)の心、を感じられたら、きっと、何かが動き出す。

動いていく心を感じてみよう。

ーーーー

無意識に触れる時、体のどこかが反応し、心の底で情動がうごめき、頭のなかでその動きを捉えることができる。
感じること、を通じて、子どもの時の自分(もしくは大人になってからの、あの時の自分)、無意識に落としてしまった、本当の心を知る。

感情に触れられない、心に触れられないまま、「防衛」「抑圧」を繰り返してしまうと、それからも不幸な人生を送り続けることになるかもしれない。現実不可能な願望を抱き続けるかもしれない。そうして、今目の前にある世の中と、今、大人になった私の折り合いがつかなくなる場面がでてくる。

そうなった時、助けてくれる人が、近くにいるだろうか?
自分に向き合う、自分を感じる時間をつくれるだろうか?
(あくせくと、残業や課題でおわれていないだろうか?繰り返される「自動思考」で頭がパンクしていないだろうか?)

「悲しみ」を避けていたら、「悲しみ」と一緒になってやってくる(物事は大抵そんなものだ)他の何かを得ることができない。
今、大人になって、「もっといい作戦」を考えられるはずなのに・・・・

「防衛」とは「感じないようにする」ことだ。
本当の自分を感じないようにして、誰かのために命を捧げることも、「防衛」といえる。
心を安定させるために、「その時」選んだ、最適解。

だから、防衛を解いて、感じることは、ある意味とてもつらいことだ。

一人では、とてもやっていけないくらい、つらいこと。

だから、、、、
だから、一人でがんばれる!とはおもってほしくない。

ーーーーーーー

自己防衛とは、無意識に繰り返される心の「生き残り作戦」である。
もうそれは、古い。新しいものにしたらいい。

そんな時に必要なことは、思い出し、子どもの時の心に気がつき、対話すること。
これは「学びの共同体」の「学び」そのものだし、ナラティブアプローチともいえるし、無意識に溜め込まれたその人の経験が生み出した「情動の仕組み」を理解することでもある。回避していては、理解はできない。対話をする場がなくては、理解ができない。そもそも、気が付いていないことが多い(だからカウンセラーは、まず、まずはクライアントがクライアント自身の感情に気がつくような働きかけをする)。

「愚痴をいう」という行動で「防衛」するという作戦がある。
「しゃーなしでもやる」という行動で「抑圧」される心がある。

もしかしたら、癖になった「防衛」や「抑圧」の影で、本当に見て欲しいあなたの一部が「僕には気づいてくれないの?」と、声をだしてすすり泣いているかもしれない。

目の前で苦しんでいる保育園児、小学生、中学生、高校生に気がつかない親や保育士、学校の先生と同じだ。
君の中で、泣いている、悲しんでいる君がいるかもしれない。

本当にいるんだろうか?

ーーーーーー

多くの親の「怒り」が子どもに向けられている。
それが習い事の嵐だったり、勉強勉強という言葉だったり。
「怒り」の奥にある色とりどりの感情に気がつかない。
「怒り」に気がつかない。

「怒り」にもいろんな名前がある。
妬み、憎しみ、悲しみ、恨み、、、、、

怒りの底にある、親が経験した悲しい出来事に、向き合えない。
自分が向き合えなかった感情・出来事を、子どもに向き合わせることをしている親がいる。

子どもは、お父さん、お母さんが好きだから、

満たされなかった願望・欲望と付き合うことができず、折り合いをつけ、前に進むことができず、対話ができず、子どもにそれを再現させようとする人がいる。「私は◯◯だったから、この子には!」というセリフを使ったことがある人が、きっといるでしょう。

けど子どもは子どもで親とは違う人生を歩むものだ。
同じ人生を歩かせようとしてはいないか。

子どもはやさしい。
お父さん、お母さんを愛している。
だから、命をかけて、命を燃やして、身を捧げて、応えようとしているかもしれない。
その子の、一番大切なものを、捧げていく。

それは本当に「その子」のためだろうか。

子どもが大切な「今」を差し出している。
大人は、そんな子どもの心に、どんな「今」を差し出せるだろうか。
大切なものを、差し出せるだろうか。

ーーーー

こちらはオトノネの宣伝です!
富山市の民間学童保育

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悲しみの経験を思い出して、今でも悲しがっている自分の心のために、今日も、1日の終わりに、祈りをかけよう。
「まだ私はうまくやれていないかもしれないけど、いつも泣いている君の隣に、私はいるよ。ちゃんと気が付いているよ。感じているよ」

そうして悲しみを自分の一部にすること。

少しずつでも、少しずつでも、、、、

ーーーーー

痛みや悲しみを引き受けられるようになると、たくさんの出来事に出会うことができます。
苦しみや悲しみを避けることに使われるエネルギーで、苦しみや悲しみを暖かく抱きしめられるようになったら、いいなぁと、僕もいつもおもっています。

弱い人を助けようとする自分は、弱い自分と向き合う代わりに、その人に関わろうとする。
(これを心理学用語で投影といいます。別に悪いことではありません。そういう現象を、投影といっているだけです)

嫌いだな、と思う人が、実は自分の中で「まだ統合できていない」自分の姿だったりする。

情動が動いた時、そこには何かしらの「心の作戦」があるとおもったらいい。
心に向き合う時間を大切にしたい。

人を愛したい、とおもうなら、自分を愛するようにしよう。
愛せていない自分を誰かに映し出してしまうとき、宇宙は、離れていくようである。

ーーーーー

古い時代の作戦をそのまま使っているケースは、よくある。
個人だけではない。学校、保育園、組織は体制を変えることができない。
「もう大丈夫だよ。そのとき必要だった仕組みは、もう今はいらないんだ。大丈夫だよ」

という対話を、一体、組織の中で、誰かしているのだろう。

人生を変えるのは、多くの痛みを伴うこともある。
輝いていた自分が、とつぜん、光を出さなくなるような、ギャップを感じるかもしれない。
それを支えられるような段階に達した時、人は、「危機」に見舞われる。

人を成長させるプロセスがしくむ、劇の幕開けのタイミングは、なんとも巧妙だ。
「え?大丈夫だよね?もう乗り越えられるでしょ?」

痛みを感じないわけではない。
痛みと寄り添えるようになること。
痛みを抱きしめられるようになること。

それだけで、プロセスは動き出す。

大切な自分を守れるようになったら、勝手に向こうから、儀式はやってくる。
学ぶべきものを学ぶべく、人は人と出会う。

心が大事。

ーーーーー

自己防衛の仕組みと受験生になんの関係があるかといったら。

だいたいみんな、「やらされ」て過ごす小学校・中学校時代。
多くの受験生にとって、「やってたことをやる」習慣や、「できる自分」へのプライドがある。

「やらなかったら怒られる」から、「やらない」ことから生まれる不安・恐れを隠してしまったかもしれない。
「当然、できていたことができなくなるなんて許されない」と、「やらない」ことが怖くなっているのかもしれない。

大学受験は、そんな高校生たちが生まれてから今までつくりあげた、「防衛」「抑圧」と向き合う時期だと、僕はおもっている。

それを僕は、高校生の発達課題だとおもっている。
思春期だと、おもっている。

もっと自由になるために、心を大事にしてみたら、不思議なことが起ってくるかもしれないよ。

先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、おとのねさんも、そんな「成長」のプロセスの中にいる。
僕はプロセスの中にいる一人の人間として、学校の先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、僕自身をも、大切にしたいとおもっている。

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