【ヒトラーに捧げる】『対象喪失の乗りこえ方』

『対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~』加藤 諦三

対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~

前書きにこう書いてある。

人は自分を支えてきた夢を捨てる時につらい思いをする。しかし、若い頃描いた夢がすべて実現するなどということはない。 「これが私の人生である」という落ち着いた気持ちになれるまでに、人は色々の感情を味わわなければならない。一つひとつの悩みを、その時その時に解決しながら生きている人がいる。逆に悩みが解決しないままで生きているひとがいる。その違いは悩みの核心を理解するか、しないかである。核心を理解できれば、先に進める。この本ではその核心を理解しようとした。(略)孤独に苦しんでいる人がいる。しかしその人は今現在、実際に「孤独と追放」をされているだけではなく、小さい頃に体験した「孤独と追放」を再体験して苦しんでいるだけということがある。小さい頃の体験で、長い人生を無駄にして良いのか?(略)仕事も、勉強も、運動も、恋愛も、何もかも「自分の不幸に気づかないようにする」ためであることがわかる。やることなすことすべて「自分の不幸に気づかないようにする」ための行為である。極端に言えば、息をするのも「自分の不幸に気づかないようにする」ためである。しかし大切なのは、現実に直面して先に進むことである。そのためには逃げている不幸に正面から向き合い、それを整理して心の中で消化することである。心の新陳代謝を活発にすることである。幸せの幻想を捨てて、先に進むにはどうしたら良いかをこの本では考えた。(p.5)

『悲しみに言葉を』は学術的に書かれているが、こちらは、もっとエッセイ風、というより、作者の思いを思う存分ぶちまけている文体である。

過去を恨むことに人生を支配されてはいけない。
「私は、愛のない家庭の育ったから、愛のある家庭を築きたい」といって早く結婚をして、失敗する人と、成功する人がいる。成功する人は、その自分の成長した家庭を自分の運命として受け入れた人である。断念した人である。その苦しみと悲しみを心底味わい、命をかけて乗り越えて心理的に成長する。その上で自分は「愛のある家庭を築きたい」と願い、行動する。(略)困難から立ち上がる人は、今までのひどい人間関係を直視する。そして、その人たちとは距離を置く。その人たちを恨むことで、その人たちに絡んで行かない。恨み続けて自分の人生を台無しにしない。つらい運命の自分を受け入れる。(p.24)

こっちで書いたことの、一つの答えがこの本では提示されている(驚いたことに、だ。)
子どもの自立と長男信仰と喪失経験『悲しみに言葉を』

つまり、「長男信仰」だろうがなんだろうが、それを「困難」と感じたところがスタート。それにどうやって自分を関わらせるかで、人生は変わるのだと。

結局、教育なのだ。
結局、心なのだ。

家庭を変えるなどできない。
誰かを恨むことでは変わらない。

自分が変わるしかない。
少なからず、きっかけは、(どれだけ小さくてもきっかけはきっかけだ)自分にある。

得られなかった「幸せな家庭生活」(つまるところ「嫌な思い出ばかりの家庭生活」)で暮らしている現状そのものが、悲哀のプロセス(喪失経験)の始まりなのだと。(ちなみにこの本では、「引っ越し」も「住み慣れた生活様式からの離別」として対象喪失の一つに数えている。なるほどだ。定年退職も、社会的な地位の喪失、今まで築いてきた関係性の喪失、という意味で、喪失だ。天下りというのは、こういう関係性を喪失させないようにするためのしくみだろう。未成熟な大人たちの「生き残る作戦」だろうか。長男が「家」に帰って来るようにしむける仕組みもある。これも長男を喪失しないように、という未成熟な大人の「甘え」だろうか。もうそんなことはどうでもいい。私は私で生きる。だって、私の生きている時代は、もうあなたの生きた時代ではないのだから。といえるようになれば、きっと楽に生きられるのかもしれない)

対象喪失には色々なものがある。失恋も、近親者の死も、故郷からの別れも、希望の喪失も、役割の喪失も様々なものがある。夫を失った妻がいる。悲しみを回避するために子供の教育に逃げた。子どもの幸せのために子供の教育に集中したのではない。夫を失った悲しみから逃げるためである。教育熱心の動機は苦痛回避である。表面的には立派な女性に見える。しかし子どもは躁鬱病になった。彼女はよりつらくなる。人は対象喪失の悲哀を経て回復する。一般に健康な人間は対象喪失にどのような反応をするのか。事業に失敗する、失恋する、そうした喪失が起きた時、誰でも素直に受け入れられない。夢ではないかとおもったり、何かの間違いではないかと思ったりする。失恋の場合であれば、「あの人は私の愛をためしているのではないか」「いつかきっと帰ってくる」などなど様々なことを考える。誰にでもそうした対象喪失を否認する時期がある。しかしやがて、失恋ということを認めざるを得なくなる時が来る。そうなれば今度は、自分を捨てていった恋人を恨んだり泣き叫んだりする。激しい憎しみにかられ、怒り心頭に発することもある。捨てられたとわかっても、なかにはしつこくつきまとう人がいる。そういう時期というものがある。これをいつまでもすると、相手の中にまだのこっている愛情まで失う。そのような悶え苦しむ時期を経て、喪失を最終的に受け入れていく。「だめだった」と断念する。そして断念の時を経て、新しい情熱の対象を発見する。しかし、これはあくまでの正常なケースである。逆境に強い人のケースである。逆境に強い人は解決を焦らない。待つことができる。アドラーが生きるのに望ましくない性格として「待てない」ということをあげえちるのがまさにその通りである。生きていく以上、誰にでも逆境は避けられない。誰にでも逆境の時はある。その逆境をじっと耐えられるかどうかである。逆境はすぐには終わらない。心も体も消耗する。冬が終わり、三寒四温で春が来るように、いつかやがて心身ともに回復するという心の姿勢が大切である。いつか時を経て傷ついた心が、自分のパーソナリティーのなかに組み込まれて、豊かな自分に成長する、そう信じて焦らない。それができれば人生を最後まで無事に生き抜ける。対象喪失の悲哀の過程を完遂すること。その一つひとつの完遂が、最高の自分への道である。その対象喪失の連続の中で人は成長する。(p.18)

スピード感のある、しかしなんとも爽快な書き方だ。
どストレートだ。見習いたい。

ある意味で神経症的傾向の強い人とは、断念できない人である、断念しようとしながらも断念できない、。それが人間である。しかし「それにもかかわらず」人間は断念しなければ生きていけないとフランクルはいう。私もそう思う。自らの運命を受け入れるということは、断念するということである。私は20歳前後の頃、枕元にニーチェを置いて寝ていた時がある。ニーチェのいう「運命を愛する」ということも、断念することであろうと私は理解している。まさに断念こそ「出口なし」といわれる人間の最後の出口なのである。絶望と断念は違う。断念は生きることである。逆境の中で生き抜くことである。(p.28)

断念できないのが人間だが、それでも断念せよ。というのは、目の前で断念できずに悶え苦しんでいるひとには酷だろうか。

「これが私の人生である」という落ち着いた気持ちになれるまでに、人は色々の感情を味わわなければならない。それは定年退職のような時ばかりではない。例えば自分は音楽が好きであった。しかし音楽を捨てなければならない時も来る。自分は音楽では食べて行かれない、そういう現実に直面しなければならない時もくる。希望の喪失である。自分の可能性が一つひとつ消えていく。そして悲哀を味わい絶望し、やがて「これが私の人生であった」と、素直に自分の人生を受け入れる。そうして心安らかに生きていく。そこに自分の人生の固有の意味を感じる。それこそが対象喪失の悲哀の過程を完遂したことである。(p.40)

どこか、日本仏教の説教を聞いているような・・・

実際、「オトナ」たちの話を聞くと、いろんな「諦め」をしてきた人がいるわいるわ。
諦めて(受け入れて)、捨てて、別の道にいって「落ち着く」という道筋は自然におもえる。

試してみた、信じていることを、貫こうとした。
本気でやってみた。進んでみた。
けどやっぱりちがったようだということはごくごく普通にある。

それなのに子供達に「こうしたらああなる」と言い続けたら、子どもは誤った心のしくみをつくるかもしれない。
教えてはならないことなのだ。

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断念する、ということに関しては、『残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する』にも書いてある。
残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する
ごっこあそびのチカラ!『残酷すぎる成功法則』再読でマシュマロ実験の意味を知る。

ようするに、「やり続けたほうがいいのか」「途中でやめたほうがいいのか」という問いだ。
いくつかのケースを具体的に示した後に出した答えは、、、「五分五分」であった。

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こんなことが書いてあった。

絶望してカルト集団に入っていく人も、もし執着していることを断念できたなら、カルト集団に入らなくて済んだのである。(p.48)

子どもに教えるべきは、断念する、ということなのだろうか。
例えば、ねだっていたものを断念する。
例えば、なりたかったリレーの選手になれなかったことを受け入れる。
テストで欲していた結果が出なかったのを、受け入れる。

この受け入れ(断念)が、本当に本人の納得いく形で行われなければ、恨みやら妬みになるかもしれない、とおもうのは僕だけだろうか。

本気でやって、やりぬいて、それで、ダメだった・・・そこまで子どもが味わい尽くすまで、大人は待てるだろうか。

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いいヒントがあった。

心理的に安定して成長した人は、目的を変えることもできるし、適切な目的なら引き続き頑張る。まず心の葛藤でエネルギーを消耗していないから、目的が適切なら、妨害に打ち勝とうとする努力の強化ができる。(略)執着性格者は、心のゆとりがないから、そのことに執着する。頑固とか意地をはるというのは、心にゆとりのない時の心理である。周りが敵の時である。ケチで頑固を特徴とするう肛門性格などは、実は何よりも心のゆとりがないということである。(p.56)

変化をつけるには、どうしたらいいか?
心のエネルギーを、葛藤で消耗させず、ゆとりをもつように、まずはすることだと。

ゆとりをつくる、エネルギーを消耗させない、という振る舞いは「小さなガンジー」とか、引きこもりとかいう現象になることもあるだろう。うつ状態になるのは、心の健全な回復プロセスの一部だと考えていい。

同じ「会社をやめる」でも、怠け者で「イヤ」になって会社を辞める人と、柔軟性があるから会社を辞める人がいる。この二人は生きる姿勢が根本から違う。この同期の違いを理解しない指導者は、創造的な人を「こらえ性がない」などといって、才能を潰してしまう。柔軟性があるから、会社を辞める人は次のことを始める。怠け者は会社を辞めても次にすることがない。
「会社を辞める」にも、色々な人がいる。
第一にうつ病の人や燃え尽きる人がいる。やり直しのきかない人、エネルギーのない人。そういう人には願望がない。
第二は怠け者だから辞める人。
第三は心が柔軟だから辞める人。
(略)
心の空洞がもたらす執着や無気力は、「このままこの道を進んではいけない」というメッセージである。(p.59)

だから、同じ「学校をやめる」「学校に行かない」にも3種類ある、ということだ。
(「不登校」という言葉がどれだけ曖昧か、意味不明か、現象の一部を切り取っているだけか、わかるだろう)

逆に考えると、同じ「学校に通う」「学校に行く」にも3種類ある、ということだろうか。
第一に、「学校に行くのは偉いんだ」「皆勤賞はすごいんだ」とか「私はいい子だ」とか「私はあの子よりすごい」と優越感で通う人。(「暴力・服従」)
第二は、イヤでイヤで仕方ないけど「行く」ことになっている人。(「非暴力・服従」)
第三は、心が柔軟だから通える人(先生のいうこともテキトーに聞く)。(「非暴力・不服従」)

学校に行く子のなかにも、「小さなガンジー」がいるようだ。

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「長男」を家に結びつけて離さない長男信仰は、空虚になったおじいちゃんの心を満たすために、存続している?古き良き時代への種着か。長男という確かな(?)「システム」の頂点には、まだ私がいる・・・・その幻想を支えたいのか?DVをうけても気がつかないお母さんと、DVするお父さんの関係のようにおもえてしまう。

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「僕は4番打者で投手になりたい」と願う。
すると、そうなれないことに悩み苦しむ。
そうなれないのは他人が悪いとなってしまう。
心理的健康な人は、「自分の野球の能力ではどのポジションかな」と考える。
自分の適性や能力や素質といったものを考えて、「選手になれるかなれないか」と考える。
そしてどうしたら選手になれるかを考える。
選手になれなくても苦しまない。
なぜなら自分を受け入れているから。(p.74)

これって、個性値教育だよね、。
イチローがこれだよね。

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自分を受け入れずに、騙し続けることを、自己欺瞞といったり、自己疎外といったりもする。
また自分を卑下する自己蔑視ともいえる。「どうせ自分は、、、」というやつだ。
心理学の用語ではよく、抑圧、とか、自己防衛、という言葉をつかう。
本当の自分の姿を欺いてみせたり、自分自身が本当の自分を感じないようにすることだ。
僕ならば、自分の声を、殺す、ということになるだろう。

自己実現・自己表現・自己表出をせずに、自分の声を出さずに、隠してしまう、本当の自分を閉じ込めてしまうことだ。
そう考えると、自己実現というものは、ありのままの自分を「今ここで」出すことを表しているにすぎないのではないか。

と思える。

小さな自己実現・自己表現が連続して行く先に、今の大人たちがよく考えるような「成功」が待っているようだ。
本当は、小さな(ありのままを出していくという!)「成功」が山のように、積み重なっての「実現」ということになる。

なるほど。

自分で言うのもあれだがいい考えだ。

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八方美人、誰かに合わせて自分を出さない、媚びへつらう、認められたい人は、孤立感をもっている。
どこかに所属するというだけで、強くなった気になる。
けど本当は「本当の自分」でないために、孤立感に悩み続ける。
こうすると、所属する組織に依存することになる。(それが自治会でも会社でも政治組織でも家庭でも友達でも)

自分を守るために、他人の虚栄心、自己中心性、利己主義を満たす道具に自ら進んでなる。
自分を守るために、暴力の一部になる。

孤立している「本当の自分」を認めずに、実現せずに、誰かに気に入られることで(隷属することで)満たされようとした心がある。
自分の意思をもたず、付和雷同する、いじめられていた側が、いじめる側になる。「だって、そうしなきゃいじめられる(孤立する)」
孤立する、という自分の本性と向き合うのは大変かもしれない。
孤立させられた(つながりを失った)という現実を認めるのは大変かもしれない。

それでも、「その手を離してごらん」というのが、この本の、シンプルな答えのようだ。

仮面をかぶって自己卑下をし続けて本当の自分を隠し続けられるほど、人は強くない。

たよりないけどその手を離してごらん、私たち人間には、それしか生きる道はない。(p.183)

なるほど
これはもはや、知恵のレベルで、言い聞かすしかないのだろうか。
こっちの歌よりは安全で役に立つとおもう。

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話が逸れてしまった。
自己蔑視・自己卑下は例えば「お前はダメなやつだ」と言われたり他人に期待されてそうなったとか、原因はいろいろあるけど結局は自分に対する怒りを生み出す。「お前はダメだ!」「お前はこうしなくちゃいけないんだ!」と自分が自分自身に言う(自己実現しない)のが自己卑下であるから、本当の自分は「何くそ!」と怒るのである。これが、人が変わった時に、例えば弱者に対して、現れる。

本当は自分自身に感じている怒りを、弱者に、ある時は子供に、ある時はパートナーに向けて打ち付ける。
(それが学校の先生とか保育所の先生とか会社の上司であることもこの時代、よくあること。)

誰かに満たしてもらえなかった感情を、別の人で満たそうとする。
その間、喪失は終わることなく、不安、怒り、妬み、恨み、苛立ちで自らを、もしくは他者を傷つける。
子供のよくやる、癇癪というやつだ。
子供として未成熟な大人は、こうして誰かを傷つけ続ける。

モラハラ、パワハラ、DV、児童虐待、いじめ、犯罪は、実現されなかったことがらへの癇癪である。
こどもとして未成熟な大人は、こうして暴力を世の中にばらまく。

子供として未成熟な大人は、こうして誰かを傷つけ続ける。
いつまで傷つけるのだろうか?

私は教育心理学者バスカリアの本を訳した。そのなかに、人は心理的に辞めば病むほど行動の選択の幅は狭くなる、とある。悲しみや靴から自分を守るために、自分の心を操作することでも挫折するが、また単純にこの対象喪失の悲しみに耐えられないというケースである。逆境を抜け出す人は焦らない。苦しみは瞬時に消えるものではない。時が熟するのを待つことである。なく時期があってこそ、苦しみを耐えていかれるよううに成長もする。朗らかに生きられる日が来る。いけないのは成長できないことである。長い人生には演歌をう歌う時期もあれば、同時に明るい南米の歌があってもいいのである。心豊かな人生とは、対象喪失に適応した人生である。それは決して悲哀のない人生ではない。悲哀に満ちた人生である。しかしそれは、その時々で悲しい過去と縁を切った人生である。心貧しい人とは、対象喪失という状態への不適応である。それは、先に進めない人生だから。(p.167)

俳優の字を語った時に、
優を憂う人と書いた。それがなぜ、優れていることになるのか。
こういう文章をよんではっとする瞬間があるのだなぁ。。。。
言葉の重み(俳優と演出家の役割)

なるほど。

子育てで大切なのは、断念すること。
これはケジメのことだろう。
躾(しつけ)ではなく気締め(ケジメ)が大切。『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』
感情知性といってもよい。
アンガーマネージメントといってもよい。
社会認知的スキルといってもよい(?)

自分の生きて行く道にいは必ず自分の生き方を妨害する人がいる。その人を「悔しい」と思っていたら、生きる道を踏み外す。ひどいい仕打ちにあって、「悔しい!」と眠れない夜を数越している時がまさに人生の道を踏み外す時である。自分を見失う時である。自分の中に核となる部分が無ければないほど、人はこのマイナスの感情に振り回されてしまう。その「悔しい」という感情で緊張し、所望し、病気にもなり早死にするのである。「あいつとは関係ない」と心の中でその人たちを断ち切ることである。回復力、復元力、立ち直り力の強い人は、皆心のなかに核をもっている。(p.195)

この「核」が何を示すのか、この本には書かれていない。。。笑!

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擬似成長、という言葉をマズローは使ったらしい。
これは僕の「コドモとして未成熟なオトナ」と似ている言葉のようにおもう。

擬似家族。
「仲のいいように見える」家庭の子が親を殺す。
社会的には適応しているが、情緒的には適応できていない。
仮面はかぶるが、心は、無意識は荒れ狂う感情を抑圧するうことにエネルギーが消費され、成長することがない。
外から見れば、成長している、円満な家族であっても、心理的には成長していない、戦争状態である。

小学生、中学生、高校生の生理学的な「思春期」すらも抑圧されている子がいる。
命が、、、、、、、命が。。。。。。。

これは家族単位での自己卑下であり自己抑圧、自己欺瞞、であろう。
これが学校単位、地域単位、国単位であるとしたら・・・もう本当に、どうしたらいいのかわからなくなる。

そうだ、まず、自分なのだ!

自己否定・自己卑下をやめて、どんなに小さいことでも自己実現・自己表現・自己認識。
子どものときなら、お母さんが排泄物を処理してくれたように、体に悪い、心に溜まってしまう感情を拭い取って気持ちよく笑えたかもしれない。今、ひとりで、どうしたらいいのか?わからなくなったら?

まずそのわからない苛立ちをそのまま抱いてみることなのだろう。
焦らない。ひとつひとつ、感じていけばいい。
投げ出さずに、時間をかけていい。
実はそれが、アーノルド・ミンデルのプロセス指向心理学の原理なのだが。

オムツにうんこをもらしてしまったとしよう。
「うんこでびしゃびしゃだよ!うわー!びしゃびしゃだ!」
しばらくその不快さを味わって、当たり散らすかもしれない。「気持ちわりんだよ!」と誰かに暴力を振るうかもしれない。誰かに媚びへつらってオシメを変えてもらいたいと告げるかもしれない。それでも誰もおしめを変えてくれないところまで、うんこと付き合ったのち、自分で新しいオムツを用意して、自分でうんこを処理することになるのかもしれない。

うんこをすることを禁止されている人がいるかもしれない。
もう、うんこをしたくても、できない体になってしまったような・・・
「まぁ、それならそれで出るまで待つさ」といえるかどか。
「うーん、野菜食べてみようか?」
お腹が痛くても、出ない、ということもあるかもしれない。

ながい、ながい、時間がかかる。
この辛いプロセスを、誰かと一緒に、片方の手を離す代わりに、もう片方の手を握ってくれる人がいてくれるなら、しあわせだ。

オトノネは、その片方の手になりたいとおもっている。
できんのかな笑いやいいや、やってきた。

メモ:交流分析のグールディングと言う人が書いた『自己実現への再決断』という本があるらしい。どんなものか。

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手を離そう。
休もう。

止めよう。

大人も子どもも。

手放すには、落ちき切るまで、落ちていかなくてはいけないのかもしれないけれど。
それも、プロセス。

「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

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あ、そうそう、ヒトラーも安倍さんも劣等感の塊ですね。
そういう風に、育てられたのです。

さて、誰に悪口をいったらいいでしょうか?
歴史の勉強をしなかったあなた自身でしょうか。
彼らを生んだ母親でしょうか。
父親でしょうか。
それとも彼らの学校の先生でしょうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

子どもの自立と喪失経験『悲しみに言葉を』

悲しみに言葉を

喪失(そうしつ)経験、という言葉がある。

誰かを失った、何かを失った。。。
安定していたものが、不安定になる。

そういう気持ちを言葉にすることが、安定への第一歩だ。という本。
喪失の経験が、成長につながると。

でも、そうした喪失を体験すれば、誰でも成長することができるのだろうか。私には、そうは思われない。本書で私は、喪失から何かしら肯定的なものに変容しようとするときに大切なことは、喪失を意味付けること、喪失から学び洞察を得ること、そして経験にもとづいて何か肯定的な事柄を他者に伝えるという、心の中の大変困難な作用であることを主張したいとおもう。(略)ヴィオストの本の真価は、生きている間じゅう、人はさまざまなタイプの喪失を経験するのだといことを伝えている点にあると思う。(p.5)

例えば、志望校には入れなかったことも喪失経験になるかもしれない。
バラ色の結婚生活だったものが、変わったことも、喪失経験といえるかもしれない。
「うまくいく」と思っていたことが失敗することも、喪失かもしれない。

女の人であれば、流産、子供ができない、、、といった状況も、喪失体験と呼べるかもしれない。
男性には感じられない深い命の感覚を、女性はもっていると僕はおもう。

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ちなみにこの本で取り扱っている喪失経験は次のよう。

親しい人の死による喪失
離婚・離別による喪失
理不尽な暴力による喪失(DVや性的虐待、犯罪)
戦争や大量虐殺による喪失
病気や事故による喪失(慢性的な病気や加齢を含む)
貧困、ホームレス、失業

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目次を読んでいると、こんな項目がみつかる「西側からの『喪失の輸入』ー映画・テレビの暴力とタバコ」
モノが、モノの移動が、喪失をもたらすという視点だ。

また、「公認されていない悲嘆とスティグマ化」では自殺や近親相姦、摂食障害にもふれている。
公認されていないとは、「悲しむことが認められていない」という意味でとらえてよいかしらん。

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人生のある時点における重大な喪失に圧倒されてしまい、その喪失を十分に消化できないまま、その後の人生で出会う喪失によってさらにひどく打ちのめされてしまう人もいる。(p.6)

打ちのめされるタイプはビッグファイブでいうところの神経質傾向がある人だろう。
打ちのめされずに、他人に暴力を振るう、支配的になるというタイプもいる。

打ちのめされる(自分を打ちのめす)にしても、(誰かを)打ちのめすにしても、どこかに歪みが生まれる。
自分自身の内的な問題として心に抱える心の仕組みを作った人などは、自分から苦しみに耐えかねてカウンセリングを受けるかもしれない。宗教に入るかもしれない。

打ちのめす側(例えばDVとか、ストーカーとか、犯罪とか、ネットで誹謗中傷、脅しをかける人とか)の問題は、なかなか取りざたされない。(日本の政治家のほとんどは、打ちのめす側にまわる。学校の先生も一部は自分が打ちのめされ、ほとんどの場合、こどもを打ちのめすことをしている。本人は、気づいていない。)

じつは打ちのめす側の人が、世の中にたくさんいる世の中が(打ちのめす側が有利な世の中が)、現実なのだが。

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僕は、人が生きるために大切なものが、最初からなくなってしまったのではないか(喪失している)と感じている。
簡単に言えば、人が生きるために大切な「人間」がいなくなってしまったと、感じている。
かつては、共同体の中で、精神的な支柱になるようなシャーマン、巫女、知恵をもった人がいた。
現代では、なかなかみつからない。(それで間違ってカルトに入ったりする)

そんななかで、「人間」と出会えた人はしあわせだ。

大地とともに、空を見上げることを教えてくれる人がそばにいてくれたら、しあわせだ。

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心は、語りたがる。

人も、語りたがる。(嫌な気持ちを口にするだけでも、愚痴るだけでも、気持ちが晴れるものだ)

『悲しみに言葉を』では、語るということが心にどんな開放感、前進する力を与えるのか書いてくれている。

悲しみを忘れるわけではない。
悲しみは忘れられるものではない。
ただ、悲しみは自分の一部であるし、それに寄り添って言葉をかけてあげる、悲しみの言葉を、自分が聞いてあげること。祈ること。そうした行動を積み重ねること。それを喪失経験という。

喪失を、きちんと、経験するということだ。

まるで、自分の中にいる悲しんでいるこどもを抱きしめて、声をかけてあげるようだ。

忘れる、ということとは、少し違うような気がする。

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話し始めると、まとまりがないかもしれない。
そのまとまりのない状態も、こどもにもよくあること。
言葉にしながら、気持ちを整理していく。

その時間が、プロセスが大切。

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子供の成績が悪くて、もしくは子供の振る舞いが気に入らなくて「怒る」感情は、どこからくるのか?それも「悲しみ」に還元できるのか?(実は怒りの方が一次的な感情であるらしいのだが。そうすると、この本のタイトルは『怒りに言葉を』になるだろう)

といったことを考えてみてもおもしろい。
バリ島では、感情は3つにまとめられている。
怒りと悲しみと、平穏である。

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離婚を乗り切るための有用な入門書としては、クラインクの『人生の問題に対処する』があげられる。彼のアドバイスは論理的かつ直接的である。彼によると、全体的に、どうしたら悲観の過程を進められるのかを知ることが必要だという。これには、われわれは他者や他者の決定を自分のものにしたりコントロールすることはできないという事実を受け入れることが含まれる。われわれはしばしば、たとえば彼らの決定が自分の欲求や利益に反するものであっても、それを尊重し受け入れなければならない。

親は、子供をコントロールできない、ということを、きちんと、本当に、心から、受け入れられるか。

コントロールにもいろんな程度があるだろう。
「育英に通わないと、お母さんが困るから」といって育英に通い続ける子がいる。
コドモはお母さんに気を使って、自分を犠牲にして生きているかもしれない。
親が、子供の選択肢を限りなく限定していることが、多々ある。

それでいて、「子供に選ばせている」という人がいるから、なかなかだ。
「あなたのため」は呪いの言葉でもあるが、脅迫でもあると僕はおもう。
詐欺でも使える言葉の響きをもっている。
ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる⼦どもたち

ツイッターのコメントで見るニュースサイト・セロン

悲哀の仕事という課題を成し遂げるために十分に時間を取ること。それには、喪失という現実を受け入れること、苦痛や非嘆を経験すること、新しい生活に適応すること、新しい生活をうまくやっていくこと、などが含まれる。

受け入れるためには、長い時間がかかるかもしれない。
その間に、子供は成長して行く。成長する姿を、オトノネで感じながら、お母さんが「子どもを失う」、つまり子供が自立していく経験をしていくことが、大切なのかもしれません。

それは、考える、とか、無理やりそのように思考する、といったものではありません。

心が、大事なのです。

時間がかかることかもしれません。
だから、お母さんにも、お子さんにとっても、オトノネを大切にして欲しいのです。
響き渡るための、時間を。感じるための時間を、大切にして欲しいと思います。
その貴重な時間を、不安でいっぱいの定期テスト対策で終わらせて欲しくない、というのが、オトノネの思いです。

「この子はもう、大丈夫なんだ」と思えるようになるまで、お母さんがお子さんにしがみついたり、お世話を続けて行くと、サポステに行くことになります。高学歴な人が、社会に出られない、どうしたらいいかわからないという状況になる背景には、「させられた」勉強、「させられた」人生に対する無力感があるとおもっています。親が用意してくれなかったら、できない、という状態です。

子供を自立させる、それは、お母さんにとっては「こども」の喪失経験になるかもしれません。
こどもが「おとな」になることをお母さんが恐れていたら、こどもは「こどもとして未熟」のままオトナになるかもしれません。

これが、僕が「10歳になったらもうオトナ」と言う理由です。「こどもとして成熟」していなくてはいけない。10歳からは「未熟な大人」として関わって欲しいのです。そうして18歳には、「成熟した大人」として子どもが一歩、踏み出せるように。

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最後に、この本には「適応」という章がある。
喪失の経験を完了するための、語る以外の方法があるとしている。

その中のEMDRは、トラウマをなくす、忘れるために、記憶を思い出すと同時に眼球を左右に振るといいう動作をするだけである。
またロゴセラピーは苦悩を身体的・心理的な問題ではなく、目標の欠如から生まれるとして、意味ある目標へと向け直す方法をとっている。ブリーフセラピーやヨガ・ダルシャナの考えと類似している点だ。

例えば、ピアノを弾いたり、音楽をしたり、絵を描いたり、そういうコミュニティーの中で自分の新しい姿を想像すること。(例えばそれが旅行だとか食事だとかブランドのバックとかで作り上げる新しい自分では、消費だけだからおすすめしたくない)


怒りや悲しみに対して、「不安」や「絶望」を餌として与えないこと。
もっと別のもの、平穏を育てよう。という考え方だ。

そうして「子供」や「家庭」、「会社」以外に意味を作り出すことは大切だとおもう。
自分の人生を自分でつくること。
自分で選ぶこと。

これができて、成熟した大人になるのではないかとおもう。
だから大学受験というか、就職試験というのは、成人の儀式だと、僕はおもうのだ。
受験勉強ってなんだろう。思春期との関係。塾の先生の役割。バリ島の儀式。

「そんなもの、わからないよ。新しい意味なんて」という人は、ダイゴのこの動画をみてもいいかもしれない。

人生の意味の喪失、これも、喪失経験かもしれない。慢性的!??

それから、こういう言葉が役に立つかもしれない。アインシュタインの言葉らしい。

人間は、私たちが宇宙と呼ぶ大きな全体の一部である。人間は、自分自身、そして自分の考えや感情を、それ以外のものと切り離されているかのように思っているが、それは人間の意識がなせる一種の錯覚である。この錯覚は私たちを個人的な欲望の世界に閉じ込め、自分の周りのごくわずかな人たちにしか愛情を向けないようにしてしまう。この錯覚は、私たちにとって監獄のようなものなのだ。私たちの課題は、この監獄から自らを解き放つことである。それは、私たちの思いやりの輪を広げて、生きとし生けるものすべてを、美しい自然の全てを包み込むことによって可能になる。(p.348)

日本であれば、「家系」とか「家」という概念はすでに壊れただと認める段階にあるのかもしれない。
そういう、宇宙的な時代がやってきている。

人は、宇宙に行ったらしいが、魂は地球においてきてしまった。
そんなかんじだ。

「家系」とか「家」とか「分家」とか「本家」とか「長男」という言葉で、どれだけの人が足止めを食らっているのか。(その悲劇を、本人は認めていない。喪失を、きちんと経験できていないとおもえば理解しやすいだろう)

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ある人は、人生の意味、自分の価値というものを埋める物語をつくるために、ボランティアに没頭する。
ある人は、お金儲け、会社の仕事に没頭するかもしれない。
ある人は、「古き良き時代」の喪失経験をしたくない(できない)ために、子どもを「つなぎとめる」ことに没頭するのかもしれない。立場主義を貫き既得権を放棄したくないということだろうか。古い世代の物語をきっと、ずっと語り続けるのだろうか。「おじいちゃん、今、2020年だよ!?こんな世の中なんだよ!?」と教えてあげたらいいのだろうか。経済学講義をしなくてはいけないのか?サポステの話をしたらいいのだろうか?大切な家族なら、そうして喪失経験を一緒にしてあげることも必要なのか?家族とはなんだろうか?

もしかしたら、子供自身が「そのような家に生まれてきたのだ」ということをきちんと受け止めること(喪失経験)だ大切なのだ、ということもできる、、、、かもしれないと思うと、誰が悪いわけでもない。

一体、どうしたころだろう??????

いろんな「心の反応」が混ざり合って、人間の社会は作られている。

ある人は、「こどもとして未成熟」なままで、政治家になってしまったりもする。

いろんな「心の反応」が混ざり合って、人間の社会は作られている。
そのバランスをとるための政治が、偏っているのは、僕にはいただけない。
暴力であふれた世界は、僕にはいただけない。

僕はだから、これから、音楽をすることになるんだとおもう。
それが僕の中で、僕自身のバランスをとることなのだと、そうおもう。

結局、誰かが悪いのではない、自分自身をよくするしかない、ということなのだろう。

ーーーーーーーーー

悲嘆に対して、ネガティブな感情に対して、中村天風は様々な実践を説いた。
笑う、ということだ。

中村天風の実践哲学における「笑い」で食卓を見直す

笑顔に包まれた食卓、それだけでも、人は生きる意味を作り出せる。

本当に、ただそれだけでも。

笑いあえる仲間に出会えた人は、しあわせだ。

誰にでも実践できること。

お試しあれ!

オトノネひろげるシェアぼたん

フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。

社会人もオトノネで学んでいる。

精神保健福祉士の資格をとるために一緒に勉強している人とテキストをみながら、フィンランドの自殺率は実は日本より高かった(過去形)ことを知った。
フィンランドの自殺率

元の記事はこちらから
https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-034-08-09-g267

ではどういう試みをしたか?
というと。。

1972年、各自治体に保健医療センターの設置が義務付けられた。
1984年、日本で宇都宮事件の時、フィンランドはすでに入院医療から地域ケアへと施策を変えていた。
それから最速と言われる速さで入院医療が減る。それを支えたのは、保健医療センターとプライマリ医と他職種によるケアであったと。

フィンランドでは全国で200の保険医療センターがあり、その5つのセンターが集まったところに専門医のいる医療機関がある。さらに重篤なケースは全国に5箇所ある大学病院で対応する、というシステムだ。

精神保健、メンタルヘルスは病院の中だけでどうにかできることではない、地域、家族、学校、職場、あらゆる場所で鬱になる人が出て来て、自殺に至る。アルコール依存症のケースもある。それは病院の中だけで、定期テスト対策のように「対策」しても無駄だ。フィンランドはプライマリケアに尽くした。そもそも「定期テスト対策」にならないような生活、暮らしを作り出すようにした。そのための人材が、ソーシャルワーカーだ。

日本が15に対してフィンランドは150。
(そもそもソーシャルワーカーとは何か?ということを日本人は知っているだろうか)
読んだことがないけれど、ソーシャルワークとはなにかを理解するのに、これが一番だろうという本を紹介しておきます。
ソーシャルワーク

「定期テスト対策」ではない、暮らしレベルの福祉のために、フィンランドという国は施策を重ねて来た。
その結果が、この自殺率の減少。(再喝)
フィンランドの自殺率

日本でどれだけのメンタルヘルス、精神保健、心の健全さが保たれる社会的なしくみがあるだろうか?
フィンランドにある保健医療センターに該当する施設は、日本では精神保健福祉センターであり、県にひとつ。
いやいやそれ以外にも、サポートする場所はあるだろう。。。例えば、保育所はお母さんのメンタルヘルスの相談設けることになっている。
「タテマエ」は。

実際は、そうなっていない。
結果が、伴っていない。

子供の精神福祉のことだけを考えても。
児童相談所はてんてこまい。
スタッフは忙しすぎて、忙殺され、やめていく。
児童養護施設ははち切れる。
児童虐待が止まらない(子供は減っているが)。

成人の精神保健の現場も、日本はなんら変わっていない。

精神科のベットの数はなかなか減らない。塾や学校に縛り付けるのと同じように、多くの人が精神科のベットに縛り付けられている。

在院日数も日本はダントツだ。

入院にはお金がかかる。(しかしそれでお医者さんはお金儲けをしているのだからどうしようもない)
多額の税金が、「定期テスト対策」に使われる。
もっと多くの人にとって有益になる方法は?

クリエイティブに考えられないだろうか。
考えられていない、のが現状だ。それが日本の精神文化だとしたら??
それを国レベルで変えるのは教育しかない。大人がしくみをつくるしかない(が、自民公明党は作る気がない)。

これは精神保健だけの話ではない。

学校も、職場も、家庭も、地域も同様だ。

ーーーー

最後に一つ。
日本の人口は1億2千万くらい。
フィンランドの人口は600万人くらい。

それに対して先ほどの精神科スタッフの数をみてほしい。
この数字をどうみるか。
一体、日本人は、「なんのために働いているのか」
一体、日本政府は、「なんのために働かせているのか」
自民公明党はまだ昭和の夢をみているような気がするのは、僕だけか。

日本のシステムが壊れていることを数字で理解できないなら、教育がなんのために行われているのか、わからない。

ーーーーーー

こちらは

富山市の個別×子別指導学習塾オトノネ堀川教室

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富山市の個別指導塾オトノネ堀川教室

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とりあえずお母さんが定期テスト対策をやめさせるところから始めたらいいと思います。

寒い国は自殺者が多いといいます。
鬱々しているからだと。では、どうやって北の国の人はメンタルヘルスを保ってきたのでしょうか?
それが富山県の精神文化なのだとおもいます。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県高岡市という子育ての条件。幸福度と自殺者。

さて、富山県の、日本の精神文化とは、なんなのでしょうか?

—–

ちなみに、フィンランドが発祥らしい、「オープンダイアローグ」なるものも有名だ。
対話、対話、フィンランドはオトノネの友達だ。

オープンダイアローグ

「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
富山のメンタルヘルスと怪獣。
フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。
本当に不思議な【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。
高岡高校の自殺は、政治が根本的な原因?

オトノネひろげるシェアぼたん

定期テスト対策の弊害【自己改革・心理学系セミナー編】

よく「セミナー」で「マインドセット!」とか「ポジティブ!」とかいうのがある。そういった講演会が、学校でも行われているらしい。僕が聞いた話は、金沢で、だが。

それで生徒の何が変わるだろう。ビッグファイブで学んだ言葉を使えば、神経質傾向の人が楽観的になるスキーマを作り直すことだ(そんな大変なことをセミナーはやろうとしている?いやいや)。モチベーションを高くするとは、外向性を高めるということだ。それがたった一回の「セミナー」で変わることはないだろう。そうして「定期テスト対策」的にポジティブな言葉を喋るようにと完璧主義、誠実性の高い人が習慣を変えようとしたらどうなるか。今現に、課題に疲れ果てている、家庭が不安定で神経レベルで回路が出来上がってしまっている子どもの心に届くだろうか。「夢をもて!目標を高く!」という。その目標が、自己理解に基づいたものなのか。競争に駆り立てられて、設定させられたものなのか(難関大学の名前を口にする高校生によくあるパタンだ)。セミナーは心の弱い人を引き込むキャンペーンだ。「変わりたい」人に「変われる」夢を与えてお金をもらう。言葉で、身振りで、感情に訴えかけ、元気をもらう。それでお金をもらう。もちろんそれで人生が変わる子もいるだろう。一部には(将来、セミナーで大金をはたいてしまう子になるかもしれないから注意)。

けれど、今本当に多くの子どもたちが悩んでいるのは、神経質傾向だとおもう。ポジティブになれないのだ。神経質傾向の子どもに「ポジティブになろうぜ!」といったら、ポジティブでない自分に余計な劣等感を抱くかもしれない。そういう危うさを大人は判っていて、ポジティブな人を学校に呼んでいるのだろうか。学校で子どもたちは「選択できない」危うさと隣り合わせだ。

ーーーーー

オトノネのお母さんからこんな話をきいた。
夜公園を歩いていると、向こうから、親子が歩いてくる。
子どもは小学生くらいだ。
疲れた・・・という子ども。
それに親は「あ!ネガティブな言葉はダメだっていったのに!」と怒鳴りつける。

どうしようもない。
それが定期テスト対策。
マニュアル型学習。

心が大事。

コーチングにしても、マインドセットにしても、セルフコントロールにしても、言葉をメモしてその通りに「作業」することで変わるくらい簡単な心なら、もう誰もがしあわせになっているはずだ。
大切なことなら、「作業」はもうやめよう。

それはそろばん、ピアノの練習から始まったかもしれない。
それは学校の宿題から始まったかもしれない。

大切なことなら、心を大事にしてほしい。

僕らはあまりにも、現代の機械文明に慣れすぎた。
スイッチを押したらなんか変わるとおもっているかもしれない。

人間は生き物だ。
人間は動物だ。
人間は命だ。

人間は、機械のように、そう簡単にカスタマイズできない。

ーーーーーー

子供達は、一発限りのイベント、瞬間的なきっかけではなく、持続的な学びの環境を求めている。と、僕はおもう。一時的な祭りではなく、日々そこから学び取れる、経験をつみながら成長できる環境だ。学校の先生が変わらないで、どうして生徒だけ変えようとするのか。大人は大人であれ。子どもは子どもであれ。大人も子どもも、定期テスト対策はもうやめようよ。定期テスト対策がお金になるのは知っているけどさ。それは子育てじゃないよ。お金儲けだよ。

日本国民は、市民としてみられていない。なぜなら、納税の義務を負わされた労働者であって、権利を持った市民として、自由を使っていないから。自由を使うための学びをしていないから。もちろん学校は子どもを義務を負った労働者として育てる。それは悪いことではない。家庭が、権利と自由、個人の尊重を教えているならば。学校を批判するとき、同時に家庭を省みたらいい。家庭を顧みるとはなにか。家庭の中で、権利と自由、個人が尊重されているかどうかである。それはつまり、親が、子供の権利と自由、個人としての尊厳を守っているかどうかなのだ。「個人」とはなにか。「個人」は文化的なものだ。近代が作り上げた人間だ。日本の遺伝子・伝統に逆らって「個人」を重んじるなら、そのように子育てをしないといけない。もしそれを、望むなら。「個人」とはどのようにしてできるのか。それは、自己認識をもった人間であり、自分の命、自由や選択に対して責任をもつ人間のことでもある。自分が選択する、自分が決定する、自分が感じたことを表現する、そういうあたりまえのことができない学校から離れて、親が凛として子どもを育てること。そのために、親は社会的な資源を、仲間を、子育てのために準備(もしくは子育てしながらつくりあげていく)することが大切だ。日本の子育てシステムは壊れている。その壊れたシステムを正しく「自然」にもどす手がかりを、オトノネは大切にしたいとおもう。

オトノネひろげるシェアぼたん

心療内科に行く前に:医療の現場も【テスト対策】!?その薬、飲んで大丈夫?

こういう話を聞いて、怒りを感じてしまう。
けど怒っても、何もいいことがない。。。。
別のチカラにしよう。

だからぼくはオトノネをはじめたのかな。

ーーーーーーーー

ある子が。

ある子が。

心身症で困っている。

その子は、薬を飲んでいる。
医者にかかって、薬を処方してもらえる。

テスト対策のように、その場で、手軽に、症状をなんとかしようとしたい気持ちはわかる。

けどその副作用の甚大さと、「症状」がでてくる心のしくみの深さを考えれば。

心身症を薬でなんとかしようというのは、よほどの決断でなければできない、とぼくはおもう。

副作用によって、大切な心を自分で守っていくチカラが奪われる可能性がある。
副作用で「別の体調不良」になり、それをさらに調整する元気も心にないとしたら。。悪循環だ。
そのリスクを背負ってまで、薬を処方する、薬を飲む価値があるのか(もちろん、危機的状況を脱するために、飲むこともあるかもしれないが、常用するのは。。。)。

クスリで活かされる魂もあれば、クスリで殺される魂もある。

結局、心次第。

学校教員が宗教団体で救いを求める時代、クスリなしでは生きていけない日常だとしたら、どんなにそれが不健康な状態なのか。

どうしたらいいのか。

その答えとして「クスリ」を安易に選んではいないか。

ーーーーーーー

短期的な救いのために、必要な応急処置があります。
例えば発展途上国で食糧難に陥っている人にとって、とにかくすぐに食料を渡すことが必要です。
一方で、持続的に、自給的に食料を手に入れられるようになる仕組みは?時間がかかります。ですが、自立して、自分の力で
短期的な食料供給(定期テスト対策)に頼らずに自分で自分の身を守るライフライン(恒久的な自己管理システム)をつくることが、オトノネの仕事です。

ーーーーーーー

医者は心身症を、心を理解しているんだろうか?
医者も点数稼ぎで忙しくて、心をみる余裕がないんだろうか。

体が出している自然な痛み、問いかけを受け取らずに、薬で抑圧していいのか。
抑圧しなくては生きられない心と体。
生きるってそんなもんだっけ。
痛みは、身体からの、無意識からの、心からのメッセージであって、別に薬を飲むことが悪いことではない。
そのメッセージを受け取った上で、「じゃぁ、ちょっと今は、待って。準備ができたら、君を救いにゆくよ、準備ができたら」といえるか。

そのうち良くなるさ、と受け身になっていないか。
仕方がないんだ、と諦めていないか。

学校の先生は学校の先生という立場でやらなきゃいけない業務がある。
医者先生も医者という立場上、何かしないとその後クレームが来るかもという不安もある。
それぞれが、お互いの都合で関係し合っている。

お互いの都合でだ。
だから自分の都合を、自分の目線で考えられるように、学ばなくてはいけない。
積極的自己責任を負うために。

学ぶとは、他人の都合と折り合いをつけながら(尊重しながら)、自分の人生を自分の都合で自分が生きるということかもしれない。
「先生、お言葉ですが、私はコレコレこういう理由で、このようにします」と言えばいい。

ーーーー

知っている、知識としてもっていることの大切さを感じる。
と同時に、正しい知識を医者先生すらもっていないことに違和感を感じる。

アレルギーで苦しんでいる人がアレルギーに効く薬の副作用で悩んでいる。
ガンで苦しんでいる人が抗がん剤を飲んで悩んでいる。

薬をやめて食生活、運動、健康を総合的に見直すだけでアレルギーと付き合えるようになる。
薬を飲まずに、漢方にしただけで(お茶を飲んだだけで)ガンがよくなる。

そういう事実を、真実をしらずに、テスト対策でことを済ませてしまって、大丈夫だろうか。

あれ?これちがうんじゃない?と「違和感」を感じたら、学び始めよう。
大人も、子どもも、みな学ぶ過程にあるにんげんだとぼくは思う。

みんな生きるので精一杯。
医者先生も学校先生も、見る人の人数が多すぎて困っている。

だからオトノネは、完全個別にこだわっています。

医療に関する問題提起記事はこちら
医療が発達して学校教育で排除される子どもが生まれる。教育はテクノロジーの責任を取っているか。

オトノネひろげるシェアぼたん

夢見る時間を大切にする。

日常の動作がはじまってしまえば、消えてしまう。
きっと大切なものを見せてくれている。
けど、日常の中で、すぐに消えてしまう大切な時間がある。

記憶に残そうとしても、意識しようとしても、残らない。。。。

「夢見ている」状態でペンを握って、記録しよう、という考えが浮かんでも、夢見ている状態で、手を動かすことができない。
(自動書記ができる人がいるらしいが、僕にはまだ、まだ!できない)

いろんなものが詰まっている僕の頭が、話しかけてくる断片的な物語。
つじつまがない、子どものおしゃべりのような、物語。

意味がよくわからない話でも、子どもにとっては、何かしらの心の働きがあって、言葉になってでてきているものだ。
そうおもうと、子どもの「今日ね!◯◯ちゃんがね!」という話ひとつが、愛おしく感じられる。

ーーーーーーーー

インディアンの人たちは伝統的に、黄昏の時間、夜の時間をdream timeと呼んで、特別な時間にしている。
夢を見ているような状態をdreamingという。

心を大事にしたいなら、眠りを、休息を、そして仲間を大事にしないとなぁ。
やっぱり、《放課後の学校》は無料にするか。

学習塾で、お金稼ぐ?
オトノネさんの単価は、どんどん低くなります。
そのうち空気みたいに、無料で、大切なものになるのでしょうか。

それでも、いい生き方だと、思えてしまうくらい、僕は今空気に憧れています。

そうしたファンタジーを大切にして、現実の壁を乗り越えて、プロセスを進めていこう。
というわけで、無料でいいですね?

1万6千円とか、普通の値段にするのは、いやです。
それよりも、無料にして、何が起こるか、みてみたい。

そっちのドキドキの方が、僕にとっては大切な事のように思える。

あれ?またコンビニのバイト始めないとムリじゃない?笑

誰か、影分身の術を教えてください。

ーーーーーーーー

夢にいろいろ、教えてもらおう。

意識の世界ができることなんて、ほんとうに、小さなことなんだ。
それは不可解かもしれない。偶然かもしれない。
そんなものが今の僕をつくってきた。

だから、寝ます笑

ーーーーーー

ファウストは、いろいろなことを知っていました。
ですが、大切なことがわからず、メフィストフェレスという悪魔と手を組むことになりました。

悪魔はファウストに、夢を見させたのです。

悪魔という名前でなかったとしたら、メフィストフェレスは、立派に、ファウストの「止まってしまった」思考、もう意識の世界では動かすことのできないプロセスを、動かしたのでした。そのように解釈することができる。

悪魔の名前を、感情知性と言うこともできる。

だから、寝ます笑

ーーーーーーーー

僕が最後に、死ぬまでに曲をつけたいという戯曲が、実は、ファウストだったりするのです。
友達だもん。

すごく普遍性がある物語。
今の高校生たちにも、見てほしいな。
高校生バージョン、つくるよ笑

そういう芸術家としての僕を、まだ日本でちゃんと見てあげれていない、気がしている。
いつも、いつも、後回しになっちゃうね。ごめんねー。

夢で会えるかな

オトノネひろげるシェアぼたん

なかなか変われない人、変われない組織の「自己防衛」のしくみと子どもの「抑圧」

だれもが、プロセスの中にいる。
いつ起きるかわからない心の動きで、人生が変わって行ったり、同じことを繰り返したりを繰り返しながら、進んでいく。

オトノネにきて、新しい心の動きが、人生を新しいプロセスに向かわせるように変わっていく人もいる。
いろんな人がいる。

ぐるぐるしながら、進んでいく。
いろんな人に出会いながら、人と出会うことで、変わっていく。

僕もそうしてオトノネを始めることになった。
人との出会いと同じくらい、お母さんにとっては「子ども」と出会うことは、とってもとっても、大切なことだとおもう。
誰かと一緒にいるから、何かが起きる。

近くにいる、誰かの心を大切にしているだろうか。

ーーーーーーーーーー

心がつながるのが怖い

感情、の本を探している時に気になったので借りてきた。

こちらはカウンセラー、心理学のための本で、「自己防衛」で関係がつくれない人たちの話を読むことができる。

「自己防衛」とは、どうしようもない状況で情動が引き起こした防衛反応のこと。

それは、理不尽な身体的、精神的暴力を振るわれたのを「自分が悪いんだ」とおもうことも含まれる。

また、関係を避ける、といった振る舞いにもでる。

「自己防衛」は主に、思春期以前の経験が元になっている。
無力感、悲しみを抱いた時に、「若さが故」に心がはじき出した最適解。

その時は、役に立った。
困難を切り抜ける作戦として、有効だった。

しかし、
自己防衛が大人になっても、無意識のうちに繰り返される場合、「うまくいかない」といって苦しむ人がいる。

「何か変だ・・・」

ーーーーー

この本は、子供の頃の自己防衛が大人になってから「人を愛せない」で困っている人たちに焦点をあてている。

心は成長したのに、子どものころにつくりだした作戦が無意識のうちにまだ働いている状態が、苦しいのだ。

「なんか変だ」という違和感を感じたら、きっと、大人になったその人が、その人の中にいる子どものときの自分に語りかける時だ。
カウンセラーは、そのお手伝いをする。

本人が気がつかないような身体のメッセージがある。
少しづつ、忘れていた、無意識に落とされてしまった心、気持ちを拾い上げていく。

自覚して、言葉にして、思い出して、そして、今、その場で子どもの頃の自分と対話をする。
そうしたプロセスが、「大人な私」と「子どもだった私」を出会わせる。

こう語りかける。
「もう大丈夫だよ。子どもの頃の君は、そうするしかなかった。つらかったんだ。心から、君がつくった作戦に感謝する。そのおかげで今の僕がある。けど、もう大丈夫だよ」と、心から、心から語れるようになるまで、向き合う。

「誰も信じない」という作戦をとった子どもがいる。
けどもう今は分別もついたし、心も強くなった。信じてみないかい?
怖くなったら、誰かの力を借りよう。君は一人じゃない。大丈夫だよ。

子どもの頃に受けた精神的、肉体的暴力を大人になってから繰り返す人がいる。
自分の無価値さを無意識のうちに心に刷り込み、おかしくなってしまった心の防衛のために、「他者に暴力を加える」という、自分がされたことを他者にも繰り返す。「暴力を加えた人」を防衛のモデルにするしかない、子ども時代の記憶が、無意識に繰り返される。厳しく育てられた子ども。厳しいのは、親の愛情だと思っていた。そう信じるしかなかった。けど今は、そうは思わない。僕は強くなった。親は私を愛してはいなかった。だから、僕は暴力を繰り返さない。

「大丈夫だよ、ほら、だって、今、あなたに僕の姿がみえるでしょう。僕のことを抱きしめてくれているでしょう。僕を、ちゃんと感じてくれているでしょう?」

子ども時代に欠けていたものを、大人になってから誰かに求めることもある。(それは子ども時代、に限ったことではないが。)
けど、その子が欲しかったものは、他の人からは手に入れられない。ことが多い。
大人になったから、強くなったはずだ。もう大丈夫だ。欠けているものは欠けている。けど、その悲しみを何かで埋めようとしていた子どものころよりも、「もっと、より」今は強くなっている。大人の私は、子どもの君(もしくは、大人になった後の、あの時の、あなた)を、おもいやれる。

だから、大丈夫だ。

悲しみを暖かく抱きしめる、今の私と、かつて悲しみにくれていた私が、出会う。

自分を抱きしめてみてもいい。
大切な誰かを抱きしめてみてもいい。

自分の心と、相手(自分自身)の心、を感じられたら、きっと、何かが動き出す。

動いていく心を感じてみよう。

ーーーー

無意識に触れる時、体のどこかが反応し、心の底で情動がうごめき、頭のなかでその動きを捉えることができる。
感じること、を通じて、子どもの時の自分(もしくは大人になってからの、あの時の自分)、無意識に落としてしまった、本当の心を知る。

感情に触れられない、心に触れられないまま、「防衛」「抑圧」を繰り返してしまうと、それからも不幸な人生を送り続けることになるかもしれない。現実不可能な願望を抱き続けるかもしれない。そうして、今目の前にある世の中と、今、大人になった私の折り合いがつかなくなる場面がでてくる。

そうなった時、助けてくれる人が、近くにいるだろうか?
自分に向き合う、自分を感じる時間をつくれるだろうか?
(あくせくと、残業や課題でおわれていないだろうか?繰り返される「自動思考」で頭がパンクしていないだろうか?)

「悲しみ」を避けていたら、「悲しみ」と一緒になってやってくる(物事は大抵そんなものだ)他の何かを得ることができない。
今、大人になって、「もっといい作戦」を考えられるはずなのに・・・・

「防衛」とは「感じないようにする」ことだ。
本当の自分を感じないようにして、誰かのために命を捧げることも、「防衛」といえる。
心を安定させるために、「その時」選んだ、最適解。

だから、防衛を解いて、感じることは、ある意味とてもつらいことだ。

一人では、とてもやっていけないくらい、つらいこと。

だから、、、、
だから、一人でがんばれる!とはおもってほしくない。

ーーーーーーー

自己防衛とは、無意識に繰り返される心の「生き残り作戦」である。
もうそれは、古い。新しいものにしたらいい。

そんな時に必要なことは、思い出し、子どもの時の心に気がつき、対話すること。
これは「学びの共同体」の「学び」そのものだし、ナラティブアプローチともいえるし、無意識に溜め込まれたその人の経験が生み出した「情動の仕組み」を理解することでもある。回避していては、理解はできない。対話をする場がなくては、理解ができない。そもそも、気が付いていないことが多い(だからカウンセラーは、まず、まずはクライアントがクライアント自身の感情に気がつくような働きかけをする)。

「愚痴をいう」という行動で「防衛」するという作戦がある。
「しゃーなしでもやる」という行動で「抑圧」される心がある。

もしかしたら、癖になった「防衛」や「抑圧」の影で、本当に見て欲しいあなたの一部が「僕には気づいてくれないの?」と、声をだしてすすり泣いているかもしれない。

目の前で苦しんでいる保育園児、小学生、中学生、高校生に気がつかない親や保育士、学校の先生と同じだ。
君の中で、泣いている、悲しんでいる君がいるかもしれない。

本当にいるんだろうか?

ーーーーーー

多くの親の「怒り」が子どもに向けられている。
それが習い事の嵐だったり、勉強勉強という言葉だったり。
「怒り」の奥にある色とりどりの感情に気がつかない。
「怒り」に気がつかない。

「怒り」にもいろんな名前がある。
妬み、憎しみ、悲しみ、恨み、、、、、

怒りの底にある、親が経験した悲しい出来事に、向き合えない。
自分が向き合えなかった感情・出来事を、子どもに向き合わせることをしている親がいる。

子どもは、お父さん、お母さんが好きだから、

満たされなかった願望・欲望と付き合うことができず、折り合いをつけ、前に進むことができず、対話ができず、子どもにそれを再現させようとする人がいる。「私は◯◯だったから、この子には!」というセリフを使ったことがある人が、きっといるでしょう。

けど子どもは子どもで親とは違う人生を歩むものだ。
同じ人生を歩かせようとしてはいないか。

子どもはやさしい。
お父さん、お母さんを愛している。
だから、命をかけて、命を燃やして、身を捧げて、応えようとしているかもしれない。
その子の、一番大切なものを、捧げていく。

それは本当に「その子」のためだろうか。

子どもが大切な「今」を差し出している。
大人は、そんな子どもの心に、どんな「今」を差し出せるだろうか。
大切なものを、差し出せるだろうか。

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こちらはオトノネの宣伝です!
富山市の民間学童保育

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悲しみの経験を思い出して、今でも悲しがっている自分の心のために、今日も、1日の終わりに、祈りをかけよう。
「まだ私はうまくやれていないかもしれないけど、いつも泣いている君の隣に、私はいるよ。ちゃんと気が付いているよ。感じているよ」

そうして悲しみを自分の一部にすること。

少しずつでも、少しずつでも、、、、

ーーーーー

痛みや悲しみを引き受けられるようになると、たくさんの出来事に出会うことができます。
苦しみや悲しみを避けることに使われるエネルギーで、苦しみや悲しみを暖かく抱きしめられるようになったら、いいなぁと、僕もいつもおもっています。

弱い人を助けようとする自分は、弱い自分と向き合う代わりに、その人に関わろうとする。
(これを心理学用語で投影といいます。別に悪いことではありません。そういう現象を、投影といっているだけです)

嫌いだな、と思う人が、実は自分の中で「まだ統合できていない」自分の姿だったりする。

情動が動いた時、そこには何かしらの「心の作戦」があるとおもったらいい。
心に向き合う時間を大切にしたい。

人を愛したい、とおもうなら、自分を愛するようにしよう。
愛せていない自分を誰かに映し出してしまうとき、宇宙は、離れていくようである。

ーーーーー

古い時代の作戦をそのまま使っているケースは、よくある。
個人だけではない。学校、保育園、組織は体制を変えることができない。
「もう大丈夫だよ。そのとき必要だった仕組みは、もう今はいらないんだ。大丈夫だよ」

という対話を、一体、組織の中で、誰かしているのだろう。

人生を変えるのは、多くの痛みを伴うこともある。
輝いていた自分が、とつぜん、光を出さなくなるような、ギャップを感じるかもしれない。
それを支えられるような段階に達した時、人は、「危機」に見舞われる。

人を成長させるプロセスがしくむ、劇の幕開けのタイミングは、なんとも巧妙だ。
「え?大丈夫だよね?もう乗り越えられるでしょ?」

痛みを感じないわけではない。
痛みと寄り添えるようになること。
痛みを抱きしめられるようになること。

それだけで、プロセスは動き出す。

大切な自分を守れるようになったら、勝手に向こうから、儀式はやってくる。
学ぶべきものを学ぶべく、人は人と出会う。

心が大事。

ーーーーー

自己防衛の仕組みと受験生になんの関係があるかといったら。

だいたいみんな、「やらされ」て過ごす小学校・中学校時代。
多くの受験生にとって、「やってたことをやる」習慣や、「できる自分」へのプライドがある。

「やらなかったら怒られる」から、「やらない」ことから生まれる不安・恐れを隠してしまったかもしれない。
「当然、できていたことができなくなるなんて許されない」と、「やらない」ことが怖くなっているのかもしれない。

大学受験は、そんな高校生たちが生まれてから今までつくりあげた、「防衛」「抑圧」と向き合う時期だと、僕はおもっている。

それを僕は、高校生の発達課題だとおもっている。
思春期だと、おもっている。

もっと自由になるために、心を大事にしてみたら、不思議なことが起ってくるかもしれないよ。

先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、おとのねさんも、そんな「成長」のプロセスの中にいる。
僕はプロセスの中にいる一人の人間として、学校の先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、僕自身をも、大切にしたいとおもっている。

オトノネひろげるシェアぼたん

【高次認知的情動】とは?情動・感情が現状打破するチカラになる話。また、情動・感情で他人に騙される話。

感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
喜怒哀楽の起源―情動の進化論・文化論
喜怒哀楽の起源―情動の進化論・文化論

情動には文化的な「表現様式」があるという話。
文化の中で、「望まれている」情動があるという話。いわゆる、県民性、国民性というやつだ。

日本人とアメリカ人に対してそれぞれ割礼儀式や吸引分娩、鼻の外科手術のような忌むべき内容を見せるという実験。この時、二つの条件で観察を行った。一つは、実験対象者が一人で見た場合。もう一つは、別の誰か(面接官)がいた場合。一人でいる場合は、日本人もアメリカ人も類似した表情が観察されたが、面接官が同席したときには、日本人はアメリカ人よりも多く微笑み、嫌悪感を表さなかったという。

この実験に関して最も面白いことは、その実験の様子を収めたビデオがスローモーションで再生され、検討されたときに、初めて明確になった。そうした再生においてのみ観察できたことであるが、面接官が同席する場合、日本人の実験協力者は、実際、市最初のうち、刹那、アメリカ人と同様に嫌悪の表情を浮かべるのだが、その後たちまち1秒にも満たないうちにその表情を隠してしまうのであった。(『感情』ディラン・エヴァンズp.13)

同じ「情動」を日本人もアメカジんも感じるものであり、それは不随意で、自動的で、制御が効かないものである。が、その一瞬あとに学習性の表示規則が押し当てられる。

文化によって情動を表す規則があるということ。

もう一つ。

高次認知的情動というものがあるという。
それは大脳辺縁系ではなく、大脳新皮質の影響、つまり意識的で論理的な影響をより多く受け、より計算的に、文化的に処理される情動であるという。その分、大脳辺縁系で処理されるような「基本情動」よりもゆっくりと立ち現れ、ゆっくりと消えて行く。

この高次認知的情動の例として、愛、罪悪感、恥、てれ・決まりの悪さ、誇り、羨み、嫉妬が含まれている。

「ヤバい、逃げろ!」みたいな臨戦体制に入るための情動はもちろんあるが、例えばこんな情動が、馬にもある。

象も子どもが死んだら悲しむとか、動物にだって「情」がある。
人間に特有の大脳新皮質の一つ下にある、より古くからあり、動物と人間が共通して持っている大脳辺縁系にも、同様の「情」が隠されているのかもしれない。そして不安や恐怖ではない、私たちが「あたたかみをかんじる」情の多くは、それが「子育て」に使われているような気がするのだが。

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で、この高次認知的情動というものは、社会活動をするときに有効だという。罪悪感、誇り、嫉妬、妬み。例えばそれが「利己的」になりすぎることをいさめる機能を果たしたり、もっと「利己的」になることを促す機能を果たす。という。名詞にしてしまうと本質がつかめなくなってしまうが、情動とは、「心」の百面相に名前をつけていったものである。一人の人間の中には、社会的な生き方をするための様々な「自己」がいるとおもったらいい。

嘘をつくという社会的な行動がある。
それは「良心」からくるものもあれば「利己性」からくるものもあるだろう。

信頼、人と人の繋がりを円滑に、正常に、するための高次認知的情動がある。
一方で、利益を搾取するような、人を騙すような、利己的な情動もある。

利己性というものが、なんであるかはさておき。

例えば「復讐心(怒りの亜型)」というものがある。
もし理性的に考えて「結局、私は負けるのだから、戦うのはやめにしよう」とおもってしまえば、搾取され続ける、いじめられつづけるかもしれない。そこで、情動を解き放ってしかえしをすれば、結局は勝てなかったにしても、「あいつは根性あるやつだ。もっとひ弱なやつを探そう」ということになって困難を避けられるようになるかもしれない。不利益を与えた相手にも、不利益を与えようというのである。(ここのところは行動経済学の有名な「しっぺがえし」作戦と似ている。基本的に「利他的」な行動をしながら、「利己的」になった相手に「しっぺがえし」をすることで、双方よい関係を保つという作戦だ)

情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。
感情が適切に働くことで、人間は上手に社会化してこれたといっていい。

適切に、働くことで!

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社会的に身についた、もしくは経験的に「学習性無気力」に陥った人たちは、「恐怖」「不安」によって「無抵抗」による利益を得ているようにおもう。たしかに。そうしてみんな、平和に(そう、平和に!)課題・テスト地獄の中に身を置いている。「闘争」もしくは「逃走」という選択肢がでてこない。平和の形も人それぞれだ。

ある意味で、従順でいることで、身を守っている。

ある種の感情を出さないことが「良い」ことだという刷り込みがなされる場合がある。
「不思議に思う」→「不思議をつきつめていきたい」→「けど誰もおもしろがらないし、大人は宿題をやれという」→「そもそも宿題をするので精一杯だから、不思議なんて感じない方が、心に負担がなくなる」
といったプロセスを辿っていき、「本気」になれるものから遠ざかる子どもたちがいる。

そんな中でも、自立心がある子は、自分で勝手に不思議を探究するかもしれない。
それはほんの一部の人間だ(そういう天の才を与えられた、ほんの、一握りだ)。

小中学校は「普通教育」の場であり、ほんの一握りの人間を育てるためにあるのではない。

ちなみに、「るろうに剣心」というアニメで、幕末、育ての親にいじめぬかれた宗次郎という人物が書かれている。
打たれて、泣いていると、もっと打たれる。打たれても笑っていたら、気味悪がられて殴られないことを発見し、「笑顔」以外の表情ができなくなった人として書かれている。これも「刷り込み」の一種。

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情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。

情動には情動なりの固有の理性がある。
(『感情』ディラン・エヴァンズ)

ディランのいう情動に固有の理性を、EI(Emotional Intelligence)、感情知性と呼ぶこともできるでしょう。
IQとEQ
EQとは、社会の中で自分のパフォーマンスを発揮する(天の才を生かす)ために必要な能力
新しい時代、IQよりもEQを大事にしたい件(感情知性は「知性」のメタスキル )

知性なき感情(闘争心?征服心?)を育てるのが軍隊であり、
知性を持った感情(信頼・共感、そして時として「しっぺ返し」のスキル)を育てるのが学校である、と二つを対比してもいいと、僕はおもう。
人間を社会化・組織化する二つの選択肢だ。

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情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。
感情という知性が、いわゆる「息詰まった」合理的知性の助けになる。

僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。
情動、というより、無意識のメッセージを体の変化から受け取る。その情動のプロセスを、大きくすることで、現在ぶち当たっているなにかしらの困難、繰り返されめぐりめぐる思考から抜け出すきっかけを得るというものだ。

考えてもしょうがない。
心に従ってみよう。心が、教えてくれる。
というものだ。

恋愛などもそうかもしれない。
夜なべしてラブレターを書く。
いやもう、書くしかない。
けど朝になってハッと読み返したら、というか恋文を書いたことを恥じたり、手紙を出すことを恥じらったりする。けれども情動として、もっと深いところにある心が、オモイが、やはり夜になると深まるのだろう。

そしてその手紙を出さなければ、前に進めないのが、恋愛である。
無用の苦しみに何年も耐えるより、さっぱりと愛を告白してみて、次のステップにいったらどう?と、心はのたまっているのである。

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だがしかし、情動のそうした働き(切羽詰まっている時の心の助け舟)が、裏目に出てしまうときがある。
結論だけ話すと、「良い気分状態で急かされた」時、人は騙されやすくなる。ということだ。
(『感情』ディラン・エヴァンズ p.123)

塾、教育業界で、種や仕掛けを用意しておいて、体験授業のとき、もしくは通常授業のとき、「これ、東大の問題だよ!」とか「ほら、できるようになったでしょ!」といって、褒めちぎったあとでその場で契約をさせられるとき、疑う方がいいかもしれない。(いや、できる「気」にさせて、モチベーションを高めて、本当に能力をあげてくれるのかもしれないけれど)

高次認知的情動をもった動物として扱われていると思ったらいい。実際、大部分、そうだし。
(保険会社の説明会の会場をたまたま見たことがある。路上パフォーマーを読んで、音楽を流して、楽しませて、契約をさせていた)

「正しい選択」のための合理的な判断など、到底できるものではない。
だからこそ、こうしたビジネスが成り立つ。
サブリミナルな(潜在的な無意識に働きかける)効果とまではいかないが、情動に訴えるこの手法に、みんなやられている。

買わなくてもいいものを、イメージで、「欲望をかりたてられ」買わされていることが、たくさんある。
偏差値、買いたい人、いませんか?進学高校や塾というファンタジーの世界で、たくさん売っていますよ。

ナチスの手法は、日本でもよく使われています。
無償化!教育県!学力一位!には要注意。
お子さんを、心のアウシュビッツに入れてしまっていませんか?

ある意味で、新しい時代を生きる力を削いでいく学校教育は、社会的な犯罪ということもできる。(実際、法律を犯しているから、教育に関するいろんな法律がどんどん追加されていっている)
「集団心理」を利用した、(学力テストうんぬんで情報リテラシーのない人たちを騙す)マスコミを巻き込んだ、社会的な犯罪だ。(最近、ようやく「新しい時代」のための教育がマスコミに取り上げられるようになった)

と、強く言ってしまったら、反感を買うかもしれない。
これは「教育とは何か」という哲学の話であるから。
そもそも、主張でもなんでもなく、僕一人のタワゴトだとおもってくれたらいい。

だって、自由経済だもの!言論の自由があるもの!
けど、悪徳商法にはクーリングオフとかあっても、教育業界には、、、、ない!
時間と、お金が、もどってこないんです。

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ある種の情動には「脅迫」「暴力」「支配」という行為が伴うかもしれない。
僕には「怒り」「嫉妬」という情動がその根底にあるように思える。
このような心に満ち溢れた場所があれば、戦うか、逃げるのが一番だとおもうのだが。そうだろう。

組織への「しっぺがえし」などなかなかできたものではない。。。

攻撃と報復の果てに、平和をみつけるのは、なかなか大変だろう。(復讐の連鎖が、どこかの国でまだ続いている)
だから、そこに生きる個人は、逃げるという方法も、生きる場所を選ぶという方法も、自分の身を守る、大切なものを守るためには、とびきり上等な選択肢であるとおもうのだが。

ちなみに、最近読んだ本の中では、「怒り」を感じた時点で、バリ人は「眠る」という行動をとるという話があった。

が、インドネシアに滞在していたとき、どうみても、インドネシアの人たちが「怒り」という感情を持たないような気がして聞いて見た。答えはこうだ「僕らはね、怒ったらね、隣の村に戦争をしかけるんだよ」だそうだ。
冗談かもしれないが、そうらしい。

「眠る」か「武器をとるか」。
なるほど。

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イスラム教の人たちは、常にコーランを読みながら、感情をマネージメントしている。
日本人も、ヨガやヒーリング、外食、ゲームなどで、感情をマネージメントしている。
けどどれも「感情と距離をとる」ことはできても、「感情と積極的に関わる」ことはしていない。

ブッダの仏教、瞑想、座禅は前者であり、
カウンセリング、演劇、対話は後者である。

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恐れというものが、とても強い人がいる。
恐れから派生するいろんな感情がある。嫉妬、妬み、不安、、、、
怖くなって、身が竦んでしまっている人がいる。

「今は無理だ。僕の中に恐れがある」ならそれを大切にしたらいい。
けど同時に、恐れとは別の情動がみつかるかもしれない。
どちらも平等に、対等に、感じてあげるといいだろう。


情動は心の百面相だ。
ひとつひとつに、言い分がある。

自分の持っている感情、情動のひとつひとつの言い分を、聞いてみるのもいいだろう。
僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。

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こういう先生が学校にはいる。
生徒4人を不登校にした先生が担任になったらどうするか。

「怒り」で生きている人間だ。
些細なことでクラクションを盛大に鳴らすイライラを募らせたドライバーと同じくらい、ストレスを抱えてしまっている先生がいる。
こうした理不尽な「怒り」に気がついて「ああ、私は疲れているのだな」とフィードバックが自分でできない人ほど、哀れな人はいない。もしこういった人に出会ったら、全くの他人でなく、少しでも情が湧いたなら、「疲れているでしょう?休んだらどうですか」と言ってあげてもいい。休めないのが、学校の先生であるのだが。

「良心」が届かない人もいる。
愛せないなら、立ち去るのもいい。

徳のある人間とは、情動を感じない人間ではなく、どの情動にも押し流されず、すべての中庸をいく人であるとおもえた。
情動が出てきた瞬間に、フィードバックをする人間。怒りに対して怒りで返さない。怒りに対して怯えで返さない。怒りに対して、笑いで返すことすらできる人。ある一つの感情だけを増幅させず、一度にあらゆる情動を感じられる人。ある意味で、宇宙的な広さを、心の中に感じている人。なんだか、気持ちがよさそうだ。

ちょうどいいバランスを、さがしていこう。

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ところで、感情の学習、というものが、とても大切だと僕はおもっている。
保育士の先生は「怒り」の感情を伝えることがあるだろうか。「喜び」だけを伝えていないだろうか。
学校の先生は「喜び」を伝えているだろうか。「怒り」だけを伝えていないだろうか。

直接経験しなくてもいい。
ただ、映画とかではなく、現実に、こうした怒りや喜びを学ぶ機会があるともっといい。
それが、実は、芸能、芸術・演劇と呼ばれるものなのだが。

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怒りの感情を加えられた時、怒りや恐れで返すことなく、哀れみの情をもって、笑顔で返す、という神業を使う人に出会ったことがある。怒りを怒りで返したり、怒りを恐れで回避すれば、相手の怒りは回収されない。またいずれ、怒りを加えられることになるだろう。

完全に逃げるか。
そうでなければ、笑いながら、その人の悪霊に飴玉をあげよう。

愛せぬ者からは、立ち去るがいい。
と、ツァラツストラが言っていた気がするのだが。気のせいだろうか。

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感情と向き合う経験。
感情がでてきた後で、きちんと大人がフィードバックを返すこと。
「気締め」が必要なこともあるだろう。

そう考えると、子どもが関わる大人たちがみんな均一になってきているのも、末恐ろしいように感じる。
他者が感じている情動を見抜くチカラ、そしてそれに対してどんな情動で返すかという作戦をたてるチカラ。
それが、実は、EQと呼ばれているものである。(IQではない)

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コツコツと積み上げれば、、、とか、長時間やれば、、とか、一生懸命やれば、、、
という「美徳」というものもある。

忍耐、耐え忍べばいいことがある、という美徳もある(日本はまだ戦時である)。

これもある種の情動といえるし、文化的な、歴史的な「心の作戦」といえるかもしれない。(心理学用語でスキーマといってもいい)

新しい時代、昔から使われてきた作戦を社会的にプログラミングされてしまった心を、アップデートしてみたら、楽に生きられる時代になるとおもうのだが。

いかがだろうか。

結局、今、誰かが向かい合おうとしている課題は、きっと、日本の歴史、日本という場所からの自立を意味するのではないか。
日本という場所、日本という歴史がつくってきた「感情様式」が、うまくいかなくなって、体がヒーヒーいっているとしたら。

今が、自立の時なのかもしれない。

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アニメで「サイコパス」というものがある。youtubeでもみられます。是非是非。
シキソウというものをリモートでいつもチェックされていて、「汚れてくる」と、「クリニック」へ行くように通告される。「犯罪者」を世の中に出さないようにするシステムで成り立っている社会を描いている。ぜひ、学校に取り入れてみてほしい(「サイコパス」映画版か特別版かなにかで、国家的な詐欺をして、「心の汚れた人たち」がそのシステムを悪用するという設定もあった。要するに、どんなシステムも、どんな道具も、人間次第。)

感情・情動が動く場所には、ドラマがある。

がんばれ!がんばれ!
という言葉に、心がこもっていなければ、ドラマは生まれない。
多くの受験生は、心なき言葉に、亡霊に、呪いに、悩まされているような気がするのは、僕だけでしょうか。

幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、子どもはしあわせになる。学童期の「子ども」にお金をかけて大丈夫?

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「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)

「ああすればこうなる」という世界に生きていた。
心がなんなのか、ぼんやりとも、わかっていなかった。

「こうなりたいんでしょ?じゃぁこうしよう」といって、無理をさせていた。
「この子の学力をあげよう。そうしたらこの課題をこうやってやらせて…」ハードルを下げるアプローチは今でも間違っていないとおもうが、やっぱり「やらせる」ことをしていた。

そして、「この方法は、正しいのに、できないのは、生徒がいけないんだ!努力が足りない!」とおもっていた。
同時に「もっといい方法はないのか!?」と「やらせる」ことを研究したり。

行為レベルで言葉を使っていた。
行為レベルで人と関わっていた。
自分に対しても、行為レベルで関わっていた。

いろんな出来事があった。
繰り返してきた。
何度も、人の心を壊してきただろう。
「堕落」を繰り返した。

その度に、浮き上がるたびに、新しい旅を始めた。
「自然」という旅だったり。
「演劇」という旅だったり。
「子ども」という旅だったり。

その中で、「物語」「民謡」「踊り」「芸術家」「カウンセリング」「心理学」「ヨガ」「ストレッチ」「歴史」いろんなことを学んだ。

旅をしながら、周り周り、巡りながら(何度も失敗をしながら)今も、繰り返しながら、ようやく、心を大事にすることを、学び始めている。

人の成長とは、発達とは、すぐにどうこうなるものでもない。
「ああして、こうして、こうする」ということを考えていたらみられなくなる、大切な「今」がある。
そしてその「今」に気がつくためには、いつも誰かの言葉があったし、出来事があったし、何よりもそれらを感じる「時間」があった。

「時間」は、大切にしたい。
焦っても、どうにもならないことがある。

こう言う場合、焦ってもダメだ!もがいたら沈んでいくだけだ!ということを、まずは学んでもいい。
(それを学ぶのが、大学の合格発表の日だったりする。それが模試の結果だったりする。突然やってくる。DVをうけてボロボロになって、何度も試みて、やっぱりダメで、「違う生き方をしよう」という日が、やってくる)

ーーーーーーー

「あー、これからどうなるんだろう…」とおもって友達に話すと
「どうすんのお前笑」とかいう適当な返事や
「おもしろそうだからそのまま行けば?」という何か逆に誇らしくなる返事や(いやもっと役に立つ返事くれよと当時はおもっていた笑)
「小説家になったら?」というちょっと気になる返事がでてきたり。

いくらもがいても、足掻いても、焦っても、わからないときはわからない。
わからないなりに、「違和感」を感じたまま、抱えたまま、明日を迎え続けて来た。

高校中退をした時から、不登校になった時から、いまだに僕は同じ「違和感」を抱えている。
それでもまだわからない。

そのくらい長い、ゆっくりした時間を感じられるようになったのも、「ある出来事」を境目にしてだった。
そういう日がくるらしい。

ーーーーーーー

突然やってくる日を、大切にしたい。
それはいつやってくるかわからない。

オトノネは出来事を起こそうとは思わない。
外ででてきた出来事を心できちんと感じ、フィードバックして、いつやってくるかわからない出来事に備える感じ。
(狙ってその出来事を起こす「導く」ことをまずはやってみるケースももちろんある)

ーーーーーーーーーー

「仕組まない」ことで生まれる不思議があり、「仕組まない」ことで出会える心がある。
(芸術家は、生まれたもの感じたものを身体化、具現化する仕事であり、生まれたものを大切にしながら育てることをする)

僕はそれを大切にしたい。
(だからオトノネに来た人は困るらしい。「何をしてくれる場所なのかわからない」と)

人には誰しも、発達の段階、人生の曲がりくねった道の上にあり、僕が関われるのはほんのその一部だ。
到底、最後まで道案内することなどできないし、案内できるほど多くの道を知らない。
「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

だからもし、おとのねさんに会ってみて、話をしてみて、感じてもらって、僕ができる小さなことが、少しでもその人のチカラになると感じてくれたら、お付き合いをしたいとおもう。

例えば。

「◯◯ができない」
「私は◯◯」

という言葉を生み出す心を、僕は感じようとしている。
縛られているものから、少しでも抜け出して、心を自由にして、今置かれている状況の中で、精一杯、チカラを使って先に進んでほしい。
神経は、記憶している。だけど、心は、成長したいとおもっている。
僕自身が、今、そのプロセスの中にいる。

なにしろ、時間がかかるものだ。
定期テスト対策なんて、なんともまぁ、この悠々とした時間に比べたら、小さなことのように僕はおもう。
その小さなことの繰り返しが、人の心をつくるのだろうけれど。(高校生になっても定期テストでピリピリしている。定期テストという呪いだ。)

頭ではわかっていても、やっぱり定期テスト勉強に勤しんでしまわないと心が落ち着かない子もいる。
それでもいい。なにしろ、定期テストは、小さなことだから。

けどそれで大切な「時間」が減ってしまうとしたら、困ってしまうかもしれない。

時間は減るものではないのかもしれない。
ただ悠々として流れているものかもしれない。

もしその「時間」が課題・宿題というバケモノの姿をして牙をむいて、台風のように、終わりのない嵐のように君に襲いかかっているとしたら?
君は呪文を唱えて、「時間」を元の姿に戻してあげるのもいいかもしれない。

本当に大切なことは、本当に大切なものは、内側から、やってくる。
外から与えられるものではない。

もしかしたら、今君の中に生まれた、気持ちが、「大切なこと」を知っているかもしれない。
聞いてみてもいい。その子はきっと悠々とした「時間」の中にいる。

その子の「時間」に入っていけば、きっと、話ができるはずだ。

ーーーーーーーー

Do it! Doit!と英語で書いてみる。
綴りが、Idiot(馬鹿者)と似ているなぁとおもった。

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人はどこまで遺伝に左右されるか。

問いからはじめる発達心理学
『問いからはじめる発達心理学』坂上 裕子 さんが書いた本。発達心理学の本をいろいろ読んだが、僕いんはこれがよかった。

ーーー

生まれつきのものと、生まれてから育っていくこと。
遺伝と環境の二つで悩むことがある。

「これは、環境を変えれば、良くなるものなのだろうか?」
「これは、もうその子らしさとして、認めたらいいのだろうか?」

僕は環境が与える影響が大きいと思っている。
生まれつきのものを、どう生かすかという視点に立っている。

もし◯◯だからといって子供の環境を限定・制限してしまって他の可能性がなくならないだろうか。
そういう心配をしてしまう。

で、ーーーー

最近読んだ本で、初めて見るデータを見たのでふむふむと頷く。

グラフの色のついた部分は「環境」であって、白い部分は「遺伝」であるという研究データだ。
これをみると。。。

論理的推論能力と空間性知識の二つは有意に遺伝の影響が大きい。
言語性知識はほとんど環境だ。

(もちろんこのデータの中にはいわゆる発達障害と呼ばれている人はおそらくいないであろうが)

「性格」と呼ばれているものも大体、環境だ。と僕は思っている。
デフォルトもあるだろうが、結局、育ちながら磨かれていく「性格」は環境に応じて変わる。と僕はおもっている。
(3歳までに関わった大人の価値観に左右されると考えたらいい。もちろん、それ以後の経験、特に思春期前後の経験も、性格を形成する大切な要因になるだろう)

で、ーーーーー

もし論理的推論能力が遺伝による影響を大きく受けるというのであれば、その割合が気になるところ。
論理的推論能力が高い子と、低い子の割合は一定なのか。

まぁそんなこといっても、結局はその子その子の暮らしには条件がある。
限られた条件の中で、資源をどう使うか。
結局、大人の振る舞いというのは、ほとんど、祈りのようなものだともおもえる。
遺伝であろうが、環境であろうが。

子育ては、物語を紡ぐことだと、今、ふとおもった。

どんな物語を、誰と繋いでいくのだろう。

血縁関係よりも、村という単位とは違った価値観が生まれた新しい時代で。

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