【高次認知的情動】とは?情動・感情が現状打破するチカラになる話。また、情動・感情で他人に騙される話。

感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
喜怒哀楽の起源―情動の進化論・文化論
喜怒哀楽の起源―情動の進化論・文化論

情動には文化的な「表現様式」があるという話。
文化の中で、「望まれている」情動があるという話。いわゆる、県民性、国民性というやつだ。

日本人とアメリカ人に対してそれぞれ割礼儀式や吸引分娩、鼻の外科手術のような忌むべき内容を見せるという実験。この時、二つの条件で観察を行った。一つは、実験対象者が一人で見た場合。もう一つは、別の誰か(面接官)がいた場合。一人でいる場合は、日本人もアメリカ人も類似した表情が観察されたが、面接官が同席したときには、日本人はアメリカ人よりも多く微笑み、嫌悪感を表さなかったという。

この実験に関して最も面白いことは、その実験の様子を収めたビデオがスローモーションで再生され、検討されたときに、初めて明確になった。そうした再生においてのみ観察できたことであるが、面接官が同席する場合、日本人の実験協力者は、実際、市最初のうち、刹那、アメリカ人と同様に嫌悪の表情を浮かべるのだが、その後たちまち1秒にも満たないうちにその表情を隠してしまうのであった。(『感情』ディラン・エヴァンズp.13)

同じ「情動」を日本人もアメカジんも感じるものであり、それは不随意で、自動的で、制御が効かないものである。が、その一瞬あとに学習性の表示規則が押し当てられる。

文化によって情動を表す規則があるということ。

もう一つ。

高次認知的情動というものがあるという。
それは大脳辺縁系ではなく、大脳新皮質の影響、つまり意識的で論理的な影響をより多く受け、より計算的に、文化的に処理される情動であるという。その分、大脳辺縁系で処理されるような「基本情動」よりもゆっくりと立ち現れ、ゆっくりと消えて行く。

この高次認知的情動の例として、愛、罪悪感、恥、てれ・決まりの悪さ、誇り、羨み、嫉妬が含まれている。

「ヤバい、逃げろ!」みたいな臨戦体制に入るための情動はもちろんあるが、例えばこんな情動が、馬にもある。

象も子どもが死んだら悲しむとか、動物にだって「情」がある。
人間に特有の大脳新皮質の一つ下にある、より古くからあり、動物と人間が共通して持っている大脳辺縁系にも、同様の「情」が隠されているのかもしれない。そして不安や恐怖ではない、私たちが「あたたかみをかんじる」情の多くは、それが「子育て」に使われているような気がするのだが。

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で、この高次認知的情動というものは、社会活動をするときに有効だという。罪悪感、誇り、嫉妬、妬み。例えばそれが「利己的」になりすぎることをいさめる機能を果たしたり、もっと「利己的」になることを促す機能を果たす。という。名詞にしてしまうと本質がつかめなくなってしまうが、情動とは、「心」の百面相に名前をつけていったものである。一人の人間の中には、社会的な生き方をするための様々な「自己」がいるとおもったらいい。

嘘をつくという社会的な行動がある。
それは「良心」からくるものもあれば「利己性」からくるものもあるだろう。

信頼、人と人の繋がりを円滑に、正常に、するための高次認知的情動がある。
一方で、利益を搾取するような、人を騙すような、利己的な情動もある。

利己性というものが、なんであるかはさておき。

例えば「復讐心(怒りの亜型)」というものがある。
もし理性的に考えて「結局、私は負けるのだから、戦うのはやめにしよう」とおもってしまえば、搾取され続ける、いじめられつづけるかもしれない。そこで、情動を解き放ってしかえしをすれば、結局は勝てなかったにしても、「あいつは根性あるやつだ。もっとひ弱なやつを探そう」ということになって困難を避けられるようになるかもしれない。不利益を与えた相手にも、不利益を与えようというのである。(ここのところは行動経済学の有名な「しっぺがえし」作戦と似ている。基本的に「利他的」な行動をしながら、「利己的」になった相手に「しっぺがえし」をすることで、双方よい関係を保つという作戦だ)

情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。
感情が適切に働くことで、人間は上手に社会化してこれたといっていい。

適切に、働くことで!

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社会的に身についた、もしくは経験的に「学習性無気力」に陥った人たちは、「恐怖」「不安」によって「無抵抗」による利益を得ているようにおもう。たしかに。そうしてみんな、平和に(そう、平和に!)課題・テスト地獄の中に身を置いている。「闘争」もしくは「逃走」という選択肢がでてこない。平和の形も人それぞれだ。

ある意味で、従順でいることで、身を守っている。

ある種の感情を出さないことが「良い」ことだという刷り込みがなされる場合がある。
「不思議に思う」→「不思議をつきつめていきたい」→「けど誰もおもしろがらないし、大人は宿題をやれという」→「そもそも宿題をするので精一杯だから、不思議なんて感じない方が、心に負担がなくなる」
といったプロセスを辿っていき、「本気」になれるものから遠ざかる子どもたちがいる。

そんな中でも、自立心がある子は、自分で勝手に不思議を探究するかもしれない。
それはほんの一部の人間だ(そういう天の才を与えられた、ほんの、一握りだ)。

小中学校は「普通教育」の場であり、ほんの一握りの人間を育てるためにあるのではない。

ちなみに、「るろうに剣心」というアニメで、幕末、育ての親にいじめぬかれた宗次郎という人物が書かれている。
打たれて、泣いていると、もっと打たれる。打たれても笑っていたら、気味悪がられて殴られないことを発見し、「笑顔」以外の表情ができなくなった人として書かれている。これも「刷り込み」の一種。

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情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。

情動には情動なりの固有の理性がある。
(『感情』ディラン・エヴァンズ)

ディランのいう情動に固有の理性を、EI(Emotional Intelligence)、感情知性と呼ぶこともできるでしょう。
IQとEQ
EQとは、社会の中で自分のパフォーマンスを発揮する(天の才を生かす)ために必要な能力
新しい時代、IQよりもEQを大事にしたい件(感情知性は「知性」のメタスキル )

知性なき感情(闘争心?征服心?)を育てるのが軍隊であり、
知性を持った感情(信頼・共感、そして時として「しっぺ返し」のスキル)を育てるのが学校である、と二つを対比してもいいと、僕はおもう。
人間を社会化・組織化する二つの選択肢だ。

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情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。
感情という知性が、いわゆる「息詰まった」合理的知性の助けになる。

僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。
情動、というより、無意識のメッセージを体の変化から受け取る。その情動のプロセスを、大きくすることで、現在ぶち当たっているなにかしらの困難、繰り返されめぐりめぐる思考から抜け出すきっかけを得るというものだ。

考えてもしょうがない。
心に従ってみよう。心が、教えてくれる。
というものだ。

恋愛などもそうかもしれない。
夜なべしてラブレターを書く。
いやもう、書くしかない。
けど朝になってハッと読み返したら、というか恋文を書いたことを恥じたり、手紙を出すことを恥じらったりする。けれども情動として、もっと深いところにある心が、オモイが、やはり夜になると深まるのだろう。

そしてその手紙を出さなければ、前に進めないのが、恋愛である。
無用の苦しみに何年も耐えるより、さっぱりと愛を告白してみて、次のステップにいったらどう?と、心はのたまっているのである。

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だがしかし、情動のそうした働き(切羽詰まっている時の心の助け舟)が、裏目に出てしまうときがある。
結論だけ話すと、「良い気分状態で急かされた」時、人は騙されやすくなる。ということだ。
(『感情』ディラン・エヴァンズ p.123)

塾、教育業界で、種や仕掛けを用意しておいて、体験授業のとき、もしくは通常授業のとき、「これ、東大の問題だよ!」とか「ほら、できるようになったでしょ!」といって、褒めちぎったあとでその場で契約をさせられるとき、疑う方がいいかもしれない。(いや、できる「気」にさせて、モチベーションを高めて、本当に能力をあげてくれるのかもしれないけれど)

高次認知的情動をもった動物として扱われていると思ったらいい。実際、大部分、そうだし。
(保険会社の説明会の会場をたまたま見たことがある。路上パフォーマーを読んで、音楽を流して、楽しませて、契約をさせていた)

「正しい選択」のための合理的な判断など、到底できるものではない。
だからこそ、こうしたビジネスが成り立つ。
サブリミナルな(潜在的な無意識に働きかける)効果とまではいかないが、情動に訴えるこの手法に、みんなやられている。

買わなくてもいいものを、イメージで、「欲望をかりたてられ」買わされていることが、たくさんある。
偏差値、買いたい人、いませんか?進学高校や塾というファンタジーの世界で、たくさん売っていますよ。

ナチスの手法は、日本でもよく使われています。
無償化!教育県!学力一位!には要注意。
お子さんを、心のアウシュビッツに入れてしまっていませんか?

ある意味で、新しい時代を生きる力を削いでいく学校教育は、社会的な犯罪ということもできる。(実際、法律を犯しているから、教育に関するいろんな法律がどんどん追加されていっている)
「集団心理」を利用した、(学力テストうんぬんで情報リテラシーのない人たちを騙す)マスコミを巻き込んだ、社会的な犯罪だ。(最近、ようやく「新しい時代」のための教育がマスコミに取り上げられるようになった)

と、強く言ってしまったら、反感を買うかもしれない。
これは「教育とは何か」という哲学の話であるから。
そもそも、主張でもなんでもなく、僕一人のタワゴトだとおもってくれたらいい。

だって、自由経済だもの!言論の自由があるもの!
けど、悪徳商法にはクーリングオフとかあっても、教育業界には、、、、ない!
時間と、お金が、もどってこないんです。

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ある種の情動には「脅迫」「暴力」「支配」という行為が伴うかもしれない。
僕には「怒り」「嫉妬」という情動がその根底にあるように思える。
このような心に満ち溢れた場所があれば、戦うか、逃げるのが一番だとおもうのだが。そうだろう。

組織への「しっぺがえし」などなかなかできたものではない。。。

攻撃と報復の果てに、平和をみつけるのは、なかなか大変だろう。(復讐の連鎖が、どこかの国でまだ続いている)
だから、そこに生きる個人は、逃げるという方法も、生きる場所を選ぶという方法も、自分の身を守る、大切なものを守るためには、とびきり上等な選択肢であるとおもうのだが。

ちなみに、最近読んだ本の中では、「怒り」を感じた時点で、バリ人は「眠る」という行動をとるという話があった。

が、インドネシアに滞在していたとき、どうみても、インドネシアの人たちが「怒り」という感情を持たないような気がして聞いて見た。答えはこうだ「僕らはね、怒ったらね、隣の村に戦争をしかけるんだよ」だそうだ。
冗談かもしれないが、そうらしい。

「眠る」か「武器をとるか」。
なるほど。

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イスラム教の人たちは、常にコーランを読みながら、感情をマネージメントしている。
日本人も、ヨガやヒーリング、外食、ゲームなどで、感情をマネージメントしている。
けどどれも「感情と距離をとる」ことはできても、「感情と積極的に関わる」ことはしていない。

ブッダの仏教、瞑想、座禅は前者であり、
カウンセリング、演劇、対話は後者である。

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恐れというものが、とても強い人がいる。
恐れから派生するいろんな感情がある。嫉妬、妬み、不安、、、、
怖くなって、身が竦んでしまっている人がいる。

「今は無理だ。僕の中に恐れがある」ならそれを大切にしたらいい。
けど同時に、恐れとは別の情動がみつかるかもしれない。
どちらも平等に、対等に、感じてあげるといいだろう。


情動は心の百面相だ。
ひとつひとつに、言い分がある。

自分の持っている感情、情動のひとつひとつの言い分を、聞いてみるのもいいだろう。
僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。

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こういう先生が学校にはいる。
生徒4人を不登校にした先生が担任になったらどうするか。

「怒り」で生きている人間だ。
些細なことでクラクションを盛大に鳴らすイライラを募らせたドライバーと同じくらい、ストレスを抱えてしまっている先生がいる。
こうした理不尽な「怒り」に気がついて「ああ、私は疲れているのだな」とフィードバックが自分でできない人ほど、哀れな人はいない。もしこういった人に出会ったら、全くの他人でなく、少しでも情が湧いたなら、「疲れているでしょう?休んだらどうですか」と言ってあげてもいい。休めないのが、学校の先生であるのだが。

「良心」が届かない人もいる。
愛せないなら、立ち去るのもいい。

徳のある人間とは、情動を感じない人間ではなく、どの情動にも押し流されず、すべての中庸をいく人であるとおもえた。
情動が出てきた瞬間に、フィードバックをする人間。怒りに対して怒りで返さない。怒りに対して怯えで返さない。怒りに対して、笑いで返すことすらできる人。ある一つの感情だけを増幅させず、一度にあらゆる情動を感じられる人。ある意味で、宇宙的な広さを、心の中に感じている人。なんだか、気持ちがよさそうだ。

ちょうどいいバランスを、さがしていこう。

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ところで、感情の学習、というものが、とても大切だと僕はおもっている。
保育士の先生は「怒り」の感情を伝えることがあるだろうか。「喜び」だけを伝えていないだろうか。
学校の先生は「喜び」を伝えているだろうか。「怒り」だけを伝えていないだろうか。

直接経験しなくてもいい。
ただ、映画とかではなく、現実に、こうした怒りや喜びを学ぶ機会があるともっといい。
それが、実は、芸能、芸術・演劇と呼ばれるものなのだが。

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怒りの感情を加えられた時、怒りや恐れで返すことなく、哀れみの情をもって、笑顔で返す、という神業を使う人に出会ったことがある。怒りを怒りで返したり、怒りを恐れで回避すれば、相手の怒りは回収されない。またいずれ、怒りを加えられることになるだろう。

完全に逃げるか。
そうでなければ、笑いながら、その人の悪霊に飴玉をあげよう。

愛せぬ者からは、立ち去るがいい。
と、ツァラツストラが言っていた気がするのだが。気のせいだろうか。

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感情と向き合う経験。
感情がでてきた後で、きちんと大人がフィードバックを返すこと。
「気締め」が必要なこともあるだろう。

そう考えると、子どもが関わる大人たちがみんな均一になってきているのも、末恐ろしいように感じる。
他者が感じている情動を見抜くチカラ、そしてそれに対してどんな情動で返すかという作戦をたてるチカラ。
それが、実は、EQと呼ばれているものである。(IQではない)

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コツコツと積み上げれば、、、とか、長時間やれば、、とか、一生懸命やれば、、、
という「美徳」というものもある。

忍耐、耐え忍べばいいことがある、という美徳もある(日本はまだ戦時である)。

これもある種の情動といえるし、文化的な、歴史的な「心の作戦」といえるかもしれない。(心理学用語でスキーマといってもいい)

新しい時代、昔から使われてきた作戦を社会的にプログラミングされてしまった心を、アップデートしてみたら、楽に生きられる時代になるとおもうのだが。

いかがだろうか。

結局、今、誰かが向かい合おうとしている課題は、きっと、日本の歴史、日本という場所からの自立を意味するのではないか。
日本という場所、日本という歴史がつくってきた「感情様式」が、うまくいかなくなって、体がヒーヒーいっているとしたら。

今が、自立の時なのかもしれない。

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アニメで「サイコパス」というものがある。youtubeでもみられます。是非是非。
シキソウというものをリモートでいつもチェックされていて、「汚れてくる」と、「クリニック」へ行くように通告される。「犯罪者」を世の中に出さないようにするシステムで成り立っている社会を描いている。ぜひ、学校に取り入れてみてほしい(「サイコパス」映画版か特別版かなにかで、国家的な詐欺をして、「心の汚れた人たち」がそのシステムを悪用するという設定もあった。要するに、どんなシステムも、どんな道具も、人間次第。)

感情・情動が動く場所には、ドラマがある。

がんばれ!がんばれ!
という言葉に、心がこもっていなければ、ドラマは生まれない。
多くの受験生は、心なき言葉に、亡霊に、呪いに、悩まされているような気がするのは、僕だけでしょうか。

幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、子どもはしあわせになる。学童期の「子ども」にお金をかけて大丈夫?

オトノネひろげるシェアぼたん

「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)

「ああすればこうなる」という世界に生きていた。
心がなんなのか、ぼんやりとも、わかっていなかった。

「こうなりたいんでしょ?じゃぁこうしよう」といって、無理をさせていた。
「この子の学力をあげよう。そうしたらこの課題をこうやってやらせて…」ハードルを下げるアプローチは今でも間違っていないとおもうが、やっぱり「やらせる」ことをしていた。

そして、「この方法は、正しいのに、できないのは、生徒がいけないんだ!努力が足りない!」とおもっていた。
同時に「もっといい方法はないのか!?」と「やらせる」ことを研究したり。

行為レベルで言葉を使っていた。
行為レベルで人と関わっていた。
自分に対しても、行為レベルで関わっていた。

いろんな出来事があった。
繰り返してきた。
何度も、人の心を壊してきただろう。
「堕落」を繰り返した。

その度に、浮き上がるたびに、新しい旅を始めた。
「自然」という旅だったり。
「演劇」という旅だったり。
「子ども」という旅だったり。

その中で、「物語」「民謡」「踊り」「芸術家」「カウンセリング」「心理学」「ヨガ」「ストレッチ」「歴史」いろんなことを学んだ。

旅をしながら、周り周り、巡りながら(何度も失敗をしながら)今も、繰り返しながら、ようやく、心を大事にすることを、学び始めている。

人の成長とは、発達とは、すぐにどうこうなるものでもない。
「ああして、こうして、こうする」ということを考えていたらみられなくなる、大切な「今」がある。
そしてその「今」に気がつくためには、いつも誰かの言葉があったし、出来事があったし、何よりもそれらを感じる「時間」があった。

「時間」は、大切にしたい。
焦っても、どうにもならないことがある。

こう言う場合、焦ってもダメだ!もがいたら沈んでいくだけだ!ということを、まずは学んでもいい。
(それを学ぶのが、大学の合格発表の日だったりする。それが模試の結果だったりする。突然やってくる。DVをうけてボロボロになって、何度も試みて、やっぱりダメで、「違う生き方をしよう」という日が、やってくる)

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「あー、これからどうなるんだろう…」とおもって友達に話すと
「どうすんのお前笑」とかいう適当な返事や
「おもしろそうだからそのまま行けば?」という何か逆に誇らしくなる返事や(いやもっと役に立つ返事くれよと当時はおもっていた笑)
「小説家になったら?」というちょっと気になる返事がでてきたり。

いくらもがいても、足掻いても、焦っても、わからないときはわからない。
わからないなりに、「違和感」を感じたまま、抱えたまま、明日を迎え続けて来た。

高校中退をした時から、不登校になった時から、いまだに僕は同じ「違和感」を抱えている。
それでもまだわからない。

そのくらい長い、ゆっくりした時間を感じられるようになったのも、「ある出来事」を境目にしてだった。
そういう日がくるらしい。

ーーーーーーー

突然やってくる日を、大切にしたい。
それはいつやってくるかわからない。

オトノネは出来事を起こそうとは思わない。
外ででてきた出来事を心できちんと感じ、フィードバックして、いつやってくるかわからない出来事に備える感じ。
(狙ってその出来事を起こす「導く」ことをまずはやってみるケースももちろんある)

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「仕組まない」ことで生まれる不思議があり、「仕組まない」ことで出会える心がある。
(芸術家は、生まれたもの感じたものを身体化、具現化する仕事であり、生まれたものを大切にしながら育てることをする)

僕はそれを大切にしたい。
(だからオトノネに来た人は困るらしい。「何をしてくれる場所なのかわからない」と)

人には誰しも、発達の段階、人生の曲がりくねった道の上にあり、僕が関われるのはほんのその一部だ。
到底、最後まで道案内することなどできないし、案内できるほど多くの道を知らない。
「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

だからもし、おとのねさんに会ってみて、話をしてみて、感じてもらって、僕ができる小さなことが、少しでもその人のチカラになると感じてくれたら、お付き合いをしたいとおもう。

例えば。

「◯◯ができない」
「私は◯◯」

という言葉を生み出す心を、僕は感じようとしている。
縛られているものから、少しでも抜け出して、心を自由にして、今置かれている状況の中で、精一杯、チカラを使って先に進んでほしい。
神経は、記憶している。だけど、心は、成長したいとおもっている。
僕自身が、今、そのプロセスの中にいる。

なにしろ、時間がかかるものだ。
定期テスト対策なんて、なんともまぁ、この悠々とした時間に比べたら、小さなことのように僕はおもう。
その小さなことの繰り返しが、人の心をつくるのだろうけれど。(高校生になっても定期テストでピリピリしている。定期テストという呪いだ。)

頭ではわかっていても、やっぱり定期テスト勉強に勤しんでしまわないと心が落ち着かない子もいる。
それでもいい。なにしろ、定期テストは、小さなことだから。

けどそれで大切な「時間」が減ってしまうとしたら、困ってしまうかもしれない。

時間は減るものではないのかもしれない。
ただ悠々として流れているものかもしれない。

もしその「時間」が課題・宿題というバケモノの姿をして牙をむいて、台風のように、終わりのない嵐のように君に襲いかかっているとしたら?
君は呪文を唱えて、「時間」を元の姿に戻してあげるのもいいかもしれない。

本当に大切なことは、本当に大切なものは、内側から、やってくる。
外から与えられるものではない。

もしかしたら、今君の中に生まれた、気持ちが、「大切なこと」を知っているかもしれない。
聞いてみてもいい。その子はきっと悠々とした「時間」の中にいる。

その子の「時間」に入っていけば、きっと、話ができるはずだ。

ーーーーーーーー

Do it! Doit!と英語で書いてみる。
綴りが、Idiot(馬鹿者)と似ているなぁとおもった。

オトノネひろげるシェアぼたん

人はどこまで遺伝に左右されるか。

問いからはじめる発達心理学
『問いからはじめる発達心理学』坂上 裕子 さんが書いた本。発達心理学の本をいろいろ読んだが、僕いんはこれがよかった。

ーーー

生まれつきのものと、生まれてから育っていくこと。
遺伝と環境の二つで悩むことがある。

「これは、環境を変えれば、良くなるものなのだろうか?」
「これは、もうその子らしさとして、認めたらいいのだろうか?」

僕は環境が与える影響が大きいと思っている。
生まれつきのものを、どう生かすかという視点に立っている。

もし◯◯だからといって子供の環境を限定・制限してしまって他の可能性がなくならないだろうか。
そういう心配をしてしまう。

で、ーーーー

最近読んだ本で、初めて見るデータを見たのでふむふむと頷く。

グラフの色のついた部分は「環境」であって、白い部分は「遺伝」であるという研究データだ。
これをみると。。。

論理的推論能力と空間性知識の二つは有意に遺伝の影響が大きい。
言語性知識はほとんど環境だ。

(もちろんこのデータの中にはいわゆる発達障害と呼ばれている人はおそらくいないであろうが)

「性格」と呼ばれているものも大体、環境だ。と僕は思っている。
デフォルトもあるだろうが、結局、育ちながら磨かれていく「性格」は環境に応じて変わる。と僕はおもっている。
(3歳までに関わった大人の価値観に左右されると考えたらいい。もちろん、それ以後の経験、特に思春期前後の経験も、性格を形成する大切な要因になるだろう)

で、ーーーーー

もし論理的推論能力が遺伝による影響を大きく受けるというのであれば、その割合が気になるところ。
論理的推論能力が高い子と、低い子の割合は一定なのか。

まぁそんなこといっても、結局はその子その子の暮らしには条件がある。
限られた条件の中で、資源をどう使うか。
結局、大人の振る舞いというのは、ほとんど、祈りのようなものだともおもえる。
遺伝であろうが、環境であろうが。

子育ては、物語を紡ぐことだと、今、ふとおもった。

どんな物語を、誰と繋いでいくのだろう。

血縁関係よりも、村という単位とは違った価値観が生まれた新しい時代で。

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オトノネひろげるシェアぼたん

子どもも大人も月月火水木金金

生徒が教えてくれるいろんなこと。

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ついったーをやっていたら、
気付剤であるレッドブルー、モンスターであふれかえったゴミ箱が写っている写真のコメント欄に「自称進学校の闇」と書いてあったのをみた。
そんな今日この頃。

その話を生徒にしてみたら。
「そうですよー休みがないんですよー。月月火水木金金なんですー」と。

え!!????

何それ。。。

話を聞くとそんな歌があるのだという。

さっそくyoutubeさんに聞いてみよう!

とりあえずオトノネさんは笑いながら歌う。最後の
げっつげっつかーすいもくきんきーん!!!

でおとのねさん再び大爆笑。

いやー。笑った。
なんだこれは。
そう。当時は、当時の歌は、言葉に社会を映し出す力があった。
(今は、そういう言葉たちはボカロの世界に移住した)

ーーーー

さて、そこから真面目なお話。

wikipediaの説明
土日がなく、月曜と金曜が二回ある、土日を返上して働く、訓練するという意味なのだが。。。

ふと思った。
「自虐」は日本の精神文化なのだろうか?
どうしようもない現状、どうしようもない自分をアイデンティティーとして受け入れようとする。
その心の表れが自虐なのだろうか。。。

戦時の歌が、進学校の高校生たちに歌い継がれている。

ーーーーーー

こちらは

富山市の個別×子別指導学習塾オトノネ堀川教室

の宣伝です!クリックするとHPがでてきます( ˶˙ᵕ˙˶ )

富山市の個別指導塾オトノネ堀川教室

ーーーーーー

そこでふとおもった。

「一年と経たないうちに、今の若者は会社を辞める」という言葉を聞いたことがある。
今の高校生たちは、中学生のときから、勉強勉強でかれこれ6年間も過酷な労働に晒されていた。
だから仕事は好きなことをしたい。
好きなように仕事をしたい。
楽しみたい。

そう思えても仕方ないのかもしれない。
「一年と経たないうちに、今の若者は会社を辞める」という言葉を使う人たちが経験したことのない高校時代を、学生時代を過ごしている。
働いても働いても給料がでるわけでもないし、三種の神器があるわけでもない。
しあわせのカタチがひとりひとり違う時代。

そんな今、この時代を生きている子どもたちのために、社会は開かれているのだろうか。

新しい歌を、言葉を、人々は語っているだろうか。

自虐の文化は「笑いながら、この現状を笑い飛ばしながら生きようとする」文化なのかもしれない。
江戸時代の「ええじゃないか」の唄のように。

歌が支える心がある。
歌が表す心がある。
歌が、人々の力になる。

ーーー

モンスター飲みすぎるとカフェイン中毒で早死にするってよ!バルザックみたいに!?(当時にしたらまぁ普通?)

「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金。まだ誰かが「非国民!」と叫ぶ声がコダマする日本。

海軍のポスターで取り上げられた「月月火水木金金」
海軍のポスターで取り上げられた「月月火水木金金」

「稽古」と「習い事」

賢いお母さんの「習い事」作戦。

習い事を「させられ続けた」子どもの心

オトノネひろげるシェアぼたん

アウシュビッツで生き残った人の言葉のチカラ

このツイートに書かれたコメントが面白い。読んでみてください!

それで・・・

僕はよくアウシュビッツの物語を思い出す。
いつ終わるかもわからない。
いつ死ぬかもわからない。
そんな暮らしをするために必要なのは、自分自身が自分に投げかける言葉だった。
とおもっている。

真剣なごっこ遊びであるとも、ファンタジーともいえる。

アウシュビッツに入るまえに、その言葉を生み出す経験がなければならなかった。
人生の意味を見出していなければならなかった。
他者にとっての自分の価値を知っていなければならなかった。

ーーーー

一方で!

自分に投げかける、生きるチカラを与える言葉が生まれてこない心がある。
困難に直面しても、ファンタジーを見せてくれない心がある。
電気柵に体当たりする人たちのこと。

言葉を自分に投げかけられない人でも、アウシュビッツで生き残る術が一つある。
しあわせを生み出す言葉を使う人になりきることである。
言葉も、振る舞いも、呼吸も真似ることである。(行動を真似ることが大切。特に歩き方、喋り方、深層筋の使い方、ありとあらゆるデテェイル)
同じ夢をみるほどに。
行動を一緒にすること。
同じ空気を吸うこと。
同じ位置に立って、同じ景色を眺めてみること。(キングダムで、信が「将軍の馬」にのったアレ)

ただの夢見ではなく、実際にそれを行うこと。
(よくセミナーで一流になりたいなら一流の振る舞いをしなさいというアレ)

これが方法の一つではないかと、ふと思えた。

自分にとっての現実を捨てて、みている世界すら、その人と同じになってしまうくらい、真似る。
実はそれは、思春期に至るまでに、子どもがやっていることではないかとおもう。
お母さんやお父さんに対して。

思春期とは、親以外の人をモデルとして自分を作り直す時期だとおもえる。
だから思春期には、恋をするのだろうか。

ただ、その、なりきる対象に「憑依」されるか、「守護霊」をコントロールするごとく、関係をつくれるかは、心次第だ。

心が大事。

ーーーーー

蛇足:プラスの言葉を使うように心がけましょう。というのがある。
プラスのことしか書かない日記をつけることを、僕もいつの間にかやらなくなってしまった。
と、気がつくたびに、「自分を褒めるノートを書いてみたら?」と行ってくれた友達の声を思い出す。
そういう人が、すぐ近くにいてくれる人は、しあわせだ。

ーーーーー

ちなみに、「これは違う!おかしい!」と抗議をしても殺されるだけ。
むしろ「これでもういいや。シカタガナイ」と思って生きている人の方が長生きする。

憐れむことも、羨むこともなく、自分の命をマットウしよう。

ーーーーー

しあわせな人は、俳優になれない。
真似をする必要がないからだ。

しあわせな人は、俳優だ。
きっと、しあわせな人の真似をしているからだ。

アウシュビッツは自由・平等・平和の象徴か。

オトノネひろげるシェアぼたん

富山大学附属中学校と富山(中部)高校のギャップ

富山大学附属中学校と富山(中部)高校のギャップ

富山高校生、もと附属中学校の生徒の話。

その前に、、前提知識。
富山大学附属中学校の70人中50人が富山中部に入る。(調べて見たら附属中学こうの生徒の160人中70か80人でした。数字全然違った!)
富山高校の生徒の出身中学は公開されていない。
で、問題はここから。

中学校のときは、先生がよかった。自分で頭を働かせて、主体的に授業がうけれた、というか、学べた。
高校になったら、受け身の授業で勉強する気がなくなった。

そのギャップに苦しんでいるというお話しだ。(富山から高岡に会いに来てくれた人がいる)

附属中の生徒が簡単に富山高校や富山中部高校に入れるのは、もちろん、主体的な授業で「言葉の力」があそびによって鍛えられているからだろう。
富山県の高校入試は暗記ができればいいのだから、とりあえず覚えれば入れるでしょ?という簡単な流れ。
親が教育熱心である、という理由もあるかもしれない。

で、ギャップという話。

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僕の大学生の時の後輩が、今、宗教に入っている。キリスト教。で、昔その子の家にいっておしゃべりをしていると、同じアパートに住む「友達」がやってきた。同じ宗教をしている子だ。その子の話。「大学生の間、ずっとスポーツをしてきました。けど大学が終わってから、何をしていいかわからなくて」

突然、今までしていたことがわからなくなる。
何をしてきたのか、物語が、途中で終わってしまった。
あれ?

どうやって動かせばいいのかわからない、心が動かなくなったのだろう。
そして宗教はそのきっかけを与えた。
新しい物語を彼に与えたのだった。

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で、附属中学の教育は、先生は、すばらしいように思える。実際は知らないけど。けど少なからず、高校にいったら「何これ?」となる。予習をやってきて、生徒が板書して、先生が解説、いやいや、先生いる意味ないでしょ。という話をよく聞く。受け身の授業、意識が朦朧とする。。。あれは、中学生活は、一体、なんだったのか。。。附属中学校の玄関に掲げられている文字は、なんだったのか・・・

実は富山でも高校生をターゲットにした宗教がいくつか存在している。
え?知らないですか?

もちろん、附属中学校で鍛えられて、高校生活を有意義に、送る人もいる。
人それぞれ。

目が覚めた時、次は誰のファンタジーのなかにいるんだろう。
本当の自分の物語を語ることなんて、できるんだろうか。

真実か、正しいのかなんて関係なくて、誰かが近くにいてくれて、ぐるぐるまわっていく運命にちょっとしたいたずらをしていくのを楽しむくらいがちょうどいいのかもしれない。

高校生と話をしながら、僕が高校生だったころの自分の感覚を思い出している。
もう少し、彼らと一緒に何かをしていこう。
僕にとってのおとのねは、自分の心の成長する場所だ。
もしそれが生徒にとっても同じであれば、嬉しい限りだ。
そういう子が、おとのね にきてくれたらいいとおもっている。
悩みながらも、本気で、彼らに応えていきたい。
それが僕の感謝のカタチだ。

というわけで、(そんなものいらないが)結論。

今やっているゲームを降りて別のゲームをするのも、人生というゲームのルールのうち。
同じゲームをやり続けて、誰が褒めてくれるだろう?もしその人生に、幸せを感じていないとしたら。自分が自分を褒められないとしたら。

橋を渡って結婚式をあげたときに男女が初めて顔を合わせていたような時代とは、商品化されたゲームはかなり変わってしまったきがする。
自分でゲームをつくってもいい。もちろん、全てがオリジナルでなかったとしても。

中学生のときに思い描いた「学び」の姿、学んでいる自分の姿を書き換えなければならないような、そんな高校生活に身を置いている高校生のために、僕はotonone-オトノネ-をつくったのだけれども。

ちなみに、富山中部高校から難関大学に行くのは30%。一学年の生徒数が280人だから、84人。
驚くべきことに、富大付属中学校から富山中部高校に入学する生徒数は80人。

ただの妄想をしてみると、中学校から富大付属中でサバイバル(まわりの子どもが勉強勉強、放課後は育英センター!)の環境でなければ、富山中部高校にいっても心が擦り切れるだけなのではないか(もちろんそうでない人もいるが)。富大付属中の生徒のための富山中部高校。だとすれば、富山中部高校に「外部受験」する人は、よほどしっかり非認知能力が高まっていてほしいとおもう。どこの高校にいっても、サバイバルには変わりないだろうけれど。

これはただの妄想ですが。
数字というのは、不思議ですね。

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

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学習性無力感・学習性無気力とは?

セグリマンとメイヤーの実験。

まず、犬を「どうにもならない」電気ショックの環境に置く。
すると犬はもうどうにもならないからうずくまったままになる。

次に、犬を「どうにかなる」電気ショックの環境に置く。
すると犬は、敷居を一つまたぐだけで電気ショックを受けなくなるのに、電気ショックを受ける場所にとどまって、動かなくなる。

これを学習性無力感という。

やってもやっても、どうにもならなかった。
だからもう、諦める。

もうやめた!

僕自身が、実は、そうだったりする(もっと頑張ってみる?)。
頑張れば頑張るほどドツボにはまってしまう感じ。

こういう時に、誰かが「いや、あっちいけばいいのに」といって突っついてあげて、犬に敷居をちょっとまたがせたらいい。
そういう人がいる人は、しあわせだ。

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「いや、もう少し、頑張ってみようかな」といって超えられる困難もあるかもしれない。

残酷すぎる成功法則
『残酷すぎる成功法則』のなかで、超過酷な軍隊の訓練(試験)を超えたある人物は他の人と何が違うかを調査した結果、
「大丈夫、大丈夫!」とポジティブな言葉を使っている人が、試練を耐えた、という。

楽観的に物事をみる!!!!

こんな人もいる。
エベレスト登頂中にザイルが切れて墜落して歩くのもやっとのボロボロの状態で、「あの岩までたどり着くまでに何分でいけるか」をゲーム化した。そうしてなんとかベースキャンプにたどり着いた!という話。

はたまた。
アウシュビッツの生存者は他の人と何が違ったか?

“自らの命が自分自身より大きな理由のために存在していることを知る者は生き残り、それ以外の者は、煙草を一服したのち、電気柵に向かって最後の疾走をした。”

他者にとっての自分、自分の命は自分だけのものではないことを自覚している人が生き残った。
待っていてくれる、応援してくれている人がいる人は、しあわせだ。

しあわせを感じながら、暮らしていこう。
幸せを言葉にしながら、言葉にされた幸せを聞きながら、味わいながら、暮らしていこう。

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幸せな言葉をみんなで共有する文化がある。
宗教だ。

しかしその宗教が人をしあわせにしない例も多々ある。

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逃避とは「刺激が引き続き起こらないようにするための行動」
回避とは「刺激が与えられないように前もって示す反応」
学習性無力感とは「逃避や回避が不可能な場所で、対象に嫌悪刺激を与え続けるとほとんど動かなくなり、回避可能な状態になってもその刺激を受け続けるようになる。また別の状況でも般化が怒り、新たな回避行動の学習ができなくなる現象」

どうして無気力になるの?
適切な発達段階の課題に取り組めなかったから。

拷問台に自ら進んで行く子どもは、ほとんどいない。
文科省データで見る不登校の原因|中3生徒の追跡調査からわかったこと

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「ごっこあそび」概念を普遍化する

絵本の心理学

ごっこあそびが所詮、「ごっこ」であって、目の前の葉っぱがお札ではないことを言われて子供の頃、どう感じたか。『絵本の心理学』の著者が学生に聞いて書いてもらったレポートの内容。

子どもなりに「遊びの世界」と「現実の世界」を理解し、区別できていたようです。ただし、遊んでいるときに葉っぱのお金を「葉っぱ」と呼んだり、土のマメごはんを「土」と呼んだりすることは、禁句であったように記憶しています。それがなぜでありどのようにして決まったことなのかはわからないが、まるで暗黙の了解のように一緒に遊んでいるもの同士では遊んでいる間に、決して真実を口にはしませんでした。外で見ている子が「あいつらアホちゃうん?なにがお金や!」っていう言葉を発すると、少し気分が悪かったように覚えています。今考えれば、真実を口にするとせっかく見立てていた物が、ほんとうに土や葉っぱや木の実にしか見えなくなってしまうということを、気持ちのどこかで感じていたのではないでしょうか。(『絵本の心理学』p.222)

まとまらぬまま、最初に出ていた結論までに考えたことを箇条書き。

1。見ている世界が人によって違う
いつも引き合いに出してしまうが。「それってDVだよね?」といっても「それがDVである」と感じない人がいる。
それって虐待だよね?とおもうことでも、虐待だと感じない人がいる。
生きているってだけでももうけもんだよね!と言われても、全くそう思わない人もいる。
「欲望という名の電車」に出てくるヒロインはいわゆる幻覚・幻想の中で暮らしていた。虚言・虚構の世界。

2。道具の使い方は一つではない
椅子をベッド代わりに使ったり、座布団を枕にしたり、米のとぎ汁を肥料にしたりなど。
一つのモノを別用にして使うことは大人でも当然やっていること。
子どもが大好きな「長い棒」は、どんなボロボロの枝であっても、「伝説の剣」に見えている。
なんでもない風呂敷に包まれただけで、スーパーマンになれる。

3。芸術における「ごっこあそび」
「ごっこあそび」が精神療法に取り入れられた例に、サイコドラマがある。
役割分担をして、自分が相手を演じる、相手が自分を演じる、自分でないものに自分がなる。自分でないものが自分になる。
そういう経験を実際にシミュレーションしてみると、心は揺さぶりをかけられる、という手法だ。
画家や音楽家などは「ひとりごっこあそび」をして作品をつくっている。
落語でも、「小道具」をいろんなモノとして使ってみせる。観客はそれを茶碗だとか、扇子だとか、棒だとか、いろんなものに見立てる。

4。大人社会、あこがれへのシミュレーション
戦争ごっこというものがある。ガキ大将がいろいろ指示して石を投げていた時代がある。お店やさんごっこ、お母さんごっこもある。自分の憧れ、ヒーローになるごっこもある。いってしまえば大人のメイクをする、髪の毛にワックスをつける、洒落た服装をする現代の子供も、こうしてシミュレーションをしていると考えることができる。

5。子どもの特権としての「ごっこ」
「7つ前は神の子」という言葉がある。(この言葉自体、根拠もなにもないので解釈するほかない)
「ごっこ遊び」に精を出す年齢、だと解釈することもできるだろうか。

検索するといろいんな記事に出会う。
医療が発達していない当時、死にやすい、いつ死んでもおかしくない存在だった。というお話。
子ども時代は法律的に7歳までだった奈良時代の刑法のお話。
子どもと本当の意味で話せるのは「たった7年」というお話

8歳以降、女性は思春期が始まる。僕はそういう視点で7歳までの神聖をとらえる。
七五三に意味深な意味を与える陰陽五行思想の影響を考えれば、本当の意味での「子ども」でいられるのは7歳まで。という話でいいとおもう。
かつて「稚児」といって、男でも女でもない、中性の存在が仮定されていた。お祭りでよく曳山の上に座っていたり、稚児舞をすることがある。これは実は中性の女性禁制の寺社会で生まれた習慣なのだが・・・

シャーマニズムの世界、巫女の世界、精神の世界では、巫術者が何かに取り憑かれて「そのものになったり」「向こう側にいって帰ってきたり」する。自分が「そのもの」になるために小道具をつかう。衣装を使う。また呪文を唱える。ごっこあそび、自分でないものに自分をとばしていく、なりきってみることは「共感」とかいろんな言葉で表されるように、奥が深い。

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僕が言っている保育園で、子供と一緒にごっこあそびをしているとき。
僕は「無理な注文」を出すことにしている。

「はい、いちごケーキですよ」
「えーっ、バルメシアチーズケーキがよかったんだけどなー」

引きつ引かれつ、押しつ押されつつ、自分の思いと相手の思いを受け取ったり、受け取ってもらったりする、そういう関わり合い方をするための、人間的な、「じゃれあい」「対話」をしているのだとおもう。ごっこ遊びをしているときに「イヤだ!」といって相手の言葉をはねのけたら。。。遊びから外される。

そんなわけで、とりあえず結論。
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おとなは大人で「ごっこあそび」をしている。
家庭、学校、会社、組織、与えられた役割をこなしながら、暗黙の了解を知りながら、沈黙しながら。
それは集団が変われば、住む場所が変われば、変わってしまうルールに基づいている。

おとなは大人で「ごっこあそび」をしている。
それはいつだってはじめられるし、やめることもできるものだ。だれと遊ぶかも、選べるものだ。

いっしょにあそぼー

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「メデタシメデタシ」の物語には要注意!?『絵本と童話のユング心理学』より学ぶ

子どもが死についてよくよく考えていることは前にどこかの記事で述べた。
で、最近本を読んで感動したので書き残しておきます。子どもすげー!!!!!

子どもは、大人の都合、不自然さ、不条理、違和感を敏感に感じるのでしょうね。

絵本と童話のユング心理学

『かさじぞう』に関して、私が大変驚いた出来事をひとつ話そう。たしか小学6年生になる女の子であった。この『かさじぞう』を読んで、こんなことをつぶやいていたのである。「おわりの方が気に入らないな、なんだかうそだって気がするもん。私だったら、こんな終わり方にしたいな」

1、2年前でしたか、文部省がこの作品は非常に暗い、日本にはこんな貧乏人がたくさにるのかと、アメリカやソ連に思われたは困る、だからこれを削除せよ、と先生方に指示しました。それが話題になり、新聞記事になったことがあります。

娘の小学校の先生も、やはり賛成はできないが、子供たちの反応を見ようと思って話され、あとでどう思うかと聞かれた。その時、うちの娘が「こんな話はうそだ」と言ったそうです。私はその話をたまたま小耳にはさんだので、娘に、お前だったらどうする、と聞いてみたのです。娘はすでに作文に書いてはっょうしていたのですが、先生はそれに✖️をつけていた。それで娘は、大変怒っていましたが、それにはこう書いてありました。「おおみそかの晩、外はすごいふぶきなのに、じいさまとばあさまは食べるものがないので、つけなかんで、お湯飲んで、寝ました。(つけなってなんだと聞くと、「知らへんの、つけもののことや」)。正月になって、とうとう何もなくなり、二人は静かに息を引きとりました」ええ!とびっくり、これでは先生が✖️をつけてあたりまえだと言うと、娘は黙って聞けと言う。
「さて、次の年のおおみそかのことです。一人のしょうにん(この「しょうにん」というのを、私は親鸞上人とか法然上人の上人と解釈して、えらい話になるなと思ったのですが、これは商人のことでした)がふぶきの中を歩いておりました。すると向こうに、かさをかぶったおじぞうさんが立っています。かさからは、つららがさがっておりました。かぞえると、かさをかぶったおじぞうさんは、全部で8つでした。おかしいな、去年はたしか6つだったはうだが。何回もかぞえなおしましたが、やはり8つにまちがいありません。8つとは珍しいことだわい、と承認はそっと手を合わせましたが、ああ、道くさくっとると日が暮れるわい、早く帰って正月のもちつきのよういさするかと、ふぶきの中に消えて行きましたとさ」

こういう文章です。私はびっくりしました。この八地蔵の話は誰が教えたわけではなく、彼女が自分なりに作ったものです。(『絵本と童話のユング心理学』p.238 山中康裕)

「めでたしめでたし」の物語は、編集されている可能性がある、ということです。
学校の進路指導も同じですね。

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教育とは個性化のプロセスのこと(ユリとタンポポとクシュラ)

小学生のお母さんからの問い合わせ。

教えても教えてもできない、学校でも、困っているというお話。
そういう子は、他にもたくさんいるというお話。。。

小学3年生で、「できない」というのは、つまり学校の授業においていかれている、ということ。
学校という場所、教室という場所、特定の環境において学び得ることができない子どものケースは多々ある。

場所を選ぶだけで、学び方を選ぶだけで、学ぶ人を選ぶだけで、それは変わりうる。
学び方を学ぶ、それが学びのメタスキルだし、自分を知ることにもなる。
大切なことだ。

「クシュラ」と絵本の物語にあるように、教育とはある一定の「人間らしさ」に至るための個別的なプロセスのことだとおもう。
そのプロセスを集団の中で「回す」ことができる子と、そうでない子がいる。
クシュラの話も読んで見てください。
個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

タンポポのようにどこでも育つ花もあれば、ユリのように環境を整えて綺麗に咲く花もある。
『残酷すぎる成功法則』にも書かれている、当たり前すぎる事実だ。
そうした個性化の過程を、当たり前に、必要としている子どもがいる。

そんな「ふつう」が「特別」なのが、学校だ。
もっと、いろんな学校があっていい。

残酷すぎる成功法則
あなただけの道を、歩んだらいい。
きっとその風景を楽しめるようになるから。

子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

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