学校の偏差値教育(相対評価)と家庭教育(絶対評価)でセルフハンディキャップ・無気力・無力感よさよなら

今の学校は相対評価
家庭はその子のスケールに合わせた宇宙的な絶対評価をお願いいたします。

よくわかる情動発達

小学校への入学に伴って同じ年齢の子供たちが一つのクラスに集められて授業が行われるという学習環境の変化は、自分の能力を他者との比較によって評価しやすい状況を構成します。とくに教師が競争的な課題を導入したり、個人内の変化よりも他者との相対評価によってフィードバックを伝えたりするとこの傾向は一層強められます。その結果、子どもたちは自分の有能さの基準として「個人内基準」に代えて「相対基準」を用いるようになります。このような変化は同時に自己評価や有能感の低下をもたらします。(『よくわかる情動発達』p.98)

優秀な作品だけを展示したり、成績の良い生徒を特別扱いするといったやり方は、「遂行目標」を選択させ、援助要請の回避やセルフ・ハンディキャッピング、挑戦の回避など不適応的な学習パターンを導きます。(セルフハンディキャッピングとは、いざ失敗した場合にその原因をハンディキャップのせいにすることによって自分の能力の低さが露呈するのを避けようとする自己防衛方略)(『よくわかる情動発達』p.99)

自分の能力を伸ばすことや新しい何かを習得すること(熟達)を目標とする「学習目標」と、自分の能力の高さを他者に示して良い評価を得ること、あるいは自分お能力の低さを他者から隠して悪い評価を避けることを目標とする「遂行目標」とがある。学習目標を持つ人にとって、失敗は現在の行動が適切ではないことを教えてくれる大切な情報であり、またこれからの努力によって自分の能力が伸びると信じているため、たとえ失敗してもやる気は失われません。しかし遂行を目標を持つ人にとって、失敗はそのまま自分の能力の低さを意味します。このため失敗して自分の能力に自信が持てなくなると、能力の低さを他者から隠そうとして新しいことに挑戦することを避けたり、あえて努力しないことによって自分の能力の低さがあいまいになるようにします。このような防衛的な反応が他者からは無気力に見える状態を作り出しています。(『よくわかる情動発達』p.101)

ちなみに、無気力には2タイプあるそうです。

大芦は、家庭での甘やかしもあって幼少期からあまり元気が無く、小学校、中学校と進むにつれてしだいに怠学が目立つようになるケースで、自発性を呼び起こさない社会に無気力化することである意味安住している「自発性欠如型無気力」と、人一倍まじめ、きちょうめんでよくできる子どもが、自発性を育てるのに適していない社会に無理やり、自発的であろうとして、結局それが実現できず無気力かしていく「脅迫型無気力」という2つのタイプの存在をしていきしています。

環境そのものが無気力な環境に適応するために、無気力になるタイプ。(養鶏場の鶏タイプ)
挫折して、無気力になるタイプ。(出る杭が打たれるタイプ)

どっちも、無気力な、自発性を呼び起こすことに価値を置かない社会が無気力な、自発性を封印した子どもを作り出しているだけですね。

そんな無気力社会に適応することが、成長することだとしたら。
子どもを無気力にすることは、その子を社会化すること。
無気力は、意欲を失うことは、大人になるために、必要なこと。

世の中は、うまく回っている。

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へその緒を繋げたまま、胎盤という大地の上で暮らしている子どもたちがいる。

サーカスに売られた小さな像が、小さな杭に鎖で結ばれていた。
大きくなって、杭を引っこ抜く力を得た後になっても、見えない鎖で繋がれている像は、そのチカラを使うことなく、サーカスに止まりました。

おとのねさん自身、まだ繋がれていると、おもっている。
なすすべもなく、杭の周りをうろうろしている。

オトノネひろげるシェアぼたん

これが中国の「大学入学試験」の様子。

これで、一つの学校、一つの学年(第3学年)。
中国統一の試験で、どこに行けるかが決まる。二次試験なし。

これはベビーブームの時の子供達の最後の世代、らしい。
人数半端ない。

街中につくられたゲートは、保護者が寄付をして、この日のために用意したものだという。
親が、学校を動かす。

日本でも、親が、土曜日の補講をさせている。

オトノネひろげるシェアぼたん

日本が子どもに戦争を続けさせるのは、教育産業で特需景気になるから。

人工知能「東ロボくん」、センター試験模試で「偏差値57.8」 数学と世界史は偏差値60超え

こっちは進研模試
HOME> 教育> 教育動向> 教育ニュース ICT 全対象 2016/08/24 人工知能に勝つには「読解力テスト」から!?

こういうものを見ると、アニメ『サイコパス』のシビラシステムの世界が、各個人を一人一人テストし、その診断結果で職業を決めるのを思い出す。
それが、合理的な、世界になる。

外国人労働者が入り始めた。
もう教科書が読めなくても、言われたことだけできたらいい人材がいたらいいということでこうなった。

いいんだけどさ。

人間の価値って何?

なんで勉強しなくちゃいけないの?

そう、教育産業にお金を流すために、君は勉強をさせられている。

そういって、生きていく人も、たくさんいるだろう。

国の方針は、決まった。

オトノネは、そうするか。

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AI、テクノロジーは人間に問いかける。
「僕を、どう使うんだい?僕をつくって、何に気がついたんだい?」

心次第。

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勉強する意味・何故勉強する・勉強する理由・どうして勉強しなくちゃいけないの?

テキストとは、本来、「問いかけるもの」である。
教科書とは、テキストブックである。

けれども日本は「再現させる内容」を一方的に「喋る」ものだ。

だから、「なんで勉強しなくちゃいけないの?」という問いかけは、「なんで一方的なおしゃべりをずっときいていなくちゃいけないの?」という問いだとおもっていい、と僕はおもっている。

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残念ながら、富山県、石川県の高校で「一方的なおしゃべりを聞く」以外の授業は受けられないと、僕はおもっている。

大人のつくった「しくみ」に君たちがどう答えるか、大人はそれにどう答えるか。

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学校で学ぶべき(「べき」という言葉を強く使いたい)ことは、メタスキル である。
一人一人の生きている世界が違う、価値観が違う、そんな世界で生きて行くことを学ぶためのスキル。
それがメタスキル だ。
メタスキル は学ぶために必要なスキルだ。

もしくは学んだことを使うスキルだ。

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学校で学んだメタスキルを使う、自分たちのフィールドが、どこか。
それがわからないまま、なんとなく、大学に流れてただただ、ベルトコンベアの終着地点でまた次の工場に向けて集荷されていく高校生がいる。

学んだメタスキル を生かす場所が、時間が、子どもたちの近くにあるか。
子供達は、定期テスト、外部模試以外で、自分の得たスキル、メタスキル を試す場所があるか。

「なんで一方的なおしゃべりをずっときいていなくちゃいけないの?」とう問いが起きる理由であると思う。
高校生たちがストレスを感じている状況を、こう説明したい。

自己と対話するメタスキル
他者と対話するメタスキル
世界と対話するメタスキル

このような対話を、学びのカリキュラムを発動させる学びの場が日本の公教育で(特に高等学校で)デザインされていない。

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簡単に申し上げると。
問い:勉強する意味とは・何故勉強するか・勉強する理由・どうして勉強しなくちゃいけないの?
答え:そんな問いがでてくる勉強なら、しなくていい。

これが僕の、答え。

もし、これが君がほしい答えではなかったとしたら、

別の聞き方をしてみてほしい。

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子どもが沈黙する、日本の言語環境。空気読む(言葉が育たない)文化??

PISAで「無回答」が多すぎた問題。

大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。

はっきりいいます。
(おとのねさんそこらへんはっきりしています)
休みない定期テストと外部模試、宿題、課題は、学校の生徒(自らを学畜と、進学校の生徒が自分で称していました)管理システムです。
お子さんの心を、刑務所送りにしていませんか?
刑務所でもたくさん、学ぶことはありますが。。。。
僕は、脱獄しました笑

学校の囚人管理システムから、大人になったら、今度は会社の奴隷(社畜)管理システムに移行します。
本当に「いい」会社、社畜になっても守りたい大切なものに出会えたなら、しあわせですが。。。

日本の「こけん」のために?
親の「こけん」のために?

日本や親から子どもが自立していく場所が、おとのねです。

PISAの「定期テスト対策」する日本。
「テストの勉強したの!?」という言語環境が、子どもの大切なタネを殺していませんか?
子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。

言葉の発達が遅いのが、「言葉を使う経験」が少ないからか。
それとも、スローラーンなだけか。

オトノネひろげるシェアぼたん

そのテストは、検査は、どんなチカラを計測するのか。

進研模試・河合模試だけがテストではない。
発達心理検査だけがテストなのではない。

PISAというテストがある。

国際テストであるPISAの「テスト」に出るものは、学習指導要領に取り入れるが、出ないものは、取り入れない。
OECDが「義務教育の間に育てたい3つの資質能力」には活用・関係・自立がある。

テストで測れるのは「活用」だ。
異質なものとの関係性、他者との共生する能力と自律の能力は逆に下げられてしまった。

異質なものとの関係性の弱さ
→いじめ・「みんな一緒」・学校の先生「お子さんだけ特別には…」

自律の能力
→共依存・自尊感情の低さ・情報リテラシーの低さ「成績が下がったの!?勉強しなさい!」

日本は「テスト対策」の国だ。

そんな日本で暮らすには、「テスト対策」をするしかないのだろうか。

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日本型の教育を考えたらどうなるか。
日本をどうしていきたいのか。

ペーパーテストが人生を左右するシステムに、お子さんをどう関わらせるのか。

日本の心の土壌には「心中」があるのかもしれない。

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PISAのテストで上海がオールNo1をいきなり初登場で出した。
それまでの古株、フィンランドを抜いて。テスト対策、した?

PISAのテストの上位国は中国とシンガポール。
ここは非民主国家であり、独裁国家である。(経済的に成功した北朝鮮、というらしい)
北朝鮮はキムさん、シンガポールはリーさんだそうだ。

どの国も、傾向と対策に傾倒しているという。

21世紀型の国際社会をつくるためにつくられたOECDの考えたPISAのテスト。

結局は、人間次第。

オトノネひろげるシェアぼたん

なかなか変われない人、変われない組織の「自己防衛」のしくみと子どもの「抑圧」

だれもが、プロセスの中にいる。
いつ起きるかわからない心の動きで、人生が変わって行ったり、同じことを繰り返したりを繰り返しながら、進んでいく。

オトノネにきて、新しい心の動きが、人生を新しいプロセスに向かわせるように変わっていく人もいる。
いろんな人がいる。

ぐるぐるしながら、進んでいく。
いろんな人に出会いながら、人と出会うことで、変わっていく。

僕もそうしてオトノネを始めることになった。
人との出会いと同じくらい、お母さんにとっては「子ども」と出会うことは、とってもとっても、大切なことだとおもう。
誰かと一緒にいるから、何かが起きる。

近くにいる、誰かの心を大切にしているだろうか。

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心がつながるのが怖い

感情、の本を探している時に気になったので借りてきた。

こちらはカウンセラー、心理学のための本で、「自己防衛」で関係がつくれない人たちの話を読むことができる。

「自己防衛」とは、どうしようもない状況で情動が引き起こした防衛反応のこと。

それは、理不尽な身体的、精神的暴力を振るわれたのを「自分が悪いんだ」とおもうことも含まれる。

また、関係を避ける、といった振る舞いにもでる。

「自己防衛」は主に、思春期以前の経験が元になっている。
無力感、悲しみを抱いた時に、「若さが故」に心がはじき出した最適解。

その時は、役に立った。
困難を切り抜ける作戦として、有効だった。

しかし、
自己防衛が大人になっても、無意識のうちに繰り返される場合、「うまくいかない」といって苦しむ人がいる。

「何か変だ・・・」

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この本は、子供の頃の自己防衛が大人になってから「人を愛せない」で困っている人たちに焦点をあてている。

心は成長したのに、子どものころにつくりだした作戦が無意識のうちにまだ働いている状態が、苦しいのだ。

「なんか変だ」という違和感を感じたら、きっと、大人になったその人が、その人の中にいる子どものときの自分に語りかける時だ。
カウンセラーは、そのお手伝いをする。

本人が気がつかないような身体のメッセージがある。
少しづつ、忘れていた、無意識に落とされてしまった心、気持ちを拾い上げていく。

自覚して、言葉にして、思い出して、そして、今、その場で子どもの頃の自分と対話をする。
そうしたプロセスが、「大人な私」と「子どもだった私」を出会わせる。

こう語りかける。
「もう大丈夫だよ。子どもの頃の君は、そうするしかなかった。つらかったんだ。心から、君がつくった作戦に感謝する。そのおかげで今の僕がある。けど、もう大丈夫だよ」と、心から、心から語れるようになるまで、向き合う。

「誰も信じない」という作戦をとった子どもがいる。
けどもう今は分別もついたし、心も強くなった。信じてみないかい?
怖くなったら、誰かの力を借りよう。君は一人じゃない。大丈夫だよ。

子どもの頃に受けた精神的、肉体的暴力を大人になってから繰り返す人がいる。
自分の無価値さを無意識のうちに心に刷り込み、おかしくなってしまった心の防衛のために、「他者に暴力を加える」という、自分がされたことを他者にも繰り返す。「暴力を加えた人」を防衛のモデルにするしかない、子ども時代の記憶が、無意識に繰り返される。厳しく育てられた子ども。厳しいのは、親の愛情だと思っていた。そう信じるしかなかった。けど今は、そうは思わない。僕は強くなった。親は私を愛してはいなかった。だから、僕は暴力を繰り返さない。

「大丈夫だよ、ほら、だって、今、あなたに僕の姿がみえるでしょう。僕のことを抱きしめてくれているでしょう。僕を、ちゃんと感じてくれているでしょう?」

子ども時代に欠けていたものを、大人になってから誰かに求めることもある。(それは子ども時代、に限ったことではないが。)
けど、その子が欲しかったものは、他の人からは手に入れられない。ことが多い。
大人になったから、強くなったはずだ。もう大丈夫だ。欠けているものは欠けている。けど、その悲しみを何かで埋めようとしていた子どものころよりも、「もっと、より」今は強くなっている。大人の私は、子どもの君(もしくは、大人になった後の、あの時の、あなた)を、おもいやれる。

だから、大丈夫だ。

悲しみを暖かく抱きしめる、今の私と、かつて悲しみにくれていた私が、出会う。

自分を抱きしめてみてもいい。
大切な誰かを抱きしめてみてもいい。

自分の心と、相手(自分自身)の心、を感じられたら、きっと、何かが動き出す。

動いていく心を感じてみよう。

ーーーー

無意識に触れる時、体のどこかが反応し、心の底で情動がうごめき、頭のなかでその動きを捉えることができる。
感じること、を通じて、子どもの時の自分(もしくは大人になってからの、あの時の自分)、無意識に落としてしまった、本当の心を知る。

感情に触れられない、心に触れられないまま、「防衛」「抑圧」を繰り返してしまうと、それからも不幸な人生を送り続けることになるかもしれない。現実不可能な願望を抱き続けるかもしれない。そうして、今目の前にある世の中と、今、大人になった私の折り合いがつかなくなる場面がでてくる。

そうなった時、助けてくれる人が、近くにいるだろうか?
自分に向き合う、自分を感じる時間をつくれるだろうか?
(あくせくと、残業や課題でおわれていないだろうか?繰り返される「自動思考」で頭がパンクしていないだろうか?)

「悲しみ」を避けていたら、「悲しみ」と一緒になってやってくる(物事は大抵そんなものだ)他の何かを得ることができない。
今、大人になって、「もっといい作戦」を考えられるはずなのに・・・・

「防衛」とは「感じないようにする」ことだ。
本当の自分を感じないようにして、誰かのために命を捧げることも、「防衛」といえる。
心を安定させるために、「その時」選んだ、最適解。

だから、防衛を解いて、感じることは、ある意味とてもつらいことだ。

一人では、とてもやっていけないくらい、つらいこと。

だから、、、、
だから、一人でがんばれる!とはおもってほしくない。

ーーーーーーー

自己防衛とは、無意識に繰り返される心の「生き残り作戦」である。
もうそれは、古い。新しいものにしたらいい。

そんな時に必要なことは、思い出し、子どもの時の心に気がつき、対話すること。
これは「学びの共同体」の「学び」そのものだし、ナラティブアプローチともいえるし、無意識に溜め込まれたその人の経験が生み出した「情動の仕組み」を理解することでもある。回避していては、理解はできない。対話をする場がなくては、理解ができない。そもそも、気が付いていないことが多い(だからカウンセラーは、まず、まずはクライアントがクライアント自身の感情に気がつくような働きかけをする)。

「愚痴をいう」という行動で「防衛」するという作戦がある。
「しゃーなしでもやる」という行動で「抑圧」される心がある。

もしかしたら、癖になった「防衛」や「抑圧」の影で、本当に見て欲しいあなたの一部が「僕には気づいてくれないの?」と、声をだしてすすり泣いているかもしれない。

目の前で苦しんでいる保育園児、小学生、中学生、高校生に気がつかない親や保育士、学校の先生と同じだ。
君の中で、泣いている、悲しんでいる君がいるかもしれない。

本当にいるんだろうか?

ーーーーーー

多くの親の「怒り」が子どもに向けられている。
それが習い事の嵐だったり、勉強勉強という言葉だったり。
「怒り」の奥にある色とりどりの感情に気がつかない。
「怒り」に気がつかない。

「怒り」にもいろんな名前がある。
妬み、憎しみ、悲しみ、恨み、、、、、

怒りの底にある、親が経験した悲しい出来事に、向き合えない。
自分が向き合えなかった感情・出来事を、子どもに向き合わせることをしている親がいる。

子どもは、お父さん、お母さんが好きだから、

満たされなかった願望・欲望と付き合うことができず、折り合いをつけ、前に進むことができず、対話ができず、子どもにそれを再現させようとする人がいる。「私は◯◯だったから、この子には!」というセリフを使ったことがある人が、きっといるでしょう。

けど子どもは子どもで親とは違う人生を歩むものだ。
同じ人生を歩かせようとしてはいないか。

子どもはやさしい。
お父さん、お母さんを愛している。
だから、命をかけて、命を燃やして、身を捧げて、応えようとしているかもしれない。
その子の、一番大切なものを、捧げていく。

それは本当に「その子」のためだろうか。

子どもが大切な「今」を差し出している。
大人は、そんな子どもの心に、どんな「今」を差し出せるだろうか。
大切なものを、差し出せるだろうか。

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富山市の民間学童保育

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悲しみの経験を思い出して、今でも悲しがっている自分の心のために、今日も、1日の終わりに、祈りをかけよう。
「まだ私はうまくやれていないかもしれないけど、いつも泣いている君の隣に、私はいるよ。ちゃんと気が付いているよ。感じているよ」

そうして悲しみを自分の一部にすること。

少しずつでも、少しずつでも、、、、

ーーーーー

痛みや悲しみを引き受けられるようになると、たくさんの出来事に出会うことができます。
苦しみや悲しみを避けることに使われるエネルギーで、苦しみや悲しみを暖かく抱きしめられるようになったら、いいなぁと、僕もいつもおもっています。

弱い人を助けようとする自分は、弱い自分と向き合う代わりに、その人に関わろうとする。
(これを心理学用語で投影といいます。別に悪いことではありません。そういう現象を、投影といっているだけです)

嫌いだな、と思う人が、実は自分の中で「まだ統合できていない」自分の姿だったりする。

情動が動いた時、そこには何かしらの「心の作戦」があるとおもったらいい。
心に向き合う時間を大切にしたい。

人を愛したい、とおもうなら、自分を愛するようにしよう。
愛せていない自分を誰かに映し出してしまうとき、宇宙は、離れていくようである。

ーーーーー

古い時代の作戦をそのまま使っているケースは、よくある。
個人だけではない。学校、保育園、組織は体制を変えることができない。
「もう大丈夫だよ。そのとき必要だった仕組みは、もう今はいらないんだ。大丈夫だよ」

という対話を、一体、組織の中で、誰かしているのだろう。

人生を変えるのは、多くの痛みを伴うこともある。
輝いていた自分が、とつぜん、光を出さなくなるような、ギャップを感じるかもしれない。
それを支えられるような段階に達した時、人は、「危機」に見舞われる。

人を成長させるプロセスがしくむ、劇の幕開けのタイミングは、なんとも巧妙だ。
「え?大丈夫だよね?もう乗り越えられるでしょ?」

痛みを感じないわけではない。
痛みと寄り添えるようになること。
痛みを抱きしめられるようになること。

それだけで、プロセスは動き出す。

大切な自分を守れるようになったら、勝手に向こうから、儀式はやってくる。
学ぶべきものを学ぶべく、人は人と出会う。

心が大事。

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自己防衛の仕組みと受験生になんの関係があるかといったら。

だいたいみんな、「やらされ」て過ごす小学校・中学校時代。
多くの受験生にとって、「やってたことをやる」習慣や、「できる自分」へのプライドがある。

「やらなかったら怒られる」から、「やらない」ことから生まれる不安・恐れを隠してしまったかもしれない。
「当然、できていたことができなくなるなんて許されない」と、「やらない」ことが怖くなっているのかもしれない。

大学受験は、そんな高校生たちが生まれてから今までつくりあげた、「防衛」「抑圧」と向き合う時期だと、僕はおもっている。

それを僕は、高校生の発達課題だとおもっている。
思春期だと、おもっている。

もっと自由になるために、心を大事にしてみたら、不思議なことが起ってくるかもしれないよ。

先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、おとのねさんも、そんな「成長」のプロセスの中にいる。
僕はプロセスの中にいる一人の人間として、学校の先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、僕自身をも、大切にしたいとおもっている。

オトノネひろげるシェアぼたん

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

学校や保育園、子どもに関わる現場の大人たちは、大変なことになっている。

で、最近も、とある保育園にいって、素晴らしい園長先生、すばらしい保育士の先生の話が聞けた。
またその先生の実際の関わり合いは、まことに、多くを学べるものであった。僕個人として。

けれども、園全体として、他の保育士さんも含めて全体を眺めると、あからさまな改善点(違和感)がいくつもでてきてしまう。
いい先生がいても、その先生の影響は小さい。
いい影響よりも、悪い影響が目立ってしまう。

だから、いい先生が組織の中で埋もれてしまう。

だから、この保育園は、この学校は、素敵だなぁ、とおもえる保育園、学校は少ない。
(そんな中、金沢の桜丘高校の生徒たちの笑顔は、忘れられない。えーなんでだろ。桜丘の倍率が高くなって、偏差値が泉丘抜いたらいいのにとおもう。それはそれで、おもしろい現象だ。偏差値は「入りにくさ」であって、「テストの点数の高さ」ではない。そこのところ、みんな勘違いしている。「点数はそんな必要ないけど、入るのが難しい」とは、つまりどういう状況か、考えてみてください^^)はい、蛇足でしたすみません。

この保育園は、この学校は、素敵だなぁ、とおもえる保育園、学校は少ない。
なぜか。

この問いに簡単に答えられるキーワードを最近、覚えたので一言で答えられます。

「学び」を学んでこなかったからです。
佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。「学校」つくったら!

ーーーーーーーーーー

「学び」とは、協同的なものであって、一人で完結するものではない。
対話して、言葉にされて、初めて顕在化するものだ。(それを一人でやってのけるのが、研究者であると、佐藤学さんは言っておられました)
だからこそ、「学び」の成果が、多くの人が「学び」を通じて情動を共にすることで、実現する。

のだが。
「不平」「不満」「愚痴」「要求」「忍耐」が現場に溢れている。
情動を「学び」のチカラに変えることができていないのが、多くの教育・保育の現場。

なぜか。

情動の処理の仕方は社会的なものであった。
【学ぶチカラ】情動・感情が現状打破するチカラになる話。また、情動・感情で他人に騙される話。
そして、社会的なものである以上、学んでいくものなのである。


そして、今の大人たちの多くが学校で学んだことが、情動を「不平」「不満」「愚痴」「要求」「忍耐」として処理することである。
情動を「学び」に変えることを学ばなかった。協同して「学ぶ」「対話する」ことを学ばなかった。

「ん?なんか変だぞ?なんだこの状況は?」ということにも気がつかない。
心が閉じてしまっている。
目の前で「飲めない牛乳」を片手に一人苦しんでいる保育園児の「心」がみえていない。
目の前で「できない宿題」をさせられている小学生の「心」が見えていない。
目の前で「死ぬか生きるか」を考えている高校生の「心」が見えていない。
「学び」の基本である「心」が、世界に向かって、他者に向かって、「心」に向かって開いていない。

だから、個人単位でいい先生がいても、組織としては、協同ができない、対話、本当のコミュニケーションができない。

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。
という問いへの、僕なりの答えです。(大発見です)

これはもう負のスパイラルだ。教育の負の連鎖だ。
「学ぶ」ことを学んでいない先生から「学ぶ」ことをどうして学べるだろうか。
協同できない先生から協同を教わることがどうしてできるのだろうか。

もともと、日本の学校教育が戦後から高度経済成長時代にかけて「一部のエリートを選抜する」および「安価で指示をよく聞く労働者を大量に育てる」ために作った仕組みをそのまま今の今でも続けているという背景があります。

伝統との戦いですね。
自称進学校の《課題が多すぎる》伝統から何を学び取るか

はぁ・・・・

ーーーーーーーーーー

だからこそ、使命感をもった人が、トップダウンで一気に仕組みを変えるのがいいとおもう。
ボトムアップをしても、変わらない(先生たちが「学ぶ」ことを学びなおす時間もお金もない)とおもう。
トップダウンで衝撃を与えながら、ちゃんと「労働」から解放してあげるだけでいい。

たったこれだけでいいと、僕は思っている。
麹町も、あれ、どこぞの学校も、トップダウンから始めている。(違っていたらごめんなさい)

ーーーーーーーーーー

多くの先生が、「進学実績(もしくは退学者)」と「長時間労働」という(生徒に自分たちが与えているのと同じ)プレッシャーに苦しんでいる。

そんな学校では、先生という仕事は、職業というか、食業(食べるという生業)であって、教育という生業ではない。と思えてしまう。先生は、労働者ではなく、保育者だし、教育者だ。刑務所の監視員でも、遊園地の託児所のスタッフでもないはずだが。

やること、やってるの?
使命感、もってるの?

やることやってるよ!
課題も宿題もちゃんと出してるよ!
絶え間なく小テストと進研模試をやらせているよ!
やってこなかったら呼び出しもしているよ!という声が聞こえてきそうだ。

(僕は、公立学校での自分の能力の限界を感じて(公立学校で、教育者として自分が責任をとれないと判断して)、おとのねをはじめましたよ)

あー、ごめんなさい、表現がトゲトゲしいですね。
寝ます。ごめんなさい。

ーーーーーーーーーー

結局、現場のいざこざ、先生たちの「学び」を保証することが、イコール、子どもたちの「学び」を保証することだとおもえる。
だからぎゃくに、子どもたちの「学び」を保証すれば、先生の「学び」も保証できる。

だから定期テストは廃止したらいいし、無駄な行事はやめたらいいし(生徒に任せるとか)、宿題も出さなければいい。

どうしてこんな簡単なことを、やらないのか。

論理的な武装なら、オトノネさんはいくらでも手伝いますよ。

どうしてこんな簡単なことを、やらないのか。

子どもたちと一緒です。
大人も怖いんです。せっかく今まで作り上げた自分の世界が崩れるのが。

人間ですから。

(だからこそ神話の世界ではトリックスター(世界を壊し、作り直す者)がでてきます。日本でも、何人かいますね。結構たくさんいますよ。校長先生、園長先生、いかがですか?そろそろ、子どもに習って、作り終わった城を、壊しませんか?大丈夫ですよ。新しい学校をつくるだけです)

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日本が国債を返済し終わることには、教育も負の遺産を返済できているだろうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

「長時間」「みんな一緒」「やらされる」組織からの自立と、組織の選択。

こんな見方ができる。
あくまで、見方。

「させる」世の中。

学校はまだ戦時で、工場に集団就職した子どもたちがいそいそと手を動かし、終わらない宿題・課題、そして矢継ぎ早に繰り返されるテストで休む間もない。そこで「させられる」以外の何かを見つけるとしたら、休憩時間に友達とおしゃべりをすることくらいである。夜、仕事が終わった後に、故郷の「民謡」を歌う女性労働者の物語を、僕は本で読んだことがある。学校帰りに、イヤホンでPOPミュージックを聴いている子どもたちのようだ。

塾業界は満足のために「できる気にさせる」「できている気にさせる」ことで夢を売り、お金をもらう。子どもが「楽しい!」とかお父さんお母さんが「ここにいたら安心!」と思えるような合格実績、その他のデザインを考えている。夢を「見させる」がんばれ!がんばれ!「勉強をさせる」なぜかそういう状況をお父さんお母さんが望んでいる場合がおおい。子どもに、お母さんお父さんも、夢を「みさせ」たいのだろう。数字を見せて「どうですか?この実績!」という姿は、どこかの営業マンのようだ。(実際、ビジネスなのだから仕方があるまい)

「主体性」の場である保育園ですら。お父さんお母さんを喜ばせるための運動会、発表会、保育士の自己満にもならないと僕にはおもえる掲示物(ぐちゃぐちゃに絵の具を塗った紙をカエルの形に切り抜いて、子どもたちになんのプラスがあるだろうか)。「あそばせ」続け、自分で「あそぶ」ことができない子どもたちもいる。(そのうちこの「あそべない」子どもたちの記事を書きます)。子どもの様子をみて、「的確な遊び」を絶え間なく与える保育士が評価される。子どもを楽しませる先生が、いい先生だということになる。らしい。

「させられ」続けながら、心を大事にできる人もたくさんいる一方、心をすり減らしてしまう人がいるのも確か。心と切り離された仕事をしてお金を稼がなくてはいけないお父さん、お母さんがいる(もちろん、心ある仕事をしている人もいる)数をこなすために、1を大切にできない職場もある。心を尽くして人と人が向き合う時間もなくなってきた。これが、発展した時代の、日本の最終形態なのだろうか?働き方改革と呼ばれているものは、どうにも、僕には国が税収入をあげようとしている作戦にしかみえない(余暇を外食産業に!エンターテインメントに!)。

あせらせる、やらせる、不安がらせる。
満足させる、喜ばせる、来させる。

人間が動物であるようだ。
実際、思春期がある動物だけど。
思春期が一つのテーマになっているオトノネさんの気にしていること。

よくよく考えたら、動物の子どもが「思春期」で親に「反抗」したら、一発で死んじゃうよね。
不思議。

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こちらはオトノネの宣伝です!

富山市の民間学童保育

ーーーーーー

そんな見方ができる。
あくまで、ものの見方。

ある場所では喜びに欠け。
ある場所では喜びに満ち。
ある場所では真実に欠け。
真実に満ちた場所を僕は歩き回りながら探してきたし、今は、自分で作ろうとしている。
(もちろん、僕にとっての真実)

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昔々、社会、集団は、イコール、血縁がある組織だった。

血縁のないところに集団が生まれるために、「満足度」は大切であるし、「お金」は大切だろう。
(集団でいることの「満足」を確認するために文化祭とか体育祭といった祭りが利用される場合もあるだろう。青春!)
【高校選び】進学高校の高校生たちのブラックな青春が青になるとき

「祭り」と「お金」だけでは枯れてしまう心があるのも本当のこと。

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ところで、オトノネは、夢を売りません。(オトノネにきたら、夢が叶う!わけがありません)
一体何にお金を払うのでしょうか?

答えを出さずに不満足のままに終わるのがオトノネらしさかもしれません笑
夢を買いたいなら「逆転合格!」とか「偏差値30から!」とか「定期テストで+30点!」「◯◯大学◯人!◯◯高校◯人!」と宣伝している塾を選んだらいいとおもっています。(たまたま、夢が叶う人もいるでしょう。結局、いい先生と出会った人が、自分にとっていい環境を選べた人が、満足のいく受験を経験します)

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経済成長を夢見ながら、みんな一緒を続けていく生き方があります。
が、今は、別の生き方を模索しているひとがでてきています。
誰もが、時代から自立して、認められる時代になってきました。

オトノネは、そんな僕の、(僕が生まれ育った)時代からの自立という挑戦だとおもっています。

時代は変わりましたが、組織はあまり変わりません。
自己保存力が働きます。既得利益をなかなか!手放せません。
(それでも、組織を変えようとする人もたくさん出てくる時代です)

組織から自立する人、
時代から自立した組織を選び所属する人が、笑って生きられる世の中になると、僕は思っています。

組織からの自立って何?時代から自立した組織って何?
気になる方は、いろんな本があります。ぜひ、ご一読ください。
「長時間」「みんな一緒」「やらされる」で心が悲鳴をあげている人はもうすでに、この扉の前に立っているように、僕にはおもえます。

強烈なオヤジが高校も塾も通わせずに3人の息子を京都大学に放り込んだ話

たった一度の人生を変える勉強をしよう
学校の「当たり前」をやめた。

学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話

子どもの「遊び」は魔法の授業

残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する
売上を、減らそう。たどりついたのは業績至上主義からの解放
ハッタリの流儀 ソーシャル時代の新貨幣である「影響力」と「信用」を集める方法

こういった新しい価値観を生まれながらに持っている人もいます。
が、育っていく中でつくった価値観をだれもがもっているものです。
もしそれが「なんか変だ」と感じたら、その違和感を大切にしながら、進んでみてほしいとおもいます。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

堕ちて、堕ちて、堕ち抜いてください。
僕はそれを止めようとはおもいません。(一体、何をしてくれるんだオトノネは!)

堕ち抜くチカラは、あなたの本当のチカラになると、信じているからです。
(そのうち、浮上しているのか、墜落しているのかわからなくなるようになります。言葉って難しいんです笑)

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その点、学校って、やっぱり、時代を作る原動力になるとおもう。
公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2(富山・石川は教育県ではない?)

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