『子どもを生きればおとなになれる』クラウディア ブラック

『子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方』クラウディア ブラック , 水澤 都加佐
子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方

内なるこども=インナーチャイルドの本来の姿は「周囲の世界と絆で結ばれた子」
直感、自発性、生命力の塊。

私たちアダルトチルドレンは、心の中に慢性的な喪失を抱えています。けれど、自分が何を失ったのか、はっきり気づいていません。そこにあるのは漠然としたむなしさ、何かが足りないという感じ、今の自分ではだめなのではないかという不安です。こおの漠然とした喪失感を何か別のものや人で埋めようとしたり、必死で大丈夫なふりをしてみても、むなしさは消えません。私たちに必要なのは、自分が何を失ったのか、その正体を明るい日の光の下で確認してみることです。そしてそれをきちんと言葉にすることです。(p.15)

悲しみや不安、喪失体験をすることをサポートする親。
愛、親のサポートを喪失した子ども。

サポートしない、だからこそ強く育つこともある。
手をかけずに、自然に育った。いやいや、ご飯を食べて寝るところがあった。
それだけでも、強い子はたくましく成長する。

そうでない子もいる。

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子供というのは「権利の目録」を手にしてこの世に生まれてきます。それは次のような権利です。
・誰かの期待通りの存在だからではなく、ただありのままの自分として大切にされる。
・親の喪失を埋め合わせるための存在ではなく、その子自身として慈しんで育てられる。
・一貫性と、安全と、暖かさと、理解を与えられ、無条件に愛される。
・ひどく傷つくような状況から守られる。
こうした基本的な権利を奪われているということは、つまり見捨てられているということです。私たちはときに否認の力を発揮して見捨てられた体験などなかったことにします。「私はちゃんと面倒をみてもらっていたわ。ママもパパもあまりうちにいなかったかもしれないけれど、お姉さんがいたもの」。(略)家族の中で見捨てられによる喪失を体験することは、トラウマを引き起こします。それによって、自分自身やこの世界が「いいものだ」と感じる力が著しく損なわれてしまうのです。(p.24)

この具体例として次のようなものがある。

親が自分の感情や考えや行動に責任を持たず、子どもにその責任を負わせようとすること。
親が自分のニーズを満たすために子供を利用すること。

例えば

子どもを自分がうぬぼれるために使う。
子供が親と違った考え方や行動をすると拒絶する。
自分が果たせなかった夢をかなえてほおしいと望む。

要するに子どももの権利、子どもの自治権、子どもの独立性。独自性を認めないこと。

あなたは親である私のニーズを満たすためにここにいる、というのは勘違いですね。
あなたより親の私の気持ちが優先だ、というのは、勘違いですね。

なんの勘違いかって、自分と他人の勘違いです。
子どもの問題を、自分の問題だとおもうことも、勘違いです。
親の問題を、子どもの問題だとおもうことも、よくありますが、勘違いです。

子どもを恥ずかしいと親が感じるのは勝手ですが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
子どもを心配する親の気持ちはわかりますが、それで子どもに「命令・干渉・説得」するのは人間としての分を超えています。
親が他人の目を気にしているのを、子どもに押し付けて、子どもに「命令・干渉・説得」をするのは人間としての分を超えています。

こうなって育ってしまったら、どうなるでしょうか。

自分の感情がわからなくなる、相手の基準に合わせたり、愛してもらうことに一生懸命になって、自分がいなくなってしまうかもしれません。人間関係への依存、愛の渇望、それから宗教や心身症、薬物、アルコール、ギャンブルへの道が続いています。また弱いものへの暴力、受け入れられない怒りを他者にぶつければ家庭内暴力、児童虐待、モラハラ・パワハラになります。恐れの感情が強ければ、創造的になれずに既得権を守ろうとして小さく生きていくことになります。(そういう人が政治家として日本を動かしているのですから、この国は病気です)それが例えば、夫婦、家族という既得権を離したくない、僅かでもその関係性にすがらなくては生きていけない状態になれば、家庭内の暴力を愛情表現、もしくは自分に落ち度があると考えることになります。そのような仕組みが、できてしまうのです。

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さぁ、統計を調べる時間だ(ああ、また魔王とこんにちわだ)

児童虐待(2018)15万9850件
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00517/
アルコール依存症者の疑い(2019)292万人
職場でのモラハラや精神的なストレス(生きづらさ)を強く感じている人の数だろう。

調査・日本の飲酒実態


家庭内暴力(2018)7万7482件
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43011460Y9A320C1CR0000/

不登校・長期欠席者(2019)327901人
自殺 332人
3) 小・中学校における,長期欠席者数は,240,039人(前年度217,040人)である。 このうち,不登校児童生徒数は164,528人(前年度144,031人)であり,不登校児童生徒の割合は 1.7%(前年度1.5%)である。 4) 高等学校における,長期欠席者数は,80,752人(前年度80,313人)である。 このうち,不登校生徒数は52,723人(前年度49,643人)であり,不登校生徒の割合は1.6%(前年度1.5%)である。 5) 高等学校における,中途退学者数は48,594人(前年度46,802人)であり,中途退学者の割合は1.4%(前年度1.3%)である。 6) 小・中・高等学校から報告のあった自殺した児童生徒数は332人(前年度250人)である
https://www.mext.go.jp/content/1410392.pdf

自殺(全員)20598人
https://www.mhlw.go.jp/content/201812-sokuhou.pdf

家庭内暴力(2019)9,042件
https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/about_mpd/jokyo_tokei/kakushu/dv.html

犯罪認知件数(2018)
警察庁の統計によれば,平成29年における刑法犯の認知件数は,91万5,042件,検挙件数は,32万7,081件となりました。
http://www.kensatsu.go.jp/hanzai_gaiyou/keihou.htm

離婚件数
2018年の婚姻件数は59万件で、離婚件数は20万7000件です

日本人の離婚率はどれくらい?離婚統計から見る離婚率の推移とは?

精神疾患 419.3万人
精神疾患により医療機関にかかっている患者数は、近年大幅に増加しており、平成26年は392万人、平成29年では400万人を超えています。(認知症が70.4万人含まれている)
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/data.html

概数でもとめましょう。

児童虐待16万
アルコール依存症者の疑い300万人
不登校・長期欠席者33万人
自殺 2万600人(内、児童350人)
家庭内暴力9000件
犯罪認知件数91万5000件
離婚20万7000件
精神疾患349万人
足し算してみましょう。
813万600件(人)

日本の人口は
  【令和元年12月1日現在(概算値)】
    <総人口> 1億2615万人で,前年同月に比べ減少 ▲28万人 (▲0.22%)
https://www.stat.go.jp/data/jinsui/new.html

問題飲酒で児童虐待で不登校で家庭内暴力で犯罪者である人もいるだろうけれど、概算して6.4%となった。え?意外と少ない?
認知されていない虐待とか、いじめとかをふくめたらもっとおおくはなるだろうけれど。
会社のモラハラやアカハラなど、あげたらきりがないだろう。

10人に1人くらいかとおもってるんだけどなぁ。。

二次的な被害の件数(例えば家族や友達、いじめられる人やいじめ集団)を数えれば、数値にはでてこないものすごい人数になるだろう。

これ、30人のクラスにしたら・・・面白いかもね。1学年の方がいいかな。
子どもが何人で、何人が孤独死して、何人が犯罪者になって、、何人がアル中になって、、、、何人が児童虐待をして。。。。何人が、自殺して。。何人が離婚して。。。。

うわぁ、魔王だろ笑
そういうリアルな数字だからこそ感じられることもある。

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激怒は、表現することを決して許されなかった怒りが積み重なった結果として出てくる場合もあります、押さえ込んだ怒りは、心の中に根付きます。それは時とともに膨らんで、しつこく居座った恨みとして化膿するかもしれないし、もっとよくあるのは、慢性的なうつにおちいる場合です。こうして怒りのはけ口がない状態が続くと、あるときいきなり敵意に満ちた行動として爆発し、暴力行為や殺人に至ることさえあります。こうした行為は、痛みに耐えられず、葛藤を解決できず、他の選択肢に気づくことができずに、感情が蓄積された結果なのです。(p.53)

気が付いてほしいのは、こうした社会現象は、すべて心の問題であるということ。

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「うちの子はいい子でなければ」「うちの子は一生懸命勉強しなければ」という観念に続くのは「…だから私は必ずそうなるようにしなければ」です。けれど、結果が出るのは愛しまれ励まされることによってで、コントロールによってではないのです。

生活を秩序立てようとする努力が無駄というわけではありません。少なくともある程度のお時間における、ある程度の秩序は欠かせません。けれど私たちはしばしば、生活の全ての面や周囲の人みんなの人生をコントロールしなければという思いに駆られてきたのです。

なにはコントロールできて、なにはできないかについて、アーネスト・カーツはこんな風に言っています。

ベッドに入るかどうかはコントロールできる。
 眠りはコントロールできない。
本を読むことはコントロールできる。
 理解するかはコントロールできない。
遊びを始めることはコントロールできる。
 ゲームに勝つかどうかはコントロールできない。
知識を蓄えることはコントロールできる。
 知恵を得るかどうかはコントロールできない。

コントロールできることとできないことの違いを学ぶのは、自分の限界を受け入れる第一歩です。(略)コントロールを手放すのは、自分はすべての答えを知っているべきだという幻想を放棄し、あらゆることを管理しなければならないという思いを放棄することです。過去は変えられないという事実を認め、未来をコントロールする力を持たないことを認めましょう。私たちに残されているのは、今ここにある現実の暮らし。「今、ここ」に生きることなのです。(p.136)

オトノネひろげるシェアぼたん

【ヒトラーに告ぐ】学び(知)の危うさ。だから、心が大事。知と心の違い。

学ぶということはどういうことか。
本当に学ぶとは、自分の精神を未知の世界、危険にさらすことだ。

という一面があるように感じたので書き綴って見る。

封印されていた「事実」を知る。
感じられていなかった「本当の世界」を感じる。
そうした「知」が、人を不安にさせるかもしれない、ということだ。

日本の現実、本当の姿を知った人は、悲観せざるを得ないかもしれない。(喪失体験
絶望するかもしれない。
そうして死んでしまうかもしれない。

「知る」ということと同時に、「心をつくる」こと。
知行合一というが、僕は知心合一と言ってみたい。
でなければ、心は崩壊してしまう。。。。とおもった。
「知」のレベルは「心」が決める。というか、「知」はチカラだ。そのチカラを使うメタなチカラが、「心」だ。


心が大事。

だから逆に、心がしっかりしていなかったら、「学び」は薄っぺらくもたれかかる紙切れになってしまうだるおお。
心が、意味を、「知」の響きを感じられないからだ。
そう考えると、世の中で「知」と呼ばれているものは、大したことではないのだ。
ただの不安や欲求をかき乱す刺激なのだなとおもえてしまう。

だからオトノネ!笑

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僕が心を揺るがした記事はこれ。

人類とネアンデルタール人が想定よりも古くからセックスしていたことが判明
結構古い記事だ。

嫉妬がネアンデルタール人を絶滅に追いやった!
こっちの記事は、本当かどうかわからないけどいろんな情報が詰まっていて、刺激になる。書いた人の妄想、推測の部分が多い、。。。

で、僕はこういう疑問を持ってこれらの記事を読んだということ。
「人間の暴力性は、人間の本質なのか」

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かつて、「ホモ・サピエンスってネアンデルタール人に犯されてたんだってよ」と友達が言っていたのを覚えている。
それで、ネアンデルタール人が凶暴性をもっていた、暴力性がつよかった・・・・という前提で僕の思考は進む。
それでも死者を埋葬するという文化(?)があったらしいのだが。ネアンデルタール人の埋葬を改めて確認

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ネアンデルタール人は、狩がうまいとか、肉体的に強かった、という記述がある。
こういうところから、ネアンデルタール人→暴力性というイメージがでるのかも。
「ヒトは何故生き残ったのか 第二集の見どころ」
それが正しいとしよう。

また、ホモ・サピエンスはネアンデルタール人よりも多様な音声言語が使えたという。
それも正しいとしよう。
ということは、ネアンデルタール人は埋葬の文化とかあったみたいだけど、文化を伝えるとかそういうものにはよわかったっぽい。
だからネアンデルタール人→新しい状況に耐えられない(暮らしを変更できない)
ホモ・サピエンスはなぜ生き残れたのか【ネアンデルタール人との違い】

ネアンデルタール人のネアンデルタール人らしさは、狩に行く男にあり、
ホモ・サピエンスのホモ・サピエンスらしさは、文化を子供に伝えたり、道具をつくる(?)女にある、としたら。。。

ネアンデルタールがお父さんで、ホモ・サピエンスがお母さんの組み合わせが最強だ。
もっとも環境に適応しやすかっただろう。

もっとも暴力的な男性が集団に必要な狩を成功させるために必要とされた。
またその男を組織化させるような平和的な女性が、集団を成立させるために必要とされた。

この記事にはこんなことが書いてある。

これまで、ヒトの起源であるホモ・サピエンスは、約6万年前にアフリカ大陸から移動を開始して世界各地に広がって行ったと考えられていました。その拡散の過程で、ホモ・サピエンスは当時まだ生存していたネアンデルタール人と交配を繰り返していたことが判明しています。これを裏付けるのが、現代のヒトが持つゲノムの中には、ネアンデルタール人に由来するDNAが1%から4%の割合で含まれているという事実です。なお、このDNAはヒトが持つ鬱(うつ)やニコチン中毒といった症状の元になっているとのこと。

ん?薬物とか酒とかタバコとかの依存症になるのは男性が多いってこういうこと?
男性の方が女性より、ネアンデルタール人のDNAが多いのかな???

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こうして妄想を進めると、人類の父であるネアンデルタール人はそもそも暴力性をもっており、
人類の母であるホモ・サピエンスは平和性(暴力性の対義語ってなんだっけ)をもっている、、という短絡的な人類像にいたる。
(この知識の不確かさはさておき)

そうすると、今の社会、というより人間の社会は、男性が動かしている限り平和にはならないというフェミニズムめいた考えになることもでき、さらにはかつて母系社会だったという話の意味もわかるかもしれない。中国の神話では女媧と伏犠が絡み合って世界を成り立たせている図がある。

また男と女の戦い(駆け引き)というものが、神話の世界にもよくある話。

一人の人間の中でも、この暴力性と平和性(いい言葉が浮かばない)が混ざっているとしたら。
一人の人間という宇宙のバランスを保つための心がなければ、どうして暴力性を止められるだろうか。

暴力も、平和も、人間の中に半分ずつ組み込まれている。
暴力は、人間の世界に、ある、のである。
平和も、人間の世界に、ある、のである。

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同じ話を、縄文人と弥生人でしてもいい。
DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた

大和朝廷、現在の日本人のルーツとなる人たちは、日本の原住民、縄文人を制圧していった。(日本の歴史によれば)
南から、北へ、、、、先住民のたちは征服民の人たちから蝦夷の人と呼ばれていた。

なぜ、征服していったのか?
なぜ、人は、侵略するのか?
なぜ、人は争うのか?
平和に暮らせないのか?
平和とはなんなんだ!?

土着の人は、住んでたんだよ!
(侵略の歴史・暴力の歴史が、人類の歴史なのだろうか。実際、そんな歴史ばかりを学校で習う笑)

鬱=不安という感情の処理がうまくできず(言葉=心)、支配=コントロールという暴力に頼るしかなかったという、未熟な人間の姿が、今も、昔も、変わらないのではないかとおもってしまう。

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暴力性が、人間が生まれたときから刻まれている本性だとしたら。。。
この社会は、とても自然な状態であり、別に、泣いても笑っても、悲しんでも喜んでもなんでもない、ただただ、人間らしい姿なのだとおもえてしまう。暴力は人間の本性なのだと。支配は、人間の本性なのだと。児童虐待も、自殺も、DVも、人間の本性なのだと。

これが事実だとして、その事実を心はどう受け止めるか。
「だから、私もその暴力に加担しよう。暴力の中で生きよう」とおもうだろうか。
「だから、子どもにも暴力を持たせよう。子どもを、戦場に送ろう」とおもうだろうか。

「心」は「知」に耐えられるだろうか。

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もっと別のことを考えてもいいだろう。

女性が女性らしく生きる、ということは、男性と同じように働くこと、ではない、のではないか。
と僕はおもう。

男性と女性が、二つ合わさって、人間ができるのだから。

トランスジェンダーという言葉が最近話題になっているようだが。
それは、平和と暴力の境界、支配と自由の話なのかなと、僕はおもう。

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結局は女性の(男性)社会進出ではなく、
男性が女性社会を守るだけでいいのに。。。と僕は言葉を漏らして見みる。

女性社会とはなんだろうか?
人間として、女性という個性が尊重されることだろう。
子どもの個性は勝手に伸びると、とある先生はのたまったが、女性の個性は潰されていないか。

男性が、暴力があふれた世界で、女性を人間の個性として、捉え直してみたら、どうだろう。

お互いの世界を守る、お互いの本質を理解する。少なからず理解する、そういう世界があったらいいのだと思おもう。(だから男の人のオイタなことも、女の人は大目に見たらいいのかもしれないし、女の人のオイタなことも、男の人は大目に見たらいいのかな?)

心が大事。

現実を知るためにも。

心を育てよう。

暴力にさらされている命があることに、気づけるような心を。

自分の中にいる男性と女性が、自分の心の中で、平和な家庭を築けるような心を。

パーソナリティ特性の記事でも書いた気がするが、人間の半分は遺伝であり、半分は環境であるという。

富山県・もしくは日本という場所は、可能性の半分である環境がほとんど絶望的だとおもったら、もしそれが「現実」だとしたら、、、
その「知」に耐えるための「心」を、僕はもっているだろうか?
絶望の中で漂泊する人生を、送ってしまわないだろうか?

こういう戯言を、今日も長々と書いてしまって、全く申し訳なくおもう。

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子どもは環境に順応する天才だ。
お父さんお母さんの心の歪みにも順応する。
お父さんお母さんの硬直した、「現実」を受け付けない心にも順応する。
順応した結果、「立ち止まる」かもしれない。
「立ち止まる」ことができなかった、大人の代わりに。(大人は、失敗したのだ!)
「立ち止まる」とは、成績が落ちるとか、勉強しないとか、病気になるとか、グレルとかそういうものも含めて。

性をもって生まれてくる子供。
命をもって生まれてくる子供。

親という環境、大人という環境の中でもう一度生まれ直したいとおもう子供もいる。
それすら支配してしまうなら、親の名前を捨ててヒトラーを名乗るといい。

「小さなブッダ」
「小さなガンジー」が僕らを見つめている。

あなたを見つめている。

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ネット上で、悪口をいうことが流行っている。
いやいや、事実を書き綴っているだけかもしれないが、、怒りを感じる。
僕が富山高校とか高岡高校とか富山中部高校とかに限らず事実を伝えながらも、僕の感情もでてきてしまうからいたしかたない、といえばそうだが。

怒りを感じて、
怒りを発信して、それで、何か、いいことがあっただろうか。
なんども怒りを発信して、暮らしは豊かになっただろうか。

いろいろな事実、相手を非難する事実を見つけては投稿し、罵るような人がいる。

同じ事実を見つめる人でも、その刺激に対して心の反応はまちまちだ。
「知」は生き方を生み出さない。生き方を生み出すのは、「心」だ。

やっぱり、心が大事。

ワクチンか何かを発見した人は、たしか、「たまたま」ウィルスが死んでいく現象を目撃した。
日常的に誰でも目にする「事実」でも、それに気付けない人がいる。
気づくことができるような、自然な心のあり方すら、暴力によって、壊されてしまっていないか。

僕自身、しっかり感じなきゃなとおもう。

オトノネひろげるシェアぼたん

「子ども」に先生の値打ちを「問う」

「今日はなにを学んだの?」
と聞いた時に、「足し算」とか「漢字」とか、単元の名前とかがでてきたら、多分その子は大切なことを学べていない。
「今日は何を習って来たの?」「エチュードの○番」とか、「クリスマスの歌!」とか。
僕が聞きたいことはそこではない。

「今日はなにを学んだの?」
という質問をわかりやすくしてみよう。
「今日は先生は、どんなことを話していたの?」

こう質問してみるといい。

心に残っている部分が、その子がその先生から学んだことの印象であり、実態だ。
それが「足し算」とか「文法」とかそんなものであってはいけない。

さっそく、新学期がはじまったら子どもに聞いてみよう。
「今日は先生は、どんなことを話していたの?」

「宿題を期限までに出さなかったら○○だって」みたいな返事が返ってきたとしよう。
それが、その子と先生の関係なのかもしれない。

もう少し聞いてみてもいいだろう。
「一番、心に残ってる、大切な話はなかった?」
「うれしくなった言葉は?」
「かなしくなった言葉は?」

子どもたちは、どんな大切なことを、大人から学んでくるんだろう。
いいものを、先生からもらわずに、いったい何を先生からもらっているんだろう?
魔王の言葉???

学校は、ただの場所を表している。
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。

先生は、学校の管理人であって、学びを与えてくれる人ではない。
囚人に日課(作業)を与えてはくれる警備員のようにもおもえてしまう(富山県の議会の部署(委員会?)で、教育と警察は同じ場所にいる。これは全国みんなそうなのか?)。
これは批判でも悪口でもなく、事実だ。(事実すら、見えない人には見えないのも、また事実)

先生の「子ども」にとっての値打ちを知りたければ、「問う」ことをしてみよう。
その答えから導き出される「子ども」にとっての先生の値打ちが、なんか変だな。とおもったら、オトノネに遊びに来てください。

「どんな先生?」
という言葉で聞いたら「やさしい」とか「いや」とか「たのしい」とか。いろんなエピソードを聞かせてくれるかもしれない。
それなら、学校に何をしに行っているのか、僕にはわからない。

聞き方も大切。

ん?学校に「しつけ」のために行っているのか?????
学校にいる子どもたちをみると、崩れていく日本の社会を新しくするチカラではなく、ただ崩れていくものに埋もれていく人柱にみえてしまう。
それは僕の偏見だろうか。いやいや。事実です。
言葉を育てず「躾」つまり体裁を整えるように、世の中は動いている。
その魔王の代表格が「学歴」とか「成績」という言葉だ!

事実に気がついたお父さんお母さんが、オトノネを大切にしてくれたらいいなぁと強く思っている。

しつけとけじめ
言葉を喋るまでのケジメが大事すぎる件。
しつけと道徳的行動の関係の研究

オトノネひろげるシェアぼたん

学歴は所得に本当に影響するの?【学歴の影】

フィンランドの所得を調べていたら日本のこんなサイトに出会った。
https://www.nenshuu.net/sonota/contents/gakureki.php

このサイトの結論は、「学歴は所得の差につながる」というもの。

で?

この結果に、データに疑問を持つ人がいたら、スバラシイ。

実感が伴っていなければ、直感が働くだけの経験、知識がなければ、出された資料を鵜呑みにせざるを得ない、
数字に隠された現実の姿が見えてこない。

ーーーーー

賃金構造基本統計調査
をみてみる。

https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/chinginkouzou.html

調査の概要、という場所をみると。
この調査の対象になったのが誰か、母集団がわかる。

その選び方は、ランダムではない。
ランダムな「自然」さがどのようなものか、わからない。
偏りあるランダムなのか。(ちなみに「賃金構造基本統計調査」の学歴別のデータを僕は見つけることができませんでした。。どこ???)

ーーーー

つまりこういうことだ。

現実として、大学進学をしてニート、もしくはマクドナルドでアルバイト、などよくある話だ。
水商売をしてお金を稼いで大学に通い、その後、どうなったかわからない子もいる。
社会の闇が、このデータ(賃金構造基本統計調査)から消されている。

と、僕はおもうのだ。
他の都道府県への「タテマエ」でぬりつぶされたデータなど、全国学力テストで十分だ。
富山県は《教育県》か?(その1)全国学力テストの見方(情報リテラシーを身につけよう)

ーーーー

もちろん、給料が高い企業は、大学卒、大学院卒の人を採用するという話があるのは事実。
【イイ大学がイイのはナゼか】上場企業の保護者に聞いた。旧帝大でなかったら、東京の私立へ行った方がいい話。

で???

大学を出て無職の人たち、死んでいった人たち、知的で教養があり社会から排斥された人たちをカウントしない社会。

大人は、子どもに何を伝えたらいいだろうか。
伝えるべきだろうか。
伝えては、いけないのだろうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

言葉の内実とは何か。
「言葉はいろいろなことを表現する。その内容は何か。実態は何か。」ということだ。

言葉に人間のような姿形があるなら、いったいどのようにその人は暮らしているか、という問いを自問自答してみる。

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僕は日本の精神文化は「源氏物語」と「浄瑠璃」に集約できるとおもう。
それは日本人の「感情」の表れであり表現だ。
どちらの作品にも「日本仏教」が付いて回るが、とにかくこれらの作品には「泣く」「怒る」という感情がよくよく表れている。官能もよくよく、含んでいる。世界中でもコンビニでポルノを売っている国など、日本の他にない(あるの?)。

それを例えばキリスト教を文化にもつ人たちに求めるなら?
長い間、聖書の物語が彼らの精神活動を支えていた。
聖書を紐解き、聖書の中に答えを見出そうとした。
そこで「解釈」のための論理学が精神の重要な部分となった(元をたどればポリス時代にその素地ができていた)と僕は考える。
海外の人と話をしていると、日本ではほとんど、ほとんど聞かない言葉をよく使っていることに気がつく。
「Why」という言葉だ。
この言葉は相手の論理、思考、考えを問う言葉。相手を解釈・理解しようとする言葉。
(日本人なら「どうして?」「なぜ?」を使う代わりに、驚きや拒絶、好き嫌いなどの主観的な感情を表現するだろう。)

日本人が「why」を使う状況は、、、大きな人間が小さな人間に問いかける時くらいだろうか。日本の大きな人間同士がこの言葉を使うのだろうか。。。

これは僕の印象だ。

人が誰かに助けを求める、お願いをする姿を思い描いてみてほしい。
どんな状況?
どんな言葉で?

僕は日本の農民が苦しんでいる、困っている状況を思ってみた。そこでその人は「どうか〇〇してください」と誰かにお願いするだろう。「行動」を「乞う」わけだ。「わたしたちの村は飢饉でもうこれこれこうで」と「感情」に訴えかける。

西洋の人が困っている状況でお願いするイメージを描いてみた。教会で人が神に祈りを捧げているイメージがでた。その人はこういう。「神様、私は、どうしたらいいでしょうか?」問う。「行動」するのは自分であり、「乞う」のではなく、「問う」。

人の感情に訴え行動を「乞う」日本。
神の理性に訴え言葉を「問う」西洋。
対比的にみると、僕はこうなんじゃないかとおもう。

今の内閣総理大臣がいろんな批判を浴びせられているが、「問い」に対する誠実さがない、「問い」を理解できていない、「問い」かけられているという認識すらない、「問う」という言葉の価値がないのは内閣総理大臣が変わればよいのではない。批判は内閣総理大臣という個人に浴びせられるものではない。少なくとも今の「問わせない」教育システムをつくりだした自民公明党という組織への批判であるべきだし、根本的には、この日本人の「乞う」精神文化、「問わせない」しくみを変えようとしない教育への批判であるべきではないのか。言葉の内実は歴史につながっており、それほどまでに深く人の意識を規定している。

しかしこの時代遅れの精神文化と呼ぶべきものは、本当に変えるべきなんだろうか?なにしろ相手は「歴史」である。
むしろ、この歴史に抗うことなく、ただただ「感情」と「行為」レベルの動物的な共産体制を保持して行くのも「自然」だろう。選挙に参加するということは歴史の流れに自分をどう位置付けるか、という大きな仕事だとつくづく思う。

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日本人が「言葉」を「解釈」し始め(ようとし)たのはいつか。
明治になって、新しい言葉を吸収しようとした時からではないか。そうして文豪たちは、西洋と日本の間を行き来しながら、新しい言葉の文化を作ろうとした。

現在、若者たちが、大人たちが、自分が使っている、触れている言葉、心を育てている言葉はどんな言葉か。
「源氏物語」や「浄瑠璃」の世界とどう違うか、少し立ち止まって、「問う」のも一興だ。

かの有名な言語学者が言った通り、言葉は意識そのものである。意識の道具ではない。意識そのものである。
言語環境は、その人の心をつくる。
保育所、幼稚園や学校で殺伐とした言語に日常的に囲まれている子どもたちの心が作る次の世の中は、どうなっているんだろう。

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この文章を書きながら、「問う」ことはすなわち考えることだとおもう。
「問う」ことで、心が満たされて行くように僕は感じている。(おとのねさんは学者らしい)

「乞う」ことで満たされるものは何か?
いくら食べても飽くことのない獣であるように思ってしまうのは私だけだろうか。

「問う」ことで満たされる心も、次の「問い」を飽くなきまでに求めるのだろうけれど。(こういう逆説的な、矛盾するような文章に楽しみを感じる人はオトノネの門をたたくと面白いのかもしれない)

C・S・ルイスが「子どもの本の書き方3つ」という評論の中で、児童文学のよくない書き方の1つとして、自分の生まれてきた世界には死や暴力や負傷や冒険、英雄的行為や卑怯さ、美や悪が並存するのだということを子供に知らせてはいけない、という見解に基づくものをあげている。また、子どもの欲するものだけを与えようとする書き方も戒められている。(略)もし子どもたちのことばでルイスの言葉を書き換えるとしたら次のようになるだろう。「大人のみなさん、あなたがたが勝手に頭で考えたものを私たちに与えないでください。ユートピアもモラルも、私たちが自分でつくるからこそ、すばらしいものができるのです。私たちにそれをつくる場と自由な時間をください」と。それにしても、ルイスがこのような忠告をしなければならなかった理由があったのだろうか。たしかに、子供達をとりまく大人たちの考え方の中にこのような忠告を必要とするような状況がある。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.54)

子どもたちは自分で「問う」ことで世界を作って行く。
人の顔色を見て世の中を渡る「行為」レベルの処世術ではなく、「心」のレベルで人と関われるようになってほしいと、僕はおもっている。
だってそっちの方が、僕は人が人らしく輝けるとおもっているから。

日本人は逆に、「問われる」ことで、輝きを失っているのが現状だろうけれど。
うーん、どうしようかな。
目の輝きが問われる前に、目をつぶって念仏を唱えるのが、日本人の言葉の内実、意識なのかもしれない。

ーーーー

言葉にチカラを。
これがオトノネのテーマだと、「問う」ことで僕は発見した。
「問う」ことは学びのメタスキルだ。

ところでおとのねさんはHPやフェイスブック、ブログでいろいろな「問い」を読者に伝えてきただろうか。
「情報」は「問い」ではない。

オトノネは「問う」ことを続けていこうとおもっている。
たとえそれが「わかりにくい」HPだったとしても?
「乞う」HPも作って両方の人がオトノネに来てくれるようにしようかとおもった。

二本立て!
オトノネはHPから、心を大事にしようとおもいます。
お腹すいた。

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「学校」という「自然」、「校舎」という場所。【嫉妬学】和田 秀樹

嫉妬学

もう僕はいわゆる「学校」という言葉を使いたくない。
学べないからだ。
課題しか与えない。
教えてくれない。
試練しか与えない。
乗り越える勇気も、希望もない。
そんな場所を「学校」と呼びたくない。

「校舎」でいい。

「校舎」で学べている子もいる。
その子にとっては「学校」だろう。
ただ、そういう子は、中学校では全体の半分くらいだと僕はおもっている。

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いじめがあるとしよう。
トイレの奥に友達が連れて行かれて、ねちねちと恐怖体験を受けていることを目撃した子がいたとしよう。
どう振る舞うか?

いじめは、今の学校教育が、すでに移り変わった社会、時代を顧みずに明治時代の軍隊式の本質をそのまま受け入れていることで生まれている。いじめは文化である。社会的に作られた「自然」な姿だ。

けどそれってちょっとおかしくない?
いじめられる側になったとしたら、なおさらそれは「自然」であると同時に、「脅威」だ。
けれども「自然」はなくならない。そのままの姿でまたやってくる。

人間は、そこで何をしたか。

「学んだ」のである。

「学」という文字は「狭くなった建物を押し上げる人」を形象している。
建物は、「自然」から自分の身を守るものだ。
人は「恐ろしい」自然から身を守るために家を作った。
家を押し上げる。それは自分を自然から守る装置を作り変える、広げるということを意味する。
それが学びだ。

どうして「学び」の本拠地である学校でいじめが起きるのだろう?
学校という自然の脅威に対して、「学ぶ」しかない。

学校では「学べない」
学校が与えた試練を乗り越える手立てを、学ぶ手立てを、学校は準備できていない。

ーーーーー

自己肯定感を「この世にいることに安心している」状態と僕は説明した。
ひきこもりはどうか?
安心しているだろうか?
安らかだろうか?
そしてそれは、「自然」だろうか?

引きこもりをしながら、心が「自然」を受け入れていく、「自然」が脅威でなくなっていくこと。
そして安らかであること。

安らかとは、家の中にいる女の形象。

漢字から、家の大切さを思い知らされる。

自分の魂が安心していられる家を自分の中に作ること。
「わたしは大丈夫」
といったときの表情が引きつっていないこと。

これが、10歳からの発達の要であるようにおもえる。
いじめが増える時期。
学校の中で多くの「社会問題」が起きる。
学校という「課題」にどう向き合うか。
それが高校以降のその子の人生をつくる土台になると僕は思う。

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最近、神戸市の小学校のカレー事件があった。
小学校教員による教員いじめ、生徒いじめである。
この当事者がいったいつ、こんなことをする精神状態になったのかはわからない。
ただこのような事件が「自然」に起こるような状況が、学校に、社会にあるということ。

「わたしはルールを守らせる」「食べ物は残さずに食べなくてはいけない」「わたしは先生だ。羽交い締めにしても食べさせる。これが教育だ」という思考が「自然」に発生する世の中だ。

めちゃくちゃに壊れている、古い、もうボロボロの教育システムのなかで、強く生きるには?
いやいや、学校の中で生き残ることで得られたスキルを社会の中でどう生かす?

学校の成績がよいことに自己肯定感(欺瞞)を抱く病気である人は、将来、学校が終わった後に、人に共感できないサイコパスっぽい人間になると、『嫉妬学』で和田秀樹は述べている。僕もそう思う。

「校舎」という場所できっかけを、子どもはもらっていく。
それは先生が出す宿題ではない。
「校舎」の外で出会う先生や友達、お父さんお母さんと一緒になって取り組まないと解けない宿題だ。

子どもだけではむずかしい。
お母さんと子どもでも難しい。
お母さんと子どもとお父さんでもむずかしい。
そこに別の誰かが入ったらどうなるだろう?

オトノネはそういう場所です。

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学校の先生を助けてあげよう。

もしこういう先生がいたら、お母さんから「休んでいいんですよ」と言ってあげてほしい。
学校の先生の多くが疲れて自分でも何をしているかわからない、のかもしれないから。

学校の先生は、病気の人が多い。職業病。

助けてあげなくちゃ、学校の先生はもう、限界を超えているから、無理なんだということ。
これからもっとたくさん忙しくなる。

学校の先生を助けてあげてほしい。

じゃないと宿題やったかとか罰を与えるロボットになってしまう。
そのくらい、先生は疲れている。疲れていない、実際に自動思考(プログラミング)で動いているロボットの先生もいる。

そうでなければ、先生という仕事を続けられない。
救いを求めて、こういう場所にいく先生もいる。
助けてほしい!と叫びたくても叫べない先生がいる。

いやもちろん、ちゃんとした先生もいるけれど。
っというか、ちゃんとした先生というくくりは属性に聞こえるかもしれないが、属性ではなくて、学んでいる先生、対話している先生、自立した先生、積極的に責任を負っている先生のことを、僕はちゃんとした先生といっている。

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子どもが疑問に思ったことを「学校の先生が言ったことだから」と、親が思考停止になってはいけない。
その「悪癖」は子どもに移る。否定せず、批判を試みるといい。
学校の先生から言われたことを鵜呑みにする子どもにならないためには。

学ぶ人間に「いわれたことだからする」というセリフはない。
学ぶ人間にあるものは対話であり、理性である。

納得できないなら、どうするか?
そこからは、社会情動的スキルの出番だ。

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(自称)進学校の子どもが危ないというデータ?

【放課後ディサービス・自立支援センター】ひこうき雲・はなれ雲訪問

にも書いたけれど。
学歴が幸福で満足な人生を約束するのではない。
間違った「学歴対策」をすることで、大切な関わり合いができないことで、失われる人間らしさがある。

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アメリカのリバーデールという富裕層が通う学校で教師から「ヘリコプター・ペアレンツ」という親がいる。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.135)

つねに上空をうろつき、何かあれば助け出す準備は万全ーしかし、だからといって気持ちの上で子どもの結びつきを築こうとか、一緒に時間を過ごそうとしているわけではない。

そういう親が、裕福な家には多いという。

—-

この後に書かれているデータには、富裕層の子どもたちは、貧困層の子どもたちにも劣らぬほど、不健全、不健康な精神状態に陥っていることが書かれていた。

子どもたちの悩みは「成果をあげることへの過大なプレッシャーと、精神、感情の両面における孤立」だった。

という。

ーーーーー

この記述を見れば見るほど、自称進学高校の現状そのものじゃないか?
このデータはアメリカのものだ。
アメリカの富裕層の親が与える子供へのストレスだ。

で、

親を教師に読み替えると。。。

同じデータが、日本では、富裕層ではなく、(自称含む)進学校の生徒にも言えるのではないか。
日本の場合は、
学校の先生が与える子供へのストレスだ。
親も学校と同じポジションにいたら、子供は・・大丈夫かな。

この困難を、なんなく乗り越えて、先に進もうぜ!
そのプロセスで、強くなれる。
【自然な子育て】とは何かー学者たちの出した簡単な答えー

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「子どもの子ども」のためにお母さんにできる大切なこと

子育ては、社会をつくること。
お母さん一人でしているのではないですね。

「子どもの子ども」のためにお母さんにできる大切なことは、お母さんが社会に働きかける、社会をつくっていくことです。

ーーーーー

ひとつめ。

お母さんが笑っていると、子どももしあわせになるんです。

お母さんが「お母さん」という役割を超えて、「◯◯さん」として充実した生活を送ることはもちろんです。

「あ、こうしたら、しあわせになるんだな」という作法を、子供はお母さんからたくさん学びます。
お母さんがしあわせになることが、子どものしあわせになるチカラを伸ばします。

お母さんの今の暮らしを豊かにすること。
これがひとつめです。

ーーーーーーーーー

ふたつめ。

ふたつめは、お子さんの将来の暮らしを豊かにする「しくみ」をつくることです。
「お母さんが」!です!
子どもが!何かするではありません。

さぁ、どうしたらいいのでしょうか・・・

お母さんが不安を感じてしまう社会の「しくみ」を変えることでうs。

不安な世の中、「この子をどう育てたら、しあわせになれるんだろう?」と悩んでしまうかもしれません。
学歴社会?貧困?この子は勝ち組に・・・?

繰り返してしまいますが、高学歴の人でも、引きこもりになることがあります。
不安の中で暮らしている子どもは、しあわせになるチカラを発揮できないことが多いのです。

お母さんは、どんな世の中になってほしいですか?

「正規雇用が少なくなった、外国人労働者が入ってきた、子どもは仕事をちゃんとできるだろうか」
そういうしくみをつくっている政治を変えるチカラがおかあさんにはあります。

「もしうちの子の時代に戦争が起こったら?」と考えてもいいでしょう。

「いやいや、政治なんて・・・」とおもっていませんか。

有権者として、政権を変える努力ができます。
別の政党になっても同じ・・・かもしれません。
ただ、今の「不安な世の中」にブレーキはかけられます。
また最近、希望に満ち溢れた言動をしている政党もでてきました。

子どもの子どもを「安心できる」社会に送り出したいという気持ちを、祈りを込めて、投票に行くことは、子育ての一部です。
「安心できる」社会をつくるプロセスに参加することは、子育ての一部です。

絶望しないための貧困学: ルポ 自己責任と向き合う支援の現場
画像をクリックすると、amazonという通販サイトに行き、関連する図書のリストが見られます。

責任とは何か。
「貧困になったのは、その人の自己責任」か。
「学校についていけなくなった」のは、その子の自己責任か。

いえいえ。
学力、経済の格差が生まれる「システム」になっているのです。
「システム」を変えれば、ずっと、よくなる、よくならなくても、最悪の事態は免れるでしょう。

だって現政権はこれから戦争しようとしているんだから。。。
だって現政権は、お金をオリンピックにつかって「国際的な評判」を高めようとしているのですから。

貧困はどの国でもある。
埋まらない格差がある。
ではどう生きればいいのだろう?
とりあえず一票!で簡単に変えられるのだから、一票入れたらいいでしょう。
簡単じゃないですか?

責任についておとのねさんが考察した記事はこちらからまとめてみられます。

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選挙に関心がなかった僕が、はっ!とさせられたのは、安冨さんが出馬したこと!
安富歩『生きるための経済学』シジョウとイチバ

ある保育園の美術の時間と保育×美術×コーヒー

『誰が星の王子様を殺したか』というモラルハラスメントの本も書いている。おもしろかったですよ。星の王子様の、悲しい物語が、とても現実味を帯びて、さらに悲しく感じられるようになりました。

安冨さんがれいわ新撰組に入った後に書いた記事がこちら。
「組織」としてダメだから政治はダメだと思っていたところで、政党という「組織」を解体して選挙に挑んだ山本太郎。
その本意を汲み取って、文章化した安冨さん。

内側から見た「れいわ新選組」

「こどもを守り未来を開く」と訴えて参院選を戦ったれいわ新選組比例候補は、近現代史に精通し、社会生態学者でもある経済学・経済史の専門家!岩上安身による東京大学東洋文化研究所 安冨歩教授インタビュー 2019.8.9

社会の現状、見えない貧困と、「いい会社」一人勝ちになる格差社会を「よし!」とするのが今の政治です。
塾業界、学校はこれをさらに加速させています。
受験戦争、「定期テスト対策」をさせることは、貧困を生み出すシステムを強化することになります。
塾に通わせること自体、この貧困システムを強くしていることになります(さらに競争を激化させるコマーシャルをするわけですから)

貧困は拡大します。
そんな社会から子どもを救うために、大人は今、「課題」をしなくちゃいけないとおとのねさんは考えています。

犯罪、競争、さまざまな不安を作り出している今の政治を変えるのが、「子どもの子ども」を守る今の大人がしなくてはいけない、親としての責任だと僕は思っています。

【そろそろみんな怒ろうや!】
このデータがどこからきているかわかりませんが、彼の言うことなので、まぁ正しいのではないかと、おもってしまいます。

自民党すげえ金額企業から献金もらってる!!
お母さんが思い描く「いい会社」はこういうところですか。

「救いようのない世界それでも救いたい人がいる」
crisis 公安機動捜査隊特捜班

随所にちりばめられた問題提起に感動
こちらのドラマで、とある「犯罪者」が語る「貧困者」の姿は、お母さん自身、お子さん自身かもしれません。

ーーーーーーー

今話題のキングダムで、武将の誰かが騙されて、「全て」を失う瞬間があった。たしか、えっと、「離眼」の話だ。
その時、騙された、殺される運命にある武将(王?)が、殺戮者にこう申し出た。
「女子供には手を出すな」みたいなセリフだった。

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現状、隠された貧困やらなんやらのデータはこちらのフェイスブックページで収集できます。
子どもを守るために、お母さんがやらなくてはいけないことが、あります。
山本太郎「れいわ新選組」を応援する会

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学歴って本当に役に立つの?なんで勉強するの?

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ビスタワークス研究所という会社が「高知やばいなー。社員、やばいな、教育しないと」ということで立ち上げた
示道塾なるものが、ある。

あの、教育の人件費に税金を47都道府県で一番使っている、教育熱心な高知県の会社!

ビスタワークス研究所に共鳴した人たちがつくった「示道塾」は富山にもある。

一般社団法人 百年示道塾とやま

で、ビスタワークス研究所のHPをみてみたら、おもしろい記事をみつけた。
つまるところ今「いい会社」が求めているのは、主体性、コミュニケーション能力、、実行力ということだ。
それをどう、採用面接時に計るのかは気になるが。

「学歴」ではなく「人」をみているのだろう。
非認知能力で、みられている。

ビスタワークスのHPから見習いたいものがある。
こういうレイアウト
で、みてほしい画像はこれです。


教育が「目指す」ものは、指示待ち、挑戦しない(受け身な)70%を作り出すことか。

お母さんは、どういう子を育てたいのですか?
「せめて大学までは・・・」いやいや、それは、教育ではないですよね。お金があれば、行ける大学は山ほどあります。

せめて「ふつう」の成績を・・・というお母さん、いますよね。。。
いやいや、会社いったら、「ふつう」は「向上心がない」の代名詞だと僕はおもいますがいかがでしょうか。

企業が、会社が、きちんと自分たちがどういう人材を求めているのか、学校ではなく、保護者に伝えるようになったらいいとおもおうんだけどな。

ちなみに、別に全員に主体性、コミュニケーション能力、、実行力が必要だとはおもいません。
ただただ淡々と、作業を丁寧にこなす人もいるからできることがある。

「さぶ」という小説があるので、読んでみるといいかもしれない。
さぶ

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第四回:求める人財はいない 人が輝く日本流経営〜経営品質の視点から〜[文:大原 光秦]

2011年に発表された経団連による統計「産業界の求める人材像と大学教育への期待」
とみてみると、たしかに、、、

このアンケートの対象である富山県、石川県の企業は以下のページより。
富山県経営者協会
石川県経営者協会

第一回:即戦力からポテンシャルへ 全国公立学校教頭会学校運営誌『夢を語ろう』寄稿[文:大原 光秦]

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