「蛇」は抽象語か

ヘビという言葉はよく聞く言葉だ。

へびさんへびさんとみんないう。

が、実際に見た人は少ないのではないか。

昔の子供たちは、空き地で遊び、蛇を捕まえ、蛇で遊び、蛇を食べ、蛇と一緒にいた。その時は具体的な、目に見える、生々しい蛇との経験がある。だから蛇という言葉は全然抽象的ではない。

国語が苦手、というのは、自分と関係ない世界の、よくわからない物事の「実体」が不明だから、その「名前」もあやふやなものになって、語彙が増えない、という理由があるのかもしれない。今の子どもたちにとってヘビは抽象語であるような気がする。

つまり言葉が生みだされる世界、言葉が育つ世界との関わり合いの少なさは、一人の人間の中で生み出される言葉の少なさに関係しているかもしれない。

テレビを見れば、蛇は拝める。蛇はわかる。

けど蛇の本当の姿とは?どうして「虫」がくっついているの?古代中国の人たちが「虫」という意味に込めた「ものもの」の意味がヘビにこめられている。ヘビはもともと日本語ではツチとかなんとかいった(ような記憶がある)。神であったし、大きな力をもっていた。時代が映ると蛇は忌まわしいものになって嫌われ出したり、聖書では悪者みたいに書かれている。

さて、蛇とはなんなんだろう。たぶん、ゲームの中で出会う蛇が、彼らにとっての蛇なんではないだろうか。くねくねして、噛みついて攻撃してくる。もっとやさしい蛇もいるんだけどね。(マハーバーラタをよもう)

赤ちゃんがお母さんと一緒に何かを見る、いわゆる共同注視という振る舞いがある。言葉によっても、ここにはない、ファンタジーに浸る共同幻視をしたらいい。おとぎ話には、言葉を鍛える力がある。物語は言葉を育てる。

さて、「自由」は抽象語なのだろうか?

「自由」を具体語として生きられるような暮らしをしてみたら、どうだろう。

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