論理を伝えること、論理の前提が崩れているとき、先生としての責務を果たすことと課題の多さの関係について。

論理的に話すということが無意味に感じることがある。

例えば学校で授業中に友達と話す子。
「なぜ授業中にはなしたらいけないとおもう?」
こういう問いをしてくれる先生がいるだろうか。

論理的に話すとこうなる。
「授業はみんなのためにやっているのであって、他の人の邪魔をするのは、他の人の迷惑になるから」
とても簡単だ。

教室は静かにするところ、では納得がいかない。論理的にそれがなぜか、落とせるところまで落とすとそういう答えになる。

もしこれが子どもに通じないとしたら?
話ができないとしたら?
大人はその子にどうかかわればいいのだろう?


私はいつも「教えなくてはならないこと・教えてはならないこと」を考えている。

それをはっきりさせるのが教育者の務めだと考えている。
教室の中で授業中友達と喋ることを黙認することは、身体的にそれを許していることになる。
「授業中、友達と喋っていてもいい」ことを教えていることになる。
私にとって、先生としての責務を果たすとは、「教えなくてはならないこと・教えてはならないこと」をはっきり伝えることだ。

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ちなみに、いつもでも友達がいないと何もできない、時間が過ごせない、というパターンは1歳すぎたらもう出来上がっているようだ。
先天的なものもあるだろうが、養育者との関わりも大きな要因になっているようだ。
保育園で働いているからわかることかもしれない。。。。

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子どもの言い分もあるだろう。
「だって授業がつまらない」「意味がない」「役に立たない」
こういう言葉を聞いた時に、大人は何を感じるだろうか。論理の前提が違うとき!

私ならこう応える。
「意味がないと感じるなら話を聞かなくてもいい。それは自分の責任で。ただ、他の人の時間を傷つけるのは悪いことだ」

それで無言になって、結局喋り続ける子がいる。
論理の前提が、そもそも違う(ただ喋りたい一心なのだ!)ケースだ。
もっとよくあるケースは「勉強してなんの役に立つの?」という疑問がでるほど、学校生活が窮屈な場合。
どちらの場合も、生徒の心は擦り切れている。

健康的とは言えない。

そんなとき、僕はこう考える。
「本当にその子にとって有意義な、成長できる時間をつくるためには何をしたらいいのだろう?」
授業という形態、学校というシステムにも限界がある。
果たして、学校は、組織は、大人は、こうして育ってきて今も成長している子どもたちに何ができるか???

(ちなみに、学校の先生は、生徒が同感・同情してくれるような言葉かけ、振る舞いを日常的にしていることがある。「この先生だから、静かにしていよう」というやつだ。生徒指導の怖い先生の前では静かにしている、というパターンをつくりだす。それも一つの手なのだが。人を見てコロコロと態度を変える就学以前の子どもたちと同じだ。もちろん、それは人間関係の基本ではあるが、その「手」が新任の先生がどんどん辞めていく原因のひとつとなっている)

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全ての学校に、通信課程を導入するのも手だ。
友達と喋りたい!なら単位は通信課程で。
自習室で友達と喋りながら勉強したらいい。(そっちの方が勉強になるかもしれない!???)
授業が嫌だ!意味がわからない。それでも単位が欲しいなら、友達とおしゃべりしたいなら、通信課程で。
通信課程と一斉授業の仕組みが流動的に使えるようになればいい。

決して他の人の邪魔をしてはいけない。
学校の本分が、教室という場所が、そのようにできているから。
「教えなくてはいけないこと・教えてはならないこと」をはっきりと伝えて、なおかつ、生徒の教育上の安全も確保しよう。

学ぶ意味がわからない、こんなもの役に立たない、とおもう子のための学校があるだろうか?
友達とのおしゃべりを楽しむ以外で、《行き甲斐》のある学校があるだろうか?

大人がそういう問いを立ててもいい。
(私なりの答えがotonone-オトノネ-なのだが)

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その子を否定するのではない。排除するのではない。
そのためには、
その子が学校でその子なりに、高校生活という経験を全うするための手立てを、学校が持っていることが必要なのではないか。
(その一つの答えに「特別支援級」があったりする)

そして大人がきちんと「教えなくてはならないこと」を伝えること。
学校の先生には、こういう意識が必要なのではないかとおもう。
(教えるという言葉が妙な響きに聞こえるかもしれない。心を表すこと、と言い換えてもらえてもらってもいい)

論理を、そしてベースとなる「相手の気持ちと自分の気持ち」という人間の根本原理を教えること。
それはいい子になる、というものではない。それさえあれば、世の中やっていけるというくらい大切なことだと僕はおもっている。

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「難関国立大学に合格させる」という責務を負った進学校を選んで入る人は、課題を当然ながら、あまんじてこなすべきだと考えてもいい。
そこを選んで入ったのだから。

先生はその責務を果たそうとしている。

ただ、大量の課題や途切れのない模試・テストという方法にあまり実りがないことは、大人がきちんと考えなくてはいけないことだと思う。
大人は「課題についていけないない子に対して、学校が本分を果たすにはどうしたらいいか?」考えているだろうか。

業務(先生たちにも「課題」がある)から自立して、考えているだろうか?
業務自体が「教えてはならないこと」を伝えていないだろうか?(潜在的カリキュラムという)
考えていない、工夫ができていない、先生自身が成長できていないとすれば、先生としての責務を果たせていないことになるというのは、論理的に正しいだろう。しかしこの論理の前提が崩れているから、困るのだが。

otonone-オトノネ-は壊れた前提の中で、それでも成長していこうとする子どもたちを応援しています^^

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