遊ぶと頭がよくなるのは本当『子どもの「遊び」は魔法の授業』

自称進学塾オトノネ
  1. 遊ぶと頭がよくなるのは本当『子どもの「遊び」は魔法の授業』
    1. オトノネで遊ぶ
    2. 土日のあそび
      1. 利用者の感想
    3. 平日のあそび
  2. 『子どもの「遊び」は魔法の授業』IQよりもEQを大事にしたい件(感情知性は「知性」のメタスキル )
  3. 勉強を遊びにできる子が、強い。そりゃそうだ。
  4. 笑うと、脳が喜ぶ。人生が変わる。だから、遊ぼう。
    1. 自分の人生に積極的になる
    2. 体も元気になる
  5. 遊びは人生を進める力、命のエネルギー
    1. 2つの脳が手を繋いで踊る
    2. 成長につれて制御される「あそび」
  6. ADHDとあそび
    1. ストレス・不安では遊べない
  7. 『才能あふれる子の育て方』おおたとしまさ
    1. 「破壊的なものを排除」する
      1. モンテッソーリ教育
      2. シュタイナー教育
    2. 「創造的なものを担保」(遊びを貫く)
      1. レッジョ・エミリア教育
      2. サドベリー教育
      3. イエナプラン教育
  8. カエルの歌
  9. あそびの対義語は暴力
  10. 遊具に遊ばれるか、遊具で遊ぶか。
  11. 『学力では測れない非認知能力が子どもをのばす』中山芳一を読んだメモ
  12. オトノネにあるおもちゃ
  13. 散漫なあそび、散漫な食事
  14. 山田さんとあそぶおとのねさん
  15. 学習障害は遊び不足で起きる可能性
    1. 遺伝子と向き合う
    2. 不器用さがある子
    3. 二次的な情緒の問題
  16. 精一杯、かるたであそぶ。それでもたくさん、学べる。
  17. 意欲ある遊びの中で子供が学ぶ数学的推理力・機能的推理『子どもの遊びは魔法の授業』
  18. 砂場での出来事(拡散的あそび)
  19. 保育所にある「あそび」道具
  20. オトノネのお母さんと「みのたけ」について語る【ビジネスと子育てと命】道草を楽しめ
  21. 脳は断捨離する。自然のあるところに知恵は生まれる。『子どもの「遊び」は魔法の授業』
  22. 一緒にやってみるだけで大人だって子どもだって、ドキドキできる。
  23. 生まれたから今まで、もっとも大きかったおとのねさんの挑戦。
  24. 収束的あそびと拡散的あそび。『子どもの遊びは魔法の授業』
  25. 絵を描くことが好きな子
  26. 小学生には小学生の発達課題がある。
  27. 禁じられたあそび
  28. すぐ忘れる?そこで役立つ記憶の研究成果とあそび
  29. 野性のチカラと企業戦士の矛の先と戦闘ゲームと虫取りとあそび
  30. こどものあそび『日本こどものあそび図鑑』
  31. おもちゃも、学校の宿題も、同じ。
  32. ドッグセラピー ・ドルフィンセラピー・動物療法
  33. 殴る蹴るの身体的なメッセージ
  34. ガス屋さんとの会話
  35. 体験すること
  36. 勉強は「しつけ」か「あそび」か
  37. 筆ペンは、遊び道具である。
  38. 行儀と振舞い。世界の翻訳。言葉の響き。
  39. 「ごっこあそび」概念を普遍化する『絵本の心理学』
  40. 朝、校庭で走り回る小学生。
  41. くやしいという気持ち。ごめんよバリの生地たちよ。
  42. あそびと犯罪。ナウシカとキツネリス。いたずら。
  43. 子どもとうまくいかない!とおもったら?

遊ぶと頭がよくなるのは本当『子どもの「遊び」は魔法の授業』

 

オトノネで遊ぶ

9歳まで(もちろん9歳以上でも)の遊びのチカラは計り知れません。体を動かしたり、ルールを決めたり、嫌なことも我慢したり、嬉しかったり、悔しかったり。情動発達・非認知能力・感情知性のためにも遊びは大切です。ストレスへの免疫もつきます。オトノネでは子どもたちに遊び(=学び)の機会を作っています。

土日のあそび

不定期で土日に遊び尽くしています。八尾の山にある「秘密基地」にいってアウトドアクッキング、オニゴ、隠れんぼをしたり。「もちつき」をしてみんなでほっこりしています。お父さんお母さんも一緒に遊びませんか?

利用者の感想

家庭での親のときアウトドアでの親のとき、他人と関わっている親のとき、ドキドキワクワクの親のとき…などなど。 なぁ〜んとなく、こんな大人でありたい、こんな姿を我が子や、これから育つ子どもたちに見せていきたいと言う気持ちを再認識させてくれるオトノネ💕 これが塾〜〜⁉️ 不思議〜〜⁉️ 大人も子どもも遊びながら、ワクワクしながら学ぶ一日でした〜〜😆 大人も普段の仕事だけの生活で忘れがちな、生きる力・学ぶ力。 子どもが自ら学びたいと思う環境作りに楽しめたオトノネ課外学習〜〜! ありがとうございました〜〜👍

平日のあそび

お子さんによってはレッスンとして遊ぶことをおすすめしています。学校にいけないことがショックで気持ちが落ち着かない、楽しいことがなくてどんよりしている、コミュニケーションが苦手、、などなど。現在は個別で受けていますが、人数が増えれば集団でもいいかなとおもっています。
 
 
 
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『子どもの「遊び」は魔法の授業』IQよりもEQを大事にしたい件(感情知性は「知性」のメタスキル )

感情指数と教室での成功の繋がりは幼稚園でも見出されてきた。幼稚園ですぐに友達を作ったり、クラスメートに受け入れられている子どもは、学力のつく自主的な方法で勉学に励む子どもでもあるのだ。EQ(感情指数)とIQは手に手を携えて発達して行くのだ。(p.408)

なぜかというのは簡単だ。EQが高い方が、就学以前の段階でたくさん友達と遊べる。すると言葉が育つ。言葉の力は、そのままIQに必要な力になる。(もちろん、自分をコントロールするEQによって根気よく学ぶこともできる)。EQが高いことは、相手の心を知る力もあることを意味するから、交渉力もでてくる。IQ偏重は、よろしくない。自立できない、社会の中で居場所を見つけられない、親から離れられない子どもになってしまうかもしれない。EQ未熟社会が、悲しい事件をたくさん引き起こしているとは、考えられないだろうか?(それはそれで人間らしいが) —— 「あなた、本気で、私に頭にきているのね。あなたをハッピーにさせること何かほかに教えてくれる?」「なんで人は泣くと思う?」「なんでお父さんが昨日あなたを怒ったかわかる?」「どうして泣いているの?」 言葉を通じて、言葉を通して気持ちを伝える経験は、気持ちを整理する、気持ちをきちんと味わうために大切だ。気持ちを整理して、自分の気持ちを知ることは、他人の感情をよりよく理解することにもつながる。感情と関わり、感情を知ること。否定的な感情を引き起こす状況で、どのように振舞ったら良いか、どう対処したらいいかというスキーマ、振る舞いの型を経験していくことで、言葉を選んだり、思いやりのある行動をとることができる。自分が感情をコントロールする経験がなければ、他人にどう思いやればいいかもわからない。

「学校へ行きだして最初の数年は、子供の感情的・社会的スキルの確固たる基盤の上に築かれる」「注意を払う、指示に従う、ほかの子どもたちと仲良くする、怒りや苦しみなどの否定的感情を制御すると言ったことに困難を示す子どもたちは、学校で成功する率が低い」(有名な児童発達研究協会の2002年の報告)
否定的な感情を制御できるようになるためには、二つのスキルを子供は学ばなければならない。ある感情を覚えた時に、それを認識できるスキルと、それを言葉にして言えるスキル(例えば「私は怒っている」など)、二つが必要なのだ。このような知識は親や養育者が感情について話をしたり、感情への対処の仕方を指導したりすることによって培われる。(p.282)

感情に触れる出来事を大切にしよう。感情に触れる経験を味わおう。そのために、子供の感情に向き合って、言葉や振る舞いを通じて、子どもと一緒に、感情を言葉にしていこう。 感情を学ぶことは一人ではできない。感情は大切な人とのやりとりを通じてしか学べない。 佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。「学校」つくったら!

私たちは子供が必要とするときにそばにいてやり、子どもが自分や他人の感情や行動を理解するのを助けてやる必要がある。そのようなことをしないで、子どもをアイビー・リーグの大学に入れ、最終的に最高の商業に就かせるために、早期の天才教育をほどこしても無駄に終わるだけである。子供が自分の感情を制御することも、他人の気持ちを理解することもできない不幸でみじめな「成功者」になったとして、一体どんな意味があるのだろう?真の意味で人生に成功するには、自分の感情を制御することや、他人の気持ちを汲むことができなければならないのだ。(p.290)

さて、ここで考えておきたいことがある。課題を出しまくる学校。自分の勉強をさせてくれないという学校に対して、生きていれば次々と襲い掛かる落胆のひとつに対して、どう対処したらよいのか?学校を変える?正式な手続きをして、課題をしなくてもいいようにする?それとも、先生に怒られながら自主勉をする?(テストの点数と出席さえあればいい)それとも、発想を変えて、無駄な課題を有意義にする工夫をする?時間の管理を徹底して学校の課題も自分の課題もする? 課題で死にそうな生徒が感じている感情は、悲しみだろうか、諦めだろうか、怒りだろうか。その感情を制御するアプローチは、対処する方法は生徒の価値観を作り上げる。「デモを起こすこと」は西欧では日常だが、日本ではちょっとおかしい、と感じられるかもしれない。権利を主張するやりかた、雇用者と被雇用者の契約関係はアメリカと日本では違う。感情に対する「妥当」な対処方法は文化によってある程度決められているし、個々人の気質によっても変わる。

モンスターペアレンツなどは、「おかしい。学校がおかしい」といって譲らない。「いやいや、それはお母さんの考え方が間違っていますよ」とおもうことでも、当然のようにクレームを出す。これは怒りの感情だ。お母さんが電話一本で「解決」しようとしたら、子どもは「電話でクレームを言う」ことで感情に対処することを学ぶ。

もうひどい学校で、お母さんが学校に来て真剣に、本気で話をして、しかもそれを子どもの目の前でして、ダメだったら転校する。そっちの方がいいかもしれない(ビリギャルのお母さんは実際に、そうした)。子どもはどうしたらいいかわからない。何ができるかわからない。だから大人が本気で、子どもに、「対処方法」を見せる。やってみせる。理解し合えない人と人、立場が違う人と人が関わりあう中で、子どもを守る、子どもが成長する環境をつくるのは、親事ではなく、子ども自身にとっても大切なことだ。環境の作り方、変え方、関わり方を学ぶのだ。

どれが正解かわからない。ただ、落胆、絶望、閉塞感にどう対処するか、心をどう守るかという大人のやりかたをみて、子どもはそれを真似る。家庭で怒りの感情をぶつけられて育った子は怒りの感情を誰かにぶつけることを学ぶ。ねちねちと悪口をかげでいう家庭で育った子は、ねちねちと悪口をいうようになる。(それは変だ、おかしい。と子どもが自分で修正をかけられるのが思春期であり、反抗期だ。価値観を検証する、成長する時期だ)

絶望を、悲しみを、前向きに捉えることがいつでもできるとは限らない。大切な人との離別や、どうしようもない悲しみ。けど、「残業代でないの!?給料低くない!??」という気持ちがあったら、勉強をし直して残業代もでる、給料も高い仕事につくこともできる。前向きに、成長するきっかけになる。借金をつくったら、「倍返しにしてやるぞ!」といきごんでビジネスを成功させるきっかけにすることもできる。大切な人との別れが「別の道、新しいを歩いてもいいんだよ」というお告げに思えるかもしれない。ひきこもり、不登校は「この子は純粋な心をもっていて、もっと別の伸ばし方をしてあげたらいいんだ」と思えば、逆にワクワクするかもしれない。

感情は「心の奥深く」からでてくる。無意識であって、勝手に出てくるものだ。ある状況に直面した時、出てくる感情が変わるということは、心が変わるということだ。感情と似ている言葉に「スキーマ」というものがある。自動思考のことだ。考える前に、脳が勝手に今までの経験から導き出す判断だ。状況+感情→スキーマ(自動思考)。「同じ状況なら、昔はああしていたなぁ」と思えることがあるなら、それは心が成長した証。辛い時に「ひとりでなんとかしなきゃ」とおもっていたけど「助けて!といってみよう」と思えたなら、スキーマが変わった証(感情は成長しないが、心は成長する) しあわせに生きるためのスキーマ、感情への対処ができるように、心に気を配ってみよう。 蛇足。IQよりもEQと述べたが、IQ偏重だからそっちよりEQを考えてね、ということである。

 

勉強を遊びにできる子が、強い。そりゃそうだ。

残酷すぎる成功法則

科学者が二五四名の社会人学生の陽気さや遊び心を調べ、それから彼らの成績証明書を見たところ、遊び心と良い成績は相関関係にあることがわかった。いや、じつはそれ以上だった。陽気で冗談好きな学生は、とくに予習が求められていない教材まで読んでくることが多い。彼らは好奇心が強く、意欲的だった。また、別の調査では、子どもたちの休み 時間の長さと学業成績のあいだに関連があることがわかった。よく遊ぶ ほど、よく学べるのだ。 (『残酷すぎる成功法則』エリック・パーカー)

 

この記事のまとめ

笑いは、「心」の作法です。

笑うと、脳が喜ぶ。人生が変わる。だから、遊ぼう。

EQ こころの知能指数

実践哲学で有名な中村天風の言葉に

「悲しいことやつらいことがあったら、いつにも増して、笑ってごらん。悲しいこと、つらいことのほうから逃げていくから。」

というものがあります。感情がなくても、つくって笑っても、気持ちが後からついてくるそうです。ニコニコしている人からもらうエネルギーは確かに、大きいですね。

笑いの恩恵は、創造的な解決策を必要とする問題をやらせてみるとよくわかる。心理学で創造 的思考力を試すテストとして昔からよく使われている問題をやらせてみたところ、テスト直前に テレビ番組の爆笑NG特集のビデオを見せたグループは他のグループよりも正解率が高かった。 テストは被験者にろうそくとマッチと箱入りの画びょうを与え、「火をともしたときにろうが床 にこぼれ落ちないような形でろうそくをコルクボードの壁にとりつけて下さい」という問題を出 す。するとほとんどの人たちは与えられた道具を型にはまった使い方で使うことしか思いつかな い「機能的固定」に陥る。

しかしテスト直前に面白いビデオを見て笑った被験者は、直前に数学 のビデオを見せられたり体操をさせられたりした被験者グループに比べて、画びょうのはいった 箱のユニークな使い方 を思いついて問題を解決できた人が多かった。正解は、画びょうの箱を壁 にとめつけ、それをろうそく立てとして使うのである。

気分が少し変わるだけで、考えかたも変化する。計画を立てたり決断を下したりするとき、明 るい気分の人は知覚が拡張的・積極的な方向へ働く。これはひとつには記憶というものが特定の 状況に結びついており、明るい気分のときには成功したときのことを多く思い出すようにできているからだ。明るい気分でいるときは判断力を積極的な方向に傾かせる記憶がよみがえり、その 結果私たちは少しだけ冒険してみる気になれる。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.138)

自分の人生に積極的になる

こうした「笑う」心の習慣がついた人を「希望を持った人」、「楽観的な人」ということがあります。ストレスに免疫のある人、といえるかもしれません(無理して笑ったり愛想が良いけど無慈悲な人、もいますが)。

楽観的になるには、自分の能力が自分の目標に対して十分だ、とか、目標に合わせて能力を埋められるという自信に基づきます。自分の能力がわからずに「大丈夫」といって破滅する人もいますが。

スナイダーはもう少し厳密に、希望とは「目標が何であろう と、目標達成に必要な意志と手段が自分に備わっていると信じること」であると定義している

この定義によれば、希望を持ちつづける能力は人によって差があることになる。自分には窮地 から脱出する能力や問題を解決する能力が備わっていると思う人もいるだろうし、自分には目標 を達成するエネルギーも能力も方法もないと思う人もいるだろう。スナイダーによれば、希望を 持ちつづける能力の高い人たちに共通な特質として、自分自身に動機づけができること、目的達 成の方法を見つける才覚が自分にあると感じていること、困難な状況に陥っても事態がやがて好 転するにちがいないと自分を元気づけられること、目標に到達するために別の方法を考えたり達 成不能になった目標そのものを変更したりする柔軟性があること、大きすぎる目標を処理可能な 小さな目標に分割するセンスをもっていること、などがあげられるという。

EQの観点から言うと、「希望を持ちつづける」とは難題に遭遇したり一歩後退を余儀なくさ れたとき不安に負けないこと、敗北主義に陥らないこと、沈み込んだりしないこと、などだ。実 際、希望を持ちつづけられる人は目標めざしてがんばっているときに落ち込むケースが少ない し、全般的に不安や情動ストレスも少ない。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.141)

自信というものは、前頭葉が生み出すものです。「安心感」で自信をサポートできるように他者との関係をつくっていきたいものです。

失敗した時、うまくいかなかった時、「ノー」と言われた時、「もう一回やめってみよう」とか「何がうまくいかなかったのかな」と振り返って前向きになる能力は、誰かの助けを借りることで高まるように私はおもいます。希望とは、楽観とは、助けを求める力、ということもできるかもしれません。

体も元気になる

元気な人は、よく笑う人は、体も強い。前向きな気持ちは体にも効く。

抑うつ傾向と同様、悲観主義もからだに悪影響をおよぼす。反対に、楽観主義は好影響をもた らす。たとえば、初めての心臓発作を経験した百二十二人の男性について楽観と悲観の度合いを 測定した調査がある。八年後、最も悲観的だった二十五人のうち、二十一人が死去していた。最 も楽観的だった二十五人のうち、死去したのは六人だけだった。患者の楽観度/悲観度は、第一 回目の発作による心筋の損傷度、動脈の狭窄度、コレステロール値、血圧などの医学的リスク ファクターよりはるかに正確に患者の行く末を予言していた。別の調査では、心臓の動脈バ ス手術を受けた患者のうち、楽観的精神の持ち主ほど手術中も手術後も問題が少なく回復も速い という傾向が確認された。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.272)

楽観的になる、というのは、世界を肯定的に受け止める、自分の心も肯定的に受け止める、という自然な生き方なのかもしれない。神経質傾向が強い、不安が多い暮らし方をしているなぁ、とおもったら、少しでも「気持ちが楽になる」工夫をしてみるのもいいだろう。

歳をとっていくと、死を意識すると、人生がよくなる人がいる。「死」を前にしたら、楽観的に考えるよりほかないからだろうか。

この記事のまとめ

「あそび」は「命」を強くします。

遊びは人生を進める力、命のエネルギー

人生半ばに達した現在でも、詩人エミリー・フォックス・ゴードンは、ニューイングランド地方の 小さな村で両親の愛情に包まれて「めちゃくちゃに」楽しく過ごした子供時代を鮮明に思い出すとい う。自転車に乗って通りを駆けるエミリーと弟を、町全体がやさしく包みこんでいた。「ニレの木が 番人みたいに立っていて、そこらじゅうの犬が挨拶してくれて、電話交換手までわたしたちの名前を 知っていた。よその家の裏庭を自由に通り抜け、近所の大学のキャンパスを走り回り、エミリーはエデンの園に いるような幸福な気分だった。自分は十分に愛され大切にされている、自分にとって重要な人たちの目から見て自分は価値のある 人間なのだ、と感じられる子供は、積極的な気持ちを抱くことができるようになる。そして、そこか らもうひとつの基本的衝動、すなわち広い世界を探求してみたいという衝動がふくらむ。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.270)

人生をゲームに例えるヒトがいます。ゲームはよくわからないのですが、「このゆびとーまれ!」「いちぬけぴー!」「あーそーぼ!」は大人にもあるなぁと思えば、人生は遊びといってもよいのではないでしょうか。遊びは、社交性のもとになるのです。

脳のレベルで言えば、遊びに費やされた時間は、神経やシナプスの成長という見返りをもたらす。 しかも、遊び好きの陽気な雰囲気は、一種のカリスマ性をかもしだす。大人も、子供も、実験用のマ ウスでさえ、遊びの経験が豊富な人のところに集まる。社会脳の中の原始的な部分がこの「裏の道」 の神経回路にルーツをもつことは間違いない。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.274)

2つの脳が手を繋いで踊る

遊びの神経回路に最も詳しいのは、オハイオ州ボウリング・グリーン州立大学のイャーク・パンク セップだろう。パンクセップは名著『Affective Neuroscience (感情の神経科学)』の中で、遊び心 (パンクセップによれば、脳に喜びをもたらす源)も含めて人間の主要な動因を裏づける神経の働き を考察している。哺乳類の子供たちがじゃれあって遊ぶ行為は神経の発達にきわめて重要な役割をは たしており、こうした行為をうながすのは喜びの感情そのものである、というのがパンクセップの見 解だ。 パンクセップのグループは実験室でマウスを使った研究をおこない、遊びもまた社会的エピジェネティクスの一例であって、扁桃体と前頭前野における神経回路の成長をうながす働きをする、という ことを発見した。パンクセップらの研究グループは、遊びのあいだに脳内で特別な化合物が作られ、 それが子供の脳内で急速に発達中の社会的領域における遺伝情報の転写をうながすことを発見した。 パンクセップの発見は人間と同様な神経構造をもつ哺乳類全般にあてはまるものと考えられ、子供た ちの「遊びたい!」という欲求に新しい意味を与えるものだ。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.271)

成長につれて制御される「あそび」

ヒトの成長には段階がある。脳の発達が色とりどり、時間をかけて行われるため、大人が「間違って」子どもの脳が発達している「今、なう!」を奪ってしまうととんでもないことになってしまう。もちろん、子供自身も自分の「命」を守ろうと抵抗するけれども。。。

子供が成長するにつれて、情動をコントロールする回路がはしゃぎ回りたい衝動を徐々に抑制する ようになる。子供時代の終わりから十代初めにかけて大脳新皮質、とくに調整機能をもつ前頭前野の 回路が発達してくると、子供は「まじめにやる」という社会的要請に応えられるようになる。そして、 はしゃぎ回るエネルギーは「大人」モードの快楽へ向けられるようになり、子供の遊びは記憶の世界 へ遠ざかっていく。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.274)

 

ADHDとあそび

パンクセップの研究から、興味深い疑問がわいてくる―異常に活発で、衝動的で、集中力に欠け、 次から次へと活動を変えていく子供をどう解釈するか、という問題である。こうした特徴を注意欠 陥・多動性障害(ADHD)の指標とする考え方もある。少なくともアメリカ合衆国では、こういう 特徴を示す児童は非常に多くなってきている。

しかし、マウスの研究をもとに人間の問題を考察するパンクセップは、こうした子供たちは遊びを つかさどる神経系が活発なのだ、と考えている。パンクセップによれば、ADHDの子供たちに処方 される精神刺激性薬剤はすべて、動物に投与した場合、脳内の遊びをつかさどる部分の活動を低下させる効果があり、人間の子供に対しても同じ効果が見られる、という。パンクセップは、まだ裏づけはないものの、子供たちを朝一番で遊びたいだけ遊ばせてエネルギーを発散させ、集中しやすい状態 になってから教室に入れて勉強させればいいのではないか、という過激な提案をしている(考えてみ れば、まだADHDなどという言葉さえ知られていなかったわたしの小学校時代には、まさにそのと おりのことがおこなわれていた)。 (『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.273)

ストレス・不安では遊べない

脳内における無数のコントロール・システムの相互関係という観点から見ると、遊びの回路は不快 感情の回路には勝てない。つまり、不安、怒り、悲しみなどの感情は、遊びたい気持ちを抑圧する。 子供の場合も、たとえば新しい遊び仲間や新しい遊び場に慣れて安心できたときに初めて、遊びたい という気持ちが起きる。こうした傾向はすべての哺乳動物に共通して見られる。その基礎にサバイバ ルをはかろうとする神経構造があることは疑いない。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.274)

 

『才能あふれる子の育て方』おおたとしまさ

才能あふれる子の育て方

才能というのはオトノネでいう「天の才」のこと。
大人が子どもの「天の才」を潰さない、という当たり前の教育のあり方を書いている。
大人の基準で評価しない(遺伝的な「天の才」が成長することを認める)
「天の才」があぶり出される「環境」を与える。(過剰な刺激を与えない)

「破壊的なものを排除」する

モンテッソーリ教育

すべての不必要な援助は、発達の障害物になる。(環境の自由度を保証せよ)

 

シュタイナー教育

7歳までは身体を育て、14歳までは心を育て、21歳までに思考を育てる。
憂鬱室・粘液質・多血質・胆汁質という4つの気質に分類(遺伝子の多様性を認めている)
自己判断力が身につくのは10代後半から。それまでは判断を求めないらしい。(オトノネ式だと9歳)それまでは「正しい世界観(真善美)」を子供にびしばし提示する。
発達を阻害する過剰な刺激を与えない。(オトノネ式)

 

乳歯から永久歯に生え変わる時期、7歳から文字を教える。(歯の発達段階と人間の精神の発達段階を対応させるオトノネの発達間に合致)

「創造的なものを担保」(遊びを貫く)

レッジョ・エミリア教育

「子供の興味・関心から始まる探究活動」(遊び)
遊びのプロとの連携(脅威行くの専門家と芸術の専門家)←幼児期の子供の環境づくりに必要な人

サドベリー教育

授業を受けたいと思ったら「協定」を結ぶ。オーダーメイド。(自ら求めて行う)
人間の本質である「好奇心」(遊び心)に突き動かされて世界に入っていく。(オトノネの「命」観に対応)

イエナプラン教育

異学年学級(リビングルームを共有する)
探究的・対話的な「ワールドオリエンテーション」好奇心、「命」の動きを大切に。

「わが子だけ」から社会全体に視野を広げる。(教育の本質。人間の本質。オトノネのSQ、「命」に対応)

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遺伝の研究をしている安藤さんは「遺伝」の本の後ろで必ず「教育」について言及している。

READ  富山県は教育県か【全国学力テストの真実】高校生が払うツケ

【右上のグラフ】

日本のこのデータは「内発的動機づけ」つまり「自分の興味関心」の強さは学年が上がるごとに「下がっている」ことを表している(9歳になってそれが「やや上がる」のは思春期のはじまりだからだろうか)

これを日本の教育、日本の子供環境が「子どもを大人の目線に晒して縛り付ける」結果だとみることができる。いやいや、最近はクラファンで「遊ぶ大人」の姿が世の中にでてくるようになって僕が元気をもらっているところだ。ぜひ、「本気で遊んでいる大人たち」の姿を、クラファンサイトをまわって見てほしい。

カエルの歌

カエルの合唱~なんで輪唱のように聞こえるの? 夏休みの自由研究に

あそびの対義語は暴力

イジメとオフザケとアソビ いじめはいじめっ子たちにとっては、アソビである。 オフザケもあそびだ。 ただあそびは自由にやめたり、参加したりできる。 いじめは強制的に参加させられる、という点で、暴力である。 あそびの対義語は暴力だ。 たとえば、暴力に見えることでも、子犬どうしの「じゃれあい」のように見えることがある。イジメのように思えることでも、それが仲良くなるための「オフザケ」の試みであることもありうる。それが暴力なのか、オフザケなのか。 仲間はずれは暴力か。 だとしたら、世の中は暴力でみちみち溢れている。 それが世の中だ。 そんな世の中で生きていく強さ、その子が生きていく、生き方を、だれもが探し続けている。「ぼくは、わたしは、これでOK!」といえる子は、しあわせだ。 暴力から逃げることも、しあわせになる大切な方法だ。 逃げながら、生き延びながら、強くなって行ったらいい。 心を育てていったらいい。 その子の心をつくったらいい。 教育は個別化のプロセスだ。

遊具に遊ばれるか、遊具で遊ぶか。

保育園での出来事。 ある日、遊具を一式出してアスレチックのような遊び場が遊技場に出現した。 子どもたちはわぁっといってアスレチックに飛びこむ。 そして飽きる。 ある日、直方体だとか円柱のブロック(子どもたちの身体サイズのレゴ)だけを出した。 子どもたちはそれを転がしたり、家に見立てたり、店を開いたり、取り合ったりした。 遊びの決まりごとは絶えず変化し続け、敵だった子が味方になったり、別の遊びが加わったり。 円柱がクッキーになる。クッキーのお店をつくるが、別の子が積み上げられた円柱(クッキー)を破壊する。何度も積み上げてまたお店を作り直す。僕にクッキーを分けてくれる。「何クッキー?」と聞くと「チョコクッキー」と答えてくれる。 たった一種類の遊び道具で、5、6種類の遊び道具よりもよく遊んでいた気がする。 園庭の砂遊び。 回る遊具。 一見、何の役にも立たちそうにない単純なおもちゃが、子どもにたくさんの関わり合いをつくりだす。 精巧につくられるほど、子ども同士の関わり合いは少なくなるのかもしれない。 体を動かす、体を鍛えるための道具(いわゆるトレーニング道具)を与えることもできる。のだが、子どもたちはなんと自分たちで遊具をつくった!立方体を対角線上に鉛直方向から半分に切ったものの上にひらべったい直方体を乗せてシーソーにしたり。危なっかしいが、ミニ滑り台を作っていたり(崩れて子どもが落下しても死なない感じだし、そういった遊びを作る子はそのレベルの遊びができる子だ)。少し不安定に積み上げられた「ただのブロック」の上を、大人の手を借りながら転びながら何度も一生懸命に渡る束の間の「試練」の方が、どこかわくわくするし、自然におもえるのは僕だけだろうか。 小さな部屋の中での手のひらサイズのレゴと、大きな遊戯室のなかの大きなブロック、ごっこ遊び要素に相乗効果がありそうだし、なんだか楽しそうだ。 道具にあそばれず、道具であそぼう。

『学力では測れない非認知能力が子どもをのばす』中山芳一を読んだメモ

学力テストで測れない非認知能力が子どもを伸ばす

『学力では測れない非認知能力が子どもをのばす』中山芳一 OECD 社会情動的スキル 他者との協働:社交性・敬意・思いやり 目標の達成:忍耐力・自己抑制・目標への情熱 感情のコントロール:自尊心・楽観性・自信 キャラクターエデュケーション 性格特性BIG5 放課後児童クラブ、保育園は非認知を育てている。 プレジデントfamily 2016秋 急増中!老人化する子供たち 子供ロコモ予備軍 ロコモティブシンドローム スキャモンの発達発育曲線 9歳は成人と同様。 川島隆太教授と考えるうちの子の未来学 思考の脳、五感の脳

『学力では測れない非認知能力が子どもをのばす』中山芳一 p71より 9歳の時、論理的思考ができるとは、どういうことか、。 「◯◯ちゃんみたいに勉強しなさい!」「◯◯ゃんは自分よりお小遣いが多いから、自分ももっとほしい!」「うちはうち、よそはよそでしょ!」「つじつまがあっていないな・・・」 サンタクロースが一夜にして全世界を回れないことに気がつく、裏付け、現実的な根拠がわかる。 ギャングエイジ、仲間とつるんで、親から離れて経験を積む。 空欄へ薩長同盟と書けば◯になる問題か。 「坂本龍馬たちは、どうして薩摩藩と長州藩を結び付けようとしたのか。どんな目的があったか」という問いに答える問題か。 体験は内面化され経験になる。 経験は反省され学びになる 学びは獲得され能力になる。 内田伸子氏を中心としたお茶の水女子大学チームの研究(2014)に、20代の社会人の子供を持つ保護者1000人以上を対象とした興味深い調査があります。我が子が幼児期の頃に「思いっきり遊ばせて来た」「遊びでは自発性を大切にして来た」「好きなことに集中して取り組ませた」と回答した保護者の方が、子どもを(認知能力の高さが求められる)難関大学へ合格(偏差値68以上)させている率が明らかに高くなっているのです。(『学力では測れない非認知能力が子どもをのばす』p.107) 菩提寺学童保育所みちくさクラブ 多機能学童保育広場すくっと AMI学童保育センター ぱるノート 山本満理子書道教室 よひせんプログラム 幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、子どもはしあわせになる。学童期の「子ども」にお金をかけて大丈夫?

オトノネにあるおもちゃ

なにかこう、よくわからないものが、人を惹きつけることがある。 子どもたちが置いて言ったよくわからないプラスチック性の小さなフィギアに興味をもつ子もいる。 小さな竹の楽器に興味を持つ子もいる。 スマイル君と相性が良かった子もいる。 あそび、もそうだけど、その時その時、人が何かに惹かれる。 その時の感情で、選ぶものが変わる。 不思議な、わくわくすることを、手にとって、あそんでみれる、そういう場所が、おとのねであってもいい。 「あたらしいもの」で目をクラクラさせる新商品づくしのコンビニとは、違うのだが・・・ ーーーー ただ何もなしに、あそぶ、あそべる、没頭する時間がある。 それがテレビゲームの人もいるし、音楽を聴くことだったりする。 頭でっかちに「新皮質」でなく、純粋に「辺縁系」で感じる時間も、大切にしたい。 いや、二つは繋がっているんだけどね笑

散漫なあそび、散漫な食事

あそんだのに。 お腹が空かない子がいる。 あそぶよろこびも、食べる喜びも感じていないのではないかと、心配になる。 いろんな子がいるが。。。。 ご飯で遊びたくなるほど、お腹が空かないなら、オトノネさんに、分けてくれたらいい笑 おとのねさんは、燃費が悪いのです。 ーーーー 学校の給食、残食がでたら、先生はなんていうんだろうか。 学校の先生は「みんなで協力して食べよう!」とか言ってたりしない? いやいや、お腹すくような「学び」や「活動」をしていないだけでしょう。 お腹がすくくらい、 心を、満腹にしてみよう。 だから、やっぱり学童は無料でいいかな。 夢の中で、誰か教えてくれないかな。 食欲がないのは、どこか、心が、調子が悪いから、かもしれない。 (いやいや、低体重で生まれて来た子とかは、もとから、食も細かったりします。ひとそれぞれです。) 健康は、あそびから!

山田さんとあそぶおとのねさん

オトノネの新しい場所を山田さんに見てもらった。 いろいろと手伝ってもらえそうだ。というか、オトノネの主砲か笑ありがたい。 (勝手に主砲にしてごめんなさい。打ち上げたい時にドカンと打ちにきてください笑ドカンドカンと笑) で、最近山田さんが開発した吹き矢を持って来てくれた。 (そもそも山田さんが誰か説明しないのは愛嬌です。スーパーお父さんです。) 山田さんの子ども(小学1年生)に吹いてもらった。 むちゃくちゃ飛ぶ。 物作りが好きな山田さん。 つつの太さを変え、長さを変え、吹き矢の形状を変え、素材を変え、一番うまくいく吹き矢をつくった。 (勉強も同じですよね) 動画がこちら…(そのうちアップします) なぜ、筒が長いと、出てくる「矢」が早くなるのか。 僕には一瞬ではわからなかった。 山田さんは言った。 「空気抵抗を受けずに加速できるんですよ」 なるほど!まさかここでそんな話がでるとは! 空気を味方につける、空気を勉強できる吹き矢。 矢も円錐形であることが大切、そして使用に耐えるだけの強度と軽さが必要。 なるほど… ちなみに吹き矢で「目でものを追う」チカラもつく。 ゲームの画面の中だけでうろうろしていたら、マジで世界みれなくなりますよ。 マトに当てるだけのゲームが、飛ばしたものを探すというゲームになった時、さらに「視野を広くして探す」というチカラも加えられた。 遊びは、発展する。 もちろんこの遊びは「言語遅滞」の子供達が児童発達支援事業所で「やらされる」口腔トレーニングのあそびバージョンだ。友達と競い合いながら、あそびながら、的を倒す、的に当てるという達成感(ゲーム的な要素)が子どもを自発的に成長させる。 そのほか、目白押し! 遊びってすげー 例えば。、小学生の時に多くの人が悩むという「単位」の計算がある。 山田さんは、こういうことを喋りながら、暮らしているらしい。 「この長さはなんて単位であらわすといいかな?」 そう言って机の一辺を指し示して、子どもが例えば「ミリメートル!」というと「うーん、それは大変そうだな!笑」といった具合だ。 生活の中に学びがある。 学校教育ではない家庭教育で、学校教育の教育課程をはるかに超えた学びをやっている。 ただ遊んでいるだけである。 あそびながら、言葉を尽くしているだけである(もちろん遊んでいる、つくっているだけでも「経験」は蓄積され、役立つ)。 ーーーーー 2017 とある私立中学入試問題

今まで算数を学んできたなかで実生活において算数の考え方が生かされて感動したり、面白いと感じた出来事について簡潔に説明しなさい。

この子は、合格しそうだ笑 ーーーーーー

学習障害は遊び不足で起きる可能性

遺伝子と向き合う

事例の検討に入るまえに、てんかんをもっている子どもたちにおこり やすい学習障害的傾向を簡単に述べておきます。 からだの運動や手指の操作は、たとえばケンケン、スキップ、ギャ ロップ、縄跳び、平均台歩きのようにバランスを保ちながら、上肢と下肢の動きを一つに統合(協応)していくことに、特徴的な弱さがありま す。したがって、学齢期の課題である自転車乗り、跳び箱、鉄棒などで は、同じクラスの友だちに比べて遅れをとったり、ぎこちなさがいつま でも目立ったりすることでしょう。 手指の操作では、たとえば折り紙、粘土、ブロック遊びなどの指先の 微細な操作を必要とすることやハサミの曲線切りのように、利き手に道 具をもち、逆利き手で素材を保持し調整しながら、一つの活動をまとめ あげていくことに、「不器用さ」が目立ちます。したがって幼児期では、 飴の袋を自分で開けられなかったり、ボタンをはめられなかったり、食 べこぼしが目だったりするでしょう。学齢期になると細かい運筆が苦手 なために、ひらがなのいくつかや漢字の習得がむずかしかったりします。 認知・認識では、人物画の発達に典型的な問題が現れることがあり、 頭足人の時期が長く、胴体が描けるようになっても、いつまでも頭が大 きいアンバランスな表現になることがあります。そのバランスを調整す ることのむずかしさが、学齢期になると文字の表現にみられることにな ります。あるいは、左右や前後の弁別がむずかしく、靴の左右、シャツ の前後を間違えたりします。このような認知のむずかしさが、鏡映文字 を引きずる問題にもなるのでしょう。 すべての子どもにみられるわけではありませんが、聴覚情報 を順序立てて受容し記憶していくことがむずかしいこともあります。た とえば、「4数復唱」という発達検査の課題は、「4739」などと検査者が 唱えたことをときをおかずに復唱させるのですが、その反応が「479」な どとなってしまって、四つすべてを記憶することができません。これは 記憶の問題というよりも、「47」「39」というように、二つの情報に区分 して、それをつなげて入力する継起的な情報処理がむずかしいのです。 おそらく、学齢期になると先生の伝達したことをすべて記憶することが むずかしいために、忘れ物が多かったり、どのような手順で課題をこな したらよいのか理解できないで、悲しい思いをすることが多いでしょう。(白石正久『発達相談室の窓から』p. 157)  

不器用さがある子

学習障害は、学校での学習困難が明らかになってから診断すべき障害 のようにいわれます。しかし、ほとんどの場合、幼児期の早い時期から 問題の把握が可能です。むしろ、その時期のほうが、顕著な発達上の問 題を把握することができます。とくに、近年1歳半健診が充実しつつあ るなかで、この時点での特徴が整理されてきました。多様さはあります が、目が合いにくく共感が弱い、落ち着きがなく椅子に座り続けることが できない、失敗すると立ち直りにくいなどの傾向が、とらえられています。 また、3歳頃から保育所、幼稚園に通うようになると、一人遊びが多 く集団に入れない、ちょっとしたことでパニックを起こしやすい、描画 などの微細運動や全身の協調運動が苦手であるなどの特徴がみられま す。5歳頃からこのような「落ち着きのなさ」は改善される傾向にあり ますが、集団への入りにくさや微細運動、協調運動の苦手さは残ります。 保育所、幼稚園では、大きな発達の遅れがみられないのに、集団に入 れなかったり落ち着きがないために、とにかくみんなと同じにさせよう とする指導がなされることがあります。集団への不安が強く、強い刺激 にも過敏性があるので、周囲が焦るといっそう子どもは不安で落ち着か なくなります。むしろ、その子の好きなことで、みんなが参加できるよ うな場面設定をたいせつにしたいものです。また、苦手な描画や全身の 協調運動などが保育内容の多くの比重を占めていたり、苦手なことを中 心に指導されると、いっそう自分の苦手さを実感して拒否的になり、発 達も思わしくありません。同じ微細運動や協調運動でも、本人の得意な」 ことから発揮させてあげるような教材選択がたいせつでしょう。また、 生活の当番や行事において、自分の役割をみんなのなかで果たすことが できたというような達成感は、集団に参加する原動力になるはずです。(白石正久『発達の扉(下)』p.76)

二次的な情緒の問題

就学すると、学習の困難が次第に明らかになります。字が読めない、 読めるのに意味の理解ができない、字が上手に書けない、鏡文字(左右 逆転の文字)になってしまう、作文が書けないなど、子どもによって異 なる多様な問題がみられます。また、保育所、幼稚園時代は落ち着きは じめていたのに、授業中立ち歩くような姿が再び目立つこともあります。 おそらく、学校での新たな緊張が一つの要因になっていることでしょう。 抑制しすぎると、パニック状態にいたることもあります。 たいせつなことは、子どもが学習のどこで困難を覚えているのかを教育的に診断して、追い込むことのないように注意しながら、少しずつ改 善していくはたらきかけです。そのためには幼児のときと同じに、「何 ができないのか」ではなく「何ができるのか」という視点で子どもを理 解し、できることを本人の自信にしながら、できないことに少しずつ挑 戦していく粘り強さが、教育には求められます。できることをたいせつ に、そしてできないところはゆっくり、ていねいに指導することです。 できないことばかりをやらせようとしたり、気まぐれでできないと誤 解し叱りつけたりすると、「できない自分」ばかりを子どものなかに蓄 積することになります。それが、小学校の高学年くらいから、突然パニ ックになったり、友だちに暴力を振るうような情緒の不安定さを招く要 因になります。このような情緒の問題は、周囲の対応によって引き起こ された二次的問題として理解すべきだと思います。学習障害の子どもた ちには、自分もできるんだという「発達のための舞台」を用意すること がたいせつな教育の課題になります。しかし、これは、障害の種別を問 わず、障害児教育の基本的な姿勢の一つでしょう。 (白石正久『発達の扉(下)』p.76)

精一杯、かるたであそぶ。それでもたくさん、学べる。

ざんねんな生き物図鑑、が、大好きだという子に、持ってきてもらった。

へー すごい。進化の話まで書いてある。 おもしろいなー。 学校の進化の勉強するよりもおもしろそうだなー とおもいつつ。 「これ、どこまで読んでるんですか?(全部は読めていないだろう)」とお母さんに聞くと 「ざんねんなことに、この文字の大きいところだけなんです笑」 なるほど笑 「暗記するくらい、読んでるんです笑」 なるほど笑 ということで、やって見ました。

ざんねんな生き物図鑑

おとのねさん「長い舌で鼻くそをほじるのは、なんて動物?」 即答。 「キリン❤️」 この子は天才だとおもった。 そのあと、家庭教育のサポートをする。 気づいたことの共有、言語化と、いろんな相談など。 で、最後に、オトノネに入ってきた瞬間から手に持っていた「かるた」をすることに。

なぜか、その子は「よむー!」といった。 お母さんと僕で対決。 最後、二人で取ったカルタの数を数える。 いーち、にーい、さーん、、、、 お母さんが19まい。 おとのねさんが25まい。 はいそこで質問。 「おとのねさんは、お母さんより何枚多くとったでしょうか?」 「引き算でしょ!」 正解! いや別に足し算でもいいけど。 「じゃぁ、答えは?」 「。。。。16!」 「よし、じゃぁ、数えてみよう!」 いーち、にーい、さーん、、、、19まで数えてストップ。 「じゃぁ、残ってる札の数を数えるよ」 あれ? 16じゃなかったね。残念! どっかに消えちゃったのかなー。 不思議だね!

ーーーーー 肝心なことは、その子が自分で「私は読む」といったこと。 読み札はすべてひらがなで書かれている。 それを、ゆっくり、読む。 ゆっくりなのだ。 ときどき、間違える。 札を読むことは、その子にとっての挑戦であったし、 もしかしたら、僕とお母さんを戦わせて見たいという願いがあったのかもしれない。 けどとにかく、一生懸命、読んだ。 お母さんも、僕も、読み終えるまで敢えてまっていたり。。。。 たまに痺れを切らせてバシッととったり。

ーーーーー 今日、どうしてカルタをしたくなったかわからないが、その気持ちひとつを大切にすることで、今日もひとつ、その子を理解できたようにおもう。 一生懸命、学んでいるのだ。 子どもを、心から、僕は尊敬している。

意欲ある遊びの中で子供が学ぶ数学的推理力・機能的推理『子どもの遊びは魔法の授業』

架空の仲間と彼らを生み出す子どもたち あかちゃんは自分の体がどれだけの大きさを持ち、音がする世界、見える世界、触れる世界がどんなしくみで動いているのか実験を繰り返す。なんどもなんども同じことをしながら、物理法則を発見していく。 小さな子はブロックを積み重ねながら「つけたす」「ひく」を学んでいく。探求、操作、分離、分割、組み立てを通じて数学的推理力を伸ばす。長さと高さ、大きさと数の違いを学んでいく。「足りない」という経験をすることで、マイナスという概念を学ぶ。「ブロックを同じ数だけ分ける」操作は割り算だ。こうした数概念への親しみが、こどもが数をあつかうチカラを育てる基礎であることはいうまでもない。 子どもは立派に科学者なのだ。

オレゴン大学のデア・ボールドウィン教授がスタンフォード大学のエレン・マークやリッカ・メラルティンらと行ったある研究では、生後9ヶ月から26ヶ月の赤ん坊がおもちゃのラッパを与えられた。バルブを強く握り潰すと、音が出るものだ。しばらく子どもたちにそれで遊ばせた後、初めてラッパは取り上げられた。そして形は同じだが、色も大きさも違う別のラッパが与えられた。果たして赤ん坊は新しいラッパも音が出て当然というような振る舞いをするだろうか?もしするようであれば、似たようなものは似たような機能をもっているはずだという「帰納的推理」をしたことを示している。(「『子どもの遊びは魔法の授業』p.354)

もし知能テストの成績、学校の成績がふるわない、といって心配をしているなら、子どもを遊ばせるといい。「きちんと」遊ばなければ、成績は伸びない???(「きちんと」遊ぶことを学んでいない子どもは、どうしたらいいんだろう?習い事のスケジュールに追われて、あそぶ時間が、ぼーっとしたり、おもいついたり、試してみたり、発見する時間がない。だから隙間時間に、すぐにつけてやめられるスマホゲームをするんだろうか???スマホは、時代によく合っている。知育ゲームをスマホで子どもにやらせて安心する大人もいる)

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砂場での出来事(拡散的あそび)

1歳(もうそろそろ2歳)と4歳の兄弟が砂場で遊んでいた。 部屋の中で、はさみをつかって「ふたこぶの山」をつくったあとだったから「山、つくろう!」といって作り始めた。ケッキョックヤマハ3つになり、そのうち、大きな一つの山になった。 もうひとりの保育さんが「穴、掘ろうよ!」と誘い、穴を掘ることになった。 で、穴を掘ると。。。4歳児は、穴を「掘れる」のだが、1歳児は、穴を掘ろうとすると、山を「崩す」ことになる。いやいや、掘るんだよ、と教えることもできるだろうが、4歳児がやっていることを真似るよりも、とにかく崩すことをしたいようだった。(ここで、穴の掘り方を教える保育士もいる) 1歳のころ、2歳の頃に、崩して、壊して遊び、飽きるまで崩し、「飽きて来たなーもう僕もレベルアップしたしなー」とおもったときに、「穴掘り」をしてみるといいかもしれない。 砂場に行くとその子の「今」がわかる。 掘る、道具を握る。 手首がしっかりする。 湿り気、乾燥、色の変化を感じる。 ファンタジーを使って形をつくる。 山が崩れないように工夫する。 山を作るための役割分担をする。 カチコチの泥の玉をつくる。。。 などなど。 山は、砂は、砂を口にいれなくなったら、どんな年齢の子どもにも、意味のある学びを提供する。 どの年齢にでも、その年齢なりに遊べる環境がいい。 (ゲームの世界も、そのようにできている。自分の興味、レベルに合わせて、ゲームソフトを決められる)  

保育所にある「あそび」道具

子どもの発達とあそびを本格的に体系化したいなぁとおおもって保育園に実習をお願いしたら、受け入れてくれる場所がありました。 とってもうれしかったです。 ありがとうございます! で、 こんなおもちゃがありました。

こちらは、1歳児の部屋にあったもの。 この時期は、物を掴んで、入れることを繰り返したり、出したりする時期だそうだ。 いろんな感触を覚えるいい時期。スポンジとか。固いもの、薄いもの。。。 白いトレーがあるのもミソで、子どもたちはまず、この容器の中に中身を「入れる」ところから始めていた。 それだけで、あそべる(学べる)笑 昔なら、どうやって子どもは遊んでいたんだろう。 東京におもちゃ美術館というものがあるらしい。 東京おもちゃ美術館 昔は、自然の中にあって、誰かが作って与えたりしていたものを、お金をかけて買う時代になった。 オトノネでは、基本、おもちゃがほしけりゃ、自分でつくったら? と、言おうとおもっています笑 おもちゃが作れないような、手先がおぼつかない学童期の子どもが多くなって来たように、僕は思うのですが。 気のせいでしょうか?笑  

オトノネのお母さんと「みのたけ」について語る【ビジネスと子育てと命】道草を楽しめ

最近こんな本を読んだ。 メンタリズム 最強の講義 メンタリストがあなたの心理を操れる理由   で、最後の方に「目標を達成するには、目標を無意識につなげないといけない」ということが書いてあった。 そのためには「毎日、書く」のだという。 強い想い続けていれば、叶う。 というより、具体的に何をしたらいいのか、具体的に行動するための具体的な目標を立てるのだという。 目標設定をきちんと書き出しているか??? なるほど。 僕は若い時は強く「目標」を設定していた。 それが年をとると何を目標としたらいいのかわからなくなってきた、といっていいだろうか。 そこで例えばオトノネの現在のテーマである「みのたけ」についてオトノネの生徒のお母さんとお話をしてみた。 みのたけ屋さんのお豆腐のように、みのたけで美味しさを追求することがとても気持ちいいと思っています。 で、「みのたけになる」という目標を掲げて見ると、「一体何をするのがみのたけなのか?」がわからない。 「オトノネにとってのみのたけが何なのか、わかる」という目標にしてみようか。 そうしたら具体的に何をしたらいいだろう? 「みのたけ」かどうかを判断する基準はなんだろう? そうだなぁ、例えば、「続けられるスピード」とか? 「やっていて自然だとおもえること」とか??? けどその基準自体が間違っているかもしれない。 結局、自分にとって「みのたけ」が何なのかを探しているのだ。 ーーーーーーー ここで僕は気が付いた。 「目標」とはビジネスの原理(コーチング)の領域であって、「成果」として認められる、はっきりとわかる、数値化できるものなのかもしれないと。 例えば「シンガーソングライターになる」のであれば事務所にアプローチすればよい。 例えば「業績を上げる」のであればメソッド本を読んだり顧客へのアプローチを変えたりすればよい。 至極わかりやすい。 正解が社会的に準備されている。(といいながら西野さんのようにイレギュラーな方法を思いつく人もいる) (昔、獲物を追いかけていた時代、獲物をとるという目標は至極ビジネスだ) 一方で「みのたけ」になることを「目標」にした場合はどうだろう。 それが「みのたけ」かどうかの基準がはっきりしていればよいのだが、「みのたけ」が何なのかを探って行くプロセスが果てしないような気がする。 「これはみのたけだろうか?」という目標そのもへの問い。 自分がその基準、価値観を決めるというのは、ビジネスの原理ではない。 「起こってくるもの」「今そこにあるもの」を感じて受け止めて行くカウンセリングの原理、子育ての原理だ。 そうやって言葉を整理したら、「みのたけ」になることを「目標」にするという言葉がどこか浮いているように感じたことが納得いった。 ビジネスは他者から評価できるもの。 子育ては自分で評価するもの。 そういう区別をしてもいい。 けど、どちらも目標設定ができる。 ーーーーー 「みのたけ」とは何かという問いに答える、 という目標設定をしてみよう。 毎日書き出したり、心の中で問い直してみよう。 そして、具体的になにか行動してみよう。 長い時間がかかるだろう。 「結果」「成果」を見つめるのも自分自身だ。 ーーーーー 「人生はゲームだ」 といった人がいた。 課題設定をして、こなして行く。 クリアしたら、次に行く。 ビジネスも子育ても関係ない、遊びの境地に達しているような人の言葉だったから、僕にはその言葉が心にとても重たく残っている。 ビジネスが子育てを支え、子育てがビジネスを支える、そんな暮らしをきっと、誰もが目標にしたら世の中は幸せになるのかもしれない。 遊び心が、人の命を豊かにするというよりも、遊び心そのものが、命なのだとおもったら、「みのたけ」という目標は、あまりにも没個性的なきらいがあるだろうか。 そんなことはない。 遊び方は、ひとりひとり違うのだから。 命のもやし方は、ひとりひとり違うのだから。 世界のリッチネスを探してみよう。 自分のリッチネスを探してみよう。 今思い出したアニメが、「ハンターハンター」だ。 「道草を楽しめ 大いにな。ほしいものより大切なものが きっとそっちに ころがってる」 主人公のお父さん、ジン=フリークスの名言 道中が楽しめない道は、きっと、心ある道ではないのだ。 ーーーー 果てしなく続くようなこの記事もそろそろ終わらせないといけないなぁとおもう。 「好きなことをする」の「好き」が自分でわからない。 「楽しむ」という感覚、リッチネスの感覚が弱い人がいる。(僕自身かなり弱い) 「好き」という気持ちを守っていく心の元気がないのか。 「嫌い」を避けるだけの、「嫌い」を否定するために長い時間を使ってきてしまったのかもしれない。(闇を歩くスキルだけ鍛えて光の中を歩くことを忘れている人が多いこと多いこと!!!!僕もね!) 僕は韓国で、僕の「好き」「楽しみ」を演劇という仕事が守ってくれていた。 日本ではどうだろう。 自分を好きになれるような暮らしなんてあるんだろうか。 そんな問いを、また立ててみる(少しぐらいバッチリビジネスの目標を立てたらいいのにとおもう)。 簡単なことで「嫌なものをすべてやめる」だけでいいのになぁと、おもってみたりする。 「死ぬ気で」遊ぶのだ。 そんな大人の流儀があってもいいような気がしてきた。 「どうでもいいこと」は本当にどうでもいいとおもえるか。 ハナクソな狂った世界がどうでもよくなるくらい、死ぬ気で遊んでいるだろうか。 「あーそーぼっ!」といえる仲間の大切さ。

リトルバスターズ 大切なものを大切にする

脳は断捨離する。自然のあるところに知恵は生まれる。『子どもの「遊び」は魔法の授業』

『子どもの「遊び」は魔法の授業』
『子どもの「遊び」は魔法の授業』
接続は非常に急速に形成されるので、3歳になるまでに、子どもの脳は大人になったときに必要な数の2倍ものシナプスをもっている。これらの数兆ものシナプスが、大人の脳の大きさには程遠い脳の中で、場所を取り合う競争をしている。3歳頃になると、幼い子どもの脳は小児科医の脳の2倍も活発になる。もし子どもが大人になったとき持つより多くのシナプスを持っているとすれば、その何兆もの過剰な接続はどうなるのだろう?答えは簡単、蛇が成長するために脱皮するように、子どもが成長するにつれ、それらは脱ぎ捨てられるのだ。他の多くの生物がするのと同じ理由で、脳は小型化していくのである。ネットワークを整備することによって、効率的に機能できるようになるからだ。余分なものを除去するのが自然なのだ。実際、脆弱性X症候群と呼ばれる遺伝子異常においては、知能の遅れ、学習障害、注意力散漫が脳の減量不足に関連づけられている。幼児期にある大脳皮質のシナプスの約40%が大人になるまでには取り除かれると見積もられている。余分なものを取り除くことは脳と身体の正常かつ健全な成長にとって欠かせないので、正常なシナプスの喪失レベルを調べる研究が入念になされてきた。(p.51)

こんな話もあった。ネズミを2つの環境に置いた。一つは何もない、ただの箱。もう一つは、遊具のある、ディズニーランドのような箱。どちらが、迷路を早く抜けられるか?(賢いか)もちろん、遊具がある箱のネズミが優秀な成績をおさめた。しかし、実は、自然の中に生息するネズミが、もっと早く、迷路を抜けるのだが・・・・

一緒にやってみるだけで大人だって子どもだって、ドキドキできる。

託児所での話。 お兄ちゃんと弟。 最近弟は、結構言葉でいろいろ答えてくれたり「これしたいあれしたい」を喋るようになった。 (昨日何があったとか、「自分から」喋ることはまだない) その子がお兄ちゃんについて行って滑り台で遊ぼうとするが、「こわい」といって滑れない。 「じゃ、先生と一緒にすべりなよ」と保育士の先生。 「んー、僕大きすぎて滑り台に入れないなあ」と僕。 「じゃぁ僕と一緒に滑る?」とお兄ちゃん。 「うん!」と弟。 お兄ちゃんに後ろからしがみつくようにして、滑った! むっちゃ笑顔^^ ーーーーーーーーーーーーーーー はじめてのこと、ちょっと怖いこと、 不安なこと。一緒にやってくれる人がいるだけで、挑戦して、できるようになることがある。 大きくなるごとに学校で閉ざされてしまった心(隠れてしまったその子のなかに住んでいる子の家)の扉を叩くことと違って、小さい時の純粋な挑戦はとても単純に、素直に、受け入れられる。楽しめる。 だから子供は天才でなんでもできるといわれている。 挑戦する時間を与えられているからだ。 大人だって同じだ。 子どもと一緒にやるだけで、大人だって挑戦ができるし、新しいことを始められるし、不安なことも一緒にやってみることができる。 子どもに大人が教わる。 世の中にはいろんな大人の組織があるが、子どもっぽい、創造的な、自由な、そしてあそびのルールがしっかりしている組織(たとえばグーグル?)には活力があるし、人が集まる(そんな仕組みをつくってくれている気がする)。子どもっぽい、子どもらしさをもっている大人は、大人のあそびのリーダーになって、社会を作って行く。変えて行く。 「ブラック」企業でお金以外に通勤する価値を見出せないお父さん、お母さん。お金が不安。 「ブラック」学校で卒業資格(と部活と体育祭文化祭と友達とのおしゃべり)以外に通学する価値を見出せない子ども。卒業資格がないと不安。 大人も子どもも同じ場所にいる。 一緒にあそんでみたら、どうなるだろう。 一緒にあそべる人と出会えた人は、しあわせだ。 大切な仲間だ。 習い事ばかり、課題ばかり、残業ばかりで、挑戦できなくなっていないだろうか? 学ぶ価値は、働く価値は、そこにあるんだろうか? 好きなことを仕事にする?の意味。『三太郎の日記』 大人は、大人としての課題にちゃんと取り組めているだろうか? 学校と同じで、ただやらされているだけなのだろうか? 「ちゃんと」生きることは難しい。心を大事にすることは難しい。 そんな世の中になっている。 子どもは子どもでしっかりしていて、しあわせになるチカラをもっている。 お母さんはお母さんで、子どもからしあわせを分けてもらいながら、子どもから自立して、しあわせになれるだろうか。 だって、子どもは大きくなるんだもの。 ーーーーーーーーーーーー そのあと、「こんどはお兄ちゃんが後ろで滑ってみたら?」ということになり、弟が前にいく。 お兄ちゃんが後ろにきて、逆に弟を抱きかかえようとしたら、 先に、弟が一人で滑っちゃった! むっちゃ笑顔^^

生まれたから今まで、もっとも大きかったおとのねさんの挑戦。

ふとなぜか思い出した。 ーーーーーー 小学生のとき、自分の身長の3倍か4倍くらいの高さがある遊具の汽車のてっぺんから、地面に向かって飛び降りた。 (別に逃げていたわけでもなんでもなく、ただただ、飛び降りてみたかっただけで) 全身全霊で飛び降りたからか。 怪我はなかった。 落下中、重力加速度を感じた笑のを今でも覚えている。 中学生の時には、不意に落ちて、骨を折った。 本気でやったことだけが、ホントにあなたのチカラになる。 僕は子供時代、ある程度、子供らしく過ごせたのだとおもう。

収束的あそびと拡散的あそび。『子どもの遊びは魔法の授業』

アマラはとてもかわいい3歳半の子だが、年齢以上にしっかりして見える。マイケルはたくましい小さな男の子で、何にでも熱中するタイプである。友だちといっしょのグループに入っているアマラは、収束的な思考を要する遊び道具(たとえばパズルのような正しいやりかたが一つしかないおもちゃ)をたくさんあたえられる。一方、マイケルのグループは拡散的な遊び道具(ブロックのようなもの)を与えられる。どちらの子どももそれぞれのグループで仲間と楽しく遊んでいる。やがて、実験が始まり、両者のグループにいくつかの拡散的問題が出される。たとえば、45個のブロックを使って村を作るという課題である。研究者たちはおsれぞれのグループを詳しく観察し、子どもたちがどうするかをみている。そして、それぞれに組み立てた構造物の数と、それらの構造物を名付ける時に用いられる、独創的な名前の数を集計する。マイケルのぐる0ぷは拡散的な遊び道具で遊んでいたせいか、よりたくさんの構造物と独特の名称を思いついた。彼らは作業に集中し、行き詰っても諦めることはなく、試行錯誤を何度も繰り返した。アマラのグループは全く違っていた。一つの生活を持つ収束的なおもちゃで遊んでいたせいか、行き詰まると、そこで立ち止まり、何度も同じことを繰り返した。マイケルのグループよりあきらめるのも早かった。独創性は明らかにマイケルのグループの方にあふれていた。では、今、市場に出回っている高価な知育玩具はどうだろう?そのほとんどは収束的な性質を持っている。それらが主眼としているのはいろいろなスキルを教え込むことなので、一つの問題に対して一つの答えを探させようとするのが普通なのだ。しかし、ここで述べたばかりの研究は、マイケルのグループが問題解決において創造的であるだけでなく、忍耐力や熱意においても優っていることを示している。(『子どもの遊びは魔法の授業』p.358)

どちらの遊びも大切だろう。だが考えてみてほしい。学校では収束的な、答えが一つしかない問題で溢れている。一体いつ、拡散的な、答えのない、創造的なあそびを子どもたちはできるんだろうか?偏りすぎる富、貧困はお金の問題だけではない。心を使うあそびのバランスの悪さ、学校と学校の外の世界のバランスの悪さが、心のバランスの悪さを生み出す。 保育所にある「あそび」道具 砂場での出来事(拡散的あそび) 収束的あそびと拡散的あそび。

絵を描くことが好きな子

絵を描くのが好き! な子が結構たくさんいる。 そういう子に限って、絵を描くことを突き詰められていない。 本当に好きなら、もっと描いて、もっといろんな書き方を勉強したりするのに。 勉強をしないからといって絵を描いている子どもを叱っていませんか? 年齢、発達の段階に応じて湯煎しなくてはいけないことがあります。 そして何よりも、子どもに「させること」は少なくしてほしいと思います。 現代では、一人の女性が産み育てる子どもが少なくなって来た分だけ、子育ても一発勝負、だからこそ子どもの育て方、発達の仕方を学ぶことが大切だと、otonone-オトノネ-は考えています。 もしよければ、お母さんも学びに来ませんか?

小学生には小学生の発達課題がある。

指先を使うチカラ、姿勢を支えるチカラを鍛えてほしい。

ゲームしてると目線が動かなくなるよ。

ハサミとか紐結んだりとかいろんな動作しないと指動かなくなるよ。

目が動かなくなると教科書も読めなくなるよ。

鉛筆もちゃんと持てなくなるよ。

何よりも、集中して小さなことに挑戦して、失敗して、できるようになっていく経験。あそびの経験。それから、安心して大人と言葉で気持ちを伝え合う経験。心が動かされる、心が落ち着く経験。助けてもらう経験。思春期になる前、幸せをたくさんもらう経験。そして生活の中でいろんな現象と出会いながら、「人間の叡智」を学ぶ準備をゆっくり、していってほしい。

お勉強よりも大切なことを、中学生になるまえに、子どもたちにはたくさんまなんでほしい。  

禁じられたあそび

今日はシャボン玉で遊んだ。1時間くらいシャボン玉で遊んだ。1時間くらい遊べる。おとぎの森で、子どもたちとあそべるな。とおもいながら。で、肝心なのは、目の前が通学路になっている、この道路で起きた出来事である。

まず最初に、下校中の低学年の子が通った。

ものすごい興味津々でシャボン玉を眺める子ども。で、「楽しそう?」と聞くと「うん!」という。遊びたそう!その時!別の子が「早くいくよ!」と言った。叫んだ。え?早くいくの?道草しないで帰りなさい、怪しい人に付いていってはいけませんと言われているからだろう。僕の前を通り過ぎたあとも「早く早く!」と言っていた。結局、低学年のみんなはシャボン玉を見て目をキラキラさせるだけでおわった。

その次に、高学年の子が通った。

向こうから走ってきた。「壊していい?」「いいよ!」「やってみたい!」「いいよ!」ちょっとだけ遊んだ。女の子も、男の子も。うん。ちょっとあそんだ。車がちょくちょく通る道だったから、車に注意しながらだったけど。。。うわー!といいながら。

この反応の違いはなにか?単純に高学年は思春期が近づいて、判断を自分でするようになって、大人に言われたことを鵜呑みにしなくなっているのだろう。これだけ反応が違うとは。。。僕もびっくりした。

すぐそこが交差点だった。そこにはボランティアの下校指導のおじさんが立っていた。僕と一緒にちょっと遊んだ子どもたちに「まっすぐ帰りなさい!」と指導をしていた。子どもに何かがあったら大変だ。「責任問題」になる!子どもを無事に家に届けるのが仕事だからね!

子どもの命を守るために、子どもの魂を大切にできなかったらどうなるだろう。これからの子育ては、本当に、いろいろと、大変だ。お金(税金)を使って子供を保護する学童の存在自体が、どこか、子どもの生きにくさを象徴しているようにも思えた。中学生になったら、放課後は部活という組織で管理されることになる。そのしくみも問題だ。子供はあそぶことをほとんど、禁じられている。

とあるNPO法人は、放課後に、学校で、子どもがちゃんと遊べるようなしくみをつくっている。学校の中に民間の団体が入っていく。

放課後アフタースクール

学校や自治体がそれを望んでいるわけだ。大人が、みんな、真剣に、子どもの暮らしを、リッチな暮らしを考えていけるだろうか。大人同士が仲良くならないと、子どもはしあわせになれないのかな。。。

ところで、シャボン玉で遊びながらいろんなことをしているのだ!ということを書いておく。風の観察力、風に合わせて道具を操るスピードを変える、手をやさしくスナップする微細動作、シャボン液の状態を把握する、大きなシャボン玉を作るとかたくさんシャボン玉をつくるとかいう課題設定をする、試行錯誤する、みんなと喜び合う、シャボン玉が割れるのはなぜか考える。空気についてシャボン玉を通じて感じる。車がこないかどうか気をつける。風に乗って踊る。世界のいろんなところに落っこちているしあわせを拾い集めること。

あそびがどれほど複合的な人間のチカラを引き出すのか、奥が深すぎる。

すぐ忘れる?そこで役立つ記憶の研究成果とあそび

当たり前だけど・・・ 当たり前のことしかいえないけど。 その当たり前を当たり前にいうのがオトノネです。 ひとりひとりのペースが違う。 レディネス(当然、学習者が取り組もうとしていることに対する準備)があるのはもちろんですが。 1:処理水準効果 表面的な浅い処理よりも意味的・概念的な深い処理をした方が記憶に定着しやすい。 2:既知知識の活性 新しい情報を古い情報と結びつけていくと記憶に定着しやすい。(英単語で、古い情報と結びつかない単語はほとんどない) 3:分散効果 何度も反復する。何回か反復する。短期集中で繰り返すより、時間を開けて繰り返すと記憶に定着しやすい。 発達心理学の本に書いてあって、いやぁ、当たり前と思えることだけど、よくよく心に止めておきたいこと。 これは実は子供達があそびのなかで鍛えている、学びのメタスキルだ! けど。。。記憶したものを「使う」意識がないと解けないのが、難関大。 記憶だけでなんとかいけるのは中堅大学まで。と、いう見方もできる。 その違いもきっちり押さえておきたい。  

野性のチカラと企業戦士の矛の先と戦闘ゲームと虫取りとあそび

最近、保育園で子どもが「虫取り」をするのを見た。 というか、園内に昆虫が増えた笑 で、この虫取り、、、、、 すごい。 何が凄いかって。 まず目が鍛えられる。 「獲物を見つける」視野。 で、神経も鍛えられる 「獲物を捕まえる」俊敏さ。 で、指先も鍛えられる。 「殺さず、生かす」やわらかさ。 で、頭も鍛えられる。 「逃げられた!次はどうしたらいいか?」 捕まえた虫を観察したり。 飼ってみようとするなら、もっといろんなことを学ぶだろう。 あれだけ生き生きとしていた虫が、死ぬかもしれない。 そんなかんだで、心も鍛えられる。 ーーーーー サッカーなどは、ゲルマン民族の「戦闘」能力をスポーツ化したものだという記憶が僕にはある。 テニスは「貴族の暇つぶし」。野球の起源はなんだったか。(ネットで調べて見たけど、不明らしい。あんな複雑な、バットを使ってボールをうんたらなんていうものがどうやってできたのか。場外に出す動作、打つ動作。走るどうさ。取る動作。うーん、想像できない。。。) とにかく、体を使って奪いあったり、捕まえたり、物を放り投げたりする能力は、なかなか爽快だ。 的(獲物)に当たったら、めちゃくちゃ嬉しい笑笑 それこそ自分で「修行」をしたくなる。 そうして、強くなる。 宮本武蔵になれる笑 ーーーーーー スポーツも、ある程度のレベルまでいくと、相手との「心理戦」になる。 どれだけ相手の呼吸を狂わせるか。。。。 そこには野性味があるが、やはり対話がない。 いや、ある意味、対話だ笑 剣を通じて、拳を通じて、語り合う人がいるらしい。 北斗の拳とか?? ーーーーーーー 現代、この狩猟感覚はゲームの中で体験されている場合がおおい。 オトノネさん、実は生徒に教わって「戦闘ゲーム」を、最近、やってみた。 戦場に降りて、武器を見つけて、相手を狙って撃つ。 相手の足音、打たれた方角、現在地、向かっている先は全て画面に表示される。 けど肝心な情報は、「目視」するしかない。 20分くらい、逃げて、狙って、隠れて、戦い続けた。(結局3位になったが、銃は一回も使わなかった笑ビビりなのね) オンラインで、世界中の人がやってくる。 時間が来ると、居場所が狭まっていき、敵との遭遇率も高くなる。 身体感覚が伴わない、神経だけが高ぶる感覚、終わった後に、どっと疲れた。 身体感覚が伴っていたら、大変なことになっていただろうが・・・ おとのねさんには、違和感、違和感・・・ ある意味、ゲームは、麻薬物質を出すトリガーだ。 この強度の快感に、爽快さに、はまってしまうのも、無理はない。 脳は野性を、ある意味で求めているかもしれない。「男の子」はなおさらそうかもしれない。 それで高度経済成長期に、「男の子」は、企業戦士になって、戦ってきた。 今、その矛を置いて、さて、どうしたものか。 矛を下ろす先が、わからないのかもしれない。 矛を持ったままでもいいから、その矛で、子どもとあそんだらいいのに。 たったそれだけで、世界はたぶん、変わるから。 (それで少年野球に精を出すお父さんがいるという話もある。スポーツじゃなくて、「させる」んじゃなくて、あそんでほしいんだけどな) そもそも、狩りは、昔の子どもにとって、純粋に遊びであり、本物の狩りの練習だった。 そうおもうと、昔の「狩り」は今の「宿題・課題・お勉強」なのかもしれない。あそぶように、当たり前のように、「学習習慣」を身につける世の中。 身体感覚が伴わない、神経だけが高ぶる感覚、終わった後に、どっと疲れている子どもが、どれだけいるだろうか そこには野性味があるが、やはり対話がない。 いや、ある意味、対話だ笑 「テスト、どうだった?」 「赤点じゃなかった!」 テストの答案用紙を通じて、模試の結果を通じて、語り合う人がいるらしい。 ある意味、ゲームは、麻薬物質を出すトリガーだ。 この強度の快感に、爽快さに、はまってしまうのも、無理はない。 「やった!今回も、平均以上だ!」次も頑張ろう!とか。 心が大事。 ーーーーーーー ちなみに、オトノネでこの野性の要素を出せる環境は限られています。 走り回るスペースは、ありません笑 けど お手玉とか、折り紙の手裏剣ごっことか、(山田さんの)吹き矢とか。 あ、この前、庭にトカゲが歩いてたな。。。 あれ?そうおもうと、あそびって、結構野性味があるな・・・

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こどものあそび『日本こどものあそび図鑑』

http://amzn.asia/5jYiqjf 今、子供たちはどんなあそびをするんだろう。インドネシアにいっておもったことは、こどもがあそぶ文化は、学校ごとに違う。地域ごとに違うということだ。こどものあそびはいたずらも含めて彼らが大人と、他人と関わることの距離感、もしくは暗黙のルールや感情を経験し、心のなかに取り込むことだ。こどものときのあそび方が、人との付き合い方、自分との向き合い方をきめるような気もする。 ふと思い出して、[インドネシア こども あそび]みたいな感じで検索すると。 インドネシア子供の遊び博物館構想 Kampoeng Dolanan Nusantara というものがでてきた。遊びを保存するというより、大人たちがわすれていくものを思い出す場所になるんだろう。考えている人は、ちゃんと考えている。これからインドネシアももっと学歴社会になっていく。そしたら、あそびはどうなるのか。社会動向を調査する研究、できていますか? リンクを辿ると、アーティストがこどものあそびを軸にして作品をつくっているという記事をみつける。 画家ニケンが描く子供の遊び4 Dolanan Anak Tradisional Indonesia アーティストと呼ばれる人たちが、浮世にくらさずにきちんと現世をみて、現世の人と関われているだろうか。アーティストという言葉を、日本人は持て余している。と僕は思う。 ーーー さて、あそびのはなし。 子供たちは部活で忙しい。習い事で忙しい。お勉強で忙しい。心が亡くならなければいいのだが。木材で何かをつくるとき「あそびをいれる」という言葉を使う。あとで材料を調整できるようにゆとりをもって材料を切り出すことだ。あそびの時間を大切に考えたいとおもう。なんの気もなくはじまる「やりとり」ですらあそびなのだから。いないいないばぁは、その暗黙のルールをいかに破るかがおもしろい。やおやさんでちょっとした「たわむれ」に冗談をいうことすらあそびになる。あそびにもいろいろある。あそびは、とてもおもしろい。あそびは、のうみそもよろこぶ。こころがひらかれる。 ところでこの本の作者、笹間良彦さんも死んでしまった。昔のことを知っている人が死んでいく。今、まさに今、世界の子供はどんなあそびをしているんだろう。きちんと、あそんでいるんだろうか。あそびといえば、桃山晴衣さん。

あそぶという言葉ひとつが、おもたいでしょう。

おもちゃも、学校の宿題も、同じ。

だという考え方ができる。

どういうことだ!頭が狂ったか!

いえいえ。おもちゃも学校の宿題も、学びのきっかけをつくるものです。

大人はそれを手助けします。

おもちゃであれば、新しい遊び方をしてみせたり。おもちゃを通じて言葉をかわしたり。学校の宿題であれば、、、、解説してあげたり、計画することについて話したり。人生について語ったり。

で、肝心なのは、おもちゃも、学校の宿題も、子どもとオトナをつなげる環境をつくるということだ。子どもと大人が関わりあう、相互に作用し合う、道具にすぎない。素敵なおもちゃ、高いおもちゃ、高価な教材、魅力的な教材があっても、それを通じて大人との関わり合いができないなら、おもちゃも教材も、「ただの時間つぶし」になってしまう。テレビゲームという道具は、この点、遊び道具としては「積極的に介入できるテレビ番組」ぐらいのものかもしれない。(ただし、ゲームを通じて大人と子どもが仲良くなることは多々ある)

おもちゃも学校の宿題も、大人と子どもの相互作用を補うものだ。そうおもうと、宿題をする時間は、ずっと一人遊び、一緒にいるけど結局バラバラに遊んでいる並行遊びをしているのかもしれない。喜ばしいあそびは心の成長を促す。

遊ぶように、学校の宿題もやってみたらどうだろうか。

4歳の男の子がレゴみたいなもので飛行機みたいな乗り物を作っていた。「どこに行くの?」と聞くと、「わかんない」と答えた。

ドッグセラピー ・ドルフィンセラピー・動物療法

混乱してごちゃごちゃになった前頭葉を使わないで遊ぶことで心の余白ができること。

殴る蹴るの身体的なメッセージ

僕が遊んでいる最中に蹴りを入れる子がいる。 他の子には蹴りを入れないのはオトナだから大丈夫だと判断している子。 今思えば、遊んで欲しくて、蹴りを入れていたと僕はおもう。 僕は痛い、痛いからやめてよねというばかりだった。 だから何度も蹴り続けた!「なにいってんだよ!遊びたいっていってるのに!」と叫び続けていたんだろう。 情動を、エネルギーを、情を収束させて、利用できるカタチにする知恵が、まだその子にはないのだ。 愛とは? 誰かに解釈してもらう、情動を調整してもらう必要がある。 一緒に、調節の仕方を、学ぶ。 「一緒にあそぼう」なんて言葉にしたことがなかったんだろう。 言葉にならないで、どうしていいかわからなくて出てくる振る舞いもある。 一つ一つの振る舞いに隠されている心を感じるようにしていきたい。 今度、同じことがあったら、短い言葉で伝えよう。 けど、ヒットアンドアウェイを続けるその子にどうやって言葉をかけられるだろうか?

ガス屋さんとの会話

ガス屋さんがガスを交換しに来てくれた時のはなし。 「まだガスが高かった時、もう30年前ですか、高校生の時、夜になったらみんなで銭湯にいって、帰りに遊んだりしていましたよ」 ああ、そうか、 今の子供たちは学校が終わったら家に帰ってゲームとか、課題とか、ショッピングをする。 大人と出会うというより、大人とコミュニケーションをするというより、大人との距離を感じるというよりも、一人遊びだ。 晩婚化というけれども、人と人との距離がとれなくなった子供が多くなったのではないか。 私自身、うまいとはいえない。 otononeは今のままでいいんだろうか。 と、いつも疑問におもっている。  

体験すること

体験という言葉はもともと修験道の言葉だ。 頭の中で思い描いていたものを、体で、体現すること。 音楽も言葉も、頭の中でおもいめぐらせることはできる。ただそれはやっぱり体験ではない。体が感じれていないことだ。 頭が忙しくなって、体で感じる時間が少なくならないように、ゆっくりと暮らすのもいいだろう。焦りや不安で頭の中がいっぱいになったら、体が感じていることに気がつけ無くなってしまう。楽器の体験会、たくさんの人にきてもらいたい。 友達の俳優が、今週末舞台に立つ。いつも舞台を見に行けないけど、頭の中で想像だけしている。もしかしたら、人生は、想像だけじゃものたりないことを体で体験していくことの連続なのかなとおもう。頭の中で思い描くだけじゃ、そのうち病気になりそうだ。「欲望という名の電車」という戯曲のヒロインのように。

勉強は「しつけ」か「あそび」か

勉強は「しつけ」だろうか。

やらせる、という限りにおいて、「しつけ」だろう。

習い事は「しつけ」だろうか。

やらせる、という限りにおいて、これも「しつけ」だろう。

しつけるとは「躾ける」と書く。身体を美しくする意味が、「拘束する」意味になったのが近代であり、現代社会ではないのか。

プログラミングするように、子どもを「しつける」大人がいる。

なにがしかの能力を植え付ける、仕付ける。「子どものために」。まるでコンピューターの性能をあげるかのように。

けど学ぶ気持ちは「躾」では文字通り得られない。

躾は本人の意思とは関係がない。なにせ、「躾」には自動詞がない。誰かが「躾ける」であり、誰かに「しつけられる」ものだ。

「あそび」には「遊ぶ」という自動詞がある。学ぶのも自動詞だ。

本当に子どもたちは学んでいるのだろうか。

「これをやりなさい」と言われて目の前に出された課題をやっている限り、それは学びではなくただのお勉強だ。(もちろん、お勉強をしながら何かを学ぶこともあるだろうが)

勉強が「あそび」になるだろうか。

今の日本では、勉強=「しつけ」だろう。子どもはお勉強をするように躾けられる。成績が悪いと「しつけが悪い」ことになる。(成績が悪い生徒は、いなくならない。だって相対評価だもん)本来それは「躾」ではない。美しさとは、数字で表せないから。

じゃぁ学校でさせられる「お勉強」ってなんなんだ?

「労働」という二文字がよく似合う。

 

筆ペンは、遊び道具である。

小さい子と一緒にこられるへんてこな塾、オトノネ。

塾かどうかも怪しい。

そこで小さい子の言葉のこと、学校生活のことが話題になって、ふとおもって、筆ペンを渡した。すると・・・机の下でゲームをしてばかりいた子が、筆ペンを使っていろいろと何やら書き始めたではないか!

筆ペンに興味を持てる、それは一体何なのか?はじめてだったのかもしれない。新しい感覚で、遊ぶ。新しい感覚を味わうこと、それが遊びなのか。言われるわけでもなく、自由に。こころのままに。

筆ペンという新しい世界への窓口がなかったら、新しい発見ができる手立てがなかったら、世界は本当に退屈だっただろう。子供は本来、そういうものを見つけて勝手に遊んでいた。今は「あれしたらだめこれしたらだめこうしなさいああしなさい」で学校や家庭で言われ続けて神経質になっている子が多い。だったらゲームでいいよ!みたいな。

感覚を新しくしながら、経験を味わうこと。これが遊びかもしれない。遊びができない子は、経験を味わえない、ひとつのことから多くを学べない子のことかもしれない。

遊ぼう!

行儀と振舞い。世界の翻訳。言葉の響き。

日本人は行儀が良いとされる。

行儀が良すぎて、振舞いとしては味気がない場合がある。

僕は「それをやったらマズイ!」ことを子どもが学ぶプロセスに関心がある。

例えば身を守ること。公園から脇目も振らずに飛び出すのはまずい!死んじゃう!と自覚して振る舞えるのはいつだろう。(走っていく自分がどの位置にいるのか、車というものがどんなスピードできて運転手は何を考えているか、そもそも、公園は、どこまでか???車に当たったらどうなるか、痛いのか、、、一体、どうやったら公園の外に飛び出たら危ないとわかるのだろう????)

経験しないとわからない、ということもあるのだろうが、とある野外教育者は「怪我をしない子は、最初っから最後まで怪我をしない」という。怪我をしない子は、頭の中で、体で、「世界のしくみ」のシミュレーションができるのだ!(こうしたら、ああなる、初めは、慎重に、慣れてきたら、少しずつ力を入れてやってみよう・・・とか)

もしかしたら、「マズイ」のはわかっているけど、行きたくて行きたくてしょうがなくて自制(感情のコントロール)ができないのかもしれない。

最近、オトノネにきて皿回しの棒を、目の前に持ってきて、膝でバギッと折って見せた子がいる。文字通り、破壊した!(僕とお母さんが呆然としてチーンとした雰囲気を感じ取ってか、その子はその後、しばらく机の下でしずかーに、反省していた。)

そのモノがどんなものか、というよりも、「みてみて!僕はすごいでしょ!」というのをみせたかったのかもしれない。

 

「それは誰かのもので、誰かが大切にしているもので」という感覚がわからないのかもしれない。「僕がこういうことをしたら、他の人はどう感じるだろう?」ということを感じるように、大人は子どもに関わっているだろうか。きちんと伝えているだろうか。「この世界のしくみを翻訳して子どもに伝えていくこと」それこそが子どもを育てることであって、お母さんの大切な、大切な仕事なのかもしれないとおもう。お母さん以上の適役は、いない。

「手のつけられない」年齢は、子どもにとっては、「世界を翻訳してもらって、自由になったからだの使い方、心の使い方を学ぶ時期」だとおもえばいい。何が正しいのか、どうやって感じたらいいのか、ハッピーになるには作法があることを、子どもは言葉を通じて、大人の真剣な眼差しを通じて、学ぶしかない。(大人を見て学ぶことができるだろうか?こんなに自由に走ったり飛んだり、掴んだり、壊したりできるようになったのに!嬉しくて嬉しくてしょうがないだろう)

言葉の使い方に気を使ってみよう。「こうしたら、ああなるでしょ?」という理路整然とした言い方だけでなく、「こういうときは、こうするのよ」という言い方もしてあげていい。その場をとにかく離れて、落ち着いて話しかけてあげてもいい。「どうしてあんなことしたの?」と言ってあげていい。もちろん、その言葉がきちんと子どもに悲しみや怒りすら、傷つけずに、受け取れるように、伝えられる響きを持っていなければ、言葉が心から使われてはじめて、言葉は「伝わる」のだと、僕は思っているのだが。

「ごっこあそび」概念を普遍化する『絵本の心理学』

絵本の心理学 ごっこあそびが所詮、「ごっこ」であって、目の前の葉っぱがお札ではないことを言われて子供の頃、どう感じたか。『絵本の心理学』の著者が学生に聞いて書いてもらったレポートの内容。

子どもなりに「遊びの世界」と「現実の世界」を理解し、区別できていたようです。ただし、遊んでいるときに葉っぱのお金を「葉っぱ」と呼んだり、土のマメごはんを「土」と呼んだりすることは、禁句であったように記憶しています。それがなぜでありどのようにして決まったことなのかはわからないが、まるで暗黙の了解のように一緒に遊んでいるもの同士では遊んでいる間に、決して真実を口にはしませんでした。外で見ている子が「あいつらアホちゃうん?なにがお金や!」っていう言葉を発すると、少し気分が悪かったように覚えています。今考えれば、真実を口にするとせっかく見立てていた物が、ほんとうに土や葉っぱや木の実にしか見えなくなってしまうということを、気持ちのどこかで感じていたのではないでしょうか。(『絵本の心理学』p.222)

まとまらぬまま、最初に出ていた結論までに考えたことを箇条書き。 1。見ている世界が人によって違う いつも引き合いに出してしまうが。「それってDVだよね?」といっても「それがDVである」と感じない人がいる。 それって虐待だよね?とおもうことでも、虐待だと感じない人がいる。 生きているってだけでももうけもんだよね!と言われても、全くそう思わない人もいる。 「欲望という名の電車」に出てくるヒロインはいわゆる幻覚・幻想の中で暮らしていた。虚言・虚構の世界。 2。道具の使い方は一つではない 椅子をベッド代わりに使ったり、座布団を枕にしたり、米のとぎ汁を肥料にしたりなど。 一つのモノを別用にして使うことは大人でも当然やっていること。 子どもが大好きな「長い棒」は、どんなボロボロの枝であっても、「伝説の剣」に見えている。 なんでもない風呂敷に包まれただけで、スーパーマンになれる。 3。芸術における「ごっこあそび」 「ごっこあそび」が精神療法に取り入れられた例に、サイコドラマがある。 役割分担をして、自分が相手を演じる、相手が自分を演じる、自分でないものに自分がなる。自分でないものが自分になる。 そういう経験を実際にシミュレーションしてみると、心は揺さぶりをかけられる、という手法だ。 画家や音楽家などは「ひとりごっこあそび」をして作品をつくっている。 落語でも、「小道具」をいろんなモノとして使ってみせる。観客はそれを茶碗だとか、扇子だとか、棒だとか、いろんなものに見立てる。 4。大人社会、あこがれへのシミュレーション 戦争ごっこというものがある。ガキ大将がいろいろ指示して石を投げていた時代がある。お店やさんごっこ、お母さんごっこもある。自分の憧れ、ヒーローになるごっこもある。いってしまえば大人のメイクをする、髪の毛にワックスをつける、洒落た服装をする現代の子供も、こうしてシミュレーションをしていると考えることができる。 5。子どもの特権としての「ごっこ」 「7つ前は神の子」という言葉がある。(この言葉自体、根拠もなにもないので解釈するほかない) 「ごっこ遊び」に精を出す年齢、だと解釈することもできるだろうか。 検索するといろいんな記事に出会う。 医療が発達していない当時、死にやすい、いつ死んでもおかしくない存在だった。というお話。 子ども時代は法律的に7歳までだった奈良時代の刑法のお話。 子どもと本当の意味で話せるのは「たった7年」というお話 8歳以降、女性は思春期が始まる。僕はそういう視点で7歳までの神聖をとらえる。 七五三に意味深な意味を与える陰陽五行思想の影響を考えれば、本当の意味での「子ども」でいられるのは7歳まで。という話でいいとおもう。 かつて「稚児」といって、男でも女でもない、中性の存在が仮定されていた。お祭りでよく曳山の上に座っていたり、稚児舞をすることがある。これは実は中性の女性禁制の寺社会で生まれた習慣なのだが・・・ シャーマニズムの世界、巫女の世界、精神の世界では、巫術者が何かに取り憑かれて「そのものになったり」「向こう側にいって帰ってきたり」する。自分が「そのもの」になるために小道具をつかう。衣装を使う。また呪文を唱える。ごっこあそび、自分でないものに自分をとばしていく、なりきってみることは「共感」とかいろんな言葉で表されるように、奥が深い。 ーーーーーーー 僕が言っている保育園で、子供と一緒にごっこあそびをしているとき。 僕は「無理な注文」を出すことにしている。 「はい、いちごケーキですよ」 「えーっ、バルメシアチーズケーキがよかったんだけどなー」 引きつ引かれつ、押しつ押されつつ、自分の思いと相手の思いを受け取ったり、受け取ってもらったりする、そういう関わり合い方をするための、人間的な、「じゃれあい」「対話」をしているのだとおもう。ごっこ遊びをしているときに「イヤだ!」といって相手の言葉をはねのけたら。。。遊びから外される。 そんなわけで、とりあえず結論。 ーーーーーーーーーー おとなは大人で「ごっこあそび」をしている。 家庭、学校、会社、組織、与えられた役割をこなしながら、暗黙の了解を知りながら、沈黙しながら。 それは集団が変われば、住む場所が変われば、変わってしまうルールに基づいている。 おとなは大人で「ごっこあそび」をしている。 それはいつだってはじめられるし、やめることもできるものだ。だれと遊ぶかも、選べるものだ。 いっしょにあそぼー

朝、校庭で走り回る小学生。

小学校って、朝の会が始まる前に校庭でみんな走ったりしていますか? 体育の先生がいて、陸上の指導をしているようであった。体操服を着ている子もいれば、私服で走っている子もいる。 小学校って朝、走っていたっけ? 子どもは走るのが好きだ、ということはよくわかる。 勉強どころではない。走らなくては!というくらい。 だから、朝、走る、文化が、自由の中で生まれたなら、素晴らしいことだとおもう。 みていると、みんなおもいおもいに、走っている??ように思えた。 こういう場所もあるんだなぁ。 運動会前だから??? こういう文化をつくるエネルギーが、一体どこからでてくるのだろう。 一体、誰が、はじめたのだろう。 まさか、ここは、中学校じゃぁ、ないよね?

くやしいという気持ち。ごめんよバリの生地たちよ。

バリで買ってきた生地の四辺をミシンで縫う作業。 うまくいかない! 何が悪いの? バリから持ってきた大切な生地、失敗したくない。 インターネットで調べた。どうやら上糸の強さを変えたらいいようだ(人生初、上糸調整) それでもうまくいかない! なんでだ? 悔しかった。生地を素敵なスリングにできなくて悔しかった。 ミシンのことについて学びたいとおもった。 何がいけないのか。。。どうしたら、綺麗な、スリングができるか。。。 ごめんよバリの生地・・・ 結局、糸が細くて調子がどうしても外れる、ということがわかった。 手持ちの糸では、だめなのだ。 こうやって学んでいく。 悔しくて、もっとよくしようとする。 私はそうやって学んできた気がする。 悔しいとか感じなくて、学べる人もいるだろう。 試行錯誤をしないで、正解にたどり着く人もいるかもしれない。 その人はきっと、昔、おもいっきり試行錯誤をして、いきなりうまくやる方法にたどり着く術を学んだのだとおもう。 挑戦して、失敗してもいい。一生懸命やればいい。受験とはそういうものだとおもう。 悔いのないように、というけれど、悔いが残ることはたくさんある。 悔いが残ったら、やりなおしてもいい。 新しい挑戦をしてもいい。 本気でやれること、大切なことに取り組めないことほど、不幸せなものはないと、私は思っている。 大切なことを見つけられた人は、幸せだとおもっている。 そういえば、「悔しい」という英単語、あったっけ?とおもって調べた。 ない。 あるといえばあるが、日常的ではない。 不思議なものだ。 感情の処理のしかた、処理のされ方が違うのだろうか。 悔しいとき、向こうの人は、感嘆語ではなすのかもしれない。 わからない。今度、外国の人に会ったら聞いてみよう。 うまく縫えなかったけど、バリの生地だし、まぁいいか! 動画はバリではなくインドネシアのスラウェシ島のお母さん。

 

あそびと犯罪。ナウシカとキツネリス。いたずら。

ふとした会話のなかで、「大人が子どもと遊んでいると、大人がイタズラを考えつくことがある。それで結構子どもも喜んだりする」 という話が出た。 イタズラは相手との関係がなければ、相手がどう受け取るかをイメージできていなければ、それがずれなければ、おもしろいあそびになる。 ドッキリさせる!というやつだ。 イタズラが試し行動だったり、いじめだったり、スカートめくりだったり、落とし穴になったりもするのだが。。。 こうしたイタズラ、ギリギリの実験「どうなるかな??」の中でたぶん子どもは相手の反応を見る。 それは日常的なやりとりとは違った「相手がどう反応するか」をよく観察できる瞬間なのかもしれない。 そういう生々しいイタズラをしてほしい。 最後まで、きちんと相手の反応を受け取るまでイタズラしてみたらどうか。 それから「ああこれはやっちゃ相手は困るんだな。悲しむんだな。やったらだめだな。ここまでだな」と気がついていく。 自分から気がつかずに、「これはダメアレはダメ」といわれたのでは、大人になってから、誰も何も言ってくれなくなったときに、大変になってしまう。 「大丈夫だよ。怖くないよ。そんなに噛んだら、血が出てしまうよ。ほら。」 ナウシカはキツネリスにそう言っていたのかもしれない。血を見せても、子どもは大人に伝えたいことがあるか。 というわけで犯罪統計を調べて見た。 平成30年1~12月犯罪統計【確定値】 富山県は・・・石川県の倍か・・・人口はそんな変わらなかったとおもう。 人口で割ってみると、富山県は東京都と同じくらいか・・・ データは現実の一部しか切り取らないが、その切り口から何かべつの見方が、発見があるからうれしい。

子どもとうまくいかない!とおもったら?

子どもとあそんでみよう。 うまくいかなかった罰として!笑 「イヤ!」といわれたら? 泣いてせがんでみてもいい笑 気持ちがわからない、通じ合わない、感じられないなら、遊びはその壁を簡単に壊してくれる。 「悩んでいる新皮質」ではなく、「ありのままの辺縁系」が、表にてでくるからだ。 怒りを感じたら。 何かを伝えるときに、怒りをベースにしたら、多分うまくいかない。 ほとんどの場合は、真剣さだけで、凛とした言葉の響きで、言葉の強さで、ことたりるとおもう。 強く。強く。 言葉の力を。 それは、心の力なのだけれど。 言葉尻を強くする、ではありませんよ笑 こういう、やさしい人を見つけた。 僕だったら「学校というシステム」の問題にしてしまうのを、個人レベルで対応するように、手を差し伸べる人。やさしいな。

発達段階を理解することで、無用な怒りに触れなくてもすむかもしれない。 ーーーーーーー ものを落とす1歳児に悪意はあるか。 「なんだこれ」とおもって、ひっぱっただけだ。 それが落ちて、それがどうなるか。 その重さは?落としたら壊れる?そもそも、落とす? それをみた人が、どうおもうか。 見知らぬ「ものを落とす」ことに対しては、見当がついていなかっただろう。 それくらい、大人が見たら、「いや、それ、落とす?」というものを、落とした。 落としたのではなく、 ひっぱったら、落ちた。 というのが、彼の目線だろう。 子どもに悪意はあるか。 僕には「ない」と思っている。 全部、養育者を真似した結果か、防衛機構の一部として働いているとおもう。 「悪態をついて、欲しいものを得る」心 「悪態をつくことで、コミュニケーションをとる」心。 心で関わろうとするとき、どうか、怒りが、やさしさに包まれますように。   泉丘高校、二水高校、錦丘高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか? 高岡高校、富山中部高校、富山高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか? 富山県で小さな塾をはじめた東京の先生が高校生の課題の多さに心を痛めている個別指導塾otonone-オトノネ- 暗記をせずに難関大学に合格したい人のための個別指導学習塾otonone-オトノネ- 富山県高岡市の家庭教師おとのねさんは登校拒否、不登校、成績不振で困っている小学生・中学生・高校生に向き合います。 保育士試験に合格するための筆記、実技、過去問の使い方、勉強法を教えます。 富山県高岡市の音楽教室otononeでピアノとギターとグンデルを習いませんか?

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