進学校で疲れ果てた落ちこぼれた自己イメージとマインドをリセットする
次に紹介するのは、スポーツ選手のジェイソンのレポートである。
ぼくは大学でスポーツをやっていますが、これまで完全な硬直マインドセットでした。勝 つことしか頭になく、失敗から学ぼうなんて考えもしませんでしたから。けれども、先生 の講義を聴いて、それではいけないことに気づき、以来、試合の最中でも学ぶことに努め ています。競技しながらでも、絶えず技を磨いていければ、今よりもずっとうまくなれる ことに気づいたからです。
ジェイソンの内なる声はいつもこうささやいていた。「勝て、勝て、とにかく勝つんだ。自 分の力を証明しろ。すべては勝てるかどうかにかかっている」 ところが今ではこう言っている。「よく見て、学んで、技を磨け。もっと良い選手になれ」
最後に紹介するのは、トニー。優等生の彼は、すっかり失っていた自信をようやく取り戻し つつある。
高校時代は、ほんのちょっと勉強しただけでも睡眠不足でも、トップレベルの成績が維持できました。自分は生まれつき優れた理解力と記憶力に恵まれているから、これからもず っとそうだろうと高をくくっていたのですが、1年ちかく睡眠不足の不摂生を続けたせい か、理解力も記憶力も落ちてきました。生まれつきの能力だけを自尊心の拠りどころにし ていたので(集中力や決断力、頑張る力なんてバカにしていました)、それがあやしくなって以来 ずっと、ぼくは人格の危機に陥っていました。けれども、先日、授業でマインドセットの 話を聞いてよくわかりました。今までのぼくは、自分の頭の良さを証明することばかりに こだわり、失敗を避けていたからこうなってしまったのだと。そう気づいたおかげで、よ うやく、自滅的なパターンから抜けだすことができました。
トニーの内なる声は最初こうささやいていた。「ぼくは生まれつき頭が良い。勉強する必要 もなければ、十分な睡眠を取る必要もない。もともと人より優れているのだから」
それが、「ああ、ぼくはもうダメ。理解できない。憶えられない。今のぼくはいったい何なんだ?」と言いはじめた。
それが、「頭が良いかどうかなんて気にしなくていい。失敗しちゃいけないなんて思わなく ていい。そんなことにこだわるから自滅的なパターンに陥るのだ。さあ、しっかり勉強して、 十分に睡眠をとって、充実した毎日を送ることを考えよう」と言うようになったのだ。
もちろん、ここに紹介した学生たちだって、やはり挫折感や失望感を味わうだろうし、マイ ンドセットをしなやかに保つのが容易でないときもあるだろう。けれども、マインドセットの 存在に気づいたことで、別の生き方への道が開かれたのである。偉大な作家、一流選手、天才 科学者の幻想におびえることなく、のびやかな気持ちで自分なりの夢や目標を育むことができ るようになった。そして、もっと重要なことに、夢の実現をめざして一歩一歩あゆんでいくこ とができるようになったのだ。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.309)
しがみつかない、墓穴を掘り続けない、失敗を認めて柔軟に変えていく
逆に、私たちが柔軟性を持たないとどうなるだろうか。職場で自分や同僚の誰かが新しい やり方を提案したときに、説明も聞かないうちから一斉に周囲から抵抗にあうといった状況 を私たちは何度も経験している。そんなとき私たちは、身体的にも精神的にも閉じこもり、縮 こまっているように感じるのではないか。 (『あなたの脳は変えられる』ジェドソン・ブルワー p.288)
本書では、私たちが自分を、決して間違ったわけではないが、結果として不-快へと追い 込んでいく多くのあり方を探究してきた。フェイスブックで「いいね!」をもらう興奮であ れ、ある種の自己像の強化であれ、単純に自分の考えにとらわれることであれ、自分に注意 を向ける活動の結果、私たちの身体は固くなり、落ち着かず、「何かをしなければ」という活 動的衝動を感じる。 このような習慣を強化すればするほど、それは脳の回路とその行動の中に深く「刻み込ま れる」。回路の溝が深くなればなるほど、それは職となり、私たちはそこにはまり込む。別の 比喩で言えば、眼鏡が自然になりすぎて、かけていることにさえ気づかないようになってし まう。 抵抗にぶつかったなら、それは轍や穴にはまり込んだしるしかもしれない。皮肉なことに、 それは自分で刻み込んだ轍や穴なのである。1つの世界観や行動にはまり込むと、私たちは さらに深く掘ってしまう。 誰でも、議論をしているときにそんな感覚を抱いた経験があるはずだ。ある時点で自分が ただ言い分を通そうとしているだけにすぎないと気づくが、主張はますます奇妙なものにな る。どういうわけか私たちは、自我を引き戻せなくなってしまうのである。そんなとき私た ちは「穴の法則」を忘れている――穴の中にいるときは掘ってはいけないのだ。 本書ではまた、ただマインドフルに注意を向けているだけで、自分がその穴をさらに深く 掘っているかどうか(つまり、主観的バイアスで世界を見ているかどうか)、さらに不-快を増や すパターンを強化しているかどうかを簡単に識別できると伝えてきた。 (『あなたの脳は変えられる』ジェドソン・ブルワー p.297)
知ることで、やさしくなれる。
電車に乗っていると、大声でおしゃべりしているお年寄りと出会うことがあります。 「うるさいなぁ。もっと静かにできないの?」と思うでしょうか。 お年寄りはどんな気持ちなのでしょうか。 どんな心をもっていて、どんな脳をもっているのでしょうか。 もしかしたら、大声を出して自分が気持ちよくなっているのかもしれません。 日常的に大声で喋っているから、電車でもおお声で喋っているのかもしれません。 これは心のしくみです。 もしかしたら、耳が遠くて、自分の声が自分で聞こえなくて、声が大きくなっているのかもしれません(骨伝導もありますが)。 これは脳のしくみです。 こうして考えると、「ああ、大声で出してしまうような原因を、何かしら持っているのだな」と自分自身を納得させられるでしょう。 けど、それで本当に迷惑な人がいたら、もちろん声をかけて「気づいて」もらうといいのかもしれません。 いくら事情がある、仕方がないといっても、人の心を乱すことはよいことではありません。 さて、私がこのページでお伝えしたいのが、「自称進学校で課題に悩んでいる、成績が伸びずに辛い思いをしている子ども」と「学校の進学実績を信じて、学歴社会を信じて、子どものつらい様子を心から感じられない親」がどちらも脳と心の問題を抱えているということです。
子どもの課題依存(刺激→行動→報酬)
子どもの課題依存は次のようにして起こります。負の報酬と正の報酬は重なり合っていることがほとんどです。
ルート1:負の報酬
課題をやらなかった。 親や学校の先生に怒られる(諭される)。 怒られた(諭された)ことに違和感を感じるが、どうしていいかわからない(心のしくみ)。 怒られる(諭される)のが嫌だから、課題をやり続ける。 親に課題提出状況を報告されて親からストレスを与えられたり(富山中部高校)、課題をやっていないと職員室に呼び出されたり廊下に立たされる(富山高校)といったストレスを受け続ける。 けどできない(土台無理だ)。 課題をやらない(できない)。以下、ループ。 学習性無気力で課題をやらなかったらまた怒られる。 しかし心はそのストレスに耐えられないから、なんとか課題をやろうとする。 しかしできない。 成績は上がらず、心はすり減らされる。
ルート2:正の報酬の記憶
課題ができない。 いや、小学校や中学校ではできたはずだ。きっと、頑張ればいいんだと心がはたらく。 けど自称進学校の課題は小学校や中学校の宿題の比ではない。 課題ができない。 今までの自分の姿と今の自分の姿のギャップをどうにか埋めようとする心が働く。 なんとか「追いつこう」とするが、土台無理だ。 以下、ループ。 もしくは次のループも考えられる。 頑張って課題をやっている。定期テスト対策をしてなんとか成績を維持している。 だが、伸びない。 けど、「成績は悪くなっていない!」「これでいいんだ!」「頑張りが足りないんだ!」と思ってしまう。 だが、伸びない。 けど、「成績は・・」以下、ループ。(成績が上がらないこと、叱られない!ことが報酬になっていると解釈してもいいでしょう)
できないことを続けても、無理。
「できない」ことを真摯に受け止めて、見つめて、感じて、「なぜできないのか」を問うことで発達します。「どうしたらできるようになるんだろう」と問うことで、次のステップへいけます。 その答えの1つは「課題をやらない」ことです。(この結論を、受け止められる人と、受け止められない人がいます) なぜか。 自称進学校は上位3割のための課題を出しています。 この3割の生徒が合格実績を出してくれたら、学校は万歳なのです。 ではなぜ7割の生徒にも同じ課題を出すのか。 「不公平」になるからです。「なぜうちの子はあの子と課題が違うの???」とお母さんからクレームがきたら大変です。
よし、勉強をやめよう!
高校生にもなると、もう勉強なんぞに手は出すまいという生徒がでてくる。 「そっちは私のいく道ではない」ということを、決めている子たち。 実はほとんどの生徒は、「そっちの道」でない道を望んでいるような気が、私はしている。 勉強を通じてしかオトナたちがコドモと付き合えないような世の中になっただけだとおもう。 私はひとりひとりがべつべつでいいと思っている。 演劇は本当に、その人だから、その人にしか演じられない役がある。 誰もかれもが同じ基準に達するために同じことをみんなでいっしょにやっているのは、やっぱり変だ。 ひとりひとりが個性化していくなかで、もし勉強が、今のあなたにとって必要なら、是が非でもやらねばならぬことなら、私は君の勇気を称えて、応援したい。 そっちの道ではない。道の上で右往左往するのではなく、高く飛ぶことを、願っている。 otononeは「なんでできない生徒を放っておくの?」「困っている生徒をそのままにするの?」という気持ちから生まれた塾です。 富山県の生徒たちは不安だらけだ。自信を持って勉強ができていない。 もちろん中には順調に勉強を進めている生徒もいるが。 ただ生徒にとって大切なのは、能力を伸ばす、成績を上げることよりも、安心して勉強をする、無事に受験を終わらせるまでの心の支えなのだと思えて来た。 受験勉強ではなく、受験経験が、苦しいのだ。成績が伸びないことが苦しいのではなく、勉強すること自体が苦しいのだ。 そう思えて来た。 安心して、勉強と向かい合える居場所、そこに少し勉強の話せる先生がいたらいい。 きっと富山県の中学生、高校生はそう思っているのかもしれないなぁと、ふと、気がついた。 東京都とは全然、違う「受験」だ。 文化の違いを、知る。
【自然な子育て】とは何かー学者たちの出した簡単な答えーストレス『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』
ストレスが子供の未来を潰す
『私たちは子どもに何ができるのかー非認知能力を育み、格差に挑むー』ポール・タフ
逆境によるストレスが、発達段階の体や脳にダメージを与えるのである。(略)人間の整理システムは急を要する身体的な非常事態に反応するように進化してきたものである。しかし、私たちは住宅ローンや人間関係や昇進について心配することでそのシステムを何ヶ月者あいだ使い続ける。こうした整理システムの使い方は効率が悪いだけでなく、きわめて有害でもある。その証拠はここ15年以上の間に多く発見されている。HPA軸に、とくに幼少期に負荷を与ええすぎると、長期にわたる深刻な悪影響が体にも、精神にも、神経にもさまざまに出てくるのである。しかしこのプロセスがややこしいのは、わたしたちをかき乱す原因がストレスそのものではないてんだ。原因は、ストレスに対する反応にある。(略)マキューエンによると、ストレスを管理するプロセスこそがー彼はこれを「アロスタシス」と名づけたー体を損なう要因なのである。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』ポール・タフp.44)
アロスタティック負荷を表す数値は厳然たる医療データを反映したものー子ども時代の逆境が実際に体に及ぼした影響、つまりは皮膚の下、体の奥底に刻み込まれたものーなのである。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.49)
どういうことかといったら。 小さいとき、お母さんはー赤ちゃんが泣いた時に抱きしめてあげるように、ぬれたおしめを取り替えてあげるようにーストレスを処理するプロセス通じて、子どもにストレス対処法を伝えているということ。 それは「大丈夫だよ」という一言かもしれない。 毛づくろいすること。 抱きしめてあげること。 やさしくあたたかく 日に日に成長していく子どもの心を尊重する心をこめて
環境による影響の中で子供の発達を最も左右するのは、ストレスなのだ。子供たちは、いくつかの環境要因によって、長期にわたり不健全な圧迫を受け続けることがある。こうしたストレス要因が子供の心を体の健全な発達を阻害する度合いは、従来の一般的な認識よりもはるかに大きい。 逆境は、とくに幼い時期ほど、体内の複雑なストレス反応のネットワークー脳と免疫システムと内分泌システム(コルチゾールなどのストレスホルモンを作り、放出する内分泌腺)を結ぶネットワークーの発達に強い影響を及ぼす、特にこの時期にネットワークが環境からの信号に敏感に反応するのは、これからの先の長い人生において何に備えるべきか、体に知らせる信号を常に探しているからだ。この先の人生が困難であることが信号によって示されれば、ネットワークはトラブルに備えるための反応をする。血圧を上げ、アドレナリンの分泌を増やして警戒を高める。 短期的に見れば、特に危険な環境では利点もある。「闘争・逃走反応」とも呼ばれる脅威検知システムが作動し、つねにトラブルに備えている状態なので、すぐに反応できる。このように、危険な環境への適応の発達には確固たる理由があるのだ。しかしこの適応が長期にわたってつづくと、かずかずの生理的な問題の引き金ともなる。免疫系がうまく働かなくなり、体重増加の一因となる代謝の変化が起こって、のちに喘息から心臓病までさまざまな病気を引き起こす。さらに厄介なことに、ストレスは脳の発達にも影響を及ぼす可能性がある。とりわけ幼い時期に経験した高レベルのストレスは、前頭前皮質、つまり知的機能を司る最も繊細で複雑な脳の部位の発達を阻害し、感情面や認知面での制御能力が育つのを妨げる。 感情面で見ると、幼い時期に慢性的なストレスを受けた子供はーいまでは大勢の研究者がこれを有害ストレスと呼ぶがー失望や怒りへの反応を抑えることに困難を覚えるようになる。小さな挫折が圧倒的な敗北のように感じられ、ほんのすこし軽く扱われたように感じただけでも深刻な対立関係に陥る。月皇生活では、つねに脅威を警戒し続ける強度に敏感なストレス反応尻手むは、自滅的な行動パターンを引き起こす。けんか、口答え、教室内でのわがままなふるまい。もうすこし目立たないものとしては、クラスメートとのつながりをつねに警戒し、教師や大人から差し伸べられた手を拒むようになる。 認知面でみると、不安定な環境で育ち、そうした環境が生む慢性的強いストレスにさらされた場合、前頭前皮質が制御する、実行機能と呼ばれる一連の能力の発達が阻害される。実行機能は、脳の働きを監督する航空管制官のチームに例えられることのある高次の認知的能力ー作業記憶、自己調整、認識の柔軟性などを含むものーで、これが発達のための神経系の基盤となり、粘り強さやレジリエンスといった非認知能力の支えとなる。不慣れな状況を切り抜けたり、新しい情報を処理したりする際に非常に役立つ、まさに日々の学校生活で求められる能力である。この実行機能がきちんと発達していないと、複雑な指示に集中できず、学校生活にいつも不満を抱くようになってしまう。(『私たちは子どもに何ができるのかー非認知能力を育み、格差に挑むー』ポール・タフp.28)
ーーーーーーーーー ストレスが、子どもの天の才を潰してしまう。
お母さんが子どものストレスを、癒し続ける。それが自然な子育てだ。
子どもはもう、世の中から十分なほどに、ストレスを与えられているから。(もちろん、成長しながら、自分で自分をストレスから守れるようにならないとダメだけど。その方略は人それぞれ) たまに、お母さんが子供にストレスを与えていることがある。 子供は別のところで、ストレスを自分で、何かしらの方法で、癒すしかない。もしくは、溜め込むか。
実行機能の働きを試すテストとして有名なものにストループ・テストがある。緑色の文字で書かれた「赤」という単語を見せられ、単語は何色で書かれていましたかと尋ねられる。赤、と答えないためにはいくらか努力が必要で、とっさに赤といいそうになる衝動に抵抗する時に使っているのがこの実行機能なのだ。これはとくに学校で大事なスキルであるといえる。子供たちはつねに矛盾した情報に対処することを求められるからだ。Cという文字はKとおなじように発音されるーSのように発音されない限りは。taleとtailは、発音は同じだが意味が違う。「ゼロ」という概念にはそれ自体にひとつの意味があるが、「1」と並べると全く別の意味を持つ。こうした多種多様なトリックや例外を飲み込むには、物事を認知する際の衝動の抑制がある程度求められる。これは神経学的には感情面の衝動の抑制ーお気に入りのおもちゃの車をほかの子にとられるときに、叩くのを我慢する能力ーと関連のあるスキルだ。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.51)
これはいわば、ルールを飲み込むチカラ。 あそんでいる時に気に入らなくなって「ルールだから!」といわれて、「じゃぁもうやめる!」といって抜けるのと同じかもしれない。 ただ、学校で教わる内容(753システムに基づいた画一的学習内容)が、その子の発達にあっていないだけかもしれないけれども。 ====
貧しさは、ストレスの多さ。
はい、また重要なところです。 実行機能のスキルの中に、短期記憶(ワーキングメモリ)というものがある。今日スーパーマーケットで何をするか、メモをせずに覚えているような記憶だ。学校のお勉強をする上では欠かせないスキルである。で、サイモンという人が実験して手に入れたワーキングメモリの働きを測定した結果を「サイモンのスコア」として次の文を読んでほしい。
エヴァンズトシャンベルクの発見によれば、貧困層の少年が受ける不利益としてはアロスタティック負荷が大きいということの方が重要である。もし別の貧困層の少年がやってきて、その少年の方がアロスタティック負荷が小さかったらー理由はどうであれ、貧しくともストレスの少ない子供時代を送っているとしたらーサイモンの競争で裕福な家の子供と同程度のスコアを出す可能性は十分にある。そしてなぜサイモンのスコアが大事なのかといえば、高校にも大学にも職場にも、ワーキングメモリが成功の鍵となる作業が山ほどあるからだ。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.54)
つまるところ、貧しいから学業成績が低くなるのではなく、貧しいことが原因となってストレスがかかり学業が下がるのである。貧しくてもストレスがかかっていなければ、適切な環境次第で、裕福な人と同等の学業成績を残すことができる。 ストレスから子どもを解放する。 これがまず、大切だということ。 お母さんが子どものストレスを、癒し続ける。それが自然な子育てだ。 そして自然な子育てをするための知恵と振る舞いを、僕は、愛と呼んでいる。 愛とは何か?

ストレスマネジメントを、子どもはどこでしているのか?
『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』ポール・タフ
生後1ヶ月ほどの間、泣いた時に親からすぐにしっかりとした反応を受けた乳児は、一歳になるころには、泣いても無視された子供よりも自立心が強く積極的になった。就学前の時期には同様の傾向がつづいた。つまり、幼児期に感情面での要求に対して親が敏感に応えた子供は自立心旺盛に育った。エインズワースとボウルビイの主張によれば、親からの暖かく敏感なケアは子供が外の世界に出てゆけるための「安全基地」となるのである。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.68)
子どもたちの高校生活を追ったところ、どの生徒がきちんと卒業するかを予測する際に、知能検査や学力テストの得点よりも、幼少期の親のケアにかんするデータの方が精度が高かった。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.75)
どちらのケースでも、子供が生後まもないうちに親として特定の役割を果たした母親が一定の割合で存在した。そしてその行動ーラットの場合にはなめたり毛づくろいをしたりすること、人間の場合には幼児のサインに敏感に反応することーが子供たちのあげる成果に対して永続する効果を及ぼしている点が共通している。人間でもラットでも乳児のうちに適切な世話を受けた者は、のちにより好奇心や自立心や自制心を持ち、障害にもうまく対処できた。幼少期の育児における母親からの注意深いケアが、ストレスから身を守るためのレジリエンスを育んだ。人生においてふつうに起こりうる困難な事態に直面したとき、何年も後になってからもーオープンフィールドテストや、幼稚園での我の強い子供とのけんかなどからわかるように、人間もラットも同様にー自分なりの主張を行動に移し、自信を持ってまえに進むことができたのである。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.76)
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ストレスが前頭前皮質の成長を阻害する。
貯められたストレスが、前頭葉の成長を阻害する。 それはセルフコントロール、ストレスマネージメント能力の発達の阻害要因になる。 『私たちは子どもに何ができるのかー非認知能力を育み、格差に挑むー』ポール・タフ
ストレス心理学者たちも、この現象を生物的な側面から説明している。脳の中で幼少期のストレスから最も強く影響を受けるのが前頭前皮質、つまり自分をコントロールする活動ー感情面や認知面におけるあらゆる自己調節機能ーにおいて寿湯代な役割を果たす部位である。このため、ストレスに満ちた環境で育った子供の多くが、集中することやじっと座っていること、失望から立ち直ること、指示に従うことなどに困難を覚える。そしてそれが学校の成績に直接影響する。抑えることのできない衝動に圧倒されたり、ネガティブな感情に悩まされたりしていれば、アルファベットを覚えるのもむずかしい。(略)多くの場合、ストレスの影響はおもに思考を制御する能力を弱めるかたちで出る。これは「実行機能」として知られる、認知をつかさどる特定の機能が前頭前皮質にあるからだ。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.49)
ーーーーー ストレスに対して、弱い人がいる。 ストレスを感じた時に、どうしたらいいのか、どんな心構えをして生きて行ったらいいのか。 それは、「お勉強」では学べない。
「ガマン」の価値・喜びの泉
進学高校の生徒たち。
というか、進学高校でなくとも。
結果も給料もでないのに、どうして言われたことをやりつづける?
どうしてそんなことするの????
大人になったら、お給料がでる。
「やりたくないことをするからお金をもらえる」という価値観を口にする人がいる。
私は「大切なものを守るために、自分で折り合いをつけて仕事をする」と考える。(それでオトノネを初めてみたものの生徒が来ないからアルバイトを探す。とにかく探す。目標があるから、それにあったものを探す)折り合いの付け方はひとそれぞれだ。「やりたくないことをする」ことが美徳ではない時代。もう経済成長もとっくのとうに終わっているのに旧態依然で働くのはどうだろうか。充実した成長の経験ができないのに、課題ばかり、自分にとって楽しくもなんともない作業ばかりしているのはどうだろうか。
「ガマン」は大切。目標を達成するためのガマン、大切なものを大事にするためのガマンであるときに限っては。
「社会に望まれていること」をするのは大切なことだ。「自分がしたいこと」を先に考えていたら、もし心が誰かと繋がっていなかったら、実現しないことが世の中にはたくさんある。この問いには、答えがない。答え続けるしかない。これほど難しい問題はない。けど簡単なことでもある。「自分を守る」ことが一番大切だからだ。(もし自分を守るために誰かを傷つけるなら、その時はしっぺ返しがくるからどんどん修正していこう。扁桃体の共感能力、間主観性が育っていたら、そういう失敗にもすぐに適応できる)
仕事は、暮らしだ。学校は、暮らしだ。「やりたくない人生を歩む」孤独がどんなにつらいか。成長する喜び、実現していく喜び、大切な心と一緒にいる喜びが、そんな孤独な旅を支えてくれる。
「ガマン」は大切。他の人と一緒にいるためには、自分とは違うことを認めて、受け入れなくちゃいけない。それが「ガマン」ではなくて、「作法」のように身につけられればいい。ガマンは、ともに喜び合う、笑い合いながら暮らすための、作法だ。しかめつらをすることはないのだ。
喜びの泉を見つけよう。誰かとともに、泉に手を浸し、湧き出る水を染み込ませよう。誰かとともに。笑い合おう。泉を守ろう。泉を作ろう。よろこびを分かち合う人と一緒にいられる時間を作ることこそ、人間の仕事だと思うのだが。先生という仕事は(現代においては)、子どもたちが砂漠の中の井戸で命のエネルギーを汲み出し、そのエネルギーで成長していくよろこびを経験してもらうことなのかもしれない。
本当の文化とは、よろこびあうシステムのことかもしれない。それは慌ただしい暮らしの中で、ただただ人が集まって笑い合う酒場であり、音楽が流れる場所であり、やさしい匂いと時間が流れ込む、つかの間の空白のように、感じられるかもしれない。
毎日毎日、心をあらってみよう。よろこびがなくても。無為に委ねて、洗うこともできる。無為に委ねるとは、心を自分の外に置き(自分が心の外にでて)、心からでてくる森羅万象が森羅万象によって風化して行く、移ろって行く、流れ出て消えて行くのを眺めることだと私はおもっている。と考えれば、あらうのではなく、あらわれるようにする、という自動詞的な感覚。
【高次認知的情動】とは?情動・感情が現状打破するチカラになる話『感情』『喜怒哀楽の起源』
感情は、感情をマネジメントする知性をもっている。
感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
喜怒哀楽の起源―情動の進化論・文化論 情動には文化的な「表現様式」があるという話。 文化の中で、「望まれている」情動があるという話。いわゆる、県民性、国民性というやつだ。 日本人とアメリカ人に対してそれぞれ割礼儀式や吸引分娩、鼻の外科手術のような忌むべき内容を見せるという実験。この時、二つの条件で観察を行った。一つは、実験対象者が一人で見た場合。もう一つは、別の誰か(面接官)がいた場合。一人でいる場合は、日本人もアメリカ人も類似した表情が観察されたが、面接官が同席したときには、日本人はアメリカ人よりも多く微笑み、嫌悪感を表さなかったという。
この実験に関して最も面白いことは、その実験の様子を収めたビデオがスローモーションで再生され、検討されたときに、初めて明確になった。そうした再生においてのみ観察できたことであるが、面接官が同席する場合、日本人の実験協力者は、実際、市最初のうち、刹那、アメリカ人と同様に嫌悪の表情を浮かべるのだが、その後たちまち1秒にも満たないうちにその表情を隠してしまうのであった。(『感情』ディラン・エヴァンズp.13)
同じ「情動」を日本人もアメカジんも感じるものであり、それは不随意で、自動的で、制御が効かないものである。が、その一瞬あとに学習性の表示規則が押し当てられる。 文化によって情動を表す規則があるということ。 もう一つ。 高次認知的情動というものがあるという。 それは大脳辺縁系ではなく、大脳新皮質の影響、つまり意識的で論理的な影響をより多く受け、より計算的に、文化的に処理される情動であるという。その分、大脳辺縁系で処理されるような「基本情動」よりもゆっくりと立ち現れ、ゆっくりと消えて行く。 この高次認知的情動の例として、愛、罪悪感、恥、てれ・決まりの悪さ、誇り、羨み、嫉妬が含まれている。 「ヤバい、逃げろ!」みたいな臨戦体制に入るための情動はもちろんあるが、例えばこんな情動が、馬にもある。 象も子どもが死んだら悲しむとか、動物にだって「情」がある。 人間に特有の大脳新皮質の一つ下にある、より古くからあり、動物と人間が共通して持っている大脳辺縁系にも、同様の「情」が隠されているのかもしれない。そして不安や恐怖ではない、私たちが「あたたかみをかんじる」情の多くは、それが「子育て」に使われているような気がするのだが。 ーー
心は高次認知的情動を働かせることで、命を守っている
ーー で、この高次認知的情動というものは、社会活動をするときに有効だという。罪悪感、誇り、嫉妬、妬み。例えばそれが「利己的」になりすぎることをいさめる機能を果たしたり、もっと「利己的」になることを促す機能を果たす。という。名詞にしてしまうと本質がつかめなくなってしまうが、情動とは、「心」の百面相に名前をつけていったものである。一人の人間の中には、社会的な生き方をするための様々な「自己」がいるとおもったらいい。 嘘をつくという社会的な行動がある。 それは「良心」からくるものもあれば「利己性」からくるものもあるだろう。 信頼、人と人の繋がりを円滑に、正常に、するための高次認知的情動がある。 一方で、利益を搾取するような、人を騙すような、利己的な情動もある。 利己性というものが、なんであるかはさておき。 例えば「復讐心(怒りの亜型)」というものがある。 もし理性的に考えて「結局、私は負けるのだから、戦うのはやめにしよう」とおもってしまえば、搾取され続ける、いじめられつづけるかもしれない。そこで、情動を解き放ってしかえしをすれば、結局は勝てなかったにしても、「あいつは根性あるやつだ。もっとひ弱なやつを探そう」ということになって困難を避けられるようになるかもしれない。不利益を与えた相手にも、不利益を与えようというのである。(ここのところは行動経済学の有名な「しっぺがえし」作戦と似ている。基本的に「利他的」な行動をしながら、「利己的」になった相手に「しっぺがえし」をすることで、双方よい関係を保つという作戦だ) 情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。 情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。 感情が適切に働くことで、人間は上手に社会化してこれたといっていい。 適切に、働くことで! ーーー ーーー 社会的に身についた、もしくは経験的に「学習性無気力」に陥った人たちは、「恐怖」「不安」によって「無抵抗」による利益を得ているようにおもう。たしかに。そうしてみんな、平和に(そう、平和に!)課題・テスト地獄の中に身を置いている。「闘争」もしくは「逃走」という選択肢がでてこない。平和の形も人それぞれだ。 ある意味で、従順でいることで、身を守っている。 ある種の感情を出さないことが「良い」ことだという刷り込みがなされる場合がある。 「不思議に思う」→「不思議をつきつめていきたい」→「けど誰もおもしろがらないし、大人は宿題をやれという」→「そもそも宿題をするので精一杯だから、不思議なんて感じない方が、心に負担がなくなる」 といったプロセスを辿っていき、「本気」になれるものから遠ざかる子どもたちがいる。 そんな中でも、自立心がある子は、自分で勝手に不思議を探究するかもしれない。 それはほんの一部の人間だ(そういう天の才を与えられた、ほんの、一握りだ)。 小中学校は「普通教育」の場であり、ほんの一握りの人間を育てるためにあるのではない。 ちなみに、「るろうに剣心」というアニメで、幕末、育ての親にいじめぬかれた宗次郎という人物が書かれている。 打たれて、泣いていると、もっと打たれる。打たれても笑っていたら、気味悪がられて殴られないことを発見し、「笑顔」以外の表情ができなくなった人として書かれている。これも「刷り込み」の一種。 ーー ーーー 情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。 情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。
情動には情動なりの固有の理性がある。 (『感情』ディラン・エヴァンズ)
ディランのいう情動に固有の理性を、EI(Emotional Intelligence)、感情知性と呼ぶこともできるでしょう。 IQとEQ EQとは、社会の中で自分のパフォーマンスを発揮する(天の才を生かす)ために必要な能力 新しい時代、IQよりもEQを大事にしたい件(感情知性は「知性」のメタスキル ) 知性なき感情(闘争心?征服心?)を育てるのが軍隊であり、 知性を持った感情(信頼・共感、そして時として「しっぺ返し」のスキル)を育てるのが学校である、と二つを対比してもいいと、僕はおもう。 人間を社会化・組織化する二つの選択肢だ。 ーーーーーーー ーーーーーーーー 情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。 情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。 感情という知性が、いわゆる「息詰まった」合理的知性の助けになる。 僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。 情動、というより、無意識のメッセージを体の変化から受け取る。その情動のプロセスを、大きくすることで、現在ぶち当たっているなにかしらの困難、繰り返されめぐりめぐる思考から抜け出すきっかけを得るというものだ。 考えてもしょうがない。 心に従ってみよう。心が、教えてくれる。 というものだ。 恋愛などもそうかもしれない。 夜なべしてラブレターを書く。 いやもう、書くしかない。 けど朝になってハッと読み返したら、というか恋文を書いたことを恥じたり、手紙を出すことを恥じらったりする。けれども情動として、もっと深いところにある心が、オモイが、やはり夜になると深まるのだろう。 そしてその手紙を出さなければ、前に進めないのが、恋愛である。 無用の苦しみに何年も耐えるより、さっぱりと愛を告白してみて、次のステップにいったらどう?と、心はのたまっているのである。 ーーーーーーーー
情動が指し示すものが「よい」ものかどうかを、検証していくことが人生
ーーーーーーーー だがしかし、情動のそうした働き(切羽詰まっている時の心の助け舟)が、裏目に出てしまうときがある。 結論だけ話すと、「良い気分状態で急かされた」時、人は騙されやすくなる。ということだ。 (『感情』ディラン・エヴァンズ p.123) 塾、教育業界で、種や仕掛けを用意しておいて、体験授業のとき、もしくは通常授業のとき、「これ、東大の問題だよ!」とか「ほら、できるようになったでしょ!」といって、褒めちぎったあとでその場で契約をさせられるとき、疑う方がいいかもしれない。(いや、できる「気」にさせて、モチベーションを高めて、本当に能力をあげてくれるのかもしれないけれど) 高次認知的情動をもった動物として扱われていると思ったらいい。実際、大部分、そうだし。 (保険会社の説明会の会場をたまたま見たことがある。路上パフォーマーを読んで、音楽を流して、楽しませて、契約をさせていた) 「正しい選択」のための合理的な判断など、到底できるものではない。 だからこそ、こうしたビジネスが成り立つ。 サブリミナルな(潜在的な無意識に働きかける)効果とまではいかないが、情動に訴えるこの手法に、みんなやられている。 買わなくてもいいものを、イメージで、「欲望をかりたてられ」買わされていることが、たくさんある。 偏差値、買いたい人、いませんか?進学高校や塾というファンタジーの世界で、たくさん売っていますよ。 ナチスの手法は、日本でもよく使われています。 無償化!教育県!学力一位!には要注意。 お子さんを、心のアウシュビッツに入れてしまっていませんか? ある意味で、新しい時代を生きる力を削いでいく学校教育は、社会的な犯罪ということもできる。(実際、法律を犯しているから、教育に関するいろんな法律がどんどん追加されていっている) 「集団心理」を利用した、(学力テストうんぬんで情報リテラシーのない人たちを騙す)マスコミを巻き込んだ、社会的な犯罪だ。(最近、ようやく「新しい時代」のための教育がマスコミに取り上げられるようになった) と、強く言ってしまったら、反感を買うかもしれない。 これは「教育とは何か」という哲学の話であるから。 そもそも、主張でもなんでもなく、僕一人のタワゴトだとおもってくれたらいい。 だって、自由経済だもの!言論の自由があるもの! けど、悪徳商法にはクーリングオフとかあっても、教育業界には、、、、ない! 時間と、お金が、もどってこないんです。 ーーーーーーー ーーーーーーー ある種の情動には「脅迫」「暴力」「支配」という行為が伴うかもしれない。 僕には「怒り」「嫉妬」という情動がその根底にあるように思える。 このような心に満ち溢れた場所があれば、戦うか、逃げるのが一番だとおもうのだが。そうだろう。 組織への「しっぺがえし」などなかなかできたものではない。。。 攻撃と報復の果てに、平和をみつけるのは、なかなか大変だろう。(復讐の連鎖が、どこかの国でまだ続いている) だから、そこに生きる個人は、逃げるという方法も、生きる場所を選ぶという方法も、自分の身を守る、大切なものを守るためには、とびきり上等な選択肢であるとおもうのだが。 ちなみに、最近読んだ本の中では、「怒り」を感じた時点で、バリ人は「眠る」という行動をとるという話があった。 が、インドネシアに滞在していたとき、どうみても、インドネシアの人たちが「怒り」という感情を持たないような気がして聞いて見た。答えはこうだ「僕らはね、怒ったらね、隣の村に戦争をしかけるんだよ」だそうだ。 冗談かもしれないが、そうらしい。 「眠る」か「武器をとるか」。 なるほど。 ーーーーー ーーー イスラム教の人たちは、常にコーランを読みながら、感情をマネージメントしている。 日本人も、ヨガやヒーリング、外食、ゲームなどで、感情をマネージメントしている。 けどどれも「感情と距離をとる」ことはできても、「感情と積極的に関わる」ことはしていない。 ブッダの仏教、瞑想、座禅は前者であり、 カウンセリング、演劇、対話は後者である。 ーーーー ーーーー 恐れというものが、とても強い人がいる。 恐れから派生するいろんな感情がある。嫉妬、妬み、不安、、、、 怖くなって、身が竦んでしまっている人がいる。 「今は無理だ。僕の中に恐れがある」ならそれを大切にしたらいい。 けど同時に、恐れとは別の情動がみつかるかもしれない。 どちらも平等に、対等に、感じてあげるといいだろう。 情動は心の百面相だ。 ひとつひとつに、言い分がある。 自分の持っている感情、情動のひとつひとつの言い分を、聞いてみるのもいいだろう。 僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。 ーーーー
心の仕組みが壊れた人は、他人の心も壊してしまう。
ーーー こういう先生が学校にはいる。 生徒4人を不登校にした先生が担任になったらどうするか。 「怒り」で生きている人間だ。 些細なことでクラクションを盛大に鳴らすイライラを募らせたドライバーと同じくらい、ストレスを抱えてしまっている先生がいる。 こうした理不尽な「怒り」に気がついて「ああ、私は疲れているのだな」とフィードバックが自分でできない人ほど、哀れな人はいない。もしこういった人に出会ったら、全くの他人でなく、少しでも情が湧いたなら、「疲れているでしょう?休んだらどうですか」と言ってあげてもいい。休めないのが、学校の先生であるのだが。 「良心」が届かない人もいる。 愛せないなら、立ち去るのもいい。 徳のある人間とは、情動を感じない人間ではなく、どの情動にも押し流されず、すべての中庸をいく人であるとおもえた。 情動が出てきた瞬間に、フィードバックをする人間。怒りに対して怒りで返さない。怒りに対して怯えで返さない。怒りに対して、笑いで返すことすらできる人。ある一つの感情だけを増幅させず、一度にあらゆる情動を感じられる人。ある意味で、宇宙的な広さを、心の中に感じている人。なんだか、気持ちがよさそうだ。 ちょうどいいバランスを、さがしていこう。 ーーーー
怒りの感情をマネジメントするために、怒りの感情を認める(抑圧しない)
ーーーー ところで、感情の学習、というものが、とても大切だと僕はおもっている。 保育士の先生は「怒り」の感情を伝えることがあるだろうか。「喜び」だけを伝えていないだろうか。 学校の先生は「喜び」を伝えているだろうか。「怒り」だけを伝えていないだろうか。 直接経験しなくてもいい。 ただ、映画とかではなく、現実に、こうした怒りや喜びを学ぶ機会があるともっといい。 それが、実は、芸能、芸術・演劇と呼ばれるものなのだが。 ーーーー ーーー 怒りの感情を加えられた時、怒りや恐れで返すことなく、哀れみの情をもって、笑顔で返す、という神業を使う人に出会ったことがある。怒りを怒りで返したり、怒りを恐れで回避すれば、相手の怒りは回収されない。またいずれ、怒りを加えられることになるだろう。 完全に逃げるか。 そうでなければ、笑いながら、その人の悪霊に飴玉をあげよう。 愛せぬ者からは、立ち去るがいい。 と、ツァラツストラが言っていた気がするのだが。気のせいだろうか。 ーーー ーーーー 感情と向き合う経験。 感情がでてきた後で、きちんと大人がフィードバックを返すこと。 「気締め」が必要なこともあるだろう。 そう考えると、子どもが関わる大人たちがみんな均一になってきているのも、末恐ろしいように感じる。 他者が感じている情動を見抜くチカラ、そしてそれに対してどんな情動で返すかという作戦をたてるチカラ。 それが、実は、EQと呼ばれているものである。(IQではない) ーーーー ーーー コツコツと積み上げれば、、、とか、長時間やれば、、とか、一生懸命やれば、、、 という「美徳」というものもある。 忍耐、耐え忍べばいいことがある、という美徳もある(日本はまだ戦時である)。 これもある種の情動といえるし、文化的な、歴史的な「心の作戦」といえるかもしれない。(心理学用語でスキーマといってもいい) 新しい時代、昔から使われてきた作戦を社会的にプログラミングされてしまった心を、アップデートしてみたら、楽に生きられる時代になるとおもうのだが。 いかがだろうか。 結局、今、誰かが向かい合おうとしている課題は、きっと、日本の歴史、日本という場所からの自立を意味するのではないか。 日本という場所、日本という歴史がつくってきた「感情様式」が、うまくいかなくなって、体がヒーヒーいっているとしたら。 今が、自立の時なのかもしれない。 ーーーー ーーー アニメで「サイコパス」というものがある。youtubeでもみられます。是非是非。 シキソウというものをリモートでいつもチェックされていて、「汚れてくる」と、「クリニック」へ行くように通告される。「犯罪者」を世の中に出さないようにするシステムで成り立っている社会を描いている。ぜひ、学校に取り入れてみてほしい(「サイコパス」映画版か特別版かなにかで、国家的な詐欺をして、「心の汚れた人たち」がそのシステムを悪用するという設定もあった。要するに、どんなシステムも、どんな道具も、人間次第。) 感情・情動が動く場所には、ドラマがある。 がんばれ!がんばれ! という言葉に、心がこもっていなければ、ドラマは生まれない。 多くの受験生は、心なき言葉に、亡霊に、呪いに、悩まされているような気がするのは、僕だけでしょうか。
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