習い事・公文・幼児教育・学校の宿題の意味と効果

自称進学塾オトノネ
  1. 胸に突き刺さる子供の言葉
  2. 「幼児教育」は残念な結果に『言ってはいけない 残酷すぎる真実 』
  3. 『幼児教育の経済学』ジェームズ・J・ヘックマン
  4. 「子供の願いを眠りこませる」保育園・学校・家庭?自然な発達とは
    1. 「しょうがいじ」も「けんじょうじ」も変わらない学校という暴力
    2. スプーンを練習する時期?
    3. ひらがなを練習する時期?
  5. 【横への発達】文字が「書ける」ことより大切なこと
    1. 文字が「書ける」ことより大切なこと
    2. 感情を訴える力と文脈形成力
  6. 子どもの願いとおとなの願い
    1. 「願い」のズレ
    2. 子どもは自立して、自己調整を試みている
  7. 大人が子供に駄々をこねるケース
    1. 一つの遊びしかしない?
  8. 机と椅子と独房と学校
    1. 学童期をせめぎ合いから学び合いへ【他者共感・自己共感】
  9. 【理不尽(狂気)への反応】言っても聞かないコドモに言い聞かせようとするオトナ
  10. 厳しさ
  11. お稽古事を「させる」ことは全くオススメしない理由
  12. 勉強ができない理由はお母さんのしつけと習い事?
  13. 保育園の太鼓隊考ーそれは「オトナの願い」
  14. 保育園もサバイバルな件(オトノネさん唖然)ー「あそび」という名の労働
  15. 賢いお母さんの「習い事」作戦。
  16. 経済と精神の言語学
  17. 躾(しつけ)ではなく気締め(ケジメ)が大切。
  18. 習い事を「させられ続けた」子どもの心ーコドモの願いに耳を傾ける
  19. 「私はバカなんで」という子
  20. 時代が変わった
  21. 人を信じない小中高生
  22. ドジョウを買うために必要なメタスキル
  23. 学校教育の「宿題(労働)・定期テスト(評価)・一斉授業(集団性)」より家庭教育の「自立心・個別化・社会性」を大切にしても大丈夫な法的根拠
  24. 教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
  25. 「稽古」と「習い事」の違いと「労働」
  26. 学童:厚労省:非認知能力 v.s. 学校:文科省:認知能力

胸に突き刺さる子供の言葉

ふと思い出したので書き留めておく。 ーーーーーーー

場面:三者面談、学校の教室。 目の前に教師がいて、母と子が隣同士で座っている。

教師「この子の成績だと、お子さんがこの学校に入るのは難しいですね。ご家庭でのご指導をお願いいたします。この成績だと、お子さんの将来が心配です」

お母さん「わかりました。この成績だと、私もこの子の将来が不安で、不安で。。。いい学校に入れてあげて、この子の将来の選択肢を広げてあげたいんです。この子のしあわせが、私のしあわせなんです…ねぇ、◯◯ちゃん?がんばろうね?」

(間)

◯◯ちゃん「私は今、しあわせよ。お母さんはしあわせじゃないの?」

「幼児教育」は残念な結果に『言ってはいけない 残酷すぎる真実 』

1964年にアメリカで黒人差別を禁じた公民権法が成立すると、リンドン・ジョン ソンの民主党政権は「偉大なる社会」を掲げて貧困との戦いに乗り出した。その中心に 据えられたのが、「ヘッドスタート」と呼ばれる貧困家庭の子どもの教育支援プログラ ムだ。経済的事情で幼児教育を受けられない3、4歳児にさまざまな就学支援をするも ので、連邦予算としては宇宙計画に次ぐ巨費が投じられてきた。 「すべての子どもが、親の所得にかかわらず、平等に人生のスタートを切るべきだ」という理念に反対するひとはいないだろう。だが問題は、ヘッドスタートに顕著な効果が 見られないことだった。幼児教育はたしかに子どもの学力を向上させるが、その効果は 就学後1年程度で消失してしまうのだ。(『言ってはいけない 残酷すぎる真実 』橘 玲 p.38)

『幼児教育の経済学』ジェームズ・J・ヘックマン

幼児教育の経済学

『幼児教育の経済学』ジェームズ・J・ヘックマン ペリー・プロジェクトで有名な人。

知識を得る前の彼らは「理解できない」赤ん坊に語りかけをしようなどとは思って揉まなかった。だが、彼らは、赤ん坊に話しかけたり、絵本を読んでやったり、歌を歌ったりすることが脳の発達を促進するのだと学ぶ。(『幼児教育の経済学』p.97)
貧困層の子供を救うための「秘訣」は、成功している公立学校の周囲にある中流階級のコミュウニティーに目をやれば、全国どこだろうとごく当たり前に見られる光景に隠されている。そうしたコミュニティでは、親が毎晩眠る前に幼い子供に好きな本を読んでやる。黒板の文字が見えなければ、親は子供に眼鏡を買ってやる。今晩は食事にありつけるだろうかとか、学校帰りに銃で打たれないかなどと心配する必要はめったにない。そうした一連の、あたりまえの事実が学校を成功させるのだ。(『幼児教育の経済学』p.99)
ベティ・ハートとトッド・リスレーは1995年に42の家族を対象にした研究で、専門職の艇で育つ子供は平均して1時間に2153語の言葉を耳にするが、労働者の家庭では1251語、生活保護受給世帯では616語だとした。これに対応して、三歳児の語彙は専門職の過程では1100語、労働者の家庭では750語、生活保護受給世帯では500語だった。(『幼児教育の経済学』ジェームズ・J・ヘックマン p.27)

ペリー就学前プロジェクト:低所得でアフリカ系の子供を対象に、30週間のプログラムを就学前まで午前中に毎日2時間半ずつ集団で。週に一回は家庭教師が90分の指導を個別に。 アベセダリアンプロジェクト:リスク指数の高い家庭の恵まれない子供を対象に4.4ヶ月から8歳までの全日 家庭学習の進め方を教えて、親の子育て能力を向上させると、どうなるか。

ペリー就学前プロジェクトでも、アベセダリアンプロジェクトでも、実験グループの子どもが対象グループの子供と比較して良い結果をエルというのが一貫したパターンだった。ペリー就学前プロジェクトの被験者になった子供は当初はIQが高くなったが 、その効果は次第に薄れて、介入が終了して4年経つとすっかり消えた。IQを高める効果が小さいことについては、他の研究でも認められtら。だが、IQ以外の主要な効果は継続し、非認知能力の向上もその一つだった。IQテストの結果は代わりなかったものの、14歳の時点で学力検査をしたところ、就学前教育を受けた子供は受けなかった子供よりも学校へ行っている率が高く、より多くを学んでいたことから成績が良かった。さまざまな社会行動についても良い影響が見られた。最終的な追跡調査(ペリー就学前プロジェクトでは40歳、アベセダリアンプロジェクトでは30歳)では、就学前教育を受けた子供は、受けなかった子供よりも学力検査の成績が良く、学歴が高く、特別支援教育の対象者が少なく、収入が多く、持ち家率が高く、生活保護受給率や逮捕者率が低かった。(『幼児教育の経済学』ジェームズ・J・ヘックマン p.32)
幼少期の環境を豊かにするという恩恵を受けられずに思春期に達した恵まれない子供のためには、どんな方針が効果的か? 幼いころに介入を開始すれば一層効果的だが、思春期に達した子供に対して効果的な策略もある、認知的スキルは幼少期に確立 され、重大になってから子供のIQや問題解決能力を高めることははるかに難しいことが、数々の証拠からシエされている。だが、社会的スキルや性格的スキルは別問題だ。これらのスキルは20台のはじめまで発達可能だが、学習を向上させることから、幼少期に形成しておくのが最善策だ。思春期お子供に対する戦略は、メンターによる指導や職場での教育を通じて、意欲や性格的スキルや社会的スキルを強化するべきだ。(『幼児教育の経済学』ジェームズ・J・ヘックマン p.39)
研究対象となった子供のIQはいずれも70から85のあいだであり、これは当時のミシガン州の分類では「教育可能と精神的欠落とのボーダーライン上にある」とされる値だった。(『幼児教育の経済学』ジェームズ・J・ヘックマン p.69)

いや、これらのプロジェクトは、「対照群」と比べたらいいかもしれないけど、平均からするとやはり「成果は全く、イマイチ」であるし、コストがかかりすぎた。集中的で、小規模で、高費用だった。もっと、効率的なプログラムが必要なのだ。

 

「子供の願いを眠りこませる」保育園・学校・家庭?自然な発達とは

発達の扉 子どもの発達の道すじ
『発達の扉 子どもの発達の道すじ』

「しょうがいじ」も「けんじょうじ」も変わらない学校という暴力

障害をもった子どもたちのなかに、相手の意図に従属する傾向を次第に強め、相手の指示のことばがないと、自分からは行動を起こせないほどの指示待ちになることがあります。また、まったく逆に登 校したら必ずテレビを見ないと気がすまないというような「同一性保持」 が強く、相手の意図を受け入れる構えがみられないこともあります。い ずれにおいても、自分の意図と相手の意図を心のなかで並べて調整する ことがむずかしいのです。このような傾向は、自閉症の子どもたちに特徴的に現れます。

まずたいせつなことは、子どもの意図を眠り込ませないということで す。生活のなかでワクワクドキドキするような活動をたいせつにして、 期待のもてる日課があるでしょうか。それが「○○したい」という意図 を育てるために、基本的でたいせつなことです。一方で相手の意図を受 け入れにくい子どもたちは、まず自分の意図が受け入れられているとい う安心感が必要です。しかし、子どもの意図を受容しきることで終わっ ては、この弱さを改善することにはなりません。相手の意図を受け入れ る受け皿は、自分のことが自分でできた、おとなと同じ仕事ができた、 むずかしいことに挑戦してはじめてできたというような良き自分の蓄積 のなかで、次第につくられていくようです。つまり、相手の意図を受け入れるためには、自らのなかに一定の充足感や自己肯定感が必要なので す。たとえば、うまく言いたいことが伝えられた、上手にクッキングを やり上げることができたなど、新しい経験のなかでの達成感を得ると、 不思議に日課の変更などを受け入れられることがあります。(白石正久『発達の扉(下)』p.53)

スプーンを練習する時期?

これまでの発達の研究で、ある力が獲得されていく時期(年齢や月齢) は、ずいぶんわかってきました。たとえば、スプーンを子どもが使おう としだすのは、ふつう生後10か月ころです。そして、手首をまわして道 具らしく使えるようになるのは、1歳なかごろだといわれています。その時期には、おとなが使っているさまざまな道具への興味がふくらんで いきます。この事実を学んで、今がその使用を指導すべき時期だとして、 一生懸命子どもの手をとって、スプーンの使い方を教えたとします。結 果として、スプーンがじょうずに使えるようになるでしょうか。なる子 どももいるかも知れません。しかし、単にスプーンがじょうずに使える ようになったというだけのことであって、その他の道具もじょうずに使 えるという広がりをもって、子どもに獲得されていないかもしれません。 むしろもっと起こりうるのは、そうやって手とり足とり教えたら、子ど もはスプーンを見るのも嫌になってしまうことです。

スプーンが使えるようになる時期は、道具の操作が獲得されていく段 階であるとともに、なんでも自分で手を出してみたくなり、自分でして みたくなる段階でもあります。それは、おとなや友だちの使っているも のへの憧れの心が強く強く高まっていく段階なのです。そのとき、子どもはおとなとの関係で受け身にされるのをもっとも嫌います。単に道具 の操作の力が獲得されつつあるからといって、手とり足とりスプーンの 使い方を教える指導をしたのでは、スプーンが使える力を本当に導くことにはなりません。むしろ、スプーンがじょうずに使えるようになるた めにたいせつなことは、このような憧れの心と他者あるいは道具に合わ せて自分の手の活動をコントロールしていく力を育てることです。

「発達を学ぶと子どもが見えにくくなる」というのは、「○○がいつ できる」というような事柄だけを知り、できるようになるまでの、目に 見えない世界での子どものたいせつな変化に、視点が及ばないために出てきた問題ではないでしょうか。(白石正久『発達の扉(上)』p.18)

 

ひらがなを練習する時期?

あるいは、ひらがなの指導は、ある発達心理学の説によれば、5歳な かごろが適切であるとされています。これは、それまでのとにかく書い た気分になりたい「ごにょごにょ書き」に代わって、ひらがなを正確に 書こうとするようなモデルを求める心のはたらきが強まるからだそうで す。もし、本当にひらがなを覚え正確に書くための適期が5歳なかごろ であるとしても、この時期にひらがなの「書き」の系統的指導を開始す べきでしょうか。私は、否と考えています。この時期に書きの指導をし てしまうと、文字の選択や正確な形、たくさん文字が書けることにこだ わり、何を伝えたいのかという伝達すべき内容をつくり出す力が、細くしか育たないのではないかと懸念するからです。むしろ、お絵描きやお 話で、自分の経験をすじ道立てて伝えようとする力を爆発させてあげた いものです。したがって、発達心理学でとらえられた事実でも、その時 期に指導を開始すべきかどうかという認識には直線的に結びつかないこ とがあると、私は考えているのです。これも、「発達を学ぶと子どもが 見えにくくなる」例かもしれません。発達の学問から教育が自立して、 子どもにとってたいせつな力は何かを考える力をもたなければならない のです。いずれにしても、発達を学んだことが、子どもの外にこうある べきだという物差しを作ることにつながると、子どもをその目で見、追 い込んでしまっている自分に、いくつかは気づくようになるのです。

発達の学問が教育に生かされる道を探るためには、人間はどうやって発達していくのかというたいせつな問題に目を向けなければなりませ ん。結論を急げば、発達は、あくまでも子どもの願いによって、発展の 過程を歩むことができるのです。「自分も○○したい」、「自分も○○で きるようになりたい」という子どもの願いがないならば、本当の発達の 力は獲得されていかないのです。この願いが実現したところに「できな いことができるようになる」という能力の獲得がなされていくのです。 つまり、発達の主人公は、この願いをもつ個人、子ども本人なのです。 発達の主体は子ども本人だということです。だから、子どもが「○○し たいなー」とか、「○○できるようになりたいなー」という願いをもち、 その実現のためにがんばれるように導くのが保育・教育のしごとです。(白石正久『発達の扉(上)』p.18)

 

【横への発達】文字が「書ける」ことより大切なこと

子どものねがい・子どものなやみ―乳幼児の発達と子育て
『子どものねがい・子どものなやみ―乳幼児の発達と子育て』

リッチネスとは、どうやら、上に向かうのではないこと、のようだ。

もちろん、上には向かっているのだけれどもね!

文字が「書ける」ことより大切なこと

すじ道を立てて考え、表現する力が芽生えてくると、「書きことば」の土台がつくられはじめます。「書きことば」は、「すじ道立てて考え、表現する力」が土台になり、表現したいこと、伝えたいこと、そして伝えたい相手がいて、はじめて必要になり、獲得されていくのです。それゆえに、この「すじ道立てて考え、表現する力」を文脈形成力ということがあります。

文脈形成力が獲得されはじめると、ひらがな五〇音の指導があれば、短い文を書くことができるといわれています。さらに、この五歳の中ごろは、それまでの「ゴニョゴニョ書き」といわれる、それらしく線をかいて、文字がかけたつもりになっていた時期を卒業して、「おかあさん、『さ』ってどう書くの」などと教えを求めたり、新聞広告の文字に見人りながら、模倣したりするでしょう。正確にそしてじょうずに書きたいという新しい願いが、生まれてきているのです。だから、この時期は、ひらがな指導の一番いい時期だとの見解もあります。

しかし、ひらがなの読み書きが、イコール書きことばの力なのでしょうか。ひらがなは しっかり読めたり書けたりするのに、作文が書けないで辛い思いをしている子どもが、少なくないのは、なぜでしょうか。それは、もっとたいせつな、この文脈形成力が、十分太っていないからではないでしょうか。もし文字の世界だけを急いで与えると、「はなしことば」や「描く」という表現手段を使って、いっぱいいっぱいすじ道をつくることを楽しむべき時期に、ひ弱なすじ道しかできない、心のなかのことばの弱い子どもになってしまわないでしょうか。むしろ、心のなかのすじ道をつくってあげることが、たいせつなのです。三歳ごろの「マルのファンファーレ」で紹介したように、発達には上に引き上げることを急がないで、じっくり、その芽生えたばかりの力を広げていく、「横への発達」の段階があるのです。このすじ道立てて考え、表現する力の芽生えのときには、子どもは、おとなが求めたわけではないのに、迷路を書くことや地図を書くことに喜びを見出し、たくさん書き連ねてくれることでしょう。自ら、新しい力の芽生えを喜び、それを爆発させようとしているのです。

とくに、障害児教育では、このひらがなの読み書きを急ぎすぎる傾向があります。結果として、いつまでたっても、ひらがなの読み書きはできるのに、文が自発的に書けないと いう、発達のつまずきを引きずることがあるのです。 「すばらしい障害児教育の実践は、子どもの心のなかに入って、子どもの興味の世界をたいせつにして、子どもと同じ目の高さで、心の窓から外の世界をのぞきます。そうすると見えてくる、おとなでも楽しい世界があるのです。

トラックばかりながめている子どもでも、同じ心のポジションでいっしょにながめてみると、見えてくる楽しいトラックのしごとの世界。大きいトラックに感動して発せられた「怪獣トラック!」などという子どもの ことばに、おとなもいっしょに感動できることでしょう。子どもは、そうやって同じ心の 窓からのぞいてもらうことによって、自分を受けとめてもらっているという、確かな受容 感、安心感をもつことができるのです。そうやって、なにげなく発せられた子どものこと ばが、感動をもって受けとめられるとき、ことばは、子どもにとって、価値のある、特別にたいせつな存在になっていくのです。そのことばを、「口頭詩」、「口頭作文」などにして、先生は子どものために残してくれることでしょう。 (白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.185)

感情を訴える力と文脈形成力

友だちどうしのけんかのない日が、いったい何日あるでしょうか。 せっかくつくっていた砂の運河を友だちが崩してしまいました。思い入 れがあっただけに許せません。自分のつくったものへの愛着は、何より も大きいのです。だから、間をおかず手が出てしまいました。しかし、 4歳までのけんかのように、そのまま取っ組み合いになるわけではあり ません。「時間がかかったんやぞ、朝からつくっとったんやぞ、自分の つくったもんはだいじにするくせに、人のつくったものをこわしたら、 あかんやんか」と泣き声をこらえながら、言い続けるのです。

なんとか自分の悔しさを訴えようと、必死の思いでことばを選んでい ます。衝動に満ちたことばのなかにも、一生懸命悔しさを表現すること ばを探そうとする文脈形成力が隠されているのです。理屈を探す5~6 歳児です。

文脈形成力は、伝えたくなる楽しい経験に満たされた生活ばかりでな く、こんな悔しさに満ち、悔しさを訴えたくなる刹那のなかでも、確実 に発展します。いわば、伝えるべき感情生活があること、これが文脈形 成力のエネルギーになるのではないでしょうか。けんかは叱ることからはじめてはいけません。おとなは、子どもから の感情の流出をせきとめてはならないのです。「言いたいことは、何で も先生に言ってごらん」、そんなことばをいつでも用意していたいものです。(白石正久『発達の扉(上)』p.231)

子どもの願いとおとなの願い

大人の願いとは?


大人の願いは、「しつけ」に限りません。

「特別支援教室に行ったら、将来、お嫁にいけなくなる」と相談にきたお母さんがいました。

将来の心配をしている、優しいお母さんであると同時に、目の前の子どもが何を求めているのか、何を感じているのかを理解できずに困っているお母さんでした。

子どもの将来を心配して「ラッピング」をして弱っていく「命」があります。

 

「願い」のズレ

「命」が望んでいることに気づかずにいれば、袋詰めにされて呼吸ができなくなった野菜のように、その子の「心」も弱っていくでしょう。

 

生後一○か月ころから生まれた「生活の主人公になりたい心」は、ますますその願いを強いものにしていくことでしょう。自分の手で食べたい願いにとどまらず、パンツも自分 で履こうとするし、エプロンも自分で被ろうとするし、お片づけにも自分で挑戦しようと するでしょう。手伝われるのがいやで、何でも自分でしないと気がすまなくなるのです。

この時期、子どもはなんでこんなに、自分ですることにこだわるのでしょうか。そしてこの時期は、子どもだけではなく、おとなも、子どもの身辺自立にこだわる時期でしょう。衣服の着脱も、排泄も、そして食事のマナーも、少しでも早く身につけてほしいし、実際一歳児はそれが可能な発達段階なのです。でもちょっとおかあさんが、急ぎすぎていないかなと感じる「しつけ」の姿を見ることがあります。たとえば、あるおかあさんは子どもがせっかく靴の片方を履いたのに、「もう一つも履かないとダメよ」とすぐ言ってしまいます。せっかくたくさんのおもちゃを片づけたのに、「ぜんぶ片づけなければダメ」とすぐ言ってしまいます。おとなは子どもの将来のことを思って、少しでも早く身につけてほしいと願っているのです。では、子どもも自分の将来のことを考えているのでしょうか。そんなことありません。

このおとなと子どもの「ずれ」に、育児や保育・教育の本質がよくあらわれています。 おとなの子どもへの願いと、子ども自身の願いは、必ずしも一致するわけではないのです。子どもの意図(願い)とお となの意図(願い)のあい だにある「ずれ」。そこがたいせつです。最近は、保育や教育において、子どもの心に寄り添うことのたいせつさが強調されています。しかし、けっして、何でも子どもの願いをかなえてあげるような寄り添い方をすることが、よいのではないでしょう。

おとなが子どもの将来を見通して、その将来に責任をもち、人生と歴史の先輩として、子どもを方向づけ、導いていくのは当然のことです。しかし、その導き方が、子どもにも自分なりの願いがあるのだということを知り、その願いとおとなの願いをうまくより合わそうとする、ふところの広いものでなくてはならないと思います。そのより合わせ方を考えるために、そして、子どもにもより合わせる力をはぐくむために、この一歳代はとてもたいせつな発達段階ではないでしょう か。ともかく、子どもの願いのなかに入ってみましょう。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.82)

 

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子どもは自立して、自己調整を試みている

あるいは、「給食が終わったら、お馬さん(木馬)に乗るんだ」というように、みんなでいっしょにがんばった後に、自分の見通しで世界をつくろうとするでしょう。もちろん一歳代は、「みんなでごちそうさましなくちゃだめ」ということがたいせつな時期ではなく、見通しの主人公になって生活をきりひらくことが、たいせつな時期なのです。その子どもなりの見通しできりひらいた時間や空間は、子どもが主人公になれる楽しい遊びの場です。そこでは、ままごと道具で生活を再現しようとしたり、大型遊具に挑戦しようとしたり、子どもなりの生活のイメージや得意な遊びの広がりを垣間見ることができるでしょう。

そして、みんなといっしょにがんばったから、今度はゆっくり一人で楽しいことをしたいというように、自分なりの見通しをもって、生活のメリハリをつけようとします。そこには、緊張と弛緩とでも表現するべき、心のバランスを無意識にとろうとする姿があります。つまり、先生の願いが強く支配している場面でがんばったら、今度はその緊張を自分の願いで解放したいというような、子どもなりに自分を安息させる生活の流れが、自然につくられていくのです。そこでは、子どもは時間の主人公になっています。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.88)

大人が子供に駄々をこねるケース

ゲームをやりすぎて困る、というお母さんがいるとしよう。

ゲーム以上に魅力的な世界が、子供にあるだろうか?

麻薬に染まった人がいるとしよう。

麻薬以外によりよい世界を見せることができるだろうか?

「大人」と「子ども」という言葉が、差別用語になることが多い気がする

人として子どもを理解できない大人は、子どもだとおもう。

全ては理解できない。理解しようと努めること。

子どもという他者とのコミュニケーション。

尊厳あり一人の人間として。

 

「ひと」と「ひと」か、「健常者」と「障害者」か【発達障害という「差別用語」をめぐって】

一つの遊びしかしない?

多動さはなくとも、同じような発達障害がみられることがあります。 たとえば、二つ以上の玩具を出してあげたのに、いつも特定の一つの玩 具にしか手を出さず、そのおもちゃで世界を閉ざすように遊んだりしま す。あるいは、どちらの手も使えるのに、決まって一方の手にしか持た ず、もう一方の手に持ち替えることなく遊ぶこともあります。手に持っ て遊べるなら、その力は明らかに乳児期後半の発達段階である生後7か月頃からの特徴です。しかし、その時期に獲得されるべき「もう一つ」 を求める力や「もう一つ」の手で遊ぶ力が、発達していないのです。

このようなとき、おとなは子どもが世界を閉ざすように遊んでいる玩具を取りあげたくなります。しかし、そうしても子どもがいろいろなものに手を出して世界を広げるきっかけにはならないでしょう。むしろ、 子どもはイライラし不安定になります。使わない手に、わざと持ち替えさせても、子どもは決まって元の手に持ち直してしまうでしょう。

むしろ、おとなが提示する「もう一つ」のものが、子どもにとって十 分魅力的かどうかが問われているのです。本当に欲しいものなら、今遊 んでいる玩具を自発的に放し、「もう一つ」に手を出してくれるはずで す。そして、その魅力的な「もう一つ」を使わない方の手の側に提示す ると、その手でつかもうとするでしょう。また、もとの玩具に戻ってし まうかもしれませんが、からだでの「行き一戻り」と同じに、手での「行き一戻り」がみられることでしょう。順序だてて「二つのもの」を 受け入れる力は、このようななかで育ってくるのです。(白石正久『発達の扉(下)』p.48)

机と椅子と独房と学校

学童期をせめぎ合いから学び合いへ【他者共感・自己共感】

正直、多くの学校は一人一人を孤立させてただ効率的に勉強させるだけの近代式の工場です。

最近、校則をなくす、宿題をなくす、といった「自然な」学校が増えてきてよろこばしいのですが、その他の多くの学校は集団でいることによって学びうるものを学ぶ仕組みが、「学び合い」ではなく「責めぎ合い」になっているのが実情ではないでしょうか。

 

ティーンエイジャーにとって、学校生活は人生の中心部分を占めている。これは、仲間はずれの結果が示すように危険な側面でもあるが、反面、有望な側面でもある。ティーンエイジャーにとって、学校は他人と肯定的関係を結ぶための生きた学習の場にもなりうるからだ。 「アロンソンは、この課題に挑戦しようと考えた。社会心理学者として、アロンソンは「彼ら」から 「我々」への変化をうながすひとつのきっかけを知っていた。敵対する集団に属する者どうしが共通 の目標に向かって努力するとそのうちに関係が好転する、ということだ。

そこで、アロンソンは「ジグソー学習法」を提唱した。グループ分けした生徒たちにある課題を与 えて学習させ、その成果をテストで評価するのだが、グループのメンバーは各人が別々のテーマを学 習したのちにそれぞれの学習成果を持ち寄ってジグソーパズルのように全体を完成させる、という方 法である。たとえば、第二次世界大戦について学習するとしよう。グループの一人がたとえば「イタ リアの軍事作戦」という分野を専門に学習することになったとすると、その生徒はこのテーマを学習 する他のグループのメンバーたちと合流して学習を進める。そして、そのあと、自分のグループに戻 って他のメンバーに自分が学習してきたことを教えるわけである。

テーマを理解し習得するためには、メンバー全員が発表者の発言にしっかりと耳を傾けなくてはな らない。発表者が気に入らないからといって発表を妨害したり話を聞かなかったりすれば、そのあと のテストでよい成績がとれない。学習行為そのものが傾聴、尊敬、協力の練習になるわけだ。 – ジグソー学習グループに分けられた生徒たちからは、すぐに否定的な固定観念が消えた。また、多 様な文化的背景をもつ生徒が集まっている学校で実験した結果、ペティグリューが予言したように、 対立するグループに属する生徒どうしのあいだで友好的接触が多いほど、偏向が小さくなった。

五年生だったカルロスの例を紹介しよう。カルロスは、ある日突然、自分と同じメキシコ系アメリ カ人の子供たちが多く通っていた小学校から、街の反対側の裕福な家の子供たちが多い学校に通わされることになった。新しい学校の子供たちはどの教科でもカルロスよりはるかに勉強が進んでおり、 カルロスの訛りをばかにして笑った。カルロスはたちまち「アウトサイダー」になり、引っ込み思案 で不安の強い子供になった。

ところが、ジグソー学習法が実施され、それまでカルロスを笑いものにしていた生徒たちもカルロ スが伝える専門分野の発表に耳を傾けざるをえなくなった。初めは、皆からたどたどしい口調をばか にされて、カルロスは何も言えなくなってしまった。その結果、グループはテストでひどい成績をと った。すると、他の生徒たちはカルロスを助け、励ますようになった。皆が協力的になるにつれて、 カルロスはリラックスし、うまく発表できるようになっていった。

数年後、突然、アロンソンのもとに大学の卒業を控えたカルロスから手紙が届いた。手紙には、あ のころカルロスが学校をどれほど恐れ、嫌悪していたか、どれほど自分はバカだと思っていたか、他 の生徒たちがどれほど意地悪だったか、といったことが書かれていた。しかし、ジグソー学習法が始 まると状況が一変し、自分をいじめていた連中が友人になった、とも書かれていた。 「やがて、ぼくは勉強が好きになりました。そしていま、ぼくはハーバードのロースクールに進学し ようとしています」(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.451)

【理不尽(狂気)への反応】言っても聞かないコドモに言い聞かせようとするオトナ

むたらやったらめったら怒られる人がいる。 怒られ尽くしている子がいる。 怒られるのは、気分のいいものではない。ストレスだ。 「怒られているだけマシだ」とかいう狂った大人がいるからしょうがない。 怒りを聞き流す、何度言っても聞かない、というのは、伝え方、関わり方が不健全なのではないかと僕はおもう。 (勉強も同じ。成果が出ない方法を繰り返えしやらせる大人が多すぎる。勉強しなさいが口癖になっていませんか) わかるまで言い続ける、ということが「効く」のは、信頼関係がある大人の言葉に対してのみ。 ーーー

ーーー ある言葉に反応してしまう。 ある感情に反応してしまう。 ある子は「ストレスを減ら」そうとする。当然、狂った大人から心を守るために必要なことだ。 例えば聞き流すとか、その場は「はい」というとか。言い訳ができるように繰り返すとか。(狂った大人に対する正しい反応ともいえる) けど本当にお互いに成長するのであれば、もっと別の反応の仕方ができるだろう。(学びの信頼関係がないとできない) 別の子は「どうしていいかわからず」にただ感情をもんもんとさせているかもしれない。 ストレスが来たらどう反応するか、、、それこそ、学ばなくてはならないものだ。 例えばおもいっきり遊ぶとか、食べるとか、散歩するとか、寝るとか。もしくは愚痴る、喋る、楽しいことをする。(その中に、ゲームも入っているかもしれない笑) 感情との付き合い方を決める心の働きを、感情知性とか、非認知能力とかいう。 ーー

ーー 反応の仕方は時代が違えば変わるもので、今ならネットで全世界の人と、日本中の人とつながることができる。 子どもがそっちの世界で「感情処理」を行う生き方を、大人が認めてもいいのかなとおもう。 そっちの世界を広げてみたら、案外、大人だって楽しめるかもしれない。 そういう対等な関係に、大人と子どもを置いてみたら、子育ては楽しくなるかもしれない。

厳しさ

いうことを聞かなくて困る。という時がある。 寝る時間なのに寝ない、次のことをしたいのにしたがらない。とか。 任せるというのが基本であろうが、あそびたい、というので眠らなかった二人の子ども。じゃれあっていた。 そこで見ていると、、、とある先生がやってきて、さばさばした感じでさも「当たり前」のように二人に「寝ないならおふとんいらないね」「となりどうしでねたいっていうから二人となりにしたんでしょ?」「ねるの?」といって二人の寝る場所を少し移動して、ビシッと二人の間に入って、寝かせた。 寝た!びっくりだ。 子どもを寝かせようとするときに、揺さぶったり、背中を叩いたり、音楽をかけて見たり、部屋を暗くしたり、いろんな配慮、導きがある。「厳しい」と思えるようなこういう振る舞いも子どもが「けじめ(気締め)」をつける経験になるんだろう。 自分のレパートリーにない反応を子どもがするとき、いつもあわててしまう僕は、こういう対応をひとつひとつみながら勉強している。 ところで、そもそもお昼寝が必要なのか、という議論もある。統計によれば、過半数の年中、年長児は土日に家で昼寝をしてイナイという。お昼寝の時間は、事実、保育士さんが記録をとるために必要な時間で、大人の都合で設けられている場合が多い。お昼寝をしない子どもを受け入れる体制は「小学校に上がる前、年長児の最後の半年」に限られている。

お稽古事を「させる」ことは全くオススメしない理由

実は放課後に居場所がなくてお稽古事を「させる」お母さんたちが多いらしいのだが、お稽古事を子どもの能力を高めるためにさせているというお母さんにこの記事を役立ててほしい。

お稽古事をすることは悪いことではない。ただ、お稽古事のなかで感情に触れる機会がどれだけあるかだ。そして感情を整理するレッスンを大人が提供できているかだ。「また練習してこなかったの!」とか「次のレッスンまでにこれをやってきなさい」という宿題を出すだけなら、そのレッスンの時間、子どもは「社交性の砂漠」をさまようことになる。水泳教室、体は鍛えられるかもしれない。そこで人間関係にどんなドラマがあるだろう?どんな感情に、子どもは出会うだろう?泳げるようになった喜び、なるほど。級が上がった喜び。なるほど。素晴らしい。では、だれかの心、自分の心と向き合う時間は?人間関係の「未就学児」になりはしないか。時間は限られている。

お稽古事の時に困難さを感じて、それを大人が助けてくれて、できるようになることで子どもは自信をえるかもしれない。けれどもそれが「人間関係のドラマ」を生むか。「個人的なドラマ」との違いを考えた時、「することが決められている、管理されている時間」であるお稽古事でない、何が起きるかわからない暮らしの一部のなかにある「あそび」の時間の価値を、感じられないだろうか。

「何ができるの?」ではない。それが「あそび」の世界である。 「かけっこしたの」かけっこをしながら、ルールを守らない子、新しく入ってきた見知らぬ子との駆け引きがある。 「おにんぎょさんごっこしたの」ごっこあそびをしながら、相手のもっているストーリーを読み、自分も合わせ、相手に自分のストーリーも伝えようとする。

大人の世界、「すること」に満ち溢れた世界と、子どもの世界、「あそぶこと」の価値を感じられないだろうか。

「あそび?将来何の役に立つ?」この問いにはっきりと答えよう。「あなたのいう遊びは、ゲーセンにいったり、カラオケにいったりして気晴らしをする、ストレスを発散することをいうのですか?それなら、その遊びは、息苦しい世界の中で息を抜く、ストレスから身を守る大切な行動です。小さい子どもが夕ご飯の時間になっても帰ってこない遊びは、子どもが自分の心と向き合い、感情の起伏や人間関係を解決していく学びの時間です。子どもの遊びにあなたも参加してください。あなたは、感情の、人間関係の、心のレッスンをする先生です。どうしていいかもわからず、世界でよろこびをみつけようとして泣いている子どもを手助けする人が、あなたでなくて、誰なのですか?あそびは問題解決の能力や持続的な注意力を養います。社交能力を促します。そろばんが上手く弾けるようになって、どうしてその子が誰かと一緒にいて笑いあえる、しあわせな子になるのですか?与えられた課題をやる行為を教わって、本当に目の前にあるものを見る能力、感じる能力が育ちますか?創造力、発想力を鍛える習い事が「あそび」の他にありますか?」

「できる」子を育てようとして、人間の中心にある心を育てることを、忘れないでほしい。子どものあそびを拡大する大人になろう。大人ももっと遊ぼう。心が宿っている振る舞いを「あそび」という。

習い事を見直してみてほしい。例えばサッッカーをやっているとしよう。「サッカー、やめたい?」と聞いてみたらいい。「やめたい」と言ったらやめたほうがいい。もし「いやだ、サッカーやりたい」といったら?もしかしたら好きな友達がいるから、サッカーをしたいのかもしれない。サッカーが好きなわけではないのだ。サッカーで遊んでいるわけではないのだ。その場合、サッカーの練習は決められたことをこなす作業だ。学校と同じだ。友達がいるから、学校に行く。習い事に行く。子ども同士が出会って遊ぶ環境がない世の中になってきた。みんな習い事に行くからだ。お母さんたちも習い事をしなければ、友達づきあいができないようになったのかもしれない。この時代の変化に、私はぐちぐちいわずに、私なりに、子供の居場所をつくっているつもりなのだが。

パズルがある。もともとパズルなんておもちゃはなかった。目隠しをして顔をつくる「ふくならべ」はあった。あれは、どんな結果がでても笑える。上手くやることではなく、楽しむこと、コミュニケーションができる。それに比べたら、パズルは「できたかできないか」の結果に向かうしかない。この点、パズルはおもちゃとしてあまり好ましくないかもしれない。遊び道具としては、二流品といえるかもしれない。(パズルが噛み合う喜びを共有する?)パズルの取り合いをしている時の方がより多くを学べる。知育ゲームをしているときよりも、ゲームの音量が大きすぎてうるさいからちょっと音小さくしてよと言われた時のドラマの方が、多くを学べる。子どもは成長しながら、遊びの質を変えていく。どんどん複雑になったり、奥深くなっていく。子どもには不可能なテレビゲームがあるだろうか?(格闘ゲームの複雑なコマンドを入れることくらいか?いやいや、対戦ゲームで、心理作戦を使うゲームだってある。ゲームは人間の遊びの世界をプログラムしている。そういえば、私は中学生のとき、パソコンのチャットを通じて、キーボードを早く叩くことを覚えた。チャットのおかげで私はパソコンに親しめた。ゲームが人を救うこともあるだろう。要するに、道具は使う人間の心次第。)

遊びは支持のない世界、支配のない世界、人間と人間が人間らしく関わりあうドラマ溢れる世界だ。子どもだからこそ、まだ柔らかい頭で、やわらかい心で、しあわせの経験をたくさんしていってほしい。

イェール大学の教授で、著名な学者であるドロシー・シンガーはこう言う。「子どもたちはごっこ遊びを通して、なりたいものには何にでもなれるし、行きたいところにはどこにでもいける。ままごと遊びをしている子どもたちは、さまざまな感情に対処する方法や、混沌とした大きな世界を、自分にも対応できるこぢんまりした規模に縮小する方法を学んでいるのだ。仲間同士でものを分かち合ったり、順番待ちをしたり、協力しあったりすることは、社会性を身につける学習となる。遊びはまた、新しい言葉を覚えたり、問題解決のコツを学んだり、物事に柔軟に対応する方法を学んだりする良い機会になる。そして何よりも大切なのは、子供が単純に楽しんでいるという事実なのだ」(『子どもの遊びは魔法の授業』p.342)

小さな子どもにとっては、歩くことも遊びになる。あたりを見回しながら、昨日にはない発見をしていく喜び。それを友達に話して、次のドラマが生まれる。(「俺、次のステージいったんだよ」「マジで?どんな敵がいた?」「あのアイテムとらないといけなかったんだけどねー」「どこにあるか教えてよ!」みたいな会話をドラマというなら、ゲームも立派な遊び空間だ。ゲームはごっこあそびだ。協力して敵を倒すこともできる。だからこどもはゲームにハマるのだろう。喜びが感じられない実世界よりかは、かなり楽しいはずだ。)テレビゲームをするんだったら、お金稼ぎゲームをしたほうがいいとおもうのだが??

習い事を「させる」、大人自身の心を知ることを、まずはしたらいい。不安で不安で仕方なくて、どうやって暮らしたらいいかわからず、マスメディアの情報を頼りにして、「シアワセ」になってほしいと願っているのかもしれない。マスメディアを信用しなくてはならないほど、心が締め付けられて苦しんでいるのかもしれない。

人に恵まれること以上に、世界を美しく彩る心以外に、しあわせになることってあるんだろうか? ここで、とある子の書いた「私の家族」という作文を思い出す。(しあわせとは、感じる者だということが、よくわかる、小学生の書いた作文だった)

勉強ができない理由はお母さんのしつけと習い事?

かもしれない。 いやもちろん、学校で先生が子どものペース、子どもの気持ちをみずに「みんな一緒」にやるから勉強ができないケースがほとんどだが。 よくあるのが、子供が何かするたびにお母さんが「だめ」「こうしなさい」というパターン 言っても聞かないということは伝わっていないということで、繰り返し繰り返し言い続ければいいというものでもない。 だって繰り返し言って来たのに、その子はいうことを聞かないのだから。 子どもは箸の持ち方を学ぶ。 子どもはトイレの仕方を学ぶ。 子どもは、ご飯を自分で食べることを学ぶ。 どうしてか。 周りの大人をみて、真似たいと思うからだし、お箸の持ち方ひとつ、自立心さえあれば、自分である程度は学ぶ。困っている様子だったら、教えてあげるのだ。そのくらいの、おおらかさがあった方が、たくさんの幸せを育てられるのではないかとおもう。憧れて学ぶ。もしくは、できないのが悔しくて、学ぶ。 もし挑戦する気持ち、憧れる気持ちがないとしても、関わりかたで新しいことが増えることは子どもにとって楽しいはずだ。 と、僕はおもっている。 勉強しなさいというのも、同じ。 考えること、新しいことを知り、深めていくことなのに、特になんとも思わないことでも宿題がたくさんでて「やらされる」。 何度勉強しなさいといっても、しない。 けど本当は子どもは学びたがっている。 キラキラしているものがあれば。 キラキラしているもの? きっとゲームだろう。 おもしろいものが、子供のまわりからどんどんなくなって、残ったのが、ゲームだとおもったら、悲しい。 小さい時、お母さんにはたっぷり愛情を注いでほしい。子どもの小さな成長に、学んでいく姿に、毎日気づいてあげてほしい。 家庭でできること、お母さんにしかできないことがあるはずだ。 しつけはお母さんのすることではない。(例えば、おもちゃはいくらまで!とかしつけではない。ここらへん、区別!) しつけるエネルギーを、思いやりに変えてみてほしい。 「あれもしなきゃこれもしなきゃ」を減らして、その分、子どもと自由な時間をつくってほしい。 子供はたくさん、たくさん、お母さんに甘えたがっているはずだ。 安心したがっている。 不安な心のまま、落ち着いて勉強ができる子供はまれだ。 しつけでストレスを抱えてしまい「勉強どころではない!」という子どもが多い。 習い事など「やらされること」が多過ぎて自発性・意欲がない子どもが多い。 教育現場ではよくそういう子がいる。塾にやってくる。お母さんが変わらないと、変わらない、その子の成績は伸びないケースが多い。(ちゃんとした先生に教わってなかったことだけが原因で塾に来た子は伸びる) ざっくり、ざっくり!いってしまえば・・・ 学校の成績は 8歳までのお母さんとの関係(その子の人間性)と 8歳からの先生との関係で決まる。 4歳から心の理論を学び、第三者との関係を深めていくなかで、お母さんを必要とすることがある。相手への思いやり、相手の気持ちを感じる心は、4歳までに学んでいてほしい。他者との関係を学ぶのに必要だから。 習い事習い事でこの時期を過ごした子供は感情表現が偏る場合がある。 学ぶべき時期に、学ぶべきことを学ばせてあげてほしい。 8歳になれば、もうコミュニケーションの方法、関係性の作り方にも慣れ、自分の世界、価値観を作っていく。いわゆる性格というものがはっきりする。 永久歯が生え始めて、中学生になって生え終わるのと同じリズム。これを目安にしてほしい。お歯黒とか、バリ島のポトンギギの儀式、アフリカ先住民族の抜歯など、人生の節目に「歯」が関係するのは面白い。昔の人はよくみていたのだ。 子どもには学ぶ力がある。 その力を使ってあげること、信じること。 子どもを育てるとはそういうことだとおもう。 「でも他の人に迷惑がかかるから・・・」 迷惑ですか?誰のですか?子どもは子どもらしくいてほしい。だってまだ「その段階ではないのだから」 子どもと大人の世界の葛藤と、お母さんはどう付き合っていこう。 (もし8歳を過ぎても他人の迷惑がわからない子、他人の視点に立てない子になったとすれば、その「課題」は思春期以降、子ども自身がお母さんから独立してなんとかやっていくことになるかもしれない。もはや「しつけ」る年齢ではない。しつけられない。) コンサート会場で泣く子ども。 これはよろしくない。(あかちゃんが泣いても叫んでもいいコンサートも、あるけど!) 電車の中で泣く子ども。 泣いてもいい。お母さんは堂々と到着地に着くまで、子どもをできるだけ安心させてあげたらいい。 そういった判断をちゃんとしてあげることで、子どもの「育ちを守る」ことが、家庭やオトノネが、子どもにできることだとおもう。 発達の段階を考えないといけない世の中になって来た。 大人が中心の世界だから。 子どもの子どもらしさを守って、のびのびとして成長して、のびのびとした大人になってほしいと思うのは、私だけだろうか。 お母さんが「子供のためをおもって」「させている」習い事が、お子さんの発達に大きな影響を及ぼしているかもしれませんよ。 教育熱心な親のシャドー

保育園の太鼓隊考ーそれは「オトナの願い」

あれは、群舞だろうか。 歴史的にみれば、「遊郭」が女性をプロモーションするために作り出したもの。 もしくは祭りの時に、男女がコミュニケーションをとるために作られたもの。 うーん、まぁ、保護者に子どもの晴れ姿をみせるとしたら「遊郭」のやることと同じだな。 だってコミュニケーションはとらないもの。 (もちろん子どもはそんなことも知らずに、楽しむ人は楽しむし、いやいややるこは、参加すらしない) 心が大事。 もっと近いのが、軍隊のマーチングバンドだろう。 決められた動作を決められたタイミングでキビキビとこなす。 軍隊式が、なぜ保育園にまで。。。。 これが、保育園として、ベストな選択か、関係者は考えてみたらいいとおもう。 やってもいいんだけどさ。。。それよりももっと大切な事、ないですか? 一対一で、楽隊の指揮をとる子どもの指導をするよりも、目の前で牛乳を飲めずに苦しんでいる子に、声をかけるべきではないのですか? やっていることが、小学校と同じですよ(いや、小学校はみんな同じじゃないといけないから、やっぱり違うか)。 幼児教育者として、学校から、自立していますか? 保育士さんへ。 小学校の先生の目を気にしていませんか? 「あの保育園の子は、しつけがなっていない!」とか、普通に小学校の先生が喋るみたいですね。 そんなことを保護者に喋る、小学校の先生がいるらしい。 目の前の子どもの目をみていますか? ーーーーーーー で、なぜ、保育園に、こんな、幼稚園みたいなことが流行っているのか、わからない。

保育園もサバイバルな件(オトノネさん唖然)ー「あそび」という名の労働

聞く話では聞いていたが。。。 わかっちゃいたけど… 実際、現場の人の話を聞くと、やはり唖然というか、呆然というか。 そんな世の中になりました。 保育園の時から「させる」ことがたくさんあるらしい。 (いやいや、おしっこの自立とか、椅子に座ってご飯たべるとかそういうレベルではありません) いわゆる、行事のための掲示物。 お母さんに見せるために、、、、つくる、、、、 6月はカエル。 7月はヒマワリ? 「ねぇ、これつくったらあそんでいいの?」という子ども。 保育士は「え?これは遊びじゃなかったの?」と驚いたという。 「次はなにをするの?」という子ども。 え?「あそばされてた」の? 大人のあそびにつきあってあげてるの? 大人という動くおもちゃがいなかったら遊べない子、「深く」取り組めない子がいる。 ーーー

ーーー 運動会、発表会、月一で入ってくる習い事や英語!は、実は子どもはそこまでうれしくない(まるで定期テストのよう)と僕はおもうのだが。 記憶には残るかもしれないが、、、 お母さんの思い出作り、他の園のお母さんとの話題のために、「行事」をしているようなものだ。 もしそれが、「子どもたちがやりたくてやっているもの」でないとしたら。 保育士の先生が「手持ち無沙汰」でないように、「行事」をしているようなものだ。 (若い先生の仕事を増やして笑っているワルイ先生がいるのかもしれない。まるで、小学校で、やたらバツをつけたがる先生のように。実際に、そういう先生、いますよ。) お母さん、保育士のみなさんに、行事よりも、日常の保育に力を注いでもらうのはいかがでしょうか。 一部の保育園は、行事のためにブラック化しているらしいことが、SNSで情報を集めた僕の印象です。 保育士への負担は、子どもにも影響します。もちろん。 保育園の園長さん、保育へのプライドをもって、真心をもって、保育園のしくみを見直すのも、ひとつでは? 「行事」の文化は、伝統は、いつから、どこから始まったのか。 なぜ「保育園でそれをしなくてはならなく」なったのか。 それは本当に、大切なことなのか。 行事のおかげで、保育士の先生たちが子どもに注げるエネルギーを、削いでしまっていないか。 (子どもを喜ばせるなら、日々の保育で十二分ではないのか) 「毎月の季節」「日本の伝統」を経験するための行事が、学校になれば「定期テスト」という名前になります。 学校も定期テストのおかげで、先生たちは大切なことができていないのです。 声が聞こえるでしょう?「テストが終わったら、あそぼう!」 自称進学校の《課題が多すぎる》伝統から何を学び取るか 同じことが、保育園でも起きていませんか? それはもしかしたら、私の呼んでいる「保育」とは違うものなのかもしれませんが。 子どもに、「教えてはいけないこと」を教えていませんか? ーー

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ーー その点、運動会を民営化(笑)した麹町の中学校はよくやっているとおもう。 また伝統的に、時期になると勝手に子供達が「発表会の準備を始める」保育園がある。 ある時期になると、年長さんが、遊ぶ暇もなく(?)あそびながら発表会の準備をしているのを、みれる環境を作っているのだ(年齢を超えて別のクラスの部屋に言ってもイイしくみができている。そしてこの保育園には、美術の時間がある!) これは、清々しい。   ーーー

ーーーー お昼寝の時間、イベント、「全部食べるまで椅子から離れられない」信じられないようなことが、当たり前のように保育園で起きています。どうか、心を大事に。新しい時代を生きる子どもたちが、笑っていられるように。今まで当たり前のこと、それはもう役目を果たしたことかもしれません。「全部食べなきゃだめ」は戦時中、食糧難の時の話。保育園のイベントは、幼稚園の「キラキラ」しているのを、専業主婦のお母さんたちに見せていた(先進性をアピールしていた)時代の話。時代を繰り返そうとしている大人に育てられ、時代に揉まれる子どもたちの姿を、僕はあまりみたくありません。 お昼ご飯の時間ひとつにしても、「しくみ」は様々です。 ある保育所では、異年齢混合で、子どもたちが自分たちで、年長が年少者に食べ物を渡していく。嫌いなもの、少なくしてほしいもの、今日は少量で、といった交渉も言葉で子ども同士がやる。ある保育所では、配給は調理師さんがする(保育士はその時間、別のことができる)、もちろん、交渉は、調理師さんに子どもが直接する。給食の時間は固定されていない。遊びが早く終わった子は早く食べにいく。場所も決まっていない。その様子を見ながら、「◯◯ちゃん、◯◯ちゃんと仲直りしたねぇ」とかいいながら、子どもの様子をしっかりみる保育士さん。 やるか、やらないか。 ただ、始めればいいだけなのに。 それができないのも、また人間なのです。 教育者、保育者としては、いかがなものかとおもいますが。

 

賢いお母さんの「習い事」作戦。

いやぁびっくりした。 こんな考え方がある。 水泳教室。 水泳教室の指導者が言っていることがわかって、飲み込みが早い段階になってから水泳に1年間だけいかせていた。 といううお母さんの話。 小2とか小3くらいの一年間で平泳ぎまで、全部できるようにした。 「水遊びするだけにお金使ってもね」 とある水泳教室は、泳ぐ時間より座っている時間の方が長いという。 どこかの学校や塾と同じか… この考え方は「レディネス」に基づいている。 学ぶ準備ができてから、学びましょうという当たり前の考え方。 「あそび」でたのしむなら、「水泳教室」でなくて市営プールでいい。 「習う」なら、本気で1年間、しっかり「ちゃんと」教わればいい。 なにしろ大切なお金をどう使うか。 発達の課題を無視すると、お金がどんどんなくなって行く。 不安にさせる、「早期教育がいい!」「早いうちがいい!」という広告、情報にまどわされない、愛のある子育てをおすすめしています。

経済と精神の言語学

前に私が書いた記事と似たことをきちんと調査して、研究した人がいた。つまるところ、学力の格差は言語能力の格差であって、それは塾に通えない、教育費にお金を使えないからではなく、そもそも家庭での会話の環境、言語環境が良くないからだ、という意味合いがある。

ドイッチによると、下層家族は家屋密集地区で終日騒音の中に生活しているものが多い、。それは彼らにとって意味のない騒音であるばかりでなく、家族を苛立たせ、言語の教育的な使用、念入りな会話の出現を二重の意味で妨げている。子どもは子どもでその騒音の中で不注意inattentionの態度を作ってしまう。彼らは聴覚弁別の訓練を受けることなく、話し振り・構音・文法などを訂正してくれる人もないまま成長する。ドイッチDeutschは、下層家庭の親の態度は、子どもに対して、“Yes”、“No”,“Go away”といった「機械的な」1語で答え、完全な文や解説を与えないという点に特徴があるという。中流階層に比べると、下流階層の家庭の人たちの多くは組織のある家族活動に乏しい。その結果、例えば、食事の時の会話が少ない。食事というものが規則的で計画された家庭の行事であることが少ないのである。中流階層に比べて、下流階層は、小学1年生から5年生までの間に「累積赤字減現象cummulative deficit phenomenon」が生じてくるのだ、という。(『幼稚園期の言語発達』村田孝次p.255)

そうと気がつかないところで、言語体験の貧弱さはなんらかの影響を私の生き方にも及ぼしているだろう。 オトノネひろげるシェアぼたん

躾(しつけ)ではなく気締め(ケジメ)が大切。

躾と気締めである。 しつけは身の美しさであって、けじめは気を締めること。 けじめをつけることの大切さを感じる。 自由、自由というが、そこで自分の気をコントロールできるかどうか。 たくさんあそんだ!それから次の行動に移っていく。 解放させた気を締めること。 それがケジメ。 もしくは、「じぶんひとりなら」ダダ漏れしていた気を、その状況に応じて、調節すること。 それもケジメだ。 (家の外では出せない気を家の中で出していて、お母さんが怒る、という笑い話もある。外では出せないから、家の中で出しているのだ。例えばそれが「怠け癖」だとしたら・・・家の外でケジメをつけすぎていて、疲れているのかもしれない。) 気分が暗い時、暗い気持ちにけじめをつけて楽しいことをしてみること。楽しい気分でいるときに「あ、けどこれもやらなくちゃいけなかった」とか。当然といえば当然のこと。 しつけといって仕舞えば、「いい子」になることのように聞こえるが、けじめといえば「自律した子」のように聞こえる。しつけという言葉には、支配的な、文化的な響きがある。 ーーーーーー ケジメは、感情をコントロールすることだ。 感情をうまく使っていくことだ。 0歳の時から、このケジメは始まる。 泣いている赤ちゃんに「声をかけてから」ミルクの準備をする。 それを続けただけでも、「声をかける」ことで赤ちゃんは安心して、泣くのをやめるようになるかもしれない。 気を締める。 心は、0歳のときから、作られる。 ーーーーー 少し大きくなって、「褒める」ことばかりをしていると、何も考えない、できないと癇癪を起こす子になる。 「褒める」といいという定期テスト対策が流行っているらしいが、僕は全くオススメしない。 「与える」にしても同じだ。「なんだこんなもの」と大人が思い買って与えるだけでも、子どもにとっては「もの」ではなく、泣いたら、駄々をこねたら与えられるのだという現象を学ぶことになる。 ケジメは、いいこと、わるいことを教えることではない。 感情をコントロールできる、大丈夫だ、僕は一人でも大丈夫だ、という自立心と自信をもつこと。 これが、ケジメの目標だとおもう。 ケジメができていないと、将来どんなに生きづらくなるか。 ケジメは、押さえつけることではない。 自由を、使いこなすことだ。 自由を使いこなし、大切な人、大切なものを守るためのものだ。 ーーーーーー しつけは、子供をペットにしかねない。 ケジメ、という言葉をつかってほしい。 子供の気持ちを、どんなエネルギーに変えたらいいのか? それもケジメのひとつ。 「学校でこんなことがあったの・・・」 こんなことを質問されたら、どう答えるだろうか? まだ気が締まらない(どうやって気を整えたらいいかわからない)状況を、心が処理するしくみをつくること。 これもケジメをつけることだ。 「気にしなくて大丈夫だよ」というか。 「それは先生にいわないとね!」というか。 そのお母さんの言葉の感情が、その子にも伝わるだろう。 「どうしたかったの?」 「何を感じたの?」と、問いかけて、子供の頭の中で、心で、もう一度整理する時間をつくってあげることを、僕はオススメするけれど。 一人では難しい、心のプロセスを、手伝ってくれる人に出会った子どもは、しあわせだ。 ーーーーーーーーー 子供の未成熟さが、弱い子供、弱い大人をつくりだす。過保護が、子供を未熟にする。引きこもり、いじめ、8050問題、DVや暴力、ストーカーなどの社会現象の根源は、親の過保護にあり、親が過保護にならざるをえない社会の不安にある。人を愛せない、共感できない、相手のことを考えられないなど、多くの政治的社会的に高い地位にある大人たちも未熟な状態であるために、日本は混乱している。児童虐待もDVも不登校も、政治的な混乱もなくならないのは、過保護を引き起こす社会不安によるものだ。恥や罪の意識は子供にも伝わります。 子育ては、親育てです。 子どもに、育てられてください。 子どもから学んでください。 いつまでも誰かにえらいえらいと言われていなければ心を保てない子、実力がないのに偽りの賞賛を与えられてきた子、本当の自分を隠してきた子。思春期に、悩まなかった子。悩むことを許されなかった子。自立した人間として向かい合ってくれる大人に出会えなかった子。「ノー」と言えない子。挫折・失敗に弱い子。病んだエネルギーは、誰に向かうのか?自分の心身症になる人もいれば、他者に対する暴力というかたちをとる人もいる。DVに気づかないお母さん、児童虐待に気づかないお母さんもいる。

習い事を「させられ続けた」子どもの心ーコドモの願いに耳を傾ける

今日、面白い話をきいた。 自分がピアノを習っていたというお母さん。 子供にもピアノをならわせたいということで、習わせていた。そして、習い続けた(高校まで)。習い事を辞めてから、一回もピアノを弾いたことがない、という話だ。社会人になって、今更ながらその子がこういったという。 「お母さんがピアノを楽しく弾いていたら、好きになってたかもしれない」 衝撃だ。子育てが始まったらお母さんは忙しくてピアノを弾いたことがなかった。というか、お母さん自身がピアノが好きだった、というわけでもない。それでも女の子だからということで習わせていた。ピアノのレッスンは、なんだったのだろう・・・ さらに衝撃の話が続く。 そのお母さんには息子もいて、ピアノを習っていなかったのだが。大人になってから「実は俺、ピアノならいたかったんだよね」と喋ってくれたという。お母さん曰く、たしかに、ちょろっと弾いた時、筋がよかった、という。 そういうわけで、習い事は遅くとも中学生になったら一度全部やめさせて、やりたいものだけ「やりたい」と意思表示してもらうのがいいんだろう。と、僕は思っている。小学生でも、お母さんにいわれたからという理由で習い事を続ける子もいる。子どもと対話を続けてほしい。 水泳教室、子供をまっている時間、お母さんたちが他のお母さんとおしゃべりに花を咲かせるために、子供を教室に通わせているようなパターンもある。放課後、居場所がないからといって習わせることもある。「させること」と「やらせてみること」の違いをはっきりさせて、習い事を見極めて、お金も時間も大切にするのはどうだろう。

「私はバカなんで」という子

私の知らない世界がたくさんあって、話を聞くたびに、ああ、なるほど、そうか、やっぱり、と思ってしまう。 学校の中でもたまに聞く「バカだからできないんだよ」という言葉。 お母さんが今までに働いて来た職場でも、若い子がよく「私はバカなんで」という言葉を使っていたという話。 そういう子は、本当にめちゃくちゃな生活をしている様子だった、という話。 この言葉を教えた、こんな言葉を使わせるような場所になっている学校は本当に違憲行為をしているとおもう。 学校は課題を与え、達成度を評価をする場所であって、学ぶ場所ではない。 できない子はできないまま、学校の先生は学び方を教えてくれない。やってくれるとしても「テスト対策」だけだ。テスト対策を時間外に一生懸命してくれる、優しい先生もいるだろう。。。けど本当に「学ぶ」ことは、学校ではできない。 できない子はできないまま、放置される。そして中学1年生から高校3年生までの6年間、6年間!自分に「私はバカだ」と言い続ける。めちゃくちゃになる。いったい誰が通知表をつけ始めたんだろう?親に、何を通知しているんだろう? 6年間!「あなたのお子さんは、バカです」と通知し続ける。数字で、何食わぬ顔で。子どもは悪くないんです。学校が学校の都合で、学校の基準でその子を評価しているだけです。 お母さん、どうか学校からお子さんを守ってあげてください。 小学校、中学校は誰でも卒業できます。出席日数とか関係ありません。 子どもを学校から守ってあげることも、お母さんの大切な役割だとおもっています。

時代が変わった

昔は子どもの環境が大人の環境と被っていることがおおかった。つまり学校だけの生活になる前、子供は地域の生活、大人の生活の中に子供が一緒にいた。大人から学び、仕事をしながら、手伝いながら、数学的能力、言語能力、社会能力、判断力、全てを鍛えていった。 大人の中で、できることをやり続けているからだ。 保育所の玩具、小学校を過ぎてからのゲーム、どれも「こどものため」に作られた製品であって、大人の社会と壁ができてしまった子どもたちの慰めになっている。とおもえる。お母さんと子ども、お父さんと子どもの壁すらできてしまうとしたら、子どもは本当にどうして行きていったらいいのか、だれに助けを求めたらいいのか、わからなくて困っているかもしれない。 子供が本当に求めているのは、「助け」ではないかとおもう。 いや、「休み」か爆

人を信じない小中高生

「最近の子、知らない人と話すのが怖いみたいなんですよ」 お母さんが別の子に挨拶しても、挨拶が返ってこない! という話。 色々話しすぎて、話題がどうしてそこに飛んだのかも思い出せないが、そういう話になった。(クリエイティブな会話だ) 面白い話がある。 野球部の子は「誰にでも挨拶をする」ように部活で指導され、学校では「通学中に話しかけられても返事をしない、無視をする」と指導されるとのことだ。生徒にしてみれば困ったものだ。それでも大抵の野球部の生徒は、部活の方が強いらしく、挨拶をしてくれる。 閑話休題。 挨拶をしないのは、学校の指導のせいらしい。挨拶をしない、というより、「知らない人は無視しましょう」というルールだ。 悪い人が多くなった世の中で、悪いものには関わらないための、しつけ。 なるほど! けど悪い人はいなくならない。 安全な場所にいたら、子どもは悪い人、いい人の見分けができなくなる。そして多くのお父さんお母さんも、子どもも、教育業界に騙される・・・金融業者に騙される・・・・不動産に騙される・・・損をする、という意味で。安全な場所なんてない。 関わらずに生きていくことはできない。関わり方をきちんと教わることが大切ではないか。 学校で学べることは集団性であって、社会性ではない。 だから、お母さんが社会性を子供にみせること、お父さんが社会性を子供にみせることが大切なのではないかと思う。 いろんな仕事をさせてみるのもいい、手伝いをする、お母さん自身が新しいことを始めるでもいい。いろんな人に出会う経験を通じてしか、学べないものがある。 学校の中だけで、あまりにもつまらなくなって、子どもが入っていくのはスマホの世界だ。閉鎖的な学校の外は、スマホの世界。SNS,掲示板の世界。もっと別な楽しい世界を見せてあげるのも、いいかもしれない。 オトノネの音楽教室、学習塾は、そんな世界の一つにしたいとおもっている。

 

ドジョウを買うために必要なメタスキル

メタスキル 、それは、学ぶチカラ。 メタスキル 、それは、知識や技能を使うチカラ。 メタスキル 、それは、学校では教わらないチカラ。

昔々、おとのねさんは、スーパーでドジョウ をみつけましたとさ。おいしそうだったので、買って行きましたとさ。「なんて、チカラに溢れているんだ!」とさ。

そうして、飼うことになりました。 実は、この間にいろんなドラマがありました。 まず、大半のドジョウは、オトノネさんのために、命を燃やされてしまいました。 たまたま別の使命をもったドジョウが、別の容器に「避難」していたのです。 水槽を買うまで、そこで頑張ってね・・・ で、まさか、、、、と思ったことが。 ドジョウが、飛び出して、二匹、呼吸困難に陥っていたのです。 埃まみれになって。 救いはしたものの、一匹はその後、息を引き取りました。 残りの一匹は体が曲がってしまいながらも生き延びましたが、後で、死んでしまいました。 ーー

ー 大切にしようとおもっていたのに、大切にする方法がわからなくて、殺してしまうこと、傷つけてしまうことがある。 これは経験するしかない。 経験をしないで「あらかじめ与えられた手順を踏む」ことでこれは回避できる。 だが。 ーーー

ーーー さて、その後、水槽がやって来た! 無事に五匹は水槽で泳ぐことができました。 だが。ドジョウなのに、土が入っていないその水槽。 ドジョウが安心して暮らせるようにと、土を探しに。。。田んぼへ。 そして、持って来た土を入れたら。。。。。 もちろんもくもくーと土埃が立って、水槽が汚れました。 ん??? ドジョウ君たちが、しきりに上に上がって来ます。 ん??? 表情はないけど、苦しそう、何か、メッセージがありそう、。、 あ、コロイドだ。 田んぼの土の粘土質の細かいやつらが、ドジョウたちの呼吸を困難にしているようだった。 (墨汁に入れられている状態と、予想されます) えー!!!!!!!!! というわけで、また「避難」するドジョウたち。 水槽の水をかき混ぜて、上澄みを捨て、重たい粒子だけ残るように。。。 軽い粒子を流す。 ーーー

ーーーー 無事になんとか呼吸ができるようになった水槽。 息がしやすいようにと、なんとエアポンプを購入。 これでもう、大丈夫だべ! 水草でもいれるかー! と思って浮き草も買った。 うんうん、ドジョウたちも浮き草の根っこで遊んだりしているし。。 いいのかな? と思っていたら、浮き草が日に日に元気が無くなって行く。 また粒子のせいか? 理由が不明なまま、浮き草を撤去。 何かが、違っていたのか。その間、もう一匹が、死んでしまった。 残り、二匹。 ーーーー

ーーー 生き物を飼いながら、いろんなことを学ぶ。 好きだから、本気だから、一生懸命だから、得られるのが、メタスキル だ。 やらされていたのでは、全く、身につかない。 やらされていて身につくメタスキル は忍耐とか、従順心とか、そういうものだけだと、おもっている。

学校教育の「宿題(労働)・定期テスト(評価)・一斉授業(集団性)」より家庭教育の「自立心・個別化・社会性」を大切にしても大丈夫な法的根拠

宿題をやる義務はない。 学校から出された宿題はしなくてもいい。 小学生であっても中学生であっても高校生であっても。 なぜ、学校は課題をやらせるのか? この人、当たり前のことをちゃんといってくれていることに今気がついた。。。 っていうかこの幻冬社のGOLD ONLINE 本当にGOLDだ!すごい気合の入った連載記事!読んでみてください。 麹町中学校の校長が「宿題全廃」を決めた理由とは? 僕とお友達になれそうだ。 ーーー

ーー 家では家で、教えることがある。 家を学校から離し、自立した学びの場にするといい。 それができずに、高校生になっても学校の課題をやり続ける子がいる。 それは「労働者」の姿であって、「学習者」の姿には、僕には見えない。

教育基本法 (学校教育) 第六条 法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。 2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。 (家庭教育) 第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。 2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。 (社会教育) 第十二条 個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。 2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育の振興に努めなければならない。 (学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力) 第十三条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

—————- 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するという言葉がある。 子どもの教育については、お父さんお母さんが、学校よりも、何よりも、誰よりも、責任がある。という文言だ。 お父さん、お母さん、学校に子どもの教育を任せていませんか? 学校に行かせて「子どもの自由だ」と言って責任を丸投げしていませんか。 いやいや、、、子どもは自立した一人の人間、勝手に育っていくものだ、と考えることもできる。もちろんです! ただその考え方一つが、その子の世界を変えていくという可能性が大いにある、ということは本当だとおもいます。 ——-

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——— ちなみに「社会教育」には個別的な学習、塾も含まれると解釈していいとおもう。 相互の連携及び協力という言葉がある。 相互であって、一方的に家庭教育が学校教育に「従う」とは書いていない。 だから家庭は、家庭でしっかりとした教育方針を立てて、学校から独立した教育機関になることをおすすめしたい。 「宿題はまだ終わってないの!テストはどうだったの!」というだけでは、家庭が学校の下部組織になってしまう。 テストの点数が悪いということは、学校が教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。という文言を守っていないわけで、学校で組織的に行われる体系的な教育が子どもの役に立っていないという意味で、「自立・個別化」する家庭教育にシフトし、学校での評価を気にせずに、父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するという文言を法的根拠として社会教育(学習塾やその他の社会資源)を使うといいかもしれない。 学校が悪いわけではない。 学校はもう人もお金もないし、限界にきているだけだ。そういう状況に学校はある。 公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費を概算して気が付いたこと。 続・富山県は教育県ではない。各都道府県の「学校基本調査」からわかること1 続・富山県は教育県ではない。各都道府県の「学校基本調査」からわかること2 学校の限界で子どもの限界を定められていい気落ちがするお父さんお母さんはいないだろう。 だからこそ、まずはお父さんお母さんが学校から自立して考え、教育することで大切にできる子どもの命がある。 お子さんが小学校、中学校のとき、お父さんお母さんが学校から自立して子どもと関わることで、お子さんは高校にいっても、社会に出ても、自立して組織から離れて「自由に」生きることができると考えて自然ではないでしょうか。 学校・家庭・塾の相互連携及び協力は法律で「努めるもの」とされている。 これは「しなくてもいいけど、できればしてね」という意味だ。(「1日に学年×10+10分」の家庭学習を強く要請しているのは、学校教育が家庭教育を下部組織とおもっていると考えてよいのだが、これは法律違反ではない) だから学校は相互連携をする気がないのだろうか。 学校は宿題・課題によって、課題をやらせる雰囲気によって家庭教育や社会教育を混乱させてはいないか。 お父さんお母さんが子どもの心を学校教育から守ることで、大切にできる命はないだろうか。 学校から自立する、心が大事。 大丈夫ですよ。 法律で守られています。 けど法律だけで生きていないのが人間ですね。 ーー

教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】

教育には、 学校教育と家庭教育がある。(社会教育はとりあえずおいておく) 学校教育とは何か。 ーーーーーーー 例えば、膝を曲げずに「礼をする」とか「握手する」とかは明治政府が輸入した習慣。 学校でこれを「やらせて」普及させた。 握手って、日本にはない文化だったのが、教育によってなんとなく今でも使われている。 (日常的に握手することなんて、そんなにない) 調べてすぐ出てきたサイトはこちら 日本人の所作・礼儀作法の歴史

2.日本の所作の変化 人付き合いの基本となる「挨拶」ですが、昔と現在では大きく変わっております。 その原因を探ってみると明治政府の政策にありました。 開国したばかりの日本は、最初外国に独自の文化、常識を馬鹿にされがちでした。 それまでは、夏場は裸で仕事をするのも当たり前でしたし、今では想像のつかないような生活をしていました。 その為、近代化を目指した政府は様々な政策を行い、学校教育を始めとしたところで、礼儀作法も指導していきました。 それが、現在の私たちが常識としている礼儀作法・マナーになっていきます。 ここでは、今と昔の礼儀作法の違いをみていきたいと思います。 2-1.日本の挨拶と礼 現在私たちが行っている立礼は大きく分けて3種類になります。 角度が15度、30度、45度の3種類です。礼をする相手の位の高さによって角度が深くなっていくのですが、これを江戸時代の人が見たら45度の最敬礼でも大変無礼なものだ!と感じるようです。 江戸時代では、道端などで自分より身分の高い人と会ったら「途中の礼」をしていました。 途中の礼とは、腰を折りながら両手を足の甲に着け、膝を曲げ、屈んだ状態で礼をすることをいい、これが普通でした。 庶民の間でも両手を膝に着け、腰だけではなく膝を曲げて礼をするのが普通でした。 これらの礼は外国人が日本にやってきてから、明治政府によって廃止されました。 理由は外国人にこの挨拶をしているのを見ると、非常に情けなく見えてしまい、頭を低くした方が身分が低いものとする風習があった為、日本人が外国人に挨拶する姿がとても卑屈に見えたからだそうです。 2-2.日本と海外の挨拶の違い 江戸時代までの日本人の挨拶の仕方は先程説明しました。補足を加えると身分の低いものから挨拶をするのが基本でした。 海外の挨拶の基本は礼ではなく、握手でした。しかも身分の高い者から握手を求めるのがマナーだった為、日本とは真逆で当時は受け入れられにくい風習だったそうです。 また女性から先にする礼であった為、当時の女性は非常に勇気が必要な挨拶でした。 明治政府が政策した礼儀作法の指導本には握手について書いてあり 「握手の礼は、尊長、主人、婦人等より、先ずその手を出すを待ちて、之を行うものとす。」と記されており、やり方については 「握手礼を行う場合には、右手を出し、先方の眼に注目し、おもむろに先方の右手を執り、約一呼吸の間握るべし。」と記載されていたそうです。 ここまで詳しく説明しているという事は、本当に日本ではなじみの無かった文化だったようですね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 定期テスト対策も、学校が始めた。 夏休みの宿題も、学校が始めた。 学校が始めたものが、どんどん「ふつう」になっていく。 それは、国の方針だ。 戦争時代は、戦争に心を向けるための教育をした。 そういう言語環境をつくった。 学校で、子どもたちは戦争を手伝っていた。 今は、子供達は、学校で、何をしているだろうか。 教育行政と癒着した塾業界にお金を送り込み、有能な20世紀型の情報処理能力をもった労働者を生産する。一部のエリートに大勢の労働者を管理させるシステムを作り上げる。 それは、国の方針だ。 今は? 学校で、子どもたちは経済大国日本の幻想を支える人柱になっている。 学校で、子どもたちは、一部の「持てるもの」が利益を上げるシステムが維持されるのを、手伝っている。 学校の中だけではなく、お父さんお母さんが不安になるようなしくみを、学校は作っている。 「成績がわるいです・・・」(いやべつにそれでもいいじゃないか。もっとこの子のためになること話さないのかな?学校の評価とか関係ないし。と言えるお母さんが少ない) それで、子どもはお父さんお母さんのストレスを受けて暮らすのが、「ふつう」になる。 なかなか変われない人、変われない組織の「自己防衛」のしくみと子どもの「抑圧」 ーーーー

ーー 学校教育は国の方針であり、 家庭教育は、親の方針であり、 教育基本法に定められている通り、 子の教育の第一義的責任は、お父さんお母さんにある。 したがって、お父さんお母さんが、選んでいい。論理的でありすぎて、心がついていかないお父さんお母さんがたくさんいるとおもうが、はっきりと喋っておきたい。 学校教育の「宿題(労働)・定期テスト(評価)・一斉授業(集団性)」より家庭教育の「自立心・個別化・社会性」を大切にしても大丈夫な法的根拠 学校が、子どもの言語環境として、適切かどうか。 学校教育から自立するか。 これが、子どもに「宿題をしなさい」という前に、お父さんお母さんが答えをださなくてはならない、宿題であって、課題です。 教育とは、文化を継承する場所。 お父さんお母さんは、どんな文化を、お子さんに学んでほしいですか? それはどのようにすれば、達成されますか? 答え方はひとそれぞれ。 これが、オトノネからお父さんお母さんへの、宿題です。 ーーーーー

 

「稽古」と「習い事」の違いと「労働」

かつて、芸能にたづさわる人たちは小さい時から「芸」を学んだ。 それは名実ともに、「稽古」だった。 芸能一家に生まれた運命と、芸能の世界に浸る環境とが揃い、芸能の道をまっすぐに進んだ。 芸能を学ぶことは、暮らしであり、息を吸うように当たり前のことだった。 ひとつのことを、繰り返した。 毎日、毎日。 だからこそ、メタスキル が育っていった。 寝る間を惜しんで稽古をしたこともあるかもしれない。 稽古をうけながらうとうとしていたことがあったかもしれない。 毎日、実戦にさらされ、フィードバックをもらい、鍛えていった。 練習、試行錯誤、知恵の拝借、実戦、フィードバック、実力があればすぐに「仕事」になる。 「だれだ、あの稚児は?」それが世阿弥のパターンだった。 ーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーー 稽古は、習い事とは違うとおもう。 習い事は、「稽古ごっこ」に近い。 習い事は、そもそもが、戦後に、ブルジョワ階級が始めた「西洋ゴッコ」だ。とおもえばいい。 稽古は、やらないと、死んでしまうものだ。と大げさにいってもいいかもしれない。 今は「習い事」(というか学童保育の代わり)として生き残っているそろばんも、昔は「稽古」に近かった。 商人の子が、習いに来ていた。それは生業に直結する。 生きるために必要な、技術を獲得すること。それが稽古だ。 数多くの習い事を分単位でこなしていくのとはやっぱりなにか違う気がする。 もしいろいろやるなら、習い事は「あそび」と割り切るといい。 大丈夫だ。「あそび」をしながら、子どもはたくさんのことを学ぶから。 「あそばせる」のは遊びだろうか? 「あそび」にどれだけお金を使うか? ちゃんと「あそんでいる」だろうか? 習い事をたくさんやることが悪いことなのではない。 習慣的に「自然」となるためには、それなりの「環境」が必要だということ。 まずは寝ようぜ! ーー

ーー 蛇足だが。 部活は、「稽古」でもなく、趣味やあそびの「習い事」でもないと僕はおもっている。 部活という「学校」にいっている子もいるし、部活という「ブラック企業」に勤めている子もいる。 いやいや、柔道部とか剣道部なら、趣味とか遊びではない、立派に心身を鍛える「稽古」だろう。 といえるかもしれない。 なるほど、「習い事」というには、真剣さが違うかもしれない。 だけど僕は、それは「本気のあそび」くらいでいいと思っている。 「あそび」という言葉の意味は、それほど、広いのです。 「習い事」は、心を豊かにするものであって、技術や機能を身につけることが目的であってはならない。と、僕はおもうのです。

ーーーーー そうそう、保育園が、イベント的にお茶の先生とか体操の先生とか英語の先生呼びますね。 あれも、お母さんにとってはかなり「イイ」ようにみえますが。 子供にとっては、はた迷惑な可能性があります。 「今日は、何するの?」と、受け身の姿勢になるんですよね。これが。 月に一回、英語教師を保育所に入れるか、子どもの日常的なあそびのプロセスを守るか、はっきりさせたらいいとおもうんだけどなー 子供も、頭がごちゃごちゃしているかもしれない。 「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金と「非国民!」という声 賢いお母さんの「習い事」作戦。 習い事を「させられ続けた」子どもの心 大人の遊び心その1

大人の遊び心その2

ここまで本気であそべる?これは「習える」ことかどうか。。。

学童:厚労省:非認知能力 v.s. 学校:文科省:認知能力

おとのねさんと同じじゃないですか。 ーーー

ーーー これは、放課後児童クラブの研修で来てくれた講師の植木先生の話。 被災地で、いろんな遊びを展開した。 あそびの可能性、子どもがキラキラする話。 子どもの多様性と、創造性の話。 −ーー

ーーーー 竹笛 男子は、小3が、なんと、ホーホケキョとやり、それから、音階を奏でた。ドラミファソラシド・・・できるんだ・・・・ 女子は、竹笛の紐を「3色」に増やして、三つ編みにして、デザインを変えた。 創造性とは、その場で、その時に、その人が、その時の心でいなければ起こらない出来事をそのまま現実化すること。 皿回しの皿を作る。 髪の皿を2枚重ねて、紙コップで回す場所を作る。それを割り箸で、回せる。 そこからも創造性が、どんどん働いていくかもしれない。 ーーーーー

ーーー 作ったもので、自分があそべる。できないことが、想定外に、できた。 想定外を楽しむこと。 わくわくを増幅することが、多様性のよさだ。 出来合いのものを与えることでは、創造性もその分弱くなるだろう。 自由さが、創造性を支える。 自発性が、創造性を支える。 そして、創造性が、「天の才」を個別化し、社会化させる基礎になる。 (さて、オトノネさんは、おとのねを社会化できているか) 植木さんの話の中で、「被災地の子供達が創造的なあそびをする」話をした。 受け取る人間ではない、作り出す人間だ。 「今日は何を食べましたか?」と、ボランティアの人にインタビューしてつくった新聞を体育館にはるとか。 そう、子どもから、たくさんのものを、大人が受け取る時代なのだ。 おとのねさんが、一番おいしいところを、うけとりたい笑 日本は災害王国だ。 (原発をぼかぼか日本につくるのは、やっぱりちょっと頭がおかしい。どのプレートの上に乗ってるかくらい、中学生でも知っている) 創造するチカラがあると、いろいろと世の中おもしろいとおもうのだが。 壊れた後に、同じものを、古いものを焼きまししても、おもしろくない。 ーーーー

ーーーー 家が遠い、みんな習い事・・・ あそぶ友達がいなくなった。 だからこそオトノネは《放課後の学校》を「宿題をやるばしょ」にしたくない。しない。別にしてもいいけど。勝手にどうぞと言う感じ。 《放課後の学校》は子どもにとって「仲間を見つけられる」「やらされから解放される」「ちゃんとあそべる」場所になってほしい。 ほんとに、宿題みないからね笑 できる子は勝手にどうぞ。 やるなら、わからないなら、教えあってください。 大人にたよらず、大人にやらせず、大人にやらされず、自立した人間として、オトノネに来てください。 「やることが決まっている」習い事では、育たない協同心、自立心が育つ。 で、これは学校と真逆じゃないか。 学童保育は、保育所か、幼稚園かで戦ってきた文科省と厚生省の、新しいバトルフィールドに思えた。 とおもって、講師としてきてくれた新潟県立大学の植木先生に聞いてみた。 実際、そうだった!植木先生の顔つきも変わって、熱を帯びた言葉で、返事をしてくれた。 そんな《放課後の学校》オトノネに関心がある方は、お気軽にお問い合わせください。

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