お稽古事を「させる」ことは全くオススメしない理由

実は放課後に居場所がなくてお稽古事を「させる」お母さんたちが多いらしいのだが、お稽古事を子どもの能力を高めるためにさせているというお母さんにこの記事を役立ててほしい。

お稽古事をすることは悪いことではない。ただ、お稽古事のなかで感情に触れる機会がどれだけあるかだ。そして感情を整理するレッスンを大人が提供できているかだ。「また練習してこなかったの!」とか「次のレッスンまでにこれをやってきなさい」という宿題を出すだけなら、そのレッスンの時間、子どもは「社交性の砂漠」をさまようことになる。水泳教室、体は鍛えられるかもしれない。そこで人間関係にどんなドラマがあるだろう?どんな感情に、子どもは出会うだろう?泳げるようになった喜び、なるほど。級が上がった喜び。なるほど。素晴らしい。では、だれかの心、自分の心と向き合う時間は?人間関係の「未就学児」になりはしないか。時間は限られている。

お稽古事の時に困難さを感じて、それを大人が助けてくれて、できるようになることで子どもは自信をえるかもしれない。けれどもそれが「人間関係のドラマ」を生むか。「個人的なドラマ」との違いを考えた時、「することが決められている、管理されている時間」であるお稽古事でない、何が起きるかわからない暮らしの一部のなかにある「あそび」の時間の価値を、感じられないだろうか。

「何ができるの?」ではない。それが「あそび」の世界である。
「かけっこしたの」かけっこをしながら、ルールを守らない子、新しく入ってきた見知らぬ子との駆け引きがある。
「おにんぎょさんごっこしたの」ごっこあそびをしながら、相手のもっているストーリーを読み、自分も合わせ、相手に自分のストーリーも伝えようとする。

大人の世界、「すること」に満ち溢れた世界と、子どもの世界、「あそぶこと」の価値を感じられないだろうか。

「あそび?将来何の役に立つ?」この問いにはっきりと答えよう。「あなたのいう遊びは、ゲーセンにいったり、カラオケにいったりして気晴らしをする、ストレスを発散することをいうのですか?それなら、その遊びは、息苦しい世界の中で息を抜く、ストレスから身を守る大切な行動です。小さい子どもが夕ご飯の時間になっても帰ってこない遊びは、子どもが自分の心と向き合い、感情の起伏や人間関係を解決していく学びの時間です。子どもの遊びにあなたも参加してください。あなたは、感情の、人間関係の、心のレッスンをする先生です。どうしていいかもわからず、世界でよろこびをみつけようとして泣いている子どもを手助けする人が、あなたでなくて、誰なのですか?あそびは問題解決の能力や持続的な注意力を養います。社交能力を促します。そろばんが上手く弾けるようになって、どうしてその子が誰かと一緒にいて笑いあえる、しあわせな子になるのですか?与えられた課題をやる行為を教わって、本当に目の前にあるものを見る能力、感じる能力が育ちますか?創造力、発想力を鍛える習い事が「あそび」の他にありますか?」

「できる」子を育てようとして、人間の中心にある心を育てることを、忘れないでほしい。子どものあそびを拡大する大人になろう。大人ももっと遊ぼう。心が宿っている振る舞いを「あそび」という。

習い事を見直してみてほしい。例えばサッッカーをやっているとしよう。「サッカー、やめたい?」と聞いてみたらいい。「やめたい」と言ったらやめたほうがいい。もし「いやだ、サッカーやりたい」といったら?もしかしたら好きな友達がいるから、サッカーをしたいのかもしれない。サッカーが好きなわけではないのだ。サッカーで遊んでいるわけではないのだ。その場合、サッカーの練習は決められたことをこなす作業だ。学校と同じだ。友達がいるから、学校に行く。習い事に行く。子ども同士が出会って遊ぶ環境がない世の中になってきた。みんな習い事に行くからだ。お母さんたちも習い事をしなければ、友達づきあいができないようになったのかもしれない。この時代の変化に、私はぐちぐちいわずに、私なりに、子供の居場所をつくっているつもりなのだが。

パズルがある。もともとパズルなんておもちゃはなかった。目隠しをして顔をつくる「ふくならべ」はあった。あれは、どんな結果がでても笑える。上手くやることではなく、楽しむこと、コミュニケーションができる。それに比べたら、パズルは「できたかできないか」の結果に向かうしかない。この点、パズルはおもちゃとしてあまり好ましくないかもしれない。遊び道具としては、二流品といえるかもしれない。(パズルが噛み合う喜びを共有する?)パズルの取り合いをしている時の方がより多くを学べる。知育ゲームをしているときよりも、ゲームの音量が大きすぎてうるさいからちょっと音小さくしてよと言われた時のドラマの方が、多くを学べる。子どもは成長しながら、遊びの質を変えていく。どんどん複雑になったり、奥深くなっていく。子どもには不可能なテレビゲームがあるだろうか?(格闘ゲームの複雑なコマンドを入れることくらいか?いやいや、対戦ゲームで、心理作戦を使うゲームだってある。ゲームは人間の遊びの世界をプログラムしている。そういえば、私は中学生のとき、パソコンのチャットを通じて、キーボードを早く叩くことを覚えた。チャットのおかげで私はパソコンに親しめた。ゲームが人を救うこともあるだろう。要するに、道具は使う人間の心次第。)

遊びは支持のない世界、支配のない世界、人間と人間が人間らしく関わりあうドラマ溢れる世界だ。子どもだからこそ、まだ柔らかい頭で、やわらかい心で、しあわせの経験をたくさんしていってほしい。

イェール大学の教授で、著名な学者であるドロシー・シンガーはこう言う。「子どもたちはごっこ遊びを通して、なりたいものには何にでもなれるし、行きたいところにはどこにでもいける。ままごと遊びをしている子どもたちは、さまざまな感情に対処する方法や、混沌とした大きな世界を、自分にも対応できるこぢんまりした規模に縮小する方法を学んでいるのだ。仲間同士でものを分かち合ったり、順番待ちをしたり、協力しあったりすることは、社会性を身につける学習となる。遊びはまた、新しい言葉を覚えたり、問題解決のコツを学んだり、物事に柔軟に対応する方法を学んだりする良い機会になる。そして何よりも大切なのは、子供が単純に楽しんでいるという事実なのだ」(『子どもの遊びは魔法の授業』p.342)

小さな子どもにとっては、歩くことも遊びになる。あたりを見回しながら、昨日にはない発見をしていく喜び。それを友達に話して、次のドラマが生まれる。(「俺、次のステージいったんだよ」「マジで?どんな敵がいた?」「あのアイテムとらないといけなかったんだけどねー」「どこにあるか教えてよ!」みたいな会話をドラマというなら、ゲームも立派な遊び空間だ。ゲームはごっこあそびだ。協力して敵を倒すこともできる。だからこどもはゲームにハマるのだろう。喜びが感じられない実世界よりかは、かなり楽しいはずだ。)テレビゲームをするんだったら、お金稼ぎゲームをしたほうがいいとおもうのだが??

習い事を「させる」、大人自身の心を知ることを、まずはしたらいい。不安で不安で仕方なくて、どうやって暮らしたらいいかわからず、マスメディアの情報を頼りにして、「シアワセ」になってほしいと願っているのかもしれない。マスメディアを信用しなくてはならないほど、心が締め付けられて苦しんでいるのかもしれない。

人に恵まれること以上に、世界を美しく彩る心以外に、しあわせになることってあるんだろうか?
ここで、とある子の書いた「私の家族」という作文を思い出す。(しあわせとは、感じる者だということが、よくわかる、小学生の書いた作文だった)

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