「稽古」と「習い事」の違いと「労働」

かつて、芸能にたづさわる人たちは小さい時から「芸」を学んだ。
それは名実ともに、「稽古」だった。

芸能一家に生まれた運命と、芸能の世界に浸る環境とが揃い、芸能の道をまっすぐに進んだ。
芸能を学ぶことは、暮らしであり、息を吸うように当たり前のことだった。
ひとつのことを、繰り返した。
毎日、毎日。
だからこそ、メタスキル が育っていった。
寝る間を惜しんで稽古をしたこともあるかもしれない。
稽古をうけながらうとうとしていたことがあったかもしれない。

毎日、実戦にさらされ、フィードバックをもらい、鍛えていった。
練習、試行錯誤、知恵の拝借、実戦、フィードバック、実力があればすぐに「仕事」になる。
「だれだ、あの稚児は?」それが世阿弥のパターンだった。

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稽古は、習い事とは違うとおもう。
習い事は、「稽古ごっこ」に近い。
習い事は、そもそもが、戦後に、ブルジョワ階級が始めた「西洋ゴッコ」だ。とおもえばいい。

稽古は、やらないと、死んでしまうものだ。と大げさにいってもいいかもしれない。
今は「習い事」(というか学童保育の代わり)として生き残っているそろばんも、昔は「稽古」に近かった。
商人の子が、習いに来ていた。それは生業に直結する。
生きるために必要な、技術を獲得すること。それが稽古だ。

数多くの習い事を分単位でこなしていくのとはやっぱりなにか違う気がする。
もしいろいろやるなら、習い事は「あそび」と割り切るといい。
大丈夫だ。「あそび」をしながら、子どもはたくさんのことを学ぶから。

「あそばせる」のは遊びだろうか?
「あそび」にどれだけお金を使うか?
ちゃんと「あそんでいる」だろうか?

習い事をたくさんやることが悪いことなのではない。
習慣的に「自然」となるためには、それなりの「環境」が必要だということ。
まずは寝ようぜ!

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蛇足だが。

部活は、「稽古」でもなく、趣味やあそびの「習い事」でもないと僕はおもっている。
部活という「学校」にいっている子もいるし、部活という「ブラック企業」に勤めている子もいる。

いやいや、柔道部とか剣道部なら、趣味とか遊びではない、立派に心身を鍛える「稽古」だろう。
といえるかもしれない。

なるほど、「習い事」というには、真剣さが違うかもしれない。
だけど僕は、それは「本気のあそび」くらいでいいと思っている。

「あそび」という言葉の意味は、それほど、広いのです。

「習い事」は、心を豊かにするものであって、技術や機能を身につけることが目的であってはならない。と、僕はおもうのです。

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そうそう、保育園が、イベント的にお茶の先生とか体操の先生とか英語の先生呼びますね。
あれも、お母さんにとってはかなり「イイ」ようにみえますが。
子供にとっては、はた迷惑な可能性があります。
「今日は、何するの?」と、受け身の姿勢になるんですよね。これが。

月に一回、英語教師を保育所に入れるか、子どもの日常的なあそびのプロセスを守るか、はっきりさせたらいいとおもうんだけどなー
子供も、頭がごちゃごちゃしているかもしれない。

「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金と「非国民!」という声

賢いお母さんの「習い事」作戦。

習い事を「させられ続けた」子どもの心

大人の遊び心その1

大人の遊び心その2

ここまで本気であそべる?これは「習える」ことかどうか。。。

オトノネひろげるシェアぼたん
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