【昭和ごっこから「いちぬけぴっ!」】安冨歩さんから学んだこと。誰と何をしてあそぶか。

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「昭和100年」

安冨歩さんからいろんなことを学んでいる。

ひろーい。
深〜い世界が見える。

教育者として、子どもと関わる大人として「伝えるべきこと」と「伝えてはいけないこと」があるとおもっている僕は、安冨歩さんの言葉からいろいろなものを感じる。

「伝えるべきこと」を伝えることが子どもに関わる大人としての、もしくは教育者としての専門性であって、責任であると思う。

「昭和100年」という言葉が響く。
昭和の時代に「明治100年」という言葉が生まれたらしい。

まだまだこれから!と前向きに捉えられた「明治100年」、
「昭和100年」は昭和に引きずられているという後ろ向きな気持ちになる響きをもっている。

ちなみに2025年が昭和100年。

言葉の背景

昭和が続いている根拠、昭和が続いているという言葉の背景には何があるのか。

例えば「テレビの視聴時間」(昭和に染まりに行くツール)。

例えば「学歴信仰」。

 

僕らの暮らし自体が、まだ昭和なのだという。

働いて、給料をもらって、ローンを組んで、家を買って・・・貯金して・・・・

 

昭和じゃない???

昭和???

 

年号が変わっても生活は変わっていない。

その生き方が、この日本を作っている。

(日本ってなんだろう??)

 

例えば学校。

遺伝的に優位なとある能力のある人をすくい上げて情報処理能力を使おうとする組織に子どもを預けていいのか。

 

学歴信仰。

「学歴で人を見る」人と一緒に働くのか。

 

 

これを大人が「伝えるべき」かどうか

 

僕の答えは単純で、「命」が破壊されているかどうかをよく見る。

「命」を守れる強い「心」をたまたま持っているならうまく昭和に馴染めるかもしれない。

けど昭和の土壌で新しい何が育つだろうか?

 

巨大な組織に入って能力を振るっても、結局組織の中に埋もれて社会的なインパクトは生まれない。

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

これはある意味で自己中といえるのではないかと僕は思う(自分の命の使い方)。

 

いちぬけぴっ!

誰かのせいにする傾向がある。

「いやだってそういう社会だから合わせないとね」

「あいつが悪いんだ!あいつのせいでこの世の中は!」

 

それはアウシュビッツの中にいる人の考えだ。

積極的自己責任を追わないやり方だ。(「命」の力が弱い人、「心」が不健全な人にはこの言葉は伝わらないだろう)

 

どうしようもない。

ただただ、生きるしかない。

ただただ、働くしかない。

ただただ、ローンという借金を払い続けるしかない・・・

 

それが悪いわけではない。

ただ、その生活様式を子供に伝えるべきなのか、という問題だ。

 

「心」は伝わる

 

例えば「ルールを守ってから物を言え」という大人がいる。

こういう大人は「昭和」の人間だ。

 

この価値観を、伝えるべきなのか。(その人と仲良くあそんでほしいか

 

【伝えるべきこと】は何なのか。

 

【伝えてはいけないこと】は何なのか。

 

これは、誰とあそぶか、何してあそぶかという問題だ。

「支配・服従」ごっこをするのか。

「命・心」ごっこをするのか。

 

あそび。

 

あそび!

誰とあそぶか、それが大切なこと。

誰と学ぶか、それが大切なこと。

 

遊びたくない人には「いちぬけた!」ということ。

(この考え方を否定する言葉が「みんな一緒に」「ひとりはみんなのために」という言葉。「みんながひとりのために」やってくれたことがあるだろうか?)

 

大人は「いちぬけぴっ!」と言う子どもに信頼を置けるだろうか。

「子供だからまだ世の中がわかっちゃいないんだ」と思っているなら、それは子供を信頼していないということ。(信頼できない子供に育てた。もしくは大人自信が人を信頼する心を持ち合わせていないか。)

もしくは、

 

学習性無気力、「命」が弱くなっている自分の姿を隠すための欺瞞だ。

学習性無力感・学習性無気力とは?

 

子どもの「命」は強まっているのか。弱まっているのか。

それで、あそび仲間を選んだらいい。

 

そのためには大人の暮らし自身を、変えていくのが一番よい教育だと僕は思う。

 

不安を植え付けてはいけない。

それは、「命」に対する犯罪だ。

と、僕は思う。(「昭和」を抜け出せない自分の不安を誰かに押し付けている魔界在住の大人をよく見かける。僕の場合は学校で。)

 

「服従」はあそびではない。

「諦め」はあそびではない。

あそびでなければ「命」ではない。

 

僕は、本気であそぶことを、伝えていきたい。

 

いじめというあそび

 

「いちぬけぴっ!」と言ったら、「いじめられる」。

 

そのあそびから抜け出すには?

学校という場所がそもそもいじめが生まれる土壌をもっている。

「学校」というあそびから「やーめーた!」すればいいこと。

もちろん、「逃走」でなく「闘争」という選択肢も、あるんだけど。

 


いじめられている人は、被害者ではない。

ただ「命」を自分でどう使うのか、「心」をどう守るのか、というメタスキル を学ぶ機会を与えられた「ひと」だとおもう。

 

「いや、被害者だろ」という人もいるだろう。

「被害者」「加害者」あそびを、楽しんでいるのだろうか

 

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