障害という言葉が生まれてくる場所

障害はなくならないかもしれない、けど、仲間として一緒に暮らす人との出会いがあれば、育っていくものがある。
それはいわゆる「障害児」も「健常児」も同じだ。
(今では「非定型発達児」「定型発達児」と呼ばれるようになった。僕もそのうち完全に切り替えよう)

例えば僕は韓国に行くときにアニョハセヨも知らなかった。
そこで3年間、劇団のみんなと一緒に暮らした。
ある日僕が聞いた「僕の韓国語、不自然に聞こえるんですか?」
そこでネ・チングは答えた。「コミュニケーションができている方が大事でしょ?すごいことだよ。君が今僕らと話をして、ご飯を食べて、笑えていることは」

ないものを障害ということもできる。
相手がそれを「障害」と思っていなければ障害ではない。と考えたら少しは楽にならないだろうか。
(そういう人と巡り会えたときに、生まれるものもあるだろう)

それはニュートン的に、絶対的にそこにある「障害」ではない。
相対的で、振り向くまで歩かないかわからないような、観測不可能な障害のように、僕には思える。

もし学校で困っている子がいたら、先生にこう聞いてみるのはどうだろう?
「先生は、ただの一度でも、うちの子と笑い合ったことがありますか?」
ない、と答えたら、もうその学校からは、少なくともその先生からは離れた方がいいのかもしれない。
その先生は、学校の余裕のなさに、先生の課題の海で溺れているのかもしれない。(学校の課題に先生も苦しめられている)

その学校は、「障害」が生まれる場所かもしれない。
発達障害を生み出すのは「人」であって、「場所」であって、その子自身ではない。
だから、場所を選べばいい。障害がない場所を。
その場所でこそ、生まれてくる、育てられる種がある。
子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。
忙しない社会で、生きる場所を探す、一緒に生きる人と出会うというごく当たり前のことを、
小さい時からやっていく、それだけのことだ、と言ってしまえば、残酷だろうか。

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学校で先生たちは生徒と、生徒は先生たちとコミュニケーションをしているだろうか。
非言語でも、言語でも。
そういうゆとりが、学校にあるだろうか。
ゆとりは「教育」のために必要ではない。コミュニケーションのために、「人間」のために絶対必要なのだ。
そういう先生と出会い、時間と、場所を見つけに行ける子はしあわせだ。
学校の中にも、休める場所はある。
先生のための学校ではない。
生徒のために学校がある。
だから、どんどん休んでもいい。
(ただしそれは、学校の先生の“機嫌”をそこないかねないことは、知っておいたほうがいい)

さて、疑問がでてきた。
先天的に笑うチカラがない、「笑うことのできない」人間が、いるのかどうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

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