オトノネで、オトノネに、耳をすませてみる。

人にはウラとオモテ、というか、いろんな「自分」がいて一人の人間がつくられている。と考えてみよう。

家では家での作法があり、習慣があり、「家」という場所でつくられた自己がでてくる。
ピリピリしてしまう、怒ってしまう、苛立ってしまう。
大人が「家」という場所で経験して来た記憶が無意識のうちに再生されていることもあれば、
会社や学校でかかえたストレスを処理しきれずに出してしまうこともあるだろう。

同様にして、会社では会社の作法が、学校では学校での作法がある。
そこでも与えられた「立場」のなかで行儀よく振る舞うことを要求されて心がすり減るような感覚に苦しんでいるかもしれない。
苦しい、とまではいかなくても、本来の心の感覚、素直に感る心をそのままオモテだって出せない閉塞感を感じているかもしれない。
(大抵狂っており暴力が横行している)学校や会社で最適化された自己が、学校や会社では立ち現れてくる。

学校、会社、家、、、そのどこにもでてこれない、でてこない「自分」がいたとしたら?
自己疎外という言葉は、こういう文脈から生まれてくる。

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餅つきをしながら、遊びながら、みんなで何も考えずにご飯を食べて過ごす中で、オトノネで「いつもはでてこない自分」がでてきていることを感じたという感想を、何人かの人からもらった。僕にとってもオトノネは「いつもはだせない自分」が出せる場所であって、来てくれている人たちも同じように感じてくれたことに驚いて、うれしくもおもう。

オモテで頑張っている自分がいる一方で、ウラにもちゃんと自分がいて、いろんなことを感じているのだから。
どちらも大切な自分であって、心で繋がっているのだから。
心を大事にするというのは、自分を大事にするということだとおもう。
僕は、オトノネで、その練習をしているのだとおもった。

オトノネに、耳をすませてみませんか。

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学校という場所の排他性
図書館という場所の排他性

図書館は「だれでもきていい」ことになっているが、ほんとうに「だれでもこられる」デザインになっているのか。
学校は「だれでも学べる」ことになっているが、ほんとうに「だれでも学べる」デザインになっているのか。

これはひきこもり不登校だけに限った者ではない。
自己疎外は人間疎外の社会から生まれる。

差別はいたるところにある。
富山県の内申点の配点の異常な高さ。
支援級、障害、発達障害に対する疎外感。
テストと先生への従順度一辺倒の評価。
差別は、人間疎外は、システムとして、社会に当たり前のように、ごくごく自然に、組み込まれている。
富山県立高校入試の内申点の配点が異常に高いことを知っておくと後悔しないかも。

内申書のために、部長をする。
内申書のために、いい子になる。
内申書のために、やりたいことを我慢する。
内申書のために、薬を飲んで学校に行く。
内申書のために、先生の理不尽をあまんじて受け取る。
内申書のために、、、、心をすり減らす。

上司からの評価のために、、
親からの評価のために、、
姑からの評価のために、、、
隣近所からの評価のために、、、

自己疎外は人間疎外の社会から生まれる。

オトノネに遊びにきてください^^

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