子どもがもっている無限の余剰を僕たちが受け取ること。

オトノネのお母さんたちはたまに、僕にご飯を持ってきてくれる。

僕はもう泣きながら手を合わせて食べる。
美味しい。

おいしい。

このご飯、もちろん、家族のためにつくったしあわせを、僕がおすそ分けをもらっているだけ。
それが、うれしい。

余剰、というものがある。

お金でなくてもいい。
ただただ、溢れ出たもの。

しあわせって、そういうものだとおもう。

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リッチネス、という言葉をインドネシアで聞いた時に、ああ、リッチってそういうことなんだなと感じた。
青森で漁師をしながら、親方が趣味で、好きで釣った魚を知っている人に分ける。

しあわせの溢れた部分を、数珠つなぎにする。
しあわせのわ。

僕も取れたホタテを知っている人に送って、おいしいといってくれたことを今でもよく覚えている。
ホタテを送るお金で給料がなくなったけど笑

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子どもはしあわせの塊だ。

溢れ出ている。

僕は少しだけ、おこぼれをもらう。

家でご飯をつくるお母さんは、しあわせをつくっている。

ご飯を食べるしあわせ。

ご飯の場所を一緒に楽しむ。

しあわせの数珠つなぎ。

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余剰が、ないのだろうか。

お金も時間も、大人たちには足りない。
あってもあっても足りない。
どんどんなくなっていく。

子どもは?
子どもはしあわせの達人だ。

子どもに教えてもらおう。

僕は、いつも教えてもらっている。

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最近、オトノネの子と公園で、放課後に遊んだ。
校門前で知り合った男の子も遊ぶ!とうので、待ち合わせて遊んだ。
その子がいうに、いつもなら、家でスマホと宿題をしているだけだという。

リッチネス。

もっと子どもから分けてもらおう。
たったそれだけなのに。

と思ったりする。

また、遊ぼう。

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自分がしあわせになったときに、そのしあわせを渡したら、みんなしあわせになる。
保育園が無償化しても、それでしあわせが増えるかどうか。

そういう話を大人たちがしているようにはおもえない。

オトノネひろげるシェアぼたん

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