『中動態の世界』より:スピノザのコナトゥスと「必然的な自由」と権力
意志が生まれる前に、体は反応して動いている。
意志とは、そういうものだ。
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「私」にとらわれず、「だれか」にとらわれず、「社会」にとらわれず、
世界に漂う。
まるで分子が繋がり、離れ、惹かれ合い、反発するように。
世界に漂う。
中動態の世界は、たぶんそんな世界。
自然の装い
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謝る。
感謝する。
そのために意志は必要か。
行為するために意志は必要ない。
謝る。
感謝する。
気が付いた時には、すでに感謝している。
気が付いた時には、すでに謝っている。
そのはずなのに。
心と体と言葉のインピーダンスが、どうしてこんなにも大きくなってしまったのだろう。
謝る気持ち、感謝する気持ちがでてきた、
そのあとに、生み出された感情を、現すための体、言葉。
気持ちではなく、謝るルール、感謝するルールがあったとしよう。
謝らなければいけない状況、感謝しなければいけない状況がでてきた、
ルールを破らないようにと緊張する、体、言葉。
僕らは他人に自分のルールを押し付けていないだろうか?
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AさんはBさんからDVを受けた。
BさんはAさんにDVをした。
DVは加害者の「意志」によるものか。つまり「DVした」のか。
それとも「やむにやまれぬ」なにかが加害者に「DVさせた」のか。
DVをうけた人は、「DVを受け入れた」のか。
それとも「やむにやまれず」「DVを堪え忍んだ」のか。
DVを誰にされたのか。
加害者によってか。
加害者をDV人間にさせた何かによってか(例えばお酒が売っていなければアルコール中毒になる人はいない)。
DVという現象を的確に、間違いのないように表現することができるだろうか。
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例えば、昔の人が獲物を捉えたとする。
その時、その事実をなんと表現するか。
「私がこの獲物をとった」という言葉か。
「この獲物は私にとられるように、あらわれた」とするのか。
これだけの違いが、言葉の違いが、心を表している。
人は
「生まれた」
「産み落とされた」
自分が望んで生まれたのでもなくただ「生まれた」のであり、同時に産み落とした誰かがいるにしても、父と母がいたとしても、「産み落とされる」までのプロセスには他の何かが、関連しているはずだ。産み落とされなかった命もある。
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誰かが棒を突き立てた。
棒は今、突き刺さっている。
言葉は歴史のどこかで、行為の主体を指し示すようになった。
それが、行為の結果に対する原因を表すようになった。
それが、責任者を表すようになった。
「あなたが」「あの人が」
言葉一つで、誰かを弾劾することができる。
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私は正気を失っている。
正気というものが、私から離れた。
正気を失ったのは、「私」のせいか。
正気が私から離れるなにかの作用があったのか。
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怒りに我をわすれる。
私は怒っている。
怒りは、でてくるものだ。
その原因は「私」だろうか。
それとも「何か」だろうか。
私は不安した。
不安が私を襲った。
不安が、私を襲ったのである。
私は不安に襲われたのである。
だから、不安から、私を護ることが、私にはできる。
私が不安したのではないのだから。
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英語の問題でよくこんなものがでる。
「私は髪の毛を切ってもらった」
I have my hair cut.
切らせた、なら使役動詞。
切られた、なら受動態。
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英語には「未来」という時制はない。
アリストテレスの時代には「意志」という言葉がなかった。(?)
意志、責任、主体という言葉は、のちの「西洋世界」が生み出した。(p.103)
そしてまた、それが「哲学」を生んだという。(p.119)
中動態が抑圧された世界。
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意志と選択の違い。
選択は、過去に縛られている。過去の帰結である。
意志は、過去から干渉されない。過去を断ち切る。
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アイヒマンはナチスの下で、「何も考えずに」ただただ仕事として、ユダヤ人を効率よく「輸送」するしくみをつくった。
彼に「責任」はあるのだろうか。
彼は「させられていた」だけなのだろうか。
戦争で人を殺す。
脅されてお金を渡す。
強姦されて「避妊して」といったことが「合意」になるだろうか。
人を殺すことに合意していない。
お金を渡すことに合意していない。
不本意だ。
世の中はそんな行為に満ち溢れている。
選択の世界。
強制される世界。
自由はどこにあるのだろうか?
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ここで「権威」を考える。p.144
暴力は「抑え込む」ー受動的に、させる。
権力は「行為させる」ー自発的に、させる。
暴力は強制し、屈服させ、打ちのめし、破壊し、あらゆる可能性を閉ざす。という。p.146
違いがよくわからない。
ただし、自発的に何かをさせるようにしむけられたものが権力であるなら、
社会は、文化は、制度は、権力である。
罰を与えて自発的に行わせるのも、権力である。
飴をあたえて自発的に行わせるのも、権力である。
褒めること。
自発的に「させる」ものである限り、それは権力でありうる。
褒めること。
それは喜び合う所作であるといい。
褒めるとは、「させる」「する」とは別次元にある言葉だ。
すくなからず、大人は子供に対して権力をもっている。
一体どこに、自由はあるのだろう。
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言葉が「責任者」を問うためにつかわれ始めた。p.175
出来事がありのままに記述されなくなった。
弾劾する、尋問する言語。
知らぬ間に、そういう言葉を使っているかもしれない。
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自動詞と受動態は、中動態から生じた。
日本語
見ゆ。聞こゆ。は中動態。(上代日本語)
古典文法では「る」「らる」になった。
自発。受身。尊敬。可能。の意味をもつ。
しかし中動態は、行為の帰属や意志の存在をめぐる強い信念によって、抑圧された。p.195
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スピノザ研究をしたアガンベンさんの言葉
内在原因という関係は、それを構成する能動的な要素が原因となって第二の要素を引き起こすのではなく、むしろ、それが第二の要素の中で自らを表現するということを含意している。p.238
これが中動態の世界
中動態は自然そのものを現す。
自然そのもの?
外部の何かが内部に作用し、内的プロセスを通じて「私」が決定される。
このように決定される「私」は中動態である。????
コナトゥス。
コナトゥスは、個体のもつ力の本質。p.255
自己の本性の必然性に基づいて行為するものは自由である。p.261
自由の対義語は強制であり、行為の表現が外部の原因に占められてしまっている状態。
「意志」や「自由意志」を信仰することが、私たちから自由を遠ざけている。
選択肢を広げるという言葉も中動態の世界を抑圧する言葉なのだろう。
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He became famous.
He made himself famous.
は違う。
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善と悪と徳
法は悪徳を罰しようとするが根源的な悪はそれをすり抜けてしまう。自然的な善は徳に対して無配慮であるから、徳とともにあらんとする法はこれを罰せねばならない。(アレント『革命について』p.125)
これが事実だとしても、その世界で、漂う生き方を。
漂い、時として泳ごう。
自由に。
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