デジタルネイチャー時代のバイリンガル
デジタル・ネイティブとリアル・ネイティブ
リアル・ネイティブというワードチョイスはカッコが悪いけれど。
デジタルネイチャーという自然が人間社会を変えていっている、侵食?蔓延っていくイメージを伝えたいと思い筆を取りました。岩が植物の根っこで破壊されるように、何かが崩れていき新しいものが作られていく、遷移していく有様を、想像できるでしょうか。
背景。
若者と年寄りはこんな話をした。
「ゲームの世界とリアルの世界、バランスって取れてるか」
ある若者は、「リアルが忙しくなったからゲームの世界との関わりは減りました」
ある若者は、「全然バランス取れていない。ゲームばかりしている」という。
どちらの世界も、当たり前のようにすぐ近くにある。それでいて、どこか「違和感」を感じてしまう。違和感を感じて、考えてしまう。そんな年寄りが、落合陽一さんの動画を見てついついこの記事を書きたくなりました。
この記事に書かれていることは年寄りの言葉です。落合陽一さんがいったことと区別をあまりつけていません。解釈が含まれているので、ご注意ください。
自然の知性が、人間の知性を上回る時代を、
人間の知性を上回る自然を人間が生み出す時代を、
年寄りは眺めている。
自然って何だっけ?
英語で言えばネイチャー
科学雑誌の名前でも有名な言葉だ。
自然保護、といえば人間の手が入っていない大草原を思い出すかもしれない。
文明社会、人間社会と退避される未開の概念。
自然と人間、を分けて考えれば、このパソコンも、机も、椅子も自然の一部。
自然というと、天然、素材のまま、という意味で使われることがある。
自然食品は、農薬を使わない食品とか、化学肥料を使わないで育てられた食品を指す。
ここでは自然を「人間以外のもの」だとしよう。
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デジタル・ネイチャーという言葉は落合陽一さんが作った言葉のようだ。私はこの記事でデジタルネイチャーという言葉を使うけれど、落合さんの言葉とは意味合いが違うかもしれないことに注意。
私がこの動画を見て思い浮かべたのは、自然が人間の領域にどんどん蔓延ってくる、入ってくる映像だった。
音楽が欲しいならAIに任せる。
絵を描きたいならAIに任せる。
人間が何かを生み出すプロセスの中に自然が入ってくる。人間が一方的に「自然」を支配するのではなく、「自然」の方から人間を支配するような勢いで。「山にのまれる」ように、「デジタルにのまれる」映像が頭をよぎった。
デジタルネイチャーの中で、人は暮らしている。
デジタルネイチャーは資源だ。
自然という資源を使う人もいれば、使わない人もいる。パソコンを持っていなければ使えないデジタルネイチャーもある。シンギュラリティーという言葉で表される変換点は、どうやらこの資源へのアクセスが容易になったことにあるらしい。「誰でも」デジタルネイチャーを利用することができる。元来、ネイチャーを使用するためには技術が必要だ。米を育てるにしても、家を建てるにしても、技術がいる。人間の脳みそもネイチャーとしてしまうのであれば、人間の脳みそを使用する技術を人間の脳みそは作り出す、と言っていい。今回のシンギュラリティーは、デジタルネイチャーを利用するためのの技術獲得までの道のりが限りなく短く、簡単になった、「誰でも」デジタルネイチャーを使えるようになることを表しているらしい。家を作った、定住した、作物を育てた、国という概念を作った。人は色々なネイチャーを生み出し今に至る。ここらで時代は一区切りされるようだ。シンギュラリティーとは、時代が変わることを表す言葉だと思ってもいいだろう。
スマホゲームで遊ぶことは、デジタルネイチャーの中で遊ぶこと?
デジタルなネイチャーだ。スマホゲームは、自然の中で、遊ぶことのようだ。それがひとり遊びかどうかに関わらず、電気の力で動くゲームはデジタル・ネイチャー。この自然が人の生活に入ってきた。街中で子供の遊び場、遊ぶ時間、遊び仲間という自然が失われた分を埋め合わせているように。この自然のシステムにはもちろん、インターネットという場がある。デジタルでないネイチャーであれば、情報を伝達する空間と空間を満たす空気や電磁波のようなものだ。公園で遊ぶように、1つのゲームに誰かがやってきて、一緒に遊ぶ。
デジタル・ネイティブという生き方
ここで一つの関心ごとが浮上する。小学生、中学生、及び大人がゲームばかりをしてリアルな世界(デジタルネイチャーではないネイチャー)の中で人と関わる経験が少なくなること。デジタルネイチャーの中での人との関わりは、リアルな世界での関わりとは何かが違うだろう。何が違うのだろう。生身の人間、という情報は、デジタルネイチャーの中では加工される。小学校、中学校で人と関わらずに、人の中でうまく立ち回る経験、生身の人の中で生まれる感情は、デジタルネイチャーの中で人と出会うことで生まれる経験・感情とは異なるはずだ。「デジタル・ネイティブ」は、もしかしたら、デジタルの世界で生きており、その人にとってリアルな世界は、親しみのない、親しくしたいとも思わない「異世界」に感じられるかもしれない。
デジタルネイチャーの中で、人はデジタルネイチャーに浸りながら、どんな社会を作り出していくんだろう。どんな人が出てくるんだろう。仕事は変わるんだろうか。テストの点数は相変わらず学校で求められるんだろうか。人との関わりは、関わる能力は、変わってくるのだろうか。デジタル・ネイティブと、リアル・ネイティブ、そしてバイリンガルであることの意味が、見えてくるだろうか。
「いいじゃん、英語が喋れなくても生きられるんだから、英語勉強しなくても」
という主張と
「いいじゃん、リアルでなくてもネットで人と関われるんだから、部屋にこもっていても」
という主張は似ているように思える。
デジタルネイチャー時代の人間像とは?
デジタルネイチャーとの関わりにおいて、どんな人間像が生まれるだろう。デジタルネイチャーを資源としてどのように利用するのか。もしくはデジタルネイチャーを生み出すのかによって分類してみる。「デジタル・ネイティブ」にも色々な種類があるという話。
デジタルネイチャーの「神」になる能力を持っている人(作り手)。デジタルネイチャーを多くの人にとって利用可能にする人。デジタルネイチャーを社会実装する人。
汎用化されたデジタルネイチャーを使って何か別のデジタルネイチャーを生み出す人(作り出されたアプリを使って別のものを作る人)例えばソフトウェアを使う人。音楽家ならDTM、イラストレーターならイラストレーター、ゲームクリエイターならunreal engineといったアプリを使って音楽、イラスト、ゲームといったデジタルネイチャーを作る人。YouTuberもここに含まれるだろうか。
デジタルネイチャーの中で遊ぶ人(生み出された自然を使用して「遊ぶ」)を想定してもいい。
そんなことを、とある年寄りは考えましたとさ。
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