いじめと東大前の殺人未遂事件と自己肯定感とボカロの話。
いじめと東大前の殺人未遂事件と自己肯定感とボカロの話。
学校を社会と読み替えることができます。
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他者の心的エネルギーを奪って、自分の心的エネルギーを高める行為を、ハラスメントという。
「あ、心的エネルギーが奪われている」と思ったら、システムを見直してみよう。
もしかしたら、学校で、家で、友達との関係で、ハラスメント中毒にかかっているかもしれない。
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年寄りはとある若者と話していた。
その若者は他人に対する「申し訳なさ」や、失敗する自分の「不甲斐なさ」と言ったものを感じていた。期待に応えられない、邪魔な存在、社会不適合者、色々な表現ができる。それらの感情をひとことで「自己肯定感」だとか「自尊心」と表すのはどうも思慮に欠けるように思う。
これまで過ごしてきた、周りから受けてきた言葉や態度が、その若者の感情を生み出しているとも言えるし、その感情を制御して健康的に生きる思考を生み出すことを阻んでいたとも言えるだろう。そして年寄りのように、若い時に受けた影響が、年をとっても尾を引いてくる。愛着障害やらアダルトチルドレンという一言で表すにはあまりにも残酷に思えてしまうような重々しさを、年寄りは感じている。
期待を背負って苦悩する若者が最近、殺人未遂事件を起こしたというニュースが流れた。
東大前で殺人未遂をした人は明らかだが、その本人の感情や思考を形成した人たちは、罰せられないし、責任を問われることはない。自己責任という言葉で括られてしまうのだろうか。学校・家庭・塾・友達といった場所や人が、その人の助けにはならなかった事実がある。どうしても誰が何をしても助からないこともあるかもしれない。けれども、そうではないケースが多いような気がする。人を狂わせるのは人である。いじめはいじめられた本人が悪いのではない。あらゆる人が「責任」を負うために、その「責任」の所在がわからなくなる、曖昧にされるというだけだ。何度も繰り返されてきたことが、きっとこれからも繰り返される。この問題はパワハラだとか、モラハラだとか、アカハラだとか、DVとか、いじめとか、虐待といった暴力の問題だからだ。
そこで年寄りは考えた。
こういった感情や思考の習慣を持った若者に対して、年寄りは何ができるだろうか。
どんな言葉を掛けられるだろうか。
ここで一曲、激しい感じのボカロ。コメント欄にも注目です。
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人が「助かりようのなさ」を感じているとき、恒常的に落ち込んでいたり、ゲームに耽っていたり、攻撃的になったり、頭がパニックになったり、ご飯が食べられなくなったり眠れなくなったり妄想に取り憑かれたりまぁ色々と「健康」でなくなってしまうことが多い。そんな時、「助け」になるものがいくつかある。それを年寄りは資源と呼ぶ。
資源は、時間、他者、お金、心的エネルギー、そして遺伝子。
時間について。
まず、この若者と年寄りは1年くらいまぁ顔を合わせる機会があったのだが、家庭の事情やその若者の現状の話を聞いたのは初めてだった。たまたま、何もない「時間」に出会ったことが、きっかけだったように思う。なんの約束も、なんの取り決めもない、開かれた、自由な、曖昧な、そして目的のない時間。量的に同じ時間を同じ空間で過ごしたとしても、その時間のデザイン、影響を受けている制度によって、時間は使いようがなくなる。時間外の時間、なんの制度にも縛られない時間の大事さを思い知る年寄りであった。多くの時間が制度的な時代に、開放的な時間を資源として残しておくことの意味を強調しすぎることはない。兎にも角にも、時間は、自分を作り上げる資源だ。
他者について。
友達でなければ他人を気にかけることは、学校という組織の中では稀だと思う。学校にいる年寄り出なかったら、誰に話ができるだろうか。友達?話せる友達がいればいいのだけれど。ホモサピエンスの悩みの大半というかほとんどは人間関係だと言われている。そして人間関係は、実際に人間の中で学んでいくものであることは間違いない。学校は、家庭は、一体何を若者に「伝えて」いるだろうか。業務連絡や期待だろうか。それとも?一番大きな他者は、母親、父親だと、年寄りはおもう。9歳を超えてから、母親、父親以外の価値観を持った人と出会っていく。その影響がよかれ悪かれ、出会っていく他者は、自分を作り上げる資源だ。
お金について。
お金は例えば、進路を考えるときには重要になってくるかもしれない。そもそもお金がなかったら、選べるものも選べないから。同じコストをかけるなら、どこにかけるか。そのコストは、自分にとって意味のある、価値のあるものになるのか。誰も保証をしてくれないし、意味は自分で作るものだと年寄りは思っている。だからこれは一番最後に考えたらいいことかもしれない。「できること」を増やせるのがお金だ。その価値を、お金は決めないけれど。無料だからと言って、それは良い資源なのではない。無料だからこそ悪い資源もある。なんの資源を買うのかを決めるのはお金ではない。だが、お金は、さまざまなものに交換価値のある資源だ。お金は、自分を作り上げる資源だ。
心的エネルギーについて。
心的エネルギーとは、根性や気合と言ったもの。荒っぽく言えば、「頑張る」エネルギーである。しかしながら、このエネルギーは限られている。脳は疲労する。習慣的にやってきたことは心的エネルギーを大きく消費することはないが、新しいことや、不慣れなことをするときは心的エネルギーを使ってしまうものだ。他者からもらったり、自分から生みでた不思議な感情は、このエネルギーの効率を左右する。心的エネルギーとは、神秘的なものだ。好奇心や関心は、このエネルギーを増やしてくれる。プライドや自尊心、自己肯定感、自己効力感と呼ばれているものは、心的エネルギーを生み出すシステムの特徴を表している。人を妬んだり、期待したり、虐めたり、拒絶したり、足を引っ張ったりすることで心的エネルギーが増えるようにデザインされたシステムを作ることもできる。逆に相手の心的エネルギーが増えることで自分の心的エネルギーが増えるようなシステムを作ることもできる。自足的な心的エネルギーシステム、つまり心のあり方もある。読書を1人で楽しむのもそうだし、音楽を1人で楽しむのもそうだ。プラモデルを作るのもそうだし、アニメを見るのもそうだ。どれをとっても、心的エネルギーは、自分を作り上げる資源だ。
それはネットの世界で出会う他者かもしれない。リアルかもしれない。ネットにはネットの、リアルにはリアルの付き合いがある。ネットの方が場合によってはリアリティーがあるかもしれない。生配信者にコメントを書いたり、声をかけてもらうこと、コメントを読んでもらうことで心的エネルギー、生きるエネルギーというものをもらうこともある。オンラインゲームのコミュニティーを作ることもある。そういった場で出会う他者も、資源だ。
遺伝子について。
一番大きな、意味の大きな資源。不安になりやすい遺伝子がある。なんでも楽しく感じてしまう遺伝子がある。どの遺伝子を持っているかは、人によって違う。犯罪者になりやすい遺伝子もあれば、引きこもりになりやすい遺伝子もある。同じ環境にいても遺伝子が違えば感情・思考は変わる。もちろん学習によっても変わるけれど。大事なことは、遺伝子は「その人しかないもの」の最たるものであることだと、年寄りは思う。遺伝子は、自分を作り上げる資源だ。
若者と話をしていて、その若者には、年寄りにはないとある「スキル」があることを知った。その「スキル」は、当の本人によれば、「ネットの世界をみたら特別とは言えない」スキルらしい。けれども、年寄りはそのスキルに驚いたし、感動した。年寄りも実はそのスキルを得ようと思ったけれど、得られなかった経験があるからかもしれない。心的エネルギーの使われ方を、個性といってもいい。個性は、遺伝子と環境を通じて、作られる。心的エネルギーを使うことで、作られる。時間をかけただろう。お金もかけただろう。
この若者がそれらの資源を使ってが、年寄りにはどうも、健康的であるように思えた。あくまでも、年寄りにはそう思えた。「誰でもできること」であったとしても、そのスキルは、その若者にとって、意味のあるスキルだと、年寄りは思う。
ここでまた他者という名前の資源に出会う。
そのスキルが持つ意味は、生かすという意味で、生きるという意味で、他者がいなければならないと、年寄りは思っている。そのスキルを必要とする誰か、でもいいし、そのスキルを見て驚いてくれる誰か、でもいいし、そのスキルを一緒に楽しんでくれる誰か、でもいい。「関心を持って遊ぶ」こともスキルになる。そのエネルギーは、その遊びに関心がある人たちのエネルギーを増やす体。心的エネルギーを注いで作ってきた自分と他者との出会いが、新しい心的エネルギーを生むからだ。心的エネルギーを減らすような関係だけじゃないことを知ることができたら、それは「助け」になるのではないかと、年寄りは思う。
ホモサピエンスは社会的存在だという言葉がある。
ホモサピエンスは遊ぶ存在だという言葉がある。
集団は、資源を効率的に増やしたり使うために機能している。
お金ではなく、心的エネルギーを増やしていく関係を作れたなら、その関係は、社会と呼んでいいのではないか。小さなコミュニティーであっても、小さな社会ではないだろうか。
この若者の場合、「スキル」を育ててきた若者自身の物語が、「取るに足らないもの」「価値のないもの」のように映っていたように年寄りは思う。ネットの世界に目を移せば、同じスキルを持った人がウヨウヨいる。プロも、アマチュアも、たくさんいる。その世界を見てしまうと、どうも自分が小さい、取るに足らない存在のように思えてしまう。けれども、それが事実だとしても、その考えが「助かりようのなさ」の感覚を呼んでしまうなら、生きずらくなるだろうと、年寄りは思う。競争原理が面前に押し出された世界では、どうしても自分が小さくなってしまう。そして自分を卑下したくなる心のシステムがある。卑下という言葉ではなく、どうしても自分や他者を傷つけてしまうような心のシステムのことと言ったほうがいいだろう。
ここで一曲。優しい感じのボカロ。コメント欄にも注目です。
こういった感情や思考の習慣を持った若者に対して、年寄りは何ができるだろうか。
どんな言葉を掛けられるだろうか。身動きが取れなくなっていたら、思考するにもできない。逃げる元気もないという若者の助けになるのは?
「これをする」「あれをする」といった行為レベルの指示を考えがちになるが、それを若者は望んでいるだろうか。言葉レベルで且つ感情、若者自身の経験から始めて、ゆっくりと、若者自身の感情や思考のプロセスを追うことが一番大事。だから、本で得た情報を伝えることは(無思慮にやってし米がちではあるが)野暮だ。と年寄りは思う。結果を求めがちな年寄りであるが、それは若者の役には立つことは望めない。なぜなら、全ての出発地点は若者にあるから。先にゴール地点で叫んでいたって、助けにはならない。ことが多いと年寄りは思う。
野暮な話は次のような内容になる。
マイナスの感情が襲ってきたらどうするか。(不健康をマネジメントする)
- 感情は出てきてしまうもの。心のシステムの中で感情がどのように振舞っているのかを伝える(ラジオの喩えー感情へのリスポンスを変えることが、変わるということ)。
- 感情は出てきてしまうものなので、出てきたからといって嘆くものでもないことを伝える。
- 感情に押しつぶされそうになった時に、自分を助ける方法がいくつかあることを伝える(if then作戦の、thenを決める。自分語りの科学を知っておく)。
プラスの感情になれることをする。(健康をマネジメントする)
- 心が少しでも元気になるのはどんな時か。
- 健康な他者との関わりは残っているのか。
- 年寄りと遊ぶ。楽しいか?
逃げる、紛らわすというコマンドもある。
それは音楽だったりアニメだったり、気分をあげてくれたり、涙させてくれたりする。
日本は、ハラスメント大国、ハラスメント先進国として、こうしたカルチャーが育つ土壌がある。脳内物質を出してドーピング。
こういった話が野暮なもう一つの理由は、これが全て「若者のすること」のように思えるからだ。「年寄りのすること」が大事なのではないかと年寄りは思う。抽象的に言えば、年寄りが若者にとってアクセス可能な、利用可能な資源であることが、「年寄りのすること」ではないか。
制度外の時間を作る、お金は・・・どうだろう、心的エネルギーを消費させるような言葉をかけてはいけない、逆に少しでも増やせたらいい、年寄りの持つ遺伝子を制御して、健康的な関係を作ること。若者のプロセスを急かしたり、無理矢理方向づけようとすると、負荷がかかってしまう。結果を求める、結果に向かわせることは、期待をかけることになり、若者の負担になってしまうだろう。ただし認知療法などの意図的なプロセスへの介入を若者が望むなら、その限りではないが。
人は他者をコントロールできない(支配するなら別)。他者に対して自分の思考や行動を選択するしかない。という事実くらいは伝えてもいいだろうか、といった思考は、おそらく若者の心のプロセス、思考と感情に受け入れられるものではないと思う。喋ることで気持ちが良くなってしまうという心のシステムがある。年寄りにはよくあることだが、注意したい。年寄りも若者も「わかっちゃいるけど」やってしまうことが多いのではないか。
時間をかけて、ゆっくりと、自分の資源を増やしていって、その資源を使って他者と関わり、心的エネルギーを充実させることが、人の実直な生き方なのではないかと、年寄りは思った。小さくとも、充実していきたいものだなぁと、年寄りは、思った。そのプロセスはゆっくりとしていて、真っ直ぐではなく、しかも多様だ。予測できない。一つ小さな変化を作っただけでも、色々な現象が起きていくる。その都度、若者に生じた感情や思考のプロセスを、若者が望む範囲で一緒に眺めたり触れたりすること。励ましは期待の言葉と受け取られる危険性もあるから注意。心のシステムを変えること、思考と感情の枠組みが変わるには時間が必要だと年寄りは思う。年寄りが若者の感情や思考を期待したり飛躍したり急かしたりするのは、迷惑だ。頭の中で認知的に処理することもできるが、この若者の場合はどうなのだろう。
簡単なイメージをしてみよう。
3次元の空間を考えてみる。x,y 座標は同じだが、z座標が違うイメージ。もしかしたら、z座標も同じイメージがいいのかもしれない。
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タイトル回収。
自尊心、自己肯定感、自己効力感と呼ばれるものは、プライド、自愛、高飛車、ナルシストの意味で使われることもできるから、使用を避けるべき言葉だと年寄りは思っている。だが、肯定的に使われている限りにおいて、これらの言葉は、資源としての他者、自分を作り上げる他者との健全な関係を意味するのではないかと、年寄りは思う。だから「自尊心・自己肯定感を感じられる関係」は、良くも悪くも相手次第だということ。「自尊心」や「自己肯定感」はその点で、私有物ではなく、共有物だと考えた方が良いのではないか。書いてきたように、資源としての若者の価値は、自分で決めることもできるけれど、ホモサピエンスとして、それが他者の影響を受けることに間違いはないように思う。卑下したり、絶望したり、自分を貶めたりする状況は、健全な他者の不在を意味するにすぎない。自分の中に健全な他者を作ることができている人は、少ないように思う。私自身、健全とは言えないし、もしかしたら誰1人、自給自足できないのかもしれない。オキシトシンという物質は、実際、他者からもらうものだ。
健全な関係とは、ハラスメントのない、お互いの思考や感情を尊重し合う、それでいてやさしく厳しい、学び合う、喜び合う、受け入れ合う、そんな関係のことだろうか。
他者という資源の乏しさが、人を「助かりようのない」状態にしてしまうと、年寄りは思った。学校という場所は、家庭という場所には、一体、どんな資源があるんだろう。その資源は、人を豊かにしているだろうか。年寄りは、その資源の一部として、他者に受け取られ、使われているだろうか。
ここで一曲、激しい感じのボカロ。コメント欄にも注目です。
こんな記事を見つけた。
他者の心的エネルギーを奪って、自分の心的エネルギーを高める行為を、ハラスメントという。
もしかしたら、学校で、家で、友達との関係で、ハラスメント中毒にかかっているかもしれない。
こちらはボカロではないですがたかやんさんの曲。コメント欄を見ると・・・
一人一人に固有のプロセスを、年寄りが邪魔をすることがないよう。プロセスから引き剥がすことがないよう。ハラスメントにならぬよう。年寄りは若者のリズムとテンポとメロディーを侵してはいけない。侵したくない。
思考を変えるために、行動を共にする、経験を共にするという方法がある。学校では潜在的カリキュラムと呼ばれている。つまるところ、経験が、思考、心のシステムを作り替えたり、強化するというホモサピエンスの本性を使って、「洗脳」ができる。中立的な言葉で言えば、影響を及ぼすことができる。「一緒にやってみようよ」といった年寄りの誘いは、年寄りと若者が同時に心的エネルギーを高められる時にだけ、健全な機能を果たすだろう。慢性的に他方のエネルギーだけ高まったり、他方のエネルギーが低まる行為、文化、システムは、健全とは言えない。
「失敗」を重ねてきた若者なら、なおさら「行為」は不安だし、恐ろしいものに聞こえるかもしれない。だからそれは小さな、負担の少ないものであったらいいし、助けてもらって達成できたりできるものであっていい。多分それは、一歩離れるとか、力を抜くとか、別の方向を向くことを励ます行為なのだと、年寄りは思う。
例えば他の年寄りにはこういう人がいるようだ。見習いたい。
この動画で語られていることを聞くと、大学教授の「制度外の時間」、「心的エネルギー」が、若者に影響を与えている。この年寄りの「心的エネルギー」はいったいどうして出てくるのか。どうして手紙を書こうと思ったのか。書いたのか。
目の前の若者が、自分と重なった。投影したと言ったらいいんだろうか。
誰かが自分にしてくれたように、誰かにすることは自然なことだろうか。
東大前の殺人未遂事件は、いじめの矛先が学校の外に行ったというだけで、いじめであり、虐めである。虐められた人間が、虐めるのは、心的エネルギーの枯渇の連鎖。日本というシステムは、きっとこのまま連鎖を続けるのでしょう。原子炉の中身のよう?止まらない????

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野暮だといった行為レベルのアドバイス、戦略集を見つけたのでコピペします。欲しいと言われたら渋々渡す情報として秘めておきたい。若者の現在の心のシステムに組み込みやすいものはどれでしょうか。それが役にたつでしょうか。プロセスは不思議なもの。若者のリズム・テンポ・メロディーを壊さないように。https://www.coursera.org/learn/managing-emotions-uncertainty-stress/
いじめに対応しない学校と教師が生徒のいじめを誘発する
いじめは漢字で虐め。
虐殺の虐、虐待の虐、残虐の虐、暴虐の虐、虐げる。
この本を参考にして書いています。
2歳から6歳の若者でも、感じて、考えて、ネガティブな経験と向き合おうとしている。
幼児教育・保育(ECEC)の研究・実践において、質の要因はますます関心を集めている。本稿の目的は、ECECの質との関連で、子どもの声の重要性を強調することである。本稿では、ECECにおける子どもの否定的な経験を、サービスの改善や子どものウェルビーイングの向上に役立てることができるとして、それに焦点をあてている。データは、フィンランドの2歳から6歳の子ども2500人(女児50.4%)からアンケートによって収集した。データは質的および量的内容分析によって分析された。その結果、子どもたちは構造的要因とプロセス的要因の両方を挙げていた。また、ECECでの否定的な経験として、子ども同士の相互作用が最も多く言及された。我々は、子どもの否定的な経験は、ECECの専門家にとって、ECECのプロセスの質において重要な要素である子どもの回復力と帰属意識を支援する機会を提供すると結論づけた。https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/03004430.2020.1801667
学校の外でもいじめ。虐めとはなんだろうか、と考えるきっかけになればと思います。
殺人は虐めでしょうか。犯罪はいじめでしょうか。談合はいじめでしょうか。独り占めはいじめでしょうか。
「自分には関係ない」と思った時、私たちはいじめの加害者です。
いじめの事実が判明したら。
- ストレスフリーの安全地帯を大事にする(場合によっては学校に行かない)。他にストレスに感じていることがあればそちらを取り除く(習い事とか、成績とか、心配事、我慢して来たこと)。
- 直接的な証拠(写真や動画、録音)を記録する。
- 校長と担任に文書で提出(証拠として残すため)、文書で回答を求める。
- いじめの加害者がわかっている場合、知らないふりして加害者の親と仲良くなる(!?)
- 自己主張スキル、虹の呼吸法をマスターする(抵抗力を上げる・対峙する)。
自己主張スキルというのはこういうものです。
レイチェルは、スーだを壁に押し付けると彼女の衿をつかみ、もし金を出さないのなら「片付けてやる」と脅す。スーだは落ち着いてレイチェルの目をじっと見た後(心の中で三まで数える)、「お金は、ただじゃ渡さないの」と言う。レイチェルは脅しを繰り返すが、その都度スーだは、相手の目を見たまま穏やかで自信に満ちた声の調子で、自分の言葉を繰り返す。レイチェルは3回目の強迫の後、ついに、厭わしくもうんざりして歩み去るーお金は取らずに(!)(p166)
私は、いじめてくる相手を無視するあの方法だけ使ってる。そして、相手に「どうぞ、どいて」っていうの。呼吸法も試してみたけど、ずっと気持ちが楽だった。(p306)
呼吸法の練習にも、子どもたちはちゃんとついていってました。あとで、ロールプレイをしながら歩き回ってましたが、その時も、自分たちで呼吸法を練習していました。「虹の呼吸法」をかなり苦r返試してましたよ。あの子たちにも、覚えられたんです(p311)。
生きるための工夫、呼吸を教えるのはとても良いことだ。
注意:虹の呼吸法は、現在巷に広がっている「感謝」とかそういうものではなく、片側の鼻腔で吸い、他方の鼻腔で吐くというものです。rainbow breathng
このほかにも、弾幕foggingという技法は相手の嫌がらせに賛意を示して、嫌がらせの効力をなくすという手法があります。傷入りレコードbroken recordは、傷がついたレコードが同じところを繰り返し再生するように、同じことをしつこく繰り返すという手法です。
すれ違い側の「死ねばいいのに」と言った暴言の場合はどうしたらいいのでしょうか???
個人ができることは、これくらいだと思います。
おとのねさんは、学校という組織は原則、信用していません。
たまに「良い先生」が出て来ますが、例外です。
学校という仕組みが、教育システムがそもそも機能していないと考えているからです。(運よくいい先生がいた、というのは、システムではありません)
これは生徒に対してではなく、教師が教師に対する態度にも言えます。神戸のカレー事件は有名ですが、学級崩壊というかつて流行った現象も、教員間の助け合いのなさ、無関心を表しています。現在、学級崩壊は別のフォームに進化したようです。こういった現状も無視されていると言って良いでしょう。これは学校のネグレクトです(児童虐待防止法では、養育者と児童の関係しか定義されていないので、いじめと同様に、学校内でのネグレクトは法的に定義されていません)。

2021年、2022年の記事にこんなものが・・・
令和になってからも、学校、教育委員会、校長、教員が揃っていじめを隠蔽しました。


ちなみに、「いじめ」の定義は生徒間のいじめに限定されています。教師の生徒いじめは「いじめ」ではありません。教師による生徒いじめは、法的に定義されていません。

学校は治外法権でも持っているのでしょうか(ただしいじめ防止対策推進法の規定に触発する場合は裁かれる)。「いじめ」の無視はいじめに間違いないとおもうのですが。論理的に間違いないと思うのですが?「いじめ」という言葉を生徒間のいじめに限定しているという事実は知っておいて損はないでしょう。
教師によるいじめは法的にどうなんでしょう?体罰?

こんな記事まで・・・

生徒をいじめる教師と、生徒をいじめる生徒の数の相関関係を調べたいものです。
隠蔽されてしまうと調査になりませんが・・・
法律に関しては、「ちゃんとした弁護士」に相談してください。

被害届が受理されなかったり、調査されないこともあります。
その場合でも通報の記録は残るので(情報開示請求をすれば、期間内であれば記録が取得できます)、被害届を出す出さないに関わらず通報はしたらいいと思います。が、私は素人なので「ちゃんとした弁護士」に相談してください。
だがしかし、、、、
駄菓子菓子・・・
法的な対応は事後処理になります。また、精神的に負担になるかもしれません。
精神的苦痛を根拠とした損害賠償請求事件
SNSで被害

リストがありました。最近のものは書かれていません。
法律には満たすべき「要件」があります。法律とはそのような世界です。「ちゃんとした弁護士」に相談してください。もしこれから「保険」に入る機会がある人は、弁護士特約がついているか、見ておくのも手です。
ネットの中に潜ると、色々出て来ます・・・
[いじめ]というキーワードの他に、示談金、訴訟、裁判、判例、などと入れると出てくるかもしれません。
こんな記事もありました。

法的措置を取ることは、「いじめは犯罪である」ことを加害者にわからせる機能があると、おとのねさんは考えています。ちなみに学校も、無視したり、有耶無耶にしようとしたらいじめの加害者です(法的には教師のいじめは「いじめ」ではありません)。示談をするときも、「ちゃんとした弁護士」に相談した方が良いでしょう。誰を被告にするのか、どのような事実があり、要件として使えるのか。などなど。
日本でいじめがなくならない理由は文部科学省の事後処理対策?
校長と同じように、文部科学省という組織、教育委員会という組織がいじめどのように認識しているのかで、対応が変わります。いじめという現象には関心を払っておらず、いじめの被害者を無視し、加害者をなだめているだけだと思うのは、おとのねさんだけでしょうか。
色々な情報があります。
「臭い物に蓋をする」「窓口で相談」できればいいとしか思われていない節があります。
学校のシステムとは分離されて、個々人の問題として捉えられています。
現状、それが文部科学省の「いじめ対策」です。

「誰かに知らせる勇気を持つよう伝える」って・・・・伝えるだけでいいんですね。
「いじめに向かわせない力を育む」って・・・・・育めなかったってことですかね。
「徹底的に守り通す」って・・・・隔離すってことですかね。
https://www.mext.go.jp/kaigisiryo/content/000021332.pdf
傍観者の動員、あるいはいじめを目撃している大多数の沈黙が成功の鍵である。いじめを抑制するにも煽るにも、同席者の反応が重要であることは、研究により実証されている。さらに、フィンランドで開発されたKiVaいじめ防止プログラムのような非常に効果的なプログラムのいくつかは、いじめっ子の行動を強化するのではなく、被害を受けた仲間を支援するために傍観者の意識、共感、自己効力感を高めることに依拠している(Kärnä et al., 2011)。Ttofi and Farrington(2011)の分析では、「仲間との協働」という要素はいじめ防止プログラムの効果を高めるものではなかったが、彼らのコーディングでは「仲間との協働」は、すべての仲間の役割に関する啓発や教室での傍観者介入のルール策定ではなく、「仲間によるいじめへの取り組み」(正式に割り当てられた仲間仲介者や仲間支援者の活用を含む)と定義されている。理論的にも経験的にも、後者のアプローチが強く推奨される(Salmivalli, 2010)。https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/13548506.2017.1279740
教師の暗黙の信念が生徒に伝わり、教師の解釈や生徒の倫理的能力を教育するための努力に影響を与える複数の方法があることが明らかになった。https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/03057240.2017.1374244
また、文部科学省は専門家を配置すれば「良い」と勘違いしているようです。
「窓口作戦」と呼んでいいのでしょうか。
増え続けている「いじめ」を社会という文脈で取られられていないようです。
ですが、実際は、いじめは、組織の問題です。
この本で明らかにされていることは、「教職員の関与」であった。つまり「教師の意識」「教師の実践」「教師の関わり」がなければ、持続しないし効果もない、ということ。
そして、学校全体で取り組まなければ効果がない、ということ。
そもそも「いじめをなくす、0にする」ことを目標にしている学校は日本にないようで、ほとんど「いじめに個別対応する(後処理する)」ことしかしていない、規範としてシステムとして社会として、いじめられた人をケアしたとしても、いじめという現象は放置されている状態です。「綺麗に、なかったことにする」ようなシステムになっているとおとのねさんは思っています。
学校という社会の運営として、いじめは「窓口」だけで対応するといった姿勢が続く限り、いじめはなくならないし、状況はよくもならないでしょう。
非暴力を週に1、2時間教えたとしても、唱道する原則を日々実行しないのなら、その『教え』の価値はほとんどない。
Violence and conflict resolution in schools : a study of the teaching of interpersonal problem-solving skills in primary and secondary schools in Europe / Jamie Walker
いじめに取り組む、いじめをなくすカリキュラム設計をしない。
共同的な価値に根ざしたカリキュラムが有効であるという。
協同的な価値に気づかせ、価値を実践するための感情移入をデザインする。
日本であれば「道徳の授業」とか、他の授業の「グループ学習」や「特別活動」でこれらを満たしているとでも言いたいかのようだが、「いじめ」の状況を見る限り、その目論見は有効でない。
役に立っていない。
と見た方がいい。
協同的な葛藤解決の鍵になる2つのスキルは
- 感情や要望をはっきりと直接的に正直に表現できるスキル
- 他の誰かの話を注意深く聞けるスキル
が挙げられている(p149)
主張訓練の基本思想は
- 他人から尊敬を持って扱われる権利
- 個人の感情や意見を議論する権利
- 慶長され、真剣に受け止められる権利
- やましさの感情を持たずにノート言う権利
- 望むものを求める権利
- 間違うことができる権利
- 主張的でないことを選べる権利
と言った人権哲学を含んでいるらしい(p167)。
訓練方法の具体的な方法は次の本に書いてあるらしいのだが、有料なのでどうしよう。
ただこのスキルが発動する条件は「空気」にあるようだが・・・(スキルの発動が受け入れられる文化)大人たちがまず実践してはどうかとおもう。「空気」を作るところから!
オルヴェウス
Eggleston report
sticks and stones 子供達により再現された学校で起きているさまざまないじめ、いじめについての討論会の様子、そして「いじめ裁判」の模様。
Only Playing, Miss Neti Neti Theatre Companyのいじめを題材にした演劇作品
カリキュラムがいじめを助長している可能性
どう言うことか。
学校がつまらないから、いじめる、憂さ晴らしする、と言った因果関係を推論することには合理的な根拠があると思う。
例えばシェフィールドのいじめは休み時間、校庭で起きることが多かった。
問題は、子どもたちに何もすることがない時に起こる。校庭を走り回ったり、座り場所もなく、寒さに震え、退屈を持て余すと言うようなことが、問題の悪化に繋がっている。目的をもった活動[に参加する機会を与えれば]多くのトラブルは避けられるだろうし、どの子どももはるかに幸せな状態に置くことができるだろう。(p185)
practice to share the management of children’s behavioral needs(1991)birmingham city council education department
この文言の文脈は「校庭の遊具のデザインが、子供たちを友好的、協同的な遊びを誘発するか」である。これをカリキュラムに適用することは当然、間違ってはいない(近代教育システムではあまり省みられないが)。
カリキュラムの中にいじめがもともと含まれているものがある。
国語と社会だ。
歴史は多くの残虐な行為を含んでいる。
現代に遡るまでもなく、虐めというテーマで一貫して学習することが可能だ。
ナチスを言うまでもなく、逆にローマの多神教の話をしてもいい。平和学として社会を学ぶこともできる。
国語は文学を見ればモラハラ、パワハラ、戦争を含めて色々な人が書いている。
いじめを直接のテーマにしたものを選ぶこともできる。
しかし近代教育システムは、そうは考えない。
いじめという現象を無視している。言葉にしない。「いじめ」という言葉にはリアリティーがない。
学校で無視される社会的スキル(いじめを引き起こすトリガーも弾薬も装填済み)
近代教育システムは「潜在的カリキュラム」によって社会的規範を若者たちにインストールする。社会的スキルではなく、規範の刷り込みだ。
social emotional skillとも言われたりするが、領域は広い。社会性、他者との関わりに関すること全て社会的スキルだ。
校庭での遊びにおいて「遊びの取っ組み合い」と「いじめの取っ組み合い」がどうして起こるのかという問いに、一つの答えを出してくれている(悪意に基づかない争い、と言うケースがある)。
他者との相互交渉の性格を読解するスキルの貧しさは、校庭での攻撃性の高さと同級生たちの間での人気の低さとにそれぞれ相関している、と言うアメリカでの研究結果もある。校庭の子供たちを観察し、けんかごっこが他の活動に転化してゆく確率を調べると、遊びと行動の区別が下手だ人気も低い傾向の子供が、一方の当事者であるような子供同士の出会いは、攻撃へと転換する傾向が高かった。これに対して、相手の行動タイプを峻別するスキルを持ち人気も高い傾向にある子供たちが、一般の当事者であるような出会いは、ルールに則った友好的な遊びに結びつく可能性が高かった。(p194)
つまり、一方は遊びでやっているつもりでも、他方が本気だと思っていたら、「遊びではなくなる」と言うことだ。
いじめの加害者がするであろう言い訳に「ただのおふざけでした」と言うものがある。本当におふざけだと思っていたのだとしたら、背筋がゾッとする。
このように、イジメの認知件数の増加は、社会的スキルの低下と見ることもできる。
https://www.mext.go.jp/kaigisiryo/content/20201204-mxt_syoto02-000011235_2-1.pdf
しかしはて、このグラフが不可解なのは、「なぜやたら小学校だけ数値が上がっているのか。
である。おとのねさんは基本的に文部科学省の出す統計を信用していないので、次のように推測したりします。「いじめは年齢が高くなるほど少なくなっていくと言う現象があるので、中学校や高校のいじめと整合性が出るようにデータを改竄した」つまりいじめが「自然なもの」であることを印象付けられるグラフとなるようデータをいじったと思ってしまうのです。
もしそうでなかったとしたら、本当に小学校の認知件数が爆上がりしているのだとしたら、理由は何でしょうか。最近流行りの統廃合、生徒たちが文字通りなんでも「いじめ」だとアンケートに書いた。と言った理由でしょうか。昔は、中学校がダントツだったんですが。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/23/08/__icsFiles/afieldfile/2011/08/04/1309304_01.pdf
このサイトのページが分析的でした。
でもデータが・・・・1999年は、古いでしょう・・・・
OECDの2005年って・・・しかもこの数字、変ですよね。20人学級なわけないでしょう。どんな計算をしたのでしょうか。
OECD「図表で見る教育2005」より「教員一人あたり児童数」
ここら辺にあると思うのですが、元データを探せませんでした。。。

閑話休題。
争いごとを解決するスキルは、学校では習わない。
加害者が「いじめる」理由も、加害者が自分の感情、動物的な暴力性をコントロールできていないからだと思うこともできる。それが例えば親や教員、上司であれば、社会的に承認された(虚構の)「権威」によって保持されている。子供同士であれば、「レッテル」を貼ったり、「罵る」ことで、虚構上の「権威」になれる。
いじめることを自ら正当化する虚構を作り上げる。
いじめという行為自体が、自分を権威づける虚構を構成する。
虚構については、ホモサピエンス全史を読んで欲しい。
部落差別、人種差別、もしくは嫉みといった感情も、ホモサピエンスらしい「排他的」本性によるものだ。この本性をコントロールして平和に生きるには?やはり、社会的スキルなのだろう。
相手を知ることが大事。
例えば、ニーズを持つ子供達のために特別な介入策が必要かという問いに、ある教師はこう答えた(p307)
[メインストリームの]子供達に、特別なニーズを持つ子たちとも交わるよう教える介入策が必要だと思います。ここの子供たちは、耳の聞こえない子供達と意思疎通するのがとても上手です。でも、耳が聞こえないということがどういうことなのかについては、理解できていませんでしたから、聴覚障害についての啓発ビデオは良かったですね。
この映画はもともと漫画で、ラブストーリーになっているけれど、いじめ、不登校、聴覚障害が一つのテーマになっています。
漫画、アニメ、「となりの怪物くん」は社会的スキルがなくてハブられた人が主人公の1人です。これが「いじめ」かどうかを議論する以前に、社会的スキルを高める方が生産的であるようです。

社会的スキル、というものが壊れている例として、DVをあげることもできますが、いじめにもっと近いものは、「他人である」という点でストーキングでしょうか。
ストーキングも、いじめと同じで、あまり公的機関では相手にされない犯罪です。
なぜでしょうか?
ちなみにですが、4歳児でも「いじめ」はできます。
それは社会的スキルの不足ということもできるし、感情と思考、行為の習慣であるとも言えると思います。大人からの感情や行動様式をもらって、子どもは成長します。大人が無視をすれば、子供も無視をして当然の世界になるでしょう。
専門家は、窓の奥。一般の人は、蚊帳の外。
日本では、スクールカウンセラーという専門家に「任せて」いる。と言えるだろうか。
実際は、学校の都合がいいように専門家を使っていると言うのが実情だったりするのだが・・・・たまには「良いカウンセラー」もいるから、どうしようもない。
シェフィールドでいじめがよく発生するのは、昼休みの校庭だ。
だからこの調査、介入では昼休みの遊びの「指導員」を配置した学校がある。プロジェクトチームは、学校に昼休み指導員のための研修も行った(昼休み指導員は教師ではない。文脈上、保護者か地域の人のようだが)。(日本のように形式だけの研修ではなく、内容のある)研修コースに参加して、指導員は実際に、機能したようだ。
日本であれば、校舎内でいじめが行われるようだから、監視カメラで証拠をとっていたらいいのにと思う。プライバシー?更衣室とトイレは聖域になるかもしれない。そして陰を探して・・・いじめは起こるだろうし、映像よりも音声の方が情報的に重要なのが日本型のいじめのように思うので、別の案を考えてみよう。やはり、近代教育システムの導入を再検討してはどうだろう。
保護者や地域住民が学校に入る試みが、一部の学校でなされています。
学校を地域に開放する。社会的な財産、資産、資源としての学校の姿を想像してみてください。
いじめはなくならない。校長、教職員、生徒を全員心を合わせねば。
シェフィールド・プロジェクト
2年間にわたる介入・調査をイギリスのシェフィールドの小学校・中学校合わせて約20校に対して行った。「いじめ」をなくすために考慮されるべきことは何なのか、何が有効で、何が無効なのかを調べた。プロジェクトチーム(介入・研究チーム)が学校に提供した外部支援は以下の3種類(p96)。
- 合同研修プログラム(訓練・情報提供・討論会)
- 教育心理学の専門家の個別学校訪問
- プロジェクト・チームのメンバーによる個別支援(会合への参加)
つまり具体的に「あれこれこれをしてください」と言わなかった。
研究では、各学校がどれだけの実践をしたかの指標を作り、得点化した。
学校のサイズ、クラスのサイズ、人種的構成、学校で友人を持たない、学校への行き帰りのいじめの頻度は、いじめの頻度と相関関係がない。(p24)
小規模校では、一般に、同じ努力に対してより大きな改善が見られた。学校の規模といじめられたと報告する生徒数の変化は、有意に相関している(p104)。
中等学校で大きく改善したのは、いじめ・いじめられたという報告のレベルというより、生徒たちの間の文化と態度である。「もしいじめられたら先生に言う」生徒が、平均で38%増加した。中等学校では、いじめについての活動が多ければ多いほど、「誰かに言う」生徒数の増加率は大きく、中には、悩みつつある問題にすいて教職員と話す自信を十分に持つ生徒の数が、倍増した学校もあった。また、「いじめられている誰かを助けるだろう」生徒の増加率は15%、さらに「他の生徒のいじめに加わらないだろう」生徒の増加率は31%だった。(p105)
中学校では「いじめられた時、誰かにそのことを話す、特に教師に話す」という生徒の数が増えた。「いじめた時に誰かに話しかけられた・咎められた」と報告する生徒の1人合わせると、中学校では約30%増加した。(p67)
「いじめ被害」「いじめ加害」での改善に有意に関わった「投入」指標は、「教職員関与」だった。(p69)
「投入合計」は、いじめを受けたら「教師にそのことを話す」生徒の増加と強く相関していたし、「教職員関与」も、「教師に話す」生徒の増加と強く相関していた。(p71)
「投入」指標が「達成」指標と相関しなかったのは何故か?(仮説)
いじめに対して多くの活動を展開した学校では、生徒たちがいじめに敏感になった。そして、そのため、いじめの報告数の減少幅は、生徒たちが敏感になる以前に比べて小さいものとなった(仮説)。このことは、学校の「投入」指標とこれら「達成」指標との相関を、緩めてしまっただろう。
生徒が認識する「教師のいじめへの態度」がいじめを減らす。2017年のフィンランドのKiVaプログラムのレビュー記事です。
プロダクトではなく、プロセスがなければ機能しない
カナダでも同様のプロジェクトがあったが、対象校は4校であり、介入・調査期間は6ヶ月出会った。「6ヶ月後、学校でのいじめのレベルはほんの少し改善しただけであった。教室と校庭ではかなりの量の取り組みが実施されていたにもかかわらずである」。この結果を説明するために研究者たちが指摘したものの一つに、「ガイドラインは、教職員によって開発・決定されたものというより、彼女・彼らに与えられたものだった」。ことが挙げられている。(p83)
実りある協議の成否は、指針・対策の草稿にコメントする機会を与えるだけでなく、指針・対策の文書かに先立って、きちんと議題を構造化した討論を行うかどうかにかかっている。従って、学校は、生徒との相談には授業時間を先、教師その他の職員や理事会との間の闘技には既存の委員会組織や会合を利用し、また親を参加させれ歌目に家族集会を設定するといった工夫をしなければならない。成功した学校ではこれが行われていた。指針・対策を文書化する場として人気があったのは、職域を超えて組織された作業グループ(昼休み指導員、教師、生徒、家族の代表からなるグループ)だった。このグループの役割は、さまざまな協議を通じて集められた情報を付き合わせて、指針・対策の草案を作ることだった。また、草稿を回覧してコメントを集め、それを元に指針・対策を修正し最終決定する責任を負っていた。(p88)
シェフィールド・プロジェクトから、我々は次のことを知った。学校コミュニティー全体が気づきを高め、協議する活動に関わっている間、つまり介入活動がまだその準備して・開発段階にある時から、行動や態度上の改善は明らかになり始める。これは、インタビューからも、いじめについての昼休み中間アンケートからも明らかだった。後者によると、いじめのレベルに目立った改善が現れたのは1992年の夏学期だが、これは、ほとんどの学校で、指針・対策の開発の段階の時期である。(p103)
こんな面白い話が載っていた(p251)。無味乾燥で退屈な校庭を改善する計画から実施まで、、生徒を巻き込んだ例だ。
ことあるごとに他の子供をいじめていたある男子生徒(この生徒の教室での成績は良くなかった)の行動が、植樹作業中はまるで別人のようだったと言うのである。植樹のための穴を掘っている間、彼は他人への配慮を見せ、仕事に集中し、自信に満ちてよく話した(教師とも自信を持って、自分の行動や気持ち、要求や希望について話せるようになった)。今日課外での目標達成(この場合、建設過程への参加とその成果の獲得)が、いかに生徒たちの自尊心を向上させうるかと言うことを、この例は示している。
いじめは、まさに、現カリキュラムの中で、生まれて、育てられている。
というか、人間の本性だから出てくるのは当たり前だけど、どうやってそれをケアするか、もしくは放っておくか、世話をするか、無視するか。と言うことだ。加害者は、学校にネグレクトされたホモサピエンスかもしれない。とまで、おとのねさんは思ってしまう(しかし、ダメなものはだめなのだ)。いじめは、誰も幸せにしないし、不幸を増やすだけだから。
たったこれだけのことを、校長はしない。教育委員会はしない。文部科学省はしない。
すればいいのに・・・・
校長がいじめという現象をどれだけ重要だと認識しているかにかかっている
そのほか、継続しないことで効果がなくなることも言及されている(p90)。
ある初等学校の生徒たちは、全校集会を通じて推進された反人種差別のメッセージに自信をつけ、この学校の反人種差別政策が校長によって実施されているのだと考えたが、多数の教職員が政策の実施に失敗したため、失望せざるを得なかった(p92)。
ただ言うだけ、アピールするだけ、その場限りの主張ばかりの「人権週間」「シンポジウム」「アンケート」「キャンペーン」は役に立たないようだ。
管理職が理解を示さず、与えられたからやるという態度をとった場合、どうなるか。管理責任者の支援なしに状況を変えようとして挫折した教師の言葉。
ほとんどの教職員は[いじめの問題に]心を痛め、解決のための共通のアプローチに関心を持っていると思います。ただ、感じるのですが、上層部とは、物事に対処する方法が食い違うのです。これは、まるで助けになりませんー混乱させられます。あの人たちには、積極的に関わろうとする姿勢が欠けていると思いますね。校長には、問題が実際どれほど深刻なのか認識できていない、本当にそう思います。私は、いじめは子どもたちにとっては非常に大きなことだと思います。教職員も、最初から、校長と共闘にいじめられているように感じますね。(中略)もし、ことの重大性が管理責任者にわからないなら、勝負は始まりもしません。(p95)
司法でも似たようなことが起こっている。
児童虐待、DVが「だめ」とは言っても、罰則を設けたり、なくすための仕組みは作らない。ただ問題が生じた後に対応するだけだ(もちろんそれは必要だ)。
アメリカでも似たような状況のようです。
北米の学校では、いじめ防止プログラムにより、いじめの減少が緩やかになっている。本研究では、これらの取り組みの効果を制限する要因について、教育関係者の視点を探った。教育関係者103名からなる19の90分フォーカスグループの記録をテーマ別にコード化した。教育関係者は、校外での事件、ネットいじめ、心理的攻撃性の高い事件への男子の関与の増加により、いじめの複雑性が増していると感じている。教育課程は、いじめに対する訓練、実施、迅速な対応のための時間を制限している。また,校長が教師を支援しない,同僚が無関心である,保護者が非協力的である,証拠がないなどの理由で,教師の実施へのコミットメントが低下している。有望なプログラムが中止され、新しい取り組みが優先される。ある教育者はプログラムを修正し、またある教育者は挫折と落胆を感じながら、実施を成功させるために必要な熱意を結集するのに苦労している。時間、トレーニング、サポートが限られている中で、いじめに対処することは、精神的な疲労を高め、プログラムの効果を損なう可能性がある。https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/15388220.2015.1095100
この論文のタイトルはWhat Limits the Effectiveness of Antibullying Programs? A Thematic Analysis of the Perspective of Teachers。
「私は関係ない」と放置されているケースが少なくとも8割
いじめは「集団の空気」から発生するものですが、この空気の濃さを物語る数値があります。
データの参照元がわからないのですが・・・・
・アンケート調査など学校の取組により発見:54.2%
・本人からの訴え:17.6%
・学級担任が発見:10.4%
・当該児童生徒(本人)の保護者 からの訴え:10.2%
・児童生徒(本人を除く)からの 情報:3.4%
本人からの訴えが17%かぁ。
アンケート調査で発見されたというのは、年に何回かある機会を待たねばなりません。
それでも発見できないよりはマシですが。
周りにいる人は、近くの大人や教師に対して腰が重たくなっているようです。
「めんどい」
「関係ない」
「大したことではない」という意識が、大人から伝染しているように思います。
文部科学省の言いつけで仕方なく「いじめ対応」している大人の姿を見習った生徒たちの数字です。
「大人(管理職)がなんとかしてくれる」
「自分たちはアンケートが来たら答えるだけでいい」
といった意識なのでしょうか。
もしかしたら、子供達同士で支え合っているかもしれません。
が、それで解決したでしょうか。そういった意味を持つ調査を文部科学省はしていないようです。
実際、いじめを受けたことがない生徒は、それがどれだけ重大なことなのかを理解していないように思います。私自身、中学生の頃、小耳に「このクラスの誰々さんがいじめられたらしい」ことを聞いたことがあるけれど、その話題を誰かと共有することもなかったし、気に留めていなかった。
「いじめ」というものを、知らなかった。「いじめ」はリアルではなかった。
「いじめ」という現象がどのようなものなのか、学校というコミュニティーの全員が社会通念として共有しているとどうなるか。
今はずっといい。(中略)先生は、本当にいじめのこと気にかけてる。(中略)いつも[いじめのこと]言い続けてるし、悪口言っただけでも捕まるし、捕まえたらその子の母さんと父さんにも話すの。(p102)
「責任の拡散」と「協同的学習」
人間の本性であるからこそ、良いものに向かって仕組みを作るのが美徳と言いたいものです。
傍観者の行動の研究によると、事件の現場にいる傍観者の数が多ければ多いほど、状況をどうにかするために、誰かが何かをする確率は低くなる。「責任の拡散」と名付けられている傾向だが、これが唯一観測されないのは、9歳以下の子どもたちである。この年齢より上では、行動を決断する際、「他人がどう考えるか」と言う社会的な懸念が、しばしば抑制的に働く。もし、いじめ状況への介入が、学校コミュニティーによって奨励され評価されるなら、生徒たちは何もしないでいるよりも、いじめ行動により積極的に異議申し立てを行うようになるだろう。(p118)
いじめ仲間にならなかったら、自分がいじめられる、と言う状況がまたいじめをホモサピエンスの普遍的な現象ならしめる要因の一つだろう。
しかしそれもいじめなのだ。黙っていることが、加担することが、いじめと言う現象を生み出しており、いじめという現象を強化している事実を、学校というコミュニティーの構成員全てが理解すべきだろう。この論理で言えば、皮肉なことに、教師も、管理職も、「アンケートをしていない時」は、いじめを強化していると言える。
これに対して、協同的学習をカリキュラムに加えることが叫ばれている。
自分の思考や感情が認められるという経験、また自分の考えや行動が議論の対象になるという経験、また他者の考えや行動に関して議論するという経験や文化、習慣がなければ、「アンケート」で無記名でこっそり出すしかなくなって当然だろう。(匿名と言えばネット。そうか・・・学校は、すでにネット社会なのか。。。)
協同的学習とは何か、議論とは何なのか。それに答えてくれる本がある。
小学校の、毎日、朝の1時間を「協同学習」に当てた先生の記録。この本は「学校の先生」の1つのモデルを描いてくれています。
日常生活で自分に降り掛かる問題を直視し、いうべきことを言い、相手の言い分を聞き取り、他の人々の考えも集めて解決へと行動を起こす、こうした経験を子供時代から積み上げなければ、大人になっても愚痴をこぼしたり暴力を振るって一時的に問題を解消することしかできません。問題は根本的に解決されないまま生涯にわたって積み上げられるばかりです。(p137)
いじめの問題は、それをみたり聞いたりしている多くの傍観者によって支えられています。
いじめの加害者、被害者同様、多くの傍観者の感情や思考がいじめを支える学校の雰囲気を作っています。不快な感情、恐怖や恐れを言語化し、伝え、理解してもらうことの価値が、現在の学校では存外に扱われているように私は思います。
これは生徒でも教師でも変わりません。どちらも社会の一員であり、ホモサピエンスです。
W学級にいた生徒が成人になった後、W学級を振り返って綴った文章です。
・・・W先生から学んだこととして、今でもはっきりと自覚することが2つある。1つは、何か自分がこれはおかしい、間違っていると感じたらそれを口に出せる勇気を持つということだ。・・・他人のことを勇気をもって指摘することは、逆に自分の非をも潔く認めるということでもある。これが難しい。言論雑誌に論文を書くときなど、自分に恥じないようにどこまで大胆に語れるか、いつも先生の言葉を自覚する瞬間がある。・・・
この本の最後の訳者の後書きではこう書かれている。
本書を通読して感じることは、いじめを助長する要因として指摘されているものに、シェフィールドでも日本でも重なる部分があるということである。例えば、いじめられるのを避けるためにいじめる子がいる、あるいは集団によるいじめでは責任の拡散という現象が見られる、といったことだ。いじめが悪循環を始めると陰惨な結末を呼ぶというのも、また同じである。学校でのいじめに対する大人たちの誤った考えも、似ている。(p326)
その誤った考え方に対して、作者の言わんとすることを拾い上げてこう述べる。
いじめについての「擬ナチュラリズム=擬自然主義」は、人間の社会にはいじめがつきもの、なくならないから何もしない、といったものである。これに比べて、著者らの着眼は清々しい。適切に介入すればいじめを止めることもできる、というのは、いじめプロセスが暴走するも・縮小するも、いずれも、人や社会といった現象に備わるある種の傾向であるからだ(もし「自然」という言葉を使うのなら、双方を共に自然と呼ぶべきである)、そしてその傾向を、我々は、具体的な取り組みの中で「人の手」で方向づけてゆくことができる、と、そう著者たちはいっているのである。(略)「いじめはなくならない、だから打たれ強くなろう」式の発想は、いかにも「1・0」的である。(p328)
学校・校長・教師がいじめを「解決」してなかったことにする構造(仕組み)
「いじめなんてありませんよ」としらばっくれるほかにも、学校が「解決」するやり方の一つが紹介されていました。(p101−105)値なmに、AB帳というのは、毎日、教師であるW先生に書いて、場合によっては毎日1限目に行われる朝の会や学級通信で「議論」や「共有」の対象となる生徒の思考と感情の記録のことです。詳しくは、本を読んでください!
◆まず必要なのは善悪の判断
次の例は、W先生が重大な問題として取り上げたことの一つでした。
◇嫌がらせはやめて 岡崎 四年生AB帳より
勉強に ニワトリの研究を入れた。それをP君に見せると、みんなの前で読みました。私は 「やめて」と何遍も言いました。でも読んでいます。
みんなは読まれたら嫌な勉強は立てなかったらいいと思うでしょう。でも、みんなは、私の ことを、「たまご屋」と嫌がらせのように言います。だから、みんなの前で大きな声でしゃべる のは嫌なのです。私は何回も「やめて」と言いました。ふざけてやったとは、理由が立たないと 思います。P君だけではありません。他の人にも言っているのです。
W先生 : 岡崎さんは「たまご屋」は、「養鶏場」は、いけない仕事だと思いますか? そん なばかなことは思わないでしょう。じゃあ、そんなことを言われたくらいでくよくよして はいかん! しかし、言うやつはもっと悪い! ばか者だ!
ここでは、クラスの出来事に含まれる二つの問題をW先生が重大に受けとめていることが分かりま す。一つは学友たちの嫌がらせの問題、もう一つは岡崎さん自身の価値観の問題です。
まず、第一の問題については、クラスでの約束を破り、他人の嫌がることを繰り返す子どもたちに 対して「ばか者だ」と明確な判断を下すことで応えました(このクラスでは、すでに、ひとが嫌がる ことはしない、「やめて」と言われたらすぐやめようというクラス憲章とでもいうものが、クラスの みなの合意でつくられていました)。
そのうえで、第二の問題、岡崎さん自身の価値観の問題を取り上げています。「たまご屋」に対す るW先生の価値観を示し岡崎さんにも自己確認をさせ、毅然とした態度をとるよう鼓舞します。
◆問題のすり替えや単なる共感ではなく大事なのは訴えの正当性の確認
W学級では、先生のコメントや対応からも分かるように、弱い立場の子どもたちが泣き寝入りをし たり、登校拒否に陥ったりしないように、〈AB帳〉と〈朝の会〉がセイフティー・ネットの役割を 果たしていました。
誰であろうと、<AB帳〉を〈朝の会〉にもち出し、友人の嫌がらせと思える行為についてクラス 全員に善悪の判断をしてもらえるのでした。単なる慰めや共感といった傷のなめ合いは、いくら重ね ても効果はありません。先生と仲間に善悪を判断してもらい、「悪いのは相手なのだ」と分かれば、 慰めはなくても鬱屈したみじめな気持ちから子どもたちは立ち直ることができます。 W先生は、子どもが訴えたとき、単なる共感や慰めで問題を曖昧に収めようとしたことはありませ ん。何が悪いのかを子ども自身も判断できるように語りかけています。訴えそのものが正当でない場 合には、理由を説明し訴えた子ども自身の考えや話し合いを促しています。
では、一般に、子どもたちは自分の訴えに対して教師にどのような対応を期待しているのでしょう か。W学級の子どもたちとは違うのでしょうか。
守屋の調査(守屋、二〇〇三a)によると、子どもたちは訴えた内容に対する善悪判断や解決に向 けての提案・指針を望んでいます。自分の訴えた内容の正当性を問題にしています。共感や同情より は正当性の判断を求め、大人に多い「嫌がらせではなく羨ましかったのでは?」「悪気はないよ」と いうような問題のすり替えには納得できないのです(図3–2参照)。
三十余年後のインタビューに応じてくれたQ氏は、この「たまご屋」の問題のときのことを、訴え られた側として次のように語っています。
「あのとき……W先生が、P君に『鉄くずを集めて溶かしてる製鉄屋>』、僕に『田んぼで米作 っているドン百姓〉と親の仕事を揶揄されたらどんな気持ちになるか、考えてみろ』と言われ た。なるほど、『たまご屋』とふざけて言ったのは確かに悪かった、親のことをこんなふうに言 われたらたまらない、と当時の自分は痛感しました。しかし、この件はかなり深い傷をともなっ た学びであったことも事実です。四年生の私の心に『ドン百姓』という言葉が渦巻いて、たとえ 諭すにしてもひどすぎる言葉ではないかと思い続けました。……」
これは〈朝の会〉でこの問題が取り上げられたときの回想ですが、差別や弱い者いじめをなくすこ とに心を砕いていた先生の怒りが頂点に達していたことが分かります。もし、私がW先生だったらど のような方法で諭しただろうかと考えさせられますが、「許すにしても……」というQ氏の思いは、 若い人々と接する立場にある現在活かされているとのことです。
ここまでに紹介した例から分かることは、他者との関係をつくる過程は、「妨害する他者」との関 係をどうつくり直すかという問題と絡んだ過程だということです。学校生活では、その過程で果たす 教師の役割がいかに大きいかをW学級での取り組みは物語っています。
W学級の毎日の実践
W先生は「子どもたちを社会の一員として迎え入れ、対等に接し、子どもたちはそれを自覚して行動する」ようにW学級のシステムをデザインし、子どもたちにメッセージを送り続けました。AB帳に期待されている役割は以下のように書かれています。
- 自己の表現と表現された他者の理解
- 訴えたいことを表現する(AB帳に書かれている約40%が嬉しい楽しいといった心地よい状態を表す語彙で、約60%が悲しみや怒り、不満といった不快な状態を表す語彙であるそうです)
- 自由な表現を許し、問題解決に協力してくれる人々
その他、感情や思考を書くこと自体にも意味があります。書いたことを後で振り返って、状況から距離を置いた状態で、落ち着いて捉え直すための機能もあるように思います。激しい情動が学習活動の際に必要とされるワーキングメモリーの機能を妨害するという点からも、AB帳は情動から距離を置いて振り返るツールとして有効でした。
AB帳で書かれたことが、毎日朝の会で議題になる、登校前に起きた出来事であっても、その時に生まれた感情や思考をすぐに受け止めてもらえるということが、AB帳が子どもたちにとって意味あるものとして受け取られた理由だと思います。不快な感情を持ったまま授業を受けないようにという配慮でもあるような気がします。
「言わなければ伝わらない、書かなければ理解できない」ことがある、というW先生の気持ちがあるようです。
伝えること。理解すること。補うこと。
AB帳に書かれる内容は主に家族との出来事と子供同士の交友関係であるようです。
何族のかんkねい「してもらう存在からする存在へと変化する喜びの気持ち」「心の拠り所としての母親」「親への不平不満」描写的な書き方や、批判的な書き方、内容に応じていろいろな文体で表現していきます。「我が子を社会の一員とみなせない親」がテーマになることもあります。W先生が、もしくは子ども同士が仲間の自立の手助けをしていくシステムです。
踏み切り台を使って飛び出した子どもたちはどうすればいいのでしょうか。飛び出せばいいというわけではありません。彼らを受け止めてくれる人々、親の価値観を振り切った子供が、納得して身を寄せられるような価値観を持った人々が必要です。飛び出した先にこのような人々がいてくれれば、親への反発から起きる親離れも、子供達の自立への真っ当な助走となります(p96)
親の価値観に挑戦することは、文字通り、子供たちにとっては挑戦です。その挑戦を支えたり後押ししてくれる仲間が、W学級にはいました。
二年生
朝、私が服を着替えて下に降りてくるとお母さんが「シャツ着た?」と言われました。私が「新しいシミーズだけ」と言ったら、「風邪引いてるのにシャツ着とかないとだめ」と言って起こりました。私は、また、お母さんのヒステリーを出すと困るから着替えました。シャツに着替えてじっとしていたら、お母さんが「遅れるでしょ」と言ってほっぺを叩きました。私は泣きました。・・・今度は「ご飯を食べないで学校へ行きなさい」と言いました。カバンを背負いました。そしたら、またお母さんは「お腹空くでしょ」と言って怒りました。お母さんは自分の少な事ばっかり言えて、いいなあと思います。(p88)
三年生
今日メロンを8分の1ずつ切って食べました。・・・お兄ちゃんが2切れ食べたのに、私は1切れより少なく切ったのしかお母さんはくれません。そして、私が怒ったらお母さんが「お兄ちゃんは今試験だからいいじゃぁないの」と言った。私は(テストだからいっぱい食べられるなんておかしい)と思った(p87)。
四年生
参観日はいつもそうだけど、お母さん方が座る椅子は、四班のま後にくるはずです。・・・後ろに座るお母さん方は、黙って聞いてくださったらいいのにピーチク、パーチク喋るので、どうしても気がそれます。それに他の内容の話なので、なおさらです。だから、もう少し、授業中に喋るのはやめて欲しいです。(p124)
年齢を重ねるごとに、文体が変わっていくようです。焦点の置き方、理由の付け方など。
個別的な事象ではない視点から思考した痕跡も見られます。三年生です。
お酒はどうしてあるのかな。このことは、母校のお父さんがいつもお酒に酔っているので、僕はいつも考えるのです。お父さんは、酔っ払うとすぐ人に迷惑をかけてしまいます。時々は、起因女の人にまで迷惑をかけてしまいます。だから、考えるのです。(p89)
交友関係では、W先生は「おかしいと思った時、おかしいと言える人。正しいと分かった時、それが実行できる人、そういう人になってほしい」という理念を持っていたそうです(p115)。朝のかいは実際にそのような発言、心のあり方が許される、育つ場所でした。そこでは「Aさんが悪い」と言った言い方ではなく、「Aさんのここの部分が悪い」という言い方で、人を排除するやり方をしません。「善ん玉もあれば、悪玉もある」と考えるのです。誤魔化さずに、揉め事に自分たちで取り組んだり解決を試みるという経験ができるシステムが、AB帳と朝の会です。
一年生
この頃、みんなが、わたしのことを、「ブルドッグ、ブルドッグ」と行ってバカにします。名前を呼ぶ人はあまりいません。腹が立ちます。だからわたしはこの頃学校が楽しくありません。もっと先生からきつく注意してほしいと思います。勉強は好きなのに、変なことを言われるとだんだん学校に行くのが嫌になります。
その中には、こんな自問自答・自己反省も含まれています。小学四年生のAB帳に書かれていた記事です。
私が弟に嫌なことをされた時は、「嫌やな」と思うが、私がそうやって人の嫌がることをしている時、自分がこんなことをやっても良いのかを考えずに、人の嫌がることをしてしまいます。(p122)
小学四年生にも、自己認識、自己反省をする能力があります。
六年生
・・・バスが発車し掛けの時、何気なく後ろを見ました。おじいさんが走ってこられるのが目に止まりました。バスはゆっくりと動き出しました。おじいさんは、走るのをやめました。私は(きっと、このバスに乗られるのだ)と思いつき、運転手さんに「待って」と言おうとしました。でも、「あっ!あっ!」としか出てきません。・・・こんなことが言えないなんて。私は、心から悪かったと思いました。(p127)
毎日1時間目は「朝の会」
みんなに言いたいこと、先生に知ってもらいたいこと、みんなに知ってもらいたいこと、を話合う時間です。先生もみんなに伝えたいことを話します。嬉しかったこと、疑問に思ったこと、困っていること、悲しかったこと、みんなで話し合いたいことです。実際は子どもたちが「AB帳」に書いたことを先生が取り上げて話し合います。
「AB帳」とは、毎日の出来事の中で一番心に残ったことを「みんなに聞かせたい文」として書いたものです。親との出来事、友達との出来事、見知らぬ人との出来事、上級生との出来事、または観察したり気づいたことなど。「AB帳」には「AB帳は書いても書かなくてもいいの?」と言った問いかけも書かれたりします。また、子どもと先生は「AB帳」で繋がりますが、親と先生の繋がりは「学級通信」で作りました。朝のかいやAB帳で話し合われたこと、先生の思いや問いかけを親に伝えるのが「学級通信」です。
理解は仮説実験授業と言われる「仮説」を立てて、お互いの意見を出しあいます。社会、家庭科もことある毎に子どもたちや先生の人生に関わることを取り扱います。例えば「子ども部屋問題」や「親子原価問題」を取り扱ったりします。
宿題は先生が出すのではなく、教科係・勉強係がみんなと話し合って決めます。「勉強とはみんなでやるものだ。先生は教えるためにいるのじゃあない。みんなの道案内をしてあげるためにいるのだ」と、W先生はいっていたそうです。本の中では著者の言葉で、子どもたちは矯正されて芸をする「サーカスのライオン」ではない、と書かれています。夏休みの宿題は必要か?ということも話し合って決まりました。子どもたちだけで解決できなかったり、先生の助けが欲しいときは、AB帳に感情や思考を書き綴ります。
子どもたちは教え合います。
漢字のテストの採点は、生徒同士がします。お互いの答えをチェックしながら、漢字を覚えるのは苦手だけど、理科の討論が得意なこや、算数の説明は下手でも漢字を覚えるのが得意な子、といったお互いの認識が進んでいきます。
このW学級は、W先生が1年生から6年生まで、クラス替えをせずに継続しました。その中で、四年生の後半から五年生の半ばにかけて、いくらか混乱した状態にあったようです。
皆で4年間かけて作り守ってきたクラスの約束事を守らない、掃除を怠ける、友人に嫌がらせをするなどの「事件」が、数名の子どもを中心として繰り返し起きていたのです。(p240)
9歳を超えた時期から、子どもたちの発達には大きな変化が見られます。ある面では新しい変化になり、ある面では昔の信念や行動様式が固定されていく時期です。
掃除をサボることはいじめではないかもしれません。けれどもそれは「正しくないことをする」「悪いことをする」という点では同じです。
この本ではこんなことが書いてありました。学級改革とは、5年生に上がった後に、ルールを守るという誓いを立てた人のみをメンバーにして「クラスを作り直そうとしたこと」です。
学級改革後もルール無視を続桁子どもたちとはどういう子どもたちでしょう。それは、ルールの高揚を実感するチャンスを持てない、つまりルールで身を守ってもらわなくとも自分の力でなんでもできた子どもたちのうちの何人かです。ルールの存在は彼らにとってはむしろ面倒で煩わしいものでさえあったでしょう。(p251)
「ルール破りと戦い続けることなしにルールは守れない」(p252)
遊びといじめとストレスマネジメントとスマホゲーム
鬼ごっこという遊びがある。鬼が来たら逃げるというルールだ。
鬼ごっこは仲間と一緒に遊ぶものだ。
遊んでいるから、仲間だと言える。
仲間だから遊ぶともいう。
いじめは大抵集団。
とある集団の遊び。
と考えることができる。
一緒に遊ばなかったら、集団から外される、遊ばないことは集団から外れることを意味する、という恐怖がその集団を作る。社会的孤立という制裁の時もあれば、身体的な暴力を受けるという制裁もあるだろう。仲間にならなかったら、遊ばなかったら、自分が危険になる。
大人でも、マウントをとる人がいる。
見栄を張ったり。
人を貶めて、自分を大きく見せようとする人がいる。
人をいじめることで自分らしさを保っている人がいる。
罵ったり、罵倒したり、怒りを何か別のものに変えて毒を吐き出す。
大人でもよくやることだ。
学校は、校長のキャリアに傷がつくからいじめを調査したくないし、認めたくない。
誰にも相談できないと、かなり辛い。
絶望は、辛い。
いじめる人は、遺伝的に「暴力性」を持っている可能性がある。また家庭環境が不安定で、感情をコントロールすることができない、親にされたことを、親の価値観をそのまま学校に持ってきている、といった事情があるかもしれない。愛着障害、と言われているものだ。アダルトチルドレン、とも言われる。
「人よりも優位に立ちたい」と思うことは自然だ。
人間は動物だ。
集団にはリーダーがいることもあれば、リーダーがいないこともある。
ペンギンの群れにリーダーはいない。
狼の群れにはリーダーがいる。
ナチスがユダヤ人に対して行った弾圧は、集団の心理を利用したものだった。
社会的なストレス、経済的な不安を晴らすために、ドイツの人はユダヤ人をいじめたとも言えるし、迫害という行為に参加させることで、国民をナチスに同化させた。
「いじめの歴史」を研究したら面白いだろう。
世界史、日本史はいじめで溢れている。
「人数」は力だ。
ただその力の集め方に、色々な種類があるということ。
家族だって力だ。
学校も、会社も。
9歳になると「はい!はい!」と言って手を上げなくなるのは、他人の目を気にするから。親や教師よりも同級生からの評価が大事になる。同級生からの影響を受ける。アメリカで学校に行かない子がいるのは、学校に行くと麻薬やら銃やら犯罪に関わる子が多いから、親が行かせない、というケースが多いらしい。
東京の駅ではよく人身事故というものが起きる。いわゆる自殺だ。
東京に住んでいる子がこんなことを話してくれた。「人身事故のアナウンスを聞くと、死んだ人のことを考えて悲しくなったり重たい気持ちになっていたけど、気にしていられなくなりました」
処理しきれない、自分にはどうすることもできない情報は、切り捨てるしかない。無力なのだと諦めて、感じなくすることで、精神衛生を保っているという。
いじめに協力した人も加害者だ、などというが、加害者も自分を守るので必死なのかもしれない。
「学校行きたくない」の言葉の裏にどんな景色が見えるだろう。
一人一人違う。
学校まで親が送り迎えするだけでまた学校に通い出す子もいる。
玄関に行くと吐いてしまう子もいる。
言葉にもせずに、黙々と通学して、ある時心がぽっきり折れてしまう子もいる。
さて。
教師すら、大人すら、見捨てられ、無視され、死んでいる学校で、何ができるんだろう。
ストレスは連鎖する。
ストレスをマネジメントできないと、他の人に感染る。
親から子へ、教師から生徒へ、上司から同僚へ、同僚から同僚へ、生徒から生徒へ。
「助けて」と、大人も言いづらい。
子供も、言えない。
吐き出さないといけない感情は、積もるばかり。
そんな沈黙の世界で、ただ黙々と、黙って生きていくのもいいのかも、しれない。
だからみんなスマホゲームするのかな!!
いじめと遊びと人付き合いの境界線
例えば、「いたずら」をする子は、悪戯をすることで人からリアクションをもらえるのが面白くてやっていると言われている。髪を染めたり、派手な服装を着るのも、承認が欲しいからだと言われている(実際のところは身なりで自分の「所属」をはっきりさせる気持ちがあるのだと思う。承認も関係するかもしれないが)。
例えば「からかい」はどうだろう。
「かげぐち」はどうだろう。
その反応を見て、面白がっているのではないのか。
そこのところ、「着飾り」とは別の心がいじめには現れている気がする。
「からかい」はいけないことだろうか。
「かげぐち」はいけないことだろうか。
「からかい」はなぜ起こるのだろう。
他人を馬鹿にすることにエネルギーが向くのは何故だろう。
「かげぐち」はなぜ起こるのだろう。
それが広まったらきっと嫌な思いをする人がいるかもしれないのに。
「からかい」や「かげぐち」は悪いものではないのか、それとも悪いものなのか。
悪い感情が出て来れば、悪い行いが出てくるのは「子ども」らしさだと言えるから、悪くはないのか。それとも悪いのか。
大人だってするから、別に悪くはないのか。それとも悪いのか。
大人自身ができていないから、大人は口を濁しているのか。
どうなのでしょうか。
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