教室の中は9割が他人。仲間は3人。他者への無関心と暴力。
どこかの記事で「太っている人にブスという」ことがどうなのか考えた。
Twitterでこんな記事が流れていた。
テストで20点を取ってしまった子を見て「ダサっ」と言った子がいた。僕はその子に「あなたがそう感じてしまうことは仕方のないことです。でも、それを口に出してしまうことは抑えないといけない。」と伝えた
学友全員と仲良くする必要は無い。でも足をひっぱたり、からかったりはしてはいけない— めがね旦那@小学校の先生 (@megane654321) March 2, 2022
発言、行動が、誰かにとってプラスになるかどうか。
マイナスになるのかどうか。
例え事実だとしても、その事実を本人が言葉として聞いた時に、祈りになるか、呪いになるか。
祈りだと思ったら呪いになった、ということと、呪うつもりで呪った、のは違う。
「ダサい」と思うこと自体がダサいけれど、それは「ダサい」といった本人の今の現状。
「ダサい」と思わなくなるには、時間がかかる。
それよりも、「ダサい」と言葉に出したことで、言われた本人に何が起きるのか、気がついたほうがいい。多分その若者は、気がついていない。気にしてすらいないかもしれない。
心は複雑で目が飛び出てしまいそうだ。
もしかしたらそのダサい若者(「ダサい」と言った若者)は後で仲間とその子をいじるためにそう言ったのかもしれない。それがその若者の社会の築き方。人の足を引っ張って出世する年寄りのやり方。
もしプラスになる言葉をかけるなら、「わからなかったところ、一緒に見る?」とか。
仲間以外は他人。
ポール・アダムスの人間関係の分類
親友、相談相手が5人、
癒し手が15人、
仲間、協力者が50人、
遊び仲間、情報源が150人
知り合いが500人

もしこの割合を教室の30人に当てはめるなら。
親友、相談相手が5人、 1%(未満)
癒し手が15人、2%
仲間、協力者が50人、7% ←ここまでが「仲間」?
遊び仲間、情報源が150人、21%
知り合いが500人、69%
9割は他人だ。仲間と呼べる人は、3人だろう。
だとすれば、教室の中は仲間でない人との関係で溢れている。
愛せないなら、通り過ぎよ。
もし言われた人が「別に足を引っ張られていない」と言ったとしても、それでダサい若者の行動は強化されてしまう。その言葉に傷つく人はこの世界にたくさんいる。「アナタがそう言われたら嫌でしょ」と言っても、ダサい若者は「嫌じゃない」というだろう。「人にやられて嫌なことをしてはいけない」という言葉は、効果がない。人は違うのだから。
「ダサい」と言ったことで何が生まれる?
人を傷つける言葉を使わないようにすることが正当なのは、、
ひとの足を引っ張って自分の報酬を得ることが不当だから。
それとも、そのダサい若者は、嫌がらせでもされた腹いせに「ダサい」と言ったのだろうか?
ただ「ダサい」と言って気持ちよくなりたかったのだろうか?
こんな話は授業中にはできないかなぁ。
いじめは、日常。
人を助ける報酬はなんだろうか?
遠くの国を援助する意味はなんだろう?
「関係のない」国を援助する意味はなんだろう?
ウクライナとロシアの戦争、というが、その戦争を引き起こしたのは、周りの国でもある。
いじめは、暴力は、周りの無関心で激化する。
だからと言って、思慮なく助けようとすると、利害関係に飲み込まれる。
いじめを助けようとしていじめを悪化させることもあるし、自分がいじめられることもある。
人を助ける報酬はなんだろうか?
年寄りの答えは
「その人が持っている価値を引き出す」こと。
例えその人が他者であっても。、関わりのない人であっても、その価値は、周り回って、自分に返ってくることを、年寄りは想像している。
どこかの人が、こんなことを言っていた。
とある国に行ったとき、やたら親切にしてくれる観光ガイドに出会った。あまりにも親切だから危ない人なのかなと思ったけど、最後までただただ優しかった。その人に、どうしてそんなに優しくしてくれるのかと聞いたら、「アナタがこの国でいい思い出を作ってくれたら、アナタがアナタの友達にこの国のことを話してくれる。そうしたら、その人がこの国にやってきてくれる。ワタシはこの国にたくさんの人が来てくれることを願っている」
長期的に物事を考えられたら、この言葉の意味も感じられるのかもしれない。
人生の価値は、人の命の価値はなんだろう。
この巨大化したサピエンス帝国で、他人の価値は、何なんだろう。
どんな世界が、喜ばしいのだろう。
競争に勝ち続けるために、安心をするために、利益を出し続けて巨大化する企業もある。
最低賃金で働く労働者と、高給を受け取る経営者がいる。
それは仕方がないことなのだろうか。
暴力とは、なんなのだろう。
ある人は、「ベルトコンベア」の一部になる価値しか世の中に見出せないのだろうか。
仕事が終わった後に、楽しいことをして暮らしていく。
「価値」の指標はなんだろう。
そんな普遍的な価値は存在しないのかもしれない。
ややこしい。
年寄りの考えが傲慢なのかもしれない。
多くを望みすぎるのかもしれない。
ここで思う。
もし「障害者」という言葉が嫌だという人がいたら、その人をどう指し示したらいいのか?
その人に直接聞くしかないのだろうか。
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