自尊心の対義語がマンドフルネスだという視点。自尊心は不健全な心?
自尊心を守るために、他者を傷つけていないか。
自尊心を守るために、他者を無視していないか。
・・・・自尊心が高い人は、他者への共感能力がないのかもしれない(他者を感じるどころじゃない!自分の評価が重要!)。
自尊心の対義語はマインドフルネス。
マインドフルネスの対義語が自尊心。
そんな気がしたのでメモ。
もちろん、プライドやら自尊心やら自己肯定感やら自己効力感やらグリッドやらいろんなキャンペーンでもちきりな世の中。
自分の定義があったらいいとおもう。
ただ、マインドフルネス(というキャンペーン)が何かを理解するのに、対比的に自尊心というものを引き合いに出してみる。今読んでいる本は『セルフコンパッション』。これもマインドフルネスキャンペーンの一つであるとおもって、本質だけ取り出してみたい。
マインドフルネスは「反芻思考」をとめるのに役立つ。
不安、心配、怒り、妬みといった感情が嵐のように心をかき乱すのを防げる。
「瞑想」することが必ずしも必要ではない。
他にも「反芻思考」を止める方法はある。
数を数えたり、100から7を引き続けたり、手のひらにスイッチがあると思い浮かべて、押したらリセットされると信じて、呼吸をしながら、ゆっくり押すのも反芻思考を止める手立てになるそうだ。
自尊心は、満たされなかった承認欲求のお化けの別名かもしれない。
自分の中の子どもとマインドフルネス
マインドフルネスは、感情によって乱された心と体を見つめることで、感情から離れる方法につけられた名前。ただ自分がどれだけ苦しんでいるのか、痛いのか、怒りで腹が煮えくり返っているのかを、みつめること。そして、自分の中で荒れ狂っている嵐に怯えている自分、嵐に翻弄されている自分が落ち着くまで見守ること。嵐はしばらく止まないかもしれない。
嵐はどうしようもなくやってくるものであり、過ぎ去るものでもある。
嵐が起きないように、自然(他人)を操ることはできない。
マインドフルネスは、パニックを避ける一つの方法だ。
嵐はやってくる。その度にパニックになれば、つらい。
避難所を作っておくのもいい。暖かな暖炉に火をくべてもいい。
嵐は自然の一部。
「またやってきたんだね。いらっしゃい」と言えるくらい、ゆるりと付き合うことができるだろうか。「嫌だな」という思考(感情?)は、そのまま放っておくと「嵐」を強くしてしまう。(これが、反芻思考!ああイヤダイヤダ!イヤダー!、もうイヤ!)
嵐は止まない。
どうやったら安心できるんだろう?
その答えがある。
嵐を睨みつけるのではなく、
自分を慰ること。
涙が枯れるくらい泣いてきた
痛みを感じなくなるくらい苦しんできた子が今日も「平気な顔」をしているかもしれない。
やさしさとは
暗示をかけて目くらましをすることでもない。
幻想を見せて現実をすり替えるのでもない。
興奮物質にかまけて感覚を麻痺させるのでもない。
誰かを貶めるのでも傷つけるのでもない。
(こうしたテクニックを使って「平気な顔」をすることに慣れていくこともできる)
クリスティーン=ネフさんの『セルフコンパッション』で、慈悲の心を自分に向けるマントラ(文句)が書かれていた。p.120)この本はマインドフルネスの本であり、わたしが見た中で一番よくマインドフルネスに触れているようにおもう。(多くの場合、マインドフルネスは瞑想と結び付けられ誤解される。「今ここ」とだけかいてあってそれが実際、何なのかヒントをくれない本が多い)
今は苦しみのときである。
苦しみは人生の一部である。
今、自分に優しくしてもいいだろうか。
必要とされる慈悲の心を自分に向けてもいいだろうか。
パニックになっている自分、パニックになっていないと偽る傷ついた自分にやさしさを向ける意識をもてるだろうか。
追い払う、というより、いつのまにかいなくなっているといい。
「ブリッジマン」の物語。
PTSD(嵐への過剰な身体反応)を克服するのには、天使が必要だった。
(心理的なストレスでも、例えばアウシュビッツのような状況であれば話は変わるかもしれない。もしくは同じだろうか。毎日、毎晩、毎朝、自分を見守り、慰めることができるだろうか)
自尊心とマインドフルネスを対比してみる
自尊心が高いといじめっ子になる。
自尊心が高いと他人の評価に惑わされる。
自尊心が高い人は承認欲求が満たされなかった可哀想な人。
自尊心は「他人から受けている評価」だという研究者もいる。
自尊心は、他者による自分の評価、つまり思い込みであるかもしれない。
「自分自身に対する過大な評価」を自尊心と呼ぶのだろうか。
自尊心はマインドフルネスと関係あるどころか、「嵐」のようだ。
自分は人気があるという奢りと何が違うんだろう?
自尊心と自信は何が違うんだろう?
言葉が入り乱れる世界で、本当にそれが何を指し示しているのか、気になるところ。
自尊心から離れて、反芻思考、妄想から離れて、現実をみるのがマインドフルネスといわれているもの。自尊心は評価する。マインドフルネスは評価しない。自尊心は誇る。マインドフルネスは見つめる。自尊心は快楽であり、マインドフルネスは平常心である。自尊心は怒りや暴力、恐れを生み出し、マインドフルネスは平和や安定を生み出す。自尊心の類義語は優越感であり、マインドフルネスの類義語は慈悲である。自尊心は他者を犠牲にする。自尊心はドラッグであり、競争し続けること、勝ち続けること、賞賛されることを要求する。
自尊心は、報酬回路。自己イメージを満たす快楽という視点もある。

言葉を連ねるほど、自尊心が貪欲な暴君のように思えてくる。
自尊心は他者からの敬意を要求する。
敬意を払われなければ、怒る。
マインドフルネスは自分自身に慈悲を要求する。(あえて何かを要求するとしたら)
自尊心は上下関係をつくる。
マインドフルネスは、隣に座って、目線を合わせる。
自尊心は傷つく(不安になったり恐れたり怒ったり妬んだりする)。
マインドフルネスは、朗らかだ。
自尊心とマインドフルネスの違いでした。
そしてこれが、僕が「褒める」ことに懐疑的な理由。
自尊心は誉れであって、褒めではない。
「素晴らしい成績だ!」と称えられ続けた子が、学校が変わると(例えば進学校に行くと)、自尊心が崩れ、学校にいけなくなるように。自尊心は、裏を返せば自己嫌悪なのだろう。自尊心は、自己イメージが崩れることを嫌う。
例えばヒトラーは「民族」の自尊心を高めることで人々を興奮させた。
そして、操った。
「褒めて伸ばす」が歴史に残った例。
モチベーションを上げるために「仲間意識」を高めるのも、自尊心と関係があるかもしれない。「優れた組織に所属している」感覚。これは暗示の世界。スラムダンクでも「俺たちは強い!」と自分たちに言い聞かせている。根拠のない自信も、よりよい結果を生み出すのは競い合う世界では常識のようなもの。そしてそれでおごり高ぶって酷い目にあった歴史をもつ国が日本(第二次世界大戦)。
保育の現場でよく「褒める」技術が多用されるが、ただただ褒め尽くすだけで子供たちの心が見えていないケースよくみられる。褒められなかった子の方が、大きくなってマインドフルになるかもしれない。(良いことと悪いことを伝えることと、褒めることは違うということも、区別しているだろうか?)
子どもたちを承認欲求のお化けにしていないか。
自尊心もマインドフルネスも人なら誰もがもつ、基本的欲求?
「認められたい」という人間の基本的な欲求が確かにある。
それを満たせる人を「自尊心が高い」といっているのかもしれない。
(褒められること=認められることではないことに注意。目を向けてもらえる、ちゃんと見守ってくれることもこの欲求に含まれていると僕はおもう)
例えば過去の「輝かしい時代」を語りたがる人がいる。自分のすごさをひけらかしたい人がいる。そういう人は、基本的欲求を満たすための人間関係が満たされていない可哀想な人だ。「わたしってこんなにすごいのよ」「おれってこんなにすごい人と知り合いなんだぜ」
マウントを取ってくる人は、哀れな人だ(そしてそういう人が地位の高い役職につくケースが多い)。
渇望に飲まれ、他人を犠牲にする。褒められたくて喋る。
相手がそれを聞いて「すごいなあの人」と思って欲しい。
それがどれだけ目の前の人を無視することになるのか気づかない。
認められたい欲求を自尊心というドラッグで満たそうとする人がいる。
対等で人間的な関係ではない(しかしマウントは取れるかもしれない)。
自尊心に依存し、怯えているのだろう。
ありのままの事実を受け入れられずに「誹謗中傷だ」「批判だ」「有害だ」といって自尊心を守ろうとする。怒る。報復する。(もちろん、無用な争いを避けるために威嚇をすること、他人を陥れようとする人に「ナメられない」ように、釘を刺しておくことは、賢い戦略といえる。弱い人を狙うのが、世の中の常。)
こう考えると、基本的欲求を満たすにしても、自尊心は使わない方がよさそうだ。ただ、自尊心は、基本的欲求を満たす、初歩的なスキルであることは確かだ。
「認められる」とは、褒められる、賞賛されることではなく、つながっているという感覚だとおもう。「認められる」という言葉すら、僕らはついつい誤解しがちなようだ。
自尊心が高い人は、逆に信頼を損ねている(権力的な上司からの信用は得られるだろう「あいつは、時依存心で人を支配する能力がある!私はあいつの自尊心を利用してあいつを操ろう」)。
どうやら、自尊心という言葉はあまり良い意味で使えそうにない。
自尊心とは、不健全な心のようだ。
「どうして私はこんなに尽くしているのに、あなたは尽くしてくれないのか」というセリフが出てきそうだ。「私は○○で、お前は○○だから、当然だ」などという言葉もでてきそうだ。
健康ってなんだろう。
基本的な欲求の中には、「自分をコントロールできる感覚」も含まれている。
これをマインドフルネスに対応させることができる。依存症、健康、その他もろもろのメンタルプロブレムに向き合う、一番最初の一歩。
人ってややこしいなぁ。
多分、ビッグファイブでいう調和性が低い人、外向性が高い人の自尊心が危険なんだろうな。
とおもった。
言葉の姿を、よくよく見てみると、こうなりました。
多くの価値が、評価によって生まれるこの世の中。
自分の「命」の価値(同時に他者の「命」の価値)くらいは、評価されずに、絶対的な、不可侵領域でなければならない。
マインドフルネスは甘やかし?自尊心は厳しさ?
いい成績をとろうがとるまいが、宿題をしようがしまいが、愛されていることを伝えることでマインドフルな心は育まれる。
逆に「平均点はいくつだった?」とか「点数がへったじゃないか」というのは、自尊心を植え付ける。「優れていなければ認められない」からだ。
もしマインドフルネスが甘やかしで、現状維持、もしくは悪い方向に物事が進むのではないかと心配する人がいるかもしれない。
ただこうも考えられる。
自尊心を基準に育った場合、自分に「言い訳」をするようになるかもしれない。
例えば、成績が悪かったのは、「自分は本当はできるんだけど、努力していないからだよ」といえる。失敗したけど「運がわるかったんだ」といって何がわるかったのか分析しない。
自尊心が傷つかないような妄想をつくりだす。
「欲望という名の電車」という戯曲にでてくるヒロインのようだ。
久しぶりに出会って、開口一番、「うちの息子がどこそこの医学部に入ったのよ」と自慢する親戚がいるという話を聞いたことがある。
聞かされる人を不愉快にしていることに気がついていない。
「聞いて聞いて!今日ね!」という小学生くらいの発達段階で止まってしまっているのだろうか。大きなもの、速いもの、多いもの、高いものがよいものだと思っているのだろうか。
自尊心よりも、他の何かで、人としての欲求を満たした方が、自分も、他人も、平和に生きられそうだ。
多分、自分をおもいやれない人は、相手をおもいやれないんだろう。
とすれば、マインドフルネスは甘やかしではない。おもいやりだ。
もしそれを甘やかしだと思える(悪い意味で使う)なら、もしかしたら、あなたがおもいやりを知らないだけかもしれない。抱きしめることは、甘やかしだろうか。
甘やかしという言葉は、過保護と同義語のようだ。
過保護は思いやりではない。
言葉に振り回されずに、本意を正していきたい。
自尊心はビジネスの世界につながっている。
自分を批判する自己を自尊心は助けない。
ダメがつみかさなったり、装い続けることで、大事な自分の心がわからなくなることがある。
評価を基準にしたり、比べることで忙しくなったり、「こうあらなくちゃだめだ」「もっと効率的に」「もっと高く」「もっと多く」「これではダメだ」と自分を追い詰めることがある。
追い詰め続けている。
ダメダメで、失敗している自分を思いやれなくなる。
毎日毎日、失敗し続けている自分が情けなくなる。
不安になる。焦る。息がつまる。
まるで絶壁の前で息を飲み込んでしまったように。(そして後ろにはよだれを垂らした野獣が・・・)
ゆっくりとしているだけなのに、怠けていると感じてしまったり。
休みながら自分のペースでやっているのに、他の人のスピードを見て焦りを感じたり。
そして自分に厳しくなって自分を怒鳴りつけたり、自分に罰を与えたり、苦しめたり、罵ったりする。自尊心に苛まれる。「ダメだ・・・ダメだ・・・・・」
他人と比べることから自尊心は生まれる。
好きで始めたピアノが、いつの間にか「勝つためのピアノ」になってしまう。
好きで始めた勉強が「合格するための勉強」になってしまう。
好きで始めたスポーツが、「褒められるためのスポーツ」になってしまう。
自己犠牲がなければ、認めてもらえない人がいる。
他人の評価を優先しなければ自尊心が満たされないなら、仕方がない(人がそれを求めている!)。
自尊心は自分をストイックに追い詰めるのには役立つかもしれない。
他者の評価が中心になっている。
誰かの期待には答えても、自分の期待には答えられない。
あれ?自分は自分に何を期待しているの?
虚しさを感じる。
自尊心のためのダイエット。
「そうならなければ認めてくれない」人が友達なのだろうか。
不摂生な食事。
「ストレスに飲み込まれている自分」を助けてくれる自分がいないのだろうか。
快楽を追求させる、不安にさせる広告にあふれた世の中で、平静をたもてるだろうか。
自尊心を掻き立てる商品にあふれた世の中で、惑わされずに暮らせるだろうか。
刺激に対して自然に起こる反応から一歩引いて、感情を見守ることはできるだろうか。
そんな私にマインドフルネス。
怒り恨み妬み苦しみ痛み恐れ呪いに飲み込まれない暮らしのお供に。
健康が、いいな。
傲慢、独善・身勝手・エゴイズム・優越感といった言葉とつながるのが自尊心だとすれば、御用心。
マインドフルネスは人にもやさしい
例えば、だれかが何かを間違ったとしよう。
例えば、セリフを間違えたとか。
自尊心が高い人は「あはははは!」と間違いを笑う。
マインドフルな人は「間違えて悔しかっただろうな」と慈しむ。
ビジネスの原理であれば、「台詞の練習がたりなかったんだ」とおもうだろう。
「緊張を解きほぐす訓練もしたらよかった」とおもうかもしれない。
マインドフルに今どれだけ悔しいのか、恥ずかしいのか、痛いのかを感じることで、落ち着いて次の一歩を進めることができる。そうでなければ、パニックだ。「もうやりたくない」と思っている人に「スピーチの練習をすれば、よくなれば!認めてもらえる!」とセミナーみたいなことをいう人がいる。
ビジネスでは、相手を打ちのめそうが、打ちのめすまいが、数を打って当たればよいからだ。その人にとって大事なものではなく、売り物を伝える。
買うか買わないかを判断してもらうのだが、判断力を鈍らせるための手練手管をつかうビジネスマンもいる。例えば、不安にさせたり、権威付けをしたり、「こんな効果が!」とか。
世の中には「決断は5秒以内」などという本まででているから、困ったものだ。
言葉が毒々しくなってきたのでここまで。
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