コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】

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コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】

経済学の船出

『経済学の船出-創発の海へ-』には、『合理的な神秘主義』『ドラッカーと論語』『複雑さを生きる』などででてきた人たちが登場する。
ホイヘンス、ヴィトゲンシュタイン、ポラニー、スピノザ、ドラッカー。
他の本では紙面のバランス上、ふかく取り扱われなかった人たち(ホイヘンス、ヴィトゲンシュタイン、ポラニー)に関して、なるほどと思える説明がなされている。
『合理的な神秘主義』よりもまず『経済学の船出』を読んだ方が、理解がしやすいかもしれない。

また『ありのままの私』でマツコデラックスさんとからめて話している「無縁」の概念を詳しくしてくれている。

経済学の本かと思えば、、
そうだ。経済とは、コミュニケーションを、人間らしさを助けるためにある、と考えている安冨さんにすれば、経済の話をすることは、人間のコミュニケーション、人間の学びの話をすることと同義なのだ。
そういうわけで、『経済学の船出』の終章では「アカデミズム」(=大学業界)の欠陥、盲点を指摘する。
経済の話をしたければ、数学を学び、歴史を学び、科学を学び、哲学を学び、人間を知れと。
そうして、すべてを結びつけた新しい学問の名前は、ドラッカーの言葉を使って「社会生態学」と呼ぶのが良いと。

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追記:安冨さんが銀行で務めていた時の様子、銀行の有様笑、銀行という、今となっては悪い商売が成り立つしくみが知りたい方はp.150をお読みください笑

銀行員のやっている業務の本質は、関所の維持管理だ、ということになる。(p.156)

日本の銀行員は「企業家を見出す」という本来の能力を完全に失ってしまったのである。能力を失ったばかりか、そう言う仕事をしている、という意識さえも喪失してしまった。(p.156)

いろいろな「意味のない」仕事、創発的価値をもたない、拝金主義の例をあげてくれています。

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かつて、とある人に、「もし伝わらないのなら、100%自分(伝え手)が悪い」といわれたことがある。
果たしてそうなのか。
ずっと疑問だった。

いやいやまぁ、伝え方が下手だから、と、伝え手としての能力を向上させるための文句だったかもなぁとおもいながら。
どうやっても伝わらない、という人に、出会ってきたからおもうことだ。

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ドラッカーによれば、コミュニケーションの基本原理は次の4つである。
1コミュニケーションは認知である。
2コミュニケーションは予期である。
3コミュニケーションは要求する。
4コミュニケーションと情報とは、異なった、というよりほとんど反対のものであるが、それでも相互に依存している。

第一の原理は、「聞く人のいない森で樹が倒れたら、音はするか」という有名な公案に表現されている。ドラッカーによれば、これは、禅僧、イスラムのスーフィー、ユダヤ教のラビなどによって古くから考えられてきた問いであるという。この公安に対する正しい答えは「音はしない」である。音波が生じても、それを聞くものがいなければ音はしない。弟は認知によって創造されるものであり、音を聞くということは、すでにコミュニケーションなのである。
この公安は、コミュニケーションは受け手がするものだ、ということを含意している。いわゆるコミュニケーター、すなわち送り手は、コミュニケーションをしていない。彼は叫んでいるだけである。誰かが彼の叫び声を聞いて認知してくれるまで、コミュニケーションは発生せず、そこにはノイズがあるだけである。(略)

受け手が主体であるがゆえに、受け手の受容可能な範囲が、コミュニケーションの実現可能範囲となる。この点は、プラトンの『パイドン』のなかでソクラテスによって表現されている、とドラッカーは指摘する。ソクラテスは、人に話しかける際には、受け手の経験に基づく言葉で話さねばならず、例えば大工に話しかけるには、大工の比喩を使わねばならない、という。つまり、コミュニケーションの主体である受け手の機体の範囲内でしか、コミュニケーションは成立しない、とドラッカーは考える。(略)

ここでは受け手の「制約」について二つのことが言われている。第一に、受け手には、身体的、文化的、感情的制約があり、その範囲を超えたメッセージは無視される、ということである。第二に、受け手が経験に基づいて感情を変えるという意味での学習過程を作動させていなければ、コミュニケーションは成立しない、ということである。この両者は矛盾しているわけではない。第一の場合は、受け取り可能範囲の問題であり、そこを超えたメッセージは「無視」される、ということである。第二の場合は、たとえ受け取り範囲にメッセージが入ったとしても、それによって受け手に「経験に基づいて感情を変える」という出来事が生じなければ、メッセージは何の変化も起こさず、それゆえ「何も新しいことはない」という形で処理されてしまうのである。これは「黙殺」と言うことができる。先ほどのキャッチャーの比喩でいえば、たとえキャッチャーの受け取り可能なボールが投げられても、キャッチャーに受け取る気がなければ、ボールは受けられない、ということである。(『経済学の船出』安冨歩 p.118)

当たり前のようだが、なかなか気づきにくい。
とらわれてしまう。

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この人は、「黙殺」しているのか「無視」しているのか、受け取る範囲で言葉を投げられているのか、それとも、悪意があって受け取らないのか、判断することは難しいかもしれない。

たとえば「ああしたらこうする」という文化的な制度があったとしよう。慣習というやつだ。結婚したらブリを送るとか、かまぼこを送るとか。
で、「送られてくるはず」なのに、、送られてこなかったとしよう。

送られてくるはずのものが、送られてこない!

もしかしたら、県外の人で、そんなことを知らなかったのかもしれない。
届いているとおもっていたボール(今の状況なら、結婚したらブリを送るという慣習)が、実は手の届く範囲に投げられていなかった、という、メッセージの送り手のミスだ。
「県外からきたから、知らないんだろうな。どうしようかな」という相談をしたらよかったのに、それをしなかった、伝達ミスである。

もしくは伝達がなされている上で、「いや、それは富山県の慣習であって、私たちはそれをしようとおもいません」と心に決めて送っていなかったのかもしれない。

ーーー

そこで、例えば「ブリを送ることは大切なことなんだ!」ということを伝えたい人がいたとしよう。

例えば『スイッチ!』という本では、人が変わる、考え方を切り替える、新しい考えを学ぶための取り組みが書かれているわけだが。。。


『スイッチ!』
『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』のメモ

社会的な慣習や制度は「行為」を要求するが、「心」を要求しない。
「心」の関わり合いを排除して「学び」のプロセスを動かさずに「当然そのようにあるべきだ」というべきべきなくちゃ思考で苦しんでいる人が多い。
なのでブリの例をだしたのだが、、、
「母親として」「長男として」とか、「女性として」「男性として」「会社員として」「生徒として」といった立場を突きつけて肝心の「心」を攻撃することもできる。
文化・制度はそれ自身、非人間的なハラスメントを含んでいる。
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。

だが文化や制度・慣習を使うのは人間だ。個人だ。
そのなかで「生きる」のは人間だ。

さて、どうしたものだろうか??

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僕らには聞こえていない「叫び声」が、オトノネが、今もどこかで響いているのかもしれない。

メッセージの発し手は「叫ぶ」だけであって、それだけではコミュニケーションは生じない。誰かがそれを受け止めて、心を動かすことが決定的条件である。コミュニケーションが生じるには、受け手が、自らの経験に基づいて感情を変える、と言う学習の構えを開いておかねばならない。

以上に立脚するドラッカー経営額の根幹は次のようにまとめることができる。
(1)自分の行為の影響の全てを注意深く観察せよ、
(2)人の伝えようとしていることを聞け、
(3)自分のあり方を改めよ。

これは個人に対しても、組織全体に対しても当てはまる。(『経済学の船出』安冨歩 p.130)

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ドラッカーは学習回路の閉じた受け手に対して、ショックを与え、学習回路を作動させ、制約を取り払うケースについて興味深い議論を展開している。

 人の心おは、印象や刺激を、予期の枠組みに合致させようとする。それは「心を変えさせ」ようとする、つまり、受け取りを予期していないものを受け取らせ、予期しているものを受け取らせないよゆな、いかなる試みに対しても、頑強に抵抗する。もちろん、受け取ったものが予期に反しているという事実に気づかせることは可能である。しかしそれには、何が受け取られると予想されているか、を事前に知る必要がある。そしてさらに、「これは違う」という明確なシグナル、つまり連続性を打破するショックが必要である。

ドラッカーはこのショックについて、「聖書の伝えるところでは、神でさえ、サウルに衝撃を与えて盲目の状態にしてはじめて、パウロとして自らを立ち上がらせることができたのである」と指摘している。(『経済学の船出』安冨歩 p.122)

人が変わるためには、とてつもない何かを必要とする、というのは、僕も感じているところ。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

感じないように生きている大人たちにとって、子どもは、いつもきっかけを与えてくれているようにおもう。
子どもらしさを失った大人が蔓延しているこの狂った社会では、なおさら。


ひきこもり、不登校、いじめ、もしくは成績不振笑やウィスクの結果などという出来事からのメッセージを受け取れない、コミュニケーションつまり学習の回路を発動できずに、ただただ狂うだけのお母さんに育てられた子は、もはや学びの回路を焼き尽くされて、自分で作り直すのにだいぶ時間を使うだろう。まぁそれも、人が生きるプロセスの一部なのだろうけれど。

社会の構成要素は人々の行為であって、心ではない。個人でもない。
その行為を個人から導き出すための仕組みが、制度であり、規則だ。
社会はそれ自体、コミュニケーション、学びのプロセスをつくってはくれない。

『合理的な神秘主義』に書かれていて驚いたのだが、なるほど、学びのプロセスは、極めて個人的だ。
個人がナンバープレートに書かれて管理されるだけになっていないか。
学びのプロセスを発動すること、コミュニケーションが問題行動を意味する組織は、アウシュビッツと似ていないか。

「学校に行く意味って何ですか?」

学校の先生に聞いてみよう。

社会性を学べるとかいうのかな。

「社会性とはなんですか?」とさらに聞いてみよう。

囚人としての作法を、学べる、ということだろう。
「隷属することが前提」なのだから、仕方がない。話にならない。

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組織が「衝撃」を受けるということは、そうとう大ごとだし、たいてい、隠蔽や欺瞞のシステムが働いて動じることがない。
本来なら「自己変革」をせざるを得ない状況でも、ただただ、それこそ権威を盾に無かったことにする仕組みが、学校にはある。

カレー事件も、結局、学校の組織、しくみをかえることなく、狂った教員がいなくなっただけで、狂った学校は、次の狂った教員をつくりあげてしまう。

「前例がない」「常識だ」「普通」「筋を通す」「みんな」「公平」「きまり」といった言葉を口にしてハラスメントを行なっている。
子どもたちの学びの回路を壊している。

学校は学びの場ではない。
学び合うおとなが、いないのだから。。
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。【嫉妬学】和田 秀樹
学校でズルすることを学んでもいい。中退してもいい。それでも学び続けよう。
学校のしくみ【753教育】とは何か。学校って何?

学び合うこどもにであえる幸運に巡り会うこどもがいるだろうか。
その子どもたちの学びの回路を焼き尽くそうとする学校という場所で。

そういう仲間に巡り会えた子は、しあわせだ。

ーーーー

自分自身のマネジメントから、まずはやっていきたいとおもう。

自分のマネジメント
家族のマネジメント
仲間のマネジメント
職場のマネジメント

まずは、自分自身。

オトノネひろげるシェアぼたん
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