【コフートで絶望するおとのねさん】『<自己愛>の構造』和田秀樹

本の紹介 大人の宿題

自己愛の構造
『<自己愛>の構造』和田秀樹
この本で、あまりにも頭の中からいろいろでてきてしまって困った。

一つ前に読んだ本の続きでコフートからいろいろ考えてみる。
【自己愛とは何か】コフートの『自信がなくても幸せになれる心理学』和田秀樹

この記事はブレークタイムを挟んだ二部構成になっています笑

前半の終わりは、


笑うしか、ないかな。。。。

絶望までもう少し☆
きちんと絶望できるかな笑

です笑

後半の終わりは

内側へ、内側へ、オトノネへ。

です。

なんとか、持ちこたえました笑

悩めるおとのねさんにおつきあいしていただけるでしょうか?

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コフートの考えをまとめてみることにしました。
メモ風にいきます笑

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コフートの3つの心理的ニーズ(自己対象の3種類)

何かができるようになると、みせにくる。
みてもらいたい。
自分が輝いていること、プラスの自分を確認したい。
自分はプラスにいきたい。
褒めてもらいたい。

そういう自己のニーズを満たす自己対象を、鏡自己対象と呼びました、

逆に自分が弱い部分を助けてくれる、頼りになる、マイナスをプラスに向かわせてくれる、嫌な感情を補ってくれる対象のことを、理想化自己対象と呼びました。

不安になったり、生きる方向を見失った時に相談をしたり、お願いしたり、一人で、はできないことを一緒にやったり、勇気をもらえる対象のことです。「一人ではできないこと」を助けてくれる人。困った時に頼れる人。
社会的参照の対象、といえるでしょう。

鏡自己対象(プラス指向対象とでも呼びたい気分になってきました笑)を満たされるプロセスで、健全な自尊心や向上心が育っていく。

理想化自己対象(ゼロ指向対象)をみたされるプロセスで、不安や怒りや悲しみといった感情を処理し、ケロッとできる心が育っていく。手助けしてもらう。人間関係がうまくいく。負の感情の排泄ができるようになる。「弱い」自分に力を感じる。「大丈夫だ」と思える。落ち着ける。
Idealizing
For the young child, ‘ idealized selfobjects “provide the experience of merger with the calm, power, wisdom, and goodness of idealized persons”‘.

(グリッドやレジエリエンスや自己肯定感とかいう言葉も、こうした作用のまとまりだと考えたら、とてもアバウトな概念ですね)

双子自己対象は「自分と同じ」ということを感じることで安心を得られる自己対象?
 ありのままの自分を映し出してくれる対象?うーんよくわからない。
Alter ego/twinship needs
Lacan highlighted ‘the mirror stage … of a normal transitivism. The child who strikes another says that he has been struck; the child who sees another fall, cries.’

聞いても、返事が返ってこない、自分のことがわからない、喋れない子どもに出会うことがある。
自分のことを感じられないで、「え?なにそれ?わかんない」と答えるような子どもがいる。
で、その子のお母さんはとてつもなく管理が厳しい。全部親が決める。子どもはついていくだけ。

これはある意味、双子自己対象だけで心の仕組みがつくられた例といえないかとおもいます。
母親と一体化してしまう。母親がコントロールしてくれないと安心できない。というか、母親なしでは判断できない。「自分」がないように見える。言葉で表現される「その子自身」が、虚ろに聞こえる。。。)

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鏡自己対象や理想化自己対象を英語でなんというか調べたら、、、なにやら、、、意味がわからない、、翻訳がおかしい。。。。もう日本語わけわからない。。。
鏡自己対象は誇大自己対象と呼ぶべきところを、理想化自己対象と意味合いがかぶるから鏡自己対象と翻訳したんだろうか、、、鏡って、、、そんな、、、わからんやろ!笑

grandiose-exhibitionistic needsは誇大自己顕示欲求と訳せそうだが、これが鏡自己対象によって満たされるという。鏡、という言葉は翻訳としてよろしくない気がする。

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健全な〈自己の充足〉ではなく、不健全な〈自己の充足〉を考えてみてもいいでしょうか。

鏡自己対象(プラス指向対象)、自分のプラスを感じられるために、よく「ホメゴロス」人がいます。これは「ありのままの自分をみてくれていない」ことになったり「条件付きなんだ」ということになると不健全。おだててやらせるとか。子どもも自分を隠して、評価されるために頑張ってしまう。

理想化自己対象(ゼロ指向対象)、自分のマイナスをプラスの方向に持っていくために、ヒモのようになる。ただついていくだけ。弱い人間が強い人間の後ろについていく。権威主義。ただただ従属してしまう。

双子自己対象については見た通り。自分の感じ方、自分のしたいことではなく相手の基準に合わせる。とか、同じ服を着たり、同じものを買ったり、同一化して安心する。(孫とおばあちゃんでペアルックな光景をみてゾッとしたことがある。いやまぁいいけどさ。)

不健全でも健全でも、とりあえずは〈自己の充実〉はされるのでしょう。

そもそも、不健全とか健全とかがあるのでしょうか。
生きていれば、それでいい、のでしょうか。

それこそ、「人間とは、そういうものなのだ」と認めなくてはいけないことなのでしょうか。

別の原理(ダイナミクス)を導入したいです。

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コフートの最初の悲劇人間の定義は、人間が何のために生きるかで分類できるという考え方に基づいている、

もし目標が欲動の活動に向けられていれば、これを罪責人間とよび、目標が自己の充実に向けられていれば、これを悲劇人間と呼ぶ。

精神装置心理学という概念は(略)罪責人間の精神障害と葛藤を説明するのに最適である。自己の心理学は(略)悲劇人間の心的障害と苦闘を説明するのに必要とされる。

コフートがいおうとしたのは、フロイトのころと現代ではあつかっている患者がちがうということだ。フロイトの頃の患者は自分の内なるエスからの欲望に動かされ、それに対して自我がコントロールしようとしたり、超自我が禁止行動を出そうとする、自我がエスに敗れて、「欲望に負けた」行動をとっても、超自我が強すぎて、「してはいけない」「であらねばならない」が強すぎても、罪悪感に苛まれるか、あるいはそれが無意識の罪悪感となって抑うつや神経症の症状を引き起こす。葛藤の場はつねに自分の内部にある。まさに復讐するは我にありの状況だ。「人間が自分自身の内部の葛藤に悩む限りは」これまでの自我心理学、つまり人間の心の内部の心的装置を仮定する心理学は役に立つ。しかし悲劇人間の営為の中心は、野心と理想という自己の二つの極の間に貼られた緊張弓である。(p.99)

人間は罪責人間と悲劇人間の両方をもっている。
結局一人ではできないから、誰かの力を借りて、変わっていく。
関わり方を変えていく。

というケースは本で読んだことがある。
(甘えられない自分を発見して、甘えるようにしてみたら、心が安定した、というケース)

病的な程度にまで至る自己の障害は、これら二つの発達機会の両方に失敗することによってのみ、生じる。

子どもにとって、
片方の曲が満たされないことは「悲劇」であるが、それでも本当うに病的になるのは、両方卯の曲が満たされない時なのだということは、子どもを育てる側の者にとっては、多少安心できる話といえるかもしれない(p.104)

その二つの機会とは、鏡自己対象と理想化自己対象だという。

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英語版のwikiを読みながら、Optimal frustrationという概念が大切だとおもえました。
optimalとは、適度な、最適な、最上のというう意味です。opticalは光の、という意味であり、「光明ある」という意味合いでとるとよいかもしれません。

つまるところ、心理的ニーズを満たす対象を探して満たされて自己愛を満たすプロセスのなかで心を成長させる「適度な挫折」であればいいのだが、挫折が大きすぎると、、、、というお話。学校という暴力のシステムのなかで、すでに「挫折」しているう部分があるのかもしれない。日本という場所、日本人という人たちの中で、自己を充実させられずに、子どもたちは挫けていないか。

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混乱しまくっている。
Empathy
Kohut maintained that parents’ failures to empathize with their children and the responses of their children to these failures were ‘at the root of almost all psychopathology’.

共感は3つの心理的ニーズすべての基礎になることは間違いない。
が、ここでも不健全な共感という考え方ができてしまう気がする。

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別の原理(ダイナミクス)を導入したいです。

と書いた。

生態学を導入したいとおもった。

大人が心理的ニーズを満たす自己対象が子供しかいないという状況を考えてみよう。
人間の生態、日本人の生態をみると、会社でも地域でも家庭でも「立場」が優先される。としてみよう。
みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩
心理的ニーズを満たす関係をつくれない。
心理的ニーズを満たす関係をつくる時間も場所もない。

ただ、子どもだけは別だ。近くにいる。

親にとって、子どもしか、〈自己の充実〉のための自己対象がいない。

(子どもとの関わりが希薄な父親の場合は、仕事漬けになるか酒に走るか何か)

学校の先生を考えてみよう。
まず一番大きいのは「立場」だ。
コフートの考えでは、〈自己の充実〉は相互依存関係だという。
とすれば、心理的ニーズは満たされていない。双方に、満たされていない。と僕は直感する。
ただ「立場」があるだけ。。。。
なんの共感もない。

殺伐としているおかげで子どもも〈自己の充実〉をするための関係を学校の中ではつくれない。
友達との関係を作れたらしあわせなほうだ。

一番簡単な方法が、親子がともに「母子カプセル」に入ることだ。
双子自己対象として、お互いに〈自己の充実〉をし合う。相互依存⭐︎

共依存。
狂依存。

ううーん。

人間の、現代社会の、日本人の生態を眺めると、とても、「自然」に思えてしまって怖い。

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悲劇人間は、現代社会で「自然」な人間の姿だということをみた。
一方で、また同時に、悲劇人間でありなおかつ罪責人間であることも、大いにありうる。

日本では超自我の禁止行動が主流だろう。
禁止を受けたせいで、心が磨り減った部分が、さらに、エスで酒まみれ、欲情まみれになったり。

バランスをとるのではなく、超自我を育てる文化。
コントロールされることに慣れることが、教育であるという文化。

これは「自己」ではなく「立場」を生きなければならない日本人の暮らし方だと考えたら。。。
「立場」を学び、「自己」を育てない生き方が、日本の精神文化だとしたら。。。

どこかからふっと湧いて与えられた「立場」(というか、立場をつくる=役をつくることでしか人間同士が関係できないので「立場」で考えなくては頭が回らないのでつくる)に従うロボット。ああ、だから日本は機械作るのがうまいんだ笑

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この記事を書きながら、気づいたのは、日本という場所で育まれた人的な生態系の自然なあり方が、ただただいまの目の前に広がっている、という事実を、私は文字に書き起こしただけだったということです。人によって、それは残酷にも、「当たり前」にも映るのだろうけれど。

「共感」には永遠に達しない、人間のいない世界を、僕は感じている。
人間と暮らしたい。

いや、人間、、、、これが、、、人間なんだ。。。。

目標が自己の充足に向けられている人は「悲劇人間」と呼ばれた。自己の充足のためには、自己対象が必要である、そういうう自己対象を周囲の人に求めて、自己の充足のために足掻く人、悲劇人間こそが、現代の精神分析に主たる患者たちであるとコフートは考えたのである。「罪責人間」の精神病理は個人の心の中の問題であり、「悲劇人間」の精神病理は環境への人間的な渇望の問題である。つまり、「罪責人間」は心理的に「個人」であるが、「悲劇人間」は個人以前なのである。(p.169)

人間関係の原理を、「立場」でシステム化してしまった。
想定された役を超えることは許されない。
会社や学校の外で人間関係をつくるような「自然」は日本にはない。
それこそ「自然に反して」つくっていくしかない。
そのためには「自己」が必要になる。
「個人」の強さが必要になる。

「個人」がある程度確立していれば、「不自然」に手を伸ばすことができる。
だが「個人」としても未熟であるなら、、、親子が心中するしかない。

日本では、一週間に二人、子どもが親に殺されている。
〈自己を充実〉させてくれない子どもだからといって、殺されている。

子どもが、「自己」を抹消する日本の「自然」に、飲み込まれていく。
子どもが、「自己」を抹消された大人の「怒り」を、受け止めて、死んでいく。

笑うしか、ないかな。。。。

絶望までもう少し☆
きちんと絶望できるかな笑

自分の小ささを、もっと感じないといけないなぁとおもった。

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ここでブレークタイム・・・

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〈自己の充実〉のために、双子自己対象を得るしくみはいろいろある。
同じ趣味、興味を持ってあつまる音楽サークル、もしくは子どものピアノ教室、習い事、部活動。
お母さんたちが「みんないっしょ」の安心感を得るために子供をつかう。

目標が、〈自己の充実〉だ。
それに子どもをつかう。

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コフートの心理学は、「臨床」のための心理学だ。
心の医者のところまできた人に対する手ほどきをするための枠組みが心理学だ。

いま僕は親子関係の「違和感」「不自然さ」が何なのかを知りたいとおもっている。

だが、コフートの心理学は、「病気になったり不都合がでてきたときに駆け込んでくるクライアントのための」心理学だ。
健康被害(?)がでる以前の「不自然さ」を扱ってはいないのだろうか。

コフートは、「昨日までの人」とは、ルネッサンスから1930年から40年ごろの生まれくらいまでの人たちであるという見解を明らかにしたうえで、彼らは、まだ「個人」の世界の人であり、自分の境界をはっきり持っている個人同士が、緊密な人間関係をもっていると述べた、しかし「今日の人」は違うのだと語った。

人々が定住化し、人々の均一性が増し、動き回れるスペースが減り、マスの動きと効率の良い全体主義が支配する世界では、人は心理的サバイバルのための新たな問題に直面することになるのです。(p.170)

他者との関係をもつ。

という一言にコフートの考えを要約してみよう。

もう簡単にしよう笑

オトノネの存在は、「お母さんがオトノネと関係を持つ」ことでしか生まれてこないということ。
けどオトノネは多くのお母さんの望む不健康な関係を望まない。

望まないよ・・・

悲劇人間の子供が拡大再生産されている現在、自己心理学は一般大衆向けの心理学として、どのように子どもと接し、どんな形で子どもに情緒的刺激を与える社会を作るべきかなどおいう問題を提起すべき時期がきているように思えてならない。そうでなければ、パソコンが創り出すサイバースペースにすべての人が引き込まれて、パソコンが創り出すファンタジーの世界でしか「生きる」意味を見出せない人間が当たり前になって、情緒的接触という言葉が事実上死語になりかねないからである。悲劇人間であれ、偽正常であれ、救えるのは人間しかいない。このような過少刺激の時代だから、子育てにかんしては過保護をおそれず、愛せる限り子どもを愛すべき時代なのだと私は考える。(p.174)

過保護=甘やかし

であるが、過保護=過剰コントロールでもある。

過剰コントロールは控えていただかないと困る。

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ああ、双子自己対象のヤバさ、書いてあった笑

悲劇人間は、個人として、自分の欲動に忠実には生きられない。これまでの他者の反応がそれなりによかった人たちは、それなりにしっかりした自己を持ち、ある程度は、その中核プログラムにそった行動をとれるのだろう。しかし、そうでなかった悲劇人間たちは、みずからの生きる意味を創り出すことができず、周囲に合わせて生きるだけの「偽正常」の病理に苦しむことになるだろう。そして、関係性理論の論客ミッチェルによると、この偽正常こそが、多くの現代的精神分析家のメインテーマなのである。コフートが亡くなる間際に双子自己対象の大切さを強調したのも、「同じ人間でいたい」という、偽正常の患者の心の叫びを受け止めたからなのんかもしれない。(p.173)

「みんなでいっしょ」には危ないという記事は書いてきた。
「長時間」「みんな一緒」「やらされる」組織からの自立と、組織の選択。
「みんなで一緒に」を喩えてみる。
「みんな一緒」の夢から早く覚めた子が、合格する。

READ  人はどこまで遺伝に左右されるか。

けど「みんなでいっしょ」が染み付いた心をどうしたらいいか、それは「知る」ことではどうにもならない。
それこそ、堕落し切るしかないのだろうか。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)
義務教育学校の本当の意味とエリート社会と堕落と、子育ての2つの考え方。残酷な考え方。

心が感じなければ、変わろうとしなければ、変わらない。

と思っている。

だが「偽正常」が、あたりまえのストラテジーになってしまった。
「かつての」健全な人間関係はもはや望めない。
人間という資源が使えない。
そこで苦肉の策が「アイドル」とか「ブランド」とかでなんとか〈自己の充実〉をやろうというストラテジー。
「偽正常」であるが、それが「自然」だ。
「みんな一緒」が、「自然」だ。

そんな社会の中で、オトノネをする意味はあるんだろうか。
すくなくとも、オトノネを求めてくれる人がいる、ということだろう。
多くを望まず、小さく続けていこうかな、とおもう。

コフートの考える自己の欠陥は、親の反応性が良くなかったために、体や知的機能は大人になっているのに、心は子どものままの発達状態でいるというモデルである。(p.178)


大人が子ども時代にやりのこした宿題ですね。

コフートは、相手が共感的な反応を示してくれなかったり、自己愛が傷つけられたり、恥をかかされた時の激しい怒りを自己愛憤怒と読んだ。(p.181)

で、この中身は「放出したところで、軽減されてスカッとはしない」ものだそうです。
その根本は、自己愛を大切にできない心にあるから。


大人が子ども時代にやりのこした宿題ですね。

健康な心というものは自己対象によって作られる、そして健康な心を持てれば、周囲の世界から自己対象を選ぶ能力が高まるだろうし、それを利用する能力も高まるだろう。つまり自己対象に対して成熟した態度が取れるのである。

フロイトは、コフートも指摘するように、多くを知ることに大きな意味を置いた過去のことであれ、自分のことであれ、多くを知って心が賢くなれば、人間は自分の葛藤が克服できると。しかし、最近のトラウマ治療でも問題になっているように、「多くを知っても」人間の心は解放されない。もっと人間的な養分で心を元気にしてやらないといけないというのがコフートとの大きな教訓だった。(p.204)

この言葉はコフートではなく和田秀樹さんの言葉です。
少し変えてみようとおもいます。

健康な心というものは健康な心を持った自己対象によってつくられる。

病は感染する。
親子で特に感染する。
学校でも感染する。
地域社会でも感染する。

健康。

心の健康とはなんだろうか。

自分の身を守る。
自分の心を守る。

オトノネはオトノネを守る。
僕は僕を守る。

誰かが、「みんな一緒」でその人自身を守っているように。
子ども時代に、人生を通して作られてきたパターン(ああ、チューリングの本をもう一度よもうかな)は簡単に変えられない。
あるもので、やっていくしかない。

もしそれで「故障」して動けなくなったら、オトノネにきたらいい。
そんな風に、どーんと構えていたらいいのかな。

僕は僕らしく。
オトノネはオトノネらしく。
あなたは、あなたらしく。

僕から見たらあなたは不自然。
あなたから見たら僕は不自然。

だったら、関わらなければいい。

自然に付き合える人、自己対象をみつけるのが難しい、僕の生き方、オトノネのやり方。
それでも捨てられない僕だから、オトノネだから、まぁいいか笑

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双子自己対象の例で、いいものがのっていた。

いつものように「患者の苦しみをまったく理解してくれないので辛い」と私を非難したのに対して、私もふと、「患者をよくできない治療者というのも辛いものなのですよ」と対応した。すると、Bさんははじめて治療者に微笑み返した。その後、患者は現在の辛い内的体験をはっきりことばにして話すようになった。また過去の成功を私に時々話してくれるようになった。(略)治療者も同じ世界に住む人間であるという感覚を与えることができれば、治療の行き詰まりを高いすることができる可能性をこのケースは示唆している。「自分もおなじ状況にいれば、あなたと同じように感じるでしょうね」と伝えることが、患者に「他の人間の中にいる人間である、という感情の確信」を与えることになる。時には、患者に対して適切なタイミングの良い解釈を与えることが、「わかってもらえた」という感覚を与え、双子感を確立した。別の場合には、治療者の側の敵とな自己開示、つまり自分のプライベートな姿を垣間見せることが、患者に治療者も自分と同じ種類の人間なのだという感覚を与える。(p.230)

「わたしもあなたもいっしょ」というスキルを使うといいのかもしれない。
メタスキル はそのままに。
頑なな心を開くには、内側から満たすのがいいのだろう。
種だって、内側から開いていくのだから。

内側へ、内側へ、オトノネへ。

オトノネひろげるシェアぼたん

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