【暗黙知の次元って何?】安冨歩『複雑さを生きる』『合理的な神秘主義』
整理して書き直した記事はこちらです↓

中間報告。
オトノネのネを感じる本(´,,•ω•,,`)
1「学」
2 ショッカーの世界
3「暗黙の次元」
4「生きる」ために
自分の勉強のために書いたものです。
まだ途中ですが流しておきます。
基本、安冨さんの本から引用しただけです。
意味付け、つながりをつくるための見出しをつけています。
構造化(解体再構成)しながらうーむと唸っています。
それからたまに僕の気持ちを書いています。
おとのねさんに興味を持たれた方はぜひオトノネに遊びにいらしてくださいぬん。
おとのねさんってどんな人?とおもった方は「愛」を語るおとのねさんの記事をお読みください。
。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。 ゜
本を読みながら、「生きている」ことと「死んでいない」ことの違いを感じています。
「生きる」とはなんだろうか。
僕らは「生きて」はおらず、「死んでいない」だけではないのか。
そんな問いを、僕は安冨さんからもらった気がします。
動画で喋っているのもあるので是非参考に。












「学」
「仁」がなければはじまらない?
論語の思想の核心は、以下の八つの概念で表現される。
仁・礼・和・忠・恕・道・義・知
これらを「論語の基礎概念系列」と呼ぶ。このなかで最重要のものは、いうまでもなく「仁」である。あとは全てそこから派生する。「仁」という概念は、学習の回路が開いている状態をいう。学習回路が開いている、というのは、自分の言動が引き起こした影響を、しっかりと受け止めてその意味を把握し、そこから自分のあり方を改めることができる、ということである。そうして自らの実践から学び、どこまでも成長していくことのできる人間が「君子」である。学習に喜びを感ずることは、人間の本性である。ところが、一旦、何かを身につけた、あるいは手に入れた、と思い込むと人は、それに固執してしまう。そうなると、それにしがみついてしまい、自分を改めることが難しくなる。そうやって固陋(ころう)になった人を「小人(しょうじん)」と呼ぶ。小人は自分の非を認めることができず、強いものに怯えて追従し、弱いものには傲慢になる。そういう人は、学習回路が閉じているのである。
学習回路が開かれた「仁」なる人同士が出遇い、お互いにやりとりすると、双方おが互いの人格をお尊重しつつ、相手の言葉を、自分の振る舞いに対する「応答」として受け取り、常に自分自身の思い込みを改める形で自らの言葉を紡ぎだす、という姿勢が見られる。このとき、両者の対話のあり方を、「礼」という。(『合理的な神秘主義』安冨歩p.24)
問:学習の回路とは?学びが始まらない人は、どうするの?
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行為することで知る。なぞることで知る。知は能動的。
試しにちょっと目を閉じて、人差し指をあなたのきている服の袖口にそっと置いて動かさないようにしてほしい。何か感じるであろうか。何も感じないので絵はないだろうか。次に指を静かに動かして服の表面をさすってほしい。衣服の繊維の作り出す微妙な凹凸を感じることができるであろう。指先から中枢神経を回ってサイド指先へと戻るサイクルを起動させ、指先を動かすという行為を組み込んで初めて近くは生じる。この場合にも、人差し指の先の神経は繊維そのものを入力とすることはできない。繊維のつくりだすちがいという普遍な状況が、指を動かすことによって手触りの変化という出来事を生み出して近くと行為の織りなすサイクルに入り込む。この簡単な実験は、指先の神経から入った刺激が脳に到達して対象の像を形成するという受動的な描写が事実ではないことを示唆している。皮膚感覚ばかりではなく、資格についても同様である。ものをじっと見るときには眼球が止まっているように思えるが、実際には眼球を支える筋肉が細かく振動しており、これによってはじめてものを見ることができる。さきほど服の手触りを感じるのに、指先を動かして袖口をさする必要があったのと同じように、目玉も世界をさすっているのである。生き物にとって世界は、者それ自体で構成されているのではなく、ちがいの知らせによって構成されている。われわれはこのちがいの知らせを手がかりとし、行為することで世界を読み解き、情報を抽出して生きている。抽出という主体的なかかわりなしに知覚は生じない。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.14)
たとえばネットサーフィンをしていたとしよう。「あれ?この記事・・・」とどうして私たちは思えるのか。「その情報をまさに求めていた」とまでは思わないが、「気になる」という心の状態がある。その状態に至るネットサーフィン=なぞりから学習は始まっていて、「気になる」ところから深みが生まれてくる、と思えば、youtube徘徊も、「学」の一部なのだろう、か。
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「学」は「過ち」を認めるところから始まる。
ウィーナーのサイバネティックスは、『論語』に始まる儒家の思想と、強い相同性を持っている。その今回は、人間の身体の作動に基づいた、学習の過程に、社会の秩序の基盤を見出す、という点にある。両者の相同性はそればかりではない。すでに明らかにしたように、『論語』の論理構造には、サイバネティックな側面がある。
子曰、過而不改、是謂過矣。
子曰く、過ちを改めず、是を過ちと謂う
この章の意味は、「過ちを犯して、改めないのを、過ちという」ということである。これはフィードバック機構そのものである。サイバネティックスの用語を使って謂うなら、ここの行為が正しいか間違っているかは大きな問題ではなく、間違っていた場合に、それを改めるフィードバック機構が作動しているかどうかが、大きな問題だ、ということになる。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.189)
問:フィードバック機構それ自体の修正以前に、「過ち」と認められなければ、「学」は始まらないのだろうか。
子ども時代に学ぶべきこと。
ミラーは、このような闇教育の連鎖が人類社会を危機に陥れていると考えており、その連鎖を断つことが、私たちにとって何よりも必要なことだと説く。そのためには、自らがそのような悲惨な子ども時代を送ったのだ、ということを認めることが不可欠である。ところが人は、その痛みを引き受けず、そこから目を背ける強い傾向がある。ミラーは次のように指摘する。
(略)誤りを認めることは、どんな場合でも簡単ではありません。この能力もたぶん、他の多くの能力同様、子ども時代に獲得し、のちにそれをさらに発展させることが可能なのではないかと思います。もしも、誤りに対して叱りつけられるのではなく、愛を込めて、自分のふるまいのどこが適当でなかったのか、あるいはそれだけでなく危険でさえあったかを説明してもらえば、私たちは自然に後悔を感じ、人間というものは間違いを犯さずにはいられないという経験を、自分の内に組み込むことができるのです。ところが、親がごこう小さな間違いでも許さず、罰を下していると、私たちはそれによって、自分の失敗を打ち明けるのは危険だ、そのために両親の愛情が奪われてしまうから、という知恵を獲得することになります。このような経験は永続的な罪悪感と不安をもたらすことにもなりかねません。
ミラーのこのような指摘は多くの人々を震撼させた。それは誰もが自分自身に対して秘密にしていたことだからである。しかしミラーの著作は多くの国で読まれ、児童の虐待が新奥な反社会的行為である、という認識を広く知らしめることになった。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.250)
問:失敗してもいい、間違えてもいい、ということを学んできましたか?
主体的「状況認識」
「アイヒマン実験」と一般に呼ばれるのは、彼がエルサレムで行われた裁判で「私自身はやりたくありませんでした。私は言われたことをやっただけです」と言い訳したからである。「実験者」が「先生」役の被験者に命令する場合には、「実験は、あなたが続けること必要としています。(The experiment requires that you continue.)」というように、単なる人間の命令を超えた客観的な印象を抱かせるような言葉が使われた。これによって被験者は、自分が置かれている状況を謝って(あるいは「正しく」)理解するのである。
被験者は、自分と同じような人間が、実験を続けて欲しがっているだけだ、ということを認識できなくなる。彼にとって人間という登場人物が視界から消え去り、「実験(The Experiment)」が非人格的な重圧を獲得してしまったのである。(略)
ここでミルグラムが指摘していることは、「コンテキスト」という深刻な問題である。ある行為の意味は、その行為そのものでは決まらず、その行為が置かれた状況に依存して変化する、というのである。しかも、その「状況」は、客観的状況ではなく、主体の「状況認識」に依存する。ミルグラムの実験では、大半の人は唯々諾々と電気ショックを与えたが、なかにはそれを決然と拒否する人がいた。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.256)
人間行動にとって本当に大切なことは、自分の状況をどのように把握するか、である。外部から設定された状況に「適応」してしまうことで「服従」が生じ、それが暴力を生み出す。グレッチェンのように、自分で自分の状況を把握しているなら、そのような暴力に身をまかせることはない。ミルグラムの実験は、まさにガンディーやキング牧師の「不服従」についての実験であり、つまりは、被験者の「魂の植民地化/脱植民地化」に関する実験だということになる。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.259)
「心」を働かせるために
「恕」というのは、「如」と「心」とでできている。これはつまり「心の如し」とおいおう意味である。「恕」には「おもいやり」というような訳語を与えられているが、それは、自らの内なる心の作動から生じるものであって、外面的なものではない論語には「恕」を定義した次のような問答がある。(略)「己所不欲、勿施於人」という句は、「自分のやりたくないことは、人にするな」という意味になる。これは一見したところ当たり前のことに見える。しかしもしあなたが組織に属しており、なんらかの命令を受ける立場にいるなら、当たり前ではなくなる。
「自分のやりたくないことは、人にするな」という論語の命題は、「私は法規や命令に従っただけだ」という言い訳を粉砕する。自分がやりたくない行為であれば、それがたとえ命令であっても、その業務に携わってはならない。携わったのであれば、「やりたくなかった」などと言い訳をしてはならない。それがこの論語の命題の含意である。(略)この覚悟がなければ、学習過程を開くことはできない。その意味で「恕」もおまた、「仁」と直結している。(『合理的な神秘主義』p.29)
問:従うだけの小人の心のしくみとは?
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「学び」は身体的、故に個人的である。
ポラニーは次のように、知識と身体との関係を強調する。
我々の身体は我々が外界を知性的(intellectual)にあるいは実戦的(practical)に知ることすべてのための、究極の道具である。起きている間ずっと我々は、身体の外界のものとの接触への気づきを信頼し、それによってそのものに注意を向ける。我々自身の身体は、我々が通常は対象として経験しないこの世界の唯一のものであるが、我々は、身体から注意を向けている世界という形で、常に経験する。このように身体を知的(intelligent)に用いることで、我々はそれを、外界のものではなく、自分自身の身体だと感じるのである。
この意味で、我々がものを暗黙知の近似項(proximal term)として機能させるときには、それを、我々の身体に合体し(incorporate)、甚だしい場合にはそれを身体の中に包含し(include)、そうすることでわれわれはそのなかに住み込む(dwell)ようになる、ということができる。
この知識の新体制は、自然科学や数学の領域においても変わらない。(略)この身体の作動こそが知識にとって不可欠であり、それゆえ知識は常に「個人的」(personal)たらざるをえない。
それは、知識を保持する人の人格(personality)を包含しているとおいう意味で個人的であり、存在において原則的に孤独(solitary)である。しかしそこには、いかなる放縦の痕跡もない。
知識は、このように孤児院的・身体的であり、孤立的であるということが、何よりも重要なことである。(『合理的な神秘主義』p.173)
いくら説明をしても、学びは個人的、身体的だから、「仁」に至らない人がどうしたら「仁」にいたるの?
ソクラテス・孔子・仏陀
違和感、気づき、エッジ、身体的メッセージ
暗黙知は身体性を帯びている。この世界でせわしなく頭だけが飛び出しそうになるほどの勢いで動き続けている。その速さの中で、暗黙知は沈黙してしまっているかもしれない。
「学」に不可欠なフィードバック
このような意味での単純なフィードバックには、自分の行動の結果から、未来の行動を修正する場合の、その修正の仕方は変更されない。フィードバックが複雑になると、修正の仕方そのものが修正されることになる。この修正には、本質的に異なる2種類のやり方がある。第一のやり方は、修正の仕方があらかじめ記述されている場合であり、第二のやり方は、修正の仕方が記述されない場合である。第一のケースを別の言葉で言えば、修正の仕方そのものはあるメッセージで記述されていて、それはあらかじめ与えられていて、変更できない、ということである。つまりこの回路は、自らの振る舞いを修正するフィードバック回路を持つとともに、その修正の式アタを調整する回路をもっているが、後者の回路は固定している。これをいかに多重化しようとも、修正の仕方はあくまで事前に記述されている。つまり多重化したフィードバックは、一見したところでは修正の仕方を修正しているようになっているが、回路そのものの記述というレベルで見るならば、上から命令が降ってきてそのまま出ていく、一方通行の構造になっている。
ウィーなーは、このような多重化したフィードバックとは別の概念として、「学習learning」という概念を提出した。
学習とは、最も込み入った形態のフィードバックであり、ここの行為ばかりでなく、行為のパターンい影響を与える。それはまた、行動が環境の要求のなすがままにならないようにする方式である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.184)
固定されたフィードバックとはつまり「こうやってうまくいかないときはああやって対処する」とか「これでうまくいかなかったらああする」というやり方、考え方、行動様式が変わらないということだ。例えば背が低くて届かないところにあるものを取ろうとしたとき、ある人は椅子を持ってくるかもしれない。だが椅子がなかったら?「自分一人で」というフィードバック形式が固定されていたら「誰かに助けを求める」という修正された行為は導かれない。抱え込んで、立ち止まってしまう。
フィードバック自体の修正はどのようにして起きるか?→暗黙知
創発=新しいパターン
物理化学的世界の外から神の手によって生命が与えられたのではないとすると、医師の色の変化のルールカラうまいパターンが出現するような創発の過程、つまりせいめいのしゅつげんという過程を考えざるを得ない。同じことは生命が出現して以降の進化の過程にも見られる。無性生殖しかしなかった生命から有性生殖する生命が生まれる、単細胞生物から多細胞生物が出現する、中枢神経系を持たなかった生命から中枢神経系を持つ生物が出現する、さらにその果てには、自分の生命の意味を自分で考えようとするような人類の知性が出現する。このようにポラニーの創発という概念は、進化においてこれまでになぁつた機能が出現する過程を含む。
創発という過程の重要な副産物は「失敗」である。差異が差異を生み出す世界は創発の繰り返しによって階層的に構成されている。上位の階層の原理は下位の原理を破ることはないものの、下位の原理によっては規定されない。それゆえそこに新たな失敗の可能性を生み出す。上述のノイマンの自己増殖オートマトンの例では、石の白黒のうつりかわりは、必ずルールにしたがって行われる。しかし、初期の配置が少しでも間違っていれば、石のうつりかわりのなかでパターンが乱れ、自己増殖は実現されない。ルールに従いながら、それには規定されない自己増殖という機構の出現は自己増殖し損ねるという新たな失敗を伴っている。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.42)
「創発」人は悪をもっている?
生命の発生という最初の創発を原型として、進化の過程では次々と創発が繰り返され、新しい生命の携帯が、新しい原理とともに生み出されてきた。そのたびに新しい失敗の可能性も生み出されてきた。成長するという能力の創発は奇形という失敗を生む。新しい整理的機能の獲得は、その機能不全という失敗を生む。学習能力の獲得は、不適切な学習という失敗を生む。人間は道徳感情を持つがゆえに、邪悪になるという能力をも獲得してしまった。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.43)
「学」に至る、「よろこび」
学習能力は、脅しや圧力によっては、決して作動しない。『論語』の冒頭の言葉。
「学んで時にこれに習う、またよろこばしからずや」
という言葉の示すようにそれは、悦びにひょって作動する力である。この回路を保持するためには、人は勇気を持たねばならないが、それは子供時代に脅かされず、全面的に受け入れられることによって初めて、可能になることなのである。我々が境域の連鎖から抜け出し、正気の社会を構築するためには、私たちが子ども時代に何をされたのか、という決して知りたくはない真実に勇気を持って直面することである。それから我々の感覚を取り戻し、学習回路を作動させ、そうして初めて我々には、口先だけではなく、本当の意味で、子どもを守ることが可能となる。
子どもの魂を守ること。子どもから、子ども時代を奪わぬこと。
これが、我々の社会にとって、人類がこの危機の時代を生き延びるために、そして地球を破壊から守るために、何よりも大切なことなのである。これが多くの先人の智慧の教えるところだと、私は理解している。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.303)
「学」に至る、「カオス的遍歴」と「暗黙の次元」
無秩序状態から秩序状態への遷移は徐々に起きるのではなく突然に起る。まるで落とし穴に落ちるように秩序状態がやってくる。これに対して秩序状態から無秩序状態への移行は要素間の佐賀倍々ゲームで増大して最後にバラバラになる。これに対して秩序状態から無秩序状態への移行は要素間の差がバイバイゲームで増大して最後にバラバラになる。倍々ゲームなのでゆっくりと移行するとは言えないが、突然に移行が起きる訳ではない。このような無秩序状態と、さまざまの秩序状態との繰り返しが、自律的に起きるダイナミクスのことを「カオス的遍歴」と呼ぶ。
これで一応準備が整ったので、知ることとカオスの関係について考えてみよう。これに直接関係のある重要な研究が、においを感じる器官についてなされている。においがするという近くは、におい分子が鼻の穴に飛び込んできて、粘膜表面の受容器にくっつくところから始まる。におい分子は三ー二〇の炭素分子を含む比較的小さな物質であり、非常にたくさん(数十万以上)の種類がある。これに対して人間は数千から一万種類の匂いを識別する。鼻腔内の嗅粘膜には匂いを管んじる嗅細胞があり、その数は人間では訳四〇〇〇万、犬ではやく一〇億に達する。嗅細胞の先端からは一〇ー三〇本の線毛が生えており、そこににおいに対する受容器がある。この受容体で重要な役割を果たしているタンパクがあるが、その種類は数百から一〇〇〇程度とされる。それぞれの嗅細胞にはひとつの種類の受容体のみが対応している。
におに分子の種類が数十万あり、受容体が数百種類しかないということは、におい分子の種類と受容体の種類とが一対一に対応していないことを示す。あるにおい分子に複数の種類の受容体が反応し、またある受容体には複数の種類の匂い分子に反応する。さらに、においの受容体の種類が数百で、においの識別が数千から一万ということは、これらもまた一対一には対応していない。つまり、ある匂い分子にある受容体が反応すると、においを感じる、というような単純な描像は成り立たないのである。現実の世界のにおいは、複数のにおい分子が金剛しており、その可能な組み合わせは無限にある。しかもにおい分子Aによって活性化する受容体のセットaとお、におい分子Bに対応するセットbを考えた場合、ABをまぜあわせたものによって活性化する受容体のセットはa+bとはならず、新たなセットを生成する。人間お識別する「におい」はこの膨大な数の可能な組み合わせを、わずか数千種類にまとめていることになる。
このことは、嗅細胞の受容体ににおい分子が付いた段階では「何のにおいか」がわからないことを意味する。それどころか「何か匂いがする」ということすらわからない。受容体の活性化だけでは近くにも認識にも結びつかず、何かにおいがあるといった「知覚」はより高次のダイナミクスを必要とする。におい分子に反応することで受容体に発生した「ちがい」は軸索を通って鼻の奥にある嗅球という器官に集められる。フリーマンやケイによれば、嗅球の電気的活動は、におい刺激のない状態ではほぼ静止して弱いランダムな変動を示している。これに対して知っているにおいを嗅いだときには、周期解に似た動きをしたあとに、しばらく乱れた状態に推移し、それから別の周期会に似た動きを示し、また乱れ、ということをカオス的に繰り返すのである。つまり、
何もにおいがしない:ランダム
知っているにおいがある:周期解に近い弱いカオス
知らないにおいがある:カオス的遍歴
という関係が予想される。(略)フリーマンやケイによる一連の実験は、「知らないにおいがある」という自体がカオス的遍歴に対応し、「何もにおいがない」という事態がランダムな運動に対応することを明らかにしたことで、「知らないものを探求すること」が有り得ることを示したことになる。それは同時に、暗黙の次元の作動の実在を示したことにもなっている。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.53)
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「学」に至る、「同期」
スピノザがホイヘンスの驚くべき同期実験を知っていたとすれば、その思想的意味をそこから汲み取らなかったと考える方が不自然である。そしてスピノザの思想は、このホイヘンスの実験と整合している。それは実験に由来する、というよりもむしろ、スピノザがもともと抱いていた思想が、ホイヘンスの実験と整合していた、と考えるべきであろう。ここでは、ホイヘンスの実験を念頭に置くことで、スピノザの南海とされる諸概念が、わかりやすいものになることを示す。たとえば、第二部補助定理三のなかの公理二の定義は次のようになっている。(略)
定義 同じあるいは異なった大きさのいくつかの物体が、他の書物体から圧力を受けて、相互に接合するようにされている時、あるいは(これはそれらいくつかの物体が同じあるいは異なった速度で運動する場合である)自己の運動をある一定の割合で相互に伝達するようにされている時、我々はそれらの物体がたがいに合一していると言い、またすべてが一緒になって一物体あるいは一個体を組織していると言う。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.98)
休憩にどうぞ
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ショッカーの世界
ー社会が狂わないようにするにはどうしたらいいか?健全な個人が増えるしかない?ー
ー健全な個人が増えるにはどうしたらいいか?という問いへの考察ー
蟻か人間か、それが問題だ。
ウィーナーは、このようなフィードバックと学習の質的祭という観点から、人間社会の特徴を、蟻の社会と比較した。そしてその両者の違いを、行動遂行のための機構が、事前に与えられているか、学習によって構成されるか、に求めた。蟻は幼虫から成虫になる時点で、変態を経て、身体の構造自体を根本的に再構成する。(略)これらのことから身体の構造上、蟻には多くのことを習いおぼえる機会のないことがわかる。
昆虫は、計算機に例えると、命令があらかじめ「テープ」に書き込まれており、その命令を変更する機会が非常に限られている機器に類似している。…言い換えれば、昆虫の成長はその身体のまとう拘束衣に制約されており、それがそのまま、行動パターンを制約する精神的な拘束衣ともなっている。
蟻の社会は、生まれながらに決定されているメッセージに従って、規則正しく行動する主体によって構成された、秩序正しい組織である。これに対して人間は、蟻と同じく社会的生物であるとはいえ、その本質は対照的である。人間の身体の特徴は、その発育不全にある。哺乳類は一般的に長期の幼年時代を親の庇護のもとに過ごすが、人間の赤ん坊は自分では全く何もできない完全な未熟状態で生まれてくる。一人前の身体構造を獲得するだけで十数年を必要とし、社会的に必要な知識とを獲得するには、さらにそれ以上の年月を必要とする。たとえ心身ともに一人前となったとしてもそれが終着地点ではなく、生きていく過程の中で、常に学習過程を作動させており、死ぬまで学習し続けている。それゆえ、
ありの社会が遺伝的パターンに基礎を置いているのと同じ意味で、人間社会は、学習に基礎を置いていると考えるのが、全く自然である。
ということができる。つまり、ウィーナーは、孔子をはじめとする儒家の思想家と主に、学習こそが、人間社会の秩序の基礎だ、と主張したのである。ウィーナーはこのような観点から、ファシズムをはじめとする人間の学習を阻害する社会を、次のように批判する。
ありのモデルを基礎とした人間のありさまを理想とするファシストの熱望は、蟻の本質と人間の本質とに対する深刻な誤解に起因する。…人間という素材を使ってファシスト流のあり社会を組織することは、私が示すように、まさしく人間の本質を乏しめるものであり、経済的に見て、人の持つ人間的価値の最低最悪の浪費である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.185)
問:蟻化した社会でどう人間として生きるか。それとも蟻として生きるか。
ショッカーにだって・・・
李卓吾の「假人」=蟻=童心のない人間
李卓吾の「童心」とは、人間に生まれながらに備わっている心身の作動のことである。これは孟子のいう「仁之端」を継いでいる。李卓吾は、この童心が失われる「魂の植民地化」の過程を次のように書く。
しかるに童心は、どういうわけか、ふいと失われる。(胡然而遽失)。蓋し、さいしょは、聞見が耳目から入ってきて、内の主となる、かくて童心が失われる。長じては、道理が聞見に乗じて入ってきて、内の主となる、かくて童心が失われる。
このように魂が植民地化された状況を李卓吾は、「假」という言葉で表現する。これは「仮面」の「仮」であり、中国語のニュアンスは「偽」に近い。
すでに聞見・道理をもって心となす。しからば、言うところのものは皆な聞見・道理の言にして、童心の自ら出せし言ではない。言、巧みなりと雖も、(真の)我と何のかかわりがあろうや。まさにこれ、假人にして假言を言い、事は假事、文は假文、なるものではないか。けだし、其の人すでに假なれば、ゆくとして假ならざるはないのである。かくて、假言をもって假人と語れば、假人喜ぶ。假事をもって假人と道えば、假人喜ぶ。假文をもって假人と断ずれば、假人喜ぶ。ゆくとして假ならざる無いのであるから、ゆくとして喜ばざるないのである。満場これ假なり、矮人なにをか弁ぜん。
「假人」というのは、単に他人を批判しているのではないと私は感じる。これは、自分自身のかつての姿への怒りなのだ。
『焚書』巻三「卓吾論略」によると、李卓吾は世間の「假」に順応する人間であり、さまざまな気苦労を重ねた。その上、祖父の訃報に接して葬儀と服喪のために家族を残して故郷に帰り、三年をそこで過ごした。家に戻ったおtきに、娘二人を飢餓で喪っていたことを妻から聞いた。「その時はじめて下駄の歯がぽっきりと折れる思いがした」と言う。それまで「假」のために奔走していた自分が、上の空であったことに気づいた、というのである。彼が「満場これ假」の世間に対して投獄されるほどの厳しい言葉を投げつけたのは、娘を殺した自らの愚かさが許せなかったからであろう。彼の思想は「異端」とされ、清朝の焚書目録に載せられたが、それは孔孟の教えを歪めたからではなく、その本質を取り出したがゆえであった。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.76)
問:童心を取り戻すには、悲しみ、痛みしかないのであろうか。
マルクスの「経済決定論」=蟻社会=資本制社会
マルクスは、この経済的な諸関係が、人間お社会関係や慣習や思想をも制御しており、それに反するものは残存し得ない。と考えていた。これがいわゆる「経済決定論」である。(略)労働者のみならず、資本家もまた、厳しい競争に晒されており、「貯蓄せよ、貯蓄せよ。これがモーセで預言者だ」という抑圧の下にいる。かくして労働の所有者として振舞うことを要請される労働者のみならず、資本家もまた、自分自身の生き方に沿って生きることを阻害されており、資本の所有者として振る舞うように矯正される。だれもが、資本の貯蓄という火車に追われて、疎外され、走り続ける社会。それが資本制社会である。マルクスは、人間関係や社会慣習や思想が、生産関係を反映して作り出される、としていたが、それは、人間の本性を否定するものではない。彼は、このような上部構造が人間に押し付けられ、内面化することによって、人間の本性が抑圧されることを、告発していたのである。つまり、資本制社会においては、いかなる文化的要素も、経済関係に反しているものは存続し得ないので、結局のところそれを強化するイデオロギーに堕ちてしまい、真実を隠蔽する装置となって、人間の本性を破壊する暴力となってしまうのである。マルクスが示そうとしたことは、このような社会では、誰も幸福にならないのであり、その事実を各人が認識し、人間の本性に沿って、各人が幸福の追求を実現できるような、理性的な社会を作り出そう、ということであった。この理性は、結局のところ人間の本性の反映であるが、それはスピノザの欲望と理性との定義に沿ったものとなっている。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.118)
問:人間の本性に沿った経済活動のあり方とは、どのようなものだろう?
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隠蔽される社会
フロムが、マルクスとフロイトとを高く評価するのは、その両者が、社会の隠蔽を解明したからであるマルクスは、資本制社会が生産物の再戦さんを通じて生産関係を再生産し合法的に搾取が行われ、隠蔽されている事実を解明し、フロイトは個々人の意識が、本当の衝動を隠蔽し、無意識へと抑圧している事実を解明した。フロムが行なったことは、フロイトの抑圧が、マルクスの搾取の隠蔽の結果として生じるとともに、その抑圧構造が、社会の再生産に貢献している、という循環関係の解明である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.200)
スピノザの教えは多くの点でブッダの教えと似ている。非合理的な動因(受動的情動)に流される人間は、必然的に自己及び世界に関して不十分な観念を持った人間、すなわち幻想を抱いて生きている人間である。理性に導かれる人間はもはやかんっ国は誘惑されないで、二つの〈能動的情動〉すなわち理性と勇気に従う人間である。マルクスは、真理を救いの条件と考える人びとの伝統の中にある。彼がなした仕事の全ては、良い社会とはどのようなものかという社会像を示すことが第一義ではなく、人間が良い社会を築き上げるのを妨げる幻想に対する容赦ない批判であった。マルクスが言ったように、人間は幻想を必要とするような環境を変えるために、幻想を打ち破らなければならない。フロイトもまたこれと同じ文章を、精神分析の理論に基づいた治療法にふさわしい格言として、定式化することもできただろう。彼は真実の概念を途方もなく拡大した。彼にとって真実とは、人が意識的に信じたり考えたりすることだけではなく、考えたくないゆえに抑圧するものをもさすのである。
フロイトの発見の偉大さは、個人が真実だと信じていることを超えた真実にまで達する方法を、考え出したことにある。そして彼は抑圧の及ぼす結果と、それに応じた合理化とを発見することによって、これをなしえたのである。彼は治療への道は自分自身の精神構造への洞察と、それによる〈抑圧の除去〉にあることを、経験的に実証した。真理は解放し治療するという原理をこのように応用したことが、フロイトのおそらくは最も偉大な業績なのである。(略)
「魂の脱植民地化」とは、まさに「人間がよい社会を築き上げるのを妨げる幻想に対する容赦ない批判」であり、本書に言う「合理的な神秘主義の系譜」とは、「真理を救いの条件と感g萎える人びとの伝統」に他ならない。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.202)
問:臨床心理学の方法さえ学べば、魂の脱植民地化は成功するのか?
社会的転移現象と服従人間の再生産
転移現象の背後にあるのは、子どもの無力さであり、それゆえ親に対して抱く保護の願望である。精神分析は、日分析者の幼児性を解明しようとするため、これが分析者に向けられることにあんるが、フロムが指摘したのは、大人もまた無力だ、という事実である。
子供にはどうすることもできない多くの場合にも、おとなはなすべきことを知っているが、結局はおとなもきわめて無力なのである。彼が直面する自然と社会との力はあまりにも圧倒的なので、多くの場合、彼はそれらに対しては、子供がその世界で無力であるのと同じように、無力である。
それゆえ、大人にもまた、この無力感から生じる転移現象が、普遍的な社会現象としてみられるのである。たとえば国家や政治や司法や専門家や知識人や経営者に対して、人々は容易にこの転移現象を起こす。それは、転移の対象となった人の資質に対して起きるのではなく、その社会的な位置付けに依るのである。それゆえ、人々が無力感に襲われているなら、社会的転移が起きやすくなり、それは体制・権力への盲従を生む。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.204)
フロムは、その両親が「社会の代理人」であって、社会的に望ましい性格の人間を再生産する役割を果たし、その結果、子どもは「社会的性格」を身につける、とした。社会的性格とは、特定の社会の機能の実現に役立つように形成される、精神エネルギーの特定の構造である。このような特定の構造を身に帯びることによって人は、その社会の生産過程における生産力として機能するように形作られる。この概念によってフロムは、マルクスの社会理論を拡張する。
ひとたびある社会が、その平均的人間の性格構造を、彼がなさねばならぬことをなすことを好むようにかたちづくるのに成功すれば、人間は、その社会が彼に課す、まさにその状態に満足するものである。かつてイプセンの劇中人物がいったように、彼がなしうることだけを彼は欲するから、彼がしたいと思うことはなんでもできるのである。いうまでもなく、服従に満足しているような社会的性格は、不具化した性格である。しかし、不具化していようと、いまいと、そのような性格は、それ固有の機能であるゆえに、服従的人間を獲得するという社会の目的に役立っているのである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.205)
フロムは「財産と富との所有が中心的な欲望であった十九世紀資本主義」と区別して、「高度に産業化された社会においていっそう優勢となりつつある二〇世紀」社会を想定し、その社会的性格を消費人(homo consumens)とする。
消費人は、必ずしも第一にものを所有することを目標とはせず、ますます消費すること、従って彼の内的空虚・受動性・孤独・不安の代償を主目標とする人間である。巨大企業、巨大産業や政治機構や労働の官僚制によって特徴付けられる社会では、自分の労働環境をコントロールできない個人は、無能力・孤独・退屈・不安を感じる。同時に、大消費産業の求める利潤への欲求は、広告という媒体を通して、個人を、大食家に、ますます消費することを欲する永遠の幼児に変えてしまう。彼にとっては、すべてのものが消費の対象となる。すなわちタバコ・酒類・セックス・映画・テレビジョン・旅行、そして教育・書籍・講演でさえも消費の対象となる。新しい人為的な欲求が創造され、ひとびとの趣味が操作される。(消費人の性格は、その最も端的なかたちとしては、よく知られた精神病理学的現象である。それは隠された抑圧と不安の代償として、過食・買いすぎ・アルコール中毒へ逃避する抑圧された、あるいは不安な人間の多くの場合に見られる。)消費欲(フロイトが[口唇ー受容的性格]と呼んだ極端な形態)は、現代の産業化された社会における、支配的な精神的力となる。消費人は、無意識のうちでは自分の退屈さと受動性に悩んでいるのに、幸福であるかのような幻想をもっている。彼が機械に対してより大きな力を持てば持つほど、人間存在として彼がますます無力となる。より多く消費すればするほど。産業組織がつくりだして操作するたえず増大する欲求の奴隷となる。彼は、す率や興奮んを喜びや幸福と取り違え、物質的安楽を生きがいと取りちがえる。食欲を満足させることが人生の意義となり。それを求めることが一つの新しい宗教となる。消費する自由が、人間の自由の本質となってしまう。
フロムのこの指摘は、二一世紀になっても、今だに通用しているように私は感じる。ということは、経済的土台が、コンピュータの出現によって根本的に転換しつつあるとしても、社会的性格は、未だに変化していない、ということになる。フロムの目指した社会主義とは、このような貪欲の体制化とも言うべき消費社会の病理を治療するためのものであった。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.206)
「闇教育」
ミラーは一九八〇年に出版された『あなた自身のため(邦題は、魂の殺人)』において「闇教育(black pedagogy)」という概念を導入した。「闇教育」というのは伝統的に「正しい」とされている各種の育児の手法のことであるが、実際には親が子どもの頃に受けた虐待によって生じた傷に振り回されてやっていることであり、同じ心の傷を子どもに負わせる虐待を正当化するための偽装にすぎない、というのである。
『魂の殺人』では、かつて、闇教育の教えを広めるために書かれた書物をたくさん引用しています。それらの書物では、子どもの生まれた最初の日から、従順と清潔追求の教育を行うよう、強力に薦めています。これらの教育書のおかげで私は(そしてその後私の本を読んでくださった方たちも)、ドイツの第三帝国時代、(たとえばアイヒマンのように)何の両親の咎めを感じることもなく、完璧な殺人機械として機能を果たした人たちのことが理解しやすくなりました。「人らーの熱心な意図実現者」になった人たちは、実は非常に古い勘定を払っていたのです。この人たちはそれまで、乳幼児期や子ども時代に体験させられた暴力に対してまともに反応することを、一度も許されていませんでした。この人たちの内部に潜在的な破壊傾向を生み出したのは、フロイトの「死の欲動」ではなく、非常に幼い時期に抑圧された情動上の反応だったのです。
この人々は隠された破壊衝動を発露する必要に駆られていたのであり、「ヒトラー箱の人たちに『合法的』に血祭りにあげられる犠牲を提供」したのである。彼は「罰せられる虞れなしに、幼時に抑圧した感情と復習欲をぶつけられる相手」を提供することで、人々の熱狂的支持を得た。もちろん、ヒトラー自身が典型的な事例である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.248)
親による子どもの搾取と欺瞞
ミラーは一九七九年に出版された『才能ある子のドラマ』によって、親の隠れた欲求を満たすために、子どもの愛情への欲求が利用され、搾取されていることを明らかにした。このため子供は自分の欲求を自分自身から隠してしまうことになり、親の都合に合わせた自己像を構築し、自分自身を牢獄に閉じ込めてしまうのである。ミラーは次のように指摘する。
幸福な、保護された子ども時代を送ったと信じ、そのイメージをもったまま心理療法の門を叩く人の数はおどろこうほど多いのです。そのような患者さんは、成長後の現在も可能性豊かで、才能を発揮している人もすくなくありません。その天与の才と成し遂げた仕事に対して賞賛を受けている人もいます。この人たちはほとんどの場合、一歳でオムツがいらなくなり、一歳半から五歳のときにはちゃんと上手に弟や妹の世話を手伝うような子どもでした。一般に信じられているところに従えば、このようなー親の誉れとも言うべきー人たちには、強靭で安定した自信があるはずなのですが、実際には話はまるで逆なのです。その人たちの手がけることは、すべてがうまく行き、素晴らしい結果に終わって、その人たちは賞賛されたりねたまれたりします。成功するということが大事な場合に失敗することはありません。けれども、何をしても駄目なのです。すべての成功の裏に憂うつ、空虚感、自己疎外、生の無意味さが潜んでいますー自分は偉大な存在だという麻薬が切れたり、「頂点」でなうなったり、間違いなくスーパースターとは言えなくなったりすると、あるいは突然、なんらかの、自分の理想像に合わなくなってしまったと感じたりしますと、隠れていたものが即刻頭をもたげます。それが始まると、不安発作や猛烈な罪悪、ならびに恥辱感に苦しめられるようになるのです。これほど才能に恵まれた人たちが、これほど深い障害を負っているのはなぜなのでしょうか。
ミラーはこの書物について、後に次のように述べている。
子どもの時に自分を率直に表現することを許されなかった人たちの悲劇は、その人たちが自分では知らぬままに二重の生を生きている点にあります。『才能ある子のドラマ』で述べたように、そのような人は子ども時代に偽りの自己を作り上げており、自分にもう一つ別の自己があるとは気づいていません。その、もう一つの別の自己の内部には、その人が抑圧した感情や欲求が閉じ込められています。ちょうど牢獄のように。その人たちはまだ一度も、その危機的状況を理解し、自分の感情や欲求が閉じ込められている牢獄をまさに牢獄として認知できるように、そしてそこから自己を解放し、自分の感情と真の欲求を言葉にするのを手伝ってくれる人に出会ったことがないのです。
このような人の行動は「自分の生を賭けた欺瞞を維持し続けるという目標」によって決定されており、彼らは「自分が本当は誰なのかがわからず、ただある役割を演じている」だけであって、「その役割というのは、周囲がその人に演じることを期待している、その役」なのである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.246)
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エピクロスが「むなしい臆見と結びついた欲求」といったものをヴィトゲンシュタインは「語りうるものによってすべてを覆い尽くそうとする妄想」といい、李卓吾は「假」といい、ミラーは「自分に対する裏切り」といい、マルクスは「資本制社会」と呼び、ウィーナーが「人の持つ人間的価値の最低最悪の浪費」と呼ぶものであり、安冨歩が「暴力」と呼ぶものであり、こう言ったものを体現した人をフロムは「必然的に自己及び世界に関して不十分な観念を持った人間、すなわち幻想を抱いて生きている人間」「消費人」といい、孔子は「小人」といった。
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休憩・・・・
「暗黙の次元」
ポラニーの「暗黙知」
ポラニーは、戦前は科学者として活躍し、戦後に哲学者となった。最晩年ん違「暗黙の次元(tacit dimension)」という概念に到達した。ポラニーは「知る」という問題を徹底的に考えた。彼が強く批判したのは、知るという個人的過程を、「客観的知識」の「客観的操作」に置き換えよう、という迷信である。つまり、人間的主観的要素がある限り、知識は不完全であって、それをできるだけ排除すべきだ、という俗流の客観主義が、非科学的な妄想にすぎないということを、明らかにしたのである。パラニーは、たとえどんなに科学的な知識であっても、それは純粋に個人的な「知る」という過程の作動なしにはありえないことを、自らの科学者としての経験に基づいて示した。しかも、「知る」という過程を知ることは、原理的にできないので、これを「暗黙知(tacit knowing)」と名付けた。彼が強調したことは、知る、という過程を知ることができるのは、知っている本人だけであるが、知るという過程を知ろうとすると、知る過程そのものが止まってしまう、という問題である。知る過程そのものは、どう頑張っても、知ることのできない「暗黙の次元」に属している。(略)
私の最初の講義では、我々の暗黙知の力(our power of tacit knowing)を取り扱った。そこで示されたことは、暗黙知が住み込むこと)dwelling)によって理解(comprehension)を達成し、全ての知識(knowledge)がそういった理解の行為によって構成され、あるいはそれに根ざしている、ということであった。
このことから、「暗黙知」を「明示知」あるいは「形式知」といったものと対立させて理解することが、間違いであることが明らかとなる。全ての知識(knowledge)が暗黙知(tacit knowing)という人間の行為に根ざしている、ということを明らかにするのが、ポラニーの重要な論点なのである。(『合理的な神秘主義』安冨歩p.170)
暗黙知=明示的知識以前の情報を、わたしたちは知っている。
ポラニーは「明示的知識explicit knowledge」だけが知識を成り立たせているのではなく、その背後に作動する「暗黙に知ることtacit knowing」の重要性を繰り返し指摘した。先ほどの鍼灸師の例で言えば、注意を向けている患部の状態についてのイメージが「明治的知識」であり、手に伝わる鍼の動きから幹部の状態を生成する働きが「暗黙に知ること」である。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.32)
差異(ちがい)の情報についてのベイトソンの議論が示すように、精神は差異を受け渡すサイクルに宿る。サイクルのなかには人間の皮膚の内側で閉じているものもあれば、皮膚を跨いでいるものもある。鍼治療のサイクルでは、鍼治療の手から針を通じて他社の皮膚の下の組織へと至っている。これ以外にも針灸師と患者の間に五感を通じたさまざまのコミュニケーションのサイクルが広がっている。皮膚の内側で閉じるさまざまのサイクルもある。例えば、神経系のなかで展開される神経細胞の発火が織りなす複雑な回路がそれである。我々の身体を舞台として、皮膚を跨ぐサイクルと、皮膚の内側で閉じるサイクルが複雑に相互作用している。全てのサイクルは差異を変換し情報を生み出している。この情報の相互作用のなかから「意味」が生成する。この「意味」が「知識」であり、精製の過程が「暗黙に知ること」である。「意味」が精製する以前に、皮膚を跨ぐサイクルのなかでは差異の変換が起きており、情報が生じている。言い換えれば、明示的知識が形成されるより前に、われわれの身体をめぐるサイクルに宿る精神は、すでに情報を「知って」いるのである。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.34)
例えば「これは、なんだろうか」というなぞめいた情報の中に私たちは住んでいる。何ものかがいる、あるにも関わらずそれに「気づき」はしないものの、身体は情報として、暗黙知としてそれをもっている場合もあるだろう。「違和感」として気づけるものもあれば、
ラッセルの「内なる声」
もしラッセルがはじめ確実な知識に到達する希望に燃えていたのでなければ、彼の哲学的方法は決して形成されなかっであろう、と私は信ずる。確実制が到達し得ないものであることを初めから心得ていたのならば、彼は哲学を捨てて経済学か歴史学かに没頭したであろう。
(略)ラッセつの「負け戦」が何との戦いであったかを知る上で、興味ふかい記述が『私の哲学の発展』のなかにある。彼が十六歳のときに書いた日記の一部である。
私がそれによって自分の行動を導き、かつそれにはずれることを罪と考えるところの、生活の規則は、幸福の強度と幸福に預かる人間の数の両方を考慮して最も大きな幸福を生み出すに違いないと思われるような仕方で行動すること、である。私の父母はこれを実行不可能な生活規則だと考えており、人は最大の幸福を生み出すものを決して知り得ないのだから、内なる声(the inner voice)に従う方がはるかによいといつも言っているのを、私は知っている。…私の信ずるところによれば、良心(conscience)は進化と教育との共同の産物であるにすぎないのだから、理性(reason)を捨てて両親に従うことは、馬鹿げている。
私には、ここからラッセルの無謀な戦いが始まっており、「理性」に絶対の信頼を置いたラッセルが全知全能を振り絞って戦いながら、「内なる声」を信ずる父母に、一歩一歩追い詰められて行った、ということではないかと考えている。内なる声は、単なる両親ではなく、よりふかい計算に支えられた、洞察・直感・直観・予見の源であった、ということであろう。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.143)
孟子の「怵惕惻隠之心」=「暗黙知」
孟子は、人間社会の秩序の根源を、「怵惕惻隠之心」に求めたのである。これは人間が、ハッとして、思わず抱く心の動きのことである。これは明確に『論語』の学習思想の継承であり、また発展である。なぜなら、学習過程は、このような意識される前の身体反応に依拠して生じるからである。その身体反応が正しく作動し、それを認識することのできる状態が「仁」であり、そうなっているない状態が「不仁」である。孟子の思想は「性善説」と呼ばれることがあるが、それは必ずしも正しい表現ではない。というのも「怵惕惻隠之心」が「善」なのか「悪」なのかは、それ自体としては判定のしようがないかあである。とはいえ、そのような生得的な身体反応に秩序の根源を見る、という意味で、「性が善」だというのである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.47)
問:「怵惕惻隠之心」を守り、育てるためには?
清沢の「如来」=コントロールされぬもの、ただやってくるもの
「相対・有限」というのは「この私」、「絶対・無限」というのは「如来」のことだと考えれば良い。それゆえ精神主義というのは、この私と如来との合するところに生じる、実際上の問題、つまり、生きる、という場面での私自身の態度のことだ、というのである。どういう態度かというと、これは渋沢最晩年の「我は此の如く如来を信ず)我信念)」という論文に出てくる次の有名な文章は端的に示している。
人智は有限である、不完全であるといいながら、有限不完全なる人智を以て、完全なる標準や無限なる実在を研究せんとする迷妄を脱却し難いことである。私も以前には、心理の標準や善悪の標準がわからなくては、天地も崩れ、社会も治らぬ様に思うたことであるが、今は、心理の標準や善悪の氷筍が人智で定まる筈がないと決着して居りまする。
つまり、人智を以て得られそうな標準で判断するのではなく、そのような能力の完全な欠如を自覚し、その上で、如来を信じて「虚心平気に此世界に生死する」のが「精神主義」である。
清沢の挙げている具体例を見ることにしよう。彼が論じているのは、部屋にいるときに地震にあったらどうするか、と謂う問題である。地震だからといって、走り出したら災害に遭うこともあれば、逆に走りでなくて災害に遭うこともある。それのどちらが良いのかは、あまりにむずかしいので「吾人の知見し得る所にあらざるなり」と言わざるをえない。ならばどうするか。清沢は言う。
知見し得ざることに対して狂乱するは無用のことなり、吾人は、此無用のことに対しては、勤めて虚心平気の工夫を尽くし、面して、走出るべきか走りいずべからざるかの直接問題に対しては、一に無限大悲の指命に待ち、もし走り出んとするの念起らば、幕直に走進し、若し走り出んとするの念起らずは、泰然として安坐すべきなり。
つまるところ、虚心平気に「走り出たい」と思うなら、それは如来の指命なのだから、まっすぐに走りでるべきであり、「走り出たい」と思わないなら、泰然自若としてそこにじっとしていれば良い、といのである。これが「他力」という態度である。しかしこれだけでは済まない。なぜなら、「其他力の指命が判然たらざる場合」、つまり何らの念も起きず、気持ちがはっきりとしない、という場合があるからである。これについて清沢は次のようにいう。(略)もしどうしかいいか判然としない場合には、それもまた如来の「妙巧」なのであるから、これまた虚心平気に、「指命を待ちつつ満足」して、迷っておれば良い、というのである。このような解決は、「○○という情況で、Aという行為と、Bという行為とが可能である。さてどちらが倫理的に正しいか」というタイプの選択問題を、すべて無意味にする。このような考え方は、「標準を求めるものであり、清沢はそれは人智を超えた問だ、と考えていた。それゆえ、こういう問の設定そのものが無意味だ、というのである。此のような発想は、「決定論/非決定論」という二項対立を打ち破る、二項同体の思考法である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.132)
問:ソクラテスのダイモーン、如来を「信じる」に至るプロセスは?
スピノザの「神」=「自然」=目的なき永遠・無限の実有
スピノザはこの世に存在するものすべて、つまり自然そのものが神である、という以外に、絶対無限の唯一鳴神はありえないとしたのである。スピノザのこの考え方は「神即自然」というように表現される。この世界そのものが神であり、神とはこの世界そのものである。神に「目的」はない。
我々が神あるいは自然とよぶあの永遠・無限の実有は、それが存在するのと同じ必然性をももって働きをなすのである。…神は、なんら目的のために存在するのではないように、また何ら目的のために働くものでもない。
このような神は全能であり、誰にも拘束されることなく、自らの本性に従って無目的に作動し続ける。その作動とは、自分自身を自分自身で生み出し続けることであり、何かの「ために」あるいは何かの「目的で」作動する、というようなことは考えられない。この意味で神は絶対的に自由である。なお「自由」とは次のように定義されている。
自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。
このような神=自然は、この私自身と切り離されていない。それどころか、この私自身は、神=自然の働きの一部である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.89)
問:自らの本性に従って無目的に作動し続けるなら、「悪」なんてものはないのだろうか?
スピノザの「衝動」
人間の生への努力たるコナトゥスが根本にあり、それが精神のみに関して認識される場合には「意志」と呼ばれる。それが精神と身体とに関して認識されると「衝動」と呼ばれる。言い換えればスピノザは意志を、衝動の精神的側面と見ているのである。そして衝動に人間の本質を見る。その衝動を意識しているときに、それを「欲望」と呼ぶ。コナトゥスはすなわち「衝動」であり、その身体的側面を無視すると「意志」に見え、それを無視しない場合は「欲望」となる。そういう「衝動」「意志」「欲望」の対象となるものを「善」と判断するのである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.94)
エピクロスの「快」=身体のメッセージ
エピクロスは、生きることそのものを肯定し「身体の健康と心境の平静こそが祝福ある生の目的」だと考える。そして次のようにいう。
快が現に存しないために苦しんでいるときにこそ、われわれは快を必要とするのであり、〈苦しんでいないときには〉われわれはもはや快を必要としない…まさにこのゆえに、われわれは、快とは祝福ある生のはじめ〈動機〉であり終わり〈目的〉である、と言うのである。(略)
この「快」は「思慮」と結びついている。すなわち、
思慮は、思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには〈思慮深く美しく正しく生きることもできない〉、と教える。
という。このように生きる人物がすぐれた者である。(略)エピクロスの言う「快」は当然のことながら、肉体の教えるところである。それゆえエピクロスは肉体を肯定する。(略)この肉体の教える善を受け入れて快にしたがって生きることができないときに、我々は不正を為す。
けだし、自然な快が、われわれに不正を行わせるのではなくて、むしろ、むなしい臆見と結びついた欲求が、不正を行わせるのである。
(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.51)
問:「自然な快」はどんなもの?「むなしい臆見と結びついた欲求」とはどんなもの?
ヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの」「世界の外」にあるもの
彼はその主著、『論理哲学論考』の最後を、
七 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
という命題でしめくくった。別の箇所でも、
六・四一 世界の意義は世界の外になければならない。…世界の中には価値は存在しない…価値の名に値する価値があるとすれば、それは、生起するものたち、かくあるものたちすべての外になければならない。
と述べている。ヴィトゲンシュタインは、語りうるものによってすべてを覆い尽くそうとする妄想が、世界の価値や意義を破壊していると考え、神秘を取り戻すことで人間を正常化しようとしていた。彼は次のようにも言っている。
六・五二 たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これが我々の直感である。
(略)ヴィトゲンシュタインは命題(四・〇〇三)で、
「哲学的事柄についてこれまで書いてきた命題や問いの大部分は、偽なのではなく無意味なのである」
と大胆に指摘した。というのも、哲学が扱ってきた問題の多くが「語りえぬもの」だったからである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.162)
世界の外、というのは、「語りえぬもの」の世界、ポラニーの「暗黙知」が生まれる「暗黙の次元」のことであり、清沢の「如来」がおわしますところでもあり、スピノザの「生への努力(コナトゥス)ー衝動」が生まれるところであり、孟子の「怵惕惻隠之心」が生まれる場所であり、ラッセルの「内なる声」が発せられるところであり、李卓吾の「童心」がはたらくところでもある。「神秘」とも呼ばれる。
六・四四 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。
六・五二二 だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。
(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.166)
休憩入りまーす笑
「生きる」ために
ミルグラムの「小さな世界」実験
ミルグラムの「小さな世界」実験の結果は驚くべきものであった。途中で多数の封筒が転送されなくなってしまったが、それでも、数百通の封筒のうち、六四通がターゲットに到達した。その連鎖の長さは、たった二人〜十人であった。中央値は六人であったので、「六人いれば、アメリカに住む任意の二人は接続されうる」という結論に到達した。(略)
この研究は、「小さな世界」問題から立ち上がる特定の問題群から始まったが、その実行過程ははるかに広い話題を描き出している。それは潜在的なコミュニケーションの構造を明らかにし、その構造の社会的性質の解明が求められている。我々がこの潜在的なコミュニケーション・ネットの構造を理解した時、社会の統合一般についてはるかによく理解することになろう。多くの研究が社会科がkにおいて、個人がどのように、社会の他の部分から排除され切断されるかを示してきたが、この研究は、なんらかの意味で、我々はすべて緊密に編み上げられた社会的織物に共につなぎとめられていることを、証明したのである。
この最後の一文から、ミルグラムがこのすばらしい着想に到達した理由が明らかとなる。それは、アイヒマン実験と、密接に関係している。というのも、人と人との繋がりが、緊密に社会を覆い尽くしており、このつながりこそが「恕」に基づいた、学習に基づく秩序形成の契機でもあり、結果でもあることを、示唆しているからである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.262)
問:前向きになれる「作戦」を考えてみよう。
「頼りになるネットワーク」
我々の世界は非線形性に満ちており、そのような世界に直面しながら生きている、という事実の前では、なんらかの「確実なもの」にしがみつき姿勢は、隷属への道以外の何者でもない。我々は、複雑さの中で動的に対応していく能力を、生まれながらに持っているのであって、我々の身体に込められている驚くべき創発的計算能力を信頼し、その感覚に従って、信頼しうる人を信頼し、信頼し得ぬ人を信頼しないで、頼りになるネットワークを構築して生きていけば、それで十分なのである。問題は、我々が、子ども時代に無意識に埋め込まれた恐れによって、感覚が作動しなくなることである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.302)
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「暴力」
ヴィットゲンシュタインに倣ってこのように考えると、「では、経済について意味のある議論とは何か」という問いを自分自身に突きつけることになる。この深刻な問いに直面して私は、ポラニーの「暗黙の次元」という概念を基礎に据えるべきだ、という考えに至った。私はこの方向の上に、経済についての意味のある議論を展開できると考える。端的に言えば、
神秘によって支えられた「生きる」ということの実現が、「価値」を生成する
と考えるのである。この場合、価値がどこから来るか、価値とは何か、について語ることは無意味である。なぜならヴィットゲンシュタインの言うように、それは世界の外にあるのだから。そいれゆえ、我々と世界とに与えられている価値を生成する神秘の力は、それをありがたく受け入れれば良い。そしてその発揮を阻害し、あるいは破壊するものについて語るべきだとかんがえる 。なえzなら、そういうものは、「語りうるもの」のなかに入っているからである。ゆえに我々が考えるべき問題は、
「創発はいかに阻害・破壊されるか」
「創発を阻害・破壊するものとは何か」
「創発を阻害・破壊するものを、如何に排除するか」
だ。ということになる。私は、ヴィットゲンシュタイン以降の学問はすべて、文系理系を問わず、この問題をテーマとすべきだと考える。では具体的に、神秘的な生きる力を阻害するものとはなんだろうか。端的に言ってそれは「暴力」である。つまり、暴力の本質を明らかにし、それを排除する方法を考えるのが、全学問のテーマだということになる。(略)私が提案した「合理的な神秘主義」は、神秘の存在を前提にして構成されている。神秘の恵みを前提とし、ただありがたく受け取る。神秘を語ろうとするような冒涜はしない。その上で、我々一人ひとりにそなわる神秘の力を阻害するもの、その力を破壊する暴力を解明し、解除する。暴力は基本的に、「語りうる」からである。この合理的な神秘主義の観点から、すでに我々が手にしている知識を再編成しよう、というのが、私の提案する新しい学問である。この学問を「魂の脱植民地化」という。このアプローチこそが、ヴィットゲンシュタインの哲学を継承するするものだと私は信じている。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.164)
問:語りえぬものか、語りうるものかはどのように判断するのか。→何を、神秘と捉えるか。何を「生きること」と捉えるか。
親鸞の自己愛
親鸞とルターの違いは、ルターの『キリスト者の自由』と比較してみればわかりやすい。同署のルターの議論は次のように展開する。まず、神の戒め(旧約聖書の立法)に直面した人間は、そのうちのたった一つですら実践できないことを思い知る。絶望の果てにあるのは、「神の約束」(福音)であり、無力な人間は「信仰」することにより、すべての「戒め」から解き放たれる、とする。「キリスト者の自由」とは、「信仰すること」であり、戒めから解き放たれる」ことである。ここまでは親鸞に似ていると言えなくもない。これに続いて後半でルターは、「戒め」はキリスト者になるために守るのではなく、信仰を持つキリスト者が自ら守るものだという。なぜなら神に奉仕することが、キリスト者の悦びだからである。もし守れないとすると、それは信仰が足りないからだ、ということになる。この前半と後半とのセットにより、上手のような無限ループがmな悪ことにアンル。信仰と罪悪感とが手に手を取って深まっていく。これでは魂の蓋がマンホールのように重く、がっちりとはまってしまうように私には思われる。このような観点から見た場合、親鸞の思想は驚くべき内容を持っている。それを如実に示すのが、既に引用した『歎異抄』の唯円と親鸞との対話である。「念仏を称えてもさほどの喜びを感じられない」と告白する唯円に、親鸞は「自分もそうだ」と驚くべき発言をする。そして、阿弥陀の恩恵を感じられないような、そういう煩悩具足の凡夫であるという自覚が、阿弥陀の救いを明らかにしている、という。この思想によって親鸞は、上の図のように、どんどん緩む方向に信心の循環を作動させている。このようなシステムは、人の心に形成されて魂を抑え込む「蓋」を緩め、自分に対する裏切りを解消する方向への変化を自律的に引き起こす可能性がある。この考えが正しいとすると、罪悪感の裏返しとしての自己愛に駆動された繋縛強化の罠から、抜け出すことができる。この状態が、「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」であり、そうやって自愛(=阿弥陀の慈悲)の中に生きていく道が開かれる。これが親鸞のいう「現世利益」である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.69)
スピノザの「自己愛」
個々のものが、自らの有に固執する「努力」のことをラテン語で「コナトゥスconatus」と呼ぶ。これがスピノザ倫理学の基礎概念である。(略)コナトゥスを基盤としたスピノザの倫理は次の言葉に凝縮的に表現されている。
理性は自然に反する何ごとをも要求せぬゆえ、したがって理性は、各人が自己自身を愛すること、自己の利益・自己の真の利益を求めること、また人間をより大なる完全性へ真に導くすべてのものを欲求すること、ー一般的に言えば各人が自己の有をできる限り維持するように努めることを、要求する。これは実に全体がその部分よりも大であるというのと同様に必然的に真である。(略)(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.91)
責任とは何か
清沢は「精神主義[明治三四年講話]において、「精神主義は各個人が、宇宙万有に対して、全責任を負ふこと」だ、という。これは決定論と、決定的に異なっている。決定論においては、すべては必然であるがゆえに、免責されることになるからである。これに続けて彼はいう。(略)「万物一体の上に立つところの責任」というものに立つなら、責任に起因するすべての苦痛から解放される。なぜなら、そういう問題については、如来が必ず支援するはずだからである。つまり、演技にひょってつながりあった世界において責任を感ずる、というなら、全宇宙のすべての出来事に責任を持たねばならない。そうでなければ責任のとりようがないからである。ところが、人間にそんな能力はない。それゆえ、もしも人間が何かについて責任を取りうるとすれば、それは、如来の導きに依るしかない。如来の導きに依るなら、それは無責任ということである。かくして、全責任を負うときにのみ人は、無責任となる。これが、「全責任が無責任と同様の心情を持つ」という言葉の意味である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.134)
たとえば闇教育によって子どもが心に傷を負い、そのまま犯罪をしたとしよう。その責任はどこにあるのか?原因を求めるならば、親、親の親、親の親の親まで遡れるか?その「親」を作り出した社会の様々な暴力に原因をもとめるか?
問:世の中で使われる「責任」という言葉の背景を探ってみよう。
非平衡統計学
非線形科学
同期
決定論的カオス
チューリング
ベルーソフ
おとのねさんです。
スマイルくんです。
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