佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。

佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。

先日、富山大学附属特別支援学校でたまたま佐藤学という有名な先生の話を聞く機会に恵まれた。
いるんだね!こういう人!というか、友達になりたいとおもった。
「学びの共同体」という言葉で、理想の教育の姿を説明してくれた。

むかーしっから、やっているようです。
学びの共同体研究会

石川県金沢市立紫錦台中学校も参加しているらしい。
こちらが金沢市立紫錦台中学校のHPです!
富山県で「学びの共同体」を実施している場所は、みつからなかった…

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メモにとったもの。

学ぶことは、しあわせなことだ。
一人で学ぶことはできない。学びは、社会的なものであって、孤立していたらできない。
人間の大脳新皮質は他者との協同により発達する。

ペア、グループ、コの字型で向かい合うのが基本。

小学3年生にならないと、内言ができない。考えることができない。(経験的な法則)
だから小学1、2年生はペア。それ以降は、3人、4人にする。

学びは既知の世界から未知の世界への旅であり、新しい世界、新しい他者、新しい自己との出会いと対話である。
学びは個人的活動ではなく社会的活動であり、自然的過程(能力や技術の形式)ではなく、文化的過程(意味と関係の構築)である。

人間の学びはコピー(模倣)ではなく、再創造
人間の学びはコミュニケーションによる意味の再構成(社会的文化的実践)

学びを対象世界(テキスト)との対話、他者との対話、自己との対話の三つの対話的実践。
学びは認知的実践(世界づくり)であり、対人的実践(仲間づくり)であり、実存的実践(自分づくり)である。

人間の学びは、ほとんど短期記憶にしかならない。
人間は学び続けないといけない。
動物は生まれてからすぐ、立ち上がる。模倣のプロ。
人間は、模倣する力が動物より弱い。短期記憶にしかならない。

一歳になるまでに、一度シナプスが削ぎ落とされる。軸索を残して、消える。
1歳になったら、シナプスがズバーと出てくる。そうすると、言語が生まれる。

シナプスのつながり、すなわち関係の構築。

1”5”20
意味を、共同で見つける時、それが長期的な記憶、知恵になる。

東京オリンピックのときには、空港が無人化する。
35%が人工知能で賄われるらしいよ。

創造・探究・共同
今のところできないこと。。

もう、今までの教育は役に立たない。
理解中心から探究中心へ

「わからないこと」を恥じるのでなく、「探そうという気がないこと」を恥じ得る時代。

140年前に成立した一斉授業

世界からは30年前に消えている一斉授業
安い単純労働者をつくるシステム。単純労働をする?

エリートはコの字のテーブルで育つ。ハーバード大学の講義室(黒板に全ての机が向かっている教室)は一つだけ。

コピーで済むような授業はいらない。

経済が発達している国はアクティブラーニングをやっている。30年前に

30年前、TOP30のうち21社が日本
今、TOP30のうちで、ゼロ。

この30年間で変わった。

学ぶということが、即幸福である。

人間は7つの領域に分かれている。
Howard Gardner
あらゆる能力を持った人はいない。
なんの能力ももたない人もいない。
孤立して生きてはいけない。
一人で生きようとしてはいけない。

人との関係の中で、多元的に見なくてはいけない。
抜群の能力がある。

デザインはビジョンによって
プランは目標によって生まれるもの。

建築家はビジョンを見る。
デザインは生かそうとする。

目標思考の仕事workと労働labor
創造的な時間。activityはビジョン、デザインの世界。
文化的な意味と、社会的な関係を想像する。

学ぶ権利の実現。

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こちらは

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「待つこと」「見守ること」(谷川俊太郎、すきすき、きゅっ、好き好き、ちゅっ)子どもを受け入れられるか。
「させること」ではない。ここもおとのねだ。
おkどもへの信頼、子どもを尊敬する。これもオトノネだ。オトノネはこれを「自立している」と表現している。
学びの共同体は、リスペクトの共同体だ。そして、ケアの共同体

特別支援学校っで主流になっている「行動療法」は研究者が論文を書きやすいから。
「させる」ことで条件付けをする。それは「発達(心)」ではない。
行動レベルの導きだ。

思考、学習、内言。
外言が先。だから内言ができない子がたくさんいる。
対話の相手がいることで、モデルを得ることで、内言できる。
経験的に小学3年生。4人組で(人の話がきける?)
小学1、2年生は「考えることができない」まだ内言が使えない。無理無理!ペア。

「待てない」手を出す口を出す。がダメだ。
教師の仕事〈聴く・(子どもと子どもを)つなぐ・もどす(もう一回)〉
「だれだれくんの言ったこと、どうおもう?」

子どもが、学びの主人公だというのが基本。
いい教師は〈目と耳〉で仕事をする。
子どものテンポはゆっくり。教師が先に行かないで、待つこと。

ある意味で、戦国時代、三国志時代の武将のようである。

共有の学び:ほぼ全ての子どもたちが達成できるレベル
挑戦的な学び:三分の一の子どもたちの達成を期待する、つまり三分の2の生徒が「できない」課題を与える。
難しい問題だからこそ、子どもたちは大好き。飛びついてくる。
基礎を丁寧、丁寧に、積み上げるというやり方ではない。積み上げずに、引き上げる。
(そんなん無理無理!というものを出してみると、一生懸命に挑戦する子がいる)

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オトノネではメタスキルと呼ぶ「コミュニケーション能力」
創造的な仕事。
多様な人間が、それぞれの持分を出すことでしあわせがうまれる。
オトノネが求めている「先生像」

まことに同感できる、こういうことをきちんと言ってくれる人がいる。

昔の昔から、活動していて、少しずつ、広がっている。
こうした時代の流れの中に、オトノネはいる。
富山県に、オトノネは、いる笑

オトノネは「学校」をつくるにしたら、どうしたらいいかなと思っていたところで、いいモデルを見つけられた。
少しずつ。少しずつ。時に、大胆に。

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どうして9歳の子供にできて、大人にできないのだろう。
マッカーサーが言ったように、日本人は精神的に、10歳だということを、素直に受け入れてもいいのかもしれない。(といってしまえば、多くの国が、10歳レベル、ということになる?)

「教える」といった表現自体は、4歳になった頃にはあまりみられないが、年中も5歳頃には見られるようになり、年長にはより一般的なものになってくる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.168)

◆年長児のA子は編み物がとてもじょうずで、器用に長く編むことができる。同じ組のI子は、じぶんも編みたいのだが、どうしてもA子のようにはうまくできず、どのように編んだらよいのかをA子に聞いている。A子はI子の様子を見ながらI子に編み方を順序立てて教えている。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.174)

5歳:共同作業ースキルを知っている人が知らない人に教える。
9歳:異質さを繋げる。気づく、認める。

共同経験の効果が混合ペアの初心者のみに見られた。熟達者と共同で組み立てた経験が、事後テストでのレゴブロック課題の遂行に顕著な促進効果をもたらしたのである。そのやりとり過程を分析すると、初心者同士に比べ金剛ペアの初心者は相手(熟達者)の行動をより頻繁に観察することがみられ、熟達者も、熟達者同士の場合よりも説明やデモンストレーションを与えることが見られる。つぎはどこにレゴを置くべきか、なぜここにブロックを置くかなどを初心者に話すことが観察されたのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.175)

5歳であることを終わらせたらいけない。
大人も、5歳児のようにあるといい。

年長も6歳頃になってくると、子供同士が対等にアイデアや考えを出し合い、話し合いながらの協同的な課題解決がより巧くできるようになる。その表れが、「こうしたらどうや」「こうしたらいいやん」と、子どもたちがアイデアや工夫を持ち寄りながら協同でじぶんたちの遊びをつくりあげたり、問題解決的な場面において子どもたちがそれぞれの意見や工夫を第愛、もちよりながら解決していこうとする姿にも見られる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.177)

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いまではいじめは小学校からはじまっている。中学校になるといじめの強さも規模も大きくなって取りざたされるようになるが、小学校の中学年で不穏な雰囲気ただよう学校の雰囲気が強まるようだ。どういうことか。いろいろなお母さんがいるから一概には言えないが、9歳頃になると内言が発達し、4人でグループ学習をしてもみんな対等に関わり合える、異質な人としてコミュニケーションができるようになる、というようなことを佐藤学が講演会で言っていた(経験則らしい)。9歳からの発達課題はなにか。「どうしたらこの世界で、うまくやっていけるのか」をみつけることだと、今僕はおもう。それは異質な他者との「人間関係」を学ぶことである。感情だけではなく、内面性、深い場所にある自己、他者にとっての他者にとっての自己を含めた複雑な人間関係の中でホンネとタテマエのバランスをとる生活、人間関係をデザインしていくこと。虚構の世界へ向かっていたファンタジーが、「わたしという一人の人間は一方でこうであり、他方でこうである」という同時にいくつもの面をもっていることを認識する。それは心地の良いものではないかもしれない。大人たちが、何を「よし」とするか。そして子ども自身が、何を「よし」とするかという対立構造も生まれるだろう。

ワタシと友達の間ではOKだけど、その友達にとってはNGなことがあったらどうするか。部活でみんなと一緒にいるのは楽しけど、たまにいじめがあっていやだ。とか。ワタシがどう考え、どう行動したらいいか。

うれしいけどかなしい、といった2次感情が同時に生まれてくるのが何歳か忘れたが、それを基盤として今度は感情を超えて、「ひとりのわたし」の行為や振る舞いが多面化するのを手伝うことだ。日本の文化としては、オモテを闇に葬る、愚痴を言う、影でいじめをするという抑圧を子どもが学ぶ傾向がある(いまでは3歳からもう抑圧が始まっているようだが)。心の理論の二次、三次の能力もここで試される。自分から離れている関係の人に与えるワタシの行為、言葉の影響を考えることができる。考えてしまう。「われわれ」のなかに「われ」をどう位置づけるか。「われわれ」

オトノネひろげるシェアぼたん
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