自称進学校の《課題が多すぎる》伝統から何を学び取るか:学畜と称するあなたへ
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「自称進学高校」に通う子どもたちの声です。

伝統とは何か。
日本で伝統という言葉が使われ始めたのはおそらく明治以降だろう。
それまでは「正統」とか「本家」とか「由緒ある」でまとめられていたに違いない。
岡本太郎が「伝統との対決」という本を書いてある通り、伝統は人にとっては敵のようなものだ。
伝統はとても便利だ。全てを準備してくれている。
「ああいうときはこうする」「こういうときはああする」
何も考える必要がなくなる。
伝統が役に立たないとき、伝統に違和感を感じた時、それは、あなたが創造的になれる瞬間だ。
あなたが伝統の一部になるのではなく、
伝統をあなたの一部にしてほしい。
大切なあなたの気持ちを、大切にするために。
あなたがあなたらしく、創造的に、チカラを使って行くために、である。
今あるもの、他の人が大切にしていること、決められていること、それら全てに「NO」と言ったらエネルギーが持たないだろう。
世界が、全て伝統・歴史でできているということもできるのだから。
学校の課題は全てやることになっている。誰がやれと言ったのか?
学校の先生は何年ごとにか移動させられる。
誰も課題をやらないといけないなどと指示をだしているわけではない。
伝統が、あなたに指示をしているのだ。
あなたはその伝統に、どう向かい合う?
「この伝統を信じるといい」と学校の先生はいうかもしれない。
そうでなければ学校の秩序が崩壊してしまうから。
君が今いる学校も大切かもしれない。
ただそれで、君の本当の気持ちが隠れてしまうのであれば、今、君は伝統を君の一部にするきっかけをつかんでいると、私はおもう。
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学校で学ぶこと【権威を振りかざす人・評価する人から心を守る】
『SQ生きかたの知能指数』
学校で学ぶことの一つに「権威、上司との情動マネジメント」があります。
侮辱、とわいわずとも、命令や禁止、不十分な説明、支配的な部活動などに対して、どのように「心を守る」ことができるでしょうか。
たとえば、侮辱を受けたときの対応について考えてみよう。同等の仲間どうしなら、侮辱に対して 敢然と抗議し、謝罪を求めることができる。しかし、自分に対して生殺与奪の権を握る立場にある相 手から侮辱された場合には、部下は(先のことを考えると)怒りを抑えて泣き寝入りするしかない。 しかし、侮辱に対して泣き寝入りするという無抵抗な対応は、上司のやり方に屈服したというメッセ ージを暗黙のうちに伝えることになる。 侮辱されて黙って耐えている人たちには、血圧の大幅な上昇が見られる。自分を見下すメッセージ をがまんしつづけるうちに無力感や不安感が強まり、最後には憂鬱になる――こうした気持ちが長期 にわたって続くと、心臓血管疾患を発症する可能性が著しく高まる。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.340)
子どもたちは、こうした「いざこざ」を誰かに話してヒントをもらおうとします。もしくは、お母さんが支配的なら「世の中はそうか、私にこういう態度をとるのが全てなのだ」と勘違いしてしまうかもしれません。
一人一人感じ方は違います。情動のマネジメントの仕方は違います。家が、安心できる場所で、情動の学びの場になっている子どもは、しあわせです。
評価と無力感から心を守る
この情動を「恥」と呼んでもいいでしょう。
学校で「指名されて、みんなのまえで答えられない」という経験、そしてそれに対する先生と友達の反応の重大さに、大人は気がついているのでしょうか。
毎日、この状態が続くとしたら・・・「成績が悪い」のは悪くないのです。「恥」の感情をどうしたらいいのかが、問題なのだと私はおもいます。
「恥」を通り過ぎると「無力感」「無関心」になるとおもいます。
いろなストレスの中で群を抜いて悪性度が高いのは、厳しい批判にさらされな がら何の手も打てない状況に置かれる、というストレスだった。ヤノウィッツや製薬会社の女性従業 員が置かれた状況と同じだ。
なぜそうなるのかを解明したのは、サンフランシスコのカリフォルニア医科大学で行動医学を研究 するマーガレット・ケメイニだ。ケメイニは、同僚のサリー・ディッカーソンとともに、ストレスに 関する研究を数百件も分析した。その結果、脅威や難題が最も強いストレス要因となるのは、「他人 に見られつつ判断を下されているときです」と、ケメイニが話してくれた。 どの研究においても、ストレス反応の強さはコルチゾールのレベルによって測定された。コルチゾ ールの上昇幅が最も大きかったのは、ストレスの原因に人間が絡んでいるとき――たとえば、だれか が見ている前で声を出して「一二四二から一七を引くと?」「その答えからさらに一七を引くと?」 といった計算を続けてできるだけ速くやらされる、というような状況だった。こういう面倒な課題を 他人に成績評価されながら処理しているときのコルチゾール・レベルは、同じ課題を他人からの評価 なしで処理しているときの三倍にものぼった。
あなた自身が仕事の採用面接を受けている場面を想像してみてほしい。あなたが自分の長所である 才能や技術について話しているあいだ、面接官はにこりともせずメモを取りつづけ、さらに悪いこと に、あなたのスキルをけなすような言葉を口にする心理的にひどく動揺する状況だ。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.344)
生き霊・悪霊
周りの大人、友達の言葉、その姿が「お守り」ではなく「呪い」になってしまうこともあります。
頭の中にいつも「批判者がいる」状態です。ある状況で後ろめたかったり恐怖を感じる心を助長します。耳元で「お前はだめだ。手のつけようがない」などと言われ続けたら・・・心は、死んでしまうでしょう。
驚くのは、生身の批判者が実際にその場に存在しなくてもコルチゾールの上昇は起こりうる、という点だ。頭の中に存在する象徴的な他者によって評価されると思うだけで、同等のストレスが生じる。 仮想の視線にさらされていると思うだけで、実際に他者に見られているのと同じくらい強くHPA系 が影響を受けるのだ。これは、「何かを考えた瞬間に頭の中に他人の存在が浮かび、それが頭脳に影 響を与えるからだ」と、ケメイニは説明している。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.346)
罪と罰から心を守る
「学校の提出物をださないといけない」「内申点に響く」といった権威に対する評価に怯えた状態で心が擦り切れている子供達がたくさんいます。
とくに「成績が悪いから」プレッシャーを与えられる子供は、多くのストレスを抱えて前向きにすらなれないでしょう。「成績が悪くなる」原因は、大人にあるのです。
「いじめ」「パワハラ」「モラハラ」を受けたら?誰も助けてくれなかったら?心を守るために、強くするために、死なないために、逃げる、縁を切るという方法も大切だとわかります。
誰かに助けを求めて、情動をマネジメントできる人は、しあわせです。
無力感も、ストレスをさらに大きくする。ディッカーソンとケメイニの研究によると、当事者が何も手を打てない場合には脅威が一段と強く感じられる、ということがわかった。自分がどれだけ努力 しても脅威が解消しない状況に置かれると、コルチゾールの上昇幅が拡大する。悪意に満ちた偏見の 標的にされた人のケースなどが、これにあたる。あるいは、上司に睨まれたエリサ・ヤノウィッツや 製薬会社勤務の女性のケースもそうだ。批判、拒絶、いやがらせばかりが続く人間関係を抱えている と、HPA系はつねに暴走状態になってしまう。
勝手に不快なアラーム音が鳴り響いているのにそれを止められない、というように、ストレスの原 因に人間の意図が絡んでいない場合、人間にとって基本的な受容の欲求や所属の欲求が脅かされるこ とはない。ケメイニによると、このように人間の意図が絡まないストレスを受けた場合のコルチゾー ル分泌量の上昇はだいたい四〇分以内でおさまるという。しかし、不快な社会的評価がストレスの原 因となっている場合、コルチゾールのレベルが正常値に戻るまでに必要な時間は五割ほど延び、だい たい一時間以上かかるという。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.346)
自称進学校の学畜という自己イメージを自己批判する
批判とは何か。
critic cri- 決定的な・判断する
crisisは決定的な出来事のこと
ゲームでよくいう「クリティカルヒット!」というのと同じ。
批判とは、理性的な営みのことである。
批判とは、決定的に、それによって人生に大きな力が加わる事態を生み出す、恐ろしいものでもある。
批判ができる人間がどれだけいるか。
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批判とは、つまるところ自己批判であり、大変危ないものだ。
相手に言っていることは、すなわち自分に対する問いかけにもなる。
「振り返る」「負のスパイラル」から抜け出すために自己批判が大変役立つ時がある。
それは学びであり、教育である。
批判は「問いかける」ことを表す一つの言葉であり、辛辣な響きがする、強い会話形式のひとつである。
議論、討論、弁論、異質な価値観をもった人たちとの会話に不慣れな人にとっては、攻撃に聞こえるだろう。
自己に対する批判を抜きにして、他者批判は成り立たない。
「働く」ことを批判してみよう。
働きすぎて、見えなくなっている、聞こえなくなっている声はないか。
聞こえないように、見えないように、働き続けてはいないか。
大切なものを、忘れていないか。
批判というのは、判断することであり、判断とは「分ける」ことである。(鋭利な刃物で半分に分ける)
新聞を批判的にみなければ、テレビを批判的に見なければ、情報に騙されて生き続けることになる。
批判とは、情報リテラシーの一部であり、新しい時代をしあわせに生きるのに、必要なスキルだ。
古い時代を生き続けたいなら、批判も、リテラシーも、必要ない。
例えば、「森を守らなくては。木を植えなければ。木を切ってはいけない」という人がいたとしよう。
日本にたくさん生えている人工林のスギやヒノキはもともと、戦後に家を建てるための資材として植えられたものだ。(日本にもともとあった雑木林、広葉樹林は切られた)スギの山・ヒノキの山は「古い時代」の人の願いであり、祈りであった。そして輸入材で資材が賄われるようになると、価格で負けて、日本の山は使われずに、荒れた。
新しい時代の人が、今この時代に、古い時代の人たちの祈りをどう受け止め、変えていくのか。
これも、問いかけであり、批判といえるものだと思うのは僕だけだろうか。
批判とは何か。その2ー伝統・慣習・ルールを変える。よりよくする。
例えば「国会議員の給料が高すぎる」ことを批判する(問うてみる)としてみよう。
なぜ給料が高いのか?それはさておき。給料の高さが維持されるのはどうしてだろう?
給料体系を変えるとしたら?そこには仲間の圧力がかかる。給料が低くなるのを「よし」とする良心的な国会議員は少ないという前提だ。そうすると、もし「給料を下げよう」といったら、仲間外れにされるだろう。(繰り返しになるが給料が低くなることをよしとする議員は少ない)。そうすると、自分の身が危険にさらされる。国会議員の給料が低くなると、他にどんなことが不都合になるだろうか。「おもてなし」をするしくみについていけなくなるだろう。
同じことが、僕たちにも言える。
大多数の、組織の構成員の同意がとれないと、もしくは同意がとれるようなしくみを作らないと、変化を起こすことは難しいだろう。今の給料をあてにして家のローン(借金である)を組んでいるなら、なおさらだ。
「いやでも国会議員の給料は高すぎる」としよう。けどそのために彼らは人生をかけてコネをつくり、汗を流して票を集めてきた。一生懸命になってやってきた努力は何だったのか?(議員というアイデンティティー=お金という前提で話している)。
そうした感情が、同じように、僕らにもあるはずだ。
批判は、自他共に含めた伝統、慣習、文化、「自然のなりゆき」への眼差しであって、自己変革のきっかけになる。
批判は対話であり、罵り、罵倒、悪口ではない。
批判のない世の中は、嫌味・言葉になっていない嘆き、罵りにあふれている世の中かもしれない。
そんな世の中で、耳を塞いで投票所にいかない人が増えても当たり前かもしれない。
投票率を上げたいなら?
批判(対話)ができるまで自己認識を高めるのがいい。
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自己批判が、自己否定になるケースもある。(自分に対する罵り・罵倒)。元気なくなるわ・・・
世の中でもうどうしていいかわらかないでぐるぐるしているお母さんとかいないだろうか。
自己批判は自己対話である。自己否定ではなく、自己肯定にしよう。
そうした態度で自分が安定してこそ、「振り返って母親の目をみて安心してハイハイを続ける」子供のように、前に踏み出せるもののように僕はおもう。
批判者の声に耳を傾けよう。
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誰かが舞台の前で発表をする。
それについての質疑応答の時間がある。
これは何の時間か。
発表者の立場に自分を置いてみて、自分を発表者に見立てて、自己内対話を他者と行うということだ。
「こういうことだったけど、こういうのはどうなの?」とか。
「ここらへんの説明、わからなかったけど、気になったからもう少し知りたい」とか。
「どんな気持ちでこんな発表をしたんだろう。きになる」とか。
それは問いかけであり、批判でもある(批判という言葉はかなり誤解されているが仕方ない。それが日本の文化だ)。
他者を自己に「みたてる」のが、この質疑応答時間だ。
自己を他者に「みたてる」としてもいい。(小さい頃からそんな遊びをしていただろうか)
他者を理解するために、問い合わせをすることだ。(もちろん批判という言葉は、単なる問い合わせ以上の強い要求を表す響きをもっていうけれど)
これって、普段している対話と同じじゃないか!?
もし誰かの話を聞いて、それが正しいか間違っているかを「私の判断’で「決めつける」のは批判ではない。
順序立てて説明して「私の正しさ」を立証することは批判ではない。
もし自分と相手が違う考えをもっているなら「どうしてそんな考えができたんだろう?どんな状況に相手は置かれているんだろう?どうしてこの人は、こんなことをいうんだろう?」と疑問を持つこと。
それが批判的精神であって、他者理解の欲求であり、多くの共感能力・間主観性をもっていなければただの「打ち負かし」になりかねない、心のあり方だと僕は思っている。
だから僕は批判する。
学校も保育園も大変だ。家庭も大変だ。
しくみや文化とどうやって向き合ったらいいのかな?
どうにかして最適化できないのかな?(最適化の方法はひとりひとり違いすぎて泣ける)
逃げてもいい、休んでもいい、というのも批判者の声。批判者は、結構やさしい顔をしているかもしれない。
(批判者は声を聞いてくれなくてストレスがたまって抑圧されると鬼のような顔になって「僕の話をどうして聞いてくれないの??」と癇癪を起こす場合があります。日本でのイメージはこちらでしょう)
それを手伝うのがオトノネの仕事だ。(ひとりひとり違いすぎるから泣ける)
批判者は変化を起こすものであり、道を指し示す人でもあり、現状を観察する人でもあり、決して、否定する人ではない。
「これでしばらくいけそうです。やってみます」という言葉を生徒から、お母さんから聞けることを、おとのねさんは喜ばしくおもっています。
こちらは外部リンクです。いろんな人が課題に苦しんでいます。
難しい問題を宿題に出す高校に行っては成績が伸びない!
難しい問題とは、例えば数学なら、フォーカスゴールド、青チャート。
自称進学校が大好きな問題集ですね。
批判とは何か。その3(日本の遺伝子・伝統との闘い)
パーソナリティ特性の科学、とか、スイッチ!とかを読みながら、人間の生物くさい側面を大切にしたほうがいいなとおもった。
限りなく動物になったら、もっと楽になるような気がする。
人間らしく、動物らしく。
命。
SNSでいろんな「悪口」が飛び交っていることに疲れてしまってとりあえず考えたことをまとめました。
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日本には日本の遺伝子がある。伝統がある。この伝統を変えるには、いろいろな実験をしたらいいとおもう。山本太郎を総理大臣にするのが一番手っ取り早い。そこまでたどり着くために、現政権の悪口をいうのではなく、大人同士がコミュニケーションをし、教養を高め、「明確な目標」をもって子どもを育てることが大切だとおもう。それは、利己的な、自分の能力を高めることに必死にさせるのではなく、共感能力をもった子どもを育てることになる。それはつまり、競争から子どもを外すことにつながる。多くの親がここで、古い時代に、日本の伝統に、科挙制度の歴史に、足を引っ張られているのだろう。
子どもは伝統と、日本の遺伝子と戦っている。歴史と戦っている。
大人がどうして、子どもの先頭に立って戦わないのか。戦場に送り出す司令官になっていないか。
国民の安全を守れない現政権を批判するのと同時に、子どもの育ちの環境を守れていないかどうか、自分自身を批判していかなくては、ただの悪口になってしまう。それをみた子どもは、悪口ばかりを言って、何も行動しない大人になるだろう。それが日本の伝統であり、精神文化であり、遺伝子のように、僕はおもう。どうしたらいいか?とりあえず、僕はオトノネをつくりました。これも実験。誰もやったことないんだから。
伝統と言うなの、遺伝子プールと言う名のアウシュビッツから、僕らはまだまだ自由になれそうにない?
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悪とは何かー自称進学校の課題が「善」である可能性。
富山県に来て「批判するのはよくない」といわれる。
僕のHPやブログをみて「学校を敵に回すと、よくないよ」といわれる。
敵に回すつもりはないけれど、、やることやれ!っていってるだけで。
(それがなかなかできないしくみまで、僕が理解していることをブログでも書いているのだ)
けど、僕は学校の悪口を言っているらしい。
僕はたしかに、怒っている。
妬み、苛立ち、嫉妬を感じる。
いやー、若いね。
少なからず、僕には他と自分を比べて自分が勝ちたいと思うところがある。
とても心が貧しい人間だ笑(はやくちゃんと年をとりたいものだ)
ようするに「悪口をいうといいことないよ」ということを、僕は富山の人から教わったのだとおもう。
なるほど。
悪口に聞こえるのだからしょうがない。
富山県には、富山県の平和がある。
その作法を教えてくれたのだ。
ありがたい。
僕はまだ富山県になじめていないのかもしれない。
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アモールとプシュケーというギリシャ時代?の物語がある。
ここに登場する「お姉さん」たちは、シンデレラの「お姉さん」のように意地悪で、ヒロイン(プシュケーという名前)を貶(おとし)めていく。
まさに、「悪!」といっていい登場人物だ。
けれども、実は、物語の全体を見れば、ヒロイン(プシュケー)の成長を助けるための、試練を与えてくれる存在でもある。
その試練を受難して、そして、「お姉さん」つまり「悪」が与えた課題を超えていくことで、ヒロイン(プシュケー)は成長する。
最後は、ハッピーエンド!
と思うと、「悪」なんてない。
ということになる。
全てが、つながりの中で、自分にとっての意味となり、糧となる。
僕は毒親に育てられたが、今となっては「悪」ではない。
ただ、その時の経験がすべて今の僕につながっていて、今僕は暮らしている。
僕はまだ、学校という悪を自分の中で超えられていないのかもしれない。
それは、喜ぶことでも悲しむことでもなく。
全てが成長の中にあって。
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実際に、「悪」は存在する。
ようにも思える。
バイキンマンはちゃんと描かれているし、戦隊モノも、悪がいなければ、子供達のヒーローにはなれない。
「悪」には「悪」の言い分がある。ワンピースでは、悪役(適役?)にも悪役(適役?)の物語があることをきちんと描いている。
そして最後は、ぶつかり合いだ。
戦うのだ。
けどそれが、子どもにとっていいことか。
僕は、学校サイコー!バンザーイ!さすが高岡高校、富山高校、富山中部高校、難関大合格者が毎年すごいですね!といって仲良くしたらいいのか。
ちょうどいい関係性をとる方法が、わかっていないんだろう。
ちゃんと年をとりたいと切に願う。
強くなりたいものだ。
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悪は相対的なものだ。
自分が強ければ、悪に勝る知恵を持っていれば、悪など存在しなくなる。
と考えてもいい。
悪は膝の痛みのように、自分への何らかのメッセージだとおもってもいい。
そうすると「なぜ私はこのようにして悪を感じているのか」に目が行く。
と考えてもいい。
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もし、「悪」が目の前に出て来たら、それは「強くなれ」という、僕から僕へのメッセージとして、受け止めてみたい。
怒り、恐れ、妬み、恨み、悲しみを如何様にして、お前は抱きとめ、抱きしめるのか?
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インターネットという、誰でも見られる媒体で「悪口」と思われる文章を公開して、「いいこと」もある。
こういう世界の見方をしている人がいるんだと、伝わる人には伝わることだ。
その人にとっては、僕の文章は、悪口には聞こえないだろう。
「わるいこと」もある。
問い合わせ数が少ないことだ笑
試しに、また「ふつう」のHPにしてみるか?
(一時期、そうだったが、全く問い合わせは来なかった。謎だ。)
実験してみようかなー
正直、学校は、もうしんどくてしんどくて早く受験が終わればいいのにと思っている受験生だと僕には思える。
残念なことに、試験日はない。
そんな学校の中で、健康的な先生と出会えた子どもは、しあわせだ。
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もっと人に喜んでもらえることを、したいものだ。
でないと、心が冷たくなって、死んでしまう。
世の中に溢れかえった「悪」の中で、心が豊かになる時間を過ごせることは、なんてしあわせなことなんだろうと、おもう。
ケンシロウは、最後に、何と戦っていたんだろう。
強くなりたいものだ。
学畜を自称するあなたに贈る「ワーク・ワイフ・バランス」『残酷すぎる成功法則』
あなたは伝統に寄生されていないか?
スパイダーマンとワーク・ライフ・バランス
ピーター・パーカー(スパイダーマンの日常の姿)はまたも疲れ切っ ていた。
最近は、ほとんどいつも疲れ果てている。犯罪と闘うことは当然、心 身ともに消耗するが、彼の超能力はこの種の疲れから守ってくれてい た。だが、今は何かがおかしい。
スパイダーマンとして活躍するなか、パーカーは宇宙空間で新しい衣 装を見つけ、持ち帰った。いつもの青と赤の物にかわって、今度のは黒 と白のコスチュームだ。外見が格好いいだけでなく、彼の能力を大幅に パワーアップしてくれる。しかもパーカーの意思に反応してどんな服に も変形してくれるので、正体を隠している場合には申し分のないアイテ ムだ。そのうえウェブシューターなしに、ほぼ尽きることなく糸を出す ことができる。蜘蛛の糸を発射するスーパーヒーローにとっては、これ 以上ないほどのコスチュームだった。
しかしこのコスチュームを着るようになってから、パーカーは異常に 消耗するようになった。なんだか知らないが四六時中疲れている。それ でも、コスチュームのせいであるわけがない、ただの繊維なんだから、 と思っていた。ある晩までは──その晩、パーカーはコスチュームを脱い で、ベッドに倒れ込み、泥のように眠りに落ちた……。
と、コスチュームが動いた。ジリジリと忍び寄り、再び彼の体を覆った。それから彼を立たせ、窓の外へ。蜘蛛の糸でビルからビルへと飛び移ったが、パーカー自身はコスチュームの中で眠り続けていた。翌朝目 覚めたとき、パーカーはまたも芯から疲れていたが、なぜだかまったくわからない。どうにかしなければ、と彼は思った。
パーカーはヒーローチーム「ファンタスティック・フォー」のすぐれ た科学者、リード・リチャーズに助けを求めた。リチャーズがいくつか 検査をしたところ、衝撃的な事実がわかった。新しいコスチュームは、 繊維でできたただの衣裳ではなく、生命体だったのだ。生物学的には、 パラサイトのような共生体(シンビオート)で、自我を持ち、知能も高 かった。パーカーの超能力を糧とし、彼と融合しようと企てていた──永 久に。つまりスパイダーマンを乗っ取り、彼を奴隷のよう服従させよう としていた。
ここで大きな問題が起こった。パーカーが共生体に気づいただけでな く、共生体もまた、パーカーが気づいたことを察知。そのため共生体を 脱ぐことができなくなってしまった──。
「なんでスーパーヒーローの衣裳について延々と話し続けるんだ?」といぶかる向きもあると思うので、このぐらいにしておいて、コミック ファンでない読者のために具体的に説明しよう。
あなたが初めて仕事に就いたとき、またとないチャンスだと思ったのではないか? それなのに、成功を目指すうちに、やたら英気を吸い取られると思ったことはないか? なぜか四六時中疲れると。あなたの仕事は、休むべき夜も働かせ、仕事に打ち込ませるようなことはないか? 自立を維持しようと闘いながらも、どんなに力尽くしても、今の状況から抜け出せないと思い知らされたことはないだろうか? そう、その通り。私はあなたにとってのリード・リチャーズになりたい。あなたが就いているのは仕事ではなく、共生体(シンビオート)かもしれないのだ。(『残酷すぎる成功法則』エリック・パーカー)
ブラックはラーメンだけでいい。学校はホワイトであってほしい。
富山ブラックはどうやら学校の課題まで黒くしてしまったようだ。

高岡高校の生徒から「もう、ブラック企業」と揶揄された学校が出す大量の課題。
富山高校の生徒に「自分たちのことを、しばしば学畜と呼びます」と言わしめた学校が出す大量の課題。
私は笑ってしまうが、笑い事でもなさそうだ。
伝統の話は前に書いた。
やれといわれて全部やるのが当たり前か。
仕事ではないのだ。
なんのために学校にいるのだ。
学校は君を卒業させてくれる。
変なことをしない限り、卒業させないとお上から怒られるからだ。
それでも課題をしたい気持ちがあるなら、してもいい。
ただそれは積極的責任を、自分で負っていることを、感じてくれさえすれば。
君の伸びる力が、学ぶ力が、課題や小テストの嵐で根こそぎやられてはいないか。
私はそれが心配だ。
もっと君たちのいいところを伸ばしたい。
キラキラしておしゃべりできることを、大切にしたい。
宇宙の話をしてもいい。
建築の話をしてもいい。
君の体験は?経験は?
きっとそこには、受験勉強で眠っている本当の気持ちが、あるはずだから。
金沢泉丘高校は「課題が少ない」らしいが、ある生徒は「もうめちゃくちゃです」という。
ひとりひとり違う。
もう課題をしたくない生徒がいるなら、なぜその生徒にとって課題を「やらせる」ことがいいのか。
君たちは課題を「させられる」ことに違和感を感じたら、口に出して、先生に聞いてみるといい。
疑問を持ち続けさえすれば、いつか気づける。
それも、心の、大切なメタスキル だ。
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