【ヒトラーに捧げる】『対象喪失の乗りこえ方』加藤 諦三

『対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~』加藤 諦三

対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~

前書きにこう書いてある。

人は自分を支えてきた夢を捨てる時につらい思いをする。しかし、若い頃描いた夢がすべて実現するなどということはない。 「これが私の人生である」という落ち着いた気持ちになれるまでに、人は色々の感情を味わわなければならない。一つひとつの悩みを、その時その時に解決しながら生きている人がいる。逆に悩みが解決しないままで生きているひとがいる。その違いは悩みの核心を理解するか、しないかである。核心を理解できれば、先に進める。この本ではその核心を理解しようとした。(略)孤独に苦しんでいる人がいる。しかしその人は今現在、実際に「孤独と追放」をされているだけではなく、小さい頃に体験した「孤独と追放」を再体験して苦しんでいるだけということがある。小さい頃の体験で、長い人生を無駄にして良いのか?(略)仕事も、勉強も、運動も、恋愛も、何もかも「自分の不幸に気づかないようにする」ためであることがわかる。やることなすことすべて「自分の不幸に気づかないようにする」ための行為である。極端に言えば、息をするのも「自分の不幸に気づかないようにする」ためである。しかし大切なのは、現実に直面して先に進むことである。そのためには逃げている不幸に正面から向き合い、それを整理して心の中で消化することである。心の新陳代謝を活発にすることである。幸せの幻想を捨てて、先に進むにはどうしたら良いかをこの本では考えた。(p.5)

『悲しみに言葉を』は学術的に書かれているが、こちらは、もっとエッセイ風、というより、作者の思いを思う存分ぶちまけている文体である。

過去を恨むことに人生を支配されてはいけない。
「私は、愛のない家庭の育ったから、愛のある家庭を築きたい」といって早く結婚をして、失敗する人と、成功する人がいる。成功する人は、その自分の成長した家庭を自分の運命として受け入れた人である。断念した人である。その苦しみと悲しみを心底味わい、命をかけて乗り越えて心理的に成長する。その上で自分は「愛のある家庭を築きたい」と願い、行動する。(略)困難から立ち上がる人は、今までのひどい人間関係を直視する。そして、その人たちとは距離を置く。その人たちを恨むことで、その人たちに絡んで行かない。恨み続けて自分の人生を台無しにしない。つらい運命の自分を受け入れる。(p.24)

こっちで書いたことの、一つの答えがこの本では提示されている(驚いたことに、だ。)
子どもの自立と長男信仰と喪失経験『悲しみに言葉を』

つまり、「長男信仰」だろうがなんだろうが、それを「困難」と感じたところがスタート。それにどうやって自分を関わらせるかで、人生は変わるのだと。

結局、教育なのだ。
結局、心なのだ。

家庭を変えるなどできない。
誰かを恨むことでは変わらない。

自分が変わるしかない。
少なからず、きっかけは、(どれだけ小さくてもきっかけはきっかけだ)自分にある。

得られなかった「幸せな家庭生活」(つまるところ「嫌な思い出ばかりの家庭生活」)で暮らしている現状そのものが、悲哀のプロセス(喪失経験)の始まりなのだと。(ちなみにこの本では、「引っ越し」も「住み慣れた生活様式からの離別」として対象喪失の一つに数えている。なるほどだ。定年退職も、社会的な地位の喪失、今まで築いてきた関係性の喪失、という意味で、喪失だ。天下りというのは、こういう関係性を喪失させないようにするためのしくみだろう。未成熟な大人たちの「生き残る作戦」だろうか。長男が「家」に帰って来るようにしむける仕組みもある。これも長男を喪失しないように、という未成熟な大人の「甘え」だろうか。もうそんなことはどうでもいい。私は私で生きる。だって、私の生きている時代は、もうあなたの生きた時代ではないのだから。といえるようになれば、きっと楽に生きられるのかもしれない)

対象喪失には色々なものがある。失恋も、近親者の死も、故郷からの別れも、希望の喪失も、役割の喪失も様々なものがある。夫を失った妻がいる。悲しみを回避するために子供の教育に逃げた。子どもの幸せのために子供の教育に集中したのではない。夫を失った悲しみから逃げるためである。教育熱心の動機は苦痛回避である。表面的には立派な女性に見える。しかし子どもは躁鬱病になった。彼女はよりつらくなる。人は対象喪失の悲哀を経て回復する。一般に健康な人間は対象喪失にどのような反応をするのか。事業に失敗する、失恋する、そうした喪失が起きた時、誰でも素直に受け入れられない。夢ではないかとおもったり、何かの間違いではないかと思ったりする。失恋の場合であれば、「あの人は私の愛をためしているのではないか」「いつかきっと帰ってくる」などなど様々なことを考える。誰にでもそうした対象喪失を否認する時期がある。しかしやがて、失恋ということを認めざるを得なくなる時が来る。そうなれば今度は、自分を捨てていった恋人を恨んだり泣き叫んだりする。激しい憎しみにかられ、怒り心頭に発することもある。捨てられたとわかっても、なかにはしつこくつきまとう人がいる。そういう時期というものがある。これをいつまでもすると、相手の中にまだのこっている愛情まで失う。そのような悶え苦しむ時期を経て、喪失を最終的に受け入れていく。「だめだった」と断念する。そして断念の時を経て、新しい情熱の対象を発見する。しかし、これはあくまでの正常なケースである。逆境に強い人のケースである。逆境に強い人は解決を焦らない。待つことができる。アドラーが生きるのに望ましくない性格として「待てない」ということをあげえちるのがまさにその通りである。生きていく以上、誰にでも逆境は避けられない。誰にでも逆境の時はある。その逆境をじっと耐えられるかどうかである。逆境はすぐには終わらない。心も体も消耗する。冬が終わり、三寒四温で春が来るように、いつかやがて心身ともに回復するという心の姿勢が大切である。いつか時を経て傷ついた心が、自分のパーソナリティーのなかに組み込まれて、豊かな自分に成長する、そう信じて焦らない。それができれば人生を最後まで無事に生き抜ける。対象喪失の悲哀の過程を完遂すること。その一つひとつの完遂が、最高の自分への道である。その対象喪失の連続の中で人は成長する。(p.18)

スピード感のある、しかしなんとも爽快な書き方だ。
どストレートだ。見習いたい。

ある意味で神経症的傾向の強い人とは、断念できない人である、断念しようとしながらも断念できない、。それが人間である。しかし「それにもかかわらず」人間は断念しなければ生きていけないとフランクルはいう。私もそう思う。自らの運命を受け入れるということは、断念するということである。私は20歳前後の頃、枕元にニーチェを置いて寝ていた時がある。ニーチェのいう「運命を愛する」ということも、断念することであろうと私は理解している。まさに断念こそ「出口なし」といわれる人間の最後の出口なのである。絶望と断念は違う。断念は生きることである。逆境の中で生き抜くことである。(p.28)

断念できないのが人間だが、それでも断念せよ。というのは、目の前で断念できずに悶え苦しんでいるひとには酷だろうか。

「これが私の人生である」という落ち着いた気持ちになれるまでに、人は色々の感情を味わわなければならない。それは定年退職のような時ばかりではない。例えば自分は音楽が好きであった。しかし音楽を捨てなければならない時も来る。自分は音楽では食べて行かれない、そういう現実に直面しなければならない時もくる。希望の喪失である。自分の可能性が一つひとつ消えていく。そして悲哀を味わい絶望し、やがて「これが私の人生であった」と、素直に自分の人生を受け入れる。そうして心安らかに生きていく。そこに自分の人生の固有の意味を感じる。それこそが対象喪失の悲哀の過程を完遂したことである。(p.40)

どこか、日本仏教の説教を聞いているような・・・

実際、「オトナ」たちの話を聞くと、いろんな「諦め」をしてきた人がいるわいるわ。
諦めて(受け入れて)、捨てて、別の道にいって「落ち着く」という道筋は自然におもえる。

試してみた、信じていることを、貫こうとした。
本気でやってみた。進んでみた。
けどやっぱりちがったようだということはごくごく普通にある。

それなのに子供達に「こうしたらああなる」と言い続けたら、子どもは誤った心のしくみをつくるかもしれない。
教えてはならないことなのだ。

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断念する、ということに関しては、『残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する』にも書いてある。
残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する
ごっこあそびのチカラ!『残酷すぎる成功法則』再読でマシュマロ実験の意味を知る。

ようするに、「やり続けたほうがいいのか」「途中でやめたほうがいいのか」という問いだ。
いくつかのケースを具体的に示した後に出した答えは、、、「五分五分」であった。

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こんなことが書いてあった。

絶望してカルト集団に入っていく人も、もし執着していることを断念できたなら、カルト集団に入らなくて済んだのである。(p.48)

子どもに教えるべきは、断念する、ということなのだろうか。
例えば、ねだっていたものを断念する。
例えば、なりたかったリレーの選手になれなかったことを受け入れる。
テストで欲していた結果が出なかったのを、受け入れる。

この受け入れ(断念)が、本当に本人の納得いく形で行われなければ、恨みやら妬みになるかもしれない、とおもうのは僕だけだろうか。

本気でやって、やりぬいて、それで、ダメだった・・・そこまで子どもが味わい尽くすまで、大人は待てるだろうか。

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いいヒントがあった。

心理的に安定して成長した人は、目的を変えることもできるし、適切な目的なら引き続き頑張る。まず心の葛藤でエネルギーを消耗していないから、目的が適切なら、妨害に打ち勝とうとする努力の強化ができる。(略)執着性格者は、心のゆとりがないから、そのことに執着する。頑固とか意地をはるというのは、心にゆとりのない時の心理である。周りが敵の時である。ケチで頑固を特徴とするう肛門性格などは、実は何よりも心のゆとりがないということである。(p.56)

変化をつけるには、どうしたらいいか?
心のエネルギーを、葛藤で消耗させず、ゆとりをもつように、まずはすることだと。

ゆとりをつくる、エネルギーを消耗させない、という振る舞いは「小さなガンジー」とか、引きこもりとかいう現象になることもあるだろう。うつ状態になるのは、心の健全な回復プロセスの一部だと考えていい。

同じ「会社をやめる」でも、怠け者で「イヤ」になって会社を辞める人と、柔軟性があるから会社を辞める人がいる。この二人は生きる姿勢が根本から違う。この同期の違いを理解しない指導者は、創造的な人を「こらえ性がない」などといって、才能を潰してしまう。柔軟性があるから、会社を辞める人は次のことを始める。怠け者は会社を辞めても次にすることがない。
「会社を辞める」にも、色々な人がいる。
第一にうつ病の人や燃え尽きる人がいる。やり直しのきかない人、エネルギーのない人。そういう人には願望がない。
第二は怠け者だから辞める人。
第三は心が柔軟だから辞める人。
(略)
心の空洞がもたらす執着や無気力は、「このままこの道を進んではいけない」というメッセージである。(p.59)

だから、同じ「学校をやめる」「学校に行かない」にも3種類ある、ということだ。
(「不登校」という言葉がどれだけ曖昧か、意味不明か、現象の一部を切り取っているだけか、わかるだろう)

逆に考えると、同じ「学校に通う」「学校に行く」にも3種類ある、ということだろうか。
第一に、「学校に行くのは偉いんだ」「皆勤賞はすごいんだ」とか「私はいい子だ」とか「私はあの子よりすごい」と優越感で通う人。(「暴力・服従」)
第二は、イヤでイヤで仕方ないけど「行く」ことになっている人。(「非暴力・服従」)
第三は、心が柔軟だから通える人(先生のいうこともテキトーに聞く)。(「非暴力・不服従」)

学校に行く子のなかにも、「小さなガンジー」がいるようだ。

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「長男」を家に結びつけて離さない長男信仰は、空虚になったおじいちゃんの心を満たすために、存続している?古き良き時代への種着か。長男という確かな(?)「システム」の頂点には、まだ私がいる・・・・その幻想を支えたいのか?DVをうけても気がつかないお母さんと、DVするお父さんの関係のようにおもえてしまう。

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「僕は4番打者で投手になりたい」と願う。
すると、そうなれないことに悩み苦しむ。
そうなれないのは他人が悪いとなってしまう。
心理的健康な人は、「自分の野球の能力ではどのポジションかな」と考える。
自分の適性や能力や素質といったものを考えて、「選手になれるかなれないか」と考える。
そしてどうしたら選手になれるかを考える。
選手になれなくても苦しまない。
なぜなら自分を受け入れているから。(p.74)

これって、個性値教育だよね、。
イチローがこれだよね。

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自分を受け入れずに、騙し続けることを、自己欺瞞といったり、自己疎外といったりもする。
また自分を卑下する自己蔑視ともいえる。「どうせ自分は、、、」というやつだ。
心理学の用語ではよく、抑圧、とか、自己防衛、という言葉をつかう。
本当の自分の姿を欺いてみせたり、自分自身が本当の自分を感じないようにすることだ。
僕ならば、自分の声を、殺す、ということになるだろう。

自己実現・自己表現・自己表出をせずに、自分の声を出さずに、隠してしまう、本当の自分を閉じ込めてしまうことだ。
そう考えると、自己実現というものは、ありのままの自分を「今ここで」出すことを表しているにすぎないのではないか。

と思える。

小さな自己実現・自己表現が連続して行く先に、今の大人たちがよく考えるような「成功」が待っているようだ。
本当は、小さな(ありのままを出していくという!)「成功」が山のように、積み重なっての「実現」ということになる。

なるほど。

自分で言うのもあれだがいい考えだ。

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八方美人、誰かに合わせて自分を出さない、媚びへつらう、認められたい人は、孤立感をもっている。
どこかに所属するというだけで、強くなった気になる。
けど本当は「本当の自分」でないために、孤立感に悩み続ける。
こうすると、所属する組織に依存することになる。(それが自治会でも会社でも政治組織でも家庭でも友達でも)

自分を守るために、他人の虚栄心、自己中心性、利己主義を満たす道具に自ら進んでなる。
自分を守るために、暴力の一部になる。

孤立している「本当の自分」を認めずに、実現せずに、誰かに気に入られることで(隷属することで)満たされようとした心がある。
自分の意思をもたず、付和雷同する、いじめられていた側が、いじめる側になる。「だって、そうしなきゃいじめられる(孤立する)」
孤立する、という自分の本性と向き合うのは大変かもしれない。
孤立させられた(つながりを失った)という現実を認めるのは大変かもしれない。

それでも、「その手を離してごらん」というのが、この本の、シンプルな答えのようだ。

仮面をかぶって自己卑下をし続けて本当の自分を隠し続けられるほど、人は強くない。

たよりないけどその手を離してごらん、私たち人間には、それしか生きる道はない。(p.183)

なるほど
これはもはや、知恵のレベルで、言い聞かすしかないのだろうか。
こっちの歌よりは安全で役に立つとおもう。

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話が逸れてしまった。
自己蔑視・自己卑下は例えば「お前はダメなやつだ」と言われたり他人に期待されてそうなったとか、原因はいろいろあるけど結局は自分に対する怒りを生み出す。「お前はダメだ!」「お前はこうしなくちゃいけないんだ!」と自分が自分自身に言う(自己実現しない)のが自己卑下であるから、本当の自分は「何くそ!」と怒るのである。これが、人が変わった時に、例えば弱者に対して、現れる。

本当は自分自身に感じている怒りを、弱者に、ある時は子供に、ある時はパートナーに向けて打ち付ける。
(それが学校の先生とか保育所の先生とか会社の上司であることもこの時代、よくあること。)

誰かに満たしてもらえなかった感情を、別の人で満たそうとする。
その間、喪失は終わることなく、不安、怒り、妬み、恨み、苛立ちで自らを、もしくは他者を傷つける。
子供のよくやる、癇癪というやつだ。
子供として未成熟な大人は、こうして誰かを傷つけ続ける。

モラハラ、パワハラ、DV、児童虐待、いじめ、犯罪は、実現されなかったことがらへの癇癪である。
こどもとして未成熟な大人は、こうして暴力を世の中にばらまく。

子供として未成熟な大人は、こうして誰かを傷つけ続ける。
いつまで傷つけるのだろうか?

私は教育心理学者バスカリアの本を訳した。そのなかに、人は心理的に辞めば病むほど行動の選択の幅は狭くなる、とある。悲しみや靴から自分を守るために、自分の心を操作することでも挫折するが、また単純にこの対象喪失の悲しみに耐えられないというケースである。逆境を抜け出す人は焦らない。苦しみは瞬時に消えるものではない。時が熟するのを待つことである。なく時期があってこそ、苦しみを耐えていかれるよううに成長もする。朗らかに生きられる日が来る。いけないのは成長できないことである。長い人生には演歌をう歌う時期もあれば、同時に明るい南米の歌があってもいいのである。心豊かな人生とは、対象喪失に適応した人生である。それは決して悲哀のない人生ではない。悲哀に満ちた人生である。しかしそれは、その時々で悲しい過去と縁を切った人生である。心貧しい人とは、対象喪失という状態への不適応である。それは、先に進めない人生だから。(p.167)

俳優の字を語った時に、
優を憂う人と書いた。それがなぜ、優れていることになるのか。
こういう文章をよんではっとする瞬間があるのだなぁ。。。。
言葉の重み(俳優と演出家の役割)

なるほど。

子育てで大切なのは、断念すること。
これはケジメのことだろう。
躾(しつけ)ではなく気締め(ケジメ)が大切。『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』
感情知性といってもよい。
アンガーマネージメントといってもよい。
社会認知的スキルといってもよい(?)

自分の生きて行く道にいは必ず自分の生き方を妨害する人がいる。その人を「悔しい」と思っていたら、生きる道を踏み外す。ひどいい仕打ちにあって、「悔しい!」と眠れない夜を数越している時がまさに人生の道を踏み外す時である。自分を見失う時である。自分の中に核となる部分が無ければないほど、人はこのマイナスの感情に振り回されてしまう。その「悔しい」という感情で緊張し、所望し、病気にもなり早死にするのである。「あいつとは関係ない」と心の中でその人たちを断ち切ることである。回復力、復元力、立ち直り力の強い人は、皆心のなかに核をもっている。(p.195)

この「核」が何を示すのか、この本には書かれていない。。。笑!

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擬似成長、という言葉をマズローは使ったらしい。
これは僕の「コドモとして未成熟なオトナ」と似ている言葉のようにおもう。

擬似家族。
「仲のいいように見える」家庭の子が親を殺す。
社会的には適応しているが、情緒的には適応できていない。
仮面はかぶるが、心は、無意識は荒れ狂う感情を抑圧するうことにエネルギーが消費され、成長することがない。
外から見れば、成長している、円満な家族であっても、心理的には成長していない、戦争状態である。

小学生、中学生、高校生の生理学的な「思春期」すらも抑圧されている子がいる。
命が、、、、、、、命が。。。。。。。

これは家族単位での自己卑下であり自己抑圧、自己欺瞞、であろう。
これが学校単位、地域単位、国単位であるとしたら・・・もう本当に、どうしたらいいのかわからなくなる。

そうだ、まず、自分なのだ!

自己否定・自己卑下をやめて、どんなに小さいことでも自己実現・自己表現・自己認識。
子どものときなら、お母さんが排泄物を処理してくれたように、体に悪い、心に溜まってしまう感情を拭い取って気持ちよく笑えたかもしれない。今、ひとりで、どうしたらいいのか?わからなくなったら?

まずそのわからない苛立ちをそのまま抱いてみることなのだろう。
焦らない。ひとつひとつ、感じていけばいい。
投げ出さずに、時間をかけていい。
実はそれが、アーノルド・ミンデルのプロセス指向心理学の原理なのだが。

オムツにうんこをもらしてしまったとしよう。
「うんこでびしゃびしゃだよ!うわー!びしゃびしゃだ!」
しばらくその不快さを味わって、当たり散らすかもしれない。「気持ちわりんだよ!」と誰かに暴力を振るうかもしれない。誰かに媚びへつらってオシメを変えてもらいたいと告げるかもしれない。それでも誰もおしめを変えてくれないところまで、うんこと付き合ったのち、自分で新しいオムツを用意して、自分でうんこを処理することになるのかもしれない。

うんこをすることを禁止されている人がいるかもしれない。
もう、うんこをしたくても、できない体になってしまったような・・・
「まぁ、それならそれで出るまで待つさ」といえるかどか。
「うーん、野菜食べてみようか?」
お腹が痛くても、出ない、ということもあるかもしれない。

ながい、ながい、時間がかかる。
この辛いプロセスを、誰かと一緒に、片方の手を離す代わりに、もう片方の手を握ってくれる人がいてくれるなら、しあわせだ。

オトノネは、その片方の手になりたいとおもっている。
できんのかな笑いやいいや、やってきた。

メモ:交流分析のグールディングと言う人が書いた『自己実現への再決断』という本があるらしい。どんなものか。

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手を離そう。
休もう。

止めよう。

大人も子どもも。

手放すには、落ちき切るまで、落ちていかなくてはいけないのかもしれないけれど。
それも、プロセス。

「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

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あ、そうそう、ヒトラーも安倍さんも劣等感の塊ですね。
そういう風に、育てられたのです。

さて、誰に悪口をいったらいいでしょうか?
歴史の勉強をしなかったあなた自身でしょうか。
彼らを生んだ母親でしょうか。
父親でしょうか。
それとも彼らの学校の先生でしょうか。

オトノネひろげるシェアぼたん
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