教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】

教育には、
学校教育と家庭教育がある。(社会教育はとりあえずおいておく)

学校教育とは何か。
ーーーーーーー

例えば、膝を曲げずに「礼をする」とか「握手する」とかは明治政府が輸入した習慣。
学校でこれを「やらせて」普及させた。

握手って、日本にはない文化だったのが、教育によってなんとなく今でも使われている。
(日常的に握手することなんて、そんなにない)

調べてすぐ出てきたサイトはこちら
日本人の所作・礼儀作法の歴史

2.日本の所作の変化

人付き合いの基本となる「挨拶」ですが、昔と現在では大きく変わっております。

その原因を探ってみると明治政府の政策にありました。
開国したばかりの日本は、最初外国に独自の文化、常識を馬鹿にされがちでした。
それまでは、夏場は裸で仕事をするのも当たり前でしたし、今では想像のつかないような生活をしていました。
その為、近代化を目指した政府は様々な政策を行い、学校教育を始めとしたところで、礼儀作法も指導していきました。

それが、現在の私たちが常識としている礼儀作法・マナーになっていきます。
ここでは、今と昔の礼儀作法の違いをみていきたいと思います。
2-1.日本の挨拶と礼

現在私たちが行っている立礼は大きく分けて3種類になります。

角度が15度、30度、45度の3種類です。礼をする相手の位の高さによって角度が深くなっていくのですが、これを江戸時代の人が見たら45度の最敬礼でも大変無礼なものだ!と感じるようです。

江戸時代では、道端などで自分より身分の高い人と会ったら「途中の礼」をしていました。
途中の礼とは、腰を折りながら両手を足の甲に着け、膝を曲げ、屈んだ状態で礼をすることをいい、これが普通でした。

庶民の間でも両手を膝に着け、腰だけではなく膝を曲げて礼をするのが普通でした。
これらの礼は外国人が日本にやってきてから、明治政府によって廃止されました。

理由は外国人にこの挨拶をしているのを見ると、非常に情けなく見えてしまい、頭を低くした方が身分が低いものとする風習があった為、日本人が外国人に挨拶する姿がとても卑屈に見えたからだそうです。
2-2.日本と海外の挨拶の違い

江戸時代までの日本人の挨拶の仕方は先程説明しました。補足を加えると身分の低いものから挨拶をするのが基本でした。

海外の挨拶の基本は礼ではなく、握手でした。しかも身分の高い者から握手を求めるのがマナーだった為、日本とは真逆で当時は受け入れられにくい風習だったそうです。
また女性から先にする礼であった為、当時の女性は非常に勇気が必要な挨拶でした。

明治政府が政策した礼儀作法の指導本には握手について書いてあり
「握手の礼は、尊長、主人、婦人等より、先ずその手を出すを待ちて、之を行うものとす。」と記されており、やり方については
「握手礼を行う場合には、右手を出し、先方の眼に注目し、おもむろに先方の右手を執り、約一呼吸の間握るべし。」と記載されていたそうです。

ここまで詳しく説明しているという事は、本当に日本ではなじみの無かった文化だったようですね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

定期テスト対策も、学校が始めた。
夏休みの宿題も、学校が始めた。
学校が始めたものが、どんどん「ふつう」になっていく。

それは、国の方針だ。

戦争時代は、戦争に心を向けるための教育をした。
そういう言語環境をつくった。
学校で、子どもたちは戦争を手伝っていた。

今は、子供達は、学校で、何をしているだろうか。
教育行政と癒着した塾業界にお金を送り込み、有能な20世紀型の情報処理能力をもった労働者を生産する。一部のエリートに大勢の労働者を管理させるシステムを作り上げる。

それは、国の方針だ。

今は?

学校で、子どもたちは経済大国日本の幻想を支える人柱になっている。

学校で、子どもたちは、一部の「持てるもの」が利益を上げるシステムが維持されるのを、手伝っている。

学校の中だけではなく、お父さんお母さんが不安になるようなしくみを、学校は作っている。
「成績がわるいです・・・」(いやべつにそれでもいいじゃないか。もっとこの子のためになること話さないのかな?学校の評価とか関係ないし。と言えるお母さんが少ない)
それで、子どもはお父さんお母さんのストレスを受けて暮らすのが、「ふつう」になる。
なかなか変われない人、変われない組織の「自己防衛」のしくみと子どもの「抑圧」

ーーーーーー

学校教育は国の方針であり、
家庭教育は、親の方針であり、
教育基本法に定められている通り、
子の教育の第一義的責任は、お父さんお母さんにある。
したがって、お父さんお母さんが、選んでいい。論理的でありすぎて、心がついていかないお父さんお母さんがたくさんいるとおもうが、はっきりと喋っておきたい。
学校教育の「宿題(労働)・定期テスト(評価)・一斉授業(集団性)」より家庭教育の「自立心・個別化・社会性」を大切にしても大丈夫な法的根拠

学校が、子どもの言語環境として、適切かどうか。


学校教育から自立するか。
これが、子どもに「宿題をしなさい」という前に、お父さんお母さんが答えをださなくてはならない、宿題であって、課題です。

教育とは、文化を継承する場所。
お父さんお母さんは、どんな文化を、お子さんに学んでほしいですか?
それはどのようにすれば、達成されますか?

答え方はひとそれぞれ。
これが、オトノネからお父さんお母さんへの、宿題です。

ーーーーーー

こちらはオトノネの宣伝です!
富山市の放課後児童クラブ・学童保育

ーーーーーー

オトノネひろげるシェアぼたん

学校教育の「宿題(労働)・定期テスト(評価)・一斉授業(集団性)」より家庭教育の「自立心・個別化・社会性」を大切にしても大丈夫な法的根拠

宿題をやる義務はない。
学校から出された宿題はしなくてもいい。

小学生であっても中学生であっても高校生であっても。

なぜ、学校は課題をやらせるのか?
この人、当たり前のことをちゃんといってくれていることに今気がついた。。。
っていうかこの幻冬社のGOLD ONLINE 本当にGOLDだ!すごい気合の入った連載記事!読んでみてください。
麹町中学校の校長が「宿題全廃」を決めた理由とは?

僕とお友達になれそうだ。

ーーーーー

家では家で、教えることがある。
家を学校から離し、自立した学びの場にするといい。

それができずに、高校生になっても学校の課題をやり続ける子がいる。
それは「労働者」の姿であって、「学習者」の姿には、僕には見えない。

ーーーーーーーーーーー

教育基本法

(学校教育)
第六条 法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。

(家庭教育)
第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。

(社会教育)
第十二条 個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育の振興に努めなければならない。

(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)
第十三条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

—————-

父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するという言葉がある。
子どもの教育については、お父さんお母さんが、学校よりも、何よりも、誰よりも、責任がある。という文言だ。

お父さん、お母さん、学校に子どもの教育を任せていませんか?
学校に行かせて「子どもの自由だ」と言って責任を丸投げしていませんか。
いやいや、、、子どもは自立した一人の人間、勝手に育っていくものだ、と考えることもできる。もちろんです!
ただその考え方一つが、その子の世界を変えていくという可能性が大いにある、ということは本当だとおもいます。

—————-

ちなみに「社会教育」には個別的な学習、塾も含まれると解釈していいとおもう。

相互の連携及び協力という言葉がある。
相互であって、一方的に家庭教育が学校教育に「従う」とは書いていない。
だから家庭は、家庭でしっかりとした教育方針を立てて、学校から独立した教育機関になることをおすすめしたい。
「宿題はまだ終わってないの!テストはどうだったの!」というだけでは、家庭が学校の下部組織になってしまう。
テストの点数が悪いということは、学校が教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。という文言を守っていないわけで、学校で組織的に行われる体系的な教育が子どもの役に立っていないという意味で、「自立・個別化」する家庭教育にシフトし、学校での評価を気にせずに、父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するという文言を法的根拠として社会教育(学習塾やその他の社会資源)を使うといいかもしれない。

学校が悪いわけではない。
学校はもう人もお金もないし、限界にきているだけだ。そういう状況に学校はある。

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費を概算して気が付いたこと。

続・富山県は教育県ではない。各都道府県の「学校基本調査」からわかること1

続・富山県は教育県ではない。各都道府県の「学校基本調査」からわかること2

学校の限界で子どもの限界を定められていい気落ちがするお父さんお母さんはいないだろう。
だからこそ、まずはお父さんお母さんが学校から自立して考え、教育することで大切にできる子どもの命がある。

お子さんが小学校、中学校のとき、お父さんお母さんが学校から自立して子どもと関わることで、お子さんは高校にいっても、社会に出ても、自立して組織から離れて「自由に」生きることができると考えて自然ではないでしょうか。

学校・家庭・塾の相互連携及び協力は法律で「努めるもの」とされている。
これは「しなくてもいいけど、できればしてね」という意味だ。(「1日に学年×10+10分」の家庭学習を強く要請しているのは、学校教育が家庭教育を下部組織とおもっていると考えてよいのだが、これは法律違反ではない)

だから学校は相互連携をする気がないのだろうか。
学校は宿題・課題によって、課題をやらせる雰囲気によって家庭教育や社会教育を混乱させてはいないか。
お父さんお母さんが子どもの心を学校教育から守ることで、大切にできる命はないだろうか。

学校から自立する、心が大事。

大丈夫ですよ。
法律で守られています。

けど法律だけで生きていないのが人間ですね。
ーーーー

こちらはオトノネの宣伝です!
富山市の民間学童保育

ーーーーーー

オトノネひろげるシェアぼたん