「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)

「ああすればこうなる」という世界に生きていた。
心がなんなのか、ぼんやりとも、わかっていなかった。

「こうなりたいんでしょ?じゃぁこうしよう」といって、無理をさせていた。
「この子の学力をあげよう。そうしたらこの課題をこうやってやらせて…」ハードルを下げるアプローチは今でも間違っていないとおもうが、やっぱり「やらせる」ことをしていた。

そして、「この方法は、正しいのに、できないのは、生徒がいけないんだ!努力が足りない!」とおもっていた。
同時に「もっといい方法はないのか!?」と「やらせる」ことを研究したり。

行為レベルで言葉を使っていた。
行為レベルで人と関わっていた。
自分に対しても、行為レベルで関わっていた。

いろんな出来事があった。
繰り返してきた。
何度も、人の心を壊してきただろう。
「堕落」を繰り返した。

その度に、浮き上がるたびに、新しい旅を始めた。
「自然」という旅だったり。
「演劇」という旅だったり。
「子ども」という旅だったり。

その中で、「物語」「民謡」「踊り」「芸術家」「カウンセリング」「心理学」「ヨガ」「ストレッチ」「歴史」いろんなことを学んだ。

旅をしながら、周り周り、巡りながら(何度も失敗をしながら)今も、繰り返しながら、ようやく、心を大事にすることを、学び始めている。

人の成長とは、発達とは、すぐにどうこうなるものでもない。
「ああして、こうして、こうする」ということを考えていたらみられなくなる、大切な「今」がある。
そしてその「今」に気がつくためには、いつも誰かの言葉があったし、出来事があったし、何よりもそれらを感じる「時間」があった。

「時間」は、大切にしたい。
焦っても、どうにもならないことがある。

こう言う場合、焦ってもダメだ!もがいたら沈んでいくだけだ!ということを、まずは学んでもいい。
(それを学ぶのが、大学の合格発表の日だったりする。それが模試の結果だったりする。突然やってくる。DVをうけてボロボロになって、何度も試みて、やっぱりダメで、「違う生き方をしよう」という日が、やってくる)

ーーーーーーー

「あー、これからどうなるんだろう…」とおもって友達に話すと
「どうすんのお前笑」とかいう適当な返事や
「おもしろそうだからそのまま行けば?」という何か逆に誇らしくなる返事や(いやもっと役に立つ返事くれよと当時はおもっていた笑)
「小説家になったら?」というちょっと気になる返事がでてきたり。

いくらもがいても、足掻いても、焦っても、わからないときはわからない。
わからないなりに、「違和感」を感じたまま、抱えたまま、明日を迎え続けて来た。

高校中退をした時から、不登校になった時から、いまだに僕は同じ「違和感」を抱えている。
それでもまだわからない。

そのくらい長い、ゆっくりした時間を感じられるようになったのも、「ある出来事」を境目にしてだった。
そういう日がくるらしい。

ーーーーーーー

突然やってくる日を、大切にしたい。
それはいつやってくるかわからない。

オトノネは出来事を起こそうとは思わない。
外ででてきた出来事を心できちんと感じ、フィードバックして、いつやってくるかわからない出来事に備える感じ。
(狙ってその出来事を起こす「導く」ことをまずはやってみるケースももちろんある)

ーーーーーーーーーー

「仕組まない」ことで生まれる不思議があり、「仕組まない」ことで出会える心がある。
(芸術家は、生まれたもの感じたものを身体化、具現化する仕事であり、生まれたものを大切にしながら育てることをする)

僕はそれを大切にしたい。
(だからオトノネに来た人は困るらしい。「何をしてくれる場所なのかわからない」と)

人には誰しも、発達の段階、人生の曲がりくねった道の上にあり、僕が関われるのはほんのその一部だ。
到底、最後まで道案内することなどできないし、案内できるほど多くの道を知らない。
「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

だからもし、おとのねさんに会ってみて、話をしてみて、感じてもらって、僕ができる小さなことが、少しでもその人のチカラになると感じてくれたら、お付き合いをしたいとおもう。

例えば。

「◯◯ができない」
「私は◯◯」

という言葉を生み出す心を、僕は感じようとしている。
縛られているものから、少しでも抜け出して、心を自由にして、今置かれている状況の中で、精一杯、チカラを使って先に進んでほしい。
神経は、記憶している。だけど、心は、成長したいとおもっている。
僕自身が、今、そのプロセスの中にいる。

なにしろ、時間がかかるものだ。
定期テスト対策なんて、なんともまぁ、この悠々とした時間に比べたら、小さなことのように僕はおもう。
その小さなことの繰り返しが、人の心をつくるのだろうけれど。(高校生になっても定期テストでピリピリしている。定期テストという呪いだ。)

頭ではわかっていても、やっぱり定期テスト勉強に勤しんでしまわないと心が落ち着かない子もいる。
それでもいい。なにしろ、定期テストは、小さなことだから。

けどそれで大切な「時間」が減ってしまうとしたら、困ってしまうかもしれない。

時間は減るものではないのかもしれない。
ただ悠々として流れているものかもしれない。

もしその「時間」が課題・宿題というバケモノの姿をして牙をむいて、台風のように、終わりのない嵐のように君に襲いかかっているとしたら?
君は呪文を唱えて、「時間」を元の姿に戻してあげるのもいいかもしれない。

本当に大切なことは、本当に大切なものは、内側から、やってくる。
外から与えられるものではない。

もしかしたら、今君の中に生まれた、気持ちが、「大切なこと」を知っているかもしれない。
聞いてみてもいい。その子はきっと悠々とした「時間」の中にいる。

その子の「時間」に入っていけば、きっと、話ができるはずだ。

ーーーーーーーー

Do it! Doit!と英語で書いてみる。
綴りが、Idiot(馬鹿者)と似ているなぁとおもった。

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小学生、中学生の心を学校から「守る」という愛で子どもの「命」を守ること。高校になった時に自立すること。自由に生きること。

「自由にさせたい」

ということが一つのキーワードになる。
ひとりひとりが自由に世界をつくっていけば、世の中はもっとおもしろくなるだろう。
では、

子どもに「自由に生きて欲しい」という祈りを届けるための、愛とは何か。

ーーーー

さっき、ドジョウが2匹、死んだ。
正確に言えば蘇生しようとしているのか、死んでいこうとしているのかわからない。
とりあえず、フタをせずに「カルキも抜きたいし、水たっぷりにして泳がせたいし」ということで2匹が今、埃にまみれて瀕死。
奇跡的におとのねさんに食べられることを免れた命。
飼うつもりだった。
生存者は3名

ーーーーー

「自由にさせたい」
けれども、守らなくてはいけない。
何を?命を。

人間なら、僕はもっと別のものを大切にしてほしいと思っている。
心だ。

命、といってもいい。

その人が生まれて来て、燃やせるもの。
他の人にも与えられる炎。

で。

「自由」がうまく働かない場合がある。
自由は条件付きだ。
「みんなで一緒」で小学校・中学校を過ごした子どもたちが、高校になって、「みんなで一緒」になって、本気をだせずにいる。
「個別化」されるべき進路を「課題」に阻まれている。
3年間を学校で「みんなで一緒」のわけのわからない課題に耐え、終わる。
それがお父さんお母さんの望んだ「自由」の結果だろうか。

(学校変えるか、課題や定期テストを拒否するだけでいいのに…それは困難なのだろう)

それで、子どもは、「殺された」と言えないか。
お母さん、お父さんが「自由だ」といって子どもの大切な心を、命を殺していないか。
おとのねさんも「自由だ」といって子どもの心を殺してはいないか。

そこはおとのねさん、実にドライだ。
「もう育ってしまった。もう思春期を超えた。あとは、今あるものでやっていくしかない。もう高校生になったなら、痛みがなければ、変わらない」
発達課題を、思春期の意味を僕はそのように理解している。
入試が終わった後で、希望しない大学に入学した後で、大切なことに気がつけばいい。

ーーーーーーー

「自由」を大切にすることはいいことだとおもう。
ただそれで「自由」を発揮するチカラを育てられているか。
「自由」にすることで「不自由」になっていないか。

「教えてはいけないこと」と「教えるべきこと」をはっきりさせているか。

「みんな一緒」から子どもを守ることがお父さんお母さんの役割ではないのか。
学校で「みんな一緒」の価値観で育った心が「自由」を発揮する、「個性」を生かすチカラを発揮することができるだろうか。
障害にならないか。

学校という環境がつくる心から、子どもの命を守ることが大事ではないのか。
それほど学校の先生は、学校というシステムのなかで生き延びることに精一杯なことが多い。
(一部の先生が生徒の心に大きな負担をかけることも往往にしてある)

ーーーー

もし本当に「自由」を、「その子らしさ」を育てるなら、学校から子どもの心を「守る」ような関わり合いをしなくてはいけないのではないか。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
それは学校から「自立」することも意味するだろうとおもう。

「先生、いろいろ大変だね。まぁ、私は私でやっていくよ」という目線。

心を圧迫してくるあらゆる言葉、振る舞い(時として脅迫や精神的苦痛といういじめに相当するものが公然と教育の名で行われることもある)から自立すること。僕がよくDVをDVだと思わないお母さんの話をするが、それの学校バージョンだ。毒親の支配から逃げられない子どもに例えてもいい。

小学校、中学校の発達の課題には学校からの「自立」がある。
だからこれを意識して就学以前から、低学年から関わりあうこと。
小学校になってからも、「自立」できるように子どもの心を守ること。

ーーーー

テストの点数が悪くてもいいよ!とはいっていない。
学校という環境の中で、「その子」をみつけて、どうしたら「その子」が「その子」として自立できるか、かけがえのない命を燃やせるのか、他の誰かを照らす炎になるのか。見て、守ってあげることが大事だとおもう。(場合によっては、学校がいうことなど気にしなくていいと、言えるだろうか)

ーーーーー

子どもを「守る」ために課題をやらせ、テストの点数をあげさせようとするお父さんお母さんの心はわかる。
ドジョウを2匹、自由にして殺してしまった気持ちだ。

「自由」になるために「檻に入れる」のだ。

ーーーーー

勉強「させる」、習い事を「させる」のは悪いこととは限らない。
ただ発達の過程で刷り込まれた神経は残るということは知恵として知っておいて欲しいとおもう。

小さな子どもの「気を引き締める」「ケジメをつけさせる」のも同じだ。
その一挙手一投足が、子どもの心をつくる。神経を作り上げる。

ーーーーーー

命を守るとはどういうことだろう。
僕は生まれて来た命にかける願いを、祈りを、言葉で、仕草で、振る舞いで子どもにかけたい。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
そして高校生になったときに、本当の自分を社会にプロデュースするという課題に、向き合えるように。
そのための基礎が「自立」する心であって、これはつねに自分という物差しで、自分の心で世界をみる行い(自分が自分のことを語るという単純なこと)の繰り返しで強められる。

小学校、中学校で「みんな一緒」の「定期テストに追われる」、「学校の先生が怖くて従う」、「友達の視線が気になる」神経を作り上げる学校の環境から子どもを守ることが、「自由」のために教えなくてはいけないことではないのだろうか。命を、殺さないために。

小学校、中学校で「死にに行く」ことを覚えた体は、高校になってから「個別化」を拒むだろう。「自立」することが難しくなるだろう。
身体は記憶する。
気持ちとか、精神論とか、正論は関係ない。
わかっちゃいるけど、、
先生に頭ごなしに否定されると体がすくんで、心の元気がなくなる。
身体は記憶する。
心理学の一般書のコーナーにいけば、すぐにでも手に入る真実だ。

ーーーーーーーー

別に課題をしなくてもいい。
勉強しなくてもいい。
本気になれることさえあるなら。
それが個別化だ。

勉強ができなくても、しあわせを育てている人を、僕はたくさん知っている。
勉強ができても、しあわせそうではない人も、僕はたくさん知っている。

ーーーーー

自由にさせて、小学校・中学校で心をすり減らしていないだろうか。
「みんな一緒」を神経に、体に刷り込まれていないだろうか。
それは僕には、発達障害のようにもおもえる。「え?まだ学校から自立できていないの?」

子どもの命を殺していないだろうか。

知恵をもって、仕草をもって、愛のある言葉をもって、子どもと関わりたい。

(ブログの記事)
愛とはなにか?

そうして僕は、ドジョウを入れたボールにラップをかけた。

ボールの外から飛び出して「死ぬ」のは自由。
けどそれは、言い方を変えれば僕がラップをかけずに「殺した」ことにもなる。

小さな赤ん坊が、歩き始めた時、わけもわからず車道に出ようとするのを引き止めるように、学校から子どもを守ることも、命を守ることになるのではないかと、僕はおもっている。それほど学校は、生徒たちの心をすり減らしている。子どもたちは、笑いながら、「自由」であり続ける。

僕は子どもたちに、どんな祈りの言葉をかけよう。

小学校、中学校の発達の課題は学校からの「自立」と「個別化」だとおもう。
学校は利用するのであって、機会は「与えられている」のであって、「従わなければならない」法はない。

教育基本法 第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

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論理を伝えること、論理の前提が崩れているとき、先生としての責務を果たすことと課題の多さの関係について。

論理的に話すということが無意味に感じることがある。

例えば学校で授業中に友達と話す子。
「なぜ授業中にはなしたらいけないとおもう?」
こういう問いをしてくれる先生がいるだろうか。

論理的に話すとこうなる。
「授業はみんなのためにやっているのであって、他の人の邪魔をするのは、他の人の迷惑になるから」
とても簡単だ。

教室は静かにするところ、では納得がいかない。論理的にそれがなぜか、落とせるところまで落とすとそういう答えになる。

もしこれが子どもに通じないとしたら?
話ができないとしたら?
大人はその子にどうかかわればいいのだろう?


私はいつも「教えなくてはならないこと・教えてはならないこと」を考えている。

それをはっきりさせるのが教育者の務めだと考えている。
教室の中で授業中友達と喋ることを黙認することは、身体的にそれを許していることになる。
「授業中、友達と喋っていてもいい」ことを教えていることになる。
私にとって、先生としての責務を果たすとは、「教えなくてはならないこと・教えてはならないこと」をはっきり伝えることだ。

ーーー

ちなみに、いつもでも友達がいないと何もできない、時間が過ごせない、というパターンは1歳すぎたらもう出来上がっているようだ。
先天的なものもあるだろうが、養育者との関わりも大きな要因になっているようだ。
保育園で働いているからわかることかもしれない。。。。

ーーーー

子どもの言い分もあるだろう。
「だって授業がつまらない」「意味がない」「役に立たない」
こういう言葉を聞いた時に、大人は何を感じるだろうか。論理の前提が違うとき!

私ならこう応える。
「意味がないと感じるなら話を聞かなくてもいい。それは自分の責任で。ただ、他の人の時間を傷つけるのは悪いことだ」

それで無言になって、結局喋り続ける子がいる。
論理の前提が、そもそも違う(ただ喋りたい一心なのだ!)ケースだ。
もっとよくあるケースは「勉強してなんの役に立つの?」という疑問がでるほど、学校生活が窮屈な場合。
どちらの場合も、生徒の心は擦り切れている。

健康的とは言えない。

そんなとき、僕はこう考える。
「本当にその子にとって有意義な、成長できる時間をつくるためには何をしたらいいのだろう?」
授業という形態、学校というシステムにも限界がある。
果たして、学校は、組織は、大人は、こうして育ってきて今も成長している子どもたちに何ができるか???

(ちなみに、学校の先生は、生徒が同感・同情してくれるような言葉かけ、振る舞いを日常的にしていることがある。「この先生だから、静かにしていよう」というやつだ。生徒指導の怖い先生の前では静かにしている、というパターンをつくりだす。それも一つの手なのだが。人を見てコロコロと態度を変える就学以前の子どもたちと同じだ。もちろん、それは人間関係の基本ではあるが、その「手」が新任の先生がどんどん辞めていく原因のひとつとなっている)

ーーーーー

全ての学校に、通信課程を導入するのも手だ。
友達と喋りたい!なら単位は通信課程で。
自習室で友達と喋りながら勉強したらいい。(そっちの方が勉強になるかもしれない!???)
授業が嫌だ!意味がわからない。それでも単位が欲しいなら、友達とおしゃべりしたいなら、通信課程で。
通信課程と一斉授業の仕組みが流動的に使えるようになればいい。

決して他の人の邪魔をしてはいけない。
学校の本分が、教室という場所が、そのようにできているから。
「教えなくてはいけないこと・教えてはならないこと」をはっきりと伝えて、なおかつ、生徒の教育上の安全も確保しよう。

学ぶ意味がわからない、こんなもの役に立たない、とおもう子のための学校があるだろうか?
友達とのおしゃべりを楽しむ以外で、《行き甲斐》のある学校があるだろうか?

大人がそういう問いを立ててもいい。
(私なりの答えがotonone-オトノネ-なのだが)

ーーーーー

その子を否定するのではない。排除するのではない。
そのためには、
その子が学校でその子なりに、高校生活という経験を全うするための手立てを、学校が持っていることが必要なのではないか。
(その一つの答えに「特別支援級」があったりする)

そして大人がきちんと「教えなくてはならないこと」を伝えること。
学校の先生には、こういう意識が必要なのではないかとおもう。
(教えるという言葉が妙な響きに聞こえるかもしれない。心を表すこと、と言い換えてもらえてもらってもいい)

論理を、そしてベースとなる「相手の気持ちと自分の気持ち」という人間の根本原理を教えること。
それはいい子になる、というものではない。それさえあれば、世の中やっていけるというくらい大切なことだと僕はおもっている。

ーーーーー

「難関国立大学に合格させる」という責務を負った進学校を選んで入る人は、課題を当然ながら、あまんじてこなすべきだと考えてもいい。
そこを選んで入ったのだから。

先生はその責務を果たそうとしている。

ただ、大量の課題や途切れのない模試・テストという方法にあまり実りがないことは、大人がきちんと考えなくてはいけないことだと思う。
大人は「課題についていけないない子に対して、学校が本分を果たすにはどうしたらいいか?」考えているだろうか。

業務(先生たちにも「課題」がある)から自立して、考えているだろうか?
業務自体が「教えてはならないこと」を伝えていないだろうか?(潜在的カリキュラムという)
考えていない、工夫ができていない、先生自身が成長できていないとすれば、先生としての責務を果たせていないことになるというのは、論理的に正しいだろう。しかしこの論理の前提が崩れているから、困るのだが。

otonone-オトノネ-は壊れた前提の中で、それでも成長していこうとする子どもたちを応援しています^^

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富山大学附属中学校と富山(中部)高校のギャップ

富山大学附属中学校と富山(中部)高校のギャップ

富山高校生、もと附属中学校の生徒の話。

その前に、、前提知識。
富山大学附属中学校の70人中50人が富山中部に入る。(調べて見たら附属中学こうの生徒の160人中70か80人でした。数字全然違った!)
富山高校の生徒の出身中学は公開されていない。
で、問題はここから。

中学校のときは、先生がよかった。自分で頭を働かせて、主体的に授業がうけれた、というか、学べた。
高校になったら、受け身の授業で勉強する気がなくなった。

そのギャップに苦しんでいるというお話しだ。(富山から高岡に会いに来てくれた人がいる)

附属中の生徒が簡単に富山高校や富山中部高校に入れるのは、もちろん、主体的な授業で「言葉の力」があそびによって鍛えられているからだろう。
富山県の高校入試は暗記ができればいいのだから、とりあえず覚えれば入れるでしょ?という簡単な流れ。
親が教育熱心である、という理由もあるかもしれない。

で、ギャップという話。

ーーーー

僕の大学生の時の後輩が、今、宗教に入っている。キリスト教。で、昔その子の家にいっておしゃべりをしていると、同じアパートに住む「友達」がやってきた。同じ宗教をしている子だ。その子の話。「大学生の間、ずっとスポーツをしてきました。けど大学が終わってから、何をしていいかわからなくて」

突然、今までしていたことがわからなくなる。
何をしてきたのか、物語が、途中で終わってしまった。
あれ?

どうやって動かせばいいのかわからない、心が動かなくなったのだろう。
そして宗教はそのきっかけを与えた。
新しい物語を彼に与えたのだった。

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で、附属中学の教育は、先生は、すばらしいように思える。実際は知らないけど。けど少なからず、高校にいったら「何これ?」となる。予習をやってきて、生徒が板書して、先生が解説、いやいや、先生いる意味ないでしょ。という話をよく聞く。受け身の授業、意識が朦朧とする。。。あれは、中学生活は、一体、なんだったのか。。。附属中学校の玄関に掲げられている文字は、なんだったのか・・・

実は富山でも高校生をターゲットにした宗教がいくつか存在している。
え?知らないですか?

もちろん、附属中学校で鍛えられて、高校生活を有意義に、送る人もいる。
人それぞれ。

目が覚めた時、次は誰のファンタジーのなかにいるんだろう。
本当の自分の物語を語ることなんて、できるんだろうか。

真実か、正しいのかなんて関係なくて、誰かが近くにいてくれて、ぐるぐるまわっていく運命にちょっとしたいたずらをしていくのを楽しむくらいがちょうどいいのかもしれない。

高校生と話をしながら、僕が高校生だったころの自分の感覚を思い出している。
もう少し、彼らと一緒に何かをしていこう。
僕にとってのおとのねは、自分の心の成長する場所だ。
もしそれが生徒にとっても同じであれば、嬉しい限りだ。
そういう子が、おとのね にきてくれたらいいとおもっている。
悩みながらも、本気で、彼らに応えていきたい。
それが僕の感謝のカタチだ。

というわけで、(そんなものいらないが)結論。

今やっているゲームを降りて別のゲームをするのも、人生というゲームのルールのうち。
同じゲームをやり続けて、誰が褒めてくれるだろう?もしその人生に、幸せを感じていないとしたら。自分が自分を褒められないとしたら。

橋を渡って結婚式をあげたときに男女が初めて顔を合わせていたような時代とは、商品化されたゲームはかなり変わってしまったきがする。
自分でゲームをつくってもいい。もちろん、全てがオリジナルでなかったとしても。

中学生のときに思い描いた「学び」の姿、学んでいる自分の姿を書き換えなければならないような、そんな高校生活に身を置いている高校生のために、僕はotonone-オトノネ-をつくったのだけれども。

ちなみに、富山中部高校から難関大学に行くのは30%。一学年の生徒数が280人だから、84人。
驚くべきことに、富大付属中学校から富山中部高校に入学する生徒数は80人。

ただの妄想をしてみると、中学校から富大付属中でサバイバル(まわりの子どもが勉強勉強、放課後は育英センター!)の環境でなければ、富山中部高校にいっても心が擦り切れるだけなのではないか(もちろんそうでない人もいるが)。富大付属中の生徒のための富山中部高校。だとすれば、富山中部高校に「外部受験」する人は、よほどしっかり非認知能力が高まっていてほしいとおもう。どこの高校にいっても、サバイバルには変わりないだろうけれど。

これはただの妄想ですが。
数字というのは、不思議ですね。

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

オトノネひろげるシェアぼたん

富山中部高校もヤヴァかった。口コミ・評判と課題の多さの現実。

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ーーーーー

生徒としてきてくれた子は高岡高校と富山高校であって、富山中部高校の生徒の情報がなかったが。

(このブログで「富山中部高校」と検索してくれた人がいたのでこの記事をあえて書くことにした)

追記1:「富山中部高校の生徒は他校の生徒と比べて、どことなくコミュニケーション能力が高い」気がするのはなぜか、説明しています。
追記2:富山中部高校もやっぱりヤヴァかった。。。

ーーーーーー

オトノネにといあわせてくれた富山中部高校に子どもが通っている保護者の方から聞いた話だと、高岡高校、富山高校と変わらないかなぁというイメージだった。課題づくし、一人一人の進路を無視した東大、旧帝大、国立のための指導。予習前提で光のように進む授業。そう、富山中部もサバイバル。

あえて違いというか、僕の印象を語れば、僕が富山中部高校にチラシを配りにいった時、他の高校と違ってけっこうはっきりと「話」をしてくれる人が多かった気がする。富山県No1の「偏差値」であることの自信か、メタスキル として言葉のチカラをもっている子が集まるからか。自立心、自主性、言葉の能力がなくては学力は上がらないという証拠かもしれない。どこか自分でなんとかやれるようなメタスキル を持っている雰囲気を感じられた。

(それでも去年の秋に行った時、生徒の話を聴きながら、学校の進路指導、「みんな一緒」のやり方、傍若無人な課題は富山高校や高岡高校と変わらないとおもった。富山中部では、この殺人的な課題をサバイバル「できる」子がくる。とおもってもいい。サバイバルするだけで、難関大合格者は浪人生も含めて(!?)3割だけですが。あれ?2割だっけ?)

(追記1:富山中部高校は、富山県で一番入るのが難しい、ということで、県内全域から入学者が集まります。実質、高岡高校が呉西地区の生徒にほとんど限定されるのに比べ、富山中部高校はもっと広い地区、それこそ獅子舞が姿を変えてしまうくらい文化的に違う地区からも生徒がやってきます。なので、自然とコミュニケーションの前提を作るところから、お互いに違うところを認めながら高校生活を送っているのだと思えました。朝日町から通っているという生徒に二人で会いました。それでああ!そうか!と発見したわけです。県内一番だからと、呉西から通っている子もいました。多様性、大事ですね。)

それにしても、富山中部高校でも「私立希望なのに記述問題をやらされる」という不満を述べる子、歩きながら今日の(使わない)数Ⅲの授業の予習をしている子などなど。心のバランスは大丈夫だろうか?自分の進路、自分の道を応援してくれるようなオトナに出会っているんだろうかと心配になった。もちろん!中部高校でも自由に生きている、学校と自分の線引きをしている、うまく立ち振る舞う人がいる。苦しんで潰れた子の話も聞いた。病気になる子もいる。

=====

追記2

中部もやばかった。
今まで出会ってきた富山中部高校の生徒は、いわゆる「できる子」だったのだろう・・・ということをまざまざと感じた。
富山中部高校も、ヤヴァイのだ。

他人に興味がない。医者や経営者の子供がガリ勉にさせる傾向があり、他人に無関心、他人をけり落とす、他人をいたぶる子が多いそうです。学校って何を学ぶところなんでしょう。暴力の塊のようです。成績がいいこと・・・ただそれだけが、価値であるような錯覚を、生徒に伝えているようです。

寝る時間がない。
塾前提で授業が進み、ひどいときは一回の授業で50ページくらい進める。
演習のみ。
468(ヨーロッパと読む)平日4時間、土曜日6時間、日曜日8時間勉強しなさいと言われる(狂気だ。子どもは養鶏場の鶏ではないのだ)
(高岡高校ではこんな歌が流行っていることはすでに記事で書いた。子どもも大人も月月火水木金金
保健室にいっぱい人がいる。
不登校、中退を入れたら学年で20人以上が消息を絶つ。
さぼって公園に行って、父兄に電話がいく。
親が連絡を入れないと、休めない。
課題提出状況が出される。(これはどこかに書いた気がします。親を不安にさせて、子供を挟み撃ちにする暴力です。親を不安にさせて、、、新興宗教みたいです。カルトのやり方です。心あるお父さんお母さんなら、騙されないとおもおいますが)

どれだけ殺伐としているか。

もう、子どもを戦場に送るのはやめませんか。

=====

「自称進学高校」に通う子どもたちの声です。

=====
======

富山高校がサバイバルすぎる件でコメントしてくれた方の富山中部高校の情報によれば、富山中部高校も大変そうだ(お子さんは、自立的に課題を解体し、自分で組み立てながら、悠々と通っているという。将来が楽しみだ)。リアルだ。この情報をくれた保護者の方と話をしながら感じたことをまとめた記事がこちらです。(自称)進学高校在校生必見!「課題」が生徒および親に及ぼす影響の考察。

富山大学附属中学校と富山(中部)高校のギャップ

思春期、人間として通過儀礼を受ける時期、高校は試練を与える場所であるとわりきってみてもいい。その試練を乗り越えることを助けてくれる人との出会いが、決定的に、どんな高校に入っても、大人になろうとしている子どもたちを成長させるきっかけになるだろう。子ども(中学校)のときの価値観で高校という困難を乗り越えることは、ちとキビシイ。

高校の選択肢が少ない富山県、高校選びを諦めて、学校の外で大人探しをしたらいいのかもしれない。

ーーーー

最近見つけたサイト。
高岡高校、富山高校ではこういった記事がみられないのは、富山中部高校の生徒たちのポテンシャルの高さを表すと同時に、富山中部高校内部の格差、全く状況の違う生徒がいるのだと納得してしまう。(チラシを配りながら出会った文句タラタラな生徒、もうエンジョイするに任せている生徒の気持ちを代弁しているように僕は思う)。wikipediaでこのような「やりとり」が行える卒業生のチカラを、高校生のうちから別の方向に(その子のもっている種を育てていったら、もっとおもしろい世界になるのではないかと、僕はおもうのだが)
ノート:富山県立富山中部高等学校/アーカイブ1
ノート:富山県立富山中部高等学校/アーカイブ2

それでも富山中部高校の生徒は、笑いながら、学校にいっている。そんな印象を受ける。
メンタルを管理するメタスキルがあるのだろうか。

進学校の生徒にも、年に2回の青春はあるのだし、はやいとこ卒業して、本当の学びを初めてほしいなぁとおもうおとのねさんでした。

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

オトノネひろげるシェアぼたん

高岡高校がブラックで海軍ばりに休みがない件(実話です。在校生の話)

高岡高校がブラックで海軍ばりに休みがない件(実話です。在校生の話)

みなさんからもらった情報、有料記事にしていましたが、無料に戻すことにしました。

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課題課題と言って来たが、今日、新しい事実が判明。

宿題には二種類ある。「課題」と「予習」である。

課題=宿題だと思っていた僕は大いに驚き、また想像ができなかった。え?予習?

富山高校も富山中部高校も同じなのかな?自称進学高校も同じかな?(同じだという情報をいただきました)

高岡高校の生徒が「もう課題やらないからな!!!」と先生に、職員室前(?)で叫んだところ、そのまま生徒指導(教科指導?)行きになったという話などなど、「課題」というモンスターの存在は知っていたが、まさか、予習という名の亡霊までいるとは。。。
AO入試に挑戦しようとした子が、「君には無理だよ」と言われた話。(学習性無気力になるだろう)生徒は日々、否定的な言葉、支配的な言葉を受けているため、心がもう

「悪い言葉」の「悪いエネルギー」に対応することで頭がいっぱいで、疲れてしまっている。という感じ。

そもそもAO入試は、学校が判断するのではなく、大学が生徒を判断するものであって、推薦入試ではない。
生徒の挑戦を、生徒の本気を、生徒の心を先生が「無理」の一言で否定するのははっきりと、間違っている。と僕はいう。言える。
疲れ果てて、心が擦り切れて、言い返せない、もう疲れ切っている生徒の姿が、高岡高校にはある。

高岡高校に使われている生徒がたくさんいる。
高岡高校を使う生徒が少ない。
使えない。
理不尽が日常化してしまい「心」がわからなくなってしまう。
そんな生徒がいる。

先生に宣言しようがしまいが、課題をやるやらないは本人の気持ちしだいなのだけれど・・・
学校というしくみ、先生との関係から自立的になれる生徒は少ないように思える。

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予習という名の亡霊は課題よりもタチが悪いかもしれない。授業中に予習の範囲を板書することになっているので、集団心理が働く(これも人によりけりだが)「みんなの前で忘れたというのは恥ずかしい!」とか「俺できる!できるんだから見栄を見せないとね!」とかいう人間の心理をくすぐるようだ。。。(もちろん、予習のやり方が悪くて時間の無駄をしているという前提で僕は喋っている。)

もうすでに置いていかれた生徒にとって、予習も、課題も、手に余るものだろう。「なんでやるの?」かわからない。ちょっと多く見積もって8割の生徒にとって、予習も、課題も、息を切らすものでしかない。ほとんどの生徒がセンター試験止まりの中堅大学に行き、その他の生徒が消息を立つしくみだと僕はおもう。予備校には自由があるからまだいいかもしれない。高校にも自由があるはずだが、自由を使うことができる生徒は少ない。体が、神経が覚えてしまっている。抑圧されている。処理しきれないと、病気になる。体のどこかが不調になる。(自己責任の記事を参照ください)

予習のテキストをみれば、それがどういう生徒を対象にしているのかが僕にはわかる。授業の進め方がどんなのか話してもらえば、それが誰に対する授業なのか僕にはわかる。2割の生徒のための教材だ。

学校でついていけないのは、たいていの場合、お子さんが怠惰だからではありません。勉強が足りないから成績が伸びないのではなく、勉強を一生懸命している(予習や課題をしている)からついていけないのではないかとおもう。

宿題が二種類であり、復習、が入らないのは妥当だろう。学校は復習したかどうかをチェックしないからだ。管理されない復習をする気力が生徒にはない。が、しかし、復習しなくて予習の意味があるわけないとおもうのだが。

「勉強して体壊して無理して大学にいくよりも、健康で大学に行って長生きしたいんです」と話してくれた高校生。健康が大事。心が大事。命が大事。受験という経験を通じて、自分の心も体もを大切にすることを学んでほしいとおもう。< 勉強することそのものに意味はないかもしれない。受験という経験を通じて学べるもの、気がついたこと、本気を出した記憶を、振り返ったあとで、春、桜の咲く道を笑いながら一歩未来へ踏み出す一瞬の充足感のために、今、「勉強」が目の前にいるのかもしれない。 進学校にいくくらいなら、将来を見据えて、定時制高校に通いながら、通信制高校に通いながら、いろんな人と出会いながら、大学に行くという選択肢も、ありますよ。 心を大事に。 いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

ちなみに、富山高校と富山中部高校の生徒の話も記事にしています。
富山中部高校サバイバル(追記:なぜ中部高校の生徒はコミュニケーション能力が高いのか)
富山高校がサバイバルすぎる件

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富山高校がサバイバルすぎる件(実話です。在校生の話)

富山高校がサバイバルすぎる件(実話です。在校生の話)

なさんからもらった情報、有料記事にしていましたが、無料に戻すことにしました。

受かるとか受からないとかの記事はそのまま有料にしますが。
こちらは重要度が高い、無料で解放したらいいかなと思いました。

朝、チラシを配りながら富山高校生の生徒と話をしていて「同じ人間なのにどうしてあんなことするのか」と耳にした、その内容が、衝撃的でした。
富山高校に入るのであれば、こういった学校のしくみに耐えられる人でないとキビシイかもしれません。3年間。不登校、退学の数は富山でも屈指だと、勝手におもっています(主観です)。

中退実績、不登校実績も公開したらいいのにな。

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追加:最近の情報です。中退した富山高校生の話。

地毛の生徒が髪の毛を無理やり染められ、髪染めのおかげで健康を害し(頭髪の炎症、髪の毛大丈夫だったんだろうか)、それがきっかけで不登校になったことに対し、学校側の説明は「ルールだから仕方がない」「ルールだから当然だ」ということでした。

らしいです。

お子さんは、富山高校でサバイバルできますか?
お子さんの命を、心を、守れますか?

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怒りなのか、悲しみなのか、わからない。身の危険を感じたら逃げろ。戦えないなら、諦めて、逃げろ。どうか、大切な命を守ってくれ。心が大事!

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「自称進学高校」に通う子どもたちの声です。

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もちろん、高校生活を楽しんでいる子もいる。高校は「よくある社会のしくみ」だから、そのまま大人になっても必要な抵抗力、身を守る力を試すことができる。けど、高校という場所で管理・支配・干渉する人たちへの対応(そして学校の中でのいい先生との出会い)を学びに変えるために、学校の外の大人の助けを必要としている人がいるのも間違いないようにおもう。

課題に追われて、人のことを気にしている余裕もない。

今時の男子生徒には「反抗期」がないらしい(お母さんがべったり)。これから児童発達研究は歴史を塗り替えることになるだろう(反抗期がないと、子供にどんな影響がでるか?実践家はすでにいくつか経験的に予言をしている。20歳になっても、30歳になっても、子供が親から自立できなくなるという)

外部模試で私立大学を希望すると職員室に呼ばれて「どうして国立ではないんだ?」という進路指導(進路誘導)。職業選択の自由があるのに大学選択の自由はないのだろうか?

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40人クラスで4人が不登校。
中退の数は含まれていないからサバイバルできなかった人を含めればさらに数値は跳ね上がる。

今年は4割が浪人。(それでも全体で2割しか難関大学に行けないだろう。一体何人が、浪人して、そのまま擦り切れて終わっていることか)だから課題やっても無駄だってば(2割をのぞく)!データも出してるから、あとは自分で判断してね。

高岡高校の話も聞くが、今日は富山高校の生々しい状況を聞いた。話には聞いていたが、話す人が違えば話すことも変わる。もはやここまで、という感じになった。子どもが死んでいく学校。心が殺されていく学校。そんなイメージだ。(もちろん、うきうき楽しく学校生活を送る子もいる)誰かに助けをもとめよう。一人で生きるには、この世の中は残酷すぎる。

富山高校の悪口を書いている?そう見えるだろう。(言葉とは、そういうものだ。だからみんな書かない)だけどこの文章は「もうだめだ」という人たちの心を休ませるきっかけになればいいとおもって書いている。命が大切だから。死なないでほしい。心が大事だから。無理しなくていい。無理する価値があるのか。無理をしてまで、守ろうとしているものは、なんですか?それは、あなたが命を賭して、守る価値が、あるものですか?

大切な、ひとりひとりがもって生まれた種を、守って、育てて行ってほしい。
逆境だからこそ、チカラが発揮されることもあるかもしれない。
そんな出来事を全部受け止めて、前に進んで行ってほしい。

全部書き終わった後で、これは怒りの感情だということが、わかった。私もまだまだコントロールができていないなぁ。。。

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蛇足だけれども大切なこと。
富山高校で楽しい高校生活を送っている人もいる。
一つの組織の中で、苦しんでいる人も、楽しんでいる人もいる。
そうした人たちが同じ場所で暮らしていて、一緒の場所にいて、ある人は苦しんでいる。ある人は楽しんでいる。

当たり前のようだけれど、ある意味、僕には不可解に思える。
違和感を感じる。

ほんの少しだけでも、大人が「しくみ」を変えればいいだけなのに。
その創造力が、富山高校にはないのだろうか。(というか学校という組織、日本の古い組織全体に言えることだと僕はおもっている)

創造力とは何か。

創造力のない大人が、創造力のある子どもたちの天の才を、潰してはいないだろうか。

富山中部高校の生徒の話はこちらの記事に書いてあります。
富山中部高校の課題ぶり(追記:なぜ中部高校の生徒はコミュニケーション能力が高いのか)

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

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学校の先生は残酷か。

ひとりひとりの生徒の自立心、意欲を管理と干渉、命令で抑圧することが、残酷かどうか。

でもこれは一部のお父さんお母さんも当然のようにやっていることだ。

会社という組織でも同じ。会社には会社のやりかたがある。

子どもは子どもでじゃぁどうやって世界で生き残るか、工夫していく。「この世はもっとしあわせなことがある、幸せを感じるようにしよう」という心をつくる子もいれば、「戦わなくちゃ!頑張らなくちゃ!」という子もいる。「え?ノープロブレムだけど?」という子もいる。うまくやるひとはうまくやる。羨ましいくらいに!生きていくために、仲間をつくる、仲間と出会う、仲間を集める、それもひとつのうまいやり方だ。

教育基本法、児童の権利条約に定められている「個人の尊重」という文言と実際が違うじゃないか、条約違反、法律違反だと言うこともできる。ただ、それを「罰する」人がいない。(実際、だれかが時間とお金を使って裁判を起こすこともできるのだが。実験して見てみたい。行政が機能していなければ、司法のほうからアプローチするのも手ではないのか。子どもの権利条約は、国連に申し出ればいいんだろうか?今度問い合わせをしてみようか。正直、ハッピーにならない気がする。)

学校で自殺する子どもを殺したのは誰?親?学校?友達?責任は不在で、誰も咎められない(責任についてはたくさん記事を書いてきた)。学校を卒業してしまえば、赤の他人、関係ない。そうだ、自立した人間なのだから。不登校、成績不振も咎められることではなく、学校という営みは保たれる。そして学校の外で塾やら、なんやらができてくる。「助けるシステム」をつくっていく。安心できる場所を外に見つける。これが子どもを(大人をも)とりまく「ルール」だ。

世の中の「ルール」を知り、その中でどう立ち回るか。教えてくれるひとは少ない。自分の心は自分で守る。あっぷあっぷな保育所のおとな、学校のおとなをどうして罰することができるだろうか。あっぷあっぷなお父さんお母さんをどうして罰することができるだろうか。とびっきりへんてこな歴史をもった日本という行政単位をどうして罰することができるだろうか。みんな、自分を守ることで精一杯だ。だからこそ、思いやりの心は、とびっきりうつくしくみえてしまうのだろう。

怒りにフォーカスしてしまう心よりも、今の時代、喜びにフォーカスができるように、子どもたちと、大人たちと、関わっていきたいとおもえた。

DV防止法というものがある。正確には「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律」だ。見ての通り、暴力を振るった側には「罰」を与えることはできない。ケッキョク、自分の身は自分で守るということなんだ。

人間が暮らしていく過程で、いろんな協力体制を築き上げた。家族は、婚姻は、かつては村の出来事であって、個人の出来事に留まることはなかった。現代における子供と親の関係、子どもとそのまわりの大人の関係も変わってきた。あたらしい「協力体制」が少しでも、利己的な個々人がしあわせな暮らし、リッチな暮らしを実現する助けになればいいとおもう。そんなオトノネになろう。

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自称進学校の《課題が多すぎる》伝統から何を学び取るか

自称進学校の《課題が多すぎる》伝統から何を学び取るか

伝統とは何か。

日本で伝統という言葉が使われ始めたのはおそらく明治以降だろう。
それまでは「正統」とか「本家」とか「由緒ある」でまとめられていたに違いない。

岡本太郎が「伝統との対決」という本を書いてある通り、伝統は人にとっては敵のようなものだ。

伝統はとても便利だ。全てを準備してくれている。
「ああいうときはこうする」「こういうときはああする」
何も考える必要がなくなる。

伝統が役に立たないとき、伝統に違和感を感じた時、それは、あなたが創造的になれる瞬間だ。

あなたが伝統の一部になるのではなく、
伝統をあなたの一部にしてほしい。
大切なあなたの気持ちを、大切にするために。

あなたがあなたらしく、創造的に、チカラを使って行くために、である。
今あるもの、他の人が大切にしていること、決められていること、それら全てに「NO」と言ったらエネルギーが持たないだろう。
世界が、全て伝統・歴史でできているということもできるのだから。

学校の課題は全てやることになっている。誰がやれと言ったのか?
学校の先生は何年ごとにか移動させられる。
誰も課題をやらないといけないなどと指示をだしているわけではない。

伝統が、あなたに指示をしているのだ。
あなたはその伝統に、どう向かい合う?

「この伝統を信じるといい」と学校の先生はいうかもしれない。
そうでなければ学校の秩序が崩壊してしまうから。

君が今いる学校も大切かもしれない。
ただそれで、君の本当の気持ちが隠れてしまうのであれば、今、君は伝統を君の一部にするきっかけをつかんでいると、私はおもう。

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こちらは外部リンクです。いろんな人が課題に苦しんでいます。

難しい問題を宿題に出す高校に行っては成績が伸びない!
難しい問題とは、例えば数学なら、フォーカスゴールド、青チャート。
自称進学校が大好きな問題集ですね。

高校の大量課題はやるべきか?『大学受験勉強法 受かるのはどっち?』

泉丘高校、二水高校、錦丘高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?

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富山県・石川県の進学高校で課題が多い件について

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富山県石川県の高校生はとにかく生徒は口を揃えて課題が多いという。

学校は学校で都合があって課題を出す。
先生には先生の事情がある。
生徒は別にやらなくてもいいのに課題をこなす。
生徒には生徒の事情があっていいのに。

やらなくてもいいのに。。。

そんな学校でも、楽しい子は楽しんでいるし、部活が生きがいの子がたくさんいる。
僕も学校で教えていたことがあるが、授業中に、目をキラキラさせている子に出会うのはめったにない。
集団授業という指導法が、やっぱり合わないのだとおもう。(だから個別指導塾が流行る)

けど学校はそういう場所だから仕方がない。
みんなも学校に行っているんだから、ちゃんと利用してほしい。
「課題に追われて、他のことが考えられない。。。」

今otononeに通っている進学校の生徒は、学校の課題を捨てている。
学校にはちゃんと行っているけれど、与えられた課題が自分を成長させないことにずっと前から気がついていた。
ひとりひとりの課題は違っているはずなのに、それをみんないっしょにする学校の都合に合わせていては、本人の勉強が進まない。
ひとりひとりが誰のために学んでいるのか、誰のために勉強しているのか。

アンケートで「自分たちのことを学畜といいます」と書いてくれた子がいる。
誰かのせいにする気持ちで勉強したって、辛いに決まっている。

悪循環を断ち切る場所が、otononeであってほしい。
otononeでは、全部自己責任で学んでもらう。
もちろん私はもっている情報をすべて出す。けど、決めるのは、本人なのだ。
それが一番、心を大切にして、チカラを伸ばす、一番の方法だと私は信じている。

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