「学校」という「自然」、「校舎」という場所。

もう僕はいわゆる「学校」という言葉を使いたくない。
学べないからだ。
課題しか与えない。
教えてくれない。
試練しか与えない。
乗り越える勇気も、希望もない。
そんな場所を「学校」と呼びたくない。

「校舎」でいい。

「校舎」で学べている子もいる。
その子にとっては「学校」だろう。
ただ、そういう子は、中学校では全体の半分くらいだと僕はおもっている。

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いじめがあるとしよう。
トイレの奥に友達が連れて行かれて、ねちねちと恐怖体験を受けていることを目撃した子がいたとしよう。
どう振る舞うか?

いじめは、今の学校教育が、すでに移り変わった社会、時代を顧みずに明治時代の軍隊式の本質をそのまま受け入れていることで生まれている。いじめは文化である。社会的に作られた「自然」な姿だ。

けどそれってちょっとおかしくない?
いじめられる側になったとしたら、なおさらそれは「自然」であると同時に、「脅威」だ。
けれども「自然」はなくならない。そのままの姿でまたやってくる。

人間は、そこで何をしたか。

「学んだ」のである。

「学」という文字は「狭くなった建物を押し上げる人」を形象している。
建物は、「自然」から自分の身を守るものだ。
人は「恐ろしい」自然から身を守るために家を作った。
家を押し上げる。それは自分を自然から守る装置を作り変える、広げるということを意味する。
それが学びだ。

どうして「学び」の本拠地である学校でいじめが起きるのだろう?
学校という自然の脅威に対して、「学ぶ」しかない。

学校では「学べない」
学校が与えた試練を乗り越える手立てを、学ぶ手立てを、学校は準備できていない。

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自己肯定感を「この世にいることに安心している」状態と僕は説明した。
ひきこもりはどうか?
安心しているだろうか?
安らかだろうか?
そしてそれは、「自然」だろうか?

引きこもりをしながら、心が「自然」を受け入れていく、「自然」が脅威でなくなっていくこと。
そして安らかであること。

安らかとは、家の中にいる女の形象。

漢字から、家の大切さを思い知らされる。

自分の魂が安心していられる家を自分の中に作ること。
「わたしは大丈夫」
といったときの表情が引きつっていないこと。

これが、10歳からの発達の要であるようにおもえる。
いじめが増える時期。
学校の中で多くの「社会問題」が起きる。
学校という「課題」にどう向き合うか。
それが高校以降のその子の人生をつくる土台になると僕は思う。

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最近、神戸市の小学校のカレー事件があった。
小学校教員による教員いじめ、生徒いじめである。
この当事者がいったいつ、こんなことをする精神状態になったのかはわからない。
ただこのような事件が「自然」に起こるような状況が、学校に、社会にあるということ。

「わたしはルールを守らせる」「食べ物は残さずに食べなくてはいけない」「わたしは先生だ。羽交い締めにしても食べさせる。これが教育だ」という思考が「自然」に発生する世の中だ。

めちゃくちゃに壊れている、古い、もうボロボロの教育システムのなかで、強く生きるには?
いやいや、学校の中で生き残ることで得られたスキルを社会の中でどう生かす?

学校の成績がよいことに自己肯定感を抱く病気である人は、将来、学校が終わった後に、人に共感できないサイコパスっぽい人間になると、『嫉妬学』で和田秀樹は述べている。僕もそう思う。

「校舎」という場所できっかけを、子どもはもらっていく。
それは先生が出す宿題ではない。
「校舎」の外で出会う先生や友達、お父さんお母さんと一緒になって取り組まないと解けない宿題だ。

子どもだけではむずかしい。
お母さんと子どもでも難しい。
お母さんと子どもとお父さんでもむずかしい。
そこに別の誰かが入ったらどうなるだろう?

オトノネはそういう場所です。

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