ことはじめ

棺桶の中で暮らしているようだ。

好き勝手にだらだらと、気ままに暮らしているようで、塵や灰に埋もれているような息苦しさだ。

これまでに「とても苦しそう」だと言われたことが2回ある。

このまま苦し紛れに暮らしていくことに、どうも私は嫌気を覚えている。

どうしたものか、この嫌気というものを。

 

好きなことをやれ。

と人はいう。

かつて私にもそういう時期があった。知りたい、と思っていたことがあった。

例えば音の伝播。空気中を飛び回っている分子がぶつかって音が伝わるという。

果たして「音」の情報がそんなことで正しく伝わるものだろうか。「波」は互いに干渉しないというが、それを伝える媒体である分子は「波」ではない。衝突し、向きを変え、速度も変わってしまうのではないか。これをとある質問サイトに投稿したところ、「全方向に同じように動いているのだから、その動きを平均化すると0になる」というような答えがあった。なるほど。

 

例えば人間の聴覚。ある一瞬、網膜に空気の圧がかかる。その一瞬にかかる「圧」はたった一つの値を取る。

しかし、蝸牛(かぎゅう)ではそれが幾つものことなる「波長」として識別される。

鼓膜に加えられた圧がツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨を経て、一つの値がいくつもの値に識別されるというのは、不思議なことだ。しかし実際に、スピーカーは一つの膜から様々な音を出す。

時間差が30msより小さいと同じ音として知覚されるということらしい(https://akita-pu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=482&item_no=1&attribute_id=20&file_no=1)。仮にこれを正しいとする。

1000Hzの音波なら0.34mの波長を持つ。音速を340m/sとすれば、30ms(0.03秒)で10.2m分の情報がある。そこには1000Hzの波が3個含まれている、ということ。この程度の情報があれば、複雑な「音波」の集まりも人間の脳は「波長」に分解できるらしい。

そんなことができるのか。人間は自動的にフーリエ変換をしている、ということになる。蝸牛は場所に応じて波長への敏感性がことなるという。水の中の毛の揺れによって、電気信号が生じて、音の波長が知覚される。これは不思議だ。他の動物も、同じことをしているのだろうか。おそらく、同じではないだろう。少なくとも、世界を切り取る方法は異なっているはずだ。

取り止めもなく浮かんでくる考えに答えを出そうとして頭を動かすことの快感。ドーパミンがどばーっと出てくる。

しかし今はそれを虚しく思う。

虚しくもあり、寂しくもあり、ココロモトナイ。

 

ココロボソクなってしまった。

 

どうしてココロボソクなったのか。

結局は生命の神秘であり、受け入れるしかないからだろうか。

ただただ、寂しくなったからかもしれない。

話をする仲間がいれば、この刺激は快感として喜ばしいものであり続けたかもしれない。

今、知りたい、と思うことはなくなった。もう色々と知ってしまったからだろうか、わからない。

息苦しさは、変わらない。

若い時に息苦しさを紛らわせるために走り続けてきた。

今は走っていない。だから余計に、紛らさせるものがないから、苦しいのだろう。

 

 

僕は今、人の中で安心したい、人の中で暮らしたいと感じる。

不安を紛らわすために、と言っていいだろう。

渇望のようなドロドロした感情と一緒くたになっている。

それをアイデンティティーと呼んでもいい。

 

かつて、僕は韓国の劇団でブイブイ言わせていた。舞台音楽を作って、それが稽古場に流れ、劇場で流れ、俳優たちの演技を演出することの「気持ちが良かった」。もしその音楽が認められなかったら、気持ちが悪かっただろうし、作りもしなかっただろう。韓国ではたまたま見つけてもらえた。日本では、見つけてもらえなかった、ということだろうか。

 

「好きなこと」が一人ではできない、という弱さが僕にはある。

自分が自分の機嫌を取れない、という弱さが僕にはある。

これはもうおしゃべりをすることで安心感を得るのと同じだ。

 

それでも、いい。

棺桶から出て行きたいと思う。

暗い一人きりの小さな部屋から。

 

 

「一緒に遊ぼうよ」

 

その一言を、どこに向かって発したらいいのか。

 

「ねぇ、みてみて」

 

その一言を、どこに向かって発したらいいのか。

どんな遊びに誘うのか。

何を見て欲しいのか。

 

手っ取り早いのが、仕事をもらうこと。

 

そうでなければ?

僕には見栄がある。「したくないこと」がある。

どうにも人と一緒にいると気持ちが悪くなることがある。

これを僕は見栄という。

 

恐れともいう。

 

僕は徹底的に人との関わりを恐れている。

苦行である。

逃げたい。

 

棺桶の中に。

 

 

息の修行を始めたのは、もともと、「声がひどい」ことから始まった。

ただただ、自分のために、修行していた。その過程で、作曲家として役割を得た。

それでも、息苦しさは続いている。生き方が変わっていない。

 

女だよ。

 

と、誰かがいった。

欠陥を持っている人間が、一人で生きるのは大変なことだ、という意味合いで語られた言葉だと覚えている。

 

どうにもままならない。

 

どパー

 

 

僕が韓国で見つけてもらったように、僕が誰かを見つけることはできるだろうか。

 

ダラダラと何かを書いてみよう。

 

ーーー

 

朗読とか、声優とか、俳優とか、ナレーションとか、そういった職業

演じる、という点では、サービス業、接客業とは変わらない。

ストーリーを伝える。

伝えたい情報を伝える。

観客を喜ばせる。

それだけなら、飲食業でも、Youtuberでも、はたまた親という役回りでも、誰もがこなす役割だ。

そして、どんな役回りだとしても、熟練している人とそうでない人がいる。

 

私は、依頼されればプロだと思っている。しかし専門家は少ない。経験者は多い。しかし熟練者は少ない。

どうしたものか?熟練した人はよくて、ただの経験者はよくないのか?

 

演出家と俳優の関係を見てみよう。

アニメであれば、「この間にこのセリフを言う」と言うことが決められているのではないか、と思う。本当かどうか分からないが。決められた時間な中で、与えられたセリフを言う。そこに声優の選択の余地はない。また、声優が声を使うにしても、「思考」をせずにセリフをなぞるだけの声が多い。それこそ、「ゆっくり」で代用しても良さそうだと思えてしまう。今なら、音声合成技術によって機械にセリフを発音させることができる。

演出家は、そんな声優を求めているのだろうか。声優を売り出すために、もしくは話題のために売れている声優を起用するなど。

 

不自由な声が世の中に溢れている。声優の声よりも、近くのお店の定員さんの方がいい声をしている、と言うこともざらにある。「いい声」が何なのか。それが問題だ。それが、演出家によって異なる。製作者、監督の考えによって、声優は起用される。

 

朗読の動画を見てみよう。

朗読で感動することがあるだろうか。

理由は分からなくていい。感動することができる場面に、どれだけ出会えるだろう。

「とある有名な俳優が読んでいる」ではない。「全体としてよかった」ではない。長い長いストーリーの中で、俳優はある一点に向かって、終幕に向かって言葉を、行為を積み上げていく。その過程で、忘れ去られることのない記憶を一つでも観客に残せなかったら、その俳優は「何もできなかった」と考えてみたらどうだろう。たった一つの場面、シーン、カット、セリフ、なんでも良い。もしセリフが記憶に残らないなら、その言葉は、届かなかったと思えばいい。

 

どうだろう。セリフが記憶に残ることが、あるだろうか。

 

別の尺度でもいいかもしれない。「リピーター」が「たくさん」いれば、熟練者だと。

 

採点をするように、朗読者をみてみると、どうなるか。

「ここはダメだな」と思う箇所など、聞き手が違えばその人数だけ出てくるものだ。だとしたら?

その基準を自分で作るしかない。

その基準で自分を作るしかない。

 

そして、経験者が生まれる。

熟練することに基準を見出せない人が多いからだ、と私は思う。

熟練するかどうかは、気にならない、評価されないのだ。

 

では、熟練するとは?

 

「思考」することだと私は定義づけよう。

そしてその「思考」を現実にする技術を持つことだと、定義づけよう。

 

その思考の深さ、技術の高さがただの経験者と只者ならぬ熟練者の違いを生む。

 

「あなたはこのセリフを読むとき、何を考えましたか」

「なぜあなたは今そのようにセリフを読んだのですか」

 

声の出し方、声の選び方、表現に正解不正解はない。

ただ、強いものと弱いものがある、と、岡本太郎なら言うだろう。

 

幽霊が見えない人に幽霊の話をしても分からないように、声の違いを聞き取れない人に声の違いについて語ることはできない。そのような絶望感の中で、熟練になる方法は少ない。模倣し続けること。そのために、身体をモニターリングすること。この点、俳優は職業ではなく、生き方である。

 

シナリオライター、脚本家、戯曲家と呼ばれる人たちもいる。彼らは演出家と同じくらいに、責任のある仕事をしている。どのような責任か。人の心をより強く作り上げる責任である。演出家は素晴らしいシナリオを破壊しうる。俳優も同様だ。逆に、素晴らしい演出家は力のない台本を作り替えることで力を与える(古典を現代に復活させるという状況もある)。

 

私が日本の舞台芸術に失望しているのはどうしてか。

面白くないからである。

感動しないからである。

金儲けだよ、と言うメッセージが強く出ている。

 

「また見に来たいな」とは思えない。

 

考えてみれば、芝居は下賤の仕事であるのが日本の歴史。それが銀幕というテクノロジーを経て、歌手という媒体を得て、テレビという文化を経て、なんとかその形式がたもたれているに過ぎない。素晴らしい舞台俳優は日本にもいる。けれども、その俳優を迎え入れる人々は、何を「考えて」いるだろうか。そんな呪いのような言葉しか私には吐けない。それほど、熟練者は少ない。熟練者とは、「考える」者のことだと言ってもいい。

 

「考えて」話す。

「考えながら」話す。

 

たったそれだけのことができないほど、人の世界は息苦しくなったと言ってしまおうか。

心が育っていない人の中で暮らすには、心を守る仕組みがあったらいい。

私には、どうやらそれがないようだ。

 

これだから、私は、棺桶の中で暮らしているのか。

そんな言い訳をして、気持ち良くなって、死んでいくのか。

 

 

 

遊んでも、面白くないと、私は決めつけている。

その世界観が、私の世界を暗く、狭く、息苦しくしているのだろうに。