明治学院大学心理学部の小論文解答例【筆者の主張を「踏み越える」】
明治学院大学・心理学部・教育発達学科
課題文
問題 次の文章を読み、後の問いに答えなさい。
子どもたちは無力である。それゆえに、子どもは、まずおとなによって「守られるべき存在」であり、同時に、「将来」生きていくのに必要な力をひとつひとつ身につけていく存在」であると、一般には考えられている。
現に、昨今は、子どもが被害者になる大きな事件が起きるつど、「子どもを守れ」という声がさかんに交わされ、また一 方で、子どもたちの学力低下が騒がれて、「基礎学力をつけ、生きる力をつけよう」という声が学校を大きくおおっている。 この二つは、いずれもその表面だけ見れば正論で、異論の余地などないように見える。しかし、その背後で、考えなければ ならない裏面の問題が見逃されている。
《守る―守られる》という人間の自然 子どもは、たしかに弱い存在で、しばしばおとなの保護なしに生きられない。しかし子どもはただただ弱いだけでもなけ れば、ひたすら守られなければならないわけでもない。そもそももっぱら守られるだけの存在から、二十歳で突然におとな になって、独り立ちするなどということはありえない。
裏返して言えば、どんな小さな子どもでも、ときには守ることをやめて、子どもに任さなければならないことがある。そ のなかで子どもは、自分の生活を自分の力で切り開く。いや、子ども自身が、年下の子どもたちや自分より弱い人たちと出 会って、その人たちを守らなければならないことだってある。それは生き物としての人間が、その育ちのなかで予定されて いる一つの自然であると言ってよい。(後略)
自分の力で人を喜ばせて喜ぶ生き物 人間というのは奇妙な生き物である。自分の力を使って自分の利益になることを行い、それがうまくいけば嬉しいという のは、個体が生き残っていくために当然のことだが、自分の力を使って何かをやって、他者、とりわけ身近な他者が喜んでくれると、それがまた嬉しい。そういう生き物である。これもまた人間の自然であって、ほかの生き物にはあまり例がな
い。思えば、親が子どもを喜ばせようと、美味しいものを食べさせたり、面白いおもちゃを買いあたえたりすること自体 が、この人間的な喜びようの典型である。子どもの笑顔を見たい親たちにとって、子どもを守ることそのものが子育ての喜 びとなる。教師もまた、子どもの喜ぶ姿を見ることを教育の喜びにしている。では、子どもの方はどうなのだろうか。
子どもたちが周囲から守られて、喜びをあたえられる機会は、昔に比べて圧倒的に増えている。逆に、何かを任されて、 相手を喜ばせる機会や体験を、いまの子どもたちはどれくらい味わっているだろうか。まだ社会全体が貧しくて、子どもが 一人の生活者として働かなければ家が回っていかなかった時代には、子どもたちは否応なくそうした体験を味わった。子ど もが働くのが当然というなかでは、親が誉めてくれるわけでも、喜びをおもてに表してくれるわけでもないのだが、それで も子どものなかには、自分が役立っているという感覚が確実にあって、それが生活者としての子どもの自信となった。 (中略) しかし、今日のように経済的に豊かな社会になって、生活のほとんどが貨幣でまかなわれるようになると、子どもに頼 り、子どもに任せる領域がどんどんと減ってくる。それにつれて、子どもたちは自分の力を使って役立つ機会を失い、結果 として子どもは〈ひたすら守られる存在〉にされてきた。
「子どもを守れ」というのは当然のことである。しかしおとなたちが善意で子どもたちを〈ひたすら守る〉とき、それは かえって子どもたちから、相手に役立ち、相手を喜ばせて喜ぶという人間の自然を奪うことになる。子どもに対する、この 善意に基づくある種の錯覚に、私たちはどこまで気づいているだろうか。
身につけた力を使って生きる 子どもは守られるなかで、将来必要になる力をひとつひとつ身につけていくという、後者の論点に、話を移そう。ここに は一つ目の論点とも絡んで、じつはもっと大きな錯覚が含まれている。
人間はきわめて無力な存在としてその人生をはじめる一方で、おとなになった人間は、他の生き物とは比べ物にならないほど複雑な力を蓄えている。とりわけ近代以降、身の回りのおとなたちの生き方、働き方を見習いながら力を身につけてい くというのでは追いつかないほど、求められる力が高度化している。それは質、量とも膨大なものである。だからこそ近代 国民国家の登場とともに、どの国でも学校制度が導入され、そこで子どもたちは「将来必要になる力をひとつひとつ身につ けていく」ことを求められるようになった。
これまた先の「子どもは守られなければならない」というのと同様、あまりに自明なことであるように見える。しかし ちょっと角度を変えてみれば、ここにも素朴な疑問が浮かび上がる。つまり、子どもたちがその育ちの過程で、いろいろな 力を身につけなければならないのは、そもそも何のためなのか。答えはもちろん、身につけた力を使って生きるためだとい うことになるはずだが、ここのところにしばしば大きな歪みが人り込む。
発達というのは、素朴に言えば、新たな力を身につけていくことである。そして身につけた力は、本来、たったいま生き ている自らの生活世界のなかで使うものであって、将来のために貯めておくものではない。たとえば一歳の子どもが這い這 いから、やがて歩く力を身につけていけば、その歩く力を使って、それまで自分の手にとどかなかったものに近づき、それ を手に入れることができる。あるいは自分の足で歩いて外に遊びに行くことも、近所の友だちに会いに行くことも、母親と 一緒に買い物に行くこともできる。そうして歩く力でもって、その目の前に歩行の世界が広がる。あるいはことばの力が身 につけば、そのことばを使って身の回りの人たちと、互いの思いを交わし合うコミュニケーションの世界が広がり、ことば で語る物語の世界が広がる。力を身につけるということは、そこにその力を使って生きる新たな世界が広がるということに ほかならない。
(中略)
子どもが学校で身につけた力は、どこでどのように使われるのか 学校で身につける力の多くは、「たったいま」ではなく「将来」必要になる力として位置づけられている。つまり、おとなになって職を得て、お金を稼ぐために、一定の能力・技能・知識を身につけていなければならない。それが小学校、中学 校、高校、大学、大学院という学校システムの上に順次積み上げられる。そうして「将来」に照準を合わせたところで必要 になる力が、節目節目で、どこまで身についたか、試験で確かめられる。
ここのところで力と生活との間に、ある倒錯が忍び込む。たとえば現代の国際化社会を生き抜くためには英語での読み書 き、会話くらいはできなければということで、中学校から英語教育がなされ、これが中等教育の重要な位置を占めてきた。 いまはさらに小学校段階で英語に慣れ親しむ機会を持ち込もうとしている。そうして子どもたちが、「将来」必要になる大 事な力として熱心に英語を学ぶ。ところが十年ほどもそうした学習を重ねたあげく、いよいよ問題のその将来になってみれ ば、この力を生活のなかで使いこなせるおとなは、数えるほどしかいない。それもそのはず、いくら将来のためにと言って 身につけたつもりでいても、その力は試験に使うだけ、生活のなかで使われることがない。生活のなかで使われない力が、 生活に根を下ろすはずがない。
リハビリの世界で「廃用の原則」として言われるとおり、使われない力は衰える。教室でただ身につけて試験で発揮した だけの力は、その試験という「用」が終わったところで、ただちに剥がれ落ちる。じっさい高校入試、大学入試で膨大な量 の知識・技能を覚えたはずなのに、それが終わって一年もすれば、その大半が身から剥落しているのに気づく。
この倒錯は、私たちにとってあまりにお馴染みで、これをもはや倒錯とさえ意識しなくなっている。しかし制度の枠のなかで正当化されてはいても、なお倒錯であることに違いはない。
(浜田寿美男『子ども学序説』 ※一部改変あり)
設問
問 – 著者は、「子どもたちは無力な存在である。それゆえに、子どもは、まずおとなによって『守られるべき存在』であ る」とする考え方について、何が問題だと主張しているのか、100字以上、二○○字以内で述べなさい。
問二 著者は、子どもたちを「将来生きていくのに必要な力をひとつひとつ身につけていく存在」であるとする考え方につ いて、何が問題だと主張しているのか、二○○字以上、三〇〇字以内で述べなさい。
問三問一、問二で取り上げた著者の主張に対して、あなた自身はどのように考えるか、あなたの考えを五〇〇字以上、 六〇〇字以内で述べなさい。
おとのねさんの解答プロセス
明治学院大学【筆者の完全無欠の主張を「踏み越える」】
表面の問題
筆者の伝えたいこと:
「子供を守れ」=善意に基づく倒錯
ひたすら守られる存在であることで
自分の生活を自分の力で切り開く存在として、誰かを喜ばせる存在としての自信がなくなる。
背景;生活のほとんどが貨幣でまかなわれるようになった。任せる領域がなくなった。
「生きる力をつけよう」=もっと大きな錯覚
生きる力の目的は「今」生活するため(その力を使って生きる新たな世界が広げること)であるが、
「将来」の「用」のための力だと錯覚されている。
背景:学校教育
裏面の問題
子供自身が年板の子供達や自分より弱い人たちと出会って、その人たちを守ること
人間の自然
自分の力を使って何かやって、他人が喜んでくれると嬉しい。
善意に基づくある種の錯覚
子供を喜ばせようとすること。
与えられる喜び=ひたすら守られる存在
相手を喜ばせて喜ぶ人間の自然
何かを任されて自分が役立っていると感じること。
生活者としての子どもの自信
もっと大きな錯覚←誤解されていること=裏面の問題
身につけた力はたったいま生きている自らの生活世界の中で使うものであって、将来のために貯めておくものではない。
将来のためー学校(試験に使うだけ、生活の中で使われることがない)「用」
生活の中で使われない力
解答例
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問1:
子どもはおとなの保護なしに生きられないという理由でおとなが善意によって子どもをひたすら守ることや、子どもに喜びを味合わせたいために喜びを与えることが、かえって子どもから自分の生活を自分の力で切り開く体験を奪い、生活者としての自信を子どもから失わせるのと同時に、相手の役に立ち、相手を喜ばせて喜ぶという人間の自然を子どもから奪っていること。守ることをやめて、子どもに任せなければならないことがあるにも関わらず、子供を守ることそのものを子育ての喜びであると錯覚していること。
(削除)経済的に豊かになったことで、おとなが子どもに頼り子供に任せる領域が昔と比べて減っており、更に
問2:
力を身につけるということは、子どもが生きている今この世界でその力を使って新たな世界を「たった今」広げることであるにもかかわらず、学校で身につける力は「将来」に照準を合わせているために身につくことなく剥がれ落ちる。子どもたちが学校で身につける力は「将来」の試験に使われるだけであり、「将来」になっても生活の中で使われることがないにもかからわず、おとなは学校で身につける力の多くが「生きる力」であると錯覚していることすら意識しなくなっていること。
(削除)近代以降、生活するために求められる力が高度化し、質と量も膨大なものになっているにも関わらず、
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問3:
問いの解釈「踏み込」んでね。
筆者の主張は「倒錯している」
著者の主張に「対して」ー「踏まえて」でいいの?
《表明》「伝えたいこと」
親と教師の不安と自己欺瞞によって子どもたちの自然な発達が阻害されているという観点からこの理由を分析し、子どもの自然な発達を守る方法を論じる。
《本文》「伝える」
親は不安のせいで子どもの自然な発達を見守ることができない。テレビや新聞、インターネットのニュースをみれば、全国のニュースが写真や活字で子どもに関わる犯罪や事故が印象付けられ親は不安する。失業・貧困・格差・借金・学歴・成功といった言葉によって親は将来への不安を無意識のうちに蓄えてしまう。
親は自己欺瞞のせいで子どもの自然を見守ることができない。子どもが褒められることを誇りにして子どもを自立させない親がいる。親が自分自身の欲求を満たすことで夢中になり、自分が嬉しいと感じることは子どもも嬉しいと感じると勘違いをする親もいる。
教師は不安のせいで子どもの自然な発達を見守ることができない。不安する親から「将来」のための知識技術を身につけさせるようにとクレームがきたらどうするか不安である。
教師は自己欺瞞のせいで子どもの自然を見守ることができない。「将来」のための知識・技術を身につけさせるためにつくられた学校のシステムを変えようと声を上げれば村八分に合うため、現状に踏みとどまるという自己欺瞞に陥っている。
《メッセージ》
親や教師の不安と自己欺瞞から子どもを守るためには、親や教師を変える必要がある。そのためには、「たったいま」必要になる力を今身につけていくための親と教師のための「学校」が必要になる。私はその「学校」の教師になりたい。
ーーー
(削除)
家庭では親が子どもを守ることに傾倒し、子どもは生活するための力を奪われている。と同時に、学校では教師が試験のための知識・技能を覚えさせることに傾倒し、子どもは暮らしの中で役立つ力をつけることができない。
・過保護ー親
問:親はどうして過保護になるのか。
・全国の凶悪犯罪や事故が集められるメディアに触れること。
・自己嫌悪によって、子どもを自分の一部とみなし自立させないこと。
守る喜び、喜ばせる喜び。
・社会的に子育てを助けてくれる人がいないために責任を感じている。
・子供が失敗したら責めてくる狂った人がいる
遊んで喧嘩になると、親が出てくる。親がめんどくさい。
・過干渉ー学校
問:学校はどうして「いまここ」の生活のための力ではなく、「将来」に向けられた剥がれ落ちていく力をつけさせようとするのか。
・情報処理能力が高い子を選別するという機能を実際に目的として背負っている。
・学校の教師が「いまここ」で生活するための力をもっていない。
・何かすると親からクレームが来る。
・決められたことしかしない。びくびくしている。神経症。
ポイント
筆者の「伝えたいこと」を抽象化して再定義する。
過保護と過干渉が子どもの「生きる力」を奪っている。
私の「伝えたいこと」は?(自分の言葉に置き換える:抽象化により考えるためのスペースが脳にできる)
親と学校の病理を分析する。原因を、現象を正しく認識しよう。
「取り組み」を述べることは不毛??
自分の言葉を使わないのは苦しい「踏まえる」こと(共通認識)の限界がある。
伝えたいことがあればあるほど制限を感じる。
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