【褒める】子供の褒め方とマインドセットとアンダーマイニング効果

【褒める】子育てして大丈夫?マインドセットとアンダーマイニング効果

褒めるのではなく、誰かの役に立ったこと。何かを成し遂げたことに気づいているよというメッセージを大事にしたい。

挑戦したことでもいい。

その子がいることに、その子がしたことに、気がついているよ。

存在しているよ。

一緒にいるよ。

楽しかったね。

頑張ったね。

 

一人にしない。

あなたがここにいることを知っているよ。

あなたのそばに、私がいるよ。

褒めるという言葉は、ただその気持ちのやさしさを漢字で表しただけかもしれない。

 

「ね、できたよ!」

「この嬉しい気持ち、どうしたらいいのかな?嬉しい気持ちでいていいの?」

一緒に喜べば、その気持ちを大事にしてくれるようになる。

笑い合える。

 

褒めるという言葉は、誰かを大事にする気持ちを漢字で表しただけかもしれない。

 

かけっこで負けて泣いている子。

頑張ったね

たくさん練習したね

一生懸命走ったね

泣いているときにも、包むことができる。

 

褒めるという言葉は、愛情のひとつの姿を漢字で表しただけかもしれない。

 

「褒」という漢字は、「懐に子どもを抱いてふくらむ様子を表す」そうです。しかも子どもはまだオムツをしているくらいの子を表しているそうです。

褒めるというのは、どうやら、にっこりと笑って、よろこびあう、ということだけではなく、ただありのままの「抱く」姿なのでしょう。「抱く」姿勢が、そのまま現れてくる言葉なのでしょう。

よく「褒めるといい」と書かれることがありませうが、大抵は大人が「過剰に評価」して逆に子どもの心をボロボロにしていることがあります。

にっこりと笑いかけて感情を包んであげるだけでも、褒めることになるのです。

子供の情緒面へのインパクトは、ゆりかごの頃からすでに始まっている。ハーバード大学の著 名な小児科医ブレイズルトンは、簡単なテストで乳幼児が周囲の世界をどう受けとめているかを 診断する。生後八ヶ月の子供に積み木を二個与え、「こうやってならべてみてね」と手本を示す のだ。ブレイズルトンによれば、希望に満ちた世界観を持ち自分の能力に自信を感じている子供 は、次のような反応を見せるという。

積み木をひとつ取り上げ、ちょっとなめてみて、髪の毛にこすりつけたりして、それからテ ーブルの下へぽとんと落とします。取ってくれるかどうか、こちらの反応を見ているので す。積み木を取ってやると、子供はようやく与えられた課題どおりにふたつの積み木をなら べます。そして、「ね、すごいでしょ!」と瞳を輝かせてこちらを見上げます。

こういう子供は周囲の人々から褒められ励まされて育っているので、人生でささやかなチャレ ンジに遭遇しても、きっと成功できるという自信を持っている。対照的に、冷酷で混乱した家 庭、あるいは子供に無関心な家庭で育った子供は、同じ課題を与えられても、はじめから失敗す るにちがいないと思い込んでいる様子を見せる。実際に積み木がうまくならべられないわけでは ない。実験者の指示は理解しているし、それに応えようとする協調性もある。しかし、たとえ課題がきちんとできたときでも、こういう子供は「ぼくなんかダメだ。ほら、やっぱり失敗した」 と言わんばかりの卑屈な表情を見せる、とブレイズルトンはいう。このタイプの子供は長ずるに したがって敗北主義的な人生観を抱き、教師から励まされることも注目されることも期待せず、 学校生活に楽しみを見いださず、やがて落伍してゆくことになる。

自信に満ちた楽観的な子供と失敗すると思い込んでいる子供のちがいは、生後二、三年で形成されはじめる。「子供が自信を養い、好奇心を育て、学ぶ楽しさを知り、限界を悟るうえで親の 対応がどれだけ大きく影響するか、親自身が自覚する必要がある」と、ブレイズルトンは述べている。このアドバイスの背景には、入学前に形成された情緒的特質が学校生活を順調に送れるか どうかを大幅に左右する、と指摘する多数の研究報告がある。第六章でもふれたように、四歳の時点で目の前のマシュマロに手を出さずにがまんする能力が、十四年後の大学進学適性試験で二 百十点の差となってあらわれるのだ。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.292)

褒めるとは、優しく包むこと:ケジメも褒めることと同じ

大人ができないことを子どもができるようになることはないでしょう。少なからず誰かの真似をして、EQを高めます。

情動的に知的な親はどんな親か、今までの記事で理解してもらえたとおもいます。

自分が使っている「情動の知性」を自覚して、それを伝えていく、自分の心が目の前で情動を抱いている、それにどう関わるか、という気持ちでいてほしいとおもいます。

子どもたちは0歳から、情動の知性を、知らず知らずにお母さんから学んでいるのです。

情緒面で賢明でない親は、次の三タイプに大別できる。

子供の気持ちを一切無視する。このタイプの親は、子供の心の動揺を取るに足らぬこと・面倒 なことと受けとめ、動揺が消えるまで放っておくしかないと考える。子供が動揺したような場面 を子供の心に近づく好機として、あるいは子供に情動教育をする機会として生かすことができない。

放任しすぎる。このタイプの親は子供が動揺していることに気づいてはいるが、それにどう対 処するかは(たとえ相手を殴るような行動に出たとしても)子供の自由だと考えている。子供の 情動反応を無視する親と同じく、子供の情動反応を放任しすぎる親も、子供に望ましい情動反応 を教えるところまで踏みこもうとしない。子供が動揺したらとにかく慰めればよいと考え、悲しみや怒りなどの表出を止めさせるために子供と交換条件の取引をしたりする。

子供の気持ちを尊重せずバカにする。このタイプの親は子供のやることなすことに不満で、厳 しく批判し厳しく処罰する。たとえば、子供に怒りの感情を表わすことを一切禁じたりする。そ して、子供が少しでもいらついたそぶりを見せようものなら厳しく罰する。こういう親は、子供 が自分の言い分を主張しようとすると、怒って「口ごたえするんじゃない!」と一喝するタイプだ。

「子供が動揺した場面をとらえて情緒面のコーチ役をはたそうと努力する親も、もちろんいる。 こういう親は子供の感情をまじめに受けとめ、動揺の原因を突きとめようとする(「トミーがひどいことを言ったから怒ってるの?」)。そして、心の動揺を静める建設的な方法を子供と一緒に 考えてやる(「じゃあトミーを殴ったりしないで、しばらくひとりで遊んだら?そのうち仲な おりする気になれるかもしれないから」)。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.290)

感じ方も自由だ、それにどう対処するかも自由だ、と子どもに任せていたら、子どもは情動的な知性を学ぶ機会を失います。

学校から情動的な問題を「抱えて」家に帰ってくる子どもたちに、宿題をしている暇はない???

褒めることは、「知」を子どもと一緒に包むこと。

ある日、研究に参加してくれる生徒たちにしなやかマインドセットについて説明していると、 突如、ジミーという、どうにも無気力で投げやりな生徒が目に涙を浮かべてこう言ったのだ。 「ぼくはバカだと決まったわけじゃないんだね」

その日を境にしてジミーはがらりと変わった。夜遅くまで宿題と格闘するなんて、生まれて 初めてのこと。そうやってきちんと早めに宿題を提出するようになったので、返されてから間 違いを見直すこともできるようになり、ジミーはめざましい進歩をとげた。それまでジミーは、 必死に頑張らないとついて行けないのは恥ずかしいことだと思っていたのだが、頭はそうやっ て賢くしていくものだとわかったのだ。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.82)

「褒め」なくても、「褒め」になる。

ときには、子どもが自分で自分を値踏みしてレッテルを貼っていることがある。ギノットの 話にでてくる4歳の少年、フィリップは、父親と一緒に大工仕事をやっていて、うっかり釘を 床にばらまいてしまった。すまなそうに、父の顔を見て言った。

フィリップ:あーあ、ぼくってほんとにドジなんだ。

父:釘をばらまいたからって、そんなことを言うもんじゃない。

フィリップ:じゃあ、なんて言うの?

父:釘をばらまいちゃった。拾って集めよう。そう言えばいい。

フィリップ:それだけ?

父:それだけ。

フィリップ:ありがと、父さん。

(『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.266)

褒めて、殺してしまう可能性。親や教師が子供にかける「言葉」=「心」

「やればできる、自分にはそれだけの潜在能力があるのだから」という気にさせるにはどうす ればいいのだろう。「頑張ってみよう、自分にはそれだけの価値があるのだから」と思わせる にはどうすればいいのだろう。はめればいいのだろうか。 私たちの調査では、8割以上の親が、子どもに自信をつけさせて成績を伸ばすには、子どもの能力をほめる必要があると答えている。その考え方にはたしかに一理ある。

けれども本当にそれでいいのだろうか。これまで見てきたとおり、硬直マインドセットの子 はすでに、自分の能力に関心が向きすぎるくらい向いている。「自分は頭が良いだろうか」「賢 く見えるだろうか」と。もしここで能力をほめたら、ますますそこに関心が集中してしまうの ではないだろうか。「重要なのは能力があるかどうか」「成績から潜在能力までもわかる」とわざわざ告げているようなもの。それはとりもなおさず、硬直マインドセットを刷りこむことで はないだろうか。

この疑問に答えるべく、思春期初期の子どもたち数百人を対象に実験を行なった。まず生徒 全員に、非言語式知能検査のかなり難しい問題を10題やらせた。ほとんどの生徒がまずまずの 成績。終わった後ではめ言葉をかけた。 はめるにあたっては生徒を2つのグループに分け、一方のグループではその子の能力をはめた。「まあ、8問正解よ。よくできたわ。頭がいいのね」といったぐあい。そう言われた子ど もたちは、アダム・ゲッテルと同じく、有能というレッテルを貼られたことになる。

もう一方のグループでは、その子の努力をはめた。「まあ、8問正解よ。よくできたわ。頑 張ったのね」といったぐあい。自分には何か優れた才能があると思わせないように、問題を解 く努力をしたことだけをほめるようにした。 ・グループ分けをした時点では、両グループの成績はまったく等しかった。ところが、ほめる という行為をおこなった直後から、両グループの間に差が出はじめた。懸念されたとおり、能 力をほめられた生徒たち(〈能力群〉と呼ぶことにする)はたちまち、硬直マインドセットの行動 を示すようになったのだ。次に取り組む問題を選ばせると、新しい問題にチャレンジするのを 避けて、せっかくの学べるチャンスを逃してしまった。ボロを出して自分の能力が疑われるか もしれないことは、いっさいやりたがらなくなったのである。

努力をはめられた生徒たち(努力群〉と呼ぶことにする)は、その9割が、新しい問題にチャ レンジする方を選び、学べるチャンスを逃さなかった。

次に、生徒全員になかなか解けない難問を出した。〈能力群〉の生徒たちは、自分はちっと も頭が良くないと思うようになった。頭が良いから問題が解けたのだとすれば、解けないのは 頭が悪いからということになる。

〈努力群〉の生徒たちは、当然のように、なかなか解けないのだから「もっと頑張らなくち ゃ」と考えた。解けないことを失敗とは思わず、自分の頭が悪いからとも考えなかった。

ところで、生徒たちは問題を解くことを楽しいと感じていただろうか。問題がうまく解けた あとは、全員が楽しいと答えたが、難問を出されたあと、〈能力群〉の生徒たちは面白くない と答えるようになった。自分は頭が良いという評価が崩壊の危機に瀕しているときに、どうし て楽しいなんて思えるだろうか。 〈努力群〉の生徒たちは、難問を出されてもいやになったりせず、むしろ難しい問題の方が面 白いと答える子が多かった。 「では、問題の出来はどうだっただろうか。難問が出されてから、能力群〉の生徒の出来は ガクンと落ち、その後ふたたびやさしい問題が出されても成績は回復しなかった。自分の能力 に自信が持てなくなり、スタート時よりもさらに成績が落ちてしまったのだ。一方、〈努力群〉 の生徒の出来はどんどん良くなっていった。難問に挑戦したことでスキルに磨きがかかり、そ の後ふたたびやさしい問題が出されたときにはすらすら解けるようになっていた。

この調査は知能検査の問題を用いて行なっているので、能力をほめると生徒の知能が下がり、 努力をほめると生徒の知能が上がったことになる。 ところで、このほめ方の影響力の調査から、もうひとつショッキングな事実が明らかになった。生徒全員に「私たちはこれから他の学校に行きます。その学校の生徒に、どんな問題が出 たかを教えてあげてください」と言って紙を配った。その紙には自分の得点を書きこむ欄も作 っておいた。 「信じがたいことに、能力群〉の生徒の4割近くが、得点を高めに偽って書いていた。硬直 マインドセットの子にとっては、間違えるのは恥ずかしいことなのだ。頭が良いのなら、なお のこと。それで点数をごまかしたのである。「頭が良い」と言われると、普通の子どもでもウ ソをつくようになったことに不安を抱かざるをえない。

子どもに「あなたは頭が良い」と言ってしまうと、その子は自分を賢く見せようとして愚か なふるまいに出るようになる。私たちはそんなことを望んで「頭が良い」「優秀」「才能があ る」とほめるわけではない。子どもからチャレンジ精神を奪い、成功への道を閉ざしてしまお うなんて、そんなつもりは毛頭ない。けれども、実際にはそういう結果につながる危険をはら んでいるのである。 私の研究を読まれた方からお便りをいただいた。

ドゥエック先生

先生の論文を読むのはつらかった……まさに私のことが書かれていたからです。 子どものころ、私は英才児協会の会員で、いつも頭が良いとほめられていました。能力ヘの期待に応えられないまま、はや49歳。でもようやくひとつの仕事に打ち込めるようになてきました。失敗しても自分をダメな人間と決めつけず、それを糧にして技能を磨いて いけばよいのだということもわかってきました。新たな角度から自分を見られるようにな ったのは、先生のおかげです。

セス・アブラムズ

優秀な子というレッテルの落とし穴について述べてきたが、それにはまらないようにする方 法もある。   (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.92)

 

「偏見」をやり過ごす「プラス」への力をつくる

女子だからと、不正解にされてしまいました。どうも納得がいかず、論証の正し さを認めてくれない講師に不満を感じました。でも、仲間同士で励ましあい、斬新なアイデア を出しあっては議論したので、楽しく学ぶことができました」

ステレオタイプの見方をされて不愉快な思いはしても、それが疎外感や自信喪失につながる ことはなかった。一般通念をはね返すことができたのである。

ところが、硬直マインドセットの女子学生たちは、授業が進むにつれてますます帰属感が薄れていった。授業中に女子は数学が苦手だと思われているのを感じれば感じるほど、学習意欲 がしぼんでいった。

その理由について、ある学生はこう述べている。「授業で正解するといつも教授に『よく当 たったねえ』と言われるので、何だかバカにされている気がしました」 | マインドセットがこちこちだと、一般通念に引きずられて、自分はこんなものと思ってしま い、その結果、やる気や自信がそがれていったのだ。一般通念に引きずられる本人が悪いと言 うつもりはない。偏見は、根の深い社会的問題であり、その犠牲になっている人たちを責めよ うとは思わない。ただ、マインドセットがしなやかならば、周囲からどう見られていようとも、 それをありのままに認めた上で、自信や能力を損なうことなくその偏見に立ち向かっていくこ とができるのだ。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.102)

他人の評価から「心」を守るしくみ

女性の多くはステレオタイプの見方に影響されているだけでなく、他人の評価を真に受けや すいという欠点をも抱えている。

能力が高く、成績優秀な女性には、叩かれるとすぐにへこんでしまう人が多い。なぜだろう。 こうした女性たちほど幼い頃、だいたいがお利口さんで、みんなからほめられて育ってきた。 お行儀がいいわね、なんて可愛いんでしょう、よくお手伝いするのね、ものわかりのいい子だ、 等々。こうした女の子たちは他人の評価を疑うことを知らずに育つ。 「いつもみんながほめてくれるのだから、もし批判されたら、私が悪いにちがいない」と思っ てしまうのだ。米国の一流大学の女性たちでさえ、他人の評価は自分の能力をはかる良い目安 になる、と述べている。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.103)

自惚れさせ、成長を止めてしまう「誉れ」(ほまれ)

励ますつもりで子どもの頭の良さをはめていると、どんなことになるか。ある母親からの報 告を紹介しよう。

私の体験をお話しします。うちの小学5年生の息子はとても頭が良く、学校の算数、国語、 理科のテストはいつもほとんど満点なのですが、「自尊心」にどうも深刻な問題がありま す。夫は優秀な人なのですが、自分の両親に一度もほめてもらえなかった不満から、息子 のことをやたら「頭がいいね」とほめます。以前から私は、それが息子の問題の原因では なかろうかと思っています。学校の勉強では楽に良い点数がとれるのに、失敗を恐れて 難しい勉強や課題には手をつけようとしないのです。うぬぼればかり強く、(勉強にせよ運 動にせよ)やればみんなよりうまいんだと言いながら、実際にやってみようとはしません。 失敗したら立ち直れなくなるからでしょう。

コロンビア大学の私の研究室の学生も、子ども時代を振り返ってこう述べている。

頑張ったね、ではなく、頭がいいね、とほめられることが多かったように思います。その うちにだんだんと、でも着実に、難しい課題に挑戦するのを避けるようになっていきました。何かを学ぼうとするときに最大のネックとなったのは、まさにこの点―――つまり、成 績の良し悪しで自分の価値が決まってしまうかのように思いこみ、すぐ完璧にできること 以外には手を出さず、どうせくだらないことだとバカにしてかかることでした。

成長を励ます、「褒め」

子どもが何か素晴らしいことをしても、はめてはいけないのだろうか。はめたい気持ちをぐ っと抑えなければいけないのだろうか。そんなことはない。ただし、ある種のはめ方―知的 能力や才能を愛でるはめ方――だけは避けた方がいい。お父さんやお母さんは、自分がどれく らい頑張ったかではなく、自分の頭の良さや才能が自慢なんだ、と子どもに思わせるようなは め方はやめよう。

しなやかな観点に立ったはめ方はいくらでもある。うまい方法で粘りづよく勉強や練習を重 ねて何かを成しとげたことをはめればいい。また、問いかけの仕方を工夫すれば、子どもの努 力や選択を評価する気持ちを伝えることができる。 「今日はずいぶん長い時間、一生懸命に宿題をやってたな。集中して終わらせることができて えらいぞ」 「この絵、きれいな色をとてもたくさん使って描いたのね。色の使い方のことを話してくれるかな?」 「この作文には自分の考えがたくさん書いてあるね。シェークスピアが別の角度から見えてくるようだね」 「心をこめて弾いてくれて、ほんとうに嬉しいわ。ピアノを弾いているときってどんな気分?」

最近知って興味をそそられたのだが、子どもの研究に生涯をささげたハイム・ギノットもや はり、「ほめるときは、子ども自身の特性をではなく、努力して成しとげたことをほめるべき だ」という結論に達している。

ところで、わが子をほめるときは、しなやかな観点に立ったほめ言葉を心がけているのに、 よその子を批評するときの言い方で、それを台無しにしている者もいる。わが子の目の前で友 だちのことを「生まれつきの失敗者」「天才児」「頭の足りないおばかさん」などと評する親た ちである。自分の親がよその子にこちこちの評価をくだすのを聞かされていると、その子にも 硬直マインドセットが伝染してしまう。そして、こう思わずにはいられなくなる。次は自分の番か。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.256)

 

実践、「褒め」か「誉れ」か

テストや何かの発表を前にして緊張している子どもを安心させるには、どうすればいいだろ うか。この場合も、今までお話ししてきた考え方が当てはまる。つまり、頭が良いのだから、 才能があるのだからと言って子どもを励まそうとしても、逆効果にしかならない。ボロを出し たらどうしようかと、ますます不安な気持ちにさせてしまうからだ。 「クリスティーナはとても聡明な高校生なのだが、試験の結果は惨憺たるものだった。日ごろ からきちんと勉強し、内容をしっかり理解しているのに、試験になると緊張して頭が真っ白に なってしまうのだ。当然、成績は落ちて、先生を失望させ、両親をがっかりさせてしまう。自 分が志望する大学で特に重視されている大学入学資格試験が迫るにつれて、その傾向はひどく なるばかりだった。 「これまで、試験の前の晩になるといつも両親は、動揺しきっている娘の姿を見て、何とか自 信をつけさせようとした。「ほら、あなたは頭がいいってこと、自分でよくわかっているでし よ。私たちだってわかってるわ。絶対に大丈夫だから、もう心配するのはやめなさい」

両親はあの手この手で励まそうとするのだが、逆効果になるばかり。両親はどんな言い方を すればよかったのだろうか。

「自分がみんなから評価されているのに、自分の力をうまく出せないって思うとつらいわよね。 でもけっして、あなたを評価しようとしているわけじゃないのよ。私たちは、あなたが学んで 伸びていってくれることを願っているの。あなたがしっかり勉強してることはよくわかってる わ。こつこつと努力を続けているあなたを誇りに思っているのよ」

失敗したときにどんな言葉をかけるか

成功したときにはめるのは、それはど大変なことではない。失敗したときにどんな言葉をか けるかの方がはるかに難しい。子どもはすでにがっくり落ちこんで、傷つきやすくなっている かもしれないからだ。では次に、子どもが失敗したときに、親はどんなメッセージを送ればよ いかを考えてみよう。

失敗した時に、「知」を与えるしなやかマインドセットの厳しい言葉

9歳のエリザベスは、初めての体操競技会に向かうところだった。すらりとして、しなやか で、エネルギッシュなからだは体操選手にぴったりだったし、本人も体操が大好きだった。も ちろん、競技に出場することにちょっと不安はあったが、体操は得意なので、きっとうまくで きると思っていた。入賞してリボンをもらったら部屋のどこに飾ろうかしら、なんてことまで 考えていた。 最初の種目は床運動で、エリザベスは1番目に演技した。なかなか素晴らしい演技だったが、 途中で採点方法が変わったりして、入賞をのがしてしまった。他の種目でも健闘したが入賞に は手が届かず、結局、1日を終えてリボンをひとつももらえなかったエリザベスはすっかり落 ちこんでしまった。 あなたがエリザベスの父(母)親だったらどうするだろうか。

1おまえがいちばんうまいと思う、と言う。

2おまえがリボンをもらうべきなのに判定がおかしい、と言う。

3体操で勝とうが負けようがたいしたことではない、と慰める。

4おまえには才能があるのだから次はきっと入賞できる、と言う。

5おまえには入賞できるだけの力がなかったのだ、と言う。

今の社会では、子どもの自尊心を育むことの重要性ばかりが強調され、さかんに子どもを失 敗から守りなさいと言われる。そうすれば、そのときは子どもを落ちこませずにすむかもしれ ないが、長い目で見た場合には弊害が出てくるおそれがある。なぜだろう。 では、先ほどの5つの反応を、マインドセットの観点からとらえて、そこに潜むメッセージ に耳を傾けよう。

(おまえがいちばんうまいと思う)は、そもそも本心を偽っている。1位でないことは、あな た自身よくわかっているし、子どもだって知っている。こんな言葉をかけても、挫折から立ち 直ることもできなければ、上達することもできない。 

2(判定がおかしい)は、問題を他人のせいにしてしまっている。入賞できなかったのは本人 の演技に問題があったからで、審判のせいではない。わが子が、自分の落ち度を他人になすり つける人間になってもいいのだろうか。 

3(体操なんてたいしたことではない)は、少しやってみてうまくできないものは、バカにして かかることを教えている。子どもに伝えたいのはそんなメッセージだろうか。

4(おまえには才能がある)は、この5つの中でもっとも危険なメッセージかもしれない。才 能がありさえすれば、おのずと望むものに手が届くのだろうか。今回の競技会で入賞できなか ったエリザベスが、どうして次の試合で勝てるだろうか。

5(入賞できるだけの力がなかった)は、この状況で言うにはあまりに冷酷な言葉のようにも思 われる。あなたならそんなふうには言わないのではないだろうか。けれども、しなやかマイン ドセットのこの父親が娘に言ったのは、そういう趣旨のことだった。

実際にはこう言ったのだ。「エリザベス、気持ちはわかるよ。入賞めざして思いっきり演技 したのにダメだったんだから、そりゃ悔しいよな。でも、おまえにはまだ、それだけの力がなかったんだ。あそこには、おまえよりも長く体操をやってる子や、もっと懸命に頑張ってきた 子が大勢いたんだ。本気で勝ちたいと思うなら、それに向かって本気で努力しなくちゃな」 

父親はさらに、楽しむためだけに体操をやりたいのなら、それはそれでかまわないが、競技 会でみんなよりも優れた成績を取りたいのなら、もっと頑張る必要がある、ということもエリ ザベスに言って聞かせた。

その言葉を肝に銘じたエリザベスは、これまでよりもはるかに長い時間をかけて繰り返し繰 り返し練習し、特に苦手種目に力をいれて完璧に仕上げた。次の競技会には、その地区の3名 の女子が出場したが、エリザベスは種目別で5つのリボンを獲得したほか、総合優勝も果たし、 家に大きなトロフィーを持ち帰った。今ではもう、部屋の中がメダルやトロフィーやリボンで いっぱいで、壁が見えないほどだ。

つまり、エリザベスの父親は、娘に本当のことを告げただけでなく、失敗から何を学ぶべき か、将来成功を勝ち取るには何をしなくてはならないか、ということも教えたのである。気落 ちしている娘を深く思いやりながらも、まやかしのほめ言葉で慰めたりはしなかった。そんな ことをしても将来の失望を招くだけだからである。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.260)

愛の作法としての褒め『子どもの遊びは魔法の授業』ー価値観を伝える

子供のドリョックを褒めると、がんばりのきく子供になり、子供の頭の良さ(知能)を褒めると、諦めの早い子どもになる!ドゥエック教授とその同僚は、幼稚園児でさえ、「頭が良い」ことを褒められると、努力を褒められた時とは違った反応を示すことを発見した。彼らはレイチェルと同じように逆境に直面すると後ずさりし、建設的にふるまうことができないのだ。たった4歳の時点でさえ、一部の子供たちは困難に直面するとすぐに諦めるようになる。こうした子供は、レイチェルの人形とのやりとりからわかるように、ちょっとしたミスでガミガミ起こる親を持っている可能性が高い。それに対し、エリカのような子供は、子供に期待するにしても脳リョックに見合った期待をし、子どものドリョックを褒め、することを押し付けk流のではなく、子供に選択させる親をもっている可能性が高い。そういう親は「信頼感の厚い」親である。(p.286)

「信頼の厚い」親、「権威主義者」と並んで、再三のタイプに「甘やかす」親を挙げている。子供のすることを何でも褒め、偽りの自尊心を子供に植え付け、子供をダメにするタイプだという。

子どもは、母親とは違う気質をもって生まれてくることがよくあるのだという。
気の強いお母さんから気の弱い子どもが。。。だからお母さんが、子供と一緒に成長できる。 新しい生き方を子供と学べる!

母親の価値観と違う価値観をもっている人間が、今は子どもという姿で目の前にいる。何を考えているんだろう、「この人」は????

泣いている子をあやす行為の本質


この本に「子どもが圧倒されないように」と書いてある場所がみられる。いい言葉だなとおもう。対処不可能な状況になって圧倒される、押し倒される、圧力を受け流したり、圧力に対して強くなる前の状態で、対処できない刺激にさらされる(大人でも)子どもの様子が伝わってくる。

例えばあかちゃんが「泣く」のにどれだけ反応したらいいのか・・・泣くとひんぱんに反応をもらえる(抱き上げられる)赤ちゃんと、泣かせっぱなしにされた赤ん坊は、生後9ヶ月の終わりになると、どちらの赤ん坊の方が泣かなくなるか、という実験がある。

頻繁に反応をもらった赤ちゃんの方が、泣かなくなるそうだ。

「あ、やばいかも、呼ばなきゃ」という心配や不安な心を、抱き上げることで、緩めていく。「大丈夫、ちゃんとみてくれている」と安心できる。という解釈でいいのだろうか?

実は、泣かなくなる子は、泣く代わりに、欲しいものを指差したり、ブツブツ言ったり、おかあさんとアイコンタクトをとるなどの泣く以外のコミュニケーション能力が育っており、使っている。スキンシップで、赤ん坊の不快感を取り除きながら、赤ちゃんの発達に合わせてコミュニケーションを多様にしていく。泣いた時に、抱き上げるという行為が大切なのではなく、泣いた時に、母親は、抱きあげながら、あやしながら、コミュニケーションの仕方を教えていることになる。

感情に圧倒されず、感情を整える経験を積む、感情は抑えられるのだ!不快な状況も、(高い高いや優しい働きかけで)回復できるのだ!という大きな発見をする。不快なことがあったら??うまく遊べない仲間が近くにいるなら(月齢が違えばよくあることだが)、遠くで遊べばいい(みんなと仲良くなんてなれない)。逃げる、という戦術を学ぶ。怖い、うれしい、頭にくる!などの言葉を覚えれば、「泣く」「だききつく」だけに訴えない、大人になっても役立つ戦術が使える。適切な援助を他人に求めることもできる。

思い通りにいかない世界の中で、湧き出てくる感情をどうコントロールしたらいいか?自分を守ったらいいのか。小さい時に駄々をこねておもちゃ売り場で泣き叫ぶ子どもは赤ちゃんの時の方法をそのまま使っている。泣いたらなんとかなるとおもっている。だから大人は、「いや、もうその方法、やめたら?」という気持ちで、しらっとしていたらいいのかもしれない。もちろん、欲しいものがたいてい買い与えられる経験が積まれていなければ、おもちゃ売り場で泣きじゃくることもないとおもうのだが・・・

子育てをするお母さんへー厳しくすることと褒めること

厳しくすることと、褒めることは同じことだ。

どちらも、子どもを自立させる。

厳しくするとは、「しつける」のではなく、「知」を伝える真剣さを表す。

おとのねさんは最近、高岡の託児所で働いている。そこの保育士さんからコドモとの関わり合いを学んでいる。

「子どもは大人をちゃんとみている」という話だ。

簡単な話、実習で保育所にくる学生たちに、子どもたちはよく甘える。かわいがってくれるとわかっているからだ。別の話。人が変わると保育の方針も変わる。ある保育園では、かつて、厳しい先生がいた。「自分でやれ!自分であそべ!」みたいな、突き放すような、感じのする言葉で子どもを育てていた。その時に、入って来たばかりのとある先生が「もうちょっと甘えさせてあげてもいいのに・・・」と思ったという。が、別の先生が子どもにかまう、いろいろと手を出して、お世話をする保育方針に変えたとき、「もうちょっと甘えさせてあげてもいいのに・・・」と思っていた先生は「これは大変だ。子どもが大人にべたべただ!」と言ったという。子どもたちをお世話してあげないと、子どもらだけでは何もできなくなってしまったという。

子どもが泣くと、お母さんは抱っこする。「泣くと抱っこしてもらえる」ということを子どもは覚える。そんな関わり合いを続けて行くと、いつまでたっても(?)抱っこされることでしか〈欲求〉を処理できなくなる。というお話だ。

おとのねさんの実話。車道に出そうになって危ないのを、追いかけて捕まえる(そりゃ命に関わるからそうする)。それがゲームになってしまって、車道にわざと(?)出ようとしてしまう。(僕はそれでいつも頭がパニックになっている・・・)

おとのねさんは、やさしいからみんな好きなんだけどねー。と、先生はいってくれた。甘いのだ。僕ももっと大人になりたいなぁ。

一人で過ごせるように仕向けて行く。と、今僕が仕事をしている託児所の先生は話してくれた。手をかけてもいい、だけどバランスが大切。泣いたからといって、抱っこするのが「当たり前」なのではない。「しゃーないなー、もう、いい加減、一人でなんとかしてよね〜」といいながら、抱いてあげるような感覚だろうか。まだ僕はその感覚をつかめずにいる。

小さいからまだ無理だろう・・・とおもうことでも、「これくらいできてなんぼじゃ!」というような、大人に話すような〈語り口調〉で、子どもに伝えていく。子どもを抱きかかえる〈行為〉をしていたとしても、言葉で導いていく。気持ちを伝えていく。大丈夫だよ。できるようになるよと。

どうするかな・・・少し待ってから、「もう、ほんとに、手がかかるなぁ」と呆れた顔で、やさしく抱いてあげる。そんな感じだろうか。

「寝るときは寝なさい!」と、かどの尖った〈口調〉で伝えてもいい。それは「君がいま泣きながら何か不安になっているようだけど、それもひとりでなんとかできるようになるからね。欲しいからって、もらえるわけじゃないよ。世界とは、そういうものだよ」と伝えていることになる。

さて、褒めるということについてそろそろ・・・

「すごーい!」「かわいいー!」「たすかるわー!」「えらーい!」こういう言葉を使うとき〈口調〉は心地の良い響きとして子どもに伝わる。褒められることで、ある行いをしたとき、大人に「かわいがってもらえる」ことを学ぶ。要するに、望ましい行動とは、このようなものだということを伝えるために、褒めるのだ。「こういうときにはこうすると、かわいがってくれるん(認めてくれる)だな」というパターンを増やしていける。(本当に褒めるべきではない状況でなんでも褒めてしまう大人がいる)

前にも書いた通り、褒めるという行為は「よろこびあう」意味もある。「できたね。やったね!」という気持ちを子どもに跳ね返して、笑い合う。そういう褒めもある。けど今は、別の〈褒め〉の話をしていますよ。

褒めるという行為にはもう一つの働きがある。大人が誰かを褒めることで、褒められた子ども以外の子どもが、「何が望ましいのか?」を学べるのだ。誰かが〈望ましい行動〉をしてくれたときに、それを褒める。その言葉は他の子にも聞こえている。「あ、あの子は今あれしている。それで優しい声でありがとうといわれている。向かい合って、褒めてくれている」と観察して、学べる。(他の子を見て真似るための素地がないともちろん、効かないが)

〈褒める〉行為は一種のスキルのように僕は思う。むやみに褒めたらいけない。使うとき、使う場所をきちんと大人が判断したらいい。0歳から、子どもの自立は始まっている!

この〈褒め〉の技術は、思春期までは使えるかもしれない。かもしれない。いや、大人でも「ありがとう」といわれれば気持ちがいいものだ。けど褒めて褒めて、褒めて伸ばすのを大人でやったら、頭がおかしいと思われるだろうか(上司が部下をなんちゃらかんちゃらというハウツー本ででてきそうな話だ。褒めて、ノセて結果を出させる)。子どもを大人だとおもって、褒める時と場合を、選べるようになりたい。けど、褒めてもらえなかったら、手をかけてもらえなかったら何もできなくなるのでは、褒めて損をしたと、のちのち、感じるかもしれない。

「褒めて伸ばす」子育てはいいことか。外発的動機付けの弊害【アンダーマイニング効果】とは?

絵本とともに学ぶ発達と教育の心理学
悪いことではないでしょ!

好きだからやってできるようになるのが内発的動機といい、
「褒められて、煽てられて、煽られて」やるのは外発的動機という。

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蛇足1
伸ばそう、として褒めるのではなく、
がんばったね!やろうとしていたことが、できたね!という喜びの共有くらいがいい。
動機付け、「やらせよう!!!!」と意図して褒めるのは、僕の流儀ではない。

蛇足2
「すごい」とおもったら当然のように、感動は伝えるし、
「この子は、これがある」ということはもちろん伝える。
それは自分には見えない、その子の武器だし、魅力だし、磨いていくといいもの、自分を生かすものだから。
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さてその上で、褒める、「君はできる」「俺たちは強い!」「俺は海賊王になる!」とか言い聞かせて、もしくは言われて、思い込むといい結果がでる現象を、ピグマリオン効果という。神話に出てくる、望んで、望んで、欲しいものが得られたピグマリオンという人物の名前からこう言われています。いわゆる、「引き寄せの法則」というやつです。

で、この「褒め」や「賞賛」が逆に、もともとあった、内発的動機を剥ぎ取ってしまうケースもある。
それをアンダーマイニング効果と呼ぶそうです。

富山中部高校の生徒で「勉強は好きだけど、課題は嫌い」という子がいました。
その子は心を大切にしているから、勉強と課題を分けて考えられるのですね。

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親や教師(他者)が望むように言葉をかけるのは当然だ。
「自由に選びなよ」という言葉さえ「自由になればいい」という望みを言葉がけしているのだから。
(そうそう、自分で選べることは内発的動機を与える。自律性を高める。それは大切)

僕なら「しあわせになりなよ」というだろう。
「大切なものを大切にしてごらんよ」というだろう。
そのために世界をきちんとみたらいい、というだろう。
助けが必要なら求めてもいい、というだろう。

大人は、子どもに、願いをかけるのだ。
人は、人に、願いをかけながら暮らしている。
言葉は、チカラだ。

それを祈りともいう。

褒める?オダテル?囃し立てる?いやいや・・・

いつも反省会をしているotononeの代表。 インスタに勉強垢というフィールドがある。 「勉強みんなでがんばろうぜ!」という場所。 いやーみんながんばっている。 こういう姿をみると、勉強法とかなんとかいうのはほとんどどうでもよくて、本人の気持ち次第でなんとかなるような気もする。 それで変わる生徒もいるだろう。 気持ちがでてこない生徒もいるだろう。 出てこないわけがない。 ほとんど閉じかかっているかもしれない、チカラ(俗に言う褒めどころ)を見つけて、そこを集中的に使っていく。 気がつくチカラが、教師には試される。だから急いでカリキュラムをこなすような指導は、したくない。 だから、できるだけ早くotononeに来て欲しい。 でないと、他の塾と同じ作業になってしまいかねない。

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ

山本五十六の言葉。児童福祉施設を見学した時に、事務室に掛けてあった言葉だ。今ふと思い出した。 褒めるということは「できたね!」という感動、達成感を伝えることだ。オダテルことではない。 させてみて、ほめることができるだけの、課題の明確さと、スモールステップを作り出すこと。 「ああ、これでいいんだ!」と生徒が思えること。 いつも私は考えてしまう。 私自身を、まずは褒めてみるのも、いいかもしれないとおもう。教育とは、到達点のない、成長し続ける人間の営みなのだから。

褒めることは、子供をコントロールすることじゃない

よく「褒めて育てる」という言葉がある。

褒めるとは、なんぞや?

保育の現場によくあるのが、気持ちがこもっていない、「業務的な」褒め。

それで、子供が反応しなくても、業務的に褒め続ける大人たち。子供の反応みたらいいのに。。。子供が背中を向けていても褒める業務の徹底ぶり。喉が枯れる保育士がいるくらいだ。

子供がなにかをして、それでどうして大人はよろこぶんだろう?ほめるんだろう?

子供と、経験を味わうこと、だと私はおもっている。味わいながら、本当に楽しかったら一緒に楽しんだらいい、本当にうれしかったら、一緒にうれしんだらいい。「上手上手!」という言葉の意味よりも、言葉の使われ方が子供にとっては重要だ。

何か動作をしていて、それに大人が感動して「上手上手!」という時、身ぶりで、声で、子供のその行動を支えることができる。子供へのフィードバックをする。褒めるとは、積極的な言葉がけ、関わり合いのひとつだ。子供のあそびに参加することだ。

褒められたから、褒め言葉をかけてもらったから頑張る、という仕組みではない。観客から花束を投げられて「じゃぁもう一回!」とか「もっと!」と言われることは子供にとって大したことではない。すべてあそびなのだから。

褒めるということは、子供の遊びに、子供の活動に、大人が積極的に関わるということだ。

お手伝いをしてもらって、上手にできたら、「あらうまくできたわね。そしたら、こっちもやってもらおうかな」と、にこやかに喋るだけでも、それはとんでもなく大きな褒め言葉だといっていい。

「ねぇできたよ!」と満面の笑みで話してくる子に、褒めるという意識ではなく、「ああ、私は見ていなかったけど、時間をかけて、この子はつくったんだ、ん?なんだこれ?え?次なにするの!?(ワクワク)」といった心を、そのまま表して見たらどうだろうか。「褒めなきゃいけない」とおもったら、創造的な、感動的なドラマはでてこないんじゃないかなぁ。子どもは「ちぇっ、またそれか」とおもうようになるに違いない。

昔の、昔々のお母さんたちは、子どもをどんな風に褒めていただろうか。きっと、ゆっくりと、頭をなでながら、にこやかに、その子が「ねぇできたよ!」といってもってきてくれた気持ちを、体全体で、時間をかけて、目をかけ、手をかけ、心をつくして、受け止めたに違いない。子供の感動を、受け止めて、じっくり味わい返すだけでもいい。それが子供にとっては、「誉れ」の経験になる。「良い感情にひたりたい」気持ちだ。心があたたまる経験だ。ほめるの「ほ」はホムラの「ほ」。

自分の心を表し、相手に敬意を払い、全てを肯定すること。それが褒めることであり、子供にとっては誉れだろう。褒めるという行為が、褒めることではない。「あら、上手ね、で、片付けしたの?」と返したら、せっかくの気分が台無しだ。

 

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