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★スクール・バイオレンス

  1. 【学習障害?子どもの「心」の風景】子どもの「嵐」を受け止めて!
    1. 二次的な情緒の問題
    2. 子どもは葛藤している。
  2. 【ずっと小学生その2】学校に魔王がたくさんいるのはなぜか。
  3. 教えてはいけないこと
  4. 【オトノネ原論】学習障害・不登校は呪いの言葉?祈りの言葉?オトノネとは何か。
  5. 【人間疎外教育】お互いに無関心・無関係な「閉じた対(関係)」
    1. 子どもの発達要求を無視する関係
      1. 子どもの発達への意志(「命」)
    2. 「閉じた対」とは?
    3. 「無知」「無心」による目の前の「人間」への無関心
  6. 【学校で生き残ったいい先生のモデル】子どもの「命」を強くする大人の姿【能動的な身体の使用→思考の内面化=「心」の形成】
    1. 1)「大きい自分」を実感できる仲間づくり
    2. 2)集団のなかで育つ「自分」が発達を耕す
  7. 学校の先生は悪者か
  8. 【「命」を強める「心」のあり方】と「発達の段階」を無視した大人の暴力『発達相談室の窓から』
    1. 自らの障害を見つめ、受け入れる
    2. 「発達」は、子どもの一番の願い
      1. 成長を求めて止まない「命」
    3. 能動的に身体的が使用できる条件は何か?
    4. 次の発達へ向かう力
    5. 自分の場所・自分の時間(保健室)
  9. 子どもの暴力(「怒り・嫌悪」の表現)を肯定する大人の暴力におとのねさんが心いためちゃった件
  10. 公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費を概算して気が付いたこと「学校基本調査」
    1. まず下調べ
    2. 富山・石川は教育県ではない
    3. その3
  11. 高度経済成長期を夢見ながら産業革命(近代)の名残を残す化石のような教育を動かすもの。
  12. 学校教育とお父さんのイライラの関係
  13. 言葉の遅れ?言語遅滞?専門家・プロがいない日本でどうしたらいいか。

【学習障害?子どもの「心」の風景】子どもの「嵐」を受け止めて!

二次的な情緒の問題

私たちは、このような子どもたちとの関わりのなかで、学習のむずか しさだけではなく、いくつかの情緒的な問題に直面することになりまし た。たとえば、授業中大声を発する、友だちを突然殴る、イライラして 物を壊すなどの行動です。子どもによっては、場面緘黙、チック、吃音、 不登校などの神経症的症状を現すこともあります。このような傾向は、 おそらく障害の直接的現れというよりも、二次的に起こってくる問題と みるべきでしょう。発達の遅れをもちながら、それが軽度であるゆえに、 ほとんどの子どもたちが通常の学級に就学し、その集団で学校生活をお くることになっています。子どもの内的なものとそこでの対人関係、そ して学習課題の相互関係のなかで、強い葛藤が引きおこされているので しょう。

とくに小学校低学年は、自分のからだと手で遊びを広げ、むずかしい 運動や操作ができることによって、よき自己認識を獲得していくときで す。当然のことながらその過程では、「できない自分」を実感すること も多く、障害のない子どもたちでも、「こうありたい自分」と「そうな らない自分」の狭間で、葛藤することになります。そして、友だちのよ うにはできない自分にいらだつことも多いでしょう。そのとき、とくに からだや手の運動・操作に障害の現れる子どもたちは、なかなか発達し ない否定的な自分に向き合わなければなりません。その葛藤の持続が、 いくつかの情緒の問題を引き起こすことは、容易に推察できます。だか ら、そんな自分を受けとめていくことができるような人格形成の課題を 視野に入れた教育が求められることになるのです。(白石正久『発達相談室の窓から』p. 159)

 

子どもは葛藤している。

 

しげちゃんの左手には軽い マヒがあり、親指と人さし指が 内屈しやすく、ピンチ把握がで きませんでした。だから、積木 や描画の課題では、「門の模倣」 (写真)や「正方形模写」など の年齢相当の課題にむずかしさがありました。保育園でも、手を使っての遊びになると、誘うまで大好 きなトラックのおもちゃを転がしており、なかなかみんなのなかに入ろ うとしなかったそうです。言語認識は、「錘の比較」(二つの箱を提示し、 どちらが重いですかと問う)、4までの数の認識などを正答することがで き、顕著な遅れは見られませんでした。

就学の時点で、苦手だった正方形が描けるようになりました。しかし、 左手にとくに現れている「不器用さ」は消えず、たとえば右手では円を 書くことができても、左手では閉じる円になりにくいのです。数字はな んとか書けるようになっているのですが、自分の名前も含めて、字画の 多いひらがなには、書きたいのに上手に書けない苦しみをもっているよ うでした。両手の交互開閉という4歳レベルの手指の操作課題を課すと、 交互に2、3回開閉すると、すぐ同時開閉になってしまいました。そし て、「4数復唱」では、どうしても三数しか復唱できないのです。あきら かに、「2次元可逆操作」の獲得において、手指の操作や情報処理の力に、 部分的な弱さが見られました

その「不器用さ」を認識しているゆえに、たとえば正方形模写でも、 続けていくつか描くと、だんだん表現が小さく下手になっていってしま うのでした。私たちの発達診断では、単に書ける書けないという尺度だ けではなく、このように自分の活動の結果を見つめ、自分で修正してい こうとする力の育ちもみるようにしてきました。しげちゃんには、自分の表現をしっかり見つめ、「もっと上手に書いてみよう」という自分を 高める力が育っていなかったのです。その背景には、しげちゃんの自分 への自信のなさがありました。(白石正久『発達相談室の窓から』p. 161)

【ずっと小学生その2】学校に魔王がたくさんいるのはなぜか。

熱中する授業は「授業の原則」に貫かれている (教え方のプロ・向山洋一全集 31)

『熱中する授業は「授業の原則」に貫かれている (教え方のプロ・向山洋一全集 31)』 振り返っていままでに買った本を読んでいる。 この本は大学時代か、教員時代かに買ったもの。 当時、その意味というか、現場でどれくらい役立てられていたか・・・(書かれていることの重みが、わかっていなかっただろう) 僕は高校の教員免許だけしかもっていないので、小学生・中学生のクラスは持ったことがないのだが。 疑問はただひとつ。 なぜ、小学生中学生で習っているはずの事柄を、高校生が知らないのか。 これは現実であって、教師としての仕事を全うできていない教師が多いという何よりの証拠だ。 これは事実だ。 ーーー

ーーー 人間に対する不信感を抱いている子もいる。 それこそ、教師、学校に対する不信感を、敵意を抱いてくる子もいる。 小学校・中学校で何を学んだのか。 お母さんたちは、ご存知だろう。先生には当たり外れがあると。 当たりの先生は、人がいい、かもしれない。 それは知恵と技術を持った、愛ある先生なのか、それとも、ただ慈しみのある情ある先生なのか。 愛とはなにか 情のある先生に出会えただけでも救いだろう。 けれども、愛がなければ、教師としての知恵と技術がなければ、子どもは「先生から何も教われない」 だから、たまたま「できる」子が先生からかってに学んで、「できない」子は置いていかれる。 その結果が、中学、高校になって出てくる。 高校受験・大学受験のレベルも落ちて来ている。 これは、事実だ。 (ノートがかけずに、プリントの穴を埋める作業する高校生たち) (食べ物を自分で食べれず、流動食を流され続ける人とイメージを重ねない人はいないだろう) 人間の質は学ぶか否かにかかっていると僕は思う。 それはつまり、学び方を学ぶ、または「教えるべきこと」を教える教師の質にかかっている。 ーーー

ーーー 子どものためを思うなら、教師をやめるのも手だ。 自分が病気だ、ただ作業として授業をしている、喜びを感じない、子どもの成長を感じないとおもうなら、教師をやめたほうがいい。 給料のために子どもを食いつぶしていないか。 ひどいものだ。 テストの後、グループにして、点数を見せ合う。 そんな魔王が、学校という場所に存在しているという。 恐れ憎しみ悲しみを育てて、どうするつもりなのか。 (もちろん、できる子に優越感を持たせてもっと勉強させるためである。貧困を助長している) え?それで、励ましているつもりだって!? 身を落とすことを教えて、それを教師と言えるこの国がおかしい。 先生がいけないのではない。 先生という存在を生み出す仕組みが壊れているのだ。 ーー

ーーー 犯罪者は罰せられる。 犯罪者を生み出した社会は罰せられない。 この論理をとれば、多くの先生は犯罪者として罰されなくてはいけない。 だが、僕は先生を擁護したい。 ーー

ーー 学ぶという仕組みが、壊れている。 「生き残れれば、それでいい」レベルまで教師のレベルが落ちている。 それは、学校という組織のレベルが落ちたことが原因だ(昔から低かったから今こうなったといってもいい)。 そのしくみも、この国独自のものだ。 教員免許は、「いい子」にしていたら誰でも取れる。 西欧なら大学院、もっと研鑽を積んでからでないと、教師の資格はとれない。 また現場に立つまでに定期テスト対策的な「教育実習」では終わらない修行期間がある。 その間、きちんとメンター、担当がついてくれる。 雑務で忙殺されている先生に、教師を育てる時間も、子どもを育てる時間も、期待できない。 だから、お母さんたちは困っているのだ。 ーーー

ーー そうか!この学校の暴力を隠蔽するために、全国学力テスト対策をがんばっているんだ! 「いやいや、お母さん、学力はほら、富山県は全国トップレベルなんですよ!」とのたまう魔王の姿が目に浮かぶ。 そんな教師には、こういったらいい。 「最近、○○さん(先生と呼ぶ必要はない)は何を学ばれて、どんな実践を教室でされているんですか?」 教師という虎の皮をかぶった、魔王かどうか、ただの狐か、それとも本物の虎か、わかるかもしれない。 「どんな結果がでたか、報告もしてくださいね」と一言入れてあげよう。 お母さん、お父さんが、教師を育てなくてはいけないのか・・・・・全部、、、、家庭負担かよ。。 子どもを育てるために、お父さんお母さんが学校の先生をそだてなくてはいけない。 そんな世の中になってしまった。

教えてはいけないこと

誰かに知られては困ることがたくさんある。
学校では、教えてはいけないことがたくさんある。
「教えてはいけないこと」なんてあるのか?

生徒たちに法律を教えてはいけないだろう。
どこまでが体罰で、どうしたら先生をいじれるのか、なぜ先生はそういう対応をするのか、バレてしまっては、いけない。
「君たちは教育を受ける権利はあるが、それを使うかどうかは君次第だ」とか言ってはいけない。

生徒たちに学歴社会はもう幻想だということを教えてはいけないだろう。
学歴社会に生きてきた教師は進学のことしか喋ることがないのだ。そして自分たちも進学実績で評価されるとおもっている。

生徒たちに性の話しをしてはいけないだろう。
セクハラといわれ保護者に叱られたらダメだから。

一体何を教えるんだろう?
「学校の過ごし方」?????

どうしても私の経験からは、学校がいいところには思えない。
もちろん、この日本にも、素晴らしい学校は、どこかにあるはずだ。
素晴らしい先生もいるはずだ。大切な友だちとも出会えるはずだ。

本当のことを話してくれる、教えてくれる人と出会えた人は、幸せだ。
本当のことを話してくれる人と出会い、本当のことを話せる関係をつくれる人は、幸せだ。
それが先生であっても、友だちであっても、夫婦であっても、恋人であっても。

当たり前に会社があり、当たり前に学校がある。
どうしてあんなに大勢の人が集まって仕事をするのか?
どうしてあんなに大勢の人が集まって、机と椅子の間で青春時代を過ごしているのか。
どうしても、そこで、そこにいる人達と一緒にやりたい、一緒じゃないとできないことがある人は、幸いだ。

今思い出したのは、いつも机に伏せていた高校生。
話を聞くと、アレルギーが酷くて薬を飲んで、眠くてダメだという。
なるほど、休むことも多くなってきた彼だ。
彼にこういった。「君は今、自分の体のことを知らなくちゃいけない。今、君にとって一番大切なことを学ばないといけない。無理して学校にいる必要はない。図書館にいって、勉強してみるといい。きみのお医者さんが処方しているクスリは、君にはあっていないんだ。お医者さんは君のことをしらない。君は、自分の体に、自分で、責任をもたなきゃならない」と。その時、その時代で、学ぶべきことがある。人は一生をかけて、学びきれなかったことを繰り返し経験しながら、死んでいくのだろう。

【オトノネ原論】学習障害・不登校は呪いの言葉?祈りの言葉?オトノネとは何か。

先日、子どもが学習障害で、、、、というお母さんから問い合わせがあった。
発達障害、学習障害、言葉の遅れ…こういった問い合わせはよくあること。

かつて書いた記事がある。
学習障害LDか、スローラーンなだけか。

↑この記事に描かれている基準を学習障害とするなら、学校に通う子どもの半数以上は、学習障害をもっていることになってしまいます・・・それって障害?

こちらの記事もどうぞ。
診断名とは何か。Human Disaster

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「うちの子は学習障害です」という言葉を、使わない方がいい。
というのが僕の考え。

学習障害ですという言葉が意味するものはなんだろうか。

学習障害の「日本」での定義にあるように、スローラーンなだけで自然な発達をしている子の現状を学習障害と呼ぶのは変だ。

学び方には一人一人特性がある。

「うちの子は学習障害です」という言葉は、「うちの子は学び方の特性が学校の教え方、学校の学ばせ方と合っておらず、義務教育として受けるべき教育を受けられていない」という状況を伝えるものだと僕はおもう。

その声は、本来、本来!学校に届けられるべきものである。
学校は、本来、本来!学びの「家」であるからだ。
ただその声が届かない。それが現実だ。
学校は、その声を聞けない。
子どもたちの、お母さんのオトノネは、なかなか届かない。なかなか響かない。
(いやいや、対応してくれるところもありますが。それが中学になったら?高校になったら?社会人になったら?世の中、いい人ばかりではない。では、どうしましょう???)

↓【オトノネ原論】はもう少し下に行くと始まります笑↓

学習障害で困っているなら、学校の仕組みで困っているのだとおもわなくてはいけない。
自民公明党のつくりあげた学校のしくみを変えるには?

いやどの政党でも同じだろ・・・という方は、最近できた政党を調べてみてください。

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教育基本法には次のような文言がある。

第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

能力に応じてとは、何か。

診断書は、「その子には、その能力がない。だから、教育はこの程度でいい」ということを証明するものになってしまわないか。
診断書をもらわないと、支援級にいけない(少人数だけでも子どもには救いになる)などのルールがあるために、「うちの子は学習障害です」「発達障害です」というお母さんがいるかもしれない。

言葉を使う人間、言葉を使う人の心。

学習障害という言葉を通じてお子さんの特性をはじめて理解できる人もいるかもしれない。
けれども、「学習障害」とか「発達障害」という言葉を使うことで、何か悪霊のようなものが、取り付いてきやしないかと、僕は不安になる。

「不登校」という言葉も同じだ。

日本は、言葉にチカラを感じないことが多い。
「うちの子は不登校です」ではなく、「うちの子は古いシステムとは別の新しい学び方・生き方を模索しているところです」ぐらいに、具体化していった方がいい。その方が、心が元気になるはずだ。
「名詞」の抽象性

言葉は心。

【マシュマロ実験】で「忍耐が大事!」の「忍耐」って何?
ちなみにマシュマロテストの結果は今、覆されたというか、補強されて、親の経済能力が影響するという話です。その詳細も、重要ですが。

抽象の効果

「蛇」は抽象語か

↓【オトノネ原論】はじまります↓

言葉は心。

心は言葉。

音には心があります。
言葉は音で伝わります。
音の意は心にのってやってきます。
漢字をみるとまさにそう書かれていて笑えますね^^
(仏教でもそんなのあったような気がしますが、言葉という現象を理解するとそんなかんじになるとおもいます)

「不登校」「学習障害」という言葉に否定的な意を添えるか、肯定的な意を添えるか。
それは人の心にかかっています。
「不登校」「学習障害」という同じ言の葉、同じ音、であっても、その言葉の根っこ、オトノネは違うのです。

心を伝えるための言葉、その意味は、使う人の心によって変わって来ます。
誰かが使う言葉は、お母さんの元気をなくすかもしれません。

文化的に、社会的に、否定的な意を乗せられた言葉があります。
また本来、肯定的な意であったものが、否定的に使われている言葉もあります。

その言葉が、お母さんにとって、お子さんにとって、祈りの言葉になるのか。
呪いの言葉になるのか。

オトノネは心配しています。

(この考え方を使うと「ポジティブな言葉を使おう!」というセミナーになり、さらなる被害者がでてきます笑どっかの記事で書いたような。。ありました。定期テスト対策の弊害【自己改革・心理学系セミナー編】要するに、言葉を使う人間の心次第で、いくらでも言葉は意を変えて、呪いにも、祈りにもなるということです。人を助けたり、傷つけたり、よい「心」があったとしても、よい「意」が伝わらないこともあります。わるい「心」をよい「意」で伝えることもできます。)

「成績が…」「点数が…」「将来が…」「宿題が…」「勉強が…」そのお母さん、お父さんの言葉が、心が、伝わっているでしょうか。
世の中で呪いの意で伝えられている言葉を、お父さん、お母さんは心でどう受け止め直したらいいでしょうか。

お母さんがお子さんに使っている言葉が、祈りでありますように。
子どもの周りにいるすべてのオトナたちが使う言葉が、祈りの言葉でありますように。

言葉のチカラを育てるレッスンがあります。

オトノネの言葉のレッスンとは?

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ちなみにMSDのマニュアルにはこのように定義されています。
学習障害 – 23. 小児の健康上の問題 – MSDマニュアル家庭版

学習障害に対する最も有効な治療は、各小児に合うよう入念に調整した教育を行うことです。

オトノネに、遊びに来てくださいね^^

人一人の中でも、言葉がせめぎ合っていることがある。
自分を呪い殺すような言葉を使っていないか?それはどんな心からやってくるのか?心とどう関わればいいのか?
僕の心の中にも、か細い声で、祈り続けている僕がいるのかもしれない。

そんな声を、聞き取れるように、心を尽くしています。

言葉は、生きるチカラです。

 

【人間疎外教育】お互いに無関心・無関係な「閉じた対(関係)」

子どもの発達要求を無視する関係

この本では自閉症の子に対する大人の関わり方として書かれているが、学校や家庭でもありがちなこと。

「この子たちはこれしかできない」といって何度も漢字を書かせたり、穴埋め問題をさせたり、子どもに作業をさせることは日常的な学校の暴力だ。

「これはこの子にはできない」といって、挑戦させない、新しい経験の機会を奪うことも暴力だ。もちろん大人はそれが「ふつう」で気がつかないことが多い。

例えば

「缶切りの使い方」がわからない子どもがどれくらいいるだろう?

「魚の骨がとれない」子どもがどれくらいいるだろう?

僕は「学び」のない関係を「閉じた対」と呼びたい

 

毎日作業だけの福祉の現場も同じ。

「心」のない、「命」が輝かない場所だ。

自閉的な傾向をともなう場合には、基板を 180 度回転した後、一瞥して即座 に反対側に移動した円孔に入れることがある。形を瞬時に弁別することはでき るが、目前の板を見渡し、反対側に移動した円孔と目前にある四角孔を見比べ てから円孔に入れるような、思考の過程がみられにくい。「入れ分け」では、結 果として「入れ分け」をしても、両手で同時にそれぞれの器に入れるなど、二 つの器を見比べつつ交互に配分しているわけではない。このように自閉的な傾 向のある子どもは、一対一対応の学習は成立するが、そこに「切りかえ」「転換」 の過程を連関させていくことが難しい。一つには、さまざまな素材・道具活動 を広げて「1次元可逆操作」のリハーサルを量的に拡大していくこと、もう一つ には、自他の関係における意図や要求のぶつかり合いから自分と他者の意図を 分化させたり、一つに統合するように調整していくことが困難だと推察される。

彼らが一つの対象への活動ばかりする姿に接して、大人は一方的にその活動 をやめさせようとしたり、他の活動への転換を促したりする。しかし、そうする ことによって彼らは、その活動に執着したり、大人からの働きかけを拒否する ようになる。このような抜き差しならぬ状況にもいたる「自一他」関係を、白石 は「閉じた対」(注8)と呼んでみた。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.74)

子どもの発達への意志(「命」)

ところが、他者の意図を認識することにより、大人の指示に従属的な関係に 陥ったり、「視覚支援」と称する一方向的な提示に応じてしまうために、他者への過剰な適応が強化されている事例も多い。このような「モデル通り」「他者の 意図通り」になってしまう従属的な関係を脱して、自らのなかに「本当の要求」 を育てることが発達課題となる。「本当の要求」とは曖昧な概念であるが、子ど もにとってのそれは、期待を高め「よき見通し」となるような活動、遊び、空 間移動などであろう。まず、楽しいという感情をもち、さらにその活動の意味 や価値に関する認識がともなえば、子どもはいっそう活動意欲を高めていく。「運 ぶ」「渡す」「片づける」「大人と同じような仕事に挑戦する」「小さい友だちに 手を差し伸べる」など、生活のなかで意味と価値を実感しやすい活動に、子ど もの心はひきつけられていく。また「本当の要求」は、その実現のために自ら を対象化し、変革しつつ高めていくという発達要求をも内包することになる。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.80)

「閉じた対」とは?

「定期テスト対策」をする生徒と先生の関係。

「こういう時はこうする」ということだけ覚えておいて、「心」が関係しない。「命」とも関係しない。お互いに「成長のない」お互いに一方的な(お互いに無関係・無関心な)関係性のこと。

無関心とは、心の無い関わりのこと!?

 

私は、自閉症の子どもたちに「形の弁別課題」という発達検査を実施したときに、 注目すべきことがあることに気づきました。いろいろな図形が描かれた図版を見せて、 さらにその中の一つの図形が描かれた図版を提示しながら、「同じものはどれですか?」 と問うのです。すると、私の手のなかにある図版を奪い取るようにして、たくさんの 図形が描かれた図版の、同じ図形の上に重ねるようにつけようとするのでした。私が 期待していることは、両方の図版を見比べて、同じ図形を指さしで教えてくれること なのですが。この重ねたい要求はとても強いものがあります。私はそれを「マッチン グ反応」と名づけました。この反応のメカニズムを、ごく単純化して説明するならば、 二つを関係づけるという認知と記憶の機能が乖離するように先行して発達し、そこに 他者と自分という関係の発達がともないにくくなっているということです。したがっ て、自分のなかで完結した一対一対応としての「閉じた対」を形成していくことにな るのです。

さらに説明すれば、1歳半の質的転換期は、「○○ではない口口だ」という1次元可 逆操作が、外界に働きかける操作の特徴として獲得されるとともに、自他の関係にお いて、自他を調整する力として獲得されていくのですが、その根本の可逆操作の獲得 に、発達の障害が現れやすいということです。

もう一つは、このような一対一対応を形成しやすい子どもに対して、ついつい大人は、 要求通りにしないことに苛立ち、子どもの活動を拒絶したり禁止してしまうということ です。あるいは、大人の意図や要求を、頭ごなしに子どもに伝えることもあるでしょ う。そのようなときに、子どもは拒絶され否定された自分の要求を、頑なになって要求したり、その場から退散してしまったり、あるいはパニックで応じるようなことになるのではありませんか。そこでは、大人と子どもの間で、「ああ言えば、こうする」「こうすれば、ああする」というような、まさに一対一対応の完結した応戦が繰り広げら れることになってしまうのです。それは、まず子どもに起源する問題というよりも、大 人の働きかけに、子どもに有無を言わせない一方向的な性質があるということです。

つまり二つの問題とは、一つには子どものなかに生じやすい自己完結した一対一対 応の認知・記憶優位のパターンであり、もう一つは、それと向き合う大人の側にある「一 方向的な働きかけ」という問題なのです。この二つの問題の相互作用によって子ども と大人のそれぞれに生じる行動の特徴を、私は「閉じた対」と称しました。(『障害の重い子どもの発達診断』p.92)

 

「無知」「無心」による目の前の「人間」への無関心

目の前の「人間」の姿を間違って認識していることを「無知」と表現してみよう。

 

目の前の子どもの発達欲求などみなくてよい。

とにかく今日1日が終わってお給料が入ればいい。

「私は」それなりにこの人生に満足している。

「子どもは」まぁ仕方がない。この程度でよいのだ。

という心のあり方を無心と表現してみよう。

 

すると、教師の役割は「学校という組織を支えるボランティアを管理する中間管理職」になってしまう。

この見地から鯨岡は、ある養護学校との実践研究において障害の重い子ども についても論じている。「発達の最早期段階の感性的コミュニケーションがそう であるように、重い障害を負った子どもとのコミュニケーションでは、多くの場 合、まだ子どもは何かを表現しようという意図を必ずしももってい」ないとして、 「重い障害を負った子ども」と発達の最早期段階にいる子どもを、コミュニケー ションの様式において等しいものとする。機能・能力の発達を含む発達過程の 実在性をあえて認めないことからは、機能障害の重い子どもを「発達の最早期 段階にいる子ども」と等しいものとして認識することになろう。教師が、その ような視野をもったうえで「受け手」としての子どもとの関わりに自らの役割を 限定するならば、子どものなかにあるさまざまな「わかる」べきことも見えず、 教師の役割を無力化することになるのではないか。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.230)

 

筆者は、教師が子どものことを「わかる」とは、子どもが外界をどうわかり、 どう働きかけ、自らに取り入れようとしているのかを「わかる」ことでもあると 考える。子どもが外界を対象化し自らに取り入れるために、何を願い、機能・ 能力をどう働かせ、矛盾を前にどう苦労しているのかを認識することは、大切 な視点である。そのとき子どもは、自らの発達の尖端と障害を見つめ、自分自 身にも働きかけようとしている。

つまり、私たちが認識しなければならないのは、子どもとのコミュニケーショ ン関係のありようだけではなく、子どもが大人や子ども同士の関係を媒介とし て、共感、共有、共同の世界を形成しようとしている発達的事実であるその 世界を子どもの生活と人生において、意味あるものとなるように創造するのが、 教師の仕事ではないか。子どもの思いに問いかけ、子どもの選択や試行錯誤を尊重しながら、自然、文化、生活の喜びを教材として創造し提示していくことは、 教師の喜びでもある。(『障害の重い子どもの発達診断』p.231)

 

【学校で生き残ったいい先生のモデル】子どもの「命」を強くする大人の姿【能動的な身体の使用→思考の内面化=「心」の形成】

 

白石正久『発達相談室の窓から』p. 165-170

1)「大きい自分」を実感できる仲間づくり

細かな手の操作や全身の協調運動に 障害の現れているしげちゃんは、養護学校になっても、小学校以来の苦 手意識は消えず、「ぼくへたやから」と逃げ腰になるのでした。いつも 「へた」な自分を実感してきたので、集団のなかでの力関係は変わったの に、養護学校でも友だちのなかに入れません。しかし担任の先生は、そ んな友だちのなかに入れないしげちゃんの姿に、「ぼくだってやってみ たい」という心を、痛いほど感じられたそうです。

先生は、しげちゃんの「心の中心課題」に迫るために、さまざまな工 夫を始められました。みんなで取り組むエアロビクスでは、しげちゃん も少しずつがんばるようにはなっていたのですが、そもそもからだが「不 器用」なしげちゃんにとって、大きな達成感や自信をそのなかで引き出 すのはむずかしいことなのです。でもそんなエアロビクスのなかで、走 ることが好きなしげちゃんを発見した先生は、思い切り走って爽快な気 持ちになれるような時間をたくさん取ることにしました。一歩引いてし まうしげちゃんも、心は「もっと大きい自分」を求め始め、負けず嫌いなのです。その心をくすぐるように、マラソンで休憩するしげちゃんに、 「しげちゃんどうする。あと3周走ったらSちゃんに勝つぞ」と揺さぶり をかけたのです。そうするとしげちゃんは立ち上がり、その3周を走り きりました。教室に帰って、「けっこう走ったな」とおしゃべりするし げちゃんは、きっと自分への手ごたえを感じ始めていたのでしょう。

そんなしげちゃんに、先生は、かけがえのない存在になってくれる友 だちをつくりたいと思いました。しげちゃんの大好きな相撲をいっしょ に楽しみ、互いに好きになってくれたらいい、とKさんを引き合わせる ことにしました。先生の「読み」通り、しげちゃんはひびき合うものを 感じたのか、「Kさん、Kさん」といって昼休みに出かけていくようにな りました。「Kさん来てるかな」がしげちゃんの口癖になり、作文にはK さんがたびたび登場するようになったのです。相撲では、勝つときが多 いのですが、負けることもあります。わざと負けているような姿も、と きどき見かけるようになりました。Kさんとのあいだには、「勝つ一負け る」だけが問われるのではない、「もう一つ」の価値をもった世界が生 まれはじめていたようです。しげちゃんの心のなかに、友だちという存 在が位置づきはじめたのでしょう。 K さんだけではなく、他の友だちの 名前もおぼえるようになりました。

先生は、「できる」喜びの積み重なりにくいしげちゃんに、からだの 活動だけではなく、何かをつくりあげる喜びを伝えたいと願いました。 両手の協応と細かい操作が苦手で、運針が上手にできないしげちゃんに とって、みんなが楽しそうにがんばっている裁縫は、参加したくないこ との一つでした。そこで先生は、しげちゃんの自尊心を大切にしながら 裁縫に参加できるために、しげちゃんにミシン縫いをさせてみることに したのです。学校の掃除に使う雑巾をみんなにたくさんつくってあげよ うと相談して、雑巾づくりに取り組んだのです。ミシンを前に嬉々とし て作り上げたしげちゃんの雑巾は、なんと一日で7枚になりました。同 じ組の友だちに、こんなにたくさんつくった事実を知ってほしいし、喜んでほしかったのでしょう。とくに、しげちゃんが大事にしてあげたい と思いはじめているTくんには、特別に2枚あげることができました。

先生は、活動が充実して新しい自分に出会え、伝えたい思いがあると きには、それが必ずことばに現れ出ると考えて、文を綴ることを欠かさ ず取り組んできました。とくにしげちゃんは、からだや手の活動は苦手 でも、語彙は豊かなのです。それが、しげちゃんの一枚の作文になりま した。

マラソンしたこと

今日学校でマラソンをしました。Tくんたちもマラソンとなわとびを していました。ぼくも走りました。とってもつかれました。もう少しで あせをかくところでした。でも、あせは、でませんでした。ほんとうは、 でるはずなのにどうしてあせがでないのか、それがふしぎです。

とってもよかったのは、Tくんたちがよろこんでくれたことです。も う一つのよかったところは、ミシンでぞうきんが七枚できたことがよか ったです。やくそくどおりTくんには、とくべつに二枚あげました。ほ かのひとたちは一枚だけなのにTくんには、二枚です。ほんとうは、み んな一枚なのに、Tくんは二枚あげて、のこりはMさんも一枚です。よ ろこんでくれたのが一番うれしかったです。またミシンぬいをします。

きょうは、いいことばっかりでした。マラソンが一つ目です。次は、 ぞうきんが今日じゅうに、できたのが、よかったです。みんなは、大よ ろこびしてくれてぼくは、うれしくてうれしくて、なみだがでるほど大 かんげきです。ぼくは、みんながよろこんでくれて、ほんとうによかっ たです。ぼくは、うれしくてうれしくてこんなにそんけいされたのは、 はじめてだったので、ぼくもまんぞくしました。こん度もがんばります。

実は、しげちゃんは、この作文を書いたころ、養護学校の寄宿舎に入 舎することになりました。通学がむずかしいわけではなかったのですが、家族を離れて生活するなかで、生活の力をつけ、自立できる自信を、本 人も家族も必要としていたのです。寄宿舎のなかでのしげちゃんの最大 の苦手は、「ごはん」を食べることでした。だから食堂にもなかなか入 ろうとせず、いすに座っても横を向き、苦手なことと向き合えないので した。先生ははじめは、「6時までがんばって食べよう」という指導をし ていたのですが、けっきょくいやいや食べて食べきらないという結果の 繰り返しになってしまうのでした。そんな悪い結果の積み重ねが、しげ ちゃんにはとてもこたえるのです。先生はそのことに気づき、むしろが んばろうとしているしげちゃんの本当の心を信頼して、「どうせしげち ゃんは食べられないものね」と、心を揺さぶったのです。くやしい思い を少しずつバネにしながら、がんばって全部食べきることができた日、 しげちゃんは、空になったお茶碗のなかを友だちに見せびらかすように して「ジャン!」と自慢してみせたのです。それから、寄宿舎のなかで は、この「ジャン!」が大流行になりました。生活の場でも、しげちゃ んは確かな手ごたえを感じはじめ、自らの存在感をもてるようになって いったのです。

 

2)集団のなかで育つ「自分」が発達を耕す

しげちゃんの、たとえば「だんだん大きいマル」を描く系列化課題の むずかしさは、養護学校に入ったことでも根本的には変わりませんでし た。14歳7か月での表現が、次のようになっています(図3)。そこに、 しげちゃんのもっている認知障害の頑固さが、現れていると思いました。 しかし、そのなかにも、自分が大きいマルに続けて小さいマルを書いて しまった間違いに気づいて、自分で「×」をして書き直している部分が あります。

 

「だんだん大きく」という依拠すべき基準枠をもてるように なり、その基準枠との関係で、自分を見つめ、修正することができるよ うになっているのです。このように頑固な認知障害に立ち向かい、それ を克服しようとする力は、人格発達のなかから生まれてくるのです。

同じことが、先の作文のなかにもみられます。「マラソンしたこと」と いうテーマを選びながら、文脈は、突然ミシンかけになってしまいます。 しかし、「ミシンかけ」に転じてしまっても、自分の掲げた「マラソン したこと」というテーマを忘れ去ることはなく、その依拠すべき基準枠 に、もう一度立ち戻ろうとしているのです。そうして文脈は、もう一度 「ミシンかけ」にもどります。確かに「マラソンしたこと」がテーマだ った作文ですが、それはしげちゃんの本意ではなく、とにかく「ミシン かけ」の喜びを記したかったのです。結果として、しげちゃんは「ミシ ンかけ」の喜びを伝える筋の通った文脈をつくりあげようとしているの です。しかも、その文脈のなかで、これまでその意味を十分わかっては いなかったであろう「そんけい」ということばに、自分なりの意味と喜 びの感情を込めているのです。しげちゃんの心のなかには、本当に尊敬 されている自分がいるからです

このように認識の力は、外界を認識するだけではなく、自分自身を認識する力にもなっていきます。4歳の発達段階では、その時期の対比的 認識によって「できる一できない」「勝つ一負ける」などという二分的 評価で自分を認識しています。しかし、その自分はいつまでも二分的評 価だけで測れる存在ではなくなっていきます。勝ちたいばかりではなく 相手のことを思って負けようとするような、「大きい自分のために小さ い自分を選択する」こともある「もう一つ」の可能性をもった存在にな り、そして時間の流れのなかで、昨日より今日が、去年より今年が、「だ んだん大きく」変化する存在になっていくとき、対比的認識や二分的評 価にしばられる段階から卒業し、系列的認識ができるようになっていく のです。しかも、その「だんだん大きくなる自分」のイメージが発達に フィードバックし、いっそうすじ道を立てて考えたり、系列的に操作す る力を鍛えてくれるでしょう。

しげちゃんにとっての「だんだん大きくなる自分」は、ちょっとつら かった時期を越えて、時間の流れのなかで変化する可能性をもった自分 であるとともに、人間関係のなかでその存在価値が変化してきた自分で した。「だんだん大きくなる自分」は、自分よりも小さいものに、相手 の立場にたって教え導く力をもち、そうすることによって、いっそう教 え導ける自分を誇りに思えるようになる発達段階の特徴なのです。そん な人格形成の課題を、周到な友だちづくりと活動の選択によって粘り強 く進めた養護学校と寄宿舎の教育は、すばらしいと思います。もちろん、 その教育を選んだのはしげちゃん自身ですが。

 

学校の先生は悪者か

なんだか学校をやたら悪く言っているように聞こえるかもしれないけれども・・・学校の先生は戦争に駆り出された兵隊と同じで、システムに従っているだけだ。生きるためにそうするしかない事情が、人間にはある。逆らえない。適応していく。これは事実だ。

人殺しをする兵士は悪者か。悪者なのだろうか?

学校の先生でも、心を病んで、病んで、そしてクレーム係に回されてさらに精神を追い詰められて先生をやめるシステムの中で暮らしている。先生もサバイバルなのだ。そして学校以外の職につくアイデアもなく、ただそこにいるしかない。学校の先生はかわいそうな人だ。とおもってもいい。

では学校の生徒はアウシュビッツの囚人か。囚人なのだろうか?

そんな問いをする必要はない(一流の法律家と哲学者があなたの代わりにいつも悩んでいる)。

社会に出ても同じことが君の身に降りかかる。お父さんお母さんもそんな社会の中で生きている。ただあなたがそんな社会の中で「強く」生きるだけのパワーを持って欲しいということだけ、私は祈りたい。悪者を作って憎むよりも、同情をして憐れもう。憎しみ、怒りはあなたからエネルギーを奪ってしまう。ただただ、やわらかに、「かわいそうな人だ」と思えばいい。社会に出たら、そういう人にたくさん出会う。いちいち相手にしていたら、自分にエネルギーがいかなくなってしまう。

自分を卑下せず、他者を見下さず。どちらも良い結果はでてこない。学校も会社も、組織であれば不具合が出るのが当たり前。殺せんせーは言っていた。「社会を相手にしても、はっきりいって時間の無駄です。自分が成長しましょう。」というような言葉を。

【「命」を強める「心」のあり方】と「発達の段階」を無視した大人の暴力『発達相談室の窓から』

自らの障害を見つめ、受け入れる

できない宿題を無理にやらせることは暴力です。 お子さんの「できるできない」「発達の段階」を無視した関わりは、暴力です。 もっといってしまえば、訳のわからない授業に縛り付けるのも発達を阻害する暴力です。 日本の学校は暴力の中心部なので気をつけてください。   「命」はいつでも、どこでも、能動的であり、発達する欲求があります。 だから学校で子どもが「命」の発達を阻害する「心」の仕組みを作り上げるのは、何としても避けなくてはいけません。

「発達」は、子どもの一番の願い

自閉症という障害がなければ、生後10か月ころには、相手のことばを 理解し、相手の世界へのあこがれをもち、自分でやりたいとひっくり返っ てもめ、いろんな押したり引いたりのやりとりのなかで自分で行動を決 めていきます。しかし、自閉症児は「相手をとらえる」ことにまず弱さ をもっています。なんとか相手をとらえられるようになっても「相手と 自分の意図を調整する」ということに弱さをもっています。発達の力を つけていく過程のなかでエアーポケットのように次々に「問題」にはま りこんでしまいます。ここに自閉症児の保育や教育のむずかしさがあります。 子どもたちの姿は多様です。子どもたちの発達はさまざまな力が互い に関係しあいながら育ちます。ある力を引き出すために、またある問題 行動を改善するためにはたらきかけるのではなく、あくまでも子どもの 全体像をみながら、子どもの姿の裏にある願いを引き出し、育てる、そ んな保育・教育が大切なのではないでしょうか。(『発達相談室の窓から』p. 140)  

成長を求めて止まない「命」

発達相談にやってくるしげちゃんは、いつも姿勢を崩したり、課題に 取り組む前には、絵本などに手を出してすぐには答えようとしませんで した。しげちゃんの姿勢にも儀式にも、自分の力に見通しがもてない、 自分の力を信頼できない心が素直に現れるのでした。「小さい自分」で はない、「大きい自分」を求めてやまない3、4歳ころの子どもたちは、 自分が大きい存在になれることによって、自分への手ごたえをもち、いっ そう「大きい自分」をつくりあげようとします。「大きい自分」とは文 字通り、自分よりも小さい仲間、弱い仲間に対して、手をさしのべられる存在としての自分です。そして、集団のなかで、自分の役割を果たせ た喜びや存在感を抱ける自分です。その自分づくりに成功することによ って、「もっと! もっと!」大きい自分を求めて発達の大道を歩くよ うになるのが、5、6歳の発達段階でしょう。いわば、そのための大事な 人格形成の課題が、先立つ発達段階にはあるのです。しげちゃんは、そ の大きい自分を実感する機会が、十分には保障されていませんでした。 障害児学級の集団のなかでも、認識の力はあるのに、からだや手の「不 器用さ」が、しげちゃんの心を支配していたのです。 しかし、そんなしげちゃんのなかにも、確かに変化への準備がなされ ていました。絵に力と思いがこもるようになったのです。美術展への入 選が、本人のなかに自信をつくったとお母さんは言われていました。な かでも、6年生の発達相談で描いてくれた絵は、「ラーメン屋さん」です。 そこには、大きくなったらラーメン屋さんになりたいというしげちゃん の未来への希望が、力強く表現されていました。(『発達相談室の窓から』p. 163)  

能動的に身体的が使用できる条件は何か?

たかしくんは、9歳ころから、たとえば「飴を二つ持っています。も う一つもらったら、全部合わせて何個ですか?」などとむずかしい質問 をされると、悲しそうに泣き出すようになりました。家でも精神的に不 安定で、お兄ちゃんが彼のことをからかうと、ばかにされたと思ったの か、泣き出してしまうのでした。「ごめんごめん」と謝れば、すぐに泣きやむのですが。 とくに、10歳のときの「救急車」のように答えたいのに知らないこと があり、自尊心が傷つけられるようなことばがかけられるときに、悲し みをあらわにするのでした。きっと、自分のからだや能力が、客観的に 認識されはじめた時期だったのでしょう。みんなができるのに、自分に はできないことがいっぱいあるのです。5、6歳の子どもたちが、「だん だん大きくなる自分」になりたくて、なんでも一番になりたい願いをも つのに、現実の自分の力が及ばないで、悲しくなって周囲に八つ当たり する心と、どこかで似通っているように思いました。しかも、たかしく んは、自分のからだやことばに現れる重い障害も、みえるようになって いたのです。そこには、時間が解決してくれるわけではない、深い二重 の葛藤がありました。おそらく、たかしくんの泣きは、「こうありたい 自分とそうではない自分」という自己認識の矛盾に悩む時期にみられる、 障害児としての深い葛藤の姿だったのでしょう。 「しようとしてもできない自分」「みんなのようにできない自分」とい う認識を、子どもからとりのぞくことはできません。子どもはどうやって、この深い葛藤をのりこえていくのでしょうか。 そんな葛藤のなかにあっても、たかしくんは確実に自らの可能性と能 力を広げていきました。動かせなかった手が、開ける挙げられる自由を 獲得し、動かせなかった頭が、左なら傾けられる自由を獲得し、それに よって、イエス・ノーの基本的な意思も伝えられるようになりました。 自分のことで精一杯だったたかしくんは、そんな自由を拡大するにつれ て、学校では友だちのことが気になりだし、誰かが泣いていると声を出 して伝え、友だちがほめられると自分もうれしそうに笑うようになりま した。給食のときに友だちががんばって食べていることをほめられると、 まるで「自分は何をがんばったらよいか」と問うように、先生の顔をじっ と見るのでした。「たかしは、口を閉じて咳き込まないように食べるこ と」と言ってもらうと、その日はなんども口を閉じて食べようとしたといいます。 こんな経過を見ていると、常に子どもの可能性を広げ、新しい力を導 き出してくれる教育や機能訓練の役割の大きさを実感します。重い障害 はあっても、確実にからだの自由が拡大していくこと、そのからだによっ て、自分の意思を表現し伝えられること、「みんなのようにできない」こ とはたくさんあるけれど、でも同じ障害をもった仲間のなかでなら、自 分もみんなと同じに、みんなに負けずにできることもあること。 たかしくんは、「できないことがいっぱいある」という自己認識をもっ たうえで、「でも自分には、がんばってできるようになったこともいっ ぱいある」という「もう一人の自分」に誇りをもち、障害をもっている 仲間を「友だち」として認識し、その友だちとなら、自分も負けずにが んばりたいという「もう一つの世界」をだいじに思えるようになってき たのです。そんななかでたかしくんは、「もう一つの世界」で生きる「も う一人の自分」が、実はより確かな、本当の自分として信頼できるよう になっていったのでしょう。 「できないことがいっぱいある」たかしくんではなく、「がんばってで きるようになったこともいっぱいある」たかしくんを認め、障害をもっ た友だちとの心の絆をわがことのように喜んでくれた家族の存在は、す ばらしい養護学校の存在とともに、ますます輝きを増しているのです。(『発達相談室の窓から』p. 110)  

次の発達へ向かう力

この「さまざまな障害像は発達の過程のなかで、生まれ、変化し、発 展していく」ととらえる視点が実は保育・教育するうえで大切なのでは ないでしょうか。この視点をぬきに子どもたちの示す固有の障害や発達 の弱い力にばかり目がいって、これをなんとかしようと機械的な対応や 訓練を繰り返すならば、形のうえでは「できる」ようになったとしても、 その力は「次への発達にむかう力」にはつながっていきません。ある場 面や状況のなかではできたとしても、場面や状況が変われば同じように はできなかったり、あるいは逆に場面・状況に応じて変化させなければ ならないのに、固執してしまったりします。 「次への発達にむかう力」は 「○○したい」という子どもの意図と密接に結びついています。子ども の意図は相手の意図とぶつかりあい、やりとりするなかでより確かなも のになります。保育・教育はこの「子どもの意図」を引き出すことと無 関係ではありえません。しかし、この子どもの意図への配慮がないまま に「○○ができない」からと形のうえで「できる」ことを追求すると、 子どもはパニックを引き起こしたり、「意図」がうまく育ちきらないま ま相手の指示を待つようになったりします。 「○○ができる・できない」 は固定的なものではありません。発達していく過程のなかで必ず変化し ていきます。子どもが示すさまざまな状態を、自閉症という枠組みで固定的にとらえて、「○○ができないから○○ができるようにする」とい うような直接的に練習させるような方法ではなく、子どもの意図をうま く引き出し、相手とうまくぶつかりあいながら「○○ができる」ように することがだいじです。「できた」「わかった」ことが自分自身への自信と なり、次への挑戦につながるようなそんなはたらきかけが必要なのです。 また、本物の「できる」力はどんな発達の力を基礎にしてできてくる のでしょうか。たとえば、先にあげた、「他者のことばを理解する力」 は、相手のやることや次の場面を期待する心がうまれてきて、いっしょ にワクワクと待つことができるようになり、楽しみあえるようになると、 獲得されてくるようです(“まてまて”と追いかけてもらうのが好きに なる、“イナイイナイバアー”を楽しみ、自分もかくれて探してくれる のを待つなど、です)。「見通しをもつ力」もまた、生活のなかで楽しい ことがいっぱい準備され、経験するなかで次を期待する力として育てら れます。やりたいことがはっきりすると、友だちとぶつかることや先生 の思いとぶつかることもあり、大変な波紋を引き起こしたりもしますが、 見通しをもち実現していく力となります。 「自分で行動を組み立てる力」 は、本人の得意とする活動が生活のなかにあり、他人の指示ではなく、 本人が自分で選び自分で決めることが保障されるなかで育ちます。どの場合にも、本人がやりたくなるような、あこがれをもってのぞむことが できる活動・生活がそこにあることが前提です。(『発達相談室の窓から』p. 138)  

自分の場所・自分の時間(保健室)

圭くんのお母さんは「またきっと何かがあるのだろうと思うし、でも、 たとえ何かがあったとしてもこの子のかわろうとするサインなのだろう と受けとめられるような気がします」と話してくれました。確かにこれ からもいろいろな形で圭くんはサインを出してくれることでしょう。そ のなかには「困ったこと(問題行動も含む)」もたくさんあるような気 がします。「問題行動」を発達要求へのサインと見ることについては、今 まで述べてきました。しかし、それだけではなく、この子どもたちが自分自身でいることができる場、自分自身を取り戻すことのできる場とし て、独自の世界をもつことも必要なのではないかと思います。とくに青 年・成人期の自閉症の人たちをみた時に、その思いが強くします。私た ちは大人になっていく時に、まわりの世界との調整をしながらも、自分 独自の世界をつくり上げていきます。いつまでも親やまわりに依存した 生活をするわけではありません。がんばった後でちょっとひといきつい て、ウロウロしながら自分を取り戻せる場があること、学校や作業所の 帰りに、電車やバスを見ながら時間をつぶせること、休みの日には、時 刻表を片手に遠出ができること……などなど、自分で自分の肩の力をぬ いて、休憩できることが必要なのではないでしょうか。そしてまた、休 憩した後に戻る世界は、やりがいのある、楽しい、自分らしさを発揮で きる世界であることはいうまでもありません。自分らしさを評価されな がら、まわりの世界ときちんと結びついていること、結びついているこ とが自分でわかっていることが青年たちを大きく成長させるのです。小 さいときから、「この子は自閉症」と配慮しているつもりでかえって人 間関係を狭めることはしたくありません。不器用で、一つひとつつまず くけれども、のりこえるときにいいのりこえ方をしてほしいのです。つ まずきながらも、人間関係を広げ、生きる社会を広げてほしいのです。(『発達相談室の窓から』p. 155)  

子どもの暴力(「怒り・嫌悪」の表現)を肯定する大人の暴力におとのねさんが心いためちゃった件

この記事は大人でも難しいかもしれない。 生徒が見たら、もっと難しいかもしれない。 だけど気持ちだけは伝ってほしい。 あなたにとって僕の「表現」は間違っているかもしれない。 けれども僕の「心」は間違っているだろうか。 僕はあなたの「心」は間違っていないとおもっている。 けどあなたの「心」が感じられる世界が全てではない、ともおもっている。 (同様にして、僕の「心」が感じられる世界のすべてではない、とおもっている。けれども、私の世界の外にある「心」を感じることもできる)  心のあり方、心の表現を学んでほしい。 この気持ちは、間違っているだろうか? この表現方法は、間違っているだろうか? それともヒトラーに対して「お前は間違っている」といって、僕は彼に殺されるのだろうか? (ちなみに最後に書きますがその先生は「あそび」のチカラを知っている、希少な先生です) ーー

ーーー とあるクラスで授業をした。 生徒からクレームが上司に行った。 で、上司から「授業を変えてください」という言葉を頂戴する。 くやしい。 何がか。 大人にすら、ともに学びの場をつくる大人にすら理解されないのが、くやしい。(指令が降った時に話したけど、伝わらなかった) 前にもクレームはあった。(前回も今回も同じパターンだ) その声は、たしかにその生徒の正直な気持ちだ。(前回も今回も同じパターンだ) けどクレームを受け取った大人の対応はどうだったか。(前回も今回も同じパターンだ) 教師が授業をして、生徒がクレームを出した。そして教師の授業改善命令が出た。 教師が授業を改善して行くのは当然のことで異論はない当たり前すぎて何もいうことはない。 というか生徒から言われる以前に変えている。 問題ない。 異論もない。 くやしくもなんともない。 だがそのプロセスに生徒の学びはあったのか。 学ぶことは何ひとつなかったとは、僕はおもわない。 クレームを出す生徒は、ことあるごとにクレームを出す生徒だ。 今回だけではない。 「怒り」の感情をクレームという形で出す。 生徒はこの事件のなかで、何も学ぶことはなかったのか。 クレームを聞いた上司は、「怒り」の感情を通して生徒の心が成長することを願わなかったのか。 (そのクレームが何かへの「怒り」だということすら気が付いていないかもしれない。クレームを出した生徒は、常にストレスを抱え、怒っている) それとも、本当に教師が授業を改善するだけで良い、と思ったのか。(「悪者」をつくる心のあり方は、正しいのか) (上司にこのことを話すが、「わからない」「話が違う」ということで、こうして文章にしている) その生徒が大人になったとしよう。 何か嫌なことがあったら「言いつける」だけの親になるかもしれない。 (その子供にももちろんそのように振る舞うだろう。親が子どもの心を見れない) 対話にならない。 「怒り」を表現する方法、「怒り」を処理する方法が、暴力的であることが問題だ。 (上司はもちろん僕が授業を変えて「クレームがこない」ならいい授業だというだろうが、ただ生徒の暴力に屈しただけだ) 「○○くんにいたずらしたんですって!ダメよ!今すぐ謝りなさい!仲良くしなさい!あなたが悪いのよ!」 「○○くんからいたずらされたんですって!今すぐ学校に連絡して謝ってもらうんだから!あなたは何も悪くないのよ!大丈夫よー!」 どちらの心も狂っている。親が子どもに暴力を教えている。 上司は暴力を肯定した。 暴力が認められる世界、それがくやしい。 (上司が対話を生徒と始めたら、クレーマー生徒は「なぜ認めてくれない」といって今度は親にクレームを出すかもしれない(その親もクレーマーである可能性もある)。親との対話ができないなら、当然、僕は排除されなくてはいけない。対話ができないなら、生徒の暴力は肯定されなくてはいけない。でないと、学校が存続できない。そんな推測もできる。ならその現場をきちんと話してほしいのだが。だったら尚更くやしい) これが今回の暴力の構造だとすれば。 とてもくやしい。 親か。 大人が大人と対話できないのか。 大人が大人と対話できないのか。 大人が、大人と対話できない例。

信頼のないところに、心がないところに暴力が生まれる。 対話のないところに、暴力が生まれる。 (もしくは対話なんていうものはそもそも存在しない、僕が幻想を見ているだけなのかもしれない、と考えることもできる。学びとはなんなのか。コミュニケーションとはなんなのか。学びの準備ができているだろうか。) 学びとは↓ https://otonone.com/wp/otonone/book/yasutomisan/ 大人の関わり方次第で、子どもは「あれ?違うのかな。そうなのかな。相手の気持ちもあったんだろうな」という共感能力を育てられる。 (僕だって生徒を困らせる授業をしたいわけではない。ただ僕には「ふつう」を超えた学びの場を作りたい気持ちだった。生徒は僕の気持ちなど意に介していなかったんだろうか?) 上司は生徒に共感をしているのかもしれないが、それは共感ではなく暴力への加担だ。 僕に対しても対話なしに「こういうクレームが来ている。変えてください」というだけ。 対話ではない。 学校が掲げている目標の中に、共感する、排除しない、という言葉がある。 「怒り・嫌悪」を「排除」に繋げてしまう心のプロセスを肯定する大人が学びの場にいることが、くやしい。 (もちろん「変えたら解決する」のだろうが、それはDVの夫と同じことだ) 「変えなかったら学校をやめてもらう」という脅迫付きだ。(それほど深刻なのだという表現かもしれないが) 対話ができないのだから、しょうがない。 つたわらないのだから、しょうがない。 これが、学校、議会、会社、家庭、いろんな場所の「政治」の「ふつう」の姿だ。 https://otonone.com/wp/kotoba/sekinin/rememberhim/ そこでは暴力という言葉は存在しない。 それが「ふつう」だからだ。 そこでは対話するという言葉は存在しない。 それは「ない」からだ。(会話は存在する) 魚は、水を知らない。 魚は、空気を知らない。(酸素は知っている。) ーー

ーー これは、学校が「先生を選ぶことができない」という仕組みで成り立っているから生まれることで、仕組みを変えたらまた別の学び方ができただろうがそれは今はおいておく。一斉授業が戦争時代のやり方であって、そのカタチにこだわる必要はないのだ。 ーー

ーー 蛇足かもしれないが、僕が「ふつう」の授業をしない理由も「生徒の学び」のためだ。 (僕のそういう気持ちにも気がついてくれずに、自分の「クレーム」だけ言うのは、人間としてどうだろう) 「ふつう」の授業とは何か。 生徒の学びになっているかどうかよりも、授業が授業として平和に無事終わる授業のことだ。 生徒が理解していようがいまいが、とにかく穴を埋めればいい。 それは「命」に対する暴力だ。と僕は思っている。 掛け算ができない生徒に高校数学を教えるというのも僕にとっては暴力だ。 と僕は思う。 生徒にはそれ以上の能力がないから、できないから、できることをやらせている。 と「ふつう」の先生はいうかもしれない。 それは「ふつう」に特別支援級や支援学校で行われている「ネグレクト」だ。 と、僕は辛辣に表現して見る。(けどそれが「ふつう」だ) 説明を聞いて、ただ穴を埋めて、授業が終わって、テストの前にちょっと見直して、暗記して、それで終わり。 それで何を学ぶだろう? 僕はそれが疑問だ。 だから僕は「ふつう」を目指さない。 生徒を見くびらない。(そのせいで今回、挑戦をしてしまい生徒の理解を超えてしまってクレームがでたのだが) 「平和」という言葉が、「暴力」の代名詞にもなる。 アウシュビッツが、自由の象徴にもなる。 https://otonone.com/wp/obenkyou/society/equalferepeace/ もちろん、「知識・技能」以外の学びも教室にはある。 楽しい雰囲気で授業を過ごすことが一部の生徒にとってはいい経験になるかもしれない。 「学校に来たい」と思えるようにと。 けどそれが授業の主眼になっているようではプロではないと、僕は思う。 生徒が楽しめる授業をつくる、楽しい雰囲気にすることはもちろん大切だし、その能力は教師として素晴らしいものだ。 だがそれだけなら「セミナー」と同じだ。 乗せる。乗ってくる生徒だけひっかける。 そういう見方を僕はしている。 僕にとって「学び」とはそれほど重たいものだ。 生徒は楽しい先生の楽しい授業を楽しみでくるかもしれない。 けどそれは本当に、学校という学びの場が目指しているものなのか。 (もちろんその先生の得手不得手があり、別の場面でその先生は学びの場を作っているかもしれないし、実際そうなのだ) 学びの場として、上司は他の教師に「改善」を要求しないのか。 「クレーム」さえでなければいいのか。 「クレーム」を出さずにただただ教室の中に存在しているだけの生徒は、どうなるんだろう。 そういう「ネグレクト」も「セミナー」ではよく行われている。 「クレーマー」にだけ注意していたらいい。 というメッセージを、僕は上司から受け取った。 心が、命が、弱ってしまった。(僕は心が弱い。そのおかげで、心や命を大切にする気持ちが育ったのだろう) ーーー

ーーーー 生徒の心の中にある感情は認められていい。 ただそれが暴力性を帯びる場合、大人として生徒に別の表現方法を教えなかったら、学校は一体どんな人間を育てたいのかわからない。 (僕の授業は変わる。言われる前から悩んで、変えている。あなたは変わるのか。何も感じないのか。生徒の暴力性という言葉がわからないのかもしれない) 僕の言葉は理想だろうか。 僕は基礎だとおもう。(心が大事なのだ) だが。 心と関わる技術、心と関わる方法を知らない人には、伝わらないことだ。 だから、これが限界なのかもしれない。 ただこの悔しい思いを、僕なりに、この記事で表現して、伝わればいいだろう。 伝えるために、殴る、怒りをそのまま口調で表現するのも悪くない。 感情をそのまま出した時、脳はよくよく記憶にとどめてくれるからだ(DVの夫などがよくやること)。 河原に呼んで、夕日をバックにして、喧嘩でもしませんかと、誘ってみようか。 そういう「表現」を、僕は韓国で一度だけ体験したことがある。 拳を交えて、相手を体で理解する。体で伝える。 脳が学びの回路を閉ざしている時には、そういう身体的な「表現」も、悪いことではない。(それが暴力になるか、表現になるかは、果たし状を受け取ったかどうか、によるだろう。どうなんだろう。少なくとも親子・教師と先生といった立場の違う人間が「体で伝える」ことは暴力性を帯びるように僕は思う) 殴り合いの喧嘩よりも、精神的な疎外、嫌悪を抱かせるいじめのコミュニケーションは、やはり日本の「ふつう」なのかもしれない。 「怒り」の社会化された姿が「いじめ」であり「暴力」であり「排除」であり、学校がそれを適切な表現にせず「怒り」の感情を排除することを肯定するのは人間を阻害することを教えることになる。(つまり生徒を怒らせないようにすればそれでよいという考えは人間阻害を助長する) (遺伝的に「快楽」を追求する回路が強い人がいる。その遺伝的な気質をどうやって社会化するのか。役立てるのか。その気質でどのよに誰かを幸せにするのかという視点が大切だ) 僕は「ふつう」の基準に従おうとは思わないし、子供たちにそれを伝えたくない。 非暴力不服従を伝えても、無抵抗は伝えてはならない。 暴力に服従することは、なおさらあってはいけない。 この僕の気持ちを、この記事の読者は認めてくれるだろうか。 (人にはできることとできないことがある、他の先生にはそれを望めない、ということはあってもいいと僕はおもっている。学びは個別具体的で身体的だから) ーー

ーーー 「あいつ、むかつくんだよ」 と子どもにいわれたら、あなたは何と答えますか。 (「クレーマー」はさぞ論理的に自分が正しいかのように話すことが多い) その心のあり方が、「目指している人間性」が、そのままその子を大人にする。 教師として、子どもと学ぶ人間として、子どもに伝える人間として、心のあり方を問う。 お化けが見える人と見えない人がいるように、心が見えない人には、心が一体なんなのかわからない。 だから上司には僕の話が通じないかもしれない。 仕方がないのだ。 だから心がわかる人がオトノネに来てくれたらいいとおもっている。 ちなみにですが、その上司は「あそび」の大切さをわかって、実際に学校で実現している素晴らしい先生です。 僕はそれだから、今の学校に勤めていられる。(ありがたやありがたや) そういう共通点で、上司とつながっていると僕はおもっている。 (ひどい大人なら、生徒が感情を出すことを禁止する) 実は、失敗した「クレームが来た」授業もその先生の「あそび」を見習ってやってみて失敗したことだ。 多分そのことも上司は知らないだろう。(失敗しいた授業が何を目指してつくられたのか、といった対話はひとつもなかった) 対話しようとしなければ、世界は極端に小さくなる。というのが僕の実感だ。 そういう孤独な世界で、一方的に先生が喋る授業は、やっぱり、僕は目指したくない。(この世界観はもちろん僕の世界観であって他の先生にとっては「そんな世界はない」かもしれない。「知」は明らかに個別具体的でありかつ身体的だからだ) 生徒に孤独を教えることになるからだ。(孤独は悪いことではない。もちろん。) 学びは個別具体的でありかつ身体的だというのはこういうことだ。

南アフリカを列車で旅行中、ある個人的な出来事から、ガンジーは覚醒する。ピーターマリッツバーグで乗車した白人の男が、ガンジーが1等室にいることに文句をつけたのだ。3等席へ移るよう車掌に言われるが、ガンジーは1等室の切符を持っていることを理由に拒否する。すると警官が現れ、ガンジーは無理やり列車から降ろされたのだった。次の列車を待つ数時間に、彼はある決意をする。この比較的小さな出来事をなかったことにはしないこと、そしてこれからは、自分自身の権利のみならず南アフリカのインド人コミュニティーの権利のためにも立ち上がることを、心に誓ったのである。そこに住む人々の多くは、彼が経験したよりもはるかにひどい扱いを日常的に受けていた。

何を学ぶかは、その人の心が決める。 学校で何を学ぶのか。 大人の限界を超えて、子どもには学んでいってほしい。 これから、世の中をおもしろくしてくれる、仲間。 大人として、伝えられるものはなんなのか。 教師として「教えなくてはいけないことと、教えてはいけないこと」が何か、僕は悩み続けている。 はぁ・・・・ 他の先生といろんな話もしたいんだけど、理解されないだろうという学習性無気力が僕を襲う。 https://otonone.com/wp/psychotherapy/learnedhelplessness/ 沈黙する大人。 子どもが沈黙する、日本の言語環境。空気読む(言葉が育たない)文化?? 大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。 行為レベルでしか話ができない大人。 言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。 経済活動としての「言葉」 コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】

ここでは受け手の「制約」について二つのことが言われている。第一に、受け手には、身体的、文化的、感情的制約があり、その範囲を超えたメッセージは無視される、ということである。第二に、受け手が経験に基づいて感情を変えるという意味での学習過程を作動させていなければ、コミュニケーションは成立しない、ということである。この両者は矛盾しているわけではない。第一の場合は、受け取り可能範囲の問題であり、そこを超えたメッセージは「無視」される、ということである。第二の場合は、たとえ受け取り範囲にメッセージが入ったとしても、それによって受け手に「経験に基づいて感情を変える」という出来事が生じなければ、メッセージは何の変化も起こさず、それゆえ「何も新しいことはない」という形で処理されてしまうのである。これは「黙殺」と言うことができる。先ほどのキャッチャーの比喩でいえば、たとえキャッチャーの受け取り可能なボールが投げられても、キャッチャーに受け取る気がなければ、ボールは受けられない、ということである。(『経済学の船出』安冨歩 p.118)

そんな世界で、笑いながら死んでいく心を、僕は学ばなくちゃいけない。 自立しないといけない。 それが僕の課題だとあらためて、感じた。 僕ももっと堕落しよう。

「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

さて、さてさて!!!!! あと、よくあることで、クレームには反応するけど、他の「いいところ」には無関心、というのもどうかとおもう。そういう情報も流してくれないと心がもたない!!!!! 「成績が悪い」ことに目を向けて、「その子の成長」「得意分野」が見れない、伝えられないのでは、人間としてどうか。(大人だから、伝えなくてもいいい、のなら、大人同士は学び合えないことになる。それでいいの?いいわけがない) 僕も、誰も、完璧なんてものはない。 そういう姿を認め合った上で、馴れ合わない。 オトノネをそういう学びの場所にしたいと僕はおもっている。 こころー 暴力から身を守る、ガンジーの知恵から学びたい。 彼がやったことは、非暴力不服従であって、無抵抗ではないのだ。 伝わらない。 対話がない。 どうやって僕は息を吸ったらいいのか。 僕が学ばないと、僕がつらい。 僕が僕の感性、自分を守るために、この「平和」な世界と折り合いをつけることも、必要なのだろうけれど。 僕の僕に対する積極的自己責任だ。 https://otonone.com/wp/kotoba/sekinin/sekinin/ ガンジーで調べていたらでてきた。 読んでみようかな。 僕は子どもから「命」を搾取する支配者でありたくはない。(現状維持に、学びはない。それを秩序というのだろうけれど) https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/051200284/

 

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費を概算して気が付いたこと「学校基本調査」

まず下調べ

最近情報が大量に入ってきて処理しきれていないおとのねさん。 夜更かしして記事を書く。。。もう掘っても掘ってもこんなことしか出てこないからもう情報発信しなくていいかなとおもってしまうくらい、でるわでるわ。おとのねさん、堕落中。 校基本調査 平成28年度 初等中等教育機関・専修学校・各種学校《報告書掲載集計》 学校調査・学校通信教育調査(高等学校) 総括 ちょっと古い2016年のデータです。 何をしたいかというと、公立高校が高校生ひとりにかけている税金の概算をしました。 「そういえば、おとのねは授業料で悩んでいるけど、学校はどれくらい取っているのかな?」というのが、疑問でした。 ーーーーーーーーーーーーーーー 設備費は含めず、人件費だけで計算。だから、少なめに見積もっている。 正規雇用の教員のボーナスも含め、新卒者を30万とした。とっている人(年も、給料も)は50万。 だから「少なめに見積もって」平均を40万とした(明らかに、若い人が少ないので平均はもっと高いはずだが) 兼務者というのは非常勤講師で月収は少ない。職員(事務室にいる先生)も少なめに計算した。 最近増えているALTの給料がこのデータには入っていない可能性もあるからかなり低めに見積もられる。 教員と職員の違いがわからなかったけど許してください。 あと、文科省がエリートをつくるための予算でHSGとかなんとかよくわからないものをくっつけているので実際は当然もっと高くなります。 で、結果がコレです。 (全国を母集団にしています) 生徒が学校に通う10ヶ月間で月額を計算。 一人当たり。。。 高校生は4万4千円。 中学生は4万円。 小学生は3万5千円。 え??? 高校生の方が小学生よりも手厚いの??????? びっくりしました。 人件費以外もだいぶ減ってきているようですね。この記事は2008年で古いものですが。今はもっと減っているのか。「実費」といって、保護者からお金を取るようにしているのか。どうなっているんでしょう。予算が足りなくて家庭からお金を出してもらわないといけないのでしょう。無償化されたのは公立高校の授業料だけなんですね。(どこかの塾みたいに教材費とか設備費とかとるのかな…) 教育委員会から学校に任されるお金=学校配分予算は、小学校の場合、児童一人当たりの金額の水準はこの8年間に25%もカットされてしまい、一人当たり年間8500円となりました。 それにしても。。。 え??? 高校生の方が小学生よりも手厚いの??????? 小学校の方を、大切にしてほしいのだが(そうおもうのは僕だけでしょうか)。 幼児期に「お母さん」の心を豊かにすると、子どもはしあわせになる。学童期の「子ども」にお金をかけて大丈夫?

富山・石川は教育県ではない

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと

たまたま「オトノネの授業料いくらにしよう」かと調べ始めた「学校の人件費」、学校基本調査というものを全国でやっているデータが見つかったので統計をとってみました。 データは全てここから出しています。(前の記事のデータと数字が合わない場所があるのですが。気にせず、このデータだけを使いました。H30年度の調査です) 学校基本調査 計算の仕方はここに書いてあるのと同じです。 公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費を概算して気が付いたこと。 色付けは、 濃い青:ワースト10 薄い青:ワースト20 オレンジ:トップ20 赤:トップ10 です。 「数千円の違いか」とおもうかもしれません。 そこから何を学び取れるでしょうか?どんな気づきがあるでしょうか? ただの数字の集まりに、どんな意味をみつけられますか? ーーーーーー 僕がデータをつくりながら感じたこと。 1:このデータは富山県・石川県が教育県であることに肯定的な結果を示さなかった。 もしこのデータをみて「富山は教育県だ」「石川は教育県だ」と言える人がいたら、きっと僕の言っている「教育」とその人の「教育」は違うんだろうとおもいます。 2:人件費を教育にかけていない県と年間平均所得が高い県の相関関係がありそう。(実際富山・石川の所得は全国平均よりそこそこだいぶ高い。) 3:高知すげー!!!!!九州すごい。 概して、富山県(石川県も)は格差社会・教育格差が山陰地方でもずば抜けて進行している。(富山県は「教育格差県」である) 概して、所得が低い県のほうが、教育にお金を使っている。 概して、これから、高知県がどうなるか、気になる!!!! 記事に書いたかどうか忘れたが、路上の犯罪検挙数は、なんと人口の割合にして東京都同じなのが、富山県である。 東京が危ないというなら、富山も同じくらい危ないということもできる。 少子化、少子化といっているが、問題はそこではない気がした。 だって、人口が増える(流入)傾向にある都市部と同じ傾向が、人口が減る(流出)傾向にある富山県にはあるのだから。 興味深い、不思議なデータだ。 教育にかかる人件費と路上犯罪検挙数の相関があるだろうか。 宿題! このデータ分析の続編を知りたい方はこちらからどうぞ。教員一人当たりの生徒数を計算しています。

その3

計算方法はこちら 公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費を概算して気が付いたこと。 この一つ前のデータを出した後で、「先生一人あたりの生徒数」も出してみようとおもい、出してみました。 授業だけ担当する非常勤の先生は計算に入れていません。 続・富山県は教育県ではない。各都道府県の「学校基本調査」からわかること1 ーーーー 僕はこんなことをおもいました。 「授業の空き時間」とか無くしたら、「学校の先生が全員子どもたちと一緒にいたら」 1クラス10人になる!!!! え? それが僕の収穫でした。 みなさんは、どんな気づきを得られましたか? ぜひコメントしてください^^

高度経済成長期を夢見ながら産業革命(近代)の名残を残す化石のような教育を動かすもの。

公立高校はもう崩壊しているらしい。 元公立高校で働いていた先生の言葉だ。 13年(この数字の意味は何だっけ??)前は教員をやめるという選択肢など考えられなかった。 けど今は、若い人がどんどん、正規採用された後でも、辞めていく。 教員という仕事に魅力がない、つらい、先生が学校で子どもと関わることに喜びを感じられない時代。 この記事は数値として、その先生の「学校観」に一致する現実を僕らに見せているとおもう。 公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと1 公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2 公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと3 今、多くの人は近代的な思考で生きている。 簡単に言えばニュートン的な、絶対的な、運命論てきな、機械論的な、「ああすればこうなる」という世界観。 実際、そんな世界だ。 けれども今は量子力学の時代。不確定性、相対性、何をとっても「ん?」と疑問を投げずにはいられない時代。 トヨタも「終身雇用制は終わった」と宣言する時代。 「不安定」を生きる時代。 が 変わりゆく時代でなかなか変わろうとしない学校。 管理職は毎日、何かあると心の中でこう呟くそうだ「たのむ、俺が死ぬまで何も起こさないでくれ!」 何も起きずに定年すれば、天下りもできるし、退職金もバッチリ入るからだ。 政治の世界とかわらない人間らしい姿だ。 ーーーーーー 教育は政治を変えようとはしていないとおもうのは僕だけだろうか。 政治が変わらないように教育しているかのようにおもう。 こんなページがありました。 18歳選挙権と「政治の生々しさ」を扱えない学校教育の限界 政治や宗教について、学校は何もしない。 「宗教や政治について喋る」ことがタブー視されている。 法律違反をしている。

教育基本法 (政治教育) 第十四条 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。 2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。 (宗教教育) 第十五条 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。 2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

ーーーーー そんな化石のような学校で、東京か神奈川かどこかの公立の校長先生がいろいろ変えたというニュースが話題になった。 金沢でも西南部中学校がテストを廃止したとかなんとか。 麹町中学校の校長が「宿題」「担任制」「中間・期末テスト」を廃止した意外な理由 変わろうとしている先生もいる。 学校の外で、早々と新しい教育のカタチを模索する人もいる。 学校に合わない人は、新しい時代をつくっていく人たちだ。 オトノネは、課題や宿題に埋もれてしまった命が子気味よく深呼吸できる場所でありたいとおもう。 ーーーー 追伸 金沢市(石川県?)では、行政が運営する「師範塾」という教員養成機関があり、退職した校長らが教鞭を振るっているらしい。 名前を聞いたらわかるように、むかーしむかしの「師範学校」時代を懐かしむ会であるという。 円満退職していく学校の先生をさらに雇用する制度をつくる意味がわかりません。 年金も、終身雇用もなくなる時代。 わけわからないからみんな「わかりやすく」昔ながらの受験勉強をするのかもしれません。 わけがわからない世界と「ちゃんと」向かい合うことは、遊びを通じて、子どものときに学んでいるとおもうのだが。

 

学校教育とお父さんのイライラの関係

 

よく聞く話だ。本当によく聞く。

お父さんが手をあげる人だという話。お父さんがお母さんを悲しませるという話。お父さんとお母さんの人間関係から、子どもは多くを学ぶ。(お父さんが不在の方がいいのではないかとおもわれる家庭もある)

お父さんが悪いの?

なんでお父さんは手をあげるの?人を傷つける言葉を使うの?

会社で擦り切れてしまっているのかもしれない。お父さんは忙しくて、休めていなくて、イライラしているのかもしれない(心を守る方法を身につけられていない??職業は選べても会社は選べない??)

自分の心を守る!

 実はこれ、学校制度が原因ではないかと思う節がある。

男の子は女の子よりも発達が遅い。女の子の方が生物的に思春期が来るのが早いし、男の子は甘やかされるのか、高校生になっても小学生のような顔つきをしている子がいる。ベルトコンベアーに乗せられて小学校、中学校、高校へと進んでいく男の子たち。発達の段階を飛ばしているのではないか?とおもってしまう。

男女差を考えずにみんな同じ年齢で学校に行けば男女差がうまれる。3月生まれの子と4月生まれの子が一緒に入る学校に行けば月齢差が生まれる。世の中ももちろん、たくさんの「差」の間で暮らすわけなのだが。その「差」が生み出す出来事の一つ一つを吟味して、「これはこの子にはしんどすぎる」とおもったら、親は子どもを守るために、手を打った方がいいのかもしれない。(少なくとも、無理が祟った後はすぐに!子どもからSOSがでたらすぐに!)保護者という言葉は、親権者とは違うのだ。

ストレスはどこにでもある。いじめもどこにだってある(大人の社会こそ、いじめでなりたっている)。大人と同じように、子供も生きている。子どもは学ぼうとしている。大人が子どもを見習って、一緒に学ぼうとするだけで、暮らしがリッチになるとおもうのだが、いかがなものだろうか。大人もコドモから、成長する心を学んでいき、コドモも大人から生き方を学ぶ、学び合いのサイクルさえあれば、大人もコドモも、しあわせになれないだろうか。

 

言葉の遅れ?言語遅滞?専門家・プロがいない日本でどうしたらいいか。

言葉の遅れ?言語遅滞?専門家・プロがいない日本でどうしたらいいか。

みんなね、子供が生まれたらね、まずオトノネに来たらいいよ。
と思う。

ーーーーーー

日本には、専門家がほとんどいない。

ということは知っておいたほうがいい。

子どもの自閉症と日本の療育
言葉の遅れに関しても、いやいやどうやって関わったらいいのか、マニュアルは伝わっているが、心が伝わっていない。
本質が伝わっていない。手順だけ伝わっている。

そんなマニュアル大国の日本で、こういう情報をみんな知っているんだろうか?
言葉の遅れを、一週間に一回、数時間の定期テスト対策じゃどうしようもない。
というかすべてのお母さんたちが、知っていたらいいのにとおもうことだ。

言葉は心。
伝わっているのか。
大人の工夫でだいぶ子供も楽に学べるようになる。
コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】

学校も塾も医者も、専門家がまるでいない。
専門家がいないのだから、プロという言葉、本物という言葉の意味もみんな知らない、というのが現状だから、どうしようもない。
経験値だけ高いアマチュアが、プロと名乗っているのだから、どうしようもない。

いないものはしょうがないから、諦めるしかない。

ーーーー

この記事を書こうとおもったきっかけはコレです。

で、さらに、youtubeでの実演。

2語をちゃんと、伝える、大人の、子供への、言葉の離乳食。
本来なら「自然と」子供の反応をみて、こういう選択をする賢いお母さんの子が、知的に育ち、言葉と心を鍛えていたのだろうが。
今は、それがどうやら、「自然」にはできない事情ができたのかもしれない。

ーーーー

子育てをアプリに頼る時代、人間のマニュアル化の最先端であり伝統でもある学校の現場だけでは済まされなくなった人間疎外社会をどう生きるか。

 

もしかしたら、人間を諦めて、ロボットになったほうが、楽に死ねるんじゃないかとおもう。

言葉を覚えるのはいつだろう。
勝手に「自然に」覚える、その「自然」が、試される。
家庭、保育園、学校、地域、言葉を学ぶ、「自然」のリッチネスが、試される。

アメリカの古い、昔からある研究だが、「言葉」の発達は、上流階級の子供の方がいいそうだ。
親が抽象語を使うから、論理的に話すから、だという。

50%は遺伝、50%は環境と言う。
だが「言葉」はもっと高い割合で、環境だと、ぼくは思う。

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