Stage1

レッスン4《思考力》「読み取る」とは

小論文の要約、読み取ること現代文の如し。本文・筆者の言葉を使っていいの?

小論文必須の要約問題

「読み取り」は課題文はもちろん、問いを「踏まえる」ためにも必要です。

問いを読み取れなければ、「え?そんなこと聞いていないよ?」と言われてしまいます。茨城大学人文社会科学部現代社会学科の小論文出題意図からは次のメッセージをいただいています。

 

県立広島大学れいわ2年度社会人特別選抜小論文で「筆者の考えを読み取る能力」とでてきます。「踏まえる」まえに「読み取る」ことが必要です。そしてこれは、現代文の能力です。

 

本文・筆者の言葉を使って良いか。ー伝わるかどうか。

また、「読み取れた」ことを伝える要約問題。

どこまで「作者の言葉を使って良いのか」気になるところですが。

答えは明確です。

 

高知大学社会科学コース出題意図

要領よくまとめ簡潔に説明することが求められています。

「課題文を読んでいない人に作者が何を伝えたいのかを説明できる」くらいにはわかりやすく。ということでしょう。

「踏まえて」表現するために、筆者の言葉を流用していいのか

神戸大学の小論文でこんな問いがあります。

問一 傍線部1に「しかしこの常識がまったくの錯覚であることは、『私』自身の『内面』の体験をのぞいてみただけでもただちにわかる」とあるが、具体的にどのようにしてわかるのか。三〇〇字以内で説明しなさい。(配点四〇点)

問二 傍線部2「『エス』の実質的な内容」を筆者はどのように考えているのか。四〇〇字以内で説明しなさい。(配点六〇点)

問一 本文中に二箇所ある傍線部(ア)の「根本的矛盾」とはどういうことか、本文の内容に即して、一〇〇字以内で説明しなさい。 (配点三〇点)

問二 傍線部(イ)で「両義的存在」とあるが、どのような意味で両義的なのかを説明した上で、それに着目することがなぜ「不可欠」 なのかを二五〇字以内で説明しなさい。(配点五〇点)

「踏まえて」ではないな笑

 

 

筆者の言葉を、文中にある言葉をそのまま使って説明できるのか?そんなもので、「自分が理解した」ことが伝わるのか?

それが僕の疑問でした。

僕が受験生のころに習ったのは「抜き出し」「キーワード・語彙の流用」でした。

けれども「問い」にはそんな制限は書かれていない。果たして・・・・

「私は理解しました」ということをどのように伝えられるのか。

大学の出題意図に見る「読み取り」の重要性ー現代文じゃないか

小樽商科大学の2020年夜間主推薦・社会人入試小論文の出題意図には次のように書かれています。

一番最初が「読み取り」の項目です。読み取れていなかったら、「踏まえる」項目がおぼつかなくなると思いませんか?

 

令和2年度国際文化交流学科一般入試(中期日程)小論文出題意図では次のように。

「読み取る」ことが、最初の一歩。

「読み取る」ことは言葉を抽象化・具体化して出題者・筆者と出会うことー現代文と小論文の境目

「読み取り」は課題文に対しても、出題者の問いに対しても行わなくてはいけません。

その問いを理解するために、抽象化したり、具体化をする必要があります。

 

立教大学社会学部の小論文の解答例【出題者の意図を読み取れなかった件】

北里大学獣医学部の小論文解答例【出題者の問いを読み違えた件】

さっき言った折口信夫の「貴種流離譚」、柳田國男の「御霊信仰」……。 そ ういう名づけが大切なんですね。

偉い学者ならともかく、自分ごときが命名するのはてれ臭いと思うかもしれません。でも、 これはつけたほうがいいんです。なにも世間に発表しなくてもいい。自分が考える便宜として、 名前をつけたほうがずっといいんですね。しかも、できるだけ華やかな、派手な名づけをする ほうがいい。

僕は、『忠臣蔵とは何か』のなかで、塩冶判官と早野勘平を一つの型にくくり、高師直と鷺 坂伴内をもう一つの型として対立させ、前者を「春の王」、後者を「冬の王」だと名づけた。 そして、この物語を、春の王が冬の王に追われて死に、後にそれが復活するカーニヴァル文学 だと論じたわけです。

最初は、「春と夏の王」とか、「冬と秋の王」とかつけようかなと思ってたんです。そのほう がほんとうは正確なのね。でもやっぱり春の王と冬の王とやったほうが印象が鮮明だし、華や かでしょう。そう名づけたら、自分の心のなかでも考えがはっきりしてきたんですね。 ――なるほど。名づけによって考えが整理されて、思考がさらに深まることがあるわけだ。

(『思考のレッスン』丸谷才一 p.224)

出題者の意図を「読み取る」重要性:出題者に出会う「読み取り」

 「考える」ための小論文

書くことが他者との関わりであることは、すでに述べた。小論文の場合その関わりは読 むところから――すなわち設問に向き合うところから始まっている。そこでまず出会う他 者は出題者であり、課題文がある場合はその筆者が第二の他者である。目の前にある設問の背後にそれらの他者を感じることができるかどうか、そして自分の書いた文章の向うに 読者としての他者がいることを意識できるかどうかは小論文の「でき」を大きく左右する。 第一章で説明したように、小論文は単なる一人遊びではなく、他者とのコミュニケーショ ンの試みでもあるのだから。

出題者は目に見えない。大学の関係者であること以外は、名前も年齢も性別も、いい人 なのかいやな奴なのかもわからない。だが、少なくとも出題者としてのその正体は目の前 の設問が明確に示している。言い換えれば、設問は出題者の、出題者としての嘘偽りのな い声である、その声は、たとえば「世界には(現代には)こんな難しくてややこしい問題 があるんだぞ、さあどうする」と問う。あるいは「人間というのはこのように奇妙なやっ かいな生きものなのだが、そのことを君はどう受けとめるのか」と問うたりもする。押し つけがましい声もあれば、やさしげな声もある。私たちはその押しつけがましさをはね返 さなければならないし、やさしげな声に乗せられないように気をつけなければならないの だが、まずはその声をちゃんと聞き取ることが重要だ。

出題者は何かを要求する人である。そして、いまあげたように、何かを「問う」人でも ある。したがって、まず必要なことは、その要求を理解し「何が問われているのか」を把 握する作業だ。これを「出題意図(題意)の把握」と呼ぶ。(『「考える」ための小論文』p.80)

 

設問を理解する

設問は「本文中にある文化相対主義について、今日の国際化した 社会にいるあなたはどう考えるか、意見を述べなさい(三○○字以内)」というものだった。

この問題にかぎらず、まずは題意を明確にしなくてはならない。つまり出題者はいった いどういうことを問いかけているのかといったん立ち止まって考えてみるのである。 まず課題文のなかに、経済発展を求める相手の民族自身が文化相対主義をしりぞけよう。とする、という指摘があったのだから、「あなたはどう考えるのか」という設問は、「あなたは文化相対主義は必要(意味がある)と考えるか」と考えてほぼまちがいない。さらに 設問には「今日の国際化した社会」という言葉があるから、これと結びつけてみれば、 「今日の国際化した社会において文化相対主義は必要か(意味があるか)」ということが問 われていると考えてよいだろう。 (『「考える」ための小論文』p.177)

 

 

小論文を学ぶ―知の構築のために

『小論文を学ぶ―知の構築のために』長尾 達也

受験生の半数ぐらいの人は,課題文はそれなりにしっかり読もうとするが,設問文 についてはあまり注意深く読もうとしない。字数制限ぐらいははっきりと意識しても, 何について論ずるのかは明確に読み取ろうとしない。例えば,「○○について,本文 を踏まえた上で,論じなさい」という設問文があるとき,「○○について」論すればい いと早合点して,本文を踏まえない(前提としない)文章を平気で作ったりする。ある いは,設問文のなかに論点についての重大なヒントが隠されているときに,それをい いかげんに読み飛ばして、ろくでもない答案を作ったりする。 

設問は貴重なヒントの宝庫と思って,しっかりと意識して厳密に読むことが必要で ある。設問を安易に考えないことである。 例えば,次の問題を見てみよう。 例 愛媛大(人文)[前期] 次の文章を読んで,あとの設問に答えなさい。

あるときのこと,毎週の試験の折に,「人間とは何ぞや?」という題を先生は出 された。もちろん答としては,肉体プラス霊魂という風な公式を基として論を展 開すべきものであったし,それは十分心得ていたのに,僕は,何か虫の居どころ が悪かったせいか,「H2SO+……二人間」という風な,全く物質主義的な答案 をわざと書いてしまった。例によって、でたらめなフランス語で綴る善意 Bonne Volonte(注)まで棄てていなかったので,その時も,たしか75点(?)ぐ らい頂戴できたと思うが,授業がすむと,僕は,アンベルクロード先生に,廊下 へ呼び出されてしまった。そして,先生は僕の考えがどんなに浅はかなものであ るかを,懇々と説かれた。先生は、少しも怒ってはおられず,むしろ眼に涙をた めておられた。生意気な中学生の僕も,これには撃たれてしまった。いまでも, あのときの先生の悲しそうな顔は忘れられない。 注)「誠意」もしくは「善意」を意味するフランス語 出典渡辺一夫「アンリ・アンベルクロード先生のこと」『渡辺一夫著作集12,偶感集 下巻』
設問 これは高名な人文学者である渡辺一夫(1901~75)が,その少年時代(16, 7歳頃)の思い出をつづった文章の一部です。ここに示されている二つの人間観 について,今のあなたならどのように答えますか。500字以内で自由に論じなさい。

設問の波線の部分が要注意部分である。受験生は往々にして,こうしたことは単な る本文の「解説」だと思い込み,波線以下の「ここに示されている二つの人間観につい て,今のあなたならどのように答えますか」というところだけに注意を振り向ける。 それが,そもそもの間違いである。ここは,じっくりと波線部分で何が述べられてい るのか検討しなければならないのである。

波線部分をしっかり読めば,渡辺一夫という人物が相当に昔の人であり,したがっ てその人が16歳頃のことといえば,1916年頃の話ということがわかる。まだ20世紀に なったばかりの頃の話である。こうしたことが分かれば,設問の意味も判然としてく るだろう。つまり,そうした時代的背景を考えながら,「今のあなた」はこの人間観に たいしてどう思うかということを設問は聞いているのである。

ここまできて,やっと設問に答えることができる。つまり,こうした古い人間観に たいして,現代的視点からそれを批判的に検討すればよいのである。(『小論文を学ぶ』長尾達也 p.28)

筆者の思いは何か。課題文を超えて筆者と出会うための「読み取り」

出会うために必要なことの第一は、筆者が何を言いたいのかを把握する作業、いわゆる 「読解」である。「読解」というのは、筆者の問いかけや主張の核心と思われる部分をくく りだし、そこにどんな「問題」があるのかを把握すると同時に、主張や問いが導き出され る過程――論の流れを把握する作業だが、それだけでなく、とくに重要なのは、筆者の言 葉がどういう場所から発せられているのか、また筆者の主題が人間の生や現代社会とどの ように関わっているのかをつかむことである。

課題文には、一人称のない、いかにも客観的な、冷たい說明文のようなものも多い。し かし、そこには単なる「課題」があるのではない。私たちの同時代を生きている生身の人 間が発した声があるのだ。たとえば「地球環境問題」にしても「日本とアジア」にしても、 課題文はそれを「われわれの問題」として提示している。つまり、あらゆる主題の背景に、 この時代の人間が直面している具体的な問題状況や可能性が存在している。言い換えれば、 あらゆる主題の前提には、いま、現に生きられている人間の生がある。 「だからこそ、それらの問題は私たち自身の問題として考えることができるといえる。課 題文に触発されるということは、それが私たち自身の問題であることを意識的に確認する ことと、不可分である。 (『「考える」ための小論文』p.85)

「あなたの考え」がでてこないのは「読み取り」ができていないから?糸口をすくい取ろう。

「言いたいこと」は、「読み」から出てくる。このことを、もう少していねいに説明しよ う。課題文を読みながら、何かを感じる。その「感じ」はたとえば漠然とした共感であっ たり、反発であったり違和感であったりする。その、共感、反発、違和感などなどに「自 分」が存在している。課題文が他者によって書かれたものである以上、「自分」とぴった り重なるわけではない。「なるほど」と思ったにしても、じつはそう思った瞬間のその思 考は、すでに課題文とはズレている。そのズレ、その距離を確かめること。そこに「自分 の問題」としての主題があらためて見えると同時にイイタイコトへの糸口が見えている。 漠然としてかたちにならない共感なり違和感なりを、きちんと言葉にしようとするとき、 自分なりの視点や切り口がかたちになる。その先に、自分なりの主張が見えてくる。 (『「考える」ための小論文』p.101)

思考のダンスホール:抽象と思考と世界と私

Iの部分は、私たちが直接経験している、あるいは今まで経験してきた自分の身体のま わりの具体的なできごとの世界。言い換えれば自分だけの現実世界。

そしてⅡの部分は、 私たちからは遠い、世の中や世界の具体的なできごとの世界。私たちは、知識や情報とし てそれを経験する。ここは、他者と共有している世界であるともいえる。人は、世界のな かで生き、世の中と関わりながら生活しているから、原理的にいえばIとⅡは地続きであるが、今日の複雑な社会では、この「地続き」が実感されにくくなっている。その一方で、 世界中からモノや情報や人が流れこみ、「ボーダーレス」などといわれる現在、世界での さまざまなできごとは私たちの生活とけっして無縁ではなくなってきている。

Ⅲの部分は、人間や世界にまつわる、抽象的な理念や概念の世界。神、真理、正義といった大きな理念だけでなく、精神の豊かさとか、まっとうさというような言い方もこの世 界の言葉である。また「社会構造」とか「普遍性」というような概念も同様だ。

Ⅱは、現 に生きられている世界の現実だが、これが他者と共有されていることは、このⅢの世界の 言葉によってはじめて確認できる。つまり人は、Ⅲの世界を、いわば参照することによっ て山の世界を確かめることができる。このⅢの世界の言葉は、本来Ⅱの世界にもとづいて できているのだが、現に生きられている世界が絶え間なく変化し、人間の生の在り方も変 化しているから、現実から浮いてしまい、言葉としての有効性を失う危険をつねに持つ。

Ⅳの部分は、「私」なるものをめぐる、抽象的な概念の世界。「自己」とか「自己同一 性」とか「身体」というような概念だけでなく、「元気」とか「頑張る」というような表 現も、じつはここに属する。また、IとⅣとの関係は、ⅡとⅢとの関係と同様なものとし てイメージできる。人はこのⅣの世界で成立した言葉を自己の内面に植えつけて信じたり、 その言葉を自分の内面に照らし合わせて疑ったりする。つまり、Ⅳの世界のさまざまな言 葉によって、人は「自分」をつかまえ直す。

小論文の主題というのは、この図でいうとⅡの部分、つまり世界が抱えた具体的な問題 として示されることが多い。たとえば「科学技術と人間」というようなテーマがそうだ。 しかし、課題文の筆者は、人間にとって科学とは何なのか、神なのか悪魔なのかといった 具合にⅢの部分へと問題を移し替えて考えている。また、たとえば「自己とは何か」とい うような主題は、Iの部分とⅣの部分を往復するようなテーマだが、そこからさらにⅢの 部分をうかがうような契機も含んでいるといえるだろう。

大体、そんな感じでこの図を理解してもらいたいのだが、むろん、これですべてが說明 できるわけではない(たとえば、「民族」という概念はどうか。また「民主主義」という主題は、 どうなのか)。そのことを念頭において、以下を読んでほしい。

「自分にひきつけて」「具体的に」というのは、つまりIの部分から出発することをお薦 めしているわけだが、先に説明したように「自分の経験」は、Ⅱの部分においても成立し ているから、そこから出発してもいい。 

出発点がどこにあろうと、重要なのはこの四つの部分を動き回るように、ただし、静か に丹念に言葉をつないでいくことだ。(『「考える」ための小論文』p.119)

 

「自分の考え」を「読み取り」できないとどうなるか:思考の癖を意識しないと空論が生まれる

論文というのは、IやIの部分を足場として、ⅢやⅣの部分で「自分なりの言葉」を成立させようとする営みだが、ⅢやⅣで、きちんと精密 に思考をめぐらすことが、まず難しいことであるうえに、抽象的な言葉を使って思考する とき、IやⅡの具体性から浮き上がらないようにすることも、また難しい。

まれにⅢとⅣのところだけで考えているように見える、成功した答案もあるが、すぐれM た論述というのは、必ず思考が具体的な場面を通過している。(ただ、そこを省いているわ けだから、よほど言葉に力がないと他者に伝わるものにはなりにくいのは確かなことだ。)

よくない例に当てはめていえば、もっともらしいだけの一般論というのは、この「思考 の動き」がいかにも表面的で、主体的な動きとして感じられないものになる。また、「何 が言えるか」から発想した場合、この図でいえば、いきなりⅢの部分から出発して、どこ へも行けないまま抽象的な言葉を羅列し、結論部分でまたいきなりIやⅣにワープするこ とになりがちだ。いきなり「人類は」から始まって、最後に「自分も努力したい」とか何 とかとってつけたように書き添えて終わるような答案だ。 「自己」とか「アイデンティティ」といった問題の場合、Ⅳの部分で言葉がぐるぐるまわ ってしまうことも多い。これは具体的な、現に生きている自分を見失っているか、そこを 「見る」ことを避けているからそうなるのではないかと思う。

いきなり「具体的な自分」から遠いところから考え始めると、そうなってしまうパター ンが多い。これがIやⅡから出発することをお薦めする理由だ(ちなみにこの、抽象的な場 所から出発してそこでぐるぐる回っちゃうだけというパターンは、どういうわけか、圧倒的に男子学生に多い)。 

逆に、Iの部分だけで、字数のほとんどを費やして、たんなる「おしゃべり」で終わっ てしまうというパターンも多い。これは、具体的なエピソードを要領よく説明することが へたでそうなったか、あるいはそれがうまくいくので、そこでノリすぎてしまってそうな ったか、考えることが苦手でそうなったか、実際どうなのかはよくわからないが、ともか く、その経験を十分にとらえ返して考えられていないし、その意味を説明してもいないわ けだから、読み終わってから「それで?」と聞きたくなるようなものになる。「言いたい こと」がわからない、というやつだ。

具体的な経験だけをていねいに描写して、論文として成立する場合もある。しかしそれ は、叙述が「世界」や「他者」との関わりを描いている場合に多い。また、すぐれた叙述 というのは、具体的なものごとを表現するときに、抽象的な言葉をうまく使っているもの だ。つまり、Iの部分から離れないかっこうで、思考はⅣやⅢをめぐっているのだ。

『「考える」ための小論文』p.122)

現代文の要約問題?「説明せよ」と小論文は同じ?自分の言葉で説明するとは。

要約の問題しかり、説明しかり、課題文の言葉をそのまま抜き出してどうこうすればいいのか。

と、僕はおもいました。

「自分の言葉」で説明する必要があるのではないか。

いやそれでは「筆者の」言葉ではなくなるのではないか。

しかし、私が筆者を理解したというメッセージを「筆者の言葉」を並び替えるだけで採点者に伝えられるのか。

どうおもいますか?

「どういうことか、説明せよ」

といわれたら?

東大入試に学ぶロジカルライティング

 

 

こんな問いがありましたとさ。

問1: 「「ウレシソウ」に振舞うというジェスチュアに跳びかかる」(傍線部ア)とあるが、 どういうことか、説明せよ。(東京大学入試問題2008)

 

こんな答えをしてみましたとさ。

ことばとからだの本来的な結びつきを切り離し、セリフに示された感情を単なる表層の身振りで表そうとすると。 (駿台の解答例)
「嬉しい」というセリフが発せられるまでの内面的なプロセスを表現せずに、外面的 に「嬉しそう」に見える定型的な動作を行おうとすること。 (代ゼミの解答例)
舞台で本当に涙を流す役者への賛嘆の言葉には多分に皮肉の調子が込められており、 真に受けることはできないということ。(教学社の解答例)

どうですか。

本当にこの人わかっているのか。

確信が持てますか。

本文を読んでみる。

説明する言葉は筆者が使っています。どれだけ筆者と、言葉を共有できるか。それは筆者が伝えようとして文章すべてをみてわかるものです。

みてみましょう。

 

次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

二流の役者がセリフに取り組むと、ほとんど必ず、まずそのセリフを主人公に吐かせている感情の状態を推測し、その感情を自分の中にかき立て、それに浸ろうと努力する。たとえば、チェーホフの『三人姉妹』の末娘イリーナの第一幕の長いセリフの 中に「なんだってあたし、今日はこんなに嬉しいんでしょう?」(神西清訳)という ことばがある。女優たちは、「どうもうまく『嬉しい』って気持ちになれないんです」 といった言い方をする。もっといいかげんな演技者なら、なんでも「嬉しい」って時 は、こんなふうな明るさの口調で、こんなふうにはずんで言うもんだ、というパターンを想定して、やたらと声を張り上げてみせる、ということになる。「嬉しい」とは、 主人公が自分の状態を表現するために探し求めて、取りあえず選び出して来たことばである。その〈からだ〉のプロセス、選び出されてきた〈ことば〉の内実に身を置くよりも、まず「ウレシソウ」に振舞うというジェスチュアに跳びかかるわけである。

もっと通俗的なパターンで言うと、学校で教員たちがよく使う「もっと感情をこめて読みなさい」というきまり文句になる。「へえ、感情ってのは、こめたり外したりできる鉄砲のタマみたいなものかねえ」というのが私の皮肉であった。その場にいた全員が笑いころげたが、では、感情とはなにか、そのことばを言いたくなった事態にどう対応したらいいのか、については五里霧中なのである。

この逆の行為を取り上げて考えるともう少し問題がはっきりするかも知れない。女優さんに多い現象だが、舞台でほんとうに涙を流す人がある。私は芝居の世界に入っ たばかりの頃初めてこれを見てひどく驚き、同時に役者ってのは凄いものだと感動した。映画『天井桟敷の人々』の中に、ジャン・ルイ・バロー演じるパントマイム役者 に向かって、「役者はすばらしい」「毎晩同じ時刻に涙を流すとは奇蹟だ」と言う年寄りが出てくる。若い頃はナルホドと思ったものだが、この映画のセリフを書いている人も、これをしゃべっている役柄も役者も、一筋縄ではいかぬ連中であって、賛嘆と皮肉の虚実がどう重なりあっているのか知れたものではない

数年演出助手として修業しているうちにどうも変だな、と思えてくる。実に見事に華々しく泣いて見せて、主演女優自身もいい気持ちで楽屋に帰ってくる―「よかったよ」とだれかれから誉めことばが降ってくるのを期待して浮き浮きとはずんだ足取りで入ってくるのだが、共演している連中はシラーッとして自分の化粧台に向かっているばかり。シーンとした楽屋に場ちがいな女優の笑い声ばかりが空々しく響く、といった例は稀ではないのだ。「なんでえ、自分ひとりでいい気持ちになりやがって。 芝居にもなんにもなりやしねえ」というのがワキ役の捨てゼリフである。

実のところ、ほんとに涙を流すということは、素人が考えるほど難しいことでもな んでもない。主人公が涙を流すような局面まで追いつめられてゆくまでには、当然いくつもの行為のもつれと発展があり、それを役者が「からだ」全体で行動し通過してくるわけだから、リズムも呼吸も昂っている。その頂点で役者がふっと主人公の状況 から自分を切り離して、自分自身がかつて経験した「悲しかった」事件を思いおこし、 その回想なり連想に身を浸して、「ああ、なんて私は哀しい身の上なんだろう」とわ れとわが身をいとおしんでしまえば、ほろほろと涙は湧いてくるのだ。つまりその瞬間には役者は主人公の行動の展開とは無縁の位置に立ってわが身あわれさに浸って いるわけである。このすりかえは舞台で向かいあっている相手には瞬間に響く。「自分ひとりでいい気になりやがって」となる所以である

本来「悲しい」ということは、どういう存在のあり方であり、人間的行動であるのだろうか。その人にとってなくてはならぬ存在が突然失われてしまったとする。そんなことはありうるはずがない。その現実全体を取りすてたい、ないものにしたい。 「消えてなくなれ」という身動きではあるまいか、と考えてみる。だが消えぬ。それに気づいた一層の苦しみがさらに激しい身動きを生む。だから「悲しみ」は「怒り」ときわめて身振りも意識も似ているのだろう。いや、もともと一つのものであるのかも知れぬ。

それがくり返されるうちに、現実は動かない、と少しずつ〈からだ〉が受け入れていく。そのプロセスが「悲しみ」と「怒り」の分岐点なのではあるまいか。だから、 受身になり現実を否定する闘いを少しずつ捨て始める時に、もっとも激しく「悲しみ」は意識されて来る。

とすれば、本来たとえば悲劇の頂点や役者のやるべきことは、現実に対する全身での闘いであって、ほとんど「怒り」と等しい。(後略)

(竹内敏晴『思想する「からだ」』)

「踏まえる」限界まで「踏まえる」

筆者の解答例はつぎのよう。

役者がいかにも観客に「嬉しそう」に見えそうだと思った身振りを、いきなり表面だけなぞって演技すること。 (吉岡さんの解答例)
なるほど。わかりやすい。
筆者は言葉を分解して、それぞれを「説明」する方針をたてた。
  • 「ウレシソウ」に振舞うという
  • ジェスチュアに
  • 跳びかかる
小論文でも、現代文の要約でも、このように言葉を生々しく生かしていく、相手の目の前にしっかりとした現実の姿を見せられるような書き方がよいのだろう。
と同時に、他にも書き方はある。
と思う。

問1へのおとのねさんの回答

おとのねさんとしては筆者の竹内さん(僕は彼のファンだ)の文章を次のようにまとめられるとおもう。

役者がやってはいけないこと

感情の状態を推測し、その感情を自分の中にかき立て、浸ろうと努力すること。
主人公の行動の展開とは無縁の位置に立つこと。

役者のやるべきこと
〈からだ〉のプロセス、選び出された〈ことば〉の内実に身を置くこと。
いくつもの行為のもつれと発展を役者が「からだ」全体で行動し通過させること。
現実に対して全身で戦うこと。

これをそのまま使うと、

あるセリフを主人公に吐かせている感情の状態を推測し、その感情を自分の中にかき立て、その感情に浸ろうと努力すること。(おとのねさんの回答)

 

うーん・・・

 

他の問いをみてみる

問2:「賛嘆と皮肉の虚実がどう重なりあっているのか知れたものではない」(傍線部イ) とあるが、どういうことか、説明せよ。
吉岡さんは
  • 賛嘆
  • 皮肉
  • 虚実がどう重なりあっているのか
  • 知れたものではない
と分解した上、次のように回答をつくる。

一見、舞台で自在に涙を流す役者を称賛しているようだが、実は、涙を流せば良い演技だと思いこむ役者の浅はかさ揶揄する意図が込められているかもしれないということ。

もしくは

一見、舞台で涙を流す役者の技術のすばらしさを称賛しているようだが、実は、涙を 流して自己満足する役者の浅はかさをからかう意図が込められているということ。

おとのねさん的に
簡単に言うとこうなる。
  • 賛嘆と皮肉の
  • 虚実がどう重なりあっているのか知れたものではない
役者が泣きたい時に泣くことに対して
プラス評価をしてるかマイナス評価をしているか
どちらかわかったもんじゃない。

「一筋縄でいかない連中」の話である。

これをなるほど、自然な日本語に「消化して」「合成」すれば吉岡さんのような答えになる。

 

「文」を分析して、抽象化して、「思考」を通して具象化する。そういう経路が「説明」にはある。ということだろう。

 

ちなみにこの段落は「竹内さんの主張のメイン」というよりも、「ほとばしって溢れた部分(傍流)」とでもいおうか。「役者をとりまく人たち」の現状を伝えている文である。要約しようとしたら、字数制限がある場合省かれる場所だとおもう。

 

次の問い

 

問3:「自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ」(傍 線部ウ)とあるが、どういうことか、説明せよ。
吉岡さんの答えは次のよう。

涙を流すのは、役者が自己憐憫に浸っているだけで、否定したい現実を次第に受け入れるという悲しみの本質からずれているので、本人が達成感を得ても芝居の展開を乱す行為になっているということ。

  • 自分ひとりでいい気持ちになりやがって。
  • 芝居にもなんにもなりやしねえ

という二つの部分に分けている。

自己憐憫という言葉は本文にない。

けれども次の言葉を言い換えたら自己憐憫はでてくる。

  • わが身をいとおしんでしまえば
  • わが身あわれさに浸って

なるほどなぁ。

 

おとのねさん的には次のように考えたい。

 

まず、竹内さんの文章のコア(本当に言いたいこと)と対応するかどうか。

役者がやってはいけないこと

感情の状態を推測し、その感情を自分の中にかき立て、浸ろうと努力すること。
主人公の行動の展開とは無縁の位置に立つこと。

役者のやるべきこと
〈からだ〉のプロセス、選び出された〈ことば〉の内実に身を置くこと。
いくつもの行為のもつれと発展を役者が「からだ」全体で行動し通過させること。
現実に対して全身で戦うこと。

 

あった。

「芝居にもなんにもなりやしねえ」とはこういうことだ。

けどこれは、なかなか「抽象的」ではないのか。

竹内さんが文章全体で伝えようとしていることを、こんなに簡単に「芝居とは現実に対して全身で戦うことであるにも関わらず、役者が主人公の行動の展開とは無縁の位置に立つことによって芝居を壊してしまうこと」と書いて良いのか。

 

「自分ひとりでいい気になりやがって」となる所以である
って次の段落に書いてある!!!!!!
そしてその上には、確かに、
  • 自分ひとりでいい気持ちになりやがって。
  • 芝居にもなんにもなりやしねえ

に対応する言葉が散りばめられている。

これを、読み、取れ!ということであった。

文章の全体から情報を引き出すことが適切な場合と、そうでなく、部分的に限定することでより「具象化」することができる。

 

ケースバイケースだが、この文ではたしかに「ここの説明をここで詳しくしていますよ」と読み取ることが自然だ。

 

問1へのおとのねさんの回答をもう一度

実はこの東大の入試問題、問いが後ろに続いている。

もしかしたら、後ろの方に「竹内さんが文章全体で述べようとしていることを説明せよ」と書いてあったら、とおもう。だとしたら、おとのねさんの答えは残しておかなくてはいけない。

「まだ、だしちゃだめ!」

 

だとしたら、次のように言い直そう。

読み、取る。

筆者は基本的に、言いたいことはまとめて言う。

言葉をつなぎとめる。

織り合わせる。

 

その織り目を、「読み、取る」のだ。

 

「嬉しい」という言葉から役者が主人公の行動のパターンを推測し、いいかげんに演技すること。(おとのねさんの回答2)
いかがでしょうか。
役者がいかにも観客に「嬉しそう」に見えそうだと思った身振りを、いきなり表面だけなぞって演技すること。 (吉岡さんの解答例)
比べてみて、どうでしょうか。
採点する人は、この二つの回答をみて、どんな評価をするでしょうか。
わからん!!!!!!!

 

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