大学受験小論文の論点とは?論じ方・問題提起・理由・具体例とは?
小論文で問題提起をするかどうかは自由。「問う」主体性が必要。
例えば、次のような問いに、どう答えますか?山梨県立大学看護学部後期試験2020年度の小論文です。
出題意図には次のように書かれています。
あなたは、何を「論じ」ますか?
あなたは、「選択」という言葉から、何を感じましたか?
「論点」は見つかりますか?
あなたの中に、答えがあります。
その答えを「問う」のが、あなたという、主体です。
「論じる」とは、世界を「踏まえて」あなたが「踏み込む」こと
自分自身が、課題文で読み取った世界の一部である、その世界にどう関わるかという姿勢を、小論文から読み取ることができます。言葉はあなた自身を表している、という側面をわすれずにいたいものです。
自分はどう関わるのか、どのような「考え」をもって、世界を「踏まえ」て、「踏み込む」のか。
この問題は、自己反省を促す、いい問題でした。
県立広島大学が「問題の所在を明らかにする」とかいていることは「論じる」ことの一歩目です。
「踏まえて」「論じる」。「踏まえる」ためには「読み取る」
小論文でも「主体性」は問われる、と僕はおもっています。で、実際にそう書いてくれている大学が島根県立大学国際関係学部国際関係コースです。
小論文の「筆者の論」を踏まえるのは「私」でしかない。
筆者が「論」を進めなかったフィールドを開拓する。
論じられることは、たくさんある。
その中で何を選び取るかは、「私」が決める。
(筆者がBの話をしていたら)BではなくDだとしたらどうなる。Cはあるのか。Aならどうか。
筆者が「論」を進めなかったフィールドを開拓する。
筆者の抽象度を、より高める、もしくは具体性をより強める、といえば伝わるでしょうか。
『小論文の書き方と考え方』大堀精一 p.171 では次のように書かれています。
筆者は高度経済成長期の日本社会やそこでの日本人の行動について分析しているものの、素材Eの中では現代の日本社会に即した分析までは述べていない。そこで私たちは筆者の見方を共有した上でそれを発展させ、筆者がまだ論じていない現代社会を分析していく。
とたえば「キラキラネーム」というお題を出されて、筆者がBCDに関わる話をしていたとします。筆者が言及していないAがあるのです。それは何でしょうか。Aという事象の一部に「キラキラネーム」があります。Aに当てはまる言葉は何でしょうか???
事象の一般化を行う、というやつです。
例えば、筆者がBの話をしているとします。そしたら、いや、Dもあるだろ。まぁCもあるけど。と論を進めることができます。「筆者はこう言ってるけど、けどそれが全てではないよね」というわけです。
事象の一般化の方が知的に高度なので、こちらの方が高得点なんじゃない?とか僕はおもうのですが。
話を戻します。
もっとざっくばらんに表現すると次のよう。
(筆者がAの観点から述べているなら)A以外にも「お題」を見つめる視点があるか。
大分大学2020年度看護学科推薦入試出題意図
佐賀大学は一つの問題に対して「多角的に」捉えられるか、記述できるか、論じられるかを問うたそうです。
広島大学令和2年度一般入試(後期日程)・私費外国人留学生入試3月実施出題の意図教育学部第一類(学校教育系)特別支援教育教員養成コース
琉球大学れいわ2年度前期人間社会学科では「自分なりに視点を設定する能力」と書いてくれています。
「筆者」を意識して「論じ」たい、のであれば、
「私」が踏まえるべき筆者の姿がはっきりしていなければならない。
論を進める(小論文を書く)ためには
- 「私」が世界観をもっている。
- 「私」の世界観を支えている言葉をもっている。
「あなたの考えを述べよ」は「あなたの世界観を述べよ」と解してよいでしょう。
課題文がない「問い」は、「世界観」をもろに聞いているよい例です。
高知大学国際社会コース2020年度
世界の「多面性・重層性」をみているか。
群馬大学の評価のポイント一般入試(前期日程)をみてみましょう。
出題者が何を評価したいのか、大学からメッセージがあったらいいんですがね。
「視野の広さ」を神戸大学は求めています。
小論文(国際人間科学部学部グローバル文化学科))平成31年度神戸大学後期日程入試問題『出題の意図・評価ポイント』
『「考える」ための小論文』では、視点を作りあげる「問い」を4種類に便宜上、分類しています。
「死」という主題を用いて、この四つの象面=四つの問い方を説明してみよう。
死を、「個的」かつ「歴史貫通的」にみる。
どんな時代、どんな社会の人間であっても、死を恐れる。人というものはなぜ、死を恐 れるのだろうか。――たとえばこういう問い方になる。先ほどの想像力の問い力もそうだ ったけれど、これは「哲学」でふつう問うような問い方である。
死を、「個的」かつ「歴史的」に見る。
現代に生きる人々は、死を受け入れるための「物語」をもっていない。かつては、宗教が「来世」という物語を提供していたが、いまの人々は素朴にそれを信じるのが難しい。 では、どうやってみずからの死や親しい他者の死を納得して受け入れることができるのだ ろうか。――たとえばこうなる。
死を、「社会的」かつ「歴史的」に見る。
死を弔うこと=葬儀は、過去からどのように変遷してきたか。それは死に対するどのよ うな意識の変化と関係しているのか。――これは、社会学的・歴史学的な問い方。
死を、「社会的」かつ「歴史貫通的」に見る。
これはあまりやらないアプローチだが、たとえばこういうふうになるだろう。―葬儀 の在り方や、葬儀を取り行なうことの意味には、どんな時代にもかわらないものがあるだ ろう。それはどういうものだろうか。
このような四つ(事実上は三つ)のアプローチを念頭におくと、何かの主題に迫ってい くときにとても便利だ。これがいまひとつよく頭に入らない人は、次のように覚えておこ う。文系の小論文では、1人間の生、2現代社会における人間の生、3現代社会の在 り方、の三つが、究極の主題なのである。 (『「考える」ための小論文』p.37)
『小論文を学ぶ―知の構築のために』長尾 達也
小論文の問題というのは、究極的には,現代という歴史的現在における知のあり方 を問う問題であることはすでに述べた。もちろん,いまだ高校生の諸君はその意味に ついてはまだ十分にははかりかねていると思うが,ここではとりあえずそれを前提に しておいてもらいたい。ここで知のあり方というのは、広い意味でいえば,いわゆる 「世界観」や「人生観」や「社会観」というほどの意味である。その意味では,小論文の問 題というのは畢竟,世界観に関わる問題なのである。
小論文の問題のタイプ分けについても,その「世界観」という概念がものをいう。と いうものも,実際に出題された問題をつぶさに観察すると,さまざまな問題でじつに バラエティーに富んだ話題が登場するし、出題のしかたも千差万別なのだが,おしなべていえることは,受験生に一定の世界観(社会観)なり人生観なりがなければまとも には答えにくいだろうと思われることである。
(略)
以上から,小論文のタイプ分けの問題につなげてゆくと,こういうことがいえる。 小論文の問題にはさまざまなものがあるがそれをタイプ分けすると,直接的に世界 観を聞くタイプ(A),社会問題ごとにそれを聞くタイプ(B),そして世界観を聞いて いるようにはみえないが裏のほうでそれをちゃっかり問題にしているタイプ(C), 以 上の3タイプがある。これらの具体的な見分け方と,解答方法については,第III部で 出題例に即して示すので,そちらをみていただきたい。 (『小論文を学ぶ』長尾達也 p.42)
以上,いろいろと述べてきたが,ここでこれまでのことを作業の順序に即し て,まとめる形で整理しておこう。
結局,小論文の作成にあたって必要なことは次の3つなのである。
【小論文で必要なこと】
1) 答案のなかで一貫したポイント・オブ・ヴュー(観点)を示すこと。
ポイント・オブ・ヴューとは,論文の途中でふらふらと揺らぐようなことのない, しっかりと一点を見すえたものの観方のこと。
2) ポイント・オブ・ヴューを支える世界観を持っていること。
世界観とは,どんな場面でも通用する,応用範囲の非常に広いものの考え方のこと。
3) 世界観を具体化できる概念を持っていること。
概念とは,世界を解釈するためのタームのこと。それによって,世界観やポイン ト・オブ・ヴューが明確化するようなターム。 (『小論文を学ぶ』長尾達也 p.44)
長尾さんは、「世界観」をマトリクスで示してくれています。近代の「知」と20世紀の「知」を対比して、学問の新しい世界観を僕らに伝えてくれています。
ゲームマスターである「出題者」の「問い」に答える使い方
次の問いがあります。
「出題者」は「私」に問いたいことがある。
そのテーマを共有する、問いをはっきり伝えるために、課題文を出していると考えることができます。
「このテーマを共有するために、伝えるために、何かいい材料はないかな・・・」
それが図であったりデータであったり、文章である、というだけだと考えたらいかがでしょうか。
「筆者」にとらわれる必要はないパターンです。
「私」の世界観を聞いているのです。
例えば「労働問題」がお題になっていたとします。
問題点は山積みです。
どの問題点を取り上げますか。
その問題点をどのように論じたいですか?
論じるためには、「世界」をよくみていないといけませんね。
宇都宮大学では設問で「視点」を定めてくれています。
具体的な、生々しいこの世界と主体的に関わっているかどうか、どのように認識しているかどうかが問われています。
例えば次のような問いはそれを明確に示しています。
「あなたはどのように考えるか」という問いを、「あなたは何を問題視するか」と言い換えること「も」できるとおもいます。
問いで具体的に示していることもあります。
いかがですか?
人々は昔から、湖面や金属の表面に自分の姿を映して見ることはできた。ルネッサンス 期に、鏡が広い地域で製造され、使用されるようになった。鏡が日常生活のなかに入って きてはじめて、人々は、自分の姿を外から眺めることが日常的習慣になった。
その習慣によって、現代版の「自意識」、自分自身を「他人の目」を通して見る意識が 生まれた、というのである。
「2000年間で最大の発明は何か?」という問いに「鏡」と答えるのはかなり大胆だ が、鏡によって、自分自身を「他人の目」を通して見る意識が生まれたとするなら、なる ほどなあと思う。『小論文に強くなる』轡田 隆史 p.28
琉球大学では、「とある概念」のスケールを変えて考えられるかを問う「問い」がでてきました。
「論」はコミュニケーション。自問自答ではない。
『論理的な小論文を書く方法』p.94 で
「私はこうおもいます。あなたはどう思いますか?」と問いかけられるように書くこと、といえるでしょうか。
【問題7】 次の文章は「議論」になっていますか?《「あなたにとって親友とは何ですか? * *字 以内で論じなさい」という出題に答えて書いた文章と考えてください(あるいは『親友』と いうタイトルで書いた課題作文と考えてもかまいません――どちらでも同じことですか ら)。
親 友 と は 何 だろう? ふだん 私 た ち は 、 こ の こ と に つ い て 考 え る こ と は な い の で は だろうか?少な く と 私 の ま わ り で は れについて 真剣 に 考 え て い る 者 は 誰も いないよ う である。
だが、 こ れ は 軽ん じ て い い 問 題 で は な い。 こ れ は 考 る 価 の ある、重要で、かつ、 答 えを出す の が 難しい 問 題 である。
親友 と は 、いつもいっしょ に 行動する者の ことだろうか。 いや、 そ う で は な い。 たしかに、行動を いつも共にする 友 は 大切 で あるが、常にいっしょ に い る 必要 は な い 。
親友と は 、 真剣 な 生 き 方 と 結 び つい ている ものだ。 と 私 は 思 う 。 人が 真剣に生きるのなら、その中から 自然 に 親 友 が 生まれてくるのではないだおるか。だから親友は真剣な生き方と切り離せないものである、と私は考える。
親 友 と は 何か一 この問い か け に解 答を出 す こ こ そ 現 代 の 青 年 の 課 題 で あ る と 私 は 考 える。
【答え】 「議論」になっていません。「書き手にとっての親友が何か」が示されていませんし、「なぜ それが書き手にとって親友と言えるのか」の理由も示されていません。
「この答えは理解できるが、具体的にどう書けばい いのかわからない」と思う人のために、同じ出題に ついて「議論」を書いたサンプルを次に置いておく ことにしましょう。
書き方は簡単で、「私にとっての親友が何か」(s) を具体的に示し、「なぜそれが私にとって親友と言 えるのか」(B)の理由も示せばいいのです。
aとBに何を書くかは人それぞれですから、その 部分は「あなたなりに」書けばいいのです(何を書 いたら正解で、何を書いたら不正解というものがあ るわけではありません。あなたの考えを率直に書け ばそれで完璧です)。
私にとって 「親友」 と は 、 楽 し く 意見 を 戦 わせる こ とが で き る相手です。 「そ れ は 間違 っ て い る わ。 * * よ 」 「いや、 そ ん な こ と は な い よ。 * * だ よ 。 * * だ か ら ね 」「 そ ん な の 変。 * * だ か ら * * な の よ 」 「 * * っ て こ と は そ う だよ」 ーこのよう に 進む 議 論 は お互いの 考えの 違 い が よ く わ か っ て 楽 し く て 、 私 は 好 きです。
でも、日本 で は こ う い う 議 論 は な か な か で きません。 できる人もいる こ と が 最 近 わ か り ましたが、そ う い う 人 の 割 合 は ご く わず か で 多 く の 人 は 、 意 見 が 異 な る と、 す ぐ不快 になります。 そ し て そ の 不快感を 前 面 に押し て、そ の 不 快感で 相手 を だ ま ら せ ようとします。
それゆえなおさら、楽しく意見を戦わせることができる相手が私には貴重で、そういう人が、私にとって「親友」と呼ぶにもっともふさわしい人なのです。
意味不明な言葉を使ったら、論じたことにならない。
何を言っているのかわからない「言葉」を使っていることも非論理的です。
【問題6】 「現代は巨大な消費社会である」 この文の欠陥は何?
【答え】 意味不明な点です(「現代はA社会である」とはどういう意味? 「巨大な消費社会」とは 何でしょう?)。
このタイプの書き方は、「書き手が気分に酔って文を書いていること、書き手のボキャブ ラリーの貧困さ、説明能力の欠如」などを読み手に伝えるだけで、書き手が書こうとしてい ることを正確に読み手に伝えません。 『論理的な小論文を書く方法』p.142
【質問】(これは問題ではなく、質問です) 「抽象論に終わったが、~するべき時期に人類はきている。この本質への問いかけに解答を 示すことこそ現代の青年の役割と使命であると私は考える」
この文章は「私の書いた文章は抽象的な話のみであって、まったくダメ」と言っているよ うなものです。この文章を読んで、ここまで本書を読み進めたあなたはどう思いましたか?
この文章を読んであなたが思ったことは、次のようなものかもしれませんね。 「あんたが何を言いたいかをはっきり示すことこそ、あんたの役割と使命でしょ。そんなん じゃ青年に何も伝わらないよ。『抽象論に終わったが』なんて言うくらいなら、もっとわか りやすく説明しようと努力しなさい」 『論理的な小論文を書く方法』p.142
論じる価値のないことは、論じない。
採点者に「なんだこの人は、こんなことしか考えられないのか」と思われないように。
文章の価値、論文の価値は、あなたが書いたものを誰かが「論」じてくれるかどうかにかかっています。これは少し高尚な態度でしょうか。
【問題3】(これも第2章の復習問題です) 「核」が「何かの提案」なら、それは何に値する提案でなければならない?
【答え】 あなたが提案した後、それについて大勢が賛成側と反対側に分かれて議論するに値する提 案でなければなりません。
――190ページの、パブロ・ピカソとレオノール・フィニについての文章の「核」は提 案ではありませんでしたが、基本的には同じことですね。「パブロ・ピカソは偉大な画家で ある」には反対派がほとんどいないでしょうから、「核」として選ぶ価値はないのです。 『論理的な小論文を書く方法』p.206
論じ方のバランスがわるいと「論じる価値がない」ことを論じているのと同じになってしまいます。
話が平面的な「箇条書き」で600字を埋めようとしたり・・・それは「価値がない」小論文と判断されてしまう、かもしれません。
群馬大学の、音楽専攻!で、構成全体のバランスにふれています。「幅広く」かつ「奥深く」だそうです。
小論文で問題提起する「問い」の力(主体性)が試される:論を発展させる
琉球大学のれいわ2年度推薦入試より
読むに値する、書くに値する、そんな「発展的」な小論文が書けるといいですね。
筆者が「踏み込めなかった」ことを踏まえて「踏み込む」ー問題提起する。
富山大学の芸術文化学科後期日程小論文(平成31年度入試)の出題意図には次のように書いてあります。
「踏まえる」とは、筆者の述べていることを理解した上で、筆者を補う、筆者の論を発展させる、書かれていないことを書く、サポートしてあげる、という意味だ、と言っても間違いではないでしょう。
丸谷 専門家から無視されることと発想の逆転とはしばしば一致するんですね。発想の逆転と は、因習に安住した官僚的なものの考え方から脱出したということなんです。
|丸谷さんの忠臣藏論も、発想の逆転ですね。 丸谷忠臣蔵の場合は、もっとひどかった。つまり、先ほども言いましたが、日本で最も重要 な説話なのに、まともに論じた人は誰もいなかったわけです。因習としての思考どころの騒ぎ じゃなくて、因習化した無思考だったわけですよ。 では彼らはなぜ考えようとしなかったのか? まず第一に、「忠義」と言えば、戦前は絶対的なものでした。それに疑問を差し挟むような ことがあれば、どんな目に遭わされるかわからなかった。ですから、忠義について云々するの はもってのほか、子々孫々にわたって忠義の問題には触れないというくらいの空気がありまし た。 _もう一つは、先ほど触れた御霊信仰に対する軽視、反感、毛嫌い。御霊信仰は野蛮な、恥ず べきことであって、考えるのもいやだという気持があった。
だいたい日本民俗学は、天皇とセックスを敬遠したんですね。この二つに手をつけたら、学 問全体が国家から弾圧されて滅ぶと柳田國男は心配していました。それがあるから、忠義と関 係のあるものには手を出したくなかった。したがって、忠臣蔵と御霊信仰なんて発想があり得 るはずがないんです。(『思考のレッスン』丸谷才一 p.201)
論理的に正しいのか、飛躍しているところはないのか、不十分な点はないのか。
批判的な思考を働かせて違和感をもつことができますか?
横浜市立大学国際教養学部(小論文) 問題解説
小論文で試される積極性・主体性ー「問う」=問題提起
大学の募集要項に「積極性」とか「行動」とか「主体性」と書かれているのを見たことがありませんか?だいたい書かれています。
小論文でも主体性が大切だというお話をします。
「小論文に主体性なんて必要ないよ」
とおもうかもしれませんが。
主体性の種類には2種類あるとおもいます。
「テーマ」に積極的にかかわる態度が言葉に出る。
岐阜大学の後期医学部看護学科小論文れいわ2年度の出題意図を見てみます。
他の大学の評価基準には「主体性」はみられません。ほとんど、みられません爆。けど、書いてはいないけれども、「筆者にたいする返事としての小論文」にどのような言葉を乗せるのか、伝えるのかは、情熱は、オモイは、大学生として当然のように求められる、と僕はおもうのです。
特に看護学部や医学部にはその傾向が強いでしょう。
富山大学医学部医学科後期日程れいわ2年度小論文
将来性までみてくれるんだ笑
話が岐阜大学に戻ります。
岐阜大学では医学部以外でも小論文ではもろに「主体性」「協働」をみるよと宣言しています。逆に、知識は問わない、らしいです笑
地域科学部
医学部
応用生物科学部
筆者を踏まえ出題を読み取り「論」を立てるためには主体的な問いが必要
ほとんどの入試小論文は課題文か資料が提示され、それを「踏まえて」「考えを述べる」ことになります。
課題文がない場合は、出題者の問いを踏まえて考えることになります。
「考える」とは「問う」ということでした。
「踏まえる」ことが少ない文、主体性をもって問いをつくり、答えていくことが重要になります。
といってもほとんどの大学は課題文を出してきますが・・・
さて、あなたは、出題者から「第一発言権」をもらいました。
筆者の代わりに、あなたは先に、論じるのです。
あなたの次に論じる人が、あなたを「踏まえて」論じられるような小論文が、書けるでしょうか・・・
「筆者」が書くように、自分が何かを問題提起し、主張し、具体例でそれを支えて伝えるだけです。あなたの世界の広さと深さが問われます。
「伝える」ために、具体例を考える。抽象化する。
抽象的な言葉だけでは、伝わらない危険がある。共通認識をつくるために「伝える」ために具体例を挙げる
『「考える」ための小論文』p.113
「具体例を出せ」というのは、小論文の基本としてよくいわれることである。これはもう、 基本中の基本だから多くの答案がそのやり方で書こうとしている。しかし、なぜそうする ことが有効なのか。そのことをわかっていないと、失敗につながる。
小論文が「私」と「世界」とを、あらためて言葉によってつないでいこうとする営みで あることは、第一章で説明した。「私」から出発し「世界」や「他者」に向かって言葉を 紡いでいく。つねに「私」に立ち戻りながら考える。大雑把にいえばそういうことだ。ま た、発想の基本として「自分にひきつける」ということについても述べた。
具体例を出すというのは、この「私から出発する」「自分にひきつける」ということの 具体的なやり方の一つであると同時に、自分を他者に伝えるための有効な方法の一つでも ある。具体的な経験をとらえ返す。具体的な現実にそくして考え、説明する。そういう作 業は、往々にして漠然とした「問題」でしかない出題の枠組みを「自分の問題」として考 える過程には欠かせない。また、具体的な場面を提示することは、抽象的になりがちな言 葉を「この現実」に対応させ、説得力を持たせるという効果もある。
「抽象的」表現と「観念的」表現は違う:価値ある文章とは?
『小論文を学ぶ―知の構築のために』長尾 達也
そもそも「抽象的」という言葉は abstract の訳語として作られたものだが,この abstract というのは,個々の事物に一般的に備わっている性質や特徴を抜き出して それを概念化する作業のことを意味している――例えば「キリン」や「ライオン」や「サ ル」や「ヒト」を abstract すると,そこに「動物」という概念が抽象されてくるという具 合に――。「抽象的」であることは,したがって,個別的なものごとを一般化するときに必ず通過しなければならない作業なのである。
(略)
往々にして「抽象的な文はよくない」という間違った考えが広く浸透しているが,こ れはまったく語の本来の意味を見誤った考え方である。なぜこうした考え方が広く普 及しているのかというと,おそらくは「抽象的(abstract)」という言葉を「言葉の上だ けの(verbal)」あるいは「観念的(ideal)」という言葉と混同しているからである。
【練習問題】「標準語」の過度の普及と「方言」の衰退を憂えている文章を読んだ上で自分の見解を述べさせる問題が出たとする。この解答として次の二つの文章があった としよう。この二つの文章のうち, ヴァーバルでアイディアルな文章はどちらだと思うか。
1) 方言とは地方の言葉という意味である。そして,各地方にはそれぞれ独自の地 方性があり,その地方性が一つの文化だとすれば,方言を捨てるということは, その地方の文化を捨てることを意味する。したがって,標準語が跋扈し,方言が 衰退している現状は、さながら文化の衰退の兆しであり,その動きは反文化的ですらある。……
2) 方言の衰退は,それを使用する地方人の意識の変化を物語る。地方の文化資本としての方言を放棄することは,そのまま地方文化を放棄することを意味する。 地方の文化が,中央の文化あるいは他の地方の文化に比べて劣ったものであると の意識,あるいは遅れたものであるとの意識,ともかくもそうした否定的な意識 が仮にあるとすれば,それは方言の伝統維持にとって由々しき事態である。
答=(1)
「きれいごと」は「観念的」であって論じる価値がない
なお,抽象的な思考とヴァーバルでアイディアルな思考をはき違えてしまう危険性 について,もうひとことつけ加えておこう。
よく参考書の類に, 「きれいごとで済ますな」というアドバイスが書かれている。小 論文の答案に「きれいごと」を書いてはいけない,というのである。だが,受験生は, 何が「きれいごと」で何が「きれいごとでない」か,おそらくは定かにはわからないので はないだろうか。自分の答案がきれいごとに終わっているかどうかは気になるところ だろうが,その決定的な判断基準が見当たらないはずである。 「きれいごと」と一般にいわれていることは、要するに,ヴァーバルでアイディアル な論理のことである。そんなことは「あんたにいわれなくても概念的にはっきりして いる」という内容のことである。例えば,次のような文章を見てみよう。
いかがであろうか。文中の下線部に注目してもらいたい。「くり返して」いるだけだ から「進展」がないのは当然のことであろう。これは事柄の問題ではなく,言葉の上だ けでの問題である。こうしたことをヴァーバルでアイディアルな概念というのである。 (『小論文を学ぶ』長尾達也 p.17)
説得力のある論を立てるために、具体例を出す
小樽商科大学の出題意図(平成30年度)では「具体的に集団を想定する」ことで論じる課題がでています。
筆者の出した「論」は筆者の視点、筆者の言及する「具体的な場所」で書かれています。あなたは筆者の論を、この世界のどの現実に当てはめますか。それがあなたの「論」にすることもできますよ。
具体化しなければ答えられない問いは、あなたが「自分の世界を整理できている」かどうかを試す問いです。北九州市立大学では「踏まえ」た上で、自分の論に適した具体例を選ばなくては論じられない出題となっていたようです。
「伝えたいこと」を「伝える」ための具体例です。
琉球大学
2020年度神戸大学後期日程入試問題『出題の意図・評価ポイント
国際人間科学部学部グローバル文化学科
適切な具体例を選ぶことが肝要です。
以外に難しい!?
「理由」は「伝えたいこと」を伝える一つのツールでしかない
小樽商科大学の2020年専門学科・総合学科入試小論文の出題意図には次のように書かれています。
熟慮。。
採点のポイント
「論じる」プロセスは
課題文から論点になるもの(問題点)を「読み取る」。
論点に基づいて何を論じるか「伝えたいこと」に書く。
「伝えたいこと」に至る道筋、「伝えたいこと」を受け取ってもらえるように論理的に「伝える」。
論理的に、という言葉の意味は、「わかりやすく」です。
理由をかけ、という言葉を聞いたことがあるとおもいます。
これはつまるところ「伝えるための工夫」の1つとして「理由」を書く、というだけのことです。書かねばならぬことではないし、「理由」が理由になっていないことの方が恐ろしいです。
具体例を出すことで、自分の考えを「伝える」
というか、「考える」ことは自分自身の具体的な経験を使うことだとおもうのですが?
『「考える」ための小論文』p.63
思考のプロセス:自分の中にある具体的な経験から本質を抽出する
まずは、自由という言葉を自分の具体的体験にまで引き戻しつつ、こう問うてみよう。
<私はどういうときに自由と感じるだろうか〉
まずはあれこれと連想してみる。ひとつ浮かんできた。試験や仕事が終わって「あー 気持ちいい」というときに自由を感じる。これをどういう言葉にするとピタリとまとめら れるだろうか。先ほどもふれたように、具体例を出したあとにはそれを具体例のままにほ うっておかないで、じょうずにまとめる言葉を探さなければいけない。―「義務や拘束 からの解放」というのはどうだろう。
でも、自由と感じるのはそれだけではないだろう。もうひとつ浮かんできた。。仕事が うまくいって「のっている」とき。バンドやスポーツや仕事でものっているときには、自 由だと感じる。これを言葉でもってつめてみよう。 力を自在に放出していて障げるも のがない。全能感がある。濃密な時間を生きているという感覚がある。「自我の拡張感」 などという言い方もできそうだ。 さらに考えてみる。たしかに自由には二種類あるが、この二つはまったく別物だろうか。 ―「障害がない」というのは共通している。そして「よろこび」であることも共通して いる。しかし前者は障害からの「解放」、つまりリラックスした休息の快とつながるもの だが、後者は活動そのものに伴う快感である。 ここまで検討してくると、もう論文が書けるはずだ。
<問い :自由とは何か?>|
〈答え:自由には二種類ある。一つは障害からの「解放」であり、もう一つは活動そのも のに伴う「自我の拡張感」である〉。
〈本質観取〉―具体的体験から「本質(~とは何か)」を取り出す
さて、以上は先の「感動」とまったく同じやり方をしてきたのだが、これは次のように まとめられるだろう。
私が自由(感動)を感じるとき、つまり、具体的体験を(いくつか)挙げてみる →自由(感動)とは何か、つまりそれらの体験の「本質」をうまく言葉にしてみる。
この方法は本質観取と呼ばれるもので、他にも、正義、罪悪感、理想、「なつかしさ」 などのさまざまな主題についても、同じようなアプローチで迫っていくことができる。
種明かしをすると、これは二十世紀ドイツの哲学者、E・フッサールの考えた「哲学の 方法」なのである。自由、感動、正義、罪悪感、死の恐怖などは、どんな人間でも必ず 験するものであって、その感触は人によって多少違っているとしても、かなりの程度共通 するものがあるにちがいない。とすれば、その「共通本質」を取り出すには、まずは自分の経験をよく反省して言葉にし次に他人の経験とつきあわせてみる、という作業をくりか。 えしてつめていくことができるはずなのである。「立派な本が語ることを学ぶよりも、私 たちの経験をよく見つめることが正義や自由などを根本的に考えることになる」というの が、フッサールの考え方だった。 「自由や感動などの本質を問う、というこの種の問いは、基本的には「人間の生」という 大きな主題―――人間とはどのようにして生きているものなのか、つまり「生の内実」 に、自由や感動というような小さな主題を手がかりにして切り込んでいく論だといえる。 この論においては、人間が自由や感動を感じるときのその感触をじょうずに言葉として定着できていればいるほど(したがって喚起力のある言葉をつくれればつくれるほど)、すぐれた論として評価されることになる。 (『「考える」ための小論文』p.64)
自分の経験を「踏まえて」自問自答で「○○について」論じる論点をみつける
自分の感覚をていねいに見つめることによって、一般的な問いに対して答えていくとい うやり方を練習してきた。
次にやってみたいのは、いままでのやり方を含んでいるが、より広いアプローチである。 それを一言でいうならば、主題と自分とのつながりをつけ、そこから主題をなんらかの具 体的な場面に「着地」させるやり方ということができる。 ふたたび、自由という主題でもって考えてみよう。設問は次のようになっているとする。
体験から本質を取り出す方法(本質観取)を私たちはすでに知っているからやりよう あるが、ほとんどの人はいきなりこのように問われると途方にくれてしまうだろう。それ は自由という言葉が宙空に漂っていて、とりつくしまがない――自分とこの主題のつなが り、関わり方が発見できないーからなのである。 だとすれば逆に、自由という言葉を何かの具体的な場面に着地させることができればよい。自由という言葉は一つでも、自由ということが「問題」になるようなさまざまな場面 があるはずなのだ。
じつは、体験から本質を取り出す方法(本質観取)にしても、それがほんとうに効果を 発揮するのは、何かの「場面」を明確に意識したときなのである。たとえば、「制約も強 制もないことはそのまま自由なのだろうか。それがどうも疑わしくなってきた。ぼくはいま大学生で何もなんの制約もなく授業をサボるのも勝手で、その意味ではまことに自由だ が、かえって自由の実感がなくなってしまっている。高校時代に試験が終わった後には、 『自由だなあ』という実感があったものだが」というような、何か具体的な生きた問題 (自由の実感がなくなってしまった)があるとする。そしてそこから「自由とは何か・どう いうときにその実感が得られるのか」という考えるべき〈問い〉が生まれているときに、 自由の本質観取もきちんと「方向づけられた」ものになり、またきわめて効果的な意味をもつことになる。
整理してみよう。私たちの生のなかに問題(トラブルや困惑など)が生じる。この具体的場面を〈問題状況〉と呼ぶことにしよう。考えるべき〈主題〉や〈問い〉は、もともと そこから発生してくる。その際、具体的な困った問題状況をどのような主題や問いのかた ちにできるかが、思考にとっては非常に重要である。問いはちゃんと答えの出るものでな くてはいけないし、問題状況に有効に対応しうるものでなくてはならない。なぜなら、論 じること(問うて答えを出すこと)とは答えを出すことによって、ふたたび問題状況に関わろうとする行為だからである。これを図示すると、図2のようになるだろう。
この設問にアプローチしようとするときも、具体的な問題状況を設定することができれ ばよい。そもそも、自由というような主題がわざわざ出題されるということ自体が、それ にまつわってさまざまな問題(困ったこと)が生じているということを意味しているのだ から、それをとらえることができればよいのである。
親切な出題であれば、課題文なり資料なりが与えられていて、そこを読めば「なるほど、 こういう事情(問題状況)のもとで自由が取りあげられているのだな」ということがわかるようになっている。課題文はふつう、主題とそれを取り巻く問題状況を提示してくれるものだから、課題文を読むときにはそこを読み取ることが必要だ(第三章「読み」参照)。
しかし、いまのように特定の問題状況の指示がない場合には、あなたなりにそういう問題状況を設定しなくてはならないし、またそうすれば必ず論じていくことができる。では、どうやって設定するか。 まずは、「自分の体験」というところから考え始めてみよう。
なんといっても、自分こそがもっとも具体的な場面なのだから。つまり、自分と自由という言葉が切り結ぶ地点を探すのである。たとえば次のように。
「生き方」の面から迫ってみる。
自由というのはこわいことかもしれない。どう生 きるのもその人の自由、ということにいまの時代はなっている。でも、何がただしい・何 が悪い・どう生きるのがよい、ということを全部自分で決めなければいけないのは、とて も大変である。不安でもある。→自由の「重荷」という主題が浮かんでくる。問いも定ま ってきた。〈自由の重荷に対して、自分はどういう生き方をしようと思うか〉
会社とかサークルなど、実際の社会生活のなかでの自由を念頭においてみる。
自分と自由の切り結ぶところを探してみると――社会人ならばたとえば会社での生活を 考えてみると――「自分の裁量できる範囲」という意味での自由ということを思いつくか もしれない。
たとえば、会社に入ってしばらくはあまり自由に仕事をさせてもらえない。だいたいは 命ぜられることを処理するだけで、アルバイトとさほど変わらない。でも、少しずつ慣れ てきて経験を積んでくると、ある程度仕事を「まかされる」ようになってくる。責任も増 えるが、自分なりに裁量できる範囲が増えてくる。新たな企画をつくったりというように 「できること」が増えてくる。
逆にいうと、自分なりに能力や実績をまわりに示していかないと、自由は広がっていか ない、ということだ。法律では個々人の自由は権利として認められているけれど、実際の 生活の場面においては、みずから実績を示すことで少しずつ自由を「獲得」していかなけ ればならない。〈自由は与えられるだけではなく、獲得していくものでもある〉。主張の 「核」ができてきた。
(略)
自由という主題についても、こんなにもさまざまなアプローチが可能なのである。その やり方を、もう一度整理しておこう。
- 主題を宙空に浮かせていては論じられない。それを何らかの〈問題状況〉に結びつける 必要がある。
- まずは自分自身を素材にして、自分のなかではこの主題がどのように「問題」になって いるのかを考えてみる。するとそこから、考えるべき〈問い〉や〈主張の核〉をかたち づくることができる。
- 直接自分に関わらなくても、読書などを通じて広く社会のなかでの〈問題状況〉を知っ ているなら、そこから論じていくこともできる。
(『「考える」ための小論文』p.66)
小論文で「論じる」とは?ー主体的な「問い」から始まる思考のプロセス。
賛成・反対だけで答えられる問いは少ないものです。
抽象的に分類し具体例を多く出す。
複数の視点から問題を論じるシステム思考
筆者の主張に反対・賛成してさらに俯瞰する。
小論文に「主張」は必要?主張って何?
「主張」とは何でしょうか。「論」の立て方によっては「〜であるべきだ」「〜がよい」と言うことを述べることが必要でしょう。けど「主張」とは何でしょうか。
課題文でも筆者は「こう考えるのがよい」ということを「主張」しているといえます。主張という言葉は、僕は使わない方がよいとおもいます。「論じる」の方がよいです。
筆者は〜と主張している、と英語で書くとどうなるでしょうか。
- suggest
- claim
- declear
- say
- mention
- insist
次の文章は「論」になっていない、論理的な思考ができておらず、何を読み取って良いのか「論」がはっきりしないという点で、「主張がない(何言っているかわからない)」といえるのではないでしょうか。
私はキーワードや語彙を「シッタカ」して使わずに、「あなたの問い」をはっきりさせること、つまり主体的に思考して、「論」を作り上げる(論理的思考をする)ことが「主張」だと思いたいです。
この解答例では、主体性が弱く、論理的思考も見えません。
これでは「論」を進める前に、「あなたは結局何がいいたいの?」と、あなたの立場を再度確認する必要があります。「主張する」とは「論点」をはっきりさせる、と言い換えられるかもしれません。
[設問]競争のある社会とない社会を比較論的に詳論しなさい。
競争のある社会では、さまざまな争いやもめごとが起こる反面、競争の中でよいものが 生まれ、悪いものは消えていく。競争のない世界では、争いこそないが、競い合いがないから、現状から進歩することがない。どちらがいいとは簡単にいえないが、人間は争いの中でここまで進歩してきた生き物だと思う。今、争いがなくなると、現状から全く変わらない世界のまま、進んで行くのだろう。争い合うことも時には必要なのだと思う。 人間には向上心がある。それを最大限に生み出すのは、やはり競争なのではないだろう か。適度な競争こそ、これまで人類が進歩してこられた最大の要因だと思う。かといって 競争がよいことかと聞かれると、考えてしまう。 競争があるから対立が生まれ、溝が出来る。それを国家単位で考えると、戦争になって しまう。競争がある以上、こうしたことは必ず起こってくることだ。まだ自分でもよくわ からないが、競争と協力などのバランスが大切なのではないかと思う。 結果としては、競争はあったほうがいいと思う。これは私が担当している講義「人間と価値」の後期試験を落として、追試験を受けた学生の 答案である(ちなみに誤字は二カ所あった)。 これを小論文に見立てていえば、この文章には「主張」がない。結論の「競争はあったほう がいい」というのは、一見すると、主張のようだ。しかし、いかにも唐突で、「争い合うことも時には必要」「適度な競争」といっているように、「競争がなければそれにこしたことない」と 主張しているようにも見える。
小論文で避けるべきは、「こうでもあるが、ああでもある」という議論だ。この学生の文章 は、その典型である。おそらく、本人の「本心」は、競争のない社会のほうがいい、というこ となのだろう。それなら、はっきりとそう書けばいいのだ。
小論文では、競争社会を肯定するのか否定するのか、競争社会も無競争社会も否定して第三 の立場をとるのか、よって立つ「主張」をきちっと決めることが第一条件だ。 『常識力で書く小論文』鷲田 小彌太 p.28
「いやいや、この文章にも視点があるではないか、バランスが大事だと!」
そう思えなくも、ないですね。
ではこう考えて見ましょう。
「競争」とは何でしょうか。
まずその範囲がわかりません。
漠然としていて、わかりません。
「あなたは「競争」の何について論じているのですか」
「競争」という言葉を捉えられていない、「競争」という言葉の背景、広大な織物としての「競争」という言葉を「読み取れていない」のです。
言葉を読み取る。
抽象を具象化する。
これが「論」を立てるために必要なことだとおもいます。
否定も賛成もしない、第3の視点
論理的思考を働かせて、「問い」を自分の中に見つける過程で自然と「筆者のいう視点以外の何か」が浮かび上がるかもしれません。それが第3の視点、というものです。この視点から、筆者の世界観を「超えて」論じることもできます。
ここまで来て、ようやく自分の意見を書く順番になった。さて、どうするか? シンプ ルに考えれば、Aの意見に賛成する/反対する、のいずれかの立場を選び、それをサポー トする理由を書く方法がある。Aの意見に反対するのは、Aへの「あり得る批判」に賛成 することと同じだから、結局、Aの主張か、Aへの「批判」のどちらかに賛成することに なる。ただ、これは唯一の書き方ではない。なぜなら、設問では「どちらかを選べ」とま では迫っていないからだ。求められているのは「あなたの考え」だけであって、「あなた の選択」ではない。つまり、Aの意見に賛成する/反対する、で書いても悪くはないのだ が、他の書き方ができるならそれを排除してはいない。
実際、「あれかこれか」と二人の人が争っているとき、必ずどちらかにコミットする必 要はなく、第三者として距離をとっても別に悪くはない。たとえば、「君の意見は、いわ ば……の立場だね。逆にBの主張は……の立場だね」などと、問題を抽象化して整理して やっても、将来、対立をどう解決したらいいか、と考えるときに役立つだろう。
たとえば、ここでは、賛否を表明するのではなく、AとBの違いを説明するという戦略 をとってよい。Aの意見が共和主義的な権利概念であるのに対して、BまたはAへの批判 が自由主義的な権利概念になっている。つまり、AとBは、たんに権利主張をするか/し ないかという具体的判断で対立しているのではなく、権利に対する全く別の概念に立って いる。こうすれば、目の前の対立を解決できなくても、将来の解決に至るための判断材料 を提供するという意味で、十分有意義な立論になっている。 (『東大入試に学ぶロジカルライティング』p.231)
対立が、一見論理的判断だけでは解決しにくい時でも、仲裁者が二者の対立に自分の身 をねじ入れるなど、問題の構成要素を変えることで、解決の方向が見えてくる。問題枠が 変われば「あれかこれか」という二者択一の次元を超え、別な選択肢が発想できる。対立
を解決に導くには、そういう問題組み替えの仕事が不可欠だ。仲裁者の覚悟とアイディア が試されるゆえんである。 (『東大入試に学ぶロジカルライティング』p.243)
第3の視点、というものは、「誰のために書くのか」と自分に問いかけることから生まれるかもしれません。
バフチンを読んで思い出したのは、菊池寛の純文学と大衆文学の説でした。菊池寛は、「自 分のために書くのが純文学で、他人のために書くのが大衆文学だ」と言ったんですね。自己と 他者というものを分けて考えるのがいわゆる在来の日本文学の考え方だった。ところがバフチ ンは、自己と他者とは相互関連的なものだと考える。
僕は、「われわれのために書く」あるいは「自己と他者との関係のために書く」というのが、 文学のほんとうのあり方だと思うわけです。それが自分と他人に分裂してしまったところが、 日本文学の不幸だと思うんですね。
さらに言えば、「われわれのために書く」というのは、「共同体のために書く」と言い直して もいいわけですね。日本でも、たとえば柿本人麻呂は共同体のために書いていたわけです。 紫 式部も、近松門左衛門も、芭蕉もそうだったでしょう。そういう幸福が味わいにくくなってい るのが現代ですね。
でも、あえて共同体を空想的にでも設定して、それのために書くという意識を持てば、そこ から現代文学の行き詰まりの解決は出てくるんじゃないか。 たとえばガルシア = マルケスの小説を読んでると、空想的に設定された共同体のために書いてるという感じがひしひしとする。実在はしないかもしれないけれど、それを夢見る能力がラ テンアメリカの作家たちには一時かなりあった。それがラテンアメリカ文学にあれだけの盛況 をもたらしたんじゃないのかなあ。
これと関連して思い出されるのは、小林秀雄さんが「批評は他人をダシに使って自己を語る んだ」と言ったことがあった。有名なセリフですね。
けれども、僕は、「対象である作品と自己との関係について語る」というふうに言い直すほ うが、読者を惑わすことが少ないような気がします。もしそういうふうに小林さんが言ってく れたら、日本の批評はこんな混乱した状況にならなくて、もっとまともな道を進んだんじゃな いか。(『思考のレッスン』丸谷才一 p.88)
出題者が「問い」で指定する「論」のテーマの例
出題者の問いを解釈できるかー出題者側の問題提起
またまた『論理的な小論文を書く方法』p.132 で
出題も正確な表現でなければならない 「意味を明確に、はっきりわかるように書かねばならない」ということを学校で 生徒は教わらないし、国語の問題の出題者にもその意識がありません。また、不 正確な表現は、論文の書き手ばかりか出題者によっても使われます。たとえば、 次の例のような (何を答えたらよいかが明確でない) 出題はよく見かけられます。
例1「次の資料を通して* * のあり方について述べなさい」この「通して」がどういう意味か、あなたにはわかりますか?(私にはわかり ません)
たとえば、これが「次の資料を参考にして、資料に言及しながら * * のあり方 について述べなさい」の意味のつもりなら、出題者はそのように書かねばなりま せん(「参考にして」の部分をもっと具体的に書ければ、さらによくなります)。
例2「日本人は島国根性を持っている」と言われるが、このことについてあなた の意見を述べよ。この出題は、正確にはたとえば次のように書かねばなりません。
「日本人は島国根性を持っている」 あなたはこの意見に賛成ですか、反対ですか? 理由と例を挙げて答えなさい。『論理的な小論文を書く方法』p.132
コメント