小論文の重み!わかりやすく書いて高得点を狙う勉強方法と書き方
小論文採点基準にみる「表現」の重要性
「伝える」ための小論文。「伝える」ためのコミュニケーション。
明快で爽快な表現でクールに!
県立広島大学れいわ2年度推薦入試異文化体験枠
「明確に」述べるために論理的に表現することも必要です。もちろん「構成」も大事です。「明示する」「わかりやすい」は小論文の大前提です。
山梨大学
茨城大学人文社会科学部現代社会学科の小論文出題意図では「論旨明快」と言われているものです。
佐賀大学は「整然と」説得的かつ論理的にと述べています。
「整然と」「わかりやすく」書くことは必然的に説得力を生み、論理的な表現になります。
どのくらい、「わかりやすく」か。
北九州市立大学文学部人間関係学科の小論文2020年度では「他者にわかりやすく」と書いてあります。課題文を読んでいない人にも伝わるくらい「わかりやすく」ということでしょう。
大学では、「専門外」の人ともコミュニケーションをとることがあります。
「専門外」の人に、「専門用語」を使って伝わるか。
伝えたいことを、伝える能力を、小論文で試されています。
京都府立大学の求める「表現」
京都府立大学学校推薦型選抜の試験問題及び解答例・出題意図のページがあったのでみてみました。
【出題意図】日本語及び英語の文章や資料による出題に基づき、理解力、思考力、表現力、読解力等を問う。
【採点基準】内容、構成、表現について評価する。
- 表現や表記が正確であるか(表現)
- 分量が適切であるか(表現)
- 質問に対する的確な答えとなっているか(内容)
たったこれだけで、高得点がとれる大学もあります。
志望する大学の評価基準・採点基準を調べてみてください。
ただ、どんな評価基準・採点基準でも【主体性】【論理的思考】なくして小論文を学ぶことはできない、とおとのねさんは考えています。
富山大学が求める「表現力」
発達教育学科れいわ2年度後期日程
初めて見ました。この出題意図。ものすごく富山っぽい。。。
不思議なことになっていたので載せておきます。
不思議じゃないですか?
医学部医学科後期日程れいわ2年度小論文
医学部看護学科れいわ2年度小論文
薬学部れいわ2年度小論文
徳島大学の「表現」
徳島大学後期日程総合科学部2020年度入試出題意図
表現するとは、説得力を持っていること。
なんのために表現するのか。説得力を持たせるため。
説得力を生み出す表現は、「重み」と「わかりやすさ」です。
自分の言葉を守る。自分の言葉を伝える。
卑しめられた言葉たち
あなたは「違和感」を持ったことがあるだろうか。
「何かおかしい」
「何かが違う」
もしくは
「こうあるべきだ」とか
「こう考えるほうがいい」といったおもひを抱いたことがあるだろう。
こんなことを考えたことはあるだろうか。
「友達って何だろう」
「愛って何だろう」
「本物って何だろう」(俺ガイルの主人公を思い出します)
「法律って何だろう」(サイコパスを思い出します)
あなたは問いをどれだけ深めてきただろうか。
自分にとって切実な問いであれば、懐に抱きながら今でもあなたはその問いを温めているかもしれない。
一方で、そうした言葉の重みがどれだけ日本で軽視されているか。
日本は「和」が第一原理の国である。法治主義より も徳治主義を理想とする。したがって法よりも礼が規範となる国である。だから、正しいかど うか、理屈に合っているかどうかは議論の決め手ではなく、問題を穏やかに討議せず、討論相 手の社会的地位や家族関係に十分な配慮をしないと、正しい者でも支持を失い、排除される国柄である。 私が理を主張すればするほど、相手は和に走り、私の不和をなじった。そうなればいっそう 私は理を主張した。こうして私が勤めていた社研は遂に爆発し、私は理が貫ける国に遁走した。(『智にはたらけば角が立つ 』森嶋通夫)
コミュニケーションの方法を選ぶのは人の心だ。
「不和」の前では「理」は退けられる傾向が日本にはある。
例えば議会の様子を見てみよう。
日本の様子はご存知だとおもう。
こちらが、よその国。
心はつくられる。
心は言葉を守るためのものだ。
言葉は命を形作る。
心は命を守る。
森嶋さんは、自分の命を守るために、イギリスへ飛んだ。
あなたは命を大切にしているだろうか。
あなたは自分の言葉を大切にしているだろうか。
自分の言葉に責任を持つ。そして伝える。
自分の言葉をもつ。
自分の言葉に責任を持つ。
それが小論文の勉強の第一歩だと僕は強くおもっている。
小論文を書くためには、自分の言葉が必要である。
小論文を書くために必要なことは自分の言葉を育てる必要がある。
なによりも、自分が自分の言葉をきちんと理解できていること、説明できることは大切だ。
自分にとって、自分の言葉は本当にわかりやすいのか、「論理的表現」は、「わかりやすい表現」と言い換えてもいいだろう。少なくとも部分集合ではある。
岐阜大学の後期医学部看護学科小論文れいわ2年度の出題意図を見てみよう。
論理的であることも、必要ではない。
とにかく伝えること。
小論文というコミュニケーションの場で、「伝える」こと。
そのために、言葉を尽くす。
食って寝るだけに生涯のほとんどをついやすとしたら、人間とはなんだ?畜生と変わりがないではないか。(ハムレットのセリフ)
「知らない」ことは「見ていない」こと、関わっていないこと
抽象的な言葉が飛び交っている。
「生きる力」
「経済格差」
「貧困問題」
で、どれだけちゃんと見てるのか。
どれだけ言葉を深めて、体感しているのか。
言葉は命である。
命は動いている。
命は成長する。
命は欲する。
言葉と、命と、あなたはどれだけ関わっていますか。
キーワードの数珠つなぎで、シッタカをしている人や、言葉自体、不適切な使い方をしている人がいます。(ファシリテーターをただの司会だとおもっている人がいたり)
あなたは、言葉を正しく知っていますか。
言葉によって指し示されている「この世界」を生々しく感じられますか。
コミュニケーションの実態ー命は言葉のリスクを負っている
小論文はコミュニケーションである。
コミュニケーションはメッセージの送り合いである。
受け手と送り手には次の要件が必要だ。
- 送り手は受け手が受け取れるような表現をしなくてはいけない。
- 受け手は受ける準備ができていなくてはいけない。
詳しくは↓
大抵、大人たちは言葉を受け取る準備ができていない。
コミュニケーションができない。(命に関わる大切な言葉についてに限定しよう)
コミュニケーションの経験が少ないために、あなたは小論文で困っているのかもしれない。
言葉を、育つ場所という観点から2つに分けてみよう。
- 言葉はコミュニケーションの中で育つ(外言としての言葉)。
- 言葉は経験の中で育つ(内言としての言葉)。
コミュニケーションは、相手の自分が何かを共有するためにある。
たいてい、「自分の命」が抜けている何かを共有している。
ここが問題だ。
- 他者とやりとりする外言があっても、
- 自分とやりとりする内言がない。
自分の言葉を育てる心が、弱い。
言葉を育てるという言葉を初めて聞いただろうか。
これは私が作った言葉だ。
なので伝わらないリスクがある。
小林秀雄の言葉を引いて説明する。
「自然の情は不安定な危険な無秩序なものだ。これを整えるのが歌である。悲しみに対して精神はその意識を、その言葉を求める。歌とは情を整える行為である。言葉にはその浄化作用がある。歌は情を整える順序即ち礼という形式である。」(『考えるヒント』小林秀雄)
詳しくは繰り返し同じことをはなす音楽に耳を傾けよう[本居宣長の歌論]
言葉を生み出すのは命だ。
命は情をもっている。
命は情(エネルギー)の塊だ、といってもいい。
宮沢賢治が『春と修羅』の序で描き出した「わたくしという現象」を見て、彼と僕は同じことを違う言葉で言っているような気がしている。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
こうした命(言葉)が、現代社会の中でどれだけ育てられているか。
「せはしくせはしく明滅しながら」と表現した世界から、僕らは多くのことを想像することができる。
現代人であれば、せわしく働いている、あれもこれも・・・という姿で解釈することもできる。
あ、話がそれた。
つまるところ言葉は形のないものに形を与えるものであって、個人的なものである。
それを共有するための仕組みが「教育」であり、「社会」であるが、そこで共有されている言葉はとても弱い。
だから小論文を難しいと感じている人が多いと僕はおもう。
抽象語が抽象語のママに、実態を理解されず、ただ虚しく響くだけ。
なんと空虚な世界。
だから小論文では、あなたが世界の空虚を捉えているのか、世界の実体を捉えようとしているのかが問われているのです。(世界をみれない学生はいりません)
そして、世界の実体を捉えようとすると、リスクが伴います。
日常的な会話ではないため、伝わらないことがあるからです。
質問自体が質問者の意図と異なる意味で受け取られる可能性もあります。
「え?わたしはそんなこと聞いていないんだけどな・・・」
だから「問い」を正しく理解する必要があります。
「踏まえて」という言葉の背景にある意味の一つです。
『思考のレッスン』丸谷才一の語る言葉の重みと責任
――さて、そういう立派な町で育たれて、「大勢を占める意見に対して同調しない、異を唱え る人を尊敬する人間」になったということですが、戦前、何か特に記憶に残ってることはあり ますか。
丸谷 二・二六事件の翌年、昭和十二年に、議会で「腹切り問答」というのがありました。 浜 田国松という代議士が軍部の横暴を批判したことに、時の寺内寿一陸相が「軍人に対する侮辱 である」と反発した。浜田代議士は、「僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝す る。なかったら君割腹せよ」と一歩も引かなかった。それから斎藤隆夫という代議士が昭和十 五年に、支那事変の処理の仕方について議会で質問して除名された。
子供心に、「こんなことが堂々と言える人は偉いもんだなあ」と感心したのを覚えています。 もちろんそんなこと、誰にも言いませんよ。
こういった、大勢の人が言っていることと違うことを言う、他の人とは違う考え方をする人 に共感するという性癖は、その頃から現在まで、僕の中でずっと続いてるんですね。(『思考のレッスン』丸谷才一 p.34)
いまの日本には、俗論がはびこってますね。 これは、政治的イデオロギー論者が大好きな論法ですが、たとえば「動機論的忖度」。「そう いうことを考えるのは、きみがプチブル的意識から抜けてないからだ」といった論法。
あるいは道徳論的挑発。「誰それがそんなことを言うのは、倫理的に許せない」などといっ て、それを論旨の主眼にする論法。あるいは、読者の嫉妬や羨望の念という下等な感情に訴えてのアジテーション。
また、昭和二十年代に全盛であった――いまでもあるのかもしれない――世代論的なものの 言い方。「結局、それが昭和一ケタ(明治生れ、大正生れ……) の限界なんだよ」といった無 意味な決めつけですね。それから、陰謀史観。「すべてはCIAの(あるいはKGBの、モサ ドの……) 陰謀だ」、そう言ってしまえば、歴史を考えるということは全部無意味になってしまう。
そういった実りのない、議論にならない議論は何も生み出さないことが明らかです。
(『思考のレッスン』丸谷才一 p.55)
繰り返しますよ。書き出しに挨拶を書くな。書き始めたら、前へむかって着実に進め。中身 が足りなかったら、考え直せ。そして、パッと終れ。
そこにもう一つ、全体にかかわる心得を付け加えます。それは、「書くに値する内容を持っ て書く」ということ。
書くに値する内容といっても、別に深刻、荘重、悲壮、天下国家を論じたり人生の哲理を論 じたり、重大な事柄である必要はない。ごく軽い笑い話、愉快な話、冗談でもいい。重い軽い は別として、とにかく書くに値すること、人に語るに値すること、それをしっかりと持って書 くことが大事なんですね。(『思考のレッスン』丸谷才一 p.278)
小論文というコミュニケーション:言葉の背景を共有する
よくある話。
「お金」とはなんですか?
あなたはどのように答えますか。
「そんな抽象的な質問、答えられないよ!」というかもしれません。
ある人は「コインだ」といいます。
ある人は「働いて得るもの」といいます。
ある人は「経済活動を促すもの」といいます。
質問する人は何かを知りたい、共有したいから聞きます。
聞きたいことが明確なら、たとえば「価値を交換する単位としての貨幣」という言葉を使うかもしれません。
けどこの言葉の背景には多くの「知識」が必要です。
多くの人は「?」で終わります。
小論文というコミュニケーションの場では、課題文が受け手(あなた)が送り手(出題者)の問いを理解するための助けになります。(話したいテーマを共有するために課題文があります)
「問い」が具体的であれば、「なにを聞きたいのか」もっとはっきりするでしょう。
言葉の背景を知っていること。
これが小論文を書くために必要なことです。
「踏まえて」という言葉の背景にある意味の一つです。
常識(問われることのない世界)を超えて問題・批判・認識を伝えるための表現
論理は「伝える」ための表現方法の1つでしかないのです。
小論文のテーマとは何でしょうか。
志望理由書を書くような小論文もあります。
けどどれも次の点では同じです。
「あなたは世界をどのように認識していますか」
「あなたは何のために学んでいるのですか」
これが出題者の「問い」です。
「あなたの考え」という言葉の背景です。
常識の中で過ごしていたら、そしてそれに違和感を覚えていなければ、言葉は育たないでしょう。
「いやぁ、常識的にはこうなんだろうけど・・・・」
このけどの先に「あなたの考え」が表明されるはずです。
これが論理(の一つの姿)です。
「常識」では片付けられない、もっとよりよい何かに向けられた眼差しが「だが」の次に書かれていることを「明示する」しています。(僕などはこの点、受け手がこの僕の眼差しを共有してくれないことにコミュニケーションの困難さを感じています)
コミュニケーションは、「事実」をめぐる認識の問題です。
「私はこのように考える」
「私はこのように考える」
という「事実」の認識が一人ひとり、もしくは立場、民族、文化によって異なるところにコミュニケーションの難しさがあります。
だからこそ「論理的思考」で伝える必要があります。
(もうひとつの伝えるアプローチがあります。それは身体的・霊的・神秘的なアプローチです。小論文の場合、その能力は要求されません)
谷崎潤一郎は、「文章の要は何かといえば、自分の心の中にあること、自分の云いたいと思うことをできるだけその通りに」伝えることだといっている。しかし、「自分の言いたいことをその通りに」書いたのでは、簡潔、明解でなく、論理もあやふやになる。知的な文章を書くのには、相当な知的エネルギーと、それに見合う苦労が必要である。(『知的文章とプレゼンテーション』黒木登志夫 p.42)
コミュニケーションは難しい。
この事実を認めた上で、
「あなたはこの主張(事実もしくはテーマ)をめぐって、大学生としてコミュニケーションできるか」と出題者から聞かれます。
「Aの背景にはB、Cという事実があって、ここで私はDという視点に立つ」ことが論理的思考であり、「Aの背景にはB、Cという事実があって、ここで私はDという視点に立っている」と話すことが論理的表現です。
このように、私たちは自分の内心の思いを発することが困難な時代を生きている。だからこそ、「書く」ことをいっそう鍛えていかなければならない。「機能化と能率化の度合い」を強める現実に対抗していくーそのために、「書く」という行為における「論理」の重要性を一貫して述べてきた。「論理的」であるといことは、「機能化・能率化・記号化」といった明晰ではあるが、一義的でどこか冷たいニュアンスを帯びた現実への異和感の表明でもある。だから「論理的」であることは、物事を多角的に見る姿勢を養うことによって、この息苦しい現代の現実から自由になり、他者への寛容性・優しさを形成していく態度につながっていく。『小論文の書き方と考え方』大堀精一 p.218
論理が最強、というわけではありません。
論とは、言葉をつなげるものです。
つなぎとめられる言葉が、そもそも「伝わる」ものでないといけないのです。
「論より証拠」という言葉は、「そらんじていないで、つきつけよ」という意味でしょうか。
具象と抽象が共存する小論文を書く。
具体的であればあるほど、論は進む
「論」を経験したことはありますか。
うーーん!!!!
友達と「ねぇ、付き合うってどういうことだろう」という話をしたことはありませんか爆
そして、、、結論は、、、、でない大草原
なぜか。
具体的な材料があれば、まだよいでしょう。「あの子とあの子、付き合い始めてこれこれこうした」
なるほど、これこれこうすることが付き合うということなのか。
けれども自分にとって「付き合う」ということは何なのか。
自分の言葉としてしっくりこないのではないでしょうか。
そして何も考えずに付き合っていくうちに「付き合うってこういうことか」とわかってくる。
付き合い方は人それぞれだということもわかってくる。
付き合い方が生き方そのものだとわかってくる。
「付き合う」というテーマで小論文を書くとすれば、あなたはどうしますか。
「ひとそれぞれである」
完。
それはまずいですね。
これだけ抽象的な問いなのですが「800字以内で述べよ」と書いてあるとしましょう。
あなたは何を思い浮かべますか。
「付き合う」という言葉を聞いて、どんな言葉を連想しましたか。
言葉を知らない(世界を知らない)ならばここでアウトです。
言葉がいくつか出てきたら・・・あなたは何を「論」じたいですか。
小論文への態度はさまざまです。
だから困るのです(問いが明確な場合はその指示に従えばいいのですが)。
なので一つの方向性を示したいとおもいます。
「付き合う」という言葉から連想された言葉の中で、「違和感」を覚えるものを選ぶ。
「違和感」を覚える言葉はできるだけ社会的な言葉である方が良い。
その「違和感」を論理的思考で分析した結果(認識)を書く。
問題解決の方法でなくていい。
問題提起でなくてもいい。
問いにそのような指示がない場合は、僕は「認識」を書いたらよいとおもう。
今思ったんだけど、小論文の指導って、思考の指導だから多分この文章伝わっていないよね!!!!!
頑張って進めてみよう・・・
簡潔な表現をするとは、たとえば「私の家の、ガソリンを動力として動く、タイヤが4つ ある乗り物」と書かずに「私の家の自動車」と書くことを指します。つまり、余分な細部を 書かないことなのです。 「肝心なことを克明に書け、余分なものはいっさい書くな」と、「簡潔な表現をせよ」は両 立しますし、両立させるのがよいのです。
もっとも、簡潔な表現を目指すことには、大きな危険が伴います。「簡潔な表現とは何か」 について誤解している場合のみ問題なのですが、簡潔な表現を目指すと、肝心な部分すらあっ さり書いてしまって、「要するに何を言いたいのか」の部分が貧弱な文章を作ってしまう危 険があるのです。 「論文指導の立場からは、「簡潔な表現」については、当面は、配慮は不要と考えてかまわ ないでしょう。なぜなら、現在の日本では誰の感覚も非常にあっさりしているため、説明過 多にはなりえないので、「簡潔な表現」については少なくとも今後数十年間は、配慮は不要 なのです。
むしろ、いまのところは(日本的な)「簡潔な表現」をしないよう注意が必要です。厳密 に表現できない人が簡潔な表現を目指すと、日本でよくある「説明なしの文章」になるから です。 『論理的な小論文を書く方法』p.164
《本文》抽象は具象の支えがあって意味をなす
日常会話の中で「抽象」という単語は、「きみの言うことは抽象的だ」というように、実体の伴わ ないニュアンスで使われることが多い。だが、もともと抽象という言葉は、そのように現実と切り離 されてふわふわ漂うような状態を指すものではない。現実をリアルに見るというプロセス抜きに抽象 ということは起きないのだ。
試しに『大辞林』(第三版)を引いてみると、「抽象」という言葉は「事物や表象を、ある性質・共 通性・本質に着目し、それを抽き出して把握すること」と定義されている。「事物や表象」つまりモ ノやできごとや他者の述べていることをよく見て、その中から最も大切な本質だと思えるものを取り 出すこと。抽象とは、現実としっかり向き合い、深く考えることから始まるのだ。そうして取り出し たものを言葉にしていくことこそが、「抽象語の構築」なのである。 (『小論文ー書き方と考え方』p.22)
こう考えると、抽象とは、具象の本質を抽出する、思考の作用なくして得られないもののようです。
具象なき抽象で埋め尽くされた文章は、、、、言葉がゾンビのように動き回っているような、不気味な世界だと思います。
書くべきことを書く!「論」を最初から最後までつなげる。
《本文》は《表明》を支えるものです。《本文》に書かれている「伝えたいこと」を「伝える」ことができなければ、意味不明になります。 『論理的な小論文を書く方法』p.179 から引用します。
【問題1】 『私にとっての親友』という論文を書く場合、論文中にはその人がどういうタイプの人かを 克明に書くだけでよい?
【答え】 よくない。 どんな人かの説明以外に、「なるほど。こういう理由なら、そういう(タイプの)人を親 友と考えるのはもっともだ」と読み手を納得させる部分が必要です。
【問題2】 「~が現状である。したがって、われわれは本当の意味の節約の精神を認識することが大切 である」 もし、この文章を結論部分に書きたいのなら、ボディーの部分には「なぜそれが大切なの か」の理由の説明以外に、何の説明が必要?
【答え】 「本当の意味の節約の精神を認識すること」とはどういうことなのか(書き手はそれを どういう意味で述べているのか、具体的にはたとえば何をすることなのか)についての詳しい説明、書き手にとって「本当の意味の節約」とは何かの説明、「本当の意味の節約を することが大切である」と書かずに、「本当の意味の節約の精神を認識することが大切である」 と書く理由 (つまり、行動よりも認識のほうを強調する理由)などが必要です。
《補足》 このように、書かねばならないことが随分あります。読み手がはっきり理解できるよ うに、これらを書くことは至難の技です(2000字程度のかぎられた文字数で論文を書く のなら、それは不可能です)。何が悪くてそうなるのでしょう? 「本当の意味の節約の精神 を認識すること」という、あいまいな表現を使うのが悪いのです。
【問題3】 「人間が機械に支配されることは、決してあってはならない」 結論中にこの文を書きたいのなら、ボディーの部分に「人間が機械に支配されることは、 決してあってはならない」理由のほかに、何を書かねばならない?
【答え】 「人間が機械に支配されている状況とは、どういう状況を指すのかの説明 (その説明なしで は、読み手には、書き手がどんな状況のことを言っているのかわかりません―実際に機械が人間を支配することはありませんから)。その状況を詳しく説明して、読み手に「この状 況なら人間が機械に支配されていると言えるな」と納得させねばなりません。
《補足》 この論文でもっとも肝心な部分は、「なぜ決してあってはならないのか」(A)を説明 する部分になるでしょうから、Aの部分に説得力を与えるために、Aの部分を詳細に記述せ ねばなりません。読み手を「この状況なら人間が機械に支配されていると言えるな」と納得 させねばならない負担まで書き手が背負うのは間違いです。何が悪くてそうなるのでしょ う? 「人間が機械に支配されること」という、わけのわからない表現を使うのが悪いのです。
酔って文章を書く人は、この種の「わけのわからない」表現を好んで使い、「カッコいい ことを書いた」と自分にほれぼれとします(「わけがわからないだって? どこが? はっ きりわかるじゃないか」とも思ってもいるでしょう)。あなたは、そうならないように注意 しましょう。文章の意味は、書かれている文字だけで読み手に正確に伝わらねばならないの です。読み手の憶測にたよる部分があってはならないのです。
【問題4】 作文で「新しく出来た図書館に行って本をたくさん借りてきたこと」を書く場合、それだ け(出来事だけ)を書けばいいわけではありません。では、何が必要なのでしょう?
【答え】 「それを書くことによって何を伝えたいのか」の記述が必要です(その部分が「核」です)。
【問題5(前問のつづき)】 「それを書くことによって何を伝えたいのか」が、「これから本をたくさん読もうと思った」 であるとします。この作文には、どこに説得力がなければならない?(読み手をどう思わせ ねばならない?)
【答え】 「こういうことなら、書き手がこれから本をたくさん読もうと思ったのは納得がいくな」と読み 手に思わせねばなりません。さらに、読み手自身に「私もこれから本をたくさん読もう」と思わせることができれば 大成功です。
【問題6(前問のつづき)】
その説得力を出すためには、詳細として、たとえば何を書けばよい? (ヒント:「核」が「これから本をたくさん読もうと思った」であるとき、それを支える「意見」は、たとえば「魅力的な本がいっぱい」です。それを支えるためには何を書けばよい?)
【答え】 たとえば、借りてきた本がなぜ魅力的なのかを1冊ずつ紹介するなどすればいいのです。 [ここを漠然と「おもしろそうな本ばかりです」とするだけにとどめてしまうと、説得力は 何もありません。説明はスペシフィックに! そうすれば文章はパワフルになります。]
《表明》「伝えたいこと」を踏まえてもらうために、抽象を使う。
まとまった、簡潔な表現を使うことで相手に伝えやすくなります。
大事なことを述べる《表明》では、抽象的な表現であってもよいと僕は思っています。
その簡潔で明確な、明言された「伝えたいこと」を《本文》で詳しく「伝える」のです。
《表明》「伝えたいこと」を明言する。
《本文》「伝える」
私は大学2年性の夏休みに、友人と海外旅行をした。(伝えたいことがわからない)
大学2年性の夏休みに私はイタリアに行き、そこでひったくりにあったことは、私にとって良い経験になった。(「伝えたいこと」がよりはっきりしている)
作文に見る、具象と抽象(象徴と描写)で具体性の重みを感じる
作文的な文章で小論文には使えないが、「悲しかったこと」を伝えるために「象徴(抽象)」を「情景描写(具象)」を積み重ねた結果として書く、事実の重みがあるからこそ「悲しかった」という抽象が理解されるということを感じて欲しい。
「悲しかったこと」
エリがある日、赤いはん点のまじった液をはいてから、急にようすが変になった。その日、私が学校か ら帰ると、エリは廊下に布と新聞紙をしいて寝かされていた。時々ひどい痛みがおそうらしく、目を閉じ たまま、ヒーヒーと低い声で泣き、そのたびに黒い液体をはいた。エリの生命のともしびは刻々と細って ゆくようにみえた。晩の食事がすんだころ、エリが目を開いた。「助かるかも知れないね」と母がいっ た。その時である。エリの胸の鼓動が急にはげしくなり、エリは両足をグーンとのばし、首をウーンとそらした。「エリ! エリ!」と母も私もさけんだ。しかしそれが最後であった。エリは目を閉じたまま、 もう動かなかった。母はエプロンのすそを顔にあてて泣いた。私も泣いた。
やがてエリのなきがらは段ボールの箱へ入れられた。「こんどは人間に生まれておいで」といって、母 は菊の花を入れた。エリの横顔はその花たばに半ばうずもれて、まるで無心に眠っているように見えた。 きのうまで、この顔で甘えていたのにと思うと、涙があとからあとから出るので、私は茶の間の障子のか げで泣いた。
あれからもう一年がたつ。思い出すたびに今でも涙が出る。茶の間の壁には、エリが生前ひっかいた傷 あとが残っている。しかしひっかいた主はもういない。
一読して「うまい」と思うのであるが、そう思わせる理由はどこにあるか。この文中、悲しみの感 情を直接的に表現した字句としては 「母はエプロンのすそを顔にあてて泣いた。私も泣いた」 「きのうまで、この顔で甘えていたのにと思うと、涙があとからあとから出るので、私は茶の間の 障子のかげで泣いた」 「思い出すたびに今でも涙が出る」 であるが、これだけで、「悲しみ」の気持ちが表現されているわけではない。こういう言葉の前に、悲 しみの原因となる事実の積み重ねがあり、それによって悲しみのムードが高まったところへ「母は工プロンで」とやっているので、悲しみのムードはここで絶頂に達する。これがムード表現の要領であ る。情緒、感情の表現は、感情的な言葉をならべるより、事実の積み重ねが必要である。(『作文・小論文のキメ手はこれだ―就職・入試』三浦 啓義 p.56)
「伝える」ために、削り取り、重くする
「伝える」ために言葉はある。ー「明示」する。広島市立大学の採点のポイント
広島市立大学の小論文、国際学部の評価基準には「明示」という言葉が書いてあります。
「説得力」も「論理的な説明」も、伝わらなければどうにもなりません。伝わった上で、説得力があって「よりよく」伝わる、論理的な説明をして「よりよく」伝わるものではないでしょうか。きっとそうです。
筆者の小野田さんは「わかりやすさの基準」を次のように述べています。
数秒ながめただけで全貌が見えるように書く。
2000字程度の文章で、数秒眺めて全貌が見えない文章は悪文、と考えよ。2、3秒ながめて「この文章では要するに何を言いたいのか」がわからあい文章は駄作と考えよ。『論理的な小論文を書く方法』p.22
伝えたいことが伝わる文章とは
- 明言する
- 正確に表現する
- 容易に理解できるように書く(読解力のない人でも瞬時に理解できるように)
- 慎重に(細心の注意を払って)書く
- ていねいに言葉を尽くして書く
- 自信と情熱を持って書く
小野田さんの言葉
- 読みやすく、理解しやすい文章を書くには肝心な点を先に書く(細かいことをいう前に)
- わかりやすさのための表現の工夫をせよ(わかりにくい文章に苦痛を感じる感性を育てよう)
- 「わかりやすく正確に伝えよう」という配慮が行き届いた文章を書け
- 「何を述べようとしているのか」を必ず先に書け
- 大尉要約が必要な文章を書かない。
- 余分なものを詳しく書かない。
表現するとは「核」をうまく支えることである。 - よく知っていることを書く。確信が持てないことを書かない。「〜ではないだろうか」と書くなら「可能性は3つある」と書こう
- 「カッコ良さそうなだけで意味を正確に伝えない表現」を使うな。
下手な論文の欠点
- 伝えたいこと(「要するに何を言いたいのか」の部分)がない
- 書き手自身の意見がない
- 書き手自身の「その人らしさがない(他の人と異なる「これが私」という部分がない)
- わかりやすく、正確に伝えようとする意思・能力がない
- 支えるものがほとんど(あるいはまったく)ない。
- 漠然としている。
- 「一つのもの」になっていない
- 論ずるフォームになっていない
- 知識不足、経験不足(これは、特に学生の場合)
「1つのもの」とは?
「核」「核をさせるもの」「文章をわかりやすくかつ正確に伝えるための表現上の工夫」で構成せよ
「核」を意見で支え、意見を事実で支えよ。
肝心なことをはじめに言う。
【問題2】 次の文には構成上の欠陥があります。それは何でしょう? (p.53)
「* * にはAという面があり、Bであるけれども、Cの点やDの点を考えると、結局Eとい うことになる」
【答え】 欠陥は、肝心なことが先に述べられていない点です。 肝心な点を先に言いましょう(細かいことを言う前に)。たとえば、次のように述べるの です。 「* *はEである。**にはAという面があり、Bであるけれども、Cの点やDの点を考え ると、結局Eということになる」
筆者の文章に「重さ」を加える書き方(構成)
- 共通認識(事実・疑問・テーマ)の確認。
- 違和感(私の書きたいこと)の表明。
- 違和感の詳細(事実や根拠)。
小論文は基本、このような書き方になるものだとおもった。
筆者には筆者が見ている世界がある(問題意識のエネルギーを文字に変換している)。
あなたは、あなたが見ている世界を伝える(問題意識のエネルギーを文字に変換する)。
あなたがどの段階で認識しているか、何を書くかを序論で書き留めればいい。
それで伝わると僕は信じている。
あなたの論点(論じる視点)をはっきりさせること。
そのためには
と書くとわかりやすい。(字数があればどのように論を進めるか書いていいでしょう。そちらの方が論文の体裁になります)序論は自分の論点、論のスタート地点を共有する大事な場所です。
テーマや論点を明確にしない限り、自分の意見を書くことはできない。そこで明確にできなければ、いつまでも何を書いていいかわからない状態から抜け出せない。だから書く練習を獲得するには、常にテーマや論点を明確にする力をつける必要がある。小論文入試であれ、レポート課題であれ、何かを書く場合に私たちは無意識のうちにテーマや論点を絞り込もうと言うおっモイを持っている。その思いを外化する(表現する)ための最良のトレーニングは、与えられた素材と設問を通してテーマと論点を筆者と共有して書く習慣をつけることである。『小論文の書き方と考え方』大堀精一 p.72
筆者の文章に「重さ」を加える書き方
- 共通認識(事実・疑問・テーマ・現状)の確認(筆者の記述のうち認められない主張はあるが、事実は認めるなど)。
- 違和感(私の書きたいこと)の表明(自分の違和感と筆者のテーマの関係も述べる)。
- 違和感の詳細(事実や根拠)。
課題文がある場合、あくまで第一発言者は「筆者」です。
「踏まえて」かけるかどうかは、1にかかっています。
たとえばこんな問いがあったとします(えらい不親切な問いです)。
- 共通認識(事実・疑問・テーマ・現状)の確認(筆者の記述のうち認められない主張はあるが、事実は認めるなど)。
- 違和感(私の書きたいこと)の表明(自分の違和感と筆者のテーマの関係も述べる)。
- 違和感の詳細(事実や根拠)。
という流れは同じです。
その言葉の背景をまず、探ります。
そこであなたは何を考えるでしょうか?
大学は「主体性ある論理的思考」を現代の社会問題を解決するために使いたいとおもっています(アドミッションポリシーで明言している大学もあります)。
「私の違和感」が大切ですが、それを「現代の問題」につなげる姿勢と両立してみてください。
そうすると例えば
という言葉がでてきます。(「コロナが終わるまで・・・」と書いてもいいですね爆)
例えばですよ。(これは日本人が貯蓄文化をはじめるきっかけになったか?と問い始めればきりがない)
その問題を「私」に限定するとアウトで、「社会問題」に適応するとOKです。
と書いたら、言葉の説明をしている、時代背景を述べているだけで「自分の考え」がありません。
あなたが書いた文章に「重み」はありますか。
筆者は、小論文というコミュニケーションの場で「あなた」に向かって直接問いかけているのかもしれません。その問いかけに対して、あなたはどう応えますか。
筆者(もしくは出題者)の言葉の「重み」に、あなたの言葉の「重み」で応えられますか。
主根と側根
例えば筆者が「格差社会」をテーマとして出したとしましょう。
- 側根的な考え方をすると・・・「格差社会にもいろいろあるよなぁ」と横のつながりが見えてきます。(マインドマップをイメージできますか?)
- 主根的な考えをすると・・・「格差社会って、悪いことなの?」という問いがでてきます。格差社会という言葉を俯瞰する考え方です。
もし1200字でかけ、と言われたら・・・・おそらく筆者の考えが及んでいない「地層」まで掘り進めていってほしいという出題者のオモイがあると考えて欲しいです。
あなたの「知(地?)」が蓄えられている分野があれば、書けるのです。
(書きたいことが多すぎて収拾がつかなくなるのが僕の癖です)
小論文の勉強とは、時間内に、自分がどのように思考すれば書くべきことを書けるかを自分で理解できるまで書き続けることなのかもしれません。
言葉という大地を掘っていく・・・・
小論文を書くとは、肉体労働なのです!
小論文で自分をみがく(他者の眼差しから自分を見直す)
文章とは何なのか。
コミュニケーションとは何なのか。
「書く」とはどういうことなのか。
コミュニケーションの価値が落ちていると僕はおもっています。
コミュニケーションが学びになる状況が少ないと僕は思っています。
自分が正しいと思うこと、命が燃えている自分の状態を伝えて、相手の命が応えてくれる。相手の命で自分の命がまた燃える。そんなイメージが、僕にとってのコミュニケーションです。
今まで現代文の文章を受動的に読んでいた人は、能動的に読んでみてください。自分を読み手として、文章が生み出すコミュニケーションの場に身を置いてみてください。
小論文で一番最初に学ぶべきは、書き方ではなく、読み方なのかもしれません。
きっと、そうなのです。
だから、オトノネは、対話します。
人間はやたらに「言葉」を使います。
けど僕らの脳は本当に「言葉」を使っているでしょうか。
動物のように、ただただ刺激に反応して生きているだけではないでしょうか。(自分を鍛えずに小論文を書くなどありえません少なくとも僕は)
小論文で「言葉」を学びませんか。
余分なこととは?ー「重さ」のある文章を書くために
ここで私が強調したいのは、小論文、広告文、企画文、報告文とはそれぞれ種類の異なった 短文章なのだ、という意識をなるべく捨てよう、ということだ。いずれの文を書く場合も、簡潔にかつ説得力を持った短文を書くのだ、という意識を持ち続けよう。
その短文の基本になるのが小論文である。後に示すように、小論文の作法(マナー)で短文 を書けば、広告文、企画文、報告文の水準が一段と上がるのではないだろうか。実際、私自 身、それらを小論文の作法で書いて、少しも齟齬がないのだ。
基本は、万人に通じる教養を基盤に、あらかじめ字数を決めた、メッセージ性の強い意見文 を書こうとすることである。読まれる文章のことである。一読、一見で、全体がすっと頭に入る文章である。そのモデルが小論文であり、凝縮されたものが広告文(コピー)である。
だから、企画文も、報告文も、A4(四〇字×四○行)一枚に収まるものを出すことを基本に したらいい。誰も読まないような、乱雑で長大な企画文や報告文をもらうほど嫌なものはな い。短ければ短いほどいいのは、何も広告文だけの特性ではないのだ。 『常識力で書く小論文 』p.50
「伝える」ために、「書かない」
この本を読んでいて、ふとおもったので書きます。
- 聞かれていないこと
- 論点との関係がはっきりしないこと
- 事実として認められないこと
- 冗長な文
聞かれていないことは、出題者の問いから外れているという意味です。
わかりやすい!
論点との関係がはっきりしないことは、
適切な接続詞をつかったり、文の前後関係を変えるといった文章術でなんとかなります。
「書きたいことがあれもこれも・・・」出てくることがありますが、「論点」に立ってあとは「祈りを込めて切り捨てて」しまいましょう。
小論文は、身を切り捨てる修行です。爆
私は大理石のなかに天使を見た。 石を削ってそれを解き放った。 ミケランジェロ(彫刻家)
この本にも書いてありました。
「書くこととは、あることをはっきり獲得する行為である。そのために、他のものをはっきり と捨て去る、断念する行為でもある。思いきり書くとは、さまざまにある思いを断って書くこ とである。思いを全部つめたものを書くなどというのは、書かない、正確には、書けない、と いっているも同然なのだ。
ああでもあるが、こうでもない、といつまでも思いを切ることが出来ない人には、文章を書くことは、少なくとも明快な文章を書くことは出来ない、と思われたい。『常識力で書く小論文 』p.24
切り捨てる
【問題5】 次の文章には余分なものがいっぱい書かれています。何が余分なのかわかりますか?
よく「プロフェッショナルたれ」と言われるが、一面的すぎはしないか。仕事を進める方 法論としては、プロとしての能力を身につけるべきだろう。しかし、その場合でも心のあり ようとしてはアマチュア精神が必要ではないのか。「甘え」「妥協」といった特色は、マイナ ス面として拒否すべきだが、固定観念から自由な心の動き、いろいろなことを学びとろうと する素直な心といったものは、アマチュア精神の中にこそある。
【答え】 この文章が言いたいことは、「プロでも、固定観念から自由な心の動きや、いろいろなことを学びとろうとする素直な心が必要だ」(W)で、後の部分はすべて余分です(Wを何も 支えていませんから)。
なお、この文章について解説を少し加えておきますと、この文章には、説明を加えるべき 部分が何も書かれていません。まず、「なぜそれが必要なのか」の部分がありません(「ない から必要」という暗示はありますが、「ないから必要」はリーズニングが変です。それでは、 「Aもないから必要、Bもないから必要など(ないものはすべて必要)」ということになって しまいます。また、それ以前の話として、プロはそれらをなくすことを示さなければなりま せんが、それも書かれていません。 『論理的な小論文を書く方法』p.225
採点者は忙しい。けどいい論文はちゃんと評価したい。
大学も忙しくなってきました。論文をたくさんよまねば。・・。最悪、序文だけよまれて終わる世界。「重み」をだせることが意識できたらよいとおもいます。
谷沢はこうもいう。情報量は本の厚さに反比例する。伝えるべき肝心要なことは、三行(三 命題)に凝縮出来る。これをアレンジすれば、文章は「短ければ短いほどいい」ということになる。一ページ書こうが、五OOページ書こうが、エキスは三行でいいのだ。
多くの言葉を費やさなければ伝わらない、複雑で困難な主題がある、といわれる。私もその 通りだと思う。万巻の言葉を尽くしても、語り得ないものだってある。しかし、逆にいうな ら、複雑で困難だから、盤根錯節を断つ言葉の技術を要するのである。眺めまわし、撫でまわ すだけでなく、潔く割って、エキスを抽出する必要がある。
現代は複雑だからこそ、簡明が求められる。短文が求められる。それにくわえて、万事にス ピードが要求される。背景說明のある、状況証拠をえんえんと連ねたような長い文章など読ん だり書いたりしている暇などないと、みんなが思っているのだ。 『常識力で書く小論文 』p.33
課題文に書かれた事実を「踏まえる」重要性
ハマりやすいのが・・・・
事実として認められていないことをさも事実のように書くこと。
おとのねさんてきにポイント低いです。
事実かどうかわからない不確かなことは書かない方がよいのです。
だって、事実は「考え」の前提ですから。
事実が間違っていたら、考えも全部アララーです。
5つの回答例のうち、②の回答に「地球温暖化に大きな影響を及ぼすのは二酸化炭素である」と書いてありました。
これは確かなことなんだろうか?
採点者がもし「地球温暖化と二酸化炭素の因果関係ははっきりしないんだけどなぁ」「二酸化炭素は実際、重要じゃないんだけどなぁ」と知っていたら・・・・
危うい!!!!
というわけで、「課題文」に書かれていることを「共通認識している事実」として使うのがよいかもしれません。
「自分の考え」「自分の論点」が立脚するなんらかの事実は、「共通認識」が成り立っているものにするという原理は、「自分の経験を書かない」ことと同じです。
すっきりすると、文章のスタイルが良くなる。
言葉は短くする。
簡潔にする。
推敲する時間がなく、書き直しも難しい小論文という適性試験です。
日頃から必要十分に書く癖がつくかな・・・
たとえば次の文
どれだけ短くできるだろうか。
私の「論」を「重くする」ために、文の節々を軽くするのだ。
伝えるために、短くする。『思考のレッスン』丸谷才一
西洋の言葉では否定詞が文章の前のほうに置かれるのにくらべて、日本語は否定詞が最後に くるというのが、理由の一つでしょう。 「私は昨日、いろいろさまざまな事情があって……鎌倉へ」と言って、その次が「行きました」なのか、「行きませんでした」なのか、最後までわからない。英語だと、否定の場合は主 語の近くに否定詞が置かれますから、行ったのか行かなかったのかはすぐにわかる。最も大事 なことが最初にわかっているわけですから、読者は方向をあらかじめ頭に入れながら読むこと ができるわけです。
ところが日本語では、結論がなかなかわからないから、読んでいて非常に不安になる。「一 体どうなのかなあ、鎌倉へ行ったのかなあ、行ったようでもあるし、行かないようでもあるし、 どうなんだろう」と、心配で心配でたまらない。いても立ってもいられない。というのは大げ さな言い方だけれども、心の底ではそうなんですね。 そういう状態だと、文章の途中にお天気のことやお土産のことが書いてあっても、気もそぞろで集中できない。 これは日本語の弱点の一つですね。(『思考のレッスン』丸谷才一 p.247)
日本語に長いセンテンスが向かないのは、英語の関係代名詞、関係副詞といった 関係詞を持たない点ですね。
そんなことはよく知っているはずなんだけれど、つい関係詞節入りの文章を書いてしまう。 それは西洋的なものの見方で現実を見ていることの反映であって、仕方がない面もあります。 しかし、できるだけそういう書き方は避けるべきでしょう。 例文を二つあげます。
1容貌の点からいって、王者のような前額だけが唯一の資産で、決して美男ではなく、又挙 止や言葉使いが粗野で貴婦人達が敬遠した彼れが、藝術的偉大さと名声とにかかわらず、彼 れの幾度かの求婚が報いられず、人生における伴侶を得るに成功しなかったことは、容易に 想像し得られることである。
(2は略)
2つとも、故人ですが、有名な人の文章です。お二人とも学者。
例文1は、最初の「彼れが」に三つの関係代名詞節がかかっている。英文法的に言えば、 「容貌の点からいって……」は所有格 (whose)、「決して美男ではなく」は主格 (who)、「貴婦 人達が敬遠した」は目的格(whom) です。 ――しかも、それが「成功しなかったことは」と受けられて、ここまでが主語で、「容易に想 像し得られる」が述語ですよね。 丸谷とにかくこれはたいへんな代物です (笑)。読んでて頭がゴチャゴチャする。
たとえば、「彼は容貌の点からいって、王者のような前額だけが唯一の資産で、決して美男 ではなかった。又挙止や言葉使いが粗野で、貴婦人達は彼を敬遠した。だから……」とやれば ずっとわかりやすくなるのにね。 ――これはベートーベンですか? 丸谷そうです。かわいそうだね。こういうことを書かれるにしても、もっといい文章で書か れたい(笑)。(『思考のレッスン』丸谷才一 p.253)
言葉を選ぶ。
「ではないだろうか」という言葉を使う筆者が多いような気がするが、それは「小論文」として不適切である、伝えることをビシッと自信を持って伝えられるように、心を磨いていきましょう。
主張代わりの疑問文(「~ではないでしょうか」)
これは次の意味です(そのどちらかは、ときによってまちまちですが)。
「~です。そうではありませんか?」|a
「『~である』と思うが『~である』と述べる自信はない」|b
aの場合、2つ目のセンテンスは不要です。「意見を述べる」とは「相手に問いかけること」 ではありません。
bは自信欠如の表現です。あなたが自信のないことを述べても、価値ある文章にはなりま せん(述べる自信のあることだけを、自信を持って述べましょう―自信については第5章 で説明します)。
「主張代わりの疑問文」を書くと、文章は論文ではなくなってしまうので、それは絶対にだめですが、論文ではそれ以外の部分でも、疑問文の使用は避けるほうが賢明です。前にも書 きましたが、論文の読み手が書き手に求めているのは、その人なりの意見です。「読み手へ の問いかけ」は意見ではないので、論文中に問いかけがあるのは不適切です。また、次に説 明する「自問自答のための疑問文」は、書き手をバカに見せるだけです。 『論理的な小論文を書く方法』 p.80
「論」のエッセンスを1つに絞る。
現代マネジメントの父と呼ばれるピーター・ドラッカーも、ノーを言う達人だった。 「フロー体験」の研究で知られる心理学者ミハイ・チクセントミハイは、かつてドラッ カーに創造性に関するインタビューを申し込んだが、華麗に断られてしまった。 その手紙に感銘を受けたミハイは、それを一字一句紹介している。
「2月4日のお手紙を拝読し、非常に光栄に思っております。貴殿のご活躍は常々拝 見しており、多くを学ばせていただきました。そのようなお方を失望させるのは非常 に心苦しいのですが、残念ながらインタビューに答えることは不可能なのです。創造 的と言われましても、私はその意味を存じておりません。私はただ地道に進んでいる のみです。……無礼な奴だとお考えにならないでほしいのですが、私にとって生産性 の秘訣とは (創造性はわかりませんが生産性は信じます)、特大のくずかごを用意し、 すべてのこうした誘いをそのなかに入れることなのです。これまでの経験から言っ て、生産性とは他人の仕事を助けることではありません。天から与えられた才能を最 大限に生かすべく、持てる時間のすべてをそこに費やすことなのです」
ピーター・ドラッカーは、エッセンシャル思考を正確に理解していた。 「ノーと言える人は仕事ができる」と彼は考えていた。 (『エッセンシャル思考』p.125)
考えることは精神の作用で「余分なこと」はないかもしれませんが、それを書くか書かないかは判断しないといけません。意識してみてください。
編集は、エッセンシャル思考の技術である。不要なものや余分なものを容赦なく削り、 作品の本質を取り出す仕事だ。では、どうすればすぐれた編集技師を見分けられるのか?
アカデミー賞の選考をおこなう映画芸術科学アカデミーは、「見せられたものを見ない ために懸命に努力する」のだと言う。
言い換えれば、すぐれた編集技師は、重要なものがいやでも目に入ってくるようにする のだ。余分なものを排して、見るべき要素だけを観客に提示するのである。
(略)
編集の技術は、ただ減らすことにあるの ではない。減らしながら、価値を増やすのだ。すぐれた編集技師は、余分なものを削るこ とによって、そのプロットや世界観やキャラクターをいっそう際立たせる。
同じように、自分の仕事や生き方を編集すれば、その成果をよりいっそう高めることが できる。本当に重要なことにエネルギーを集中できるからだ。余分なものを削ってこそ、 重要なものを生かす余地が生まれる。 編集は、邪魔なものを削ることによって、エッセンシャル思考の苦労を取り除いてくれ
る。ある書籍編集者はこう語った。 「僕の仕事は、できるだけ読者にラクをさせることです。 その本から得られる情報やメッセージを、間違えようがな いほど明確にするんです」
もちろん、編集にはトレードオフがつきものだ。すべて のキャラクターやエピソードを残したいと思う気持ちに反 して、編集者はこう問いかける。 「このキャラクターやエピソードは、本当に作品を良くす るだろうか?」
本の著者や映画の脚本家は、自分が書いたものに強い愛 着がある。自分が長い時間をかけて必死で書き上げたもの を、少しでも削るのは心が痛む。それでも、削らなければ 本質は見えてこない。作家のスティーブン・キングもこう 述べている。 「大好きなものを殺すんだ。書き手のちっぽけなエゴに満 ちた胸がはりさけたとしても。大好きなものを殺すんだ」(『エッセンシャル思考』p.197)
「論」を1つにするとは?
『論理的な小論文を書く方法』小野田 博一さんは具体例をたくさん書いてくれています。
小論文の書き方に関する質問集
Q 違和感をもてません。
A 大学で何を学ぶのですか?いやいや、もしかしたら、抱いている違和感はあるのだけれど、抑圧されているだけかもしれません。対話でなんとかかんとか違和感が言葉として出てきたらいいなぁとおもいます。
まず、書いて見たらどうでしょうか?
「書く」ことをくぐらなければ、自分の思いの核にあたるものを抽き出して把握することはできな い。そのことは受験生が書かねばならない小論文であれ、大学で書くレポートであれ、仕事上のスピ ーチやプレゼンテーション、さらには個人のブログなどであっても本質的には変わらない。思ってい ることを言うためには、向き合う対象を多面的に見て深く考えることから始め、簡単には言えないと いう「感じ」を言葉で埋めていかなければならない。それが「書く」ということの意味であり、始ま りでもある。 思っていることを言えないという「感じ」を、私は「異和感」という言葉で表現している。(『エッセンシャル思考』p.197)
Q 自分の論点をどう決めたらいいのでしょうか。
A 具体性がないと、論点がでてきません。自分が思い浮かべられる範囲でしか考えられません。いくつかあるなら、全部のパターンで書いてみましょう。どの書き方が一番しっくりくるのか、感じられるはずです(バッティングの練習、ダンスの練習と同じです。やってみて、かんじてください)。
論点が定まらないと、次のような回答になるでしょう。
【演習編】難関大小論文対策 第2章 課題文の読解 / 2-21 批判的読解Ⅰ② – 根岸 大輔
これが、出題者の望んでいる答えでしょうか。
僕はそうはおもいません。言葉の説明なら、知識を問うなら、他の試験でやったらいいのです。
知識を問う小論文は、主に理系学部で出題されます。
それこそ理路整然と説明したらよいだけです。
僕が話している小論文は、主体性ある論理的思考を問うものです。
Q 解決策を書いてもいいのでしょうか。
A 筆者が解決策を提示していたり、出題者が書けというなら自分も書いてよいでしょう。筆者が特に解決策を述べていない場合、もしくは出題者が解決策をだせと指示していない場合は、序論で書いてあげた方がよいでしょう。
特に指示がない場合、書かなくてはいけない!というルールはありません。
「取り組み」を述べよという問いがありますね。
この時も次の基本は変わりません。
- 共通認識(事実・疑問・テーマ・現状)の確認(筆者の記述のうち認められない主張はあるが、事実は認めるなど)。
- 違和感(私の書きたいこと)の表明(自分の違和感と筆者のテーマの関係も述べる)。
- 違和感の詳細(事実や根拠)。
「違和感」ではなく、事実から導き出される論理的に妥当な「取り組み」を書くのです。
Q 根拠はどの程度書いたらいいのでしょうか。
A 本物の論文であれば、実際のデータや実験結果などが根拠になります。が、小論文ではそれができません(データがでているものは別)。「違和感」の詳細を理路整然と説明すれば、根拠になると考えてください。
小論文では「誰かの言っていること」を鵜呑みにしたり迎合せず、コミュニケーションの場を「重く」することができるかどうかが肝心です。根拠の前に、自分の論点を定めることが大切だとおもいます。
根拠は、直感的な違和感を感じた時に「そうなのかな?」と自分自身に問いかけてはじめて出てくると考えてください。それも「あなたの考え」です。
Q 小論文とディベートは違いますか?
A 違いますよー。小論文はディスカッションです。ディベートはゲームです。
Q 小論文はすぐにかけるようになりますか?
A ダンスはすぐに踊れるようになりますか?どんなダンスを踊りたいですか?筆で字を綺麗にかけますか?どんな字を書きたいですか?絵を描く練習をしますか?どんな絵を描きたいですか?
どれくらい時間がかかるとおもいますか?
Q 小論文はセンスですか?
A センスは必要です。言葉への敏感さ、言葉の重みを感じる心が必要です。ただし、言語能力は先天的なものではありません。センスは磨くことができます。それは言葉を磨くことです。
Q 小論文は、批判することなのですか?
A 批判という言葉をどういう意味で使っているのでしょうか。僕が参考にしている本にはこう書いてあります。
常識論や社会通念への無批判な追従は、自分で考えることの放棄に他ならない。
『小論文の書き方と考え方』大堀精一 p.72
相手の論をこねくりまわしたり、「たしかに」と書いてゴカマスことが批判ではありません。
大抵、筆者は何かしらの問題意識・テーマをもって文章を書いています。その文章を読み、誠実に相手のテーマについてあなたが答えるだけです。
その答え方が、主体性ある論理的思考かどうかが問題です。理由をくっつけてこうかけばできあがり!な小論文を僕は評価しません。
Q ついつい「べきだ」と書いてしまいます。
A べきだと書くからにはそれなりの主張が必要ですが・・・大丈夫ですか?そもそもが「認識」の問題で、そのズレをどうするか、どう取り組むか、どう捉え直したらよいかを述べるのが小論文です。政策を打ち出したり、大声をあげて主張するものではありません。
「踏まえる」こと、「読み解く」ことを意識してみてください。
そうしたら「べき」はなくなるのでは?
Q 文章を書く極意って、あるんですか?
A 猪瀬直樹さんが『小論文の書き方』で次のように極意を書いています。
開高健の短いエッセイを纏めた『衣食住足りて文学は忘れ去られた!?文学論』に収められた極意をここで紹介しよう。簡にして要を得ている。
- 読め。
- 眼をひらいたままで眠れ。
- 右足で一歩一歩歩きつつ左足で跳べ。
- トラブルを歓迎しろ。
- 遊べ。
- 飲め。
- 抱け、抱かれろ。
- 森羅万象に多情多恨たれ。
補遣一つ 女に泣かされろ。
解説を加えると野暮になるが、あえていうと「読め」がいちばん先にある点、なによりも精彩を放ってる。「読め」は、あたりまえのようだが、このあたりまえがもっとも軽視されているのが情報化社会の実態である。つぎに八番目の「抱け、抱かれろ」。とくに「抱かれろ」。二つでひとつ。補遣の「泣かす」のではなく「泣かされろ」にも対応している。つねに立場を変えてみること。(『衣食住足りて文学は忘れ去られた!?文学論』p.20)
参考にしてください。
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