新潟県立看護大学の過去問!看護学部の小論文の解答例
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課題文
問題 次の文章を読んで、問1から問5に答えなさい。
日本は狭い小さな国であるが、北と南ではずいぶん気温も生活もちがう。それに人びとの気質も言葉もちがっている。 だから子どもたちの 表情や遊び方がちがっていたり、声の出し方やアクセントがちがっていても不思議ではない。実際わらべうたの調査をしてみると、北海道や 青森と鹿児島や沖縄とでは、ずいぶんちがった表情をもっている。ところが私たちはむしろ逆に、これほど距離的に離れ自然や文化的環境が 異なっているにもかかわらず、何と共通したわらべうたが多いかに驚いているのである。
今から七年も前に、沖縄の子どもたちが東京のわらべうたとほとんど同じものを沢山知っているのを発見して不思議に思った。そして同じ年に青森の下北半島でもまた、ほとんど同じものがうたわれていた。もちろんアクセントや旋律感覚のちがいで、部分的にはちがっているが、明らかに同系統の遊びであり歌である。誰が何時、どのようにしてわらべうたを運ぶのだろうか? 特に本土と沖縄との場合、わらべうたが電波に乗るわけでもないし、音楽の教材になっているわけでもない。 鹿児島と那覇との間のQレンラクセンにわらべうたをうたう年齢の子ど もは多く見かけなかった。またある時、鹿児島と北海道でまったく同じ系統で歌詞も酷似した「まりつきうた」を発見したことがある。ところが不思議なことに、その途中では未だそれと同じまりつき歌を聞いたことがない。もっと面白いことは、南米のペルーのアンデス山脈の高 地、あのインカ帝国の子孫といわれるケチュア族の子どもたちが、日本の「ジャンケン」をして遊んでいたり、米国の西海岸ならまだ良いと 文して、東海岸のニューイングランド地方でも「ジャンケン」をする子どものいたことである。またコネチカット州の子どもは日本の『クマさ んクマさん』という縄とび歌を英語でうたっている。
これらの事実は、わらべうたが私たちののソウゾウ以上に広い地域に広まり得ることを示している。しかも!そのスピードは速い。利根川 流域の調査をして三年になるが『カボチャの種子』というお手合せ歌を発見した。これはまだあまり広まってはいなかったが、昨年夏四国の 土佐(高知県)の手結という町で一クラス全員がそれを知っているのを私たちの仲間の調査員がつきとめた。高知の他の町や村ではもちろん 何処にも未だ発見されていなかったので、調べたところ、そのクラスに一人の少女が東京から、父親の「テンキンによって編入されて来たこ とがわかった。彼女がはるばる運んだのである。
わらべうたは、遊びを伴った歌であるから、ただ歌だけが伝播、伝承されることはむしろ例外である。お手合せにしろ、ジャンケンにしろ、 むしろ遊びそのものが伝播し、歌はそれに付属品としてついて廻るのである。ケチュア族の子も、ニューイングランドの子も、日本と同じよ うに「ジャン・ケン・ポン」または「ジャン・ケノ・ポ」などといっていたが、私がその言葉の意味を訊ねたところ「昔からそういうのだ」 とのことであった。9ケッサクは「あいこでしょ」のかわりに英語でIcanna (can not) show という。しかも意味が通じる。はじめは、多分 遊びに伴って原曲の歌詞がうたわれるだろう。しかし、意味がもっとわかりやすい言葉にかえられ、うたいやすい旋律にかわり、その地域の アクセントやリズム感が影響して、わらべうたは育っていく。
たった一人の子どもでもわらべうたを運ぶことはできる。もし、前項で問題になった最初の種子に近いものがあるとすれば、この一人の子 が運んだ遠い地域の遊びと歌である。だが、この種子は芽を出すとき、必ずしも元のままではない。そしてまた一種類の芽でもない。そこか らまた無数の試みと カイサクを経て、広く大きく育っていく。
大人の気づかない世界で、このわらべうたという無数の生きものは、どんなに無視されても、圧迫されても、僅かな隙間から子どもの心 の中に飛び込み、新しい生命をかちとって広まっていく。 「そして周囲も本人も、これが歌であるという意識がほとんどない。友だちと遊ぶとき、人の悪口をいって囃すとき、ブランコに乗って数を かぞえるとき、もうその子はわらべうたをうたっている。 cこの育ちゆく生命力を知らずして、子どもの教育は成りたたないことは、いうも愚かというべきである。
(出典 小泉文夫著 『音楽の根源にあるもの』百~百三頁平凡社 一九九四年 一部改変)
設問
問1 傍線部0~6のカタカナを漢字で書きなさい。(十点)
問2 傍線部A「そのスピードは速い」と筆者が述べている根拠となる事実を八十五字以内で述べよ。(二十点)
新潟県立看護大(後期日程)
問3 傍線部Bで、筆者は、わらべうたの生命力は強いと述べているが、あなたはそれに対してどう思いますか。あなたの考え方を、自己の
経験をもとに百字以内で述べなさい。(二十点)
問4 わらべうたは、伝えられた地域で、どのように変化していくと述べられているか。順を追って百字以内で説明しなさい。(二十点)
問5 傍線部Cでは、子どもの教育に、わらべうたの理解は必須であると述べられています。あなたはこの見解をどう思いますか。二百五十
字以内で書きなさい。(三十点)
おとのねさんの解答プロセス
新潟県立看護大学2016 後期
メモ
筆者の問題意識
距離的に離れ自然や文化的環境が異なっているのに、共通したわらべうたが多い。
アクセントや旋律感覚の違いで部分的には違っているが、同系統の遊びであり歌である。
問:誰が何時、どのようにしてわらべうたを運ぶのか。
事実:わらべうただけでなく、海外でもじゃんけんをして遊んでいる。
主張:わらべうたには生命力がある。
わらべうた1(種子に例えた)
広がるスピードが早い。
親の転勤で子供が運んだ。
遊びと共に伝播、伝承される。
その地域のアクセントやリズム感が影響して、育っていく。
この趣旨は芽を出すとき、必ずしも元のままではない。そしてまた、一種類の芽でもない。
「あいこでしょ」
わらべうた2(芽に例えた)
育ち行く生命力
どんなに無視されても、圧迫されても、わずかな隙間から子供の心の中に飛び込み、新しい生命を勝ち取って広まっていく。
具体例:友達と遊ぶとき、人の悪口を言って囃すとき、ブランコに乗って数を数えるとき、もうその子はわらべうたをうたっている。(わらべうたを歌っている意識はない)
→ 「わらべうた」は無意識のうちにひょっこり芽を出してくる。
解答例
問2:
千葉県で歌われていた『カボチャの種子』という新しいお手合わせ歌が発見されてから、長く見積もっても3年以内に同じ歌が高知県で歌われていたこと。
問3:問いを解釈する「わらべうたの生命力とは何かをはっきりさせる」
筆者は具体例を挙げていない????(100文字かよ)
自分が経験した範囲で考える(主体性)
わらべうたは旋律やリズムを伴う言葉のことであり、子供たちが無意識に生み出し育てる生命であると私も思う。私は無意識のうちに「いーけないんだいけないんだ!」と囃し立てる瞬間に、わらべうたは生命を勝ち取っていた。(96文字)
問4:設問の読み取り「伝えられた地域で」「述べられているか」
まず、遊びに伴って原曲の歌詞が歌われる。次に、伝えられた地域のアクセントやリズム感に影響されながら、伝えられた土地で意味がわかりやすい歌詞やうたいやすい旋律に変わる。(78文字)
問5:筆者のわらべうたの視点を、同じ論点で教育に向ける
問5:【問いの解釈】筆者の考える「わらべうた」を踏まえて、教育の目的についてあなたの考えを述べよ。
《読み取る》(削除)
筆者はこういう点でこう考えている。
筆者の主張には根拠がない。子どもの教育とは何なのかを論じていないからだ。
《踏まえる》→筆者のわらべうたの視点を、同じ論点で教育に向ける
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《表明・本文》
私は子どもの教育とは与えられた知識の形を変えて、育てていくものであると考える。また誰かがもってきた知識を受け取り、わかりやすい言葉に言い直すなどして自分が育てなおすことでもあるとも考える。生命力のない「歌」は無視されたり、圧迫されたら、死んでしまうだろう。なぜなら、自分という土地で育たない知識は、育つことがないからだ。
《メッセージ》
このように、わらべうたは、必ずしも元のままにならない知識、そして、生まれてくる芽も一種類ではない多種多少な知識の育ち方を知るための具体例である。子どもの教育にわらべうたを理解することが大切であると私が考える理由である。(250文字)
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ポイント
出題者の「問題」の作り方
課題文の前後に書かれている文章を想像することを求めている。
(筆者を「踏まえて」書く意味)
「問い」を作った出題者は文章を読みながら論理的思考を使って主体的に「問い」を立てている。あなたも出題者や筆者と同じコミュニケーションの場に立てるか。
(自分の「考え」を支える根拠があるか。筆者の考えを「踏まえられる」根拠があるか)
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