- 祈りが呪いになる。言葉をどう受け取るかは子ども次第。子供のしつけと『マインドセット』
- 子供のしつけが快楽になっている可能性?オキシトシンの対抗馬、テストステロン
- 愛着形成のために、しつけではなくけじめが大切。『アタッチメント障害とその治療』
- 子供の【駄々をこねる心】と、おもちゃうりばの前を通りたくないお母さん
- 躾ではなく、子供に心のお守りを渡そう。『マインドフルネスストレス低減法』
- 言葉を喋るまでのケジメが大事すぎる件。躾ではありません。気締めです。
- しつけ(躾)ではなくケジメ(気締め)という言葉を使う。
- しつけと道徳的行動の関係の研究『問いからはじめる発達心理学』
- 四諦ー褒める、叱る前に知っておきたい「渇愛」の話『あなたの脳は変えられる』
- 怒りとの付き合い方ー怒りを心が処理するしくみを伝える子育て
- しつけと怒りの感情表現と暴力『絵本とともに学ぶ発達と教育の心理学』
- ケンカが起きたらどうするかー本当は、喧嘩をしたくない、仲良く遊びたい心に気付けるか
- どこまでふぇーん!が通じるかーコドモは心をつくっている
- 「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
- 大人も子供も、説得しても伝わらない。共感すると、何かが動き出す。「理」が通らない人間世界『残酷すぎる成功法則』
祈りが呪いになる。言葉をどう受け取るかは子ども次第。子供のしつけと『マインドセット』
何気ない言葉が、呪いになるケース:硬直マインドセット
硬直マインドセットの子どもたちは、親からひっきりなしに、自分の優劣を評価するメッセ ージを受けとっており、四六時中、品定めされているような気がしている。こうした生徒たち に一連の質問をしたところ、次のような答えが返ってきた。
Q お母さんやお父さんが、宿題を見てやろうと言ったとします。どんな気持ちからだと思
いますか?
A 宿題をやっているのを見て、ぼくがどれくらい頭がいいか確かめたいから。
Qあなたが良い成績を取ったのを、お母さんやお父さんが喜んだとします。なぜだと思いますか?
A ぼくが頭のいい子だとわかったから。
成績が振るわなかった科目について、お母さんやお父さんがあなたと話しあおうとした とします。どんな気持ちからだと思いますか? ぼくは頭が良くないんじゃないかと心配だから。成績が悪いのは賢くない証拠かもしれ ないと思っているから。
こうした子どもたちは、言葉をかけられるたび、そこに優劣評価のメッセージを聞きとる。
言葉が、祈りになるケース:しなやかマインドセット
しなやかマインドセットの生徒たちはそうは考えない。 学習意欲を育み、勉強の習慣をつけさせようとしているのだと思っている。しなやかマインド セットの生徒たちに、先ほどと同じ一連の質問をしたところ、こんな答えが返ってきた。
Q お母さんやお父さんが、宿題を見てやろうと言ったとします。どんな気持ちからだと思いますか?
A 宿題からできるだけたくさんのことを学んでほしいから。
Q あなたが良い成績を取ったのを、お母さんやお父さんが喜んだとします。なぜだと思いますか?
A良い成績がとれたのは、一生懸命に頑張った証拠だから。
Q 成績が振るわなかった科目について、お母さんやお父さんがあなたと話しあおうとした とします。どんな気持ちからだと思いますか?
Aもっとうまい勉強方法を教えてやりたいと思っているから。
品行や人間関係についても、硬直マインドセットの子は、親に評価を下されていると感じ、 しなやかマインドセットの子は、親に応援してもらっていると感じていた。
Q 言いつけを守らなかったために、お父さんやお母さんに叱られたときのことを想像してください。なぜ、あなたを叱るのだと思いますか?
硬直マインドセットの子:ぼくが悪い子なのではないかと不安だから。
しなやかマインドセットの子:この次はちゃんとできるようになってほしいから。
悪いことばかりやらかすのが子どもというものだ。調査によると、一般的な幼児は3分に1 回、何かしら悪いことをしているという。それを品定めの場にしてしまうか、大事なことを学ばせるチャンスにするか。
Q お友だちと遊んでいるときに、何かを独り占めして、お父さんやお母さんに叱られたとします。なぜ、あなたを叱るのだと思いますか?
硬直マインドセットの子:独り占めするのは、ぼくが悪い子の証拠だと思ったから。
しなやかマインドセットの子:友だちと仲良くするにはどうすればよいかをわかってほしい と思ったから。
子どもたちは幼い頃からこうした教訓を学んでいる。よちよち歩きの頃からもう、親の発す るメッセージを敏感にキャッチしている。そして、間違いをしでかすとダメな子のレッテルを 貼られて罰を与えられるんだ、と学んでしまう子もいれば、間違えたときにはアドバイスして もらえたり正しいことを教えてもらえたりするんだ、と思うようになる子もいる。
(『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.266)
赤ちゃんの時から「心」は作られている:心はコミュニケーションでつくられる。
相手の反応を見て学んでいくのは、子どもだけではない。親の方も、わが子のちょっとした 行動を読みとって、それに応答することを覚えていく。
新米ママが赤ちゃんにおっぱいを飲ませようとしても、赤ちゃんは泣くばかりで、なかなか 乳を飲もうとしない。ちょっと吸ってみただけであきらめてしまい、またぎゃーぎゃー泣きだすこともある。 「赤ちゃんて、こんなに扱いにくいものなの? こんなに手がかかるものなの? それにして も、おっぱいの飲み方なんて、生まれつき知っているんじゃなかったの? 赤ちゃんは、おっ ぱいを飲む名人のはずじゃないの? うちの赤ちゃんはどこかおかしいのかしら?
こんなふうにあれこれ悩んだ新米ママが、こんな話をしてくれた。 「初めのうちは本当にいらいらしたのですが、あなたの研究を思い出しては、赤ちゃんにこう 語り続けたんです。『あなたもママも、どうすればうまく吸えるか、今、学んでいるところな のよ。おなかがすいたよねえ。つらいよねえ。でも、あなたもママもだんだんうまくなってい くからね』。こんなふうに考えると、いらいらすることもなくなり、うまく飲めるようになる まで落ち着いて導いてやることができました。この考え方は、他のことを教えるときにも応用 できて、赤ちゃんのことを理解するのにとても役立ちました」 優劣や善悪の判断をくだすのはやめて、教え導いていこう。今まさに学んでいる最中なのだ 。(『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.270)
言葉は不完全だ。だからコミュニケーションをする、しなやかマインドセット
16歳のアリサが母親のところにやってきて、友だちと一緒にお酒を飲んでみたいと言い出し た。「みんなを呼んでカクテルパーティーをやってもいい?」ちょっと聞くと、とんでもない ことのように思われるが、アリサが考えているのはこういうことなのだ。友だちとお酒の出る パーティーに行こうと思ったのだが、初めてお酒を試すときは、安心できる場所で試したい。 そこで、それぞれの親の許可を得て、大人の監督のもとで飲んでみたいと思ったのだ。
アリサの両親が承諾したかどうかはともかく、ここで重要なのは、親子3人で納得のいくま で話しあったことである。もしも、両親が激怒して、はなから取りあわなかったとしたら、そ のような実りのある議論は絶対にできなかっただろう。
しなやかマインドセットの親は、子どもを甘やかして、好き放題にさせているわけではけっ してない。高い基準を設け、どうすればそこに到達できるかを教えようとする。そして、あく までも子どもを尊重しつつ、公正で思慮に富んだ判断に立って、ダメなときはダメと言う。
あなたが今度、子どもをしつけようと思ったときには、自分が子どもにどんなメッセージを 送ろうとしているかをよく考えよう。「優劣や善悪の評価を下して罰を与えてやろう」という メッセージだろうか、それとも「じっくりと考えて何かを学びとることに力を貸してやろう」 というメッセージだろうか。(『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.274)
命令・干渉・過保護・子どもの心を削り取る硬直マインドセットー暴力の連鎖の始まり
硬直マインドセット の両親にとって、サンディの教育目標はただひとつ。ハーバード大学に合格させることによっ て、娘の(そして、おそらくは自分たち夫婦の)価値と優秀さを証明することだった。ハーバード大学に入るのは、頭の良さを証明するためであって、そこで娘が何を学ぶのか、好きな学問を 追求できるのかどうかといったことは、両親にはどうでもいいことだった。 ましてや、社会に貢献ができるかどうかなど、まるで問題ではなかった。重要なのはハーバ ドのレッテルだけ。ところが、サンディは入学試験に落ちてしまった。それをきっかけに抑 うつに陥った彼女は、以来ずっと抑うつに悩まされ続けている。何とか懸命に勉強して「A」 を取ったかと思うと、まるで勉強が手につかなくなって「不可」。その繰り返しなのである。
私が援助しないかぎり、サンディは卒業できない。卒業できなければ、両親に顔向けできな い。そうなったら、どんなことになるか。
結局、サンディは何とか卒業することができた。それはいいとして、サンディのような可能 性あふれる子どもたちが、こうしたレッテルの重みに押しつぶされてゆくのを見るのは本当に 悲しい。 「子どもの興味や成長や学習意欲を損なうことなく、正しい方向に「ベストを望む」ことがい かに大切かがわかっていただけたらと思う。
サンディの両親が発していたのはこんなメッセージだった。あなたがどんな人間か、今何に 関心があるか、学んで成長できるか、将来どんな人間になれるか、なんてどうでもいい。ハー バード大学に入れた場合にだけ、あなたを愛し、あなたを尊重しよう。 マークの両親も同じような考えだった。マークは、数学がずば抜けて得意な生徒で、中学を 卒業したらスタイベサント高校(理数系の強化カリキュラムのあるニューヨークの有名高校)に進学し たいと希望を膨らませていた。スタイベサントに行って、最高レベルの教師陣に数学を学び、 最高レベルの友人たちと数学について語りあうのが夢だった。 スタイベサントには、基礎を終 えたらすぐにコロンビア大学の数学のコースを履修できるプログラムもあった。
ところが受験の直前になって、両親が断固反対したのだ。スタイべサント高校からハーバー ド大学への進学は難しいという噂を耳にしたからだった。両親は彼を別の高校に行かせた。
息子が興味のある学問を追求できるかどうか、才能を伸ばすことができるかどうかはどうで もよく、Hではじまる大学に入れるかどうか――それだけが 重要だったのである。
このケースでは、おまえの優劣を評価してやろう、と言っているだけではない。おまえを評 価して私の期待にかなっていれば愛してやろう、というメッセージを送っている。 「私たちが6歳から大学生までの子どもについて調査を行なったところ、硬直マインドセット の子は、自分に対する親の期待を満たさないかぎり、愛されもせず、注目もされないと感じて いた。大学生たちはこんなふうに語っている。
「両親の期待に添えなければ、自分の価値を認めてもらえない気がする」 「うちの両親は、何でも好きなことをしていいと口では言っているけれど、実際には、両親が 高く評価する職業に就かないかぎり、ぼくを認めてはくれないと思う」
有名なヴァイオリン教師、ドロシー・ディレイは、子どもにプレッシャーをかける親たちを 何人も見てきた。わが子の成長を気長に見守るのではなく、才能の有無や評判ばかりを気にす る親たちだ。
ある夫婦が8歳の息子をディレイのところに連れてきた。そういうことはしないようにと注 意してあったのに、2人は息子にベートーベンのヴァイオリン協奏曲を暗譜させてきた。その 子はひとつも間違えずに弾き終えたが、まるでおびえたロボットが弾いているようだった。そ の夫婦は自分たちの勝手な理想に合わせるために、わが子の演奏を台無しにしていることに気 づかない。「うちの8歳の坊やはべートーベンのヴァイオリン協奏曲が弾けるんですのよ。おたくのお子さんは?」
息子をタレント事務所と契約させようとする母親と、何時間もかけて話しあったこともある。 その母親はディレイのアドバイスに従っただろうか。
ノー。レパートリーの数がまだ十分ではなく、時期尚早なのでやめた方がいいと、ディレイ は何度も説得した。けれども、その母親は専門家のアドバイスになど耳を貸さず、息子の成長を育むことにはまるで無関心だった。レパートリーが少ないくらいのことで、こんな才能のあ る子がタレント事務所に断られるはずはないと言い張るのだった。
それとまったく対照的なのがユラ・リーの母親だった。リー夫人はユラがレッスンを受けて いる間、他の親たちのようにピリピリカッカすることもなく、いつもゆったりと腰掛けていた。 おだやかな笑顔を浮かべ、音楽に合わせてからだを揺らしながら、自分もその時間を楽しんで いた。そのおかげでユラは、過大な期待を背負わされている子たちのように、無用な不安をつ のらせることもなかった。「ヴァイオリンを弾いているときはいつも幸せ」とユラは語る。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.275)
子供のしつけが快楽になっている可能性?オキシトシンの対抗馬、テストステロン
しつけは向社会的な「行動」を増やす。しかしオキシトシン(「信頼」)は減らす。
男性はもともとテストステロンの基準値が高いので、一触即発の状態にあり、罰したいという欲求 は自動的・情動的で、遠回しではなくぶしつけで、露骨なまでに反発的だ。つまり、テストステロン が主導権を握っているときには、曖昧なシグナルでさえ、厄介な事態につながりかねないということ だ。シチリアや南北戦争前のサウスカロライナ州のような伝統的な文化では、すぐにかっとなる人は 「名誉を重んじる男」として尊敬されたかもしれない。だが、そのような生き方をしていると当然、 決闘や敵討ちでやたらに忙しいばかりか、命を落とす羽目にもなりかねない。また、卑劣な行為をさ れたという思い込みのせいで、10代の男の子たちのあいだで多数の死者が出るだろう。
進化がこの行動を(ある程度まで)選択したのは、罰せられるかもしれないという脅威を導入する だけで、向社会的な行動が大幅に増えるからだ。たとえ罰がめったに、あるいはまったく下されない ときにさえ、そうなのだ。心理学の研究では、罰そのものが純粋に象徴的な場合でも、罰の脅威には 効果が出る。
とはいえ自然は、たとえ罰には重大な個人的コストが伴う可能性があるときにさえ、悪者を罰する のを心から楽しむメンバーのいる集団に生存上の競争力を与えた。脳スキャンの結果、罰を下す行為 によって女性の脳よりも男性の脳の、ドーパミンが豊富な報酬領域がはるかに強く活性化することが わかっている。テストステロンのジェルを使った私たちの研究では、即席のアルファ・メイルたちは通常のホルモ ン・レベルで活動しているときよりも、テストステロン・レベルが上がったときのほうが、他人を罰する可能性が 2倍も高かった。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.135)
暴力と競争の分子。テストステロン。
私は極度の高所恐怖症だが、初めてのスカイダイビング (科学のためなら何でもやる)を前にして、 1週間にわたってテストステロンのサプリメントを服用していた。降下の前の晩、テストステロンと オキシトシンとコルチゾールの基準値を知るために採血した。そして、着地した直後に自らの腕に針 を突き立ててもう一度採血し、時速190キロで2100メートル自由落下した影響を調べる。人為 的に増やした男性ホルモンのせいか、それともありきたりの恐怖と興奮のせいかは知らないが、イン ストラクターとともに飛行機の後部から後方宙返りで飛び出すときに、私は昔の戦争映画に出てくる 落下傘兵ばりに「ジェロニモ!」と叫んでいた。 人はテストステロンのせいでずいぶんおかしなことをする。じつは、奇妙なふるまいを見せるのは、 たいてい女性ではなく男性だ。男性はテストステロンに促されて危険を冒し、暴力を揮い、男性のも っとも特徴的な行動もとる。すなわち、結果など考えずにやみくもにセックスを追い求めるのだ。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.124)
私は神経科学者だから知っているが、男性は女性に比べて、脳の各部を連動させる能力がやや劣る。 そのため、男性は情動的なものと肉体的なものを別のカテゴリーや別の活動として区分けしやすい。
だが、困った男たちをほんとうに駆り立てているのが、テストステロンという、オキシトシンの拮 抗物質であることも私は知っている。テストステロンは男性だけでなく女性にもある。ただ、男性の ほうが10倍も多いだけだ。テストステロンは筋肉の量を増やし、骨の密度を高めるので、運動の遂行 能力を著しく向上させる。だから周知のように、多くのスポーツの花形選手が規則を破り、合成のテ ストステロン前駆体をアナボリック・ステロイドのかたちで注射してきた。また、燃えあがる建物に 駆け込んで人を救助したり、機関銃弾の雨の中をノルマンディーの海岸に上陸したりといった、危険 を冒すことや、身体的な勇敢さと強さとスピードが求められる状況でもテストステロンが役に立つ。
とはいえ、テストステロンがやたらに多くの問題を引き起こすこと、そしてそれが性的な関係の領 域だけにとどまらないこともまた事実だ。大半の犯罪は若い男性が起こすし、殺人のほとんどは20歳 から15歳の男性が犯す(女性による殺人はあまりに珍しいので、犯罪統計に有意のかたちで表れるこ とさえない)。若い男性のテストステロン・レベルは高齢の男性のテストステロン・レベルの倍ある ので、若い年齢層を指して使う「テストステロン中毒」という言葉は、ジョークとして切り捨てるわ けにはいかない。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.126)
テストステロンとオキシトシンのバランスが必要だった人類の「昔話」
ホモ・サピエンスが、類縁のチンパンジーのようなもっと獰猛な(そして、もっと獰猛なま でに競争的な)動物たちに競り勝つことができたのは、向社会的な行動のおかげだったものの、進化 的適応環境では、私たちは依然としてテストステロンを必要とした。捕食者は追い払わなければなら ないし、タンパク質の源泉となる動物たちが反撃してくることもあったし、岩や丸太などの重いもの を移動させる必要が出てくることもあった。その結果、テストステロンのもたらす身体的な強さや持 久力、攻撃性は、子どもを残すまで生き延びるのに不可欠でもあったのだ。そのうえ、適者生存の競 争では、人類やその原型となる動物の集団はどれも、大きくて獰猛な動物だけでなく、彼らと資源 (子どものために必要とする食べ物も含む)をめぐって競う大きくて獰猛な隣人たちからの危険にもさらされていた。この生き残りゲームを続けるには、どの部族あるいは群れも、自分のチームに大き くて獰猛なプレイヤーが必要だった。たとえそうしたプレイヤーは、ときに感受性(と配偶者に対す る忠誠心)を欠いていたとしてもだ。
とはいえ、そもそもテストステロン―そして男性―――が登場したのは、生殖する機会を求めて競 うことで遺伝子プールの質を高めるためだった。自分の遺伝子を次世代に残すための、テストステロ ンを原動力とするこの闘争は、やがて社会的地位を求める衝動を生み出し、その衝動が物事をもっと うまい方法でやりたいという衝動に火をつけた(どちらの衝動も、世界一の好漢に徹することとはか ならずしも相容れなかったが)。だから今日でも、男性だけでなく女性も含めて全人類の動機づけと 衝動(たんに性衝動だけではない)を高めるために、テストステロンは存在しつづけている。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.127)
テストステロンは人を「活発」にする。
アンドロジェル は皮膚を通して吸収されるゼリー状の薬で、1回分ずつアルミホイルの小袋に入って いるので便利だ。抗菌用ハンド・ジェルを思い浮かべてもらえればいい。実際、見た目も匂いもハン ド・ジェルに似ているので、研究のとき、「テストステロンの追加なし」という条件のために使う偽 薬を簡単に用意できた。
私は研究室で被験者に実験を行う前には、かならず自分を実験台にして試すことにしている。被験 者にどんな思いをさせることになるか、知っておくためだ。だから、このときもアンドロジェルの処 方箋を手に入れ、2週間にわたって毎日同じ時刻に肩に擦り込んだ。効果が最大になるのは6時間後 だ。だからその後の2週間、毎日翌朝は18歳に戻ったような感じで目覚めた。毎日スポーツジムで運 動しまくった。睡眠時間も少なくて済み、高校のフットボール選手だったころと同じ生意気な自信 (とリビドー)をみなぎらせて歩きまわった。
幸い、テストステロンが猛威を揮うアルファ・メイルになっても、自分の子どもたちと親密に接す る能力に影響は出なかったようだ。いや、誰が相手でも、違いは感じられなかった。そして、誰とも 喧嘩をすることはなかったし、駐車スペースをめぐって誰かを怒鳴りつけることさえなく実験を終え られたのだからよかった。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.130)
テストステロンはオキシトシンを抑え込む(DVかよ)
結果を見ると、プラシーボを塗ったときと比べて、テストステロンを塗ったときには、最後通牒ゲ ームで分パーセント気前が悪くなっていた。だが、この効果の根底にある理由は偶発的なものではな い。この化学的作用は、生き物にとって価値があるから進化したのだ。テストステロンはオキシトシ ンが受容体に結びつくのを妨げ、それが前章で紹介した「善循環」にブレーキをかける。テストステ ロン・レベルが高いほど、オキシトシン反応が妨げられ、共感を経験しづらくなる。そして、共感を 経験しづらくなれば、気前が悪くなる。
つまり、男性に共感が乏しいのは、攻撃的であることのたんなるおまけではないのだ。テストステ ロンはオキシトシンに狙いを絞ってその取り込みを妨げ、思いやりや感受性を抑え込む効果を生む。 一見、これは何の得にもならないように思える。だが、テストステロンは若い男性(狩人や戦士)を 敏捷で強力にするだけでなく、その優しさを奪うことによって、家族を養ったり守ったりするためな ら頭蓋骨を叩きつぶすことも辞さない人間に変える。優しさは望ましいことが多いが、喉から手が出 るほどほしい食べ物のためにかわいらしい小動物を殺したり、自分の食べ物(あるいは子ども)を奪 おうとする侵入者を追い返したりするのが仕事のときには、優しさが過ぎるとろくなことにならない。(『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.132)
オキシトシンのHOMEと、テストステロンのTOPの2つの回路
結局、テストステロンとドーパミンの組みあわせは反HOMEであり、「優しくしない」ことを強 化する完全なシステムなのだった。私はテストステロンとドーパミンのこの脳回路を、「Testosterone Ordained Punishment(テストステロンに命じられた処罰)」の頭文字を取って「TOP」と呼んで いる。偶然ながら、TOPは自分が社会的階層の「トップ」にいると考えている男性によってしばし ば使われる。
生まれつき罰するのが大好きなメンバーが最低でも何人かいる集団は、反社会的行動をとる代償 (と、その代償を払わされる可能性)を増すことによって道徳性を強化できるという恩恵が得られる。 TOPもまた、宗教的なものをはじめとするトップダウン型の道徳の適用が社会に調和をもたらす唯 一の道であるという考え方に対する反論となる。ただし、私たちは最初に適切なシステムを確立して おかなければならない。それは、規則に従って行動するのを促す独自の動機と、規則を破るのを思い とどまらせる動機の両方を自然に生み出すシステムだ。(『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.137)
愛着形成のために、しつけではなくけじめが大切。『アタッチメント障害とその治療』
『アタッチメント障害とその治療―理論から実践へ』カール・ハインツ ブリッシュ 躾と気締めである。 しつけは身の美しさであって、けじめは気を締めること。だということにしておこう。 けじめをつけることの大切さを感じる。 自由、自由というが、そこで自分の気をコントロールできるかどうか。 たくさんあそんだ!それから次の行動に移っていく。 解放させた気を締めること。 それがケジメ。 もしくは如何にコントロールしながら、解放するか。 それがケジメ 「じぶんひとりなら」ダダ漏れしていた気を、その状況に応じて、調節すること。 それもケジメだ。 (家の外では出せない気を家の中で出していて、お母さんが怒る、という笑い話もある。外では出せないから、家の中で出しているのだ。例えばそれが「怠け癖」だとしたら・・・家の外でケジメをつけすぎていて、疲れているのかもしれない。) 気分が暗い時、暗い気持ちにけじめをつけて楽しいことをしてみること。楽しい気分でいるときに「あ、けどこれもやらなくちゃいけなかった」とか。当然といえば当然のこと。 しつけといって仕舞えば、「いい子」になることのように聞こえるが、けじめといえば「自律した子」のように聞こえる。しつけという言葉には、支配的な、文化的な響きがある。 ーーー
ーーー ケジメは、感情をコントロールすることだ。 感情をうまく使っていくことだ。 0歳の時から、このケジメは始まる。 泣いている赤ちゃんに「声をかけてから」ミルクの準備をする。 それを続けただけでも、「声をかける」ことで赤ちゃんは安心して、泣くのをやめるようになるかもしれない。 気を締める。 心は、0歳のときから、作られる。 少なくとも、感情を押しとどめる、「いい子」でいることはケジメではない。 それは気詰まりであり、息苦しさだ。(破裂するまで、しばらく辛いだろう) ーー
ーーー 少し大きくなって、「褒める」ことばかりをしていると、何も考えない、できないと癇癪を起こす子になる。 「褒める」といいという定期テスト対策的子育てが流行っているらしいが、僕は全くオススメしない。 「与える」にしても同じだ。「なんだこんなもの」と大人が思い買って与えるだけでも、子どもにとっては「もの」ではなく、泣いたら、駄々をこねたら与えられるのだという現象を学ぶことになる。 ケジメは、いいこと、わるいことを教えることではない。 感情をコントロールできる、大丈夫だ、僕は一人でも大丈夫だ、という自立心と自信をもつこと。 これが、ケジメの目標だとおもう。 ケジメができていないと、将来どんなに生きづらくなるか。 ケジメは、押さえつけることではない。 自由を、使いこなすことだ。 自由を使いこなし、大切な人、大切なものを守るためのものだ。 ーーー
ーーー しつけという言葉は、子供をペットにしかねない。 ケジメ、という言葉をつかってほしい。 子供の気持ちを、どんなエネルギーに変えたらいいのか? それもケジメのひとつ。 「学校でこんなことがあったの・・・」 こんなことを質問されたら、どう答えるだろうか? まだ気が締まらない(どうやって気を整えたらいいかわからない)状況を、心が処理するしくみをつくること。 これもケジメをつけることだ。 ただただ押さえつけることではない。 「気にしなくて大丈夫だよ」というか。 「それは先生にいわないとね!」というか。 そのお母さんの言葉の感情が、その子にも伝わるだろう。 「どうしたかったの?」 「何を感じたの?」と、問いかけて、子供の頭の中で、心で、もう一度整理する時間をつくってあげることを、僕はオススメするけれど。 一人では難しい、心のプロセスを、手伝ってくれる人に出会った子どもは、しあわせだ。 ーーーー
ーーーーー 子供の未成熟さが、弱い子供、弱い大人をつくりだす。過保護が、子供を未熟にする。引きこもり、いじめ、8050問題、DVや暴力、ストーカーなどの社会現象の根源は、親の過保護にあり、親が過保護にならざるをえない社会の不安にある。人を愛せない、共感できない、相手のことを考えられないなど、多くの政治的社会的に高い地位にある大人たちも未熟な状態であるために、日本は混乱している。児童虐待もDVも不登校も、政治的な混乱もなくならないのは、過保護を引き起こす社会不安によるものだ。恥や罪の意識は子供にも伝わります。 子育ては、親育てでもあります。 子どもからたくさん学んでください。 お母さんが子供時代にやれなかった宿題を、子供にやらせずに、自分でやってみてください。 お子さんと同時に、お母さんの宿題のお手伝いも、オトノネはしたいとおもっています。 わかっているお母さんもいるとおもいます。 でもどうしていいかわからない・・・ お子さんに、お母さんやお父さんの心の未熟な部分を押し付けないですむ方法を、一緒に考えましょう。というか実践していきましょう。 怒りや不満、不安や悲しみを子供に押し付けてしまっていませんか。 僕もまだまだ未熟さをかかえたまま、前にすすんでいます。 大丈夫です。 「知る」ということだけでも変わるかもしれません。 お子さんの成長をみながら、「感じる」ことで変わるかもしれません。 そのプロセスはわかりません。 だから一緒に、はじめてみませんか。 いつまでも誰かにえらいえらいと言われていなければ心を保てない子、実力がないのに偽りの賞賛を与えられてきた子、本当の自分を隠してきた子。思春期に、悩まなかった子。悩むことを許されなかった子。自立した人間として向かい合ってくれる大人に出会えなかった子。「ノー」と言えない子。挫折・失敗に弱い子。病んだエネルギーは、誰に向かうのか?自分の心身症になる人もいれば、他者に対する暴力というかたちをとる人もいる。DVに気づかないお母さん、児童虐待に気づかないお母さんもいる。アルコール依存症、セックス依存症は、「もう自分ではどうしようもない」無気力、無力感の叫びだと、僕は思っています。 ======
===== オウム真理教を覚えていますか。 知っていますか。 「娘を教団に取られた」というお母さんが記者会見をしたときに、その娘さんが「お前たちは帰れ!私たちの邪魔をするな!」みたいなこと(すみません正確にセリフは覚えておらず、ただ自分のことを「私たち」と呼び、母を「お前たち」と呼んだということです)を言ったという。 よくある話で、教団に入って洗脳されてしまうような子に、子どもが育ったことに、お母さんが気がついていないのだ。 お母さんのせい、ではない。 といえるかもしれない。 この社会が悪いのだと。 では、子育てとはなんだろうか???? 心から笑いあえる時間を大切にすること、といってもいいかもしれない。 ーーーー
ーーーー 過保護とか、虐待とか、小さな暴力が当たり前の世の中になっている。 大人の世界がそうだから、子供の世界もそうなる。 大きくなってからの「治療法」をみると、、、やっぱり、鏡になって、向かい合ってくれるもう一人の自分との出会いなのだとおもう。(その関係が、医者とかカウンセラーでなかったのなら、一方的な関係は、続かないだろうが。。。)
この本には「生まれる前から」「生まれた後も」妊娠・出産・子育ての段階でそれぞれ親の宿題に親が取り組む実践(ということは、親以外の人も取り組むということ)を書いている。 基本、話す、心から話すような状況をつくる、、ということなのだが(だいたいオトノネも同じことをしている)、話すだけに限らない。行動しながら、変わっていく。
子供の【駄々をこねる心】と、おもちゃうりばの前を通りたくないお母さん
『子どものねがい・子どものなやみ―乳幼児の発達と子育て』
自分で決めたい願いと「だだこね」
子どもが駄々をこねた時の大人の関わり方が、子どもの「心」を作っていきます。
自分を修正する「自分」ができてくると、自分のことは自分でしたい願いにとどまらず、自分で決めたい願いもたくましく育ってきます。「○○ではない○○だ」という思考の力によって、自分で選び、自分で決めたくなるのです。デパートのおもちゃ売り場に行けば、自分で選び自分で決めたおもちゃを、「ダメ」の一言で買ってもらえない子どものだだこねの姿を、きっと目にすることでしょう。
ことばで自己主張できれば、寝転がってまで意 思表示する必要はないのですが。だだこねする姿は、第三者にとっては微笑ましいもので すが、いっしょにいるおかあさんにとっては、冷や汗ものです。だからほとんどのおかあ さんが、「おいてっちゃうからね」などと連呼してばかりいるのです。しかし、おかあさ んがそう言えば言うほど、子どもの心は乱れ、いっそう強くだだこねするだけになってし まうでしょう。なぜなら、このようなだだこねができる子どものほとんどは、そうするこ とによって、相手の出方を伺う力を、すでにもちはじめているのです。 「そんなとき、「おいてっちゃうからね」ばかりでは、「やっぱりわかってもらえない」と いう落胆の気持ちが、強くなってしまいます。少し子どもを信頼して、見守ってみましょう。きっと子どもの方から、和解のまなざしを送ってくれるのではありませんか。その心を受けとめて、「今日は買ってあげられないけど、おかあさんといっしょにいつものブランコ乗って帰ろうか」と、立ち直りのきっかけを手をさしのべるように与えてみるのです。
それを手がかりにして、きっと心もからだもだんだん起き上がってくれることでしょう。頭のなかの二枚のお皿の一方に自分の要求を入れ、他方のお皿に相手の要求を入れて、並べて葛藤し、相手の要求を受け入れる力が、少し生まれてきているのです。一歳半の質的転換期の手前にいる子どもたちは、自分の要求が受け入れられなかったときの表現はもっと直線的です。自分を失ってしまうのでしょうか、なかなか立ち直ることができません。しかし、強く自分を押し出せるからこそ、相手と衝突することができるのであり、この衝突のなかから、相手の意図を知り、相手を受け入れていく器が必要になるのです。やがてはおとなの言うことを受け入れられるだろうと、子どもの発達への信頼をもっていることで、子どもの困った行動を精神的に受け入れていくおとなの構えもできるはずです。そんな信頼と余裕をおとながもつことによって、子どもはいつまでも疑心暗鬼でおとなの困る顔を確かめようとするような、かりそめの姿を克服していくことができます。
このように、発達の学習は子どもの育ちに見通しをもつことにつながり、それが子どもへの信頼を育んでくれるのです。どんなに子どもと「すったもんだ」しても、このような子どもへの信頼感が背景にあると、子どもは自分で葛藤をのりこえていけるものです。そんな思いで子どものだだこねを受けとめ、できるだけ我にかえれるような雰囲気をつ くってあげてください。そして、立ち直りの力は、良き自分に満たされているときに獲得 されていく、子どもの自己信頼のあかしであると、いつも心に刻んでおきたいものです。 (白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.103)
3、4歳くらい
「おもちゃの前で泣いている子・・・いますよね?そういう子にならないためには、どうしたらいいんでしょうか・・・」
というお話。
実際に泣かれたら、そのまま泣かせてあげてかまいません。「泣いたら、昔みたいにいろいろくれるのかな???」とおもって、試しに泣いているので、何食わぬ顔で子どもが泣きつかれるのを待っていてください。「あ、ないてもダメなんだ」とそのうちわかってきます。おもちゃうりばだから子どもが泣いてもいいでしょう。「お客様、少しお声が大きいようで・・・」といわれたら「子どもが泣いても当たり前でしょう?」といえるくらい、お母さんも凛としていてほしい。
子どもが生きにくい世の中であるのはその通りなのだが。
さぁ、「買う」「買わない」をめぐる話。
「私の時は、こう、百円を超えたらだめ、というルールがあって、2個、両手に持って行ったら、お母さんが、「どっち?」と言って、私はレジの前で一つを選んでいました笑」というお母さん。
そうですね。
例えば、、、ルールを決めましょう。
例えば!
遊びのルールがわかるのは5歳くらいから、とかなんとか言われているけれども、生活の中で「物を買う」ルールをつくることは子どもにとっても、大人にとっても大切でしょう。
子どもが何か買っていい日を決める。それ以外の日にねだっても、買わない。
とか!
小さい頃からこういった経験をお母さんとすることは大切だ。お母さんがなんでも買ってあげたら・・・「待つ」とか「我慢する」とか「欲しいけどお母さんにせがんで困らせない」みたいな経験ができなくなる。お金の大切さもわからなくなってしまうかもしれない。
よく、「これを買ったら○○」という言葉を聞く。子どもはやがてそれを真似る。
誰かに自分のいうことを聞かせるために、、、、それでは子どもの「心」が強くならない。
大人になってから!高校生に「ゲームを買ったら勉強をするという約束」をしようかどうか迷っているお母さんもいる。
物を買うということから、何を学べるのか。
どっちが本当に、自分の欲しいものなんだろう?と一生懸命考えるでしょう。
お金との関わり合いから、何を学べるのか。
お財布からいくらでもでてくるお金、不思議なお金・・・(お金の勉強も小学生からしたほうがいいと私はおもう)
昔聞いた話、子どもに欲しいものがあるとわかったお父さんが、子供に「プレゼン」をやらせた。つまりなぜ必要か、それを買うと何のメリットがあるのか、それは将来的にどうか、などなどを主張させた。こういう機会を作ってもいいだろう(この話は中学生か高校生だったようにおもうが)
実はこれ、教育費についてもいえる。
通信教育、公文、ピアノなどの習い事、塾、、、「子供にやらせたい」という気持ちでやらせることが、果たしていいことなのだろうか。
習い事・塾は、子どもの時間とお母さんのお金を使って先生を買うことだ。子供がそこで何を学べるのか。お金だけでなく、子どもの大切な時間を使うことになる(子どもは学校でほとんどの時間を過ごしている)。お母さんは習い事を通じて「大切な時間の使い方」を子どもに学ばせてあげるのは、どうだろうか。
躾ではなく、子供に心のお守りを渡そう。『マインドフルネスストレス低減法』
現代社会では、私たちは、子供にも時間ストレスを与えています。小さな子供に、「もう時間がないでしょ」「早くしなさい」「急ぎなさい」などと、しょっちゅう言っていることに気がついてい らっしゃいますか? 私たちは、子供たちに、「早く服を着なさい」「さっさと食べなさい」「急い で学校の用意をしなさい」と、言葉やしぐさでせかしているのです。そして、いつも子供たちに ”時間がない” というメッセージを与えているのです。
子供たちにはこのメッセージがしみついています。小さいうちから時間ストレスをかかえてしまう子供も少なくありません。彼らは、自分の内部のリズムに従う代わりに、両親の生活パターンに乗せられ、「早いことが良いことだ」と教えられるのです。その結果、彼らの生物学的なリズムは損なわれ、大人になってから生理的・心理的なさまざまな障害が現れてくることになるのです。たとえば高血圧は、子供のころから始まるといわれています。五歳児に、すでにわずかながら、明らかにその兆候が現れるのです。非産業社会では高血圧はほとんど見られないという事実からも、私たちの社会には、食べものの違いという点を超えるなんらかの問題がありそうなのです。それは、 おそらく~時間ストレス』なのです。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.230)
言葉を喋るまでのケジメが大事すぎる件。躾ではありません。気締めです。
僕は子どもにナメられているらしい。 何がダメなことか、ちゃんと教えられていないらしい。 保育にはねらいがあって、その子をどのように導くかが決められているらしい。 僕はその基本から今、実地で学んでいるのだと実感した。(高校とは全然ちがう) 僕は保育士が「やるべきこと」をやっていないらしい。 3歳になるまで、2歳までは「泣く」こと「駄々をこねる」ことで子どもは意志を通そうとする。 「泣いて勝ちを取ろうとする」 それではダメだと。 言葉が出てからは、言葉の使い方を覚えるべきであって、嫌なことを通そうとして「泣く」ことが間違っていることを学ぶことが発達の課題ではないと。泣いて「意地を通そうとする」心を3歳児まで引きずっていては、それ以降のその子の言葉の発達の負担になると。 嫌なことでもさせる。 泣いて勝ちをとらせない。 泣くことでワガママが通ると錯覚させない。 それは「ダメ」なのだと教える。 それが3歳になるまでの保育なのだと。 そうでなければ、ただの甘やかしになると。 「思い通りにならないことがある」とわからせないといけないと。 だから、3歳までは一番手をかけないといけない。 言葉がでてきて、体も自由になってきて、いつでも「泣いて勝ちを取る」赤ちゃんの方法を選んでしまうからだ。 僕はそう理解した。 (もちろん、世の中には「小さい頃はあまやかせてあまやかせて」という本がある。) 生まれたときから、「泣いて勝ちを取る」は行けないのだと「教え」なくてはいけないのだろうか。。 うーん。 おむつを替えるときに泣く子のおむつを替える。 「いいようにしてあげているのに、文句いわないでね」と優しく言いながら、泣いていても、ばっちりはっきり、ためらわずに、おむつを替える。 泣きじゃくっていても、抱いたりせずに「まっててねって言ったでしょ?まってればいいだけなんだからね」と優しい声でいう。泣いていても急いだり焦ったりせずに待たせる。 「ひとのいうことはききましょう。やらせないとはいっていませんよ」泣いていても、正面を向いていう。 おそらく、抱いてくれない、触れてくれないということが、3歳までの子にとってはちょっとした「罰」になるのかもしれない。 あ、これはちがうんだ。と感じられることなのかもしれない。 「なにかあるたびにヒーというのをやめてくれないかしら?」だってあなたはこれからそうなっていくのだから。 そういう願いを込めて、当然のことを、そうなるべき姿を思い描いて日々言葉を選び、態度を選び、関わっていく。 繰り返しになりますが。。。 言葉が出てからは、言葉の使い方を覚えるべきであって、嫌なことを通そうとして「泣く」ことが間違っていることを学ぶことが発達の課題ではない。泣いて「意地を通そうとする」心を3歳児まで引きずっていては、それ以降のその子の言葉の発達の負担になる。 教えるべきこと。教えてはいえないことがこれほど大切だと思えたのは今。 食べる時の行儀(躾)もそうだろう。(ただし、そこにも愛が必要にはなるだろうけれど) 「まだ小さいから」ではない。 デフォルトをつくる。その子の「自然」をつくるためだ。 僕は教えては行けないことを子どもに教えてしまったのだ。 猛反省。 子どもは大人をちゃんと見ている。 (高校でも、ある先生の授業の時では静かな子が、別の授業では騒がしいことはよくあることだ) ケジメをつける時は凛として厳しく。 だからこそ、ケジメを気にせず、楽しんで自由にあそびながら笑いあえる時間をつくることが大切なのだと思えた。 ケジメだけだと、気が締められすぎて、心が潰れてしまう。ケジメをしっかりさせるためにも、子どもと笑顔になれる時間をつくりたい。 ケジメをしっかり! そのためにも、あそびをしっかり! ーーー
ーーー 子どもたちのなるべき姿を、保育士は描いている。 それに向けて導いていく。愛をもって、愛情を注ぐ。 表情で、態度で、言葉で、そぶりで、視線で真剣に伝える。 保育士の先生はそういうひとつひとつの所作を学んでいく。 なんて大変な仕事なのだろう。。。 愛は知恵であり、知恵を結晶化した振る舞いのことだと僕は思う。 今の僕には、3歳児までの小さい子に対する愛が足りない。知恵がない。 ーー
ーーー 「なるべき姿」になれなくて、多くの子どもたちが苦しみだすのは小学校からだろうか。 個人差が大きくなり、どの子にも望まれる振る舞いができない子がでてくる。 それは保育所でケジメをつける課題を超えてこなかったからか。 それとも生まれつきのもののせいなのか。 保育士はすべてをひっくるめて、小学校に行った時にその子が困らないように、3歳、6歳までに学ぶべきことをはっきりと教えようとしている。3歳までで大切なことは遊びではない。自由になることではない。 怒るのではなく、凛として、いけないことはやらせない。 泣いても、凛として、言葉をかけ、立ち振る舞う。 「泣くことで解決させる」ことを教えてはいけない。 このケジメがついていなければ、思い通りにならない時、年齢が上がれば泣く代わりに手を出す子もでてくるだろう。 また友達と遊ぶようになったときにも、うまく調節ができなくなるかもしれない。 とにかく僕は保育所の指導計画を一度研究しようとおもえた。 ーーー
ーーー 蛇足ですが、指導案について。 学校でも保育園でも指導案を書くことになっていますが。 「その学年でこれができるように」なっていなければならないことができないまま学年を上がっていく子がいる。 指導案の影に隠れてしまった、そんな子のためのオトノネです。
しつけ(躾)ではなくケジメ(気締め)という言葉を使う。
知育だとか食育だとか脳育だとかいろいろあるがどれも育てるということの一部を拡大してみせるだけで、全体のバランスを見失ってしまわないように気をつけなくてはいけない。 社会のなかで、ひとりひとりは別々の道のりで発達する。 親、幼稚園、保育所、学校、塾、友だち。。。 オトナの願いが呪いになってはいないか。 オトナの無知さが子どもを苦しめてはいないか。 この間、火垂るの墓を見た。「お国のために働いているんだから、あなたもぐうたらしてないで」というセリフを 「社会に出たら困るんだから、なまけれないで」とセリフを置きかえても、口調そのままに現代でも通じるものがあるとおもっておかしかった。基準に合わせようとする。その基準は社会の基準だ。しかたない。 仕方ないだろうか。どれだけ真面目に、オトナはその子の生涯を考えているだろうか。一日一日、変わっていく子ども。なにをしても、成長していくようにも思える子ども。オトナができることがあるとしたら、一日一日を後悔しないように、オトナとして関わること。手をつくして、コトバをつくして子どもに関わるオトナもいれば、落ち着いてその日その日を暮らせたらいいと思うオトナもいる。 基準に合せるためのプログラムに乗っからない子ども。 プログラムが間違っているのだ。 フレーベルの精神無き恩具。心なきモンテッソーリ教具。同じことをしていて、僕はどうもつまらないなと思う。 基準に合せるためのプログラムに乗っからない子ども。 基準が間違っているのだ。 どうして平均に合わせようとするのかって、それはオトナの傲慢かもしれない。 オトナがオトナとして責任をとるというのは、オトナが子どもに対して責任をとるというのは、コドモを基準に合わせることではない。 「私たちオトナは、アナタを標準的にしようと試みましたが、ムリでした。」 といえるだろうか? 「私たちオトナは、アナタを標準的にしました。おめでとう。」 コドモはソレを聞いて喜ぶだろうか。 標準にならなければその子は生きていけないのだろうか。 標準にならなければその子は死んでしまうのか。 標準にならなければその子はよりよく生きられないのか。 標準にならなければその子は孤立してしまうのか。 こうしてオトナは、コドモに呪いをかけていく。 それでもコドモにはオトナが必要だ。 それでもコドモは成長していく。 いびつになりながらも。その子が大きくなって、オトナにどんな眼差しを向けるだろうか。 どんな思いで目の前に現れるだろうか。呪いをものともせず、輝いているだろうか。 祝福のコトバを使おう。 コトバが生まれる瞬間を感じたことがあるだろうか。 人とココロが通う瞬間を感じたことがあるだろうか。 育たないコドモはいない。 オトナとは、成長を止めたコドモだ。 「教育」も「保育」も文部科学省と厚生労働省の住み分け、権力争いで生まれてきたようなコトバだ。 大人たちのコトバが乱れている時代に、コマーシャリズムに乗っからないようにしたい。 学級経営が困難になったから生まれてきた「療育」というコトバは、生まれつき、素行がわるい。 「療育」というコトバは、歴史的に、学校教育の標準を守るためにあるとしたら、発達支援とはなんだろう。 学校教育の枠を守るための努力だ。学校教育の制度を守ろうとするオトナのための努力だ。 学校教育をすんなり通ったオトナたちには、彼らの気持ちはわからない。オトナが、彼らに学ぶべきではないのか。 教育も療育も保育もいらない。ただ目の前の人間とちゃんと向き合うことだ。 自分自身に、ちゃんと、向き合うことだ。
しつけと道徳的行動の関係の研究『問いからはじめる発達心理学』
日本は海外の研究を拾ってくるケースがおおい。 研究資金がないのだろう・・・・か。 何にお金を使っているの? まぁいいや。
親の強圧的なしつけは、自己抑制の一側面である従順さや罪悪感を低下させることや、親の応答的な関わりや良好な親子関係は、この従順さを高めることがわかっている。ただしその影響の仕方は、子供の気質によって異なる。怖がりやすい(つまり、恐れが高くて自ずと行動を抑制しがちである)気質的特徴をもつこの場合には、強圧的な躾を受けない方が後に道徳的小王道をより示すようになる。一方、怖がりではない子(気質的に恐れが低い子)の場合には、強圧的なしつけは子供の道徳的行動には影響せず、母子関係が良好である(母親が応答的で、快情動の共有が多い)ことが、後の道徳的行動の多さにつながっていた。自己制御を育てるには、子供の持ち味に応じて関わることが重要なのである。『問いからはじめる発達心理学』p.95
この研究も海外のものだ。 日本の研究者、がんばれ。というか、予算がないからなんもできないのか。。。。まいったな。お金は全部おもちゃ売り場の飾りにされてしまう。
四諦ー褒める、叱る前に知っておきたい「渇愛」の話『あなたの脳は変えられる』
ブッダが初めて行った説法は「初転法輪」と呼ばれる。その中でブッダは、ポップカルチ ャーにおいて最もよく知られている仏教の教え、「四諦(四聖諦)」を説明している。
彼はまず、コンパスを見せ、不-快がどこから来るかを示す(苦諦)。
「比丘たちよ、苦の真理とはこのようなものだ。不快と結びつくことは苦である。快から離れることは苦である。欲するものを得られないことは苦である」
彼は、人間の行為が論理的な性質を持つことを示した。それは物理法則に従って動くコン パスと同様に明快なものである。誰かに怒鳴られれば気分は良くない。愛する人と離れてい るときも気分は良くない。コンパスがいつでも南北を示すように、これらの出来事を何度も 経験したところで、行き着くところは同じなのである。
不-快の論理的性質を指摘したあと、ブッダはその原因を説明する。
「集諦(苦の原因)とはこのようなものだ。それは渇愛である」
誰かに怒鳴られたとき、怒鳴るのをやめてほしいと思うことが事態を悪化させるというのである。配偶者やパートナーが遠くに出かけているときにそれを嘆いて周囲に泣き言を言っ たからといって、相手が魔法のように腕の中に現れたりはしない(周囲の友人を困惑させてい るのは確かだが)。
この教えは、物理学の教授がコンパスに赤い印を付けて、「こっちが北」と教えるのと同じ だ。これまで私たちは、どこかの方向に苦があるということしかわからなかった。しかし今 では方向がわかっている。南(原因)に向かえば苦(結果)に出合う。ストレスに目を向けれ ば、私たちはそれをコンパスとして利用できるのだ。
次にブッダは3番目(滅諦)の説明をする。
「(渇愛を)あきらめ、手放し、自分をそこから解き放つことで、あらゆる渇愛が完全に滅する」
北に向かって歩けば苦は消えるのである。妻が1週間留守にしているのなら、彼女を夢想 するのをやめて目の前のことに気持ちを集中したらどうなるかを見てみるといい(気持ちが 楽になるかもしれない)。手元の仕事に没入していれば、彼女が帰ってくるまで時間を忘れる かもしれない。すると、そう、いきなり彼女が帰っている。
最後にブッダは4番目(道諦)の真理を説明する。それは「苦の滅に至る道」である。彼 は詳細な地図を提示している。 スティーブン・バチェラーは『アフター・ブッディズム』の中で四諦を「四重の課題」として説明する。
- 苦を理解すること
- 生じてくる反応を手放すこと
- 反応の消滅を注視すること
- マインドフルな気づきの視点に基づいた道を修めること
こうしてみると、ブッダの最初の教えに使われている言葉遣い(快、不快、苦)や因果関係 を強調している点は、オペラント条件付けの話のように聞こえる。オートマティックに、つ まり条件反射的に行動して欲求をすぐに満たそうとすれば、その行動を強化するだけなのだ。 (『あなたの脳は変えられる』ジェドソン・ブルワー p.300)
怒りとの付き合い方ー怒りを心が処理するしくみを伝える子育て
兄弟。一人は2歳で、1人は4歳。
仲良く遊んでいたが、、、、何かのきっかけがあった。弟が、お兄ちゃんの名前を連呼しながら泣きじゃくり始めた!その瞬間を見ていたのだが、何があったか忘れてしまった。
そこには「お兄ちゃんみたいにうまくできない」自分への怒り、「自分が大切にされていない」と感じたことへの怒りの感情があった、とだけ覚えている。悔しさ、に近いのかもしれない。やさしい、大好きなおにいちゃんが、どうして?という気持ちなのかもしれない。本人も、何が何だかわかっていない。だろう。
もう何度も何度も、お兄ちゃんの名前を呼びながら、訴えていた。訴えても訴えても、声に出しても感じたことはしようがない!僕はどうしていいかわからずおろおろしていた。
そこでベテラン(?)の保育士さんがやってきて、その子を抱きかかえた。で、連れて行った。「散歩に行ってきます」と言って、部屋の外に出た。
怒りを感じたら?腹立たしさ、悔しさ、悲しさ、そういう感情にオトナだって突然でくわす時があるだろう。そんなとき、空間的に《離れる》ことが心にとって救いになるかもしれない。嫌な人と距離を置く。どうしようもない状況からとにかく離れる。
そのまま怒りをコントロールできない状況に身を置くことで(放って置くことで)自分でなんとかするチカラが育つかもしれない。かもしれない。けどもう一方で、怒りをコントロールする方法として、《気分を変える》《別のものに目を向ける》という怒りと付き合う経験をすることも大切だとおもった。
ある保育園では「子どもの喧嘩には一切手を出さない」と決めているところもある。喧嘩は何度でも起きる。大人は距離を置いて、あとから「なにがあったの?」とか聞いてあげたり。第三者として関わる姿勢でいるという(どの年齢の子に対してだったろうか、忘れてしまった)
思えば、赤ちゃんhはいつも「怒り」「不満」に満ち満ちている。もしかしたら、2歳という年齢は、もう一人でなんとかしなくちゃいけない年、なのかもしれない。かもしれない。
僕は久しぶりに「怒り」を目の前にして、大切なことを学ぼうとしている子どもの大切な瞬間にきちんと向き合えただろうか。と、自問してみる。
しつけと怒りの感情表現と暴力『絵本とともに学ぶ発達と教育の心理学』
『怒りの感情』と人を傷つける『暴力』を区別できずに、『怒ってはダメ』と子どもにいってしまう教師もいる。怒りの感情は悪いものではなく、自然な心の反応であり、怒りをどのように表出したり、表現するかが重要なのである。(p.159)
子どもはよく怒る。小さいとき、怒りの代わりに泣く。それが怒りの感情を泣く以外で表現するとき、子どもは例えば友達を殴る。
大人同士であれば、殴るということは、相手との服従関係をつくるために殴る。殴ることが文化的に許されている職場が今でも一部の職種には存在する(僕はそういう職場に入ったことがある)。学校の教師でも、主従関係を作るために殴る教師もいる。これは怒りの表現ではない。暴力は、人間関係を積極的につくる行為であり、表現ではない。相手は否応無しにうけとらなくて受け取らなくてはいけない恐怖である。
怒り、イライラ、ストレスを表出するすべを学ぶとは?
大人が、母親が、子どもではない誰かに怒りを感じた時、例えば大切なものを壊されたり、約束を守れないとき、その人に対してどう関わるか。その場にいなくても、こんなことがあったよと、大人の経験をお話することでも、子どもは怒りのマネジメントを学ぶ。
子どもの喧嘩には口を出さない、という養育態度がある。子どもたちは自分で仲直りの仕方を学ぶ、という。そういう態度で望まないと、保育園で収拾がつかなくなるからかもしれない。もし大人がしゃやりでれば、大人に頼る子どもが育ってしまうかもしれない。
怒りを感じている子どもを見つけたら?喧嘩がはじまったら?怒りを感じている渦中、喧嘩の最終、そのすぐ後に話をするなど、できたものではない。「どうして手を出したの?」とか、説明をしても、憤りは変わらないようにおもう。
むしろ冷静に、子どもの喧嘩が終わった後で、「今日はどんなことがあった?」と聞いたり、怪我をしているのをみて「何かあったの?」と聞いて、じっくりと話を一対一でするといいのではないか。「嫌な気持ちになったとき」、人間ならどうしていくのが、「妥当」なのか。しあわせになるのか。
一方で、大人を試すために暴力を振るう子がいる。それは怒りではなく、家庭や学校で習慣として身についた心の姿だ。大人に脅しをかける、大人に対して暴力をふるう子もいる。ドアを蹴ったり。。。そういう子は、おそらく、集団生活の外で、平和な時間をたくさんすごして、たくさんのことが学べるのではないかとおもう。
暴力的な振る舞いが日常化するケースの裏にある心をみてくれる、裏に隠れている心とその子自身が向き合える時間が、大切になるだろう。
子どものころに喧嘩を経験して、それを振り返ってくれる大人がいる子どもはしあわせだ。
モンスターペアレントは自分がモンスターであるとは気が付いていない。怒りで我を忘れている。その怒りを受け止める学校が、先生が、モンスターペアレントを育てている。と僕はおもうのだがいかがだろうか。怒りのマネジメント法を教えてくれない大人に育てられた子ども、怒りを押しつぶしてきた子どもが、またモンスターになることは、いうまでもない。どんな心を育てるか。それは関わりあう大人次第だ、といったら、大人である積極的な責任を僕は感じて、不安になる。
ケンカが起きたらどうするかー本当は、喧嘩をしたくない、仲良く遊びたい心に気付けるか
いつも仲良くあそぶ兄弟がいる。
弟が2サイで兄が4サイ。
弟は
気に入らない!いやだ!
ということで、たまに兄をポカリとする。
おにいちゃんは、我慢して殴られることもあれば、たまにはポカリをやり返すこともある。
そのままにしておくと、弟はポカリを繰り返して、、、、
あの、僕の周りを回り続けるあの光景を思い出してしまう。
弟は頭がパニックになっているんだろう。
どうおさめたらいいのか、わからないんだろう。
どこかのタイミングで。
どこかのタイミングで。
その保育園では、弟を抱きかかえて気分転換をさせるようにしている。
戻ってきた時には、けろりとしてまた一緒にあそぶ。
うーん。。。。
感情に出会った時に、押し流されてしまう弟。
感情に出会わないような、感情に出会った時に、うまく対処できる心のしくみをつくる兄。
まだ、その時期ではないのだろうか。
お兄ちゃんが小さかったときは、どうだったんだろう。
こうした知識が、経験が、蓄積されて、伝えられているから保育園はすごい。
お兄ちゃん以外の友達に、弟はポカリをするんだろうか。。。
気になる。今度聞いてみよう。
ーーーーーーーーー
子どものケンカに保育者が介入することには賛否両論がある。
最後までケンカして、泣いて悔しがって、どうにもならない状況になって、そこから学ぶことがあってもいい。
その経験は、チカラに打ちひしがれるかもしれない学校生活・社会生活を送る上で、大切なことかもしれないから。
と、僕はおもっている。
誰もがケンカをしたいわけじゃない。
喧嘩が止まらない?
子どもたちの感情の渦の渦中(中心部)に佇んでいた経験を、僕はしばらく忘れられないだろう。
ーー
仲のよい兄弟。
あるとき、ちょっとしたことで、怒って、ポカリと殴る。
簡単に言うと「嫌なことをされて怒りの感情がでてきた」のだが。
僕はすぐ近くにいて一緒に遊んでいた。
しばらく様子を見ていた。
お兄ちゃんが殴られた方。
弟はその場で仕返しをされた(ポカリ)。
弟は泣きだして、、さらにポカリとやろうとするがお兄ちゃんは「その場から逃げる」戦略を選んだ。
そして、追いかけっこが始まった。
最初は弟だけが泣いていたのが、お兄ちゃんも泣き始めた。
走りながら、両方泣いている。
僕の周りをぐるぐる回っている・・・
うわーーーーん
うわーーーーーーん
うーん、どうしたものだろう。もう少し様子を見ていたい、ともおもった。
それ以上誰も傷つかない状況だし。
彼らだけでなんとかカタをつけられるのかもしれないと。
無理そう!!!
ずっと僕の周りをぐるぐる回ってる!
泣き声を聞いて職員の人が来てくれた。
次のステップへ移る。
どうしたの???
言葉を出してもらいながら、感情を鎮める。鎮める。
とりあえず二人別々の場所にいって。。。
その途端、けろっとして別のことを話す。
うーん。すごいな。。。
ーーーー
喧嘩中の「泣き」、泣きながらの喧嘩について考えたこと。
喧嘩になった時、喧嘩が始まった時、感情が首をもたげたとき、
子供は感情の渦中にあって、どうしたらいいかわからない。そんな心の状態を「泣く」ことが表していると、僕は思った。
赤ちゃんはもちろん泣く。最初は感情の渦中にあって「泣く」そのうち、「呼ぶ」ために、意図的に泣くようになる。泣いても無駄なら泣かないようになる。泣きながら相手の反応を見るようになる。つまり、感情の渦中に無くても「泣く」ようになる。もちろん重たる感情は怒りではなく、不快だろうけれども。
この兄弟の、この時の、喧嘩の「泣き」は、感情の渦中にあるタイプだ。
かけっこができるこの二人がまだ怒りという感情に慣れていない、だから頭が混乱するのだろうか。
別の子で、別の日に、あまりの怒りに(もっと遊びたくて遊びたくて)失禁したことがあった(普段はオムツが取れている子だ)。大人でも恐怖体験の時に失禁をするイメージがあるように、慣れていない感情に圧倒された時、体は情を表す。
泣くと言うのは、外向きではなく、中向きの感情だとおもえた。
訴える機能はたしかにあるけれども、とにかく流したい、この悪い気持ちを外に出したい、わからない、逃げ出したい、ここから出たい、そいういう感情に襲われた時、泣くという情の所作が生み出される。
ーーー
殴っても平気な顔でいる子もいるかもしれない。
お兄ちゃんのように「逃げる」「とにかくその場から離れる」「相手の感情から離れる」戦略をとらず、相手を打ち負かしたり、脅したりする戦略をつかう子がいるかもしれない。
感情は悪いものではない。
けれども。できるだけしあわせになれる、平和になれる戦略を伝えていくのが、全身で示していくのが、保育者・教育者の役割かもしれない。もちろん、子どもは勝手に学んでいくのだけれど。それに未就学の子、まだ年長にならないなら、喧嘩したことをすぐに忘れてしまうかもしれない。(ちなみに僕の一番小さな時の記憶は、年長のときだ)
喧嘩をしてもいい。
仲直りすればいい。
また遊べればいい。
大人になったら、そうはいかない?
喧嘩ばかりしてたら遊びにならない。
喧嘩よりも遊びがいい。
だったら喧嘩にならないような心がけがあるはずだ!
子どもも、きっとそうおもっているのではないだろうか。
親と子供の意地の張り合いー子供はオトナから何を学び取るか
何かと泣く子ども。
生まれてから死ぬまで、人は誰かを頼って生きている。
お昼寝の時間、寝ようとしないでぐずぐず泣く子ども。眠たくないわけではない。自分で自分を寝かしつけることができない1歳未満児。
眠くて、怒っているらしい。
同じくらいの歳の子が来て、新人だから大人たちのお世話が今まで通り自分にこなくなったことでぐずる一歳児。「私が一番だったのに・・・なんで!」という不満があってぐずぐずする。
今までそんな状況では泣かなかったのに、ぐずぐず泣くようになった!
どれだけぐずぐずしたら、どれだけ泣いたらかまってくれるのか、抱っこしてくれるのかを実験中だ。大人が、自分の欲求をどの程度満たしてくれるのか、どんなサインを送ったら満たしてくれるのかを検証中だ。生きていくすべを、体で、覚えていく。泣いたらいつでも抱っこするのでは、すぐに抱っこするのでは「ひとりでなんとかする」ようにはならないそうだ。
「しゃーなしやなー、まだまだ修行が足りないな!」といいながら、自立していくのを助けてあげる気持ちが大切。西欧のどこかの国では、子どもと大人がバラバラの部屋に眠る文化がある。この文化では、赤ちゃんは、夜、泣いても放置される。だから赤ちゃんは「あ、夜に泣いても誰もこないな。なんとかせんなんな」といって泣くのをやめるそうだ。(もちろん昼間は昼まで、大人は赤ちゃんに答えてくれるだろう)0歳から、赤ちゃんは生きていく術を大人から学ぶ。
だから、泣いたら抱っこしてもらえるのが当たり前になってはいけないことを、少しずつ伝えていくといい。それが、意地の張り合いだ。「抱っこしないぞ!君は君でなんとかやりたまえ!」という自立を応援する心だ。
妙に社交術に長けて好きなことをする赤ちゃんもいる。そんな赤ちゃんは「調子にのる」ことがあるかもしれない。その時はビシッといってあげてもいいだろう。子供が成長しても同じだ。おもちゃコーナーで泣きじゃくる子ども。人に好かれようとしていろんなことをする人は、大人にもいる。他人を使って欲求を満たしたがる人間。拒絶や従順の態度は孤独や依存関係を生み出す。人の欲求・感情との付き合い方。自分の欲求・感情との付き合い方を、0歳から学んでいる。学び続ける。
思いやりとはなんだろう。例えば新人がきて、今まで通りにかまってもらえなくなった子。どうしたら、「大丈夫だ。僕はちゃんと愛されている。新人が来て、大人も大変なのだ」と感じてくれるだろうか。何かを同時にするとき、新人でなく、その子を先にやってあげるとか。子どもが感じている不安を察知して、メッセージを送り続けよう。新人がいなくなるわけでもない。得られていた愛情をずっと変わらず受け取れるわけでもない。不安、満たされなさが溢れているこの世界でどうやったらしあわせに生きられるだろうか?
「あ、不安になっているな」とおもったら、心を配ってみよう。「大丈夫だよ、あなたをちゃんとみているよ」というメッセージを送ってあげよう。そうすれば、大人になってからも、きっと、不安になっている大切な人に気が付いて「心配しないでも大丈夫だよ。今ちょっと、忙しいだけだよ。あなたをちゃんとみているよ」というメッセージを伝えられる人になると、しあわせを育てられる人になると、祈りながら。
「私は大丈夫。私は、ちゃんとみてもらっている」という心で、感情をコントロールできる人になれるだろうか。感情の嵐の中で心を守れるようになれるだろうか。それは、人をしあわせにする「大切なもの」を守るために必要な心のしくみのように思えるのだが。
どこまでふぇーん!が通じるかーコドモは心をつくっている
ふぇーん!と泣くと何かが起きて救われるという法則を発見した子どもがいる。
イタズラをして、「この人はどんな対応をしてくるかな」と実験している子どもがいる。物を投げてみたり。
子どもはいつでも実験中だ。甘えることで生き残った。けど成長していくにつれ、自分でなんとかしていかなくちゃいけない。だから自立心や意欲を少しでも見せたなら、手伝ってあげて世界を広げてあげよう。オトナに甘えるのではなく、誰かとの楽しみに目覚めるように。一人で世界を味わうことを学べるように。
とはいっても、お母さんや世話をかけてくれるオトナとちがって、子ども同士は対等だ。一緒にいると、いつだって〈未知の混乱〉がやってくる。どうしたら、波立つ感情と一人で向き合えるか?自然な振る舞いとして〈未知の混乱〉を受け入れることができるか?これは、おもちゃとったとられたの時期から、子供がお互いの遊びに関わりあう時期までにオトナが子どもに与えたらいい試練だとおもう。子どもは喋る以上に言われたコトバを理解しているから大丈夫だ。どんどん伝えていったらいい。「大丈夫だよ」という心を伝えよう。
自分の機嫌は自分でとる!泣いて解決しようとおもうな!
相手に要求してみて、叶いそうになかったら、別のことをする!とか。苦手なことがあったら、どうしたらいいか。助けの求め方。などなど。これは友達とのやりとりだけでなく、日常的に、家の中で起きるドラマだ。
そういった波立つ感情への戦略、対処法は、三つ子の魂、オトナになっても子どもの暮らしを豊かにする大切な学びになることは間違いない。
いつも腹をすかせている金魚が群れている。人が近づくと水面に群れてあくせくと水面をつつく。たくさんの餌をあげたら、ぶくぶく太るだろう。もっと餌が必要になる。いや、もう大きくなんなくていいから。とおもうなら、餌を少なめにあげたらいい。そしたら、それで生きていける体になる。
「怪獣」は、悪か。善か。子どもの「問題行動」とは?
これもよくある話。 「問題行動」という言葉がある。 これも半ば、呪いの言葉なのだが・・・ 指し示しているものは「社会的に不適切とみなされた行動」だ。 校則違反も問題行動になるだろう。 ーーー
ーー 人の中には、怪獣がいる。 心には怪獣が住んでいる。 シャーマンの世界で言えば、守護霊のようなものだと僕はおもっている。 つまるところ、それはチカラだ。 たとえばこれが「やんちゃ坊主」の「問題行動」だとしよう。 それがただのけじめがついていないだけなら、「感情のコントロール」の仕方を学んでいってもらうために、お母さんは凛として言葉を使ったらいい。 しつけとけじめ しつけ 勉強は「しつけ」か「あそび」か ーーーーーー
ーーーーー が。 それがどうも、その子の命のエネルギーが溢れてしょうがない状態、からでてくる「問題行動」もある。 と僕はおもう。 溢れさせてはいけない場面もあるだろう。 それこそ「気締め」、ケジメをつけなくては、映画館でも大変なことになるだろう。 だが、そのエネルギーを、命の炎を燃やせずに水をかけられるだけでは、子どもの輝きがなくなってしまうかもしれない。 「悪い」怪獣なのか?「良い」怪獣なのか? 「良い」怪獣として育てるには? それこそ、学びだし、教育だし、自己理解だし、メタスキルだ。 例えば・・・・ エジソンだったか。 アインシュタインだったか。 だれだったか忘れたが「好奇心」という名前の怪獣がいたために、学校で除け者にされてしまった人がいる。 この子は「好奇心」という怪獣と一緒に成長できるように、お母さんが「ホームスクール」した。 つまり学校に行かなかった。 そうして、その子は、歴史に名を残す人物になりましたとさ。 もしその怪獣を殺そうとしたら、、、またそれは別のストーリーになっただろう。 「怪獣」とどうつきあうか、つまり「チカラ」をどうつかうかは、その子次第だし、その子の成長を見守る大人たち次第だ。 それは「ストレングス」とかいう言葉であらわしてもいい。 強み、自分らしさ。そうして「自分はこういう人間だ。だからこうして生きる」というメタ認知ができるようになったら、人生、楽しく生きられるようになるとおもう。 「自分は本当はこうなんだけど(怪獣は心にいるんだけど)、それを出したら(怪獣のチカラを見せたら)お母さんに怒られる・・・」といったイイ子に徹する子もいる。 「いやもう、これ、私だし」といって、御構い無しに怪獣をだしてくる子もいる。 ひとそれぞれ。 ただその関わり方を、出し方を、大人たちは教えることができるだろう。 「使い道」というのは、「社会でどう使うか」「そのチカラを、何に役立てるか」という知恵に繋がっているからだ。 ーーー
ーー カスカネダの書いたシャーマンの生き方、修行の記録の中には、精霊との戦いというものがある。 精霊は、チカラをもっている。 シャーマンは、それを取り込み(?)、コントロールしなくては死んでしまう。 精霊に殺されてしまう。 精霊は悪霊にもなる。 同じことが、子どもたちの「チカラ」についてもいえるのではないか。 子供の中に現れた怪獣は、そのチカラを使いたがっている。 もしそれを檻にいれるだけしたら、脱走したり、本当に、人を食らうかもしれない。 (現代の漫画でよくあるストーリー) もしくは、怪獣からもらっていたチカラをもらえなくなって、鬱、病になるかもしれない。 怪獣は、チカラをくれる存在だ。 ーーー
ーー 学校にすれば、「不登校」も問題行動なのかな。 「いじめ」も問題行動だ。(校長先生の評価が下がるからだ) けど学校はそうした怪獣の存在なんて知らないし、「定期テスト対策」的な処世しかできないのが、現実。 学校の中では檻に入れられてしまう怪物を、子どものチカラとして、社会の中で使えるようにするには??? 家庭教育、社会教育だろう。 学校は、学校のことで精一杯だから。 そういう視点で、「この子は今、どんな心をもっているのか。どんな発達段階にいるのか」といった見方を、まずはお母さんにしてほしいとおもっている。 気締めによって怪獣をコントロールすること。それは小さい時の気締めとかわらない。一人でできることもあるし、誰かの助けを借りて、コントロールできるようになっていくこともある。 そのための心のしくみを作って行くことが、人としての大きな成長になるとぼくはおもっている。 ゴジラがなんだかんだいって地球を守っているように、お子さんの「怪獣」も、お子さんを助けるチカラになるかもしれない。 まずはお子さんの怪獣と、話をしてみたらどうだろうか。
大人も子供も、説得しても伝わらない。共感すると、何かが動き出す。「理」が通らない人間世界『残酷すぎる成功法則』
「説明する」のは「戦争を仕掛けている」のと同じ
私たちは個人的な人間関係において、これと同じことをやっている。 ものごとがまずい方向へいくと、往々にして私たちの最初の反応は戦う ことだ。暴力ではないが、話し合いや交渉に比べ、怒鳴り合いや口論が 多い。それはなぜか?
哲学者で認知科学者のダニエル・デネットによれば、人間の脳には進 化の過程で「戦争のメタファー」が組み込まれていて、他者との不一致 を戦争という観点で理解し、行動する回路が備わっているからだという。
戦争においては、どちらかが征服される。それは事実や論理による話 し合いではなく、命懸けの戦いだ。どちらが真に正しいかに関係なく、 片方が勝てば、他方は負け。ほぼすべての会話でも、勝者か敗者かという地位が懸かっている。誰しも、自分のほうが愚かに見えることを望ま ない。したがって、デネットが指摘するように、私たちは、諭された側イコール敗北という状況をつくり上げてしまうのだ。
たとえあなたが手堅い証拠と完璧な論理性を武器に反論者を追いつめたとしても、その結果どうなるか? 相手は譲歩しても、間違いなくあなたのことを憎むだろう。勝ち負けに持ちこめば、どちらの側も実質的 に敗者になる。
臨床心理士のアル・バーンステインも同意見で、「ゴジラ対ラドン効果」と名づけた。もし相手が怒鳴りだし、あなたも怒鳴りだせば両者は 「戦争のメタファー」をたどることになり、ビルがなぎ倒される。東京じゅうが破壊され、収穫はほとんど何もない。あなたはこう思うだろう。
「ただ説明しようとしているだけなのに」
しかし、バーンステインが言うには、それこそが罠だ。説明するという行為の多くは、ベールに隠された支配欲である。あなたは相手に教え ようとしているのではなく、勝利しようとしている。言外の意味は「私が正しく、あなたが間違っている理由はこうだ」である。そしてあなた がどう説明を尽くそうと、相手の耳に残るのはこの言外の意味なのだ。
神経科学の分野での調査も、このことを裏づけている。誰かが何かに 関して苛立っていて、あなたが彼らの信じていることに対する反証を挙 げているとき、彼らの脳のMRI画像はどんな反応を示すだろう? 脳 の論理性を司る部位は文字通りシャットダウンする。かわりに攻撃性に 関わる部位が活性化する。彼らの脳に関するかぎり、これは理性的な議論ではなく、戦争なのだ。彼らの脳はあなたが話す内容を処理できない。ただ勝とうとするだけだ。そしてあなた自身の脳も、理性的にコントロールしようとしないかぎり、同じように反応してしまう。 自説を曲げない人は、反論するかもしれない。会話において、戦いの論理が働くはずはないと。だが実際にそうなのだ。調査によると、あな たに力があり、相手に力がない場合には、威嚇がとても効果的だ──少なくとも短期的には。もし上司が声を張りあげれば、あなたは引きさがる だろう。しかしそのことで両者の関係はどうなる? あまりに頻繁に部 下を威嚇する上司は、引く手あまたのすぐれた従業員に去られてしまうだろう。
それに、体重五〇〇ポンドのゴリラは、五〇〇ポンドのゴリラでい続 けねばならない。つまり人を威圧する権力者は、ずっと権力者のままで いなければならない。誰かをいじめれば、相手はそれを忘れない。後年あなたが力を失えば、力をつけた彼らに報復されるだろう。
怒りに対して「共感」する:笑いのある食卓
ブルックリンの人質事件におけるニューヨーク市警は、賢明にもこの 罠に陥らなかった。人質が逃亡に成功した後でも、市警は戦闘に打って出なかった。最善の策ではなかったからだ。銃を発砲しながら突入すべきだったと言う人もいたかもしれないが、そうしていたら警官に甚大な被害が出たであろうことがわかっている。
法執行機関は、人の生死を扱っている。私たち一般人はそうではない のに、そうであるかのように振る舞うことがある。私たちの〝恐竜脳〟 が、すべての議論を生存の危機だと見なしてしまうからだ。たとえば、 「誰がゴミ出しをすべきかという議論は、死活問題だ」といった具合 に。まあ、たしかにもっともだが。
しかし、人命が危険にさらされている状態でも、ニューヨーク市警の ような賢い人質交渉者は、戦闘より話し合いを選ぶ。一九七〇年代以降、危機に対処する交渉人は交渉(交換)モデルに焦点を置くようになる。武力は用いない。「人質を解放すれば、金を渡そう」。このほうが良さそうではないか? しかし、この方法にも問題があった。
このやり方が劇的な転換を遂げたのは一九八〇年代だ。警察は、犯人との話し合いは大きな効果をあげると認識した一方で、ビジネス式の交渉モデルは、彼らが遭遇する多くの事件に適用できないとわかった。 七〇年代には、明確な要求を持ったテロリストによる、劇場型犯罪の航空機ハイジャックが増加した。ところが、八〇年代に警察が遭遇した 事件の九七%は、金を要求するわけでもなければ、これといった政治的要求もない、精神に混乱をきたした犯人によるものだった。 そこで、次なる交渉原則が開発された。戦闘も交換も思うような成果 をあげなかった結果、暴力的な犯人と対峙した交渉人と重装備の警察官が最善策として考えたものは何だったか?
それは「共感」だった。家庭内紛争の当事者も自暴自棄な犯人も、セールスマンのような口調の人間には反応を示さなかった。しかし、誠実な態度で、犯人の心情に焦点を合わせるやり方は、効果的な解決に結びついたのだった。 危機管理のエキスパート、マイケル・マクメーンの調査によると、危 機的な事件への対処において、警察は三つの間違いを犯したという。す なわち、何もかも白か黒かで判断しようとし、早急に解決を図ろうとし、犯人の感情面に配慮しようとしなかった。
私たちも同じ間違いをする。じつは私たちも、時おり精神が動揺した人びとを相手にしている。それは職場の仲間とか、家族と呼んでいる人たちだ。彼らは要求をつきつけるテロリストではない(ときにはそんな 風に見えるとしても)。たいていの場合、彼らはただ憤慨して、自分の言い分を聞いてほしがっているだけだ。
人質交渉人は、想像しうる最も緊迫した事態に対処するが、危機の最初から最後まで、彼らの態度は一貫して受容、思いやり、忍耐に徹して いる。
ここで再び友情に立ち返ろう。戦争と同じように、友情もまた私たちが本能的に理解するものだ。そして友情と関連が深い受容、思いやり、 忍耐は、人間関係において焦点を合わせるべき最も重要なものだ。残念 ながら私たちは、大切な人びととの多くの状況で、具体的な解決がなかなか図れないからだ。
人間関係の研究で知られる心理学者、ジョン・ゴットマンは、夫婦間の問題の六九%は永続することを発見した。つまり、そうした問題は解決されないのだ。交渉型アプローチがうまくいかない理由もそこにあ る。したがって相手の話に耳を傾け、共感し、理解する必要がある。そうすれば、たとえこれらが問題解決に結びつかなくても、結婚生活はうまくいく。私たちがたがいの気持ちに寄り添わず、具体的な交渉に重点を置くときにこそ、破たんするのだ。
私たちは皆、気持ちの威力や効果を知っている。不機嫌なとき、人は 別人のようになってしまう。たとえば空腹で機嫌が悪いときに何かを食 べて復活すると、すべてがうまくいき、はるかに機嫌のいい人間になったりする。ある調査によると、食事は説得するための有効な手段である という。
「人は提供された食事をとるあいだ、提供者に対して一時的に服従の心 理状態になる。この心理は食事中が最も強く、食事後は急激に弱まっていく」 私たちはチーズバーガーがあるといい気分になり、商談をまとめるのに最適な心理状態になるというわけだ。 (『残酷すぎる成功法則』エリック・パーカー)
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