小論文は添削するよりも振り返ることが大切。誰かに見てもらうと何が起きるか。
『「考える」ための小論文』の作者が自分で書いた小論文を、作者自身が見つめ直した文章が載っていました。
解答プロセス
実際に、やってみよう。ぼく自身の例だけど。
<何に感動したか〉 What
まず、「感動した体験」をあれこれと思い出してみる。――ああそうだ。バンドをやっ ていて、とても感動したことがある。それを取りあげてみよう。 では、そのときの体験のなかの、いったい何に感動したのだろうか?
最初にテーマを一緒にやり始めたとき、何かいつもとは違う感じがあった。サックスも、 ドラムもベースも、ギターを弾く自分も、一緒になって「ひとつの世界」をつくりだして いる感じがあった。→「ひとつの世界」。 ドラムが何か叩くと、どんな気持ちで叩いているかが不思議にわかる。ぼくもそれに応えようとして音を出す。―みんながひとつになって融け合っているというより、各々は ちゃんと存在していて、しかし何を各人がしたいのかがよくわかるのだ。ぼくが何かやろ うとしたときに、むこうもそれに応えようとしてくれる。ぼくもまた受けとめられている。 →「相互に呼応しあう」。 「考え考えして、何かフレーズをこしらえていくのではなく、この「磁場」のなかでは思 わぬフレーズが自分のなかから溢れ出てくる。「こんなことやっちゃっていいのかな」と 思うようなことを、平気でやっている自分に気づく。いつのまにか、ふわっと飛びあがる ようにして、弾いている。→「かぎりなく自由になっていく感覚」。
〈どのように> How は前と一緒になってしまったので、省略。
<なぜ、感動したのか> Why
いままで、経験したことのないようなことだった。「ほんとうに自由な世界」をかいま みた気持ちがした。他の人たちと深くつながりながら、しかも一人一人がいつもよりずっ と個性的になっている。どこにも遠慮もなければ、がまんもない。 「日常の世界では、どこかに遠慮がある。自分を控えながら関係をつくっているところが あるような気がする。そういう垣根が一瞬取り払われたように思えたのだろう。
<さらに考えたくなったこと>
なぜ、こんな昔の話を思い出すのだろうか
いまの自分のなかにも、自由な世界を求める気持ちがあるんだなあ、やはり。いまの自 分と昔の自分はどう違うんだろう。 これらの検討を文章にまとめて、解答例をつくってみた。
解答例
学生時代から、ロックやジャズのバンドを経験してきたけれど、ほんとうに感動したことが ほんの何回かある。一度はジャズをやっていたときのことだった。
ドラムとベースのつくりだすフォー・ビートのリズムのなかで、ぼくのギターと友人のサッ クスがテーマを始める。そのとき、もういつもとは違うのがわかった。みんなの楽器が一緒に なって、大きな川のような力強いビートの流れがつくりだされていく。新しい世界がいま始ま ったように感じた。
サックスのソロに、ドラムが小刻みな、また大胆なフレーズで応える。サックスがどんな気 持ちで吹き、ドラムがどんな気持ちで叩いているかが、そのままわかる。ぼくがそれに応えよ うとすると、まわりもぼくに応えてくれる。だが、みんなが融け合ってしまうのではない。一 人一人はどっしりと存在していて、それぞれ何をしたいのかが、超能力のようにわかるのだ。 ぼくもいつものように考え込んだりしない。この磁場のなかでは思わぬフレーズが自分のなかから溢れ出てくる。「こんなことやっちゃっていいのかな」と思うような大胆なことを、平 気でやってしまう。いつのまにかふわっと飛び跳ねながら弾いていたらしく、あとでドラムの 友人からそう言われてひどく恥かしかったのを覚えている。 いまでもたまに、このことを思い出すことがある。なぜだろう。
ぼくもずいぶん大人になった。世間のしきたりも覚え、そつなくあいさつもできる。自信に 溢れたような顔をして人前でしゃべることもできる。なによりもぼくはもう「物書き」になっ ていて、人々もぼくをそのように遇してくれる。以前のように将来もわからず、ただ音楽にの めりこんでいた頃とはずいぶん違う。 けれど、ほんとうに違うのか。 大人になるとは、「役割」を引き受けることだ。きちんと原稿を書くこと、よい授業をする こと、そういう役割をきちんと果たすことが誇りになり評価にもつながってくる。忙しいなか、 そのことだけが頭を占めていく。そういうとき、音楽の感動の記憶が遠いところからやってく る。それは、「おまえは役割じゃないんだ。一人のただの人間なんだ、昔もいまも」と告げて くるような気がする。
日常の生活にさして不満があるわけではない。ちゃんと自分も世界も支障なく動いているじ ゃないか、とも思う。でもやはり、足りないものがあるのだ。役割もなにもかも脱ぎ捨てて、
ほんとうに素直になって自分から声を発してみたい。他人のほんとうの声を受けとめてみたい。 そういう願いが、ぼくのなかにくすぶっている。そのことを感動の記憶はぼくに教えるのだ。 (一二00字)
振り返り
これは数年前に書いたものだが、いま読むとかなり恥ずかしいものがありますね。たぶ んこの文章を書いたときのぼくは、どこか内閉した感覚――他人とのあいだがどこか薄い 被膜で隔てられているような―をもっていたのだと思う。でも、ともかく一生懸命、正 直に書こうとした記憶があるから、あえて直すのはやめておく。
とくに恥ずかしいのは、「他人のほんとうの声を受けとめてみたい」というところ。こ のときのぼくはまだ、どこか直接の(生の)コミュニケーションを渇望しているところが ある。しかし、じかに「叫ぶ」だけでは「ほんとうの声」にはなりにくい(たいていは伝 わらないし、相手には押しつけがましいだけになる)。そのことがよくよくわかってはじめて、 文章として言葉をあれこれと工夫し、そこから「ほんとうの声」をつくりだそうとする態度が出てくるのだ。「ほんとうの声」を発するのは、じつは難しいことなのである。その 点が、この文章を書いたときのぼくにはまだわかっていなかった。 ただ、ぼくのなかにいまでも確実に残っているのは、一人一人がきわめて個性的であり、 ながらつながっている、というビジョンである。このビジョンをぼくはどうしても手放す ことができない。物を書くときも、いつもそのことをどこかで念頭においているように思う。
- 解答例の構成 この解答例の「構成」を確認しておこう。
まず、自分の体験のなかで〈何に感動したか〉を三点にわたって書いている。しかしこ の三つがそのままで放置されているのが、ちょっとまずい。本来はこのあとに、何に・ なぜ感動したか〉をきちんと集約してまとめておく必要がある。体験を語るような具体的 事例は、それの意味するものを的確な言葉でまとめてはじめて生きてくる。その集約がち ょっと足りないのである。
その「まとめ」をして終わりにするのがふつうだが、続いて〈なぜ自分はそれを思い出 すのか〉という問いが出てきてしまったために、文章は「現在の自分を考える」という方向に移動していっている。「自分を見つめる」という点からすれば、ただ過去の感動体験 の分析にとどまらなかったのは、かえってよい結果になった(面白さをつけ加えた)といえる。
〈自分への問い〉を通じて〈一般的な問い〉に答える
いままで「自分を見つめる」練習をやってみたが、今度はそこからふつうの論文的出題 へと進んでみよう。
ここでもやはり、問いをみずからに向ける必要がある。しかしその問いは一般的な問い でなくてはならない。たとえば、感動とはどういう体験か〉〈どういう場合に人は感動す るのか〉〈なぜ人は感動するのか〉というように。つまり「あなたがどう感動したか」で はなく、「一般的にいって感動とは何か」ということが問われているわけである。 しかしこれは、先の自己論述の問題と、じつはそれほど違ってはいない。なぜなら、一般的な問いに答えるためには(とくにこの出題の場合には)、自分の体験を問い直すところ から考えていくしかないからだ。 一般的な問題を、いったん自分の体験に引き戻す。そこから自分なりの答えを出してい く。このやり方は独自性を育てる。よい論文とされるものには、読み手をハッとさせるよ うな独自な見方・考え方が必ず含まれているが、これを生み出すためのもっとも大切な情 報源は、自分の体験なのである。
ここでは、さっきの自己論述の解答例を「論文」へと改作してみよう。どこをどう変え たか、注意深く読みくらべてみてほしい。
解答例
人は、いったい何に感動するのだろうか。ぼくの場合には、音楽をやっていてとても感動し たことがあって、そのことが忘れられない記憶として残っている。
ドラムとベースのつくりだすフォー・ビートのリズムのなかで、ぼくのギターと友人のサッ クスがテーマを始める。そのとき、もういつもとは違うのがわかった。みんなの楽器が一緒に なって、大きな川のような力強いビートの流れがつくりだされていく。新しい世界がいま始ま ったように感じた。
サックスのソロに、ドラムが小刻みな、また大胆なフレーズで応える。サックスがどんな気 持ちで吹き、ドラムがどんな気持ちで叩いているかが、そのままわかる。ぼくがそれに応えよ うとすると、まわりもぼくに応えてくれる。だが、みんなが融け合ってしまうのではない。一 人一人はどっしりと存在していて、それぞれ何をしたいのかが、超能力のようにわかるのだ。 「ぼくもいつものように考え込んだりしない。この磁場のなかでは思わぬフレーズが自分のな かから溢れ出てくる。「こんなことやっちゃっていいのかな」と思うような大胆なことを、平 気でやってしまう。いつのまにかふわっと飛び跳ねながら弾いていたらしく、あとでドラムの 友人からそう言われてひどく恥かしかったのを覚えている。
なぜ、このことが「感動」だったのか。それは、いままで経験したことのない、まったく自 由な世界だったからだ。一人一人が個性的で自立していて、しかも深くつながっている。どこ も遠慮することがない。発すれば受けとめてもらえるし、こちらも相手を心から受けとめる。 しかしそういうつながりは、日常生活のなかではまず経験することのできないものだ。
日常生活では、いつでもどこかに遠慮がある。「自分」を控えながら、関係を円滑にまわす ようなことを、ほとんど無意識のようにやっている。かといって、自分を強烈に押し出せばい いかというと、そうではない。自分の素直な感情の発露を、他人が受けとめてくれるとはかぎ らないからだ。まわりが受けとめてくれないところで自分を押し通しても、嬉しくはない。その意味では、私たちはごくふつうに日常を送りながら、「控えてしまった自分」を少しずつ自 分のなかに溜めこんでいるのである。そして、他人のほうもやはり自分を控えていて、素顔を さらしてくれるわけでもない。しかし私たちは、心の底のどこかで、こういう遠慮の垣根を取 り払ってしまいたいと願っているのではないだろうか。
もちろん、音楽の経験だけが垣根を取り払う唯一のものではない。他人の文章や詩に感動す るとき、とても率直な言葉に胸を打たれて、「ほんとうの言葉」を眼にしたような思いをもつ ことがある。それは、単なる情報でも知識でもなく、その人の生きている場所から発せられた もののように感じられる。その言葉は日常生活の垣根を一瞬取り払って、その人と私との間に 「共感」を成立させるのだ。 「感動」には、さまざまなものがあるのだろう。けれど、ぼくが「感動」ということを考える ときまず思い出すのは、自分と他人とのいつもの垣根が取り払われたときの交感する感覚であ る。しかしそれはひとつに融け合うことではなく、自分がもっと自分らしく、彼(女)がもっ と彼(女)らしくなって、そこに声が通い合うことなのだ。 (一四○○字)
振り返り
- 解答例の構成
構成について確認しておこう。まず冒頭に友人は、いったい何に感動するのだろうか〉 という問いを打ってある。これは、この論文はこの問いを解明するために書かれるんです よ、ということを示している。
そこから段落二つ分を使って具体的な体験が語られるが、これは自己論述のときとまっ たく同じものをそのまま使っている。
第五段落まできて、なぜこのことが「感動」だったのか〉という問いが発せられ、感 動の「なかみ」がまとめられる(この「まとめ」が前の解答例には欠けていたのだ)。それ以 下は、日常生活との対比によって、それが感動であった理由が深められていく。
最後に、冒頭の問いに対する答え=結論として、「自分と他人とのいつもの垣根が取り 払われることに人は感動するのだ」という主張が述べられている。
空論、「伝えたいこと」がない、ただの決意表明文
解答例
筆者のなかには、「言葉を使うことこそが人間の特権であり、人間の尊厳である」というよ うな、人間中心主義の考え方に対する違和感があると思う。犬は言葉をもたないけれど、自分 を偽らない。まっすぐに愛し、悲しみ、おしっこをしては「俺は生きてるぞ」と主張する。筆 者はこう語りながら、犬の生に、素朴で正直でまっとうなものを見ているのだ。
では、人間の方はどうなのだろう。たしかに、人間は言葉を用いて科学や文明を発達させる ことができた。文字を用いるならば、幅広い人々とコミュニケーションをすることもできる。 けれど、言葉は他人を欺くことがある。それだけではない。言葉は自分を欺くことさえある。 例 えば、正義を唱える人の裏には、他人に対する軽蔑と憎しみが潜んでいることがある。「正義 を信じている自分は、他人よりも偉い」。人間は、言葉をもつことによって、「神」とか「大 義」とか、様々な理屈を創り出し、それを信じる自分を高級な存在と思い込もうとする。そし て、本人はそのことに気付かない。人間はそういう、自己欺瞞的な生き物でもあるのだ。 筆者は、言葉を使うことの本来の意味は、犬がおしっこをすることと同じだ、と言っている。 自
分の存在からまっすぐに出て行く言葉。愛し、怒り、自分の存在を主張する言葉。そういう言 葉を筆者は求めている。ぼくもそれに共感する。しかし、こういう「率直な言葉」を吐くこと は、じつはすごく難しいことなのだ、と思う。
ミエや常識や、そういうものを取り払って、自分の心をまっすぐに見つめること。そこから 言葉を紡ぐこと。そういうことがいつも自分にできるかどうかは、わからない。けれど、たし かなことは、率直な言葉をぼくは他人に向けていきたいし、他人から率直な言葉を受け取りた い、そういう気持ちがぼくのなかにある、ということだ。なぜなら、率直な言葉だけが、人間 同士の「信頼」を創り上げることができると思うからだ。
(八二〇字)
振り返り
この解答、ややエッセイ的ではあるが、主題は明らかで、言いたいこともきっちり伝わ ってくる。人間だけが持つ「言葉」について、その便利さをふまえたうえで、それが他人 だけでなく自分を偽ることがあるということを述べ、それに対して、私は「率直な」言葉 を発していきたいし受け取りたいと、この人は言っている。「率直な言葉」のイメージは 傍線部aとaに示されていて、これは課題文の最後の部分に触発されて出てきている。こ の人の発想の出発点は明らかに「犬のおしっこ」のような言葉というイメージにあり、そ れと自分とがクロスして「率直な言葉」という主題が出てきた、というふうに読める。触発されて、自分の問題として展開するという点で、お手本のような答案だ。
しかし、「言いたいこと」は何なのかとなると、「率直な言葉」を「他人に向けていきた い」「受け取りたい」という決意表明があるだけだ。小論文では、一般に、決意表明 「~したい」、当為「~すべきだ」、期待・希望「~してほしい・~を願わずにはいられな い」は避けるべきだといわれる。もちろん「書いてはいけない」なんてことはない。しか し、こうした表現は思考がそこでとまっている場合が多く、しばしば「空疎なきれいご と」かつ一般論にしかならない。この答案の場合「~したい」というその理由となかみが 言葉になっているから、それはそれでいいのだが、「率直な言葉」の条件である傍線cも、 理由にあたる傍線dも、きれいごとかつ一般論くさい。そして、第三段落の最後で、この 人自身がふれている「率直な言葉」の難しさ。そのことについて、十分考えられていない 印象がある。そこが、もの足りない。(『「考える」ための小論文』p.144)
「伝えたいこと」を「伝える」ための構成ができなかった例
解答例
人は何故、自分の名を刻みつけようとするのか。←a
筆者は人間のその行為を「犬のおしっこ」になぞらえている。たしかに、筆者の言うように 観光地などで、自分がそこに来た痕跡を刻みつけた名前を見ると、私も「犬のおしっこ」を思 い出す。犬のように「生理で統一」されてはいなくても、本人にその自覚がなくとも、何かや むにやまれぬ衝動があって、自分の名を刻みつけずにはおられないようだ。
ただ、「犬のおしっこ」と大きく違うのは、犬は、ごく日常的に自然に自分の存在を刻みつ けるが、人間はそうではない、という点だ。「山小屋の板や、白樺林の幹」に自分の痕跡を残 すだけに留まらない、世界に、その存在を刻みつけようとする。それは、日常の中で、自然な かたちで昇華できるものではない、過剰な、超越的な欲望として我々のうちにある。 「自分の名さえ、太くつよく彫りこめばそれで青年時代は終わりなのかも知れません。」筆者 はそのような欲望を特に青年期のものとしてとらえている。
人は何故、青年期において強くそのような欲望を抱くのか。←a’
自分は何者か、世界において自分という存在はどういう意味を持っているのか。←b
犬はこのよ うに自分の存在する意味を問うたりはしない。おそらく、人間であればこそ問うこの問いを、 最も強く抱えて生きるのが青年期であり、そして、青年である我々は、世界にその存在を証明 する何物も未だ手にしていないからこそ、狂おしく、その名を刻みつけようと欲望するのだろう。名を刻むとは、自分の存在への問いの答えを手中にすることに他ならないのだ。
私は「太くつよく」自分の名を彫りこむことができるのだろうか。←c
人に抜きんでた才能もなく、その他大勢のなかに埋もれて生きている。自分の名を刻むこと を考えれば、そこにあるのは不安と焦りだけだ。
それでも、世界という混沌に向かってではな く、かけがえのない、ただ一人のひとのなかに、自分の存在を刻むことはできるかもしれない。 そして、相手の名もつよく自分のなかに刻みつける。そのような恋だけが、未だなにものでも ない我々の存在の意味を記せる可能性かもしれない。 ←d
(九二〇字)
振り返り
これも、課題文の最後の部分に触発され自分にひきよせて考えられた解答だ。そのこと は、よくわかる。しかし、要するに何が言いたかったのかがはっきりとしない。
まず、前半、傍線部a の問いから a ‘の問いまで、「犬のおしっこ」とは違う人間の「過 剰な欲望」について述べられる。「世界に名を彫りこむ」ことが、人間固有の欲望である というのは妥当な意見だが、なぜそんな欲望をもつのかについて考えられているというよ り、「やむにやまれぬ衝動」とか「超越的な欲望」とか、課題文でいわれていることを紋 切型で解釈しただけのように思える。
この人の見いだした主題は、a、a’の問いを意識した傍線b、つまり「世界における自分の存在の意味」みたいなところにある。そのことを自分につきつけた傍線cの問いから。 後が、答案の中心である。だったら、もっとストレートに、主題を提示するところからス タートすべきだった。そして「才能もなく、その他大勢のなかに埋もれて生きている」自 分という存在にどういう意味がありうるのか、「名を刻む」ことの可能性は、どのように 見いだされるのかという問いを、もっと早めに示し、そこからの思考過程をもっとていね いに言葉にすべきだった。
bのような主題を引き受けて、「恋」へと展開するところが、この解答の面白いところ で、たぶん「努力すれば」とか「夢を持って」なんてありきたりの虚しい言葉を避けなが らcの問いをこの人なりに問いつめたうえで、『ユリディス』の引用に触発されて出てき たのが「ただ一人のひと」という可能性だろう。だが、その思考過程が見えないので、ラ ストのdは、何だか唐突にも思える。このdの部分が、じつはこの人のイイタイコトの核 であり、もっともインパクトを与える部分でもあるわけで、四行足らずで終わっているの はいかにも言葉足らずで、もったいない。
課題文の読みは相当鋭いし、よくつきあって考えられてはいるのだが、生真面目につき あいすぎて前半の無駄が生じ、それが後半の言葉足らずにつながったのではなかろうか。 このように、書きながら自分なりの主題やイイタイコトが見えてきて、結果的にその肝心な部分がわずか数行で終わってしまうという答案はわりと多い。もう少し落ち着いてイイ タイコトを確かめ、構成を考えようと言いたい。
(『「考える」ための小論文』p.148)
『「考える」ための小論文』著者の解答例:
泥棒の心理というのは不思議なもので、盗みに入った家にうんこを残していくケースが多い という話を読んだことがある。その家のいちばん目につきやすい場所(もちろんトイレではな い)に、驚くほど大量にあれがしてあるそうだ。怪盗ルパンは自分のイニシャルを書いたカー ドを必ず残したが、現実世界の泥棒はそうもいかないから、そのかわりにそんなことをするの だろう。 「言葉というのは、泥棒が残していくあれのようなものではないかと思うことがある。その人 間の存在が、思いきり生々しく、しかも強烈な臭い つきで刻みつけられている。だから、他人 のあれがひどく不快であるように、他人の言葉も、ときとしてひどく不快なのではないか。建築物や、バスの車内や、トイレには、しばしばそのような不快な落書が残されていて、いやな 気分にさせられるし、喫茶店やラブホテルに置いてある落書ノートのたぐいにも、そんな言葉 が記されている。
もっときちんとした、しかるべき場所に書かれたり印刷されたりしている言葉も、本質的に はそういうものではなかろうか。テレビやラジオにあふれかえっている言葉、カラオケボック スでがなりたてられる言葉、いずれもそれを発する人間の自我が、いやおうなくにじみ出てい る。だからぼくは、自分の言葉や自分のふるまいや自分のがなりたてるうたが恥ずかしくてた まらないのだ。
しかし、ぼくが他人の言葉の愛好者であるというのは、どうしたことだろう。不快になるよ うな言葉ですら思わず読んでしまうし、くさいうたにも聞き入ってしまう。そして、その人の においのしない言葉は、なぜかつまらないし、香水を振りかけたような言葉は、読むに堪えな いのだ。世の中には他人のあれをこよなく愛する趣味の人もいるらしいが、それと似たような ものなのだろうか。
言葉に限らず、表現というのは他人に受けとめられなければ意味がない。自分を刻みつけよ うとして発せられる言葉が、なぜ、どこで、美しく力強いものへと変化するのか。どのように それがぼくに刻みつけられるのか。ぼくは、その秘密を知りたいと思うのだ。(一○○○字)
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