学童期と思春期の違い:中学生以後の思春期という凹凸な青春の発達課題
現代の子供たちの体は変わって来ています。
これまでの社会のしくみは通用しません。
大人は子どもたちの変化に気がついていますか?
性的成熟とともにやってくる「思春期」とは、なんでしょうか?
学校に行けなくなったり、体調が悪くなったり・・・今まで「我慢」してきたことが耐えきれなくなり、「心」が変わっていく時期です。「命」がもう一度、生き直す大切な時期です。
ある意味で、「不登校は思春期のはじまり」と考えてもいいのではないかと僕は思い始めました。
今までさせなかった気持ち、心を表現できる、表現せざるを得ない、心のしくみが変わっていくという意味で、不登校になったら思春期が始まった、と考えられるように思います。
2つの統計から見る不登校の現状ときっかけ・原因【2019年8月更新】
思春期がない子がたくさんいる、という話を聞きました。
思春期とは
思春期を思春期らしく、大人になるために、命が大きくなって、心が豊かになるためには、誰かの助けが必要です。とにかくまず、思春期という大切な時期がどんな意味を持っているのか、知ることからはじめてください。
このあいだ、十五歳になるうちの娘が文句を言った。「いまじゃ、わたしの年頃って、とっても 難しいのよ。何が正しいことなのか、何がいいことなのか、パパもママも言うことがころころ変わ るし、ほかの人はみんな、自分が何をしているのかわかっちゃいない。だからわたし、何もかも自 分で考えなくちゃならないの」 (『SQ 魂の知能指数』ダナー ゾーハー, イアン マーシャル p.268)
詳しくはコチラのブログで
思春期の前に。
大脳辺縁系は大脳新皮質の内側にあり、扁桃核がある「モロ情動」の部分で、新皮質は「情動にツッコミをいれる」部分でした。この二つのバランスが「情動への反応」を決めます。
9歳という年齢で、大脳辺縁系はとりあえず「完成」する。
18歳という年齢で、新皮質の情動に関わる部分もとりあえず「完成」する。
と考えてください。
あらゆる生物のなかで、人間の脳が完成するまでにいちばん長い時間を要する。脳は部位ごと にちがうスピードで発達するが、思春期を迎えると脳全体が「刈り込み」の非常に活発な時期に はいる。情動の安定に関係する部分は、脳のなかでもとくに成熟に時間がかかる。感覚野は幼児 期の早い段階で成熟し、大脳辺縁系は思春期までに成熟するが、前頭前野―情動を制御し、理解し、適切な反応を決定する部分の成熟は思春期後期、十六歳から十八歳ぐらいまでかかるのだ。
幼児期から十代を通じて習慣的にくりかえされる情動のコントロールは、それ自体が脳の回路 形成に影響を与える。つまり、幼年期は情動の傾向を決定的に左右する大切な時期なのだ。幼年期に学習した習慣は脳の神経構造を形づくる基礎的なシナプス結合に組み込まれるため、あとで 変更するのは難しい。情動をコントロールするうえで前頭前野がはたす役割の重要性に照らして みると、この部分のシナプス形成に長い時間がかかるということは、幼年期のさまざまな経験が 情動の統制回路に永久的な結合として組み込まれていくということだ。幼児にとって、自分の欲 求に親がどう対応するか、精神的苦痛を処理し衝動をコントロールする方法を学習する機会がど う与えられるか、共感をどう教えられるか、などは重要な経験となる。同時に、無視や虐待、自分のことしか考えない親や無関心な親との心の行きちがい、厳しすぎるしつけなども、子供の情 動回路に傷跡を残す。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.344)
思春期は思春期で、やることがあります。
9歳までに作られた「情動マネジメント」を、思春期には「社会にでて応用」することが求められるのです。自分の人生の選択をする、といった出来事もでてきます。「自分」というものを大人の社会に飛び込ませる時期に「性格に悩」んでいたら、、、「幼児期の宿題を思春期にもちこした」と考えられます。
かつて、15歳で元服、という文化が日本にはありました。大人として認められる年齢です。
現代では、9歳でも15歳でも同じような「学校」という環境で暮らしているために、どこかおかしくなっているような気がします。
まだまだ小学生。思春期はいつ来るのかな?来るのかな?笑
実話。
「オトノネにきて、感じたことは?」と、
オトノネに通うかどうかまだ迷っている子に聞いた。
「えっと、本がいっぱいある」
「他には?」
「教室が普通の家」
「笑他には?」
「自由」
「爆他には?」
以下略。
マルバツをつけてほしいのか?笑
一問一答型の、富山県の高校入試の問題形式がそのまま思考パタンになったかのような、穴埋めしたら済むような、やりとり。
いやいや、ちょっと・・・君は、人間だよ?
「いま答えてくれたことは、他の人でも感じられたよね。君じゃなかったら感じられないことは?」
こうして、やっと僕が聞きたかった返事を聞くことができた。
中学生である。
小学生ではない。
だが、小学生だ。
どうしてこのようなやりとりになるのか。
質問の仕方が悪かった、ということもあるかもしれない。
「自分を出す」恐れがあったのかもしれない。
「自分の感情を出す」経験がなかったのかもしれない。
お母さんのこの子への関わり方を見ると、合点がつく。
この子は、感情を殺して生きている。
感情を殺さなければ、親子関係を結べない、と、この子は判断したのだ。
実際、そうなのだろうと、僕は感じた。
「自分殺し」がごくごく当たり前の世界。
政治がどうこう、という話は、まず、親子関係が支配的でないかどうか、子どもの自由を、個人としての人格をどれだけ認めているのか。選挙以前の、基本的人権の問題である。
多くのお母さん、お父さんは、ごくごく、当たり前に、子どもの心に傷を追わせ、子供の魂を毎日毎日、黙らせ、殴り殺している。
当の本人は、親は、それに気がついていないことが、あまりにも、多い。
自由という、権利がある。
だがその権利を使えないなら、守らないなら、ないのと同然だ。
この子は、無事に、思春期を迎えらるだろうか。
何かのきっかけで、親を離れた時に、どうか、自由に生きてほしいとおもう。
この子は、「学習」する以前に、苦しんでいる。
勉強をしたくないのに、無理やり、やらされている。
でないと、親子関係を生き残れないと、判断したのだ。
子どもは、親に気を使っている。
思春期前までは!
カモン思春期!
けどそれも、自然に来るわけではない。
思春期を迎えられるように、きちんとなんとか育てていかないと、、、、人格も個性も薄っぺらくなる。
こういうお母さん、お父さんが、大人の宿題にも取り組めるのが、オトノネです。
子供だけにやらせるなんて、不公平だ!笑
【第一思春期】子どものゴールデンタイム2歳のイヤイヤ期(ウハウハ期)の心の状態は高校生が溺れている「課題の海」と似ているような気がした。【性格の強み】
いやー、保育士すごい。 休日だけ働いている保育所、二人の兄弟がいる。 一人は2才、一人は4才、あ、もう5歳か。 で、春から一緒にいるのだけれど、、2歳の子が、なんと、お盆に入ってからイヤイヤ期に入ったらいい。 実際、「イヤ」とか「ジブンデ」というレパートリーを使う。 この時期は高次認知的情動、くやしとか、悲しいとか、嫉妬とか、見栄とか、複雑な感情と付き合い始めるとき。 新皮質と辺縁系が合わさって社会的に有効な感情と、その調整法学んでいく時期。 【学ぶチカラ】情動・感情が現状打破するチカラになる話。また、情動・感情で他人に騙される話。高次認知的情動とは? 今までと違った行動パタンになりお母さんは「!?」となるらしいが。 保育中に僕がみた姿は、まさに、意欲の塊だった。 けど今までのすなおーな感じとは違っているところで、戸惑う僕。 そんな僕の目の前で、保育士さんはふつーに、自然に関わり合いをもっている。 関わり合う中で、「いや、これはやってほしい」ということをちゃんと伝えてそれを受け取ってもらえるのは、信頼関係というか、保育士がその子の心を尊重しているからだと。 子どもとうまくいかない!とおもったら? 伝えることは伝えるという凛とした態度は変わることがない。 ただ、その子が「いろいろと頭の中があっぷあっぷ状態!」であることを理解して、一つずつ、気落ちを抱きしめている。 という感じ。 ーーー
ーーーー 「ジブンデ」といって、今までやったことのなかった「ぞうきんがけ」をやった! (モンテッソーリ教育の本で「お手伝いをしてもらう」というのがあったが、これはまさに、2歳の意欲を日常生活で発揮してもらうということだろう。よくできているなぁ) 笑顔で、どこで覚えたか、ちゃんと足を踏ん張って、ぞうきんをかけていく。くねりながら! こんな意欲あるイヤイヤ期! イヤイヤ期じゃなくて、ウハウハ期だぜ! 「おれっちったらあれもできるぜ!これもできるぜ!こんなに、感じてるんだぜ!」 ウハウハヾ(*´∀`*)ノ 思えば、はいはいができるようになったり、両手が自由になった時も、ウハウハしながらいろんな挑戦をした。 この時期はこの時期なりの身体能力、言語能力を駆使して、意欲的に、学んでいくんだろう。 (今まで貯めて来た、日常生活の所作を大人に混じってやることが、よいのかも?しれない。ある意味で、ままごとは、最強の拡散的あそびのようにおもう) 収束的あそびと拡散的あそび。 「イヤ」というとき、何か他のものに心が奪われているような。 「イヤ」という言葉は、「今頭の中それどころじゃないんだけどどうしたらいい?」みたいな響きに、僕は感じた。 ーーーー
ーーー 自称進学高校で課題に潰されている子がいる。それを、とある子が「課題の海で溺れている」と表現してくれた。 毎日毎日押し寄せる、頭がいっぱいになって身動きがとれなくなる「課題の海」で溺れている高校生は「イヤ」ともいえず、「今それどころじゃないんだけどどうしたらいい?」という気持ちでいるかもしれない。 その心を理解して、一つ一つ、気持ちを抱きしめてあげるだけでも、その子は落ち着いて、持ち前の意欲を発揮できるようになるかもしれない。 ー
ーー 寝起きが悪い、2歳児。お昼寝の後に、おやつを食べることになっている(食べることになっている)。 だがしかし、 布団から出ても座り込んで、ぼけーっとしている。 どうしたものかな。。。と思っていると、保育士さんが「お散歩する?」と聞く。 その子は、頷いた! 大人になっても、いろんな気持ちがあるけど、体が付いていかないこともある。 そういう時に、どうしたらいいか、この子は今、学んでいるのかもしれない。 最後に。 ウハウハ期は、1年くらいしたら終わるそうだ。 高次認知的情動との付き合いができるようになり、次は、抽象語を学ぶ、内言を鍛えると同時に他者の心に近づいていく怒涛の時期に入る。 ウハウハ期に入ってから、彼の言葉の使い方がはっきり変わった。 どしどし、言葉を使ってくる。 けど「ドウシテ」 とか「ナニ」とは聞かない。 今は、それどころではないのだ! それは、3歳以降、次の段階の課題であるようです。 あせらず、たゆまず、心ゆくまで。 自分にあった発達段階、自分にあった発達の道を、ひとりひとりが鼻歌を歌いながら進んでいってほしいとおもいます。 そんなおとのねさんでした。 −ーー
ーーーー 追記:『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.127に書かれていた、人生をより幸せなものにする7つの気質 「性格の強み」ともいわれているもの。 やりぬく力 自制心 意欲 社会的知性 感謝の気持ち オプティミズム 好奇心 こうした一つ一つの心を、幼児期に、ちゃんとみてあげたいと思う。 そして思春期まで!ずっと!笑 ーー
ーーー ちなみにその子は全然おやつを食べなかった。今日、朝マックをしてきたというから、全然、お腹が空いていないのだ。 散漫なあそび、散漫な食事 ーー
ーー ツイッターで、2歳のウハウハ期のツイートをみつけて、この記事を共有させてもらいました。 (おとのねさんがコメントにリンクを貼ったのを、みていただきました) 返事をいただけて、なんだか、とてもうれしくなりました。 SNSの使い方、研究中です!
お子さんが物を投げる 2歳児は 『自分なりに有効』と感じた手段を 『自分の思いを通したい』時に 採用します DVDは 新たな手段を発見したきっかけになったのでしょう 子どもが どんな思いを持っているか? ここを観ていくのが 対応のポイントです →続く https://t.co/OcoUgwOIVI
— 園長🌟きよみ🌟ぷちコラム (@petit_column) August 18, 2019
9歳で「子ども時代」は終わり?
子どもはどのように「発達」するかを知ることは、子どもの「命」を大切にする技術につながります。
オトノネ では「10歳」から「くん」「ちゃん」ではなく「さん」と呼ぶようにしています。
もう大人だからです。
もし不利な条件下にある子供がよりよい人生を送れるように手助けがしたいなら、プラスに働く介入の機会を連続体の中でできるだけ多く探す必要がある。しかしそれでもなお、6歳児未満の幼い時期、もっといえば3歳未満の時期こそが、子供のは発達を促す絶好のチャンスでもあり、危機が潜む期間でもあるのだ。これには確固たるエビデンスがある。ごく幼い時期の子供の脳は最も柔らかく、ほかのどの時期よりも環境からの影響を受けやすい。のちに様々な能力を支えることになる神経系の基盤が形成の途上にあるからだ。この基盤が関わる能力には、読み書き計算や比較、推測を扱う知的能力だけでなく、学校の内外で生きていくための心の習慣や力、ものの味方まで含まれる。幼い頃に環境から受けた影響は増幅される。よい環境にいれば先々の発達にとって非常によく、悪い環境にいれば非常に悪い影響が出る。(『私たちは子どもに何ができるのかー非認知能力を育み、格差に挑むー』ポール・タフp.45)
発達心理学に関する記事はこちらからお読みください。
記事がありすぎるのでぜひ、気になる方は探してみてください笑
発達段階を捉えられないと、ハイハイを歩き始めた子に「走れ」というような無邪気な状況が生まれてしまいます。
ひとつひとつの情動には成長に応じた発現期があることを忘れて、大人は子供に年齢 不相応の成熟を期待する誤りを犯しやすい。たとえば四歳の子供が何かを過大に自慢したとき、 親はそれをたしなめるかもしれないが、謙遜のもとになる自意識は五歳あたりを過ぎないと生じない。 (『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.367)
詳しくは図書館で。
10歳までの積み重ね、中学校に入ってから変えるのは、めちゃくちゃ辛いことです。
だからオトノネ は本当に、本気で、3つのポリシーをお伝えしています。
- 成長を止めているものをなくす。
- 準備ができたら、集中的に取り組む。
- 作戦をはっきりさせる。
小学校に入るまでが大切
小学校低学年も大切
小学校の成績は幼児期の育ち方で決まる。
思春期とは何か
思春期とは何か。
「学校の先生や親の機嫌をとるのが嫌になってやめる」時期である。
「借り物の〈わたし〉を脱ぎ捨てながら、本当の〈わたし〉を探しにいく」時期である。
思春期は、第二次性徴と連動してやってくることが多い。
思春期がいつやってくるかわからない。
死ぬまで、思春期を迎えられない人もいる。
生き方は、いろいろだ。
よくわからないことが多い。
現代の、日本の思春期がどういうものか、研究費を大学にわたせないほど、日本はお金がない。
オトノネも、お金がない。
さぁ、どうする!?
【1歳半と16歳の挑戦】新しい自分を受け入れるための「間」【思春期の攻撃性と快楽追求】
攻撃的な思春期?
思春期がテーマのおとのねさんが食いついた言葉。
心理学のたいせつなテーマである人間の攻撃性を、一 つは発達の道すじのなかで強くなりやすい段階があるという視点で、もう一つには、それを過剰に強めるかもしれない社会や教育のあり方や具体的な人間関係な どをとらえる視点で、分析していくことが求められます。
発達段階でいうなら、この 二歳に加えて一四歳ころを 中心とする思春期は、攻撃 性のあらわれやすいときと して、今、注目されるとこ ろとなっています。 攻撃性といわれることの 側にも、子どもの願いや訴えがあるのです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.107)
自分の「命」の使い方がわからない、「心」が擦り切れている、そんな状況で「ひと」は攻撃的になるようです。
とても当たり前ですね。
「問題行動」といわれているものもこうした「心」が擦り切れている状態であって、大人がそれを禁止したり無理解にやめさせたりすれば、ただの暴力になります。
2歳の思春期
保母さんがご存じのように、よく噛む子どももいれば、まったく噛まない子どももいます。噛むことが癖になってしまうような子どもも、なかにはいることでしょう。あまりにもよく噛むのは、何が原因なのでしょうか。一人ひとりを観察してみると、いくつかの特徴が見えてきます。まず、いつも心がイライラしているということです。そのために、ちょっとしたことで友だちに噛みついてしまうのでしょう。さらに、いっけん落ち着きのない姿のうらに、強い心の過敏性を感じることがあります。周囲の状況に敏感なのです。友だちをよく噛むので、保母さんは未然に防ぐために、担当を決めて近くに寄り添うことがあります。ところが、そんな他者の心を感じると、いっそう噛んでしまうことがあるのです。噛む子どもたちの多くは、他の子どもたちに比べて、過敏で緊張しやすい心 をもっているのです。
たとえば、梅雨空が続いて、戸外での活動ができないと、ついつい何かを作ったり、書いたりするような活動ばかりになってしまいます。一生懸命積んでいた積木が崩れてしまったときの、子どものイライラした姿を思い起こしてみましょう。手の活動は、子どもに とって、達成感がもちやすいことと裏腹に、うまくできないでイライラしてしまうような、 心の緊張をひきおこす要因にもなります。それはけっして手の活動が悪いということではありません。どんな活動でも、「できた―できない」を感じたり、おとなの関わり方に過剰な緊張を感じたら、同じことになるでしょう。そんなとき、心のなかのストレスを発散する手段として、友だちを噛むことが無意識に出てしまいやすいのです。子どもの攻撃性 は、このようなストレスが背景になりやすいといわれています。だからこそ、子どもの二 四時間を視野に入れて、もう少し緊張が和らぎ、ストレスから解放されるような生活づくりを、たいせつにしたいものです。
さらに、よく噛む子どもたちは、生活のなかで自分でできることの幅が狭かったり、得 意な遊びの幅が狭かったりします。そんな自分の「貧しさ」が、上記のようなイライラや過敏性と関連があるのかもしれません。自分でできる喜びや自分の存在感を実感できる「しごと」などを広げてあげたいものです。自分の価値を先生も友だちも感じてくれているという受容感のなかで、噛むことは自然に減っていくことが多いようです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.107)
第二次思春期
ふともうと、2歳の思春期を迎えられずに第二次思春期に突入している子もいるんじゃないだろうか。。。
さらに身体的な成熟が早まっているこのご時世、子どもは大変な状況にある。
快楽追求思考の「外向性」が高ければ、なおさらのこと。
【ビッグファイブ】『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ
9歳を超えて、第二次思春期となれば、「性格」が強く固定されている。
「そのようにして生きてきた私」が強く出てくる。
「心」ができてしまっている。
つまるところ、攻撃的な、暴力的な振る舞いに対して「答え」を自分でだしてしまっている。
そこで「ギャング」になる子もいる。
そんな「問題行動」だけを見ていたら、せっかくの思春期を無駄に過ごしてしまうだろう。
大人が伝えられることはないのか?
子どもの願いとはなんなのか?
大人は、何を願う?
「攻撃性」は「刺激の追求」という姿でも現れてくるとおもう。
「イライラ」に対する「心」の対処方法。
訳も分からぬエネルギーの塊が押し寄せてくる思春期。
そこで「能動的な身体の使用」ができないとしたらなおさら。
どうしろっていうの!!!???
と子どもは叫んでいるかもしれない。
いろいろな「あそび」を考えるかもしれない。
「ゲーム」や「ひきこもり」もその葛藤の姿を現していいるかもしれない。
(悪いものではない)
そうして自分が葛藤している姿を「言葉」にして現して客観視するような感情知性を小さい頃から育てていくことが、(つまり「心」を大切にすることが)思春期を乗り越えて「命」を強くする、「心」を鍛えていくためには大切なのだろう。
自分らしさを求めて
自分の心をマネージする1歳半
自我の生まれるとき、それが一歳半です。
一歳半ころは、自分で選び自分で決めるという主体、すなわち本当の「自分」がつくられていくときです。しかし、この「自分」は自己主張するだけの自分ではあ りません。一歳半ころは、相手の意図と自分の意図を頭のなかで並べて葛藤しつつ、相手を受け入れていくことが少しずつできるようになるときなのです。しかも、自分の失敗を受けとめて、自分で自分を修正しようとするような力が生まれていくのです。自分で自分を直そうとすることは、一歳児にとっては大きな葛藤であり、心のエネルギーを使うこと なのです。この葛藤がイライラの背景になっているのかもしれません。
このような自分で考え、自分で決め、自分を立ち直らせ、自分を修正しようとする考える主体を自我といいます。自我は、自分ではないもの、つまり他者との葛藤のなかで、たくましくつくられていくものです。この土台のうえに幼児期の発達が展開していくことでしょう。いわば一歳半は、自己決定のためのたいせつな土台づくりのときなのです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.107)
とある保育園で、一歳のクラスが、本当にひどい状態だったことを思い出した。
子どもたちはポロポロないていた。
大人たちは、歌をうたっていた。
第二次思春期の子どもは、どうしているんだろう。
そんな「ひと」のための放課後の保健室☆オトノネです。
積極的自己責任の基礎
思春期でよくある、自己内省。
「なんだ、この命は?」というような問いかけがある。
今でも思い出すのだが、富山東高校の生徒が「好きなことがわからない」「やりたいことが」といっていたこと。
勉強、勉強でその先がないこと、自分の「命」を感じられないことへの不安を表しているように僕はおもう。
喜びの感情、葛藤を乗り越えて成長してきた自分、「よい自分」を見てくれる仲間(オトナを含む)。新しい自分を受け入れられる「間」を、大事にしたい。
子どもたちをみていると、このおとなにとって都合のいい存在として期待されている姿に、ずいぶん出会います。おとなにとって都合のいい存在が、子ども本人にとってうれしい存在であるとは限らないでしょう。やがて自分なりの価値観で、自分や世界を見つめようとする年齢になって、「本当の自分らしさ」がわからなくて苦しむことになってしまいます。「自分らしさを探す」ことに成功できればよいのですが、そのむずかしさが思春期の子どもたちを少なからず苦しめています。障害をもっている子どもたちの思春期には、いっそうこの「自分探し」が求められるのです。
新しい自分に出会えたことを、素直に喜べる自分ができているでしょうか。雨上がりの青空の色に、ほっと安心させられている自分がいる。そんな、自分の感じ方に、ふと心がとまって、「わりかしいいじゃん」と自分につぶやける。自分の感じ方や考え方のなかに、「自分らしさ」を発見できるのは、幸せな気持ちになれるときです。そんな「自分らしさ」を感じ、「自分らしく」生きればよいという気持ちになれれば、子どもは、おとなの期待などにもたじろがず、自分の可能性を花開かせることができるでしょう。
保育や教育は、子どもの内なる自然、つまり自らの可能性に気づかせ、それを学ばせるしごとでもあります。子どもが自らの可能性に心をときめかせながら、自らをつくり上げていくことへのささやかだが、価値のある指導であり援助なのではないでしょうか。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.219)
中2で病気になる理由
チラシを配りながら小学生に「音楽好き?」と聞いて見た。「好き」と答えてくれる。隣の子が「音楽の時間始まる前リコーダーの音がうるさいんだよ!」みんな音楽が好きなのだ。「中学校に入った音楽の授業減るんだよー」と話したら「えーやだー」と素直な返事。中学生になると、いきなり勉強勉強になる。中2になると急に力のない顔が教室の中に増えるという先生の話を聞いたことがあるが、きっと「ああ、これが学校なのか」ということを悟るのが中学二年生なのかもしれない。高校はどこにいっても同じだ。荒れているかどうかくらい調べておきたいが、勉強はどこにいっても、つまらないだろう。中学校よりも、つまらないだろう。音楽しよう!
【幼児期と学童期の思春期の違い】「堕落」のプロセスと「お守り」のプロセス
堕落のプロセス
「堕落」という言葉を初めて目にして新鮮に感じたのは坂口安吾の「堕落論」を読んだ時だった。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)
というか「堕落論」は昔々、塾の先生から教えてもらった文章だ。
僕の人生もいろんな堕落を経て、今も堕落をしながら新しいものを取り入れている最中だ。
といいながら堕ちきれない人間の弱さも感じるのだけれど・・・
人が変わる、そのプロセスは長く、紆余曲折としている。
そんな時間をゆっくりと、自分に許して成長を、変化を待ち構えている。
「お守り」のプロセス
ところで白石正久さんの本を読んでいると、「励まし」や「人の心」といったものが人を変化させる、成長させる、という言葉と出会うことが多い。
心が通じる、感じる喜び。
励まされて、できないことにも挑戦しようとする心。
そういうものもある。
それは「堕落」という捨てる(禊ぐ・身削ぐ)イメージとは対極的な、もらうイメージをもっている。
オトノネではそれを「お守り」と言っている。
僕自身がどんな「お守り」をもらってきただろう。
僕がもらった「お守り」の力をオトノネに来てくれている人にも伝えているつもりなのだが。
白石正久さんの本を読んで、そうした「もらうもの」、プラスのもの、「しあわせ」なもの、「心」を支えてくれるもの、「命」を強めてくれるものへのアプローチは、僕には苦手なのだなと思う節がある。
僕の知り合いに「皿回しのおじさん」がいる。
いつもにこにこしている。
うまく人を「のせる」。
乗らなくても気にしない。
超サニーブレインの持ち主だ。
遺伝的な気質、そうして育って来た「心」のあり方が、人それぞれの「命」へのアプローチをつくる。どれも完璧ではない。それぞれ、自分なりの道しか歩めない。
もっと自然に考えてみよう。
「あっちにいってみたいな」と子供が思ったとする。
けど、言ったことがなくて怖い。
そんなとき、「一緒に行く?」と言ってくれるだけで、それは「お守り」になる。
オトノネは、「一緒に」を僕自身が実践する場所でもある。
「どこにもいきたくない」というなら、「それもいいね」といいたい。
お守りは「心」を守るものであり、「命」を強くするものでもある。
「お守り」を受け取ってもらうために、まず「堕落」から始めなければならない人が多いのは事実。(魔界で生き残るための鎧だとか武器だとかを捨てないと、お守りのつもりが呪いになってしまいかねない)
子ども時代とは、「堕落」せずに「お守り」をもらい続けられる、そして変化して成長していける特別な時代なのかもしれない。「排除する人」ではなく「信頼できる人」をたくさん増やしていける時期なのかもしれない。
そう考えると、学童期の思春期は、幼児期の思春期とは違って、「堕落」のプロセスを伴う、大変なイベントのように僕はおもう。もちろんどちらのプロセスでも、「ひと」は「葛藤」するのだけれど。
【思春期】の課題は【幼少期】とは違うというお話。
何を学ぶか。
お母さんの役割と先生の役割をわけるなら、こういうことだろう。
「ふつうはチェスの問題といったら本を読むの。楽しいし、知的なおもしろさもあるから。でもそれはスキルに直結しない。ほんとうにうまくなりたいなら、自分の試合をみてどこが悪いのか考えなければ」心理療法と少し似ている、とスピーゲルはいう。自分がした間違い、しつづけているまちがい、を見直し、その根本にある理由を探る。そして最良のセラピストのように、スピーゲルも生徒がせまく困難な道をなんとか通り抜けるのを助けようとする。まちがいに対する責任を自覚させ、気に病んだり打ちのめされたりすることなくまちがいから学べるように仕向ける。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.179)
これは、いわゆる「最貧困地域」の学校の生徒たちを「最富裕層」の学校の生徒たちを打ち負かすほどのチャスのプレーヤーに育てたアメリカの先生、スピーゲルさんの言葉。
メンターであり、具体的に牙を鍛える方法を教えてくれる人であり、一緒にやってくれる人である。
もう一人の自分として、向き合ってくれる人。
オトノネが求めているのは、「自己対話」の経験を、子供との対話に応用できる先生だ。
そしてそのレベルが、辺縁系レベルではなく、認知が深く関わる前頭葉、新皮質の働きとつながっている先生だ。
(新皮質だけの先生もいる。辺縁系だけの先生もいる。両方備えている先生が子供にはありがたい)
ーーーーーー
思春期までで大切なことと、思春期以降で、中学生以降で大切なことは少し違ってくる。
思春期に到達するこのころの子どもたちに有効な動機付けは毛づくろいに似たスタイルのケアではなく、全く別の気遣いである。おそらくミドル・スクールの年頃の生徒をスピーゲルのチェスチームの選手と同じくらい熱狂的に集中させ、練習させるには、誰かが意外なほど自分のことを真剣に受け止めてくれるというー自分の能力を信じてくれて、もっと改善できるからして見なさいと持ちかけてくれるというー体験が必要なのだ。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.186)
部活の先生が、この役割を担えるか。
担任の先生が、この役割を担えるか。
人的資源に困っているなら、オトノネにきてくれてもいい。
ーーーーーーー
「できないんだね、大丈夫!」というのが、お母さんで、
「できないんだね、どこが悪かった?」と聞くのがお父さんとすっぱり分けてしまったら不都合だが。
使っている脳のバランスはとても大事。
それを二人で分担してもいい。
教えることに真剣に取り組み、生徒たちを心から気遣っているのは明らかだが、例えば生徒が試合に負けて落ち込んでいても、そばに寄っていって慰めたりはしない。それはジョン・カルヴィンの役割だ。がる便はIS318の副校長で、やはり監督としてよくトーナメントに同行するのだが、スピーゲルにいわせると彼のほうが「心の知能指数」が高いから、そういうことに向いているらしい。「暖かい関係を築いた子供だってたくさんいるんだから」。あるトーナメントのとき、スピーゲルは私に言った。「だけど教師としてのわたしの仕事は、鏡になることだと思う。盤上での行動について話し合い、考える手助けをすること。子どもにとっては大事なことなの。大変な力を注いで何かをしようとするとき、大人が上からでなく、一緒になって真剣に見つめる。そういう機会は決して多くないけれど、私の経験からすうrと、子供たちはほんとうにそれを必要としている。でもそれは愛しているとか、母親のように育てるのとは違う。わたしはそういうタイプの人間ではないから」(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.185)
お母さんにはお母さんの、オトノネにはオトノネの役割がある。
ーーーーー
思春期以降、中学生、高校生がプロと出会うことは大切だとおもう。
その道の、進んでいく道の、プロのことだ。
「こんな先生になりたい」「こんな大人になりたい」「この人はすごい」と思える大人と出会うことが思春期には大切なようにおもえる。
「イヤ、俺が一番すごいぜ!」という人もいるだろうけど笑
子どもたちは、モデルを探している。
(実のところ、彼ら自身が自分の人生で実験するしかないのだが)
自分の可能性を極限まで高めてくれる人を求めている。
言葉ひとつひとつにチカラがやどっている「大人」が必要だ。
対数関数がわかるよりも大きな感動を生み出す言葉を生み出せるような。
そんな「大人」がどこにいるだろう?
奴隷のように働く大人が、子どもに何を教えられるだろうか?
学ぶべき人がいない、学ぶべき人に出会うことが難しくなった世の中。
スーパーサラリーマンが、たくさんいてくれていい。
夢や希望、ヴィジョンが見られるような仕組みが、教育の中にない、と僕は感じる。
対話、伝え合い、本音の付き合いが、子どもと大人の間で、どれだけ交わされているだろうか。
語り合いのない一方的な言語環境で育つ子どもの心が心配だ。
「テストの点数」に動機付けされた子どもと、
「自分がこれから関わる、つくっていく、社会のイメージ」に動機付けされた子どもがいたら、
どっちの子がより魅力的に、輝いて見えるだろう。
今目の前で、高岡高校の生徒がタピオカを飲みながらインスタをいじりながら、青春している。
笑顔が一番、高岡高校!
ストレスマネージメントに明け暮れる毎日なんだろうか(ただ青春しているだけだろうけど)。
何を学ぶか。
今、何に投資をするべきか。
人は皆、投資家であり、株主であり、資本家だ。
学歴のために投資する?
それも、人生。
心さえあれば、大丈夫。
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仕事の種類が増えた。
選択肢がたくさんある。
自分の心に従って、いろんな大人に出会ってみてほしい。
大人と出会って、その時に動いた自分の心を感じてほしい。ちゃんと。
心を大事に。
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この不安な暗い世の中を進むための、ともし火を分けてあげられるようなオトナを、オトノネは求めています。
心をもった大人をオトノネは求めています。
ハードワーク「させられている」大人はではなく
ハートワーク「している」大人を求めています。
海士町のこの記事、自治体が生まれ変わった感じが、わかりやすい・・・ここ数年で、またかなり進んだみたいですね。 https://t.co/O6FFyI5TN3
— otononeオトノネさん (@otononesan) August 19, 2019
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この記事長いなーと思った人、すみません。もう少し書きます。
思春期には思春期(つまり抽象概念の理解、メタ認知「自己対話」が十分にできるようになった時期)の課題があって、それ以前に幼少期の課題を終わらせていくのが大切だということ。
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アメリカでチェスの「チャンピョン」になったジェームズという中学生が「じゃぁ、その非認知能力をつかってお勉強したら、お勉強の成績もよくなるんじゃない?」ということで、半年後のテストに向けて猛勉強を始めた話。
やり抜く力はある。だって、富裕層の「お勉強超できる」子どもを抜いてチャンピョンになるくらいだから。
「半年もあるんだから、彼がのめりこんで勉強するならなんだって教えられる、でしょ?」と、スピーゲルは言った。が
地図上でアフリカはアジアがどこにあるかわからない。ヨーロッパの国名をひとつも挙げることができない。読解のドリルをやっていると、「幼児」や「公共の」や「有益な」といった単語を見たこともないという。九月になることには放課後や週末を使って一度に何時間も勉強したが、スピーゲルは望みを失いかけていた。しかし自分の気持ちは沈む一方でも、ジェームズのやる気が削がないように努めた。ジェームズが落胆して掃除や三角法は自分には無理だというと、それだってチェスみたいなものよ、とスピーゲルは明るく答えた。(略)SHSATは、詰め込みの勉強では対処できないように作られている。SATとおなじように、受験者が何年もかけて積み重ねてきた知識やスキルが反映される。そのうちの多くは子ども時代を通じて家族や周囲の文化から気づかぬうちに吸収されたものだ。だが、もしジェームズが7年生ではなく3年生のころから試験勉強を始めていたらどうだっただろう?数学や読解や一般的な知識を取得するのに、チェスに費やしてきたのと同じだけのエネルギーを注ぎ、おなじだけの助けを得られていたら?全ての強化を、スピーゲルやプリレルテンスキーとおなじくらい創意と熱意にあふれる教師に教わっていたら?ジェームズはまちがいなくSHSATを制しただろう。全国中学選手権を制したのと同じように。もちろん、ジェームズについて過去形で語るのは間違っている。だいたい、彼はまだたったの12歳なのだ。結局、スタイヴェサント高校には入らなかったが、これから4年間の高校生活が待っている。6ヶ月でスピーゲルが望んだような優等生に変わるのは無理だったかもしれない。だが、4年あればどうだろう?ジェームズのように並外れた才能のある生徒ならなんだってできるのではないかー学業での成功を、盤上での成功とおなじくらい魅力あるものに見せてくれる教師さえいれば。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.224)
富裕層の中でも乳児期、幼少期の課題(例えば自己コントロール)を抑圧や依存によってとりあえず保留した人もいる。
どのように進化していくか。ひとりひとり違うから、おもしろい。
塾選びは先生選び。
学校選びは、環境選び。
お互いにないものを補うために、社会がある。
オトノネはみなさんの一部になれるでしょうか?
【何のために子どもを育てるか】第二次思春期に社会化しないまま会社人になった人が孤独のスパイラルを生む可能性について。
挑戦が、第一次の時は生活レベルのイベントでよかった。雑巾掛けをしたり、食器を拭いたり、洗ったり。それで満たされていた。が、第二次は、日常生活ではみつけにくい。放蕩。野宿、見知らぬコミュ二ティーへの参加など新しい挑戦がより適切な刺激となりそうだ。(おかげでSNSを使ってスマホで世界と友達をつくる子などもいたりする。日本ではなく・・・それも選択だ。日本の人から逃げるな!日本人とコミュニケーションしろというのはおかしいだろう。人は論理で生きてはいない。人は感情で生きている)。社会化するにはちょうどいいい、メタ認知(私を私がみること)のスキルがつまり前頭葉の発達がさらに進むこの時期が、子どもの思春期のちょっと前に訪れる。この思春期を乗り越えるために、思春期前の発達課題に取り組むといいかもしれない。
それは、社会人と出会うことだ。
(学校の先生は学校にいるかぎり、学校人であって、社会人ではありません。学校の外で出会ってください。)
会社人ではなく。
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思春期の課題に、学校は取り組んでいない。
「勝手にやってくれ」だ。
(思春期という大切な課題を手伝ってくれる大人が近くにいてくれる子どもはしあわせだ)
受験生の課題には取り組ませる。
「やらなきゃ罰する」だ。
会社は子どもが思春期だろうがなんだろうが容赦なく仕事をふってくる。
子育て中のお母さんではなく、会社人としてみる。残業。薄給。
そんなものだ。
日本はそういう国だ。
お母さんは、学校の都合、会社の都合でふりまわされる。
振り回されている。
子育ては学校の都合でするのではない。
子育ては会社の都合でするのではない。
何のための子育てだろう。
誰のための子育てだろう。
かつては村が生きるために、年寄りが知恵を、成人したものが肉体労働を、そういうサイクルを回すために子どもは役割を担っていた。子どもがいなければ、若者がいなければ、「食べていけなかった」。自分が年寄りになった時に、村を守るのは若者であり、子どもだった。子どもは、命の緒だ。子育てにはかつて、ミッションがあった。
現代、
子どもは何のために生まれるんだろう?
子どもがいなくても会社に働いていればお金で生きていける。
現代、
親が生きるために、子どもは必要ない。
では?
しあわせ以外のなんのために、子どもは生まれてくるんだろう?
(「うちの子が優秀だということを世間に知らしめるため」に子育てをお母さんに「させている」DVパパは置いておこう)
「お母さん、笑ってよ」
最後に子どもと笑ったのは、いつですか。
学校から、会社から、世の中から離れて、魂の姿で、親子で心から笑いあったのは、いつですか。
ーーーーー
今日も生徒と話していて、小学生とか小さい時は、イベントに生きたいからと行って、お母さんも外にでていたが、子どもが大きくなって、お母さんは外にいくこともなくなった、という。
子どもは、お母さんを助けようとしている。
それに気がつかずに、子どもを助けようとしているお母さんがいる。
お母さん!
【思春期】は2歳のウハウハ期(イヤイヤ期)と似ている気がする。
2歳のウハウハ期(イヤイヤ期)は高次認知的情動がぶわっと現れて「いやもう、ほんと、困ってるんだぜ!いろんなこと感じてるんだぜ!あれもこれもやりたいんだぜ!」という時期だった。
子どものゴールデンタイム2歳のイヤイヤ期(ウハウハ期)の心の状態は高校生が溺れている「課題の海」と似ているような気がした。
2歳のウハウハ期は第一次反抗期と呼ばれる。
で、思春期は、第二次反抗期と呼ばれる。
第二回、ウハウハ期!
どちらも、「大きく成長する時期」だ!!!
キャッキャ(*´∀`) (´∀`*)ウフフ
ヤンチャしゃうんじゃない???w大草原wwwwww卍
思春期の脳を科学すると次のようになる。
テンプル大学の心理学者ローレンス・スタインバーグの分析によると、思春期の頃の生活に強い影響を与える神経系はふたつあるのだが、このふたつの発達がきちんと連動していないところに問題がある。一方は刺激処理システムと呼ばれるもので、これによって人はより興奮を求め、感情的に反応し、周囲の情報に敏感になる(ティーンエイジャーだったことのある人なら見に覚えがあるはずだ)。もう一方は認知制御システムと呼ばれるもので、あらゆる衝動を規制する。十代が危険な時期であると言われてきたのは、刺激処理システムが思春期の早い段階で最大まで発達するのに対し、認知制御システムの方が二十代になるまで成熟しきらないためだ、とスタインバーグはいう。このため数年の間は行動を抑えてくれる制御システムが不備なままで狂ったように刺激を処理していくしかない。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.55)
この状態を、第二の「ウハウハ期」(世にいうイヤイヤ期)と言ってもいいだろう。
思春期のは性ホルモンが盛大に出てくる。性ホルモンはいわば心を体ごと変化させる「感情の嵐」とおもったらいい。
攻撃的になったり、ビクビクしたり、もちろん、性に目覚めたり。
その子の気質、それまでの情動調整能力が試される時期、新しく生まれ変わる時期といえる。
一方で、
実行機能が他の認知的スキルよりもはるかに柔軟であり、「前頭前皮質は脳の他の部位よりも外からの刺激に敏感で、思春期や成人早期になっても柔軟性を保っている。だからもし環境を改善して実行機能を高めることができれば、その子どもの将来は劇的に改善される可能性がある」(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.55)
前頭前皮質が柔軟性をもっているというのは、まだ脳の回路を成熟させていない、という意味で、行ってしまえば「まだまだ試行錯誤していいよー」という状態だ。
ーーーー
実行機能とは?
この不安な時代を臨機応変に、しなやかに生きやすくする機能のことらしい。
実行機能のうち最も重要なのは、認知における柔軟性と自制の二つだ。認知の柔軟性は、ある問題に対しこれまでとはべつの解決をみつける能力、既存の枠組みにとらわれずに考える能力、なじみのない状況に対処する能力である認知の自制は本能あるいは習慣による反応を抑制し、代わりにもっと効果の高い行動をとる能力である。スピゲールが生徒にさせているのは、このふたつのスキルを高める訓練だ。(略)もう一つスピゲールは目先の利益を追いたい誘惑に抗うことも教える。なぜならそうした指し手は往往にして後のトラブルにつながるからだ。「チェスを教えるのは、施行に伴う習慣を身につけさせるのとおなじことよ」。ある朝私が教室に行くと、スピーゲルはそう説明した。「自分の間違いをどうr買いするか、思考の過程をもっとよく自覚するにはどうしたらいか。それを教えるってこと」(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.177)
ーーーーー
前頭葉は、情動のラスボスである扁桃体を制御する場所。
性ホルモンでウハウハの扁桃体。
やる気バッチリ、もしくは興奮状態。
いろんな刺激に反応しちゃうぜ!敏感に感じちゃうぜ!
<丶`∀´>ウェーハッハッハ
これがひきこもるなどの陰の感情を働かせることもあれば、怒りのような陽の感情を出すこともある。
この時、前頭葉は、、、「え?あ、ちょっとまって。え?扁桃体が最近ウハウハなんだって?」って感じ。
ウハウハ期(イヤイヤ期)と同様に、新しい自我が生まれるこの時は、大変な時期です。
本人も大変です。こうした状況を『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』では「こうした若者は恐るべきシステムに捕らえられており、堪え難い事態の中でさまざまな決断を強いられている(p.63)」とか「強烈な神経システムの働きに打ちのめされている(p.63)」と表現されている箇所がある。
かつて、共同体がこの困難を乗り越える仕組みを共有していた。
受験勉強ってなんだろう。思春期との関係。塾の先生の役割。バリ島の儀式。
それが今は、ない。というか、弱い。
高校生活で多くの子供が、ウハウハを抑圧され、イヤイヤだけが残るような感じ、ではないか。
(多くの高校では、部活や体育祭・文化祭でウハウハを解放してあげているようだ、が)
子どもが「堪え難い事態」にあることを理解して、受け止めてあげることは、2歳の時と変わりがない。
とおもうのは、僕だけだろうか。
(だから、思春期になると睡眠時間が増えるんだね!そういえば二歳児でウハウハ期のあの子も、なんだかんだすぐ寝るようになったのは気のせいだろうか)
2歳の時は、今まで甘えていたお母さんから大きく自立する時期だった。
思春期のこれは、小さなコミュニティーの価値観を抜け出して、別の世界に飛び出す、さらに大きな自立の時期になる。
2歳、そして思春期のキーワードは「挑戦」。
挑戦。
挑戦!
(大人になると「え?ちょっとそれ、大丈夫?」と不安要素を計算したがる前頭葉が弱腰になこの時期だからこそ!大風呂敷ひろげようぜ!)
こんなキラキラした、輝ける時期にいる若者時代に、僕は輝けていただろうか。
きっと、この時代に輝いた人は、大人になってもちゃんと輝けるんだろうな。
僕はまだ、思春期!笑
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で、この時期が、今、危険らしい。
どういうことかというと、、、スマホでのコミュニケーションが「染み付いてしまう」みたいな。
まだ研究中らしいけどね!
人間関係に苦しむ時期、ここで大人は、スマホというテクノロジーと、子どもをどう関わらせるか。
そんなケースの子を見たことがある(いわゆるスマホにどっぷり浸かっている子)。
スマホと発達するか、人間と発達していくのを選ぶか、という感じだろうか。
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子どもの気質を変わるポイントは、思春期が始まる前、メタ認知ができてからだというお話。
中学生の大切さ
『オプティミストはなぜ成功するのか』を読んでデイヴィッド・レヴィンが最初に目を惹かれたのは、効果的な時期についてのセリグマンの主張だった。悲観主義の子供を楽観主義者に変えるのに最適な時期は「思春期よりまえ、しかしメタ認知ができる(思考についての思考ができる)程度には成長したころ」であるという。いいかえれば、ちょうど子供たちがKIPPのミドル・スクールにやってくるころだ。性格について話すこと、性格について考えること、性格を評価すること。これらは全てメタ認知のプロセスである。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.148)
思春期になってから、自分を語り直すこともある、
だけど思春期は思春期で、子ども(の脳)は忙しいからね笑
気質(性格の強み)を大きく分けて次の7つにまとめた人がいる。
- やりぬく力(グリッド)
- 自制心
- 意欲
- 社会的知性
- 感謝の気持ち
- オプティミズム
- 好奇心
これはもちろん幼少期から育っていく気質だけど、メタ認知ができてきた中学生(女の子なら小学校高学年あたりから?)なら、メタ認知を使ったアプローチができる。発達段階が変われば、違ったコミュニケーション方法ができる。
ルールを決める
ケスラーによれば、ルールをつくると前頭前皮質を味方につけることができる。つまり、本能に突き動かされて反射的に働く脳の部位に対抗できる。ルールは意志力と同じものではない、とケスラーは指摘する。ルールはメタ認知を利用した意志力の代用品である。ルールを作ることによって、揚げ物を食べたいという欲求とその欲求に抵抗する堅い決意とのあいだに起こる厄介な葛藤を回避できる。ケスラーの説明によれば、ルールとは「構造であり、魅力的な刺激との対決に向けた準備となるもの、わたしたちの関心をほかへ逸らすものである」。ルールはやがて欲求と同じくらい反射的に働くようになる。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.151)
認知行動療法
ネガティブだったり自滅的だったりする思考や解釈を自覚して、あえてよりよい見方を口に出す。
自分で自分に認知行動療法を適用する。
「この年齢の子供たちはみんな、毎日のように小さな爆発を起こしています。ミドル・スクールの年ごろっていうのは人生で最悪の時期です。それを乗り切れるのは、自分に向かってこういえる子供たちなんですよ。”こんなちいさなことは乗り越えられる。私は大丈夫。あしたは新しい1日なのだから”」(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.148)
メタ認知、自己意識の強化の時代。中学生。
大人になってからの収入の差を生む変数は十代のころの身長の高さであった。16歳という形成期の年齢において比較的背が高かった少年は、社交的で運動の得意な若者になり、これが恒久的に彼らをやり手になるように調整したようである。この時点を過ぎると、たとえ後期の急成長気ごろまでに背が高くなっても、何の違いもうまなかった。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.244)
思春期は、社会に出て自分を作り始めるデフォルトをつくる。
この時代にどれだけの人と出会い、どのような言葉を聞き、どのような学びをしてきたか。
どのように自分と関わったかが、大切であるようだ。
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思春期のあなたへ
いろんな人との出会いが、素敵な出会いが、自分をもっと大きく成長させてくれる出会いが、これから君を待っている。
女性のメタ認知と【思春期】とライフステージ。ビジネスの原理と子育ての原理が乖離している世界で
生理が早く来た女性は自分の女性性を受け入れるのが難しい。
という研究結果があると教えてくれた人がいる。
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メタ認知とはいわゆる内言が発達しながら自分のことをどんどん客体化していく認知の仕方。
外の世界ではなくて自分自身の認知だから「メタ」がつく。
内言というのは「よーしっ!虫捕まえてこよ!」みたいな思ったことをそのまま口に出す外言から、おもったことを頭の中でつぶやく言語処理の仕方をいう。内言は内省的で、外言は会話的。「よーしっ!虫捕まえてこよ!」はその中間くらい。(僕などもたまに「よーしっ!虫捕まえてこよ!」みたいなことをいう。それはそれで一つの言語形式であっていいのだが)
で、女性には生長期と第二次性徴とがある。
思春期の期間が長いというべきか、つぎつぎと変化が訪れるというべきか、今は違いをはっきりと説明できないが。
女性には女性の生き方があった。
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女性の性が秘め事になったり、男性の原理の後ろに隠されてしまったり、していないか。
女性には女性の時間がある。発達の過程がある。(勉強の面でおいては女性の方が言語的には優位でありまた第二次性徴までは女性の方が背が高かったりする。ADHDという現象がでてくるのはたいてい男性)
学校は競争原理で動く。男性。ビジネスの原理。
女性は放課後の帰り道、女子会を開きながら女性を花開かせる。
ビジネスの原理で女性が弱まっていないか。
男性は女性の、子育ての原理が弱すぎて残酷になっていないか。
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男女平等とかいいながら女性も男性もとにかく仕事をしてもらいたい政策の下で、女性が女性らしくライフステージを、発達の段階を迎えられるようなしくみが日本は弱い。子育て前、子育て中、子育て後。これだけでも男性はずーっと同じだが女性は変わってしまう。
子育て中のお母さんを手助けする社会的な装置が弱い。
会社はビジネスの原理。子育てか、キャリアかという謎の選択肢は、つまり女性をどうとらえるかというアイデンティティーの問題だ。
平和というものは、バランスの上に成り立つ。
どちらかにかたよっていないか。子どもに聞いたら教えてくれる。
帰って来たら、ぎゅっとだきしめて、「ただいま」というだけで、お母さんの女性も、子どものしあわせも、よろこぶんじゃないかなとおもう。
しあわせほころぶ。
しあわせよろこぶ。
そんな子育てを、オトノネは応援します。
大人にとっても大切な「ファンタジー」と思春期。
子どもの発達の教科書を見るとよく出てくる
感覚遊び→象徴遊び→集団遊び(ルール遊び)という流れがある。
手を使って、体を使って遊ぶ→ごっこ遊び、なりきり遊び→鬼ごっこ、ドッジボール
で、これは
現実世界(物質世界・ここにあるもの)→精神世界(ファンタジー・ここにないもの)→人間世界(社会)
という発達とみてもいい。
心理学では「夢見」が大切にされている。
その人の本当の思い、心が現れる「夢見」の世界。
象徴遊び、ファンタジーの世界は、子どもが4歳くらいになったら現れる、とされている。
これはある意味で、幼児期の思春期だ。
「今の自分ではないもの」に思いを馳せ、なりきる。
やってみる。
子どもは、思春期がくるまでに、人間に必要な経験を一通り経験する。
いわゆる「思春期」は、0才から18歳までの間の長いスパンでみた「ファンタジー期」だとおもってもいい。
だから、「死ぬまで」というもっと長いスパンでみれば、誰もが「今ここにない」ファンタジー、思春期の状態だということができる。
「ブラック」な企業に務めているお母さんとよく出会うおとのねさん。
お母さんたちが現実世界で暮らしているのは仕方がないと思う反面、どこかで、社会の中で、ファンタジーを広げられる、遊べる場所が増えればいいなぁとおもう。
ーーーーー
FBで保育士の人が書いたとある投稿に、「お母さんたちが「私も資格とって保育園で働きたい!」と思える素敵な場所がたくさんできるとうれしいですね。」と僕がコメントした。
すると、「それ素敵です。実はわたしが関わらせていただいたお母さんが2名保育士免許取りました。素敵な母さん達です。ちなみに(笑)クラスに女の子が8人いましたが、3人は今保育士しています。」という返事があった。
いつだって夢をみられる。
だから、睡眠時間をとろうかな笑
思春期が一つのテーマになっているオトノネさんの気にしていること。
この記事を要約すると。。。「身体的な生殖機能」の発達が早まり、「精神的な社会機能」の発達が遅れていることを意味しています。
【中学生】思春期前か、思春期中か。とにかく最後の子ども時代。何をして過ごすか。
中学生時代は、思春期前の、最後の黄金期。
思春期でいろいろなイベントが発生するまえ、
こういう大切な時期でもある。
『オプティミストはなぜ成功するのか』を読んでデイヴィッド・レヴィンが最初に目を惹かれたのは、効果的な時期についてのセリグマンの主張だった。悲観主義の子供を楽観主義者に変えるのに最適な時期は「思春期よりまえ、しかしメタ認知ができる(思考についての思考ができる)程度には成長したころ」であるという。いいかえれば、ちょうど子供たちがKIPPのミドル・スクールにやってくるころだ。性格について話すこと、性格について考えること、性格を評価すること。これらは全てメタ認知のプロセスである。(『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』p.148)
思春期と言っていいのか、どうか。
中学生。
思春期と被っている場合が多い気がする。
僕は思春期らしい思春期がなんなのかよくわからない。
ただ、2歳か3才の第一次ウハウハ期がすぎてから、15歳くらいの第二次ウハウハ期(思春期)までに、子供がどれだけ成長するか。
1歳、2歳、4歳、8歳、という規則的な数字の増加が次に目指す数は16だ。
これを目安にしていいかもしれない。(僕は16才のときにイベントが発生した)
2歳をすぎてから4才ころまでに他者の状況を理解できるまで認知能力が育つ。
4歳から8歳にかけては、内言(思考)のためにたくさんの時間をかける。
8歳からはルールとか複雑なことがわかるようになったり、もうプロの人間。
で、思春期を迎えるまでに、自己認識、メタ認知、自分を見つめる自分、自己対話の能力が育っていること。
これが、16歳までに終わらせておく課題だ。
自己対話能力を使って、思春期を乗り越える。
自己対話能力がない子どもが、まだベビーカーにいれられて運ばれ続ける子どもが、高校生になってもたくさんいる。
高校受験をする時期、もしくは中学生活とは、自己対話能力、自己認識能力を高める時期であるといえる。
受験ばかりを目にかけてこっちに目をかけてやれているか。
まぁ、子供は勝手に育つのだけれど。
メタ認知、自己意識の強化の時代。中学生。
大人になってからの収入の差を生む変数は十代のころの身長の高さであった。16歳という形成期の年齢において比較的背が高かった少年は、社交的で運動の得意な若者になり、これが恒久的に彼らをやり手になるように調整したようである。この時点を過ぎると、たとえ後期の急成長気ごろまでに背が高くなっても、何の違いもうまなかった。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.244)
中学校時代はこちこちマインドセットの子供にとっては、ターニングポイントだ。ドゥエックは、小学校ではこひこちのマインドセットの子供としなやかマインドセットの子どもにそれほど能力差はないものの、中学校に入るとこちこちマインドセットの子供の成績がすぐに落ちはじめ、それから数年で下がり続けることを発見した。ドゥエックの研究対象になった子供たちは、「僕はバカだから」とか「私は数学がダメだから」というように、成績の低下についてこちこちマインドセット特有の言い訳をすることが多かった。注目すべきは、子どもたちが自分の能力を普遍の性質のように語っている点だ。まるで、「私の目は茶色い」と言っているようなものだ(他にも、「先生の教え方がへたくそだから」とか「数学の教師はデブでいやなやつ」など、人のせいにする子どももいた)。(略)しなやかなマインドセットを教えた生徒には、脳は筋肉と同じで練習すれば鍛えられると伝えた。(略)なかには劇的な変化を遂げた生徒もいた。『「やればできる!」の研究』のなかで、ドゥエックはこう述べている。「ある日、研究に参加してくれる生徒たちにしなやかマインドセットについて説明していると、突如、ジミーという、どうにも無気力で投げやりな生徒が目に涙を浮かべてこう言ったのだ。”ぼくはバカだと決まったわけじゃないんだね”。その日を境にしてジミーはがらりと変わった。夜遅くまで宿題と格闘するなんて、生まれて初めてのことだった。そうやってきちんと早めに宿題を提出するようになったので、返されてから間違いを見直すこともできるようになり、ジミーはめざましい進歩を遂げていった。(『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』p.224)
ーーーーー
中学生は、子ども時代の最後の時期。
やり残したことはないだろうか?
これまでに関わってきた人にはどんな人がいるだろうか?
これまでどんな言葉をかけてもらいながら大きくなっただろうか?
どれだけ人の心、自分の心を感じられるようになっただろうか?
高校入試で大変な時期かもしれない。
が、中学3年生の夏、一度家族みんなで旅にでたり、ゆっくり今を感じてみたり、そうやって中3の夏という時期を大切にしてみたらどうなるだろうか。
高校入試が終わって、高校にいってから、その日のことを思い出して、元気になれたりしないだろうか。
自分は、大丈夫だと。
—–
6ヶ月、1歳、2才、4才、8歳、16歳、どの時期にも終わりはある。
この時期が来るまでに、心置きなく、心ゆくまで、その時に大切な関わり合いがある、と僕は思っている。
自然さが失われていくこの時代、子育てのあるがままの姿、「自然」を求めることが大変な時代になってしまった。
なぁ。
ラノベやアニメの主人公が高校生なのはなぜか
思春期をめぐる冒険―心理療法と村上春樹の世界
この本の中では「なぜ中年男性が買春をするのか」という問いだった。
その答えは「思春期をうまく終えられなかった人が、女子高生を買う」ということ。
つまり、思春期ができなかった、高校生を終えられていない男の人が、買春をするのだという。
子供の時にとまった「心」は、大人になっても、きちんとお世話をしてあげなかったら、止まったままだ。ということだろうか。
「命」には衝動がある。
「心」はそれを実現するためにある。
「命」の衝動は輝いている。
もし「心」が病んでしまっていたら、「心」は「命」を傷つける刃物になる。
薬物依存、毒親、権威的な人間、すぐ近くにいる、魔王たち。
同じ「動き」「望み」という言葉でも、「命」が発しているものなのか、健全な「心」が発しているものなのか、それとも、病んでいる「心」が発しているのか。
よくよく感じないといけないとおもう。
ライトノベルは、ある意味で、闇の世界を拡大するもの、なのかもしれない。
そしてそれが日本の「文化」であり、世界中の「アニメファン」が共感する、人間性だとおもうと、ラノベは、とてもおもしろい現象だ。
僕自身が高校時代を闇の中で過ごした。
大人になって、今になって、あそびはじめようとしている。
思春期が一つのテーマになっているオトノネさんの気にしていること。
動物にも思春期ってあるんだろうか…
発情期はあるよね。
「物思いにふける犬」とかシュールだな。
いいね。絵になる。
人の思春期っていつまで?
死ぬまで思春期!
ドキドキ!
おとのねさんも思春期なんでしょうか。
すったもんだしたり、いろんな人に出会ったり、なんだかんだやったり。挑戦したり。
いつまでも思春期でありたいとおもっています。
だけど、早く大人になりたいともおもっています。
最近、ブログ書きまくっているせいか、問い合わせが増えています。
思春期の先輩として、いろんな子どもたちに出会えたらとおもいます。
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