- 幼児期と児童期の違い。空想の友達。思春期の境目。
- 小学校に入るまでが大切
- 9歳で「子ども時代」は終わり?
- 乳児期から幼児期へ
- 幼児期から児童期へ
- 【2歳】ウハウハ期にウハウハできないから思春期を迎えられない?という仮説。
- 子どもの「遊び」は魔法の授業
- 8歳、9歳:ファンタジーと現実のあいだ『子どもの心的世界のゆらぎと発達』
- 【思春期・自立とは】「ひと」の自己受容と自立のプロセス
- 【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
- 【子どもに学ぶお城の壊し方】生きるとは○○○○○をつくること【批判的精神とは】
- 学童期に大切な「学び」を保障する場所。
- 思いやりと「心の理論」の関係『子どものあそびは魔法の授業』
- 内言が生まれる9歳
幼児期と児童期の違い。空想の友達。思春期の境目。
言語のもう一つのあり方が社会的言語である。そこで大切な言語の昨日は、情報を伝達する機能である。「かつて・あそこ」で見聞きしたことを、「いま・ここ」で他者に伝えるという機能を果たすのがスヤ快適言語である。小浜は、子供が言語のエロス的な側面だけではなく社会的な側面を我が物にしていく過程において、子どもは〈死〉を自覚し、〈話〉の虚構性をシリそれと同時に「虚構性としての自己」を認識するようになるのではないかと主張している。幼稚園から帰宅した時、母親が「幼稚園でお友達と何をして遊んだの?」と尋ねるとしよう。子どもは、この問いに答えられるようになるとき、「いま・ここ」にいる母親から心を遊離させ母親というエロス的存在が不在であった空間=幼稚園に飛ばし、そこでの先生や友達との関係的な出来事を、「かつて・あそこ」(幼稚園)にも「いま・ここ」(家庭)にもない空虚性に他ならない〈自己〉の視点から語るのである。幼稚園には母親はいなかった(母親の不在)。いま母親のいるここに、幼稚園の友達や先生はいない(かつて経験を共有しあった他者の不在)。「いま・ここ」と「かつて・あそこ」をつないでくれる他者は存在しない。子どもは、このとき、語る人になることの孤独、あるいは語ることの空虚性に直面しているのである。小浜によれば、子どもがエロス的言語を離れた社会的言語を獲得するようになることは、子どもがエロス的な関係性から遊離した空虚な〈自己〉を手に入れ、そこから〈話〉人として〈話〉を構成するようになることを意味しているのである。かくして、幼児期は終わり児童期が始まる。そして、「いま・ここ」の“自己”と「かつて・あそこ」の“自己”とを関係づけようとする記憶とよばれる“自己”の物語が同時に開始されるというわけである。以上の小浜による幼児期と児童期の理論的な区別は、いくつかの観察や実験データからも裏打ちすることができる。ピアジュの初期の研究「自動の世界観」によれば、5〜7歳の子どもたちはよく死を問題にするが、5〜6歳以下の子どもたちはそのような質問はおこっていないという。このようなデータも、幼児期と児童期との違いの一つを死の自覚におく小浜の考え方を支持しているように思われる。ただし、今日の子どもたちはピアジュの調査した半世紀前に比べ、もうすこし早く児童期に足を踏み入れている用ではあるが。たとえば、小浜の娘は4〜5歳頃に夜寝床に入る前に遠くを見る目つきをし、そして目に涙をいっぱい浮かべ「ねえ、ママ、あたしが死んだら川に捨ててね」と語ったり、「ねえ、ママ、あたしが大人になったら、ママはおばあさんになって、それから死んじゃうんでしょう」と語ったという。筆者の二人の息子の観察データもほぼこのような時期に死の自覚が始まることを示している。「死」を自覚し始めることは、小浜によれば、空虚性としての〈話〉を獲得し始めることと密接に関連している。(『ことばが誕生するとき』p.78)
児童期以降の子供は、自分の体験や思考を、母親や父親がすべて共有してくれているわけではないことを知る。エロス的関係性から遊離し空虚性である〈話〉の世界に足を踏み入れることによって、子どもは、他者と分かち合うことのできないもの・他者には理解してもらうことのできないものがあるのだということに、直面させられる。かつて、子どもと世界を分かち合っていた全能の他者(お母さん(オトノネさん注))は今やいない。「いま・ここ」に不在なのは、幼児期に世界がまだ分かち合われていた時の“自己”でありその相手であった“他者”である。子どもは、そのような“自己”や“他者”を「いま・ここ」に呼び戻そうとする。かくして、“もう一人の私”や“秘密の友達”が子どもの“私的なもの”を共有してくれる“他者”として出現することになる。“私的なもの”とは、人が現実の他者と共有することができないものである。もしそれが誰かと共有されれば、それは“共同的なもの”あるいは“エロス的なもの”になる。(『ことばが誕生するとき』p.82)
いつも近くにいた人がいなくなって、不安になったり嬉しくなったこと、いろんなことを受け止めてもらいながら育ってきた子どもが、多くの時間を一人で過ごすようになる。現在なら首がすわったら保育所で多くの時間を過ごす、といえども、やはりお母さんに身体的にも、感情的にもべったりする時期が幼児期だ。そのべったりを超えて、自立していく段階が、児童期であり、学童期だとおもえる。 お母さんから離れるために、「虚構を語る言葉」を使って、ここにない世界と言葉で関わりながら、少しずつ、子どもは自分でなんとかすることを学ぶ。これを手伝うために、社会的言語、〈話〉をすることが大切なのだとおもえる。
小学校に入るまでが大切
小学校低学年も大切
小学校の成績は幼児期の育ち方で決まる。
環境と遺伝と自己(もしくは意志・人格)
意志(人格)は遺伝子にとっては環境と同じみたいだ。 とふとおもう。 意志(自己)が遺伝子のお世話をする、とおもったら、人は誰でも、自分という子どもを育てているのかもしれない。 遺伝とか、エピジェネティクスとか、人体のしくみを学ぶと、「私」というものは「遺伝子」にとっては他者のようなものだと、おもえた。 遺伝子が僕らの人格(意思決定装置)をつくる反面、私たちも民主的に、遺伝子と関わることができる。 ーーーーーーー こういうファンタジー、虚構、物語の世界を書き下したらおもしろいかも。 「生きるための生物」 「生きるための数学」 生きるためシリーズ。 ーーーーーー 神経細胞の発火の仕方は遺伝子レベルで決まっているんだろうか。 神経細胞もDNAをもっているのだから、脳のはたらきを遺伝子で説明することだってできるだろう(まだ詳しく分かっていないらしい)。 脳は情報を記憶するのと同様に、環境に応答するやり方も記憶している。 脳に対して、遺伝子と意志は対等だろうか。 人間づきあいを変えるのも大変かもしれないが、遺伝子づきあいを変えていくこと、再構成していくことも、大変だとおもう。 遺伝子にも自分にも「OK!」を出したら、もうすこし生きやすくなるんだろうか。 とふとおもう。 ーーーーーー そんなことを考えたりしないでも生きられるのだろうに。 ねぇ、デオキシリボ核酸くん。
9歳で「子ども時代」は終わり?
子どもはどのように「発達」するかを知ることは、子どもの「命」を大切にする技術につながります。 オトノネ では「10歳」から「くん」「ちゃん」ではなく「さん」と呼ぶようにしています。 もう大人だからです。
もし不利な条件下にある子供がよりよい人生を送れるように手助けがしたいなら、プラスに働く介入の機会を連続体の中でできるだけ多く探す必要がある。しかしそれでもなお、6歳児未満の幼い時期、もっといえば3歳未満の時期こそが、子供のは発達を促す絶好のチャンスでもあり、危機が潜む期間でもあるのだ。これには確固たるエビデンスがある。ごく幼い時期の子供の脳は最も柔らかく、ほかのどの時期よりも環境からの影響を受けやすい。のちに様々な能力を支えることになる神経系の基盤が形成の途上にあるからだ。この基盤が関わる能力には、読み書き計算や比較、推測を扱う知的能力だけでなく、学校の内外で生きていくための心の習慣や力、ものの味方まで含まれる。幼い頃に環境から受けた影響は増幅される。よい環境にいれば先々の発達にとって非常によく、悪い環境にいれば非常に悪い影響が出る。(『私たちは子どもに何ができるのかー非認知能力を育み、格差に挑むー』ポール・タフp.45)
発達段階を捉えられないと、ハイハイを歩き始めた子に「走れ」というような無邪気な状況が生まれてしまいます。
ひとつひとつの情動には成長に応じた発現期があることを忘れて、大人は子供に年齢 不相応の成熟を期待する誤りを犯しやすい。たとえば四歳の子供が何かを過大に自慢したとき、 親はそれをたしなめるかもしれないが、謙遜のもとになる自意識は五歳あたりを過ぎないと生じない。 (『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.367)
乳児期から幼児期へ
いたずら心で立ち上がる
10ヶ月の子。実は今日初めてはいはいをしているのをみた。「泣くか抱っこ」だけしかみていなかったのに、ハイハイをしていた。しかも膝をつかないハイハイ!すげー!ずっと抱っこしていないと泣きじゃくっていたのに。。。 新人さんだから、この場に慣れてきて、本領発揮したのかもしれない。もうつかまり立ちしてもいい頃だという。で、なんとその子が、その後、つかまり立ちをした! 書類の入った棚を開けてみようとして、立ち上がった! いたずらしようとして、立ち上がった!
指差しを初めてから初語がでるまでのコミュニケーション
今日は図書館に行った。まだ2歳にならない子。 慣れない場所のせいか、「う!」とか「あ!」を連発。 キョロキョロしながら、ウロウロしながら、冒険をしている。 僕が見せたいものがあった。 「あっちに…」と声に出しても、伝わらない。振り向かず、反応もない。 マイワールドの中にいるようだ! そこでふと思いついて、近くに行って、本人の視覚に入る場所で、「指差し」をしてみた。 そしたらそっちを向いた!(とりあえずこっちの意図に気が付いてくれた!) そう、その子は、よく指差しを使う子だった。。。 ここで学んだこと。 子ども自身が使っているコミュニケーション方法は、そのまま大人から子どもへのコミュニケーション方法として、使えるかもしれない。だから、どんな方法で何かを伝えているか、よくよくみていなくちゃなぁとおもう。
魔の2歳児は、大人がつくる?
実は、この第一次反抗期というものは、どこか、乳児期に「あまやかした」ツケを払う時期のように思えるのは気のせいだろうか。 言葉を喋る前から、立ち上がってから、離乳がはじまる時から、そう、離乳がはじまる時から、少しずつ子どもを自立させていく気持ち、「一人でできるようになるよ」「だいじょうぶだよ」「ダメなのはダメ。おまちがい。」そういった赤ん坊としてではない、人間としてのやりとりを続けていくことで、第一次反抗期はなくなる(弱まる?)のではないかとおもう。実際、どうなんだろう? 気になる。 第一次反抗期とは、大人の言い分であって、子どもはいつでも自己主張をしていると僕はおもうのだが。 問いからはじめる発達心理学
さらに1歳半になると子どもは、自分のやることは自分で決め、自分でやろうとするようになる。そして大人が手や口を出そうものなら「ジブンデ」「◯◯チャンガ!」と怒りをあらわにしたり、「イヤ!」と泣き叫んだりする、例えばドアを自分で開けたがり、親がうっかりドアを開けようものならひっくり返って怒る。お気に入りの決まった服しか着ない。自分で靴を履こうとして、できなくてかんしゃくを起こすなどは、この時期の子供によく見られる行動である。これらの自己主張や犯行は、きゃっ大敵自己意識の獲得によって子供が「他者とは異なる意志をもつ私」を強く意識するようになったために生じる。 さりとて大人の側は、子どもの行動が自身や他者に害を与えるときは静止する必要があるし、食事や挨拶の仕方などの社会的マナーもおしえなければならない。その結果、子どもとしつけようとする大人の間では、衝突や葛藤が生じる。特に2歳代は子供の扱いが難しくなる時期であり、日本では「第一次反抗期」、英語圏では“terrible two”(恐るべき二歳)と呼ばれている、 しかし「反抗期」というのは大人側からの呼称であり、子ども側に立てば「自己主張期」、すなわち、自分で自分のやりたいことを選び、自分の思いを他社に伝え、実現するという、自己主張の練習をしている時期と呼ぶ方が的確であろう。この時期に、親をはじめとする他者との衝突を経験する中で、子どもは自己主張の仕方や社会の規則や規範への従順さをみにつけていくのである。(『問いからはじめる発達心理学』p.79)。
子供の観察力すげー
子どもは大人をよくみている。大人を選んでいる。誰に訴えたらいいか、誰に甘えたらいいか、わかっている、という話だ。誰でもいいわけではない、赤ちゃんだって、選んでいる。選べる。というお話。 1歳半だったっけ、この子・・・ 最近、ふすまを破くという遊びをやりだした。 もう一人の先生から、それは「おまちがい!」だと言われる。 また破ろうとする。 「おまちがい!」と厳しめにいわれる。 また破ろうとする。 「おまちがい!」と厳しくいわれる。 泣く。 こっち(僕の方)にくる。 泣く。 しばらく泣いたら目をカッ!と開けてこっちを見る。 僕は何もしてあげない。 泣く。 しばらく泣いたらまた目をカッ!と開けてこっちをまた見る。 僕は何もしてあげない。 しばらく泣いたらまたまた目をカッ!と開けてこっちをまた見る。 なんてやつだ。なんて観察力だ。とおもいながら、僕は何もしてげない。 「あ、こいつあかん、泣いてもかまってくれないわ」と思ったのか、泣くのをやめてけろっとした顔になった。この表情の落差に僕はいつも驚かされる。泣いたとおもって、次の瞬間ケロリとしている。
別の子のものをとって、泣かせてしまう・・・
え?ダメですか? こんな質問。 小さな子ども、1歳くらいの子が、人のものをがばっととってしまう。他の子を泣かせてしまう。 「とったものを取り上げてたらこっちが泣くし、そのあっまだとあっちが泣くし、どうしたら??」 というお話。 こんな時よく「言葉で説明してあげて」ということがあるが、 1歳では「無理!」です!言葉でいわれてもわかんないよ・・・ 大切なことは子どもが「泣く」ことを、大人がどう考えるか。どう反応するか。 小さい子によくあるのが、「渡されて」「渡し返す」という動作。 これって何?子どもは不思議だ。 ものを取る。ものを誰かに渡す。 大人が自然にやっていることを、子どもは真似ている。 興味を持ったものだから、近寄って、手に取ってみた。 遊んでいる子どもの真似をしたかった。 子どもの心を考えると、きっとそういうことだとおもう。 この時期まだ「これは誰々のもの」という考えなんてない!(なんとなく「あ、これダメなのね」みたいなことは感じるだろうけど) この時子どもにとって大切なことは、「他の人のもの」をめぐるルールではなく、世界の広さを感じながら、立ち上がって、歩いて、掴んで、みて、真似ながら、お母さんの元に帰って休む経験だ。 こういう子がいたらどうだろう?他の子のものをとってくる。そして別の子がその子のものをとったら、ポカリと手を出す。うーん。私は生まれてきてからポカリと手を出すことを、子どもが覚えたとしか思えない。基本、何も知らず、真似をするのが子どもだから。 この時期にものを取られて子どもが泣いていたら、その子はその時「興味があったものが突然なくなった」という経験を味わっている。悲しみを味わっている。悲しい時、好きだったものが戻って来ないとき、感情をどうしたらいいだろう?思いっきり泣いたらいい。泣いて忘れて、ケロッとして、また別のものを探す。大人だってそうでしょ? 泣いている子がいたら、泣かせてあげたらいい。もしその子がお母さんの方を向いて「どうしたらいいの?」と目線を投げかけてきたら、そっと抱きしめてあげたらいい。その子は感情の整理の仕方を学んでいる。 ものをとった子は、ただ興味があるからものを「取ってきた」だけ。 借りるとか、貸すとか、奪うとか、奪われるとか、考えられない。 お母さんはそれをみて、向こうでは別の子が泣いていて、「うちの子が泣かせた」とおもって、慌てていないだろうか。他の大人の目を気にして、子どもに「ダメ!」といっていいんだろうか?その声かけ、行動は、子どもにどんな影響を与えるだろう? お母さんが「ダメでしょ人のもの!」と、子どもが理解できない、「まだその段階でない」関わり方をした時、子どもは混乱する。「え?なんで?何が起きたの?」お母さんが子どもを不安にさせてしまうかもしれない。この時期子どもはお母さんが別の子にやさしくしていると嫉妬をする。「え?なんで他の子?」と思っているかもしれない笑 この時期、子どもは1人遊びだ。 この時は基本、子どもの世界には「もの」と「お母さん」しかないと考えてみてほしい。 泣くのも遊びのうち。泣かせるのも遊びのうち。 思いやりを持って、遊ばせてあげたらどうか。 「よろこび」と「かなしみ」の感情を揺れ動きながら、子どもは成長している。 「よろこび」も「かなしみ」も、子どもといっしょに抱きしめてあげたら、きっとお母さんの真似をして、他の子の気持ちもわかる子になる、と、私は信じている。
あかちゃんと何してあそぶ?
language developmentと調べると、いろんな情報がでてくる。 英語を母国語とする人たちの言語発達を知りたかったから。 そこで「5ー7ヶ月ではblowing raspberriesであそんであげるといいよ!」と書いてあった。 youtubeで探すとたくさんあった。
つまるところ、赤ちゃんはこの時期、いろいろな母音と子音、その組み合わせを試している。音で遊んでいる。遊びながら、音を組み合わせて出せるようになる。子どものあそびに大人も入る、反応してあげて、あかちゃんが「そんな楽しい音がでるんだー」といって見習ってくれるだろう。 お母さんが子どもと遊んで楽しむ雰囲気が、日本にあるだろうか。 今でも思い出す。韓国で小さなあかちゃんがくると、大人たちが赤ちゃんを使っていろんな音を出す。お腹に口を当てて「ぶー」という音をだしたり。触れて、音をだして、目をやって、笑いかける。 ーーー 生まれてから手を握ったり足を握ったり、広げたり、自分の体のことを知る期間がある。 3ヶ月になると喉の形態が変わって、今度は音を出す練習を始める。 この頃に、「鏡」になる人がいてくれる子は、しあわせだろう。
出産を目の前にして
お母さんがきてくれた。 小学生の間までは子どもに勉強教えられるようになりたい、とか、まぁいろいろな思いがあって、来てくれた。 面白い話がたくさん出た。 子どもにげっぷをさせるのにトントンしたほうがいいのか、しなくていいのか。 子供が泣いたら、そのつどお乳をあげたらいいのか、定期的にあげるのか。 「先生によって言うことがちがうんです!」 情報はたくさんあって、判断ができなくて困っているお母さん。 私は基準は赤ちゃんでいいとおもっている。 トントンするようになったのがいつからかわからないが、トントンしなくても赤ちゃんは死なない。 というか、ミルクを飲んだ後に撫でたり、背中を叩いてスキンシップをしながら、自然と出るものではないのか。ぐらいにおもっている。(トントンはいつからマニュアル化されたのか気になる) げっぷを「ださせる」ことをしなくても・・・ 苦しそうだったり、なんかげっぷしたそうだなとおもったら、助けてあげるくらいの気持ちでいい。 「させないといけない」とおもわず! お乳は別に定期的にあげても、泣くたびにあげても赤ちゃんは死なない。 定期的にあげたら「いや、自分、今、のみたくないんですけど」という時もあるだろう。 その後で急にお腹が空いてもお乳がもらえないと「やっべー、飲めるとき飲んどかな」とおもうかもしれない。(おもうんだろうか) おんなじようなことでいえば、オムツも定期的に変えるのか、という話。 欲求があるから泣く。 新生児の発達の課題は、とにかく「生き残る」ことであって、定期的にあげようがなく旅にあげようが、生きていればいい。お母さんが、赤ちゃんと「どうかかわりたいか」を大切にしてほしい。 心配なのは定期的にあげようとして泣く子をそのままにするお母さんの気持ち!子供も「なんで近くにいるのに、こないの!?」と拗ねるかもしれない。(拗ねるんだろうか) ミルクを飲みすぎて成人病になることもない。 お母さんの気持ちを優先していいとおもう。 離乳の時期になったら、次の発達の課題があるから、飲ませ続けたら、だめだけど。 という話をした。 いろいろ話をした。 不安な、心配なお母さんにちゃんとひとつひとつ、答えていきたいとおもう。 保育所に預けられるようになったら、すぐに預けて仕事をするという話がでた。 私はもっとべったりお母さんと赤ちゃんの関係をつくってほしいといって、インドネシアの話をした。 お母さんたちが仕事場に赤ちゃんを連れて行くのが、普通なのだ。 子育てが難しい日本で、大人が中心で子どもが振り回される日本で、赤ちゃんとお母さんの関係を守るために、ちょっとしたアドバイスができればとおもう。 赤ちゃんをおぶってもできる仕事を探すこと。そういう仕事、つくろうか。。オトノネが。 と、いろいろ考えています。 社会から、学校から、子どもとお母さんを守る。それがオトノネです。
今日の面談
うーん、3歳の子。 心配性のおかあさんなら発達支援センターに連れて行くような、子。 いやでも目線もしっかりしているしごっこ遊びを目の前で繰り広げるし。 給付対象にならないでしょう。 そもそも発達支援センターにいっても、プロはいない。とおもったほうがいい。 私が実際に勤めていたときも、あまりにも知っている人がいなくて、「保育所とおなじか」と思ってしまった。 日本の福祉の現場は、大人たちが十分な教育というか、見る目というか、経験がないために、シックハックしている。 そんな子の子にも言い分があるはずで、お母さんの話を聞きながら、「ああ、なるほどなぁ。きっとそうなんだなぁ」と思えた。 お母さん自身が、そのことを気にしながら、目の前で「事件」を起こすその子に反応してしまって、大切なことを忘れてしまう。 私は私なりに、お母さんに気がついてもらえたかな、お母さん自身が大切にしている気持ちを、確認してもらえたかなとおもうのだが・・・ お腹が空いたという子がいたのでオープンエンド。 また来てくれたときに、お話をしたいとおもう。 見た目は3歳。心は1歳。 彼は、今、1歳の時にやりのこした課題に取り組んでいる。 と、私は感じたのだが。お母さんもそれには同意してくれた。 4歳になったら、また別の課題が容赦なく脳に襲いかかる(もう少し待ってよといいたいのだが)。この一年を大切にしてほしい。なぁ。子育ては、しあわせ育て。
子供のポテンシャルエネルギーを感じる
というか子供は姿勢がいい。 あれだけ自然に、ちょんとして凛として座っていられる。 またしゃんとして立っていられる。 何者だ??? 大人だったら、崩れていたり、ブレていたり、力なく弱々しかったりすることもあるのだが。 (もちろん逆に歩き方がぎこちなかったり、ぐにゃっとしてしまう子もいる) 立ち方、振る舞い方、そこにいることで生まれるエネルギーが、その人のポテンシャルだ。 ポテンシャルを顕在化させようとして、大人は習い事をさせたり、いろいろとやらせる。 子どもは一流の学習者だからなんでもできるようになる。 あるとき、ある状況のなかで目を見開いて、「え?いつもの君はどこにいった?」という子もいる。 何をしているかというより、ポテンシャルが上がっている状況、そして落ち着いてそのエネルギーをコントロールできる環境を作っていくことを大切にしたい。(蛍光灯バチバチの環境でポテンシャルが下がる子もいる) エネルギーを何に使うかなどは、二の次に考えようとおもう。 謎の輝き、神秘のチカラ、心のはたらき。可能性。どんな言い方もできる。 ただそのエネルギーの使い方をあまりにも限定されてしまい、気が滅入っている子が多いのではないか。 ということだ。 ーーーー ポテンシャルエネルギーとは、簡単にいうと隠されたエネルギーで、地面からの鉛直方向の距離が長ければ大きくなる。 姿勢がいい、シャンとしているとは、このエネルギーが高い状況をいう。 アーノルド・ミンデルは量子力学と心理学を結びつけていますよ。 不確定な、挙動不審な、確率的な、決定論とは別の次元で動いている世界に、科学者も目を向けてはじめています。というか、もうバシバシ向けています。 関連した記事も是非お読みください^^ ワーキングメモリ容量の個人差があまりにも大きすぎる件。 人はどこまで遺伝に左右されるか。 「内向的な人が秘めている力」 遅れは取り戻せるのか?発達の可逆性について。 子供のポテンシャルエネルギーを感じる
ダメな保育園とマトモな保育園の見分け方【ニラかレバニラか】
簡単に言うと組織として必要なコミュニケーションの時間がとられているか。 それとも取られていないか、大人同士が心を通わせずに、というか人間的な関わりが大人同士できる機会がシステムの中に組み込まれているかというお話。 僕にはこういう見方しかできない。今のところ。 参考までに。 ======
====== 保育士は手帳に何か書いて保護者に渡すことになっているらしい(それ自体僕は時間の無駄だとおもうが。もっといい方法があるのだが)。 そこに「○○して遊びました」 とか「こんなことがありました」「にこにこしていました」といった行為レベルで書いているのはダメ。 (マイナスイメージのことは書いてはいけないというルールがあることをご存知ですか。おかしくないですか?お母さん、お客さんにされていますよ) 子どもをまるで見ていない。というより、何を伝えているのか、わからない。 ただ親を安心させるためだけの言葉。子どもの何を伝えているのか。大事なことを伝えられているのか。 【ビジネスの原理】情を売る。 1日の中でどんなドラマがあって、どんな関わり合いがあって、その時、どんなことを感じて、どんな反応をしたのか。 子どもの生活はドラマで溢れている。発見がある。その感動を、大人が共有する価値はなにか。子育ての仕方がわからない親、関わり方がわからない親もいる。そういう親に、何を伝えられるか。 ここまで考えて書いてくれるなら、マトモ。 たとえば、こういうこと。。。
コメント欄まで全部読んでみてほしい、物語。振り返って、見る。 https://t.co/j7SqCLWWP3
— otononeオトノネさん (@otononesan) February 20, 2020
けどそれを、手帳に書いて渡すか?????? 毎日渡すか!?????? ーーーー
ーーーー 休み時間、手帳を書くのに追われて保育士同士がコミュニケーションがとれない保育の現場を変えたらいいのに。(昼休みに愚痴をいったり、手帳に書き込むのに忙しかったりで、子供の話ができない。) が、それをやらない。 手帳を書く代わりに、大人同士のコミュニケーションの時間にしたら、保育園はマトモになるのに。 しない。 だからマトモではないと、僕は言う。 そういう文化を、ダメな組織はもっている。 いやいや、もちろんダメな学校、ダメな保育園にも「いい先生」「いい保育士」がいる。 いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。 ただなんだかんだ言い訳をして子どものことを考えずに日々の業務をこなすだけの保育園を、学校を、僕はマトモだといいたくない。 こう言う組織には、派閥、大人同士の小競り合いがつきものだ。そんな環境が、子どもにとっていいわけがない。 ということです。 ーーー
ーー 学校も同じで、ダメな先生はちょくちょく課題をやらせてチェックすることに精を出す。 それで「やっている」つもりになる。 狂っている。 本業の授業に力を注がず、部活動に精を出す先生。 狂っている。 ーーー
ーー そんな保育園はマトモではない。(だからほとんどの保育園はマトモではない) と、僕はおもうのだが。いかがでしょうか。 「子どものようすがわからない」という母親からのクレーム対策、定期テスト対策にしか、僕にはおもえない。
ちょっと長いですが 皆さんに見ていただきたい お話です。https://t.co/zxzClerNlp
— Ken (@Ken130909) February 12, 2020
ツイッターや保育士が愚痴る系のFBグループをみたら、これがごくごく当たり前の保育園の風景だと、感じてしまいます。 発達の段階を保育士として知っている人も少ない。 今この時期で、こういうことがあって、これからこうなっていきます。こういうことがあったのだけど、こういうふうに経過していきます。こういうときはこういうふうに関わってあげてくださいとかいう言葉を伝えてくれる保育士さんはマトモだ。 いやいや一人一人保育士さんにも特徴があるのだから、役割分担してもいいだろう。 たった一人でも、そういう話をしてくれる保育士と出会えたお母さんは、しあわせだ。 泣ける。
コロナならわかりやすいけど、日本自体が海に浮かんだダイヤモンド・プリンセスっていったら、わかりにくいのかな?日本の多くの人が、感染している心の病気も同じ仕組みなんだけどな。命が、軽い。 https://t.co/tC7sYkrlSh
— otononeオトノネさん (@otononesan) February 19, 2020
=========== 人間が、見えない。 あ、ちなみに小学高学年くらいからなら、こっちで判断することができます。 「子ども」に先生の値打ちを「問う」 いいものはいい、だめなものはだめ、と大人が子どもに「やさしく」伝えるように、大人も大人に「だめなものはだめ」とやさしく伝えてあげらいいと思う。 やさしく・・・・人間なら、、、ね。 ======
==== さて、ここまで書いて、僕はどれだけ創造的な時間を過ごせただろうか、と、振り返ってみる。 自分の手の届く範囲を超えた、虚しい叫び声にしか聞こえないなぁ。と感じる。 この記事を見た多くの人が、「狂っているのはお前だ」という声すら聞こえる。 僕が言葉を使う価値を、見直した方がいいなとおもう。 ツァラツストラは山から降りた。僕は、山にいくんだろうか。 子どもが子どもらしくいられるマトモな保育園で、(研究のために)子どもの発達を見守ってみたい、ともおもう。 そんな場所って、あるか?
子どもの声が大きい理由
子どもの声は大きい。
というイメージがある。
溢れ出るエネルギーなのだろうか。
僕はそうはおもわない。
幼稚園、保育所、学校、もしくは家の中で、「聞いてもらう」ための距離、「もっと静かに話してもいいんだよ」という安心感がなくて、大きな声を出すのではないだろうか。普段は「集団」の中で埋もれてしまう声を、伝えたくて、聞いて欲しくて、大きな声を出すんじゃなかろうか。保育者1対子ども20人の保育園、他の子の声に負けないように、声を張り上げているだけではないだろうか。
声のコントロールは心のコントロールだ。
体のコントロールは心のコントロールだ。
私にとって、姿勢や、声は、心の表れ。
いつも体を緊張させている子どももいる。
絵本は一対一で読むものだったのが、いつのまにか集団活動になってしまった。そうじゃないか。絵本はもともと、一人のために読まれるものだったと僕は思っている。
会話の流れ(どのタイミングで話したらいいんだろう)ということも気が付けるようになるまでには、どんな発達段階を踏むんだろう。
自分で決めたい!【駄々をこねる心】と、おもちゃうりばの前を通りたくないお母さん
子どもが駄々をこねた時の大人の関わり方が、子どもの「心」を作っていきます。
自分を修正する「自分」ができてくると、自分のことは自分でしたい願いにとどまらず、自分で決めたい願いもたくましく育ってきます。「○○ではない○○だ」という思考の力によって、自分で選び、自分で決めたくなるのです。デパートのおもちゃ売り場に行けば、自分で選び自分で決めたおもちゃを、「ダメ」の一言で買ってもらえない子どものだだこねの姿を、きっと目にすることでしょう。 ことばで自己主張できれば、寝転がってまで意 思表示する必要はないのですが。だだこねする姿は、第三者にとっては微笑ましいもので すが、いっしょにいるおかあさんにとっては、冷や汗ものです。だからほとんどのおかあ さんが、「おいてっちゃうからね」などと連呼してばかりいるのです。しかし、おかあさ んがそう言えば言うほど、子どもの心は乱れ、いっそう強くだだこねするだけになってし まうでしょう。なぜなら、このようなだだこねができる子どものほとんどは、そうするこ とによって、相手の出方を伺う力を、すでにもちはじめているのです。 「そんなとき、「おいてっちゃうからね」ばかりでは、「やっぱりわかってもらえない」と いう落胆の気持ちが、強くなってしまいます。少し子どもを信頼して、見守ってみましょう。きっと子どもの方から、和解のまなざしを送ってくれるのではありませんか。その心を受けとめて、「今日は買ってあげられないけど、おかあさんといっしょにいつものブランコ乗って帰ろうか」と、立ち直りのきっかけを手をさしのべるように与えてみるのです。 それを手がかりにして、きっと心もからだもだんだん起き上がってくれることでしょう。頭のなかの二枚のお皿の一方に自分の要求を入れ、他方のお皿に相手の要求を入れて、並べて葛藤し、相手の要求を受け入れる力が、少し生まれてきているのです。一歳半の質的転換期の手前にいる子どもたちは、自分の要求が受け入れられなかったときの表現はもっと直線的です。自分を失ってしまうのでしょうか、なかなか立ち直ることができません。しかし、強く自分を押し出せるからこそ、相手と衝突することができるのであり、この衝突のなかから、相手の意図を知り、相手を受け入れていく器が必要になるのです。やがてはおとなの言うことを受け入れられるだろうと、子どもの発達への信頼をもっていることで、子どもの困った行動を精神的に受け入れていくおとなの構えもできるはずです。そんな信頼と余裕をおとながもつことによって、子どもはいつまでも疑心暗鬼でおとなの困る顔を確かめようとするような、かりそめの姿を克服していくことができます。 このように、発達の学習は子どもの育ちに見通しをもつことにつながり、それが子どもへの信頼を育んでくれるのです。どんなに子どもと「すったもんだ」しても、このような子どもへの信頼感が背景にあると、子どもは自分で葛藤をのりこえていけるものです。そんな思いで子どものだだこねを受けとめ、できるだけ我にかえれるような雰囲気をつ くってあげてください。そして、立ち直りの力は、良き自分に満たされているときに獲得 されていく、子どもの自己信頼のあかしであると、いつも心に刻んでおきたいものです。 (白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.103)
3、4歳くらい 「おもちゃの前で泣いている子・・・いますよね?そういう子にならないためには、どうしたらいいんでしょうか・・・」 というお話。 実際に泣かれたら、そのまま泣かせてあげてかまいません。「泣いたら、昔みたいにいろいろくれるのかな???」とおもって、試しに泣いているので、何食わぬ顔で子どもが泣きつかれるのを待っていてください。「あ、ないてもダメなんだ」とそのうちわかってきます。おもちゃうりばだから子どもが泣いてもいいでしょう。「お客様、少しお声が大きいようで・・・」といわれたら「子どもが泣いても当たり前でしょう?」といえるくらい、お母さんも凛としていてほしい。 子どもが生きにくい世の中であるのはその通りなのだが。 さぁ、「買う」「買わない」をめぐる話。 「私の時は、こう、百円を超えたらだめ、というルールがあって、2個、両手に持って行ったら、お母さんが、「どっち?」と言って、私はレジの前で一つを選んでいました笑」というお母さん。 そうですね。 例えば、、、ルールを決めましょう。 例えば! 遊びのルールがわかるのは5歳くらいから、とかなんとか言われているけれども、生活の中で「物を買う」ルールをつくることは子どもにとっても、大人にとっても大切でしょう。 子どもが何か買っていい日を決める。それ以外の日にねだっても、買わない。 とか! 小さい頃からこういった経験をお母さんとすることは大切だ。お母さんがなんでも買ってあげたら・・・「待つ」とか「我慢する」とか「欲しいけどお母さんにせがんで困らせない」みたいな経験ができなくなる。お金の大切さもわからなくなってしまうかもしれない。 よく、「これを買ったら○○」という言葉を聞く。子どもはやがてそれを真似る。 誰かに自分のいうことを聞かせるために、、、、それでは子どもの「心」が強くならない。 大人になってから!高校生に「ゲームを買ったら勉強をするという約束」をしようかどうか迷っているお母さんもいる。 物を買うということから、何を学べるのか。 どっちが本当に、自分の欲しいものなんだろう?と一生懸命考えるでしょう。 お金との関わり合いから、何を学べるのか。 お財布からいくらでもでてくるお金、不思議なお金・・・(お金の勉強も小学生からしたほうがいいと私はおもう) 昔聞いた話、子どもに欲しいものがあるとわかったお父さんが、子供に「プレゼン」をやらせた。つまりなぜ必要か、それを買うと何のメリットがあるのか、それは将来的にどうか、などなどを主張させた。こういう機会を作ってもいいだろう(この話は中学生か高校生だったようにおもうが) 実はこれ、教育費についてもいえる。 通信教育、公文、ピアノなどの習い事、塾、、、「子供にやらせたい」という気持ちでやらせることが、果たしていいことなのだろうか。 習い事・塾は、子どもの時間とお母さんのお金を使って先生を買うことだ。子供がそこで何を学べるのか。お金だけでなく、子どもの大切な時間を使うことになる(子どもは学校でほとんどの時間を過ごしている)。お母さんは習い事を通じて「大切な時間の使い方」を子どもに学ばせてあげるのは、どうだろうか。
幼児期から児童期へ
嘘のつき方を学ぶ6歳
この年になって、嘘をつくことは、社会の作法であることを学んでいる。 こういう時は、嘘をついてでもこう言うことになっていいる。というのに驚いたものだ。 そこには日本人特有の「平和」がある。 日本の精神文化だ。 日常のなかで、冗談を取り入れてみよう。 嘘だとわかる嘘をつかれたら、その嘘につきあってみよう。 嘘でどれだけいけるか、あそんでみよう。 その子がどれだけ、他人の心を読めているか。 ニヤニヤしながら、問答をしながら、あそびながら、観察してみよう。 悪意のある嘘だとしても、嘘をつけるまで心が発達したこと自体は、喜ばしいことではないだろうか。
心の理論の発達によって、子どもはさまざまな社会性を身につける。例えば、相手が「知らない」あるいは「誤って思っている」ことを理解することで、うそをつけるようになっていく。このように、うそをついて欺けるようになるうえで、心の理論は鍵を握る。そこで、心の理論が発達する4〜5歳頃から意図的なうそをつくことが可能になる。例えば、ソディアンは、王様と泥棒の人形を使って、「王様が箱の中の金貨を見つければそれを子どもがもらえるが、泥棒が見つけると金貨を持って行ってしまって子どもはもらえない」ということを子どもに理解させた。その後、王様と泥棒がそれぞれやってきて、金貨のありかを聞いたところ、3歳児は王様にも泥棒にも金貨の入っている箱を教えてしまうが、4歳をすぎると泥棒にだけ金貨の入っていない箱を示し、選択的にうそをつけたのである。(『問いからはじめる発達心理学』p.101)
6〜7歳の子どもは(略)日常生活では、例えば嬉しくないプレゼントをもらった時でもお、がっかりした感情を出さずに笑顔で応対すべき場合がある。このように相手の感情を傷つけないように社会的慣習にしたがって表情を示すことを表出ルール(sidplay rule)と呼び、2次の心の理論との関連が報告されている、。同様に、がっかりしているのに「ありがとう。嬉しいよ」などということを悪意のない嘘(white lie)と呼ぶが、これも2次の心の理論と関係することが知られている。(『問いからはじめる発達心理学』p.102)
嘘で人を傷つけたりする子がいるなら、それは、どこかで、嘘の正しい使い方を学べなかったのだろう。 嘘のつき方を教えるのは、多分大人だから。
子供の時間大人の目線。
幼稚園長のきまぐれ日記-アームストロング青葉幼稚園- 学校の先生と同じくらい、保育士の先生にもいろんな人がいる。 子どもの目線で、子どもの世界を一緒に感じようとする時間と心。 「いや、これはどうなのかな」と思いながら、人としての価値観を、世界観を、大人になっていきながら忘れてきた「時間」と「心」の感覚。
こどもの「ナゼ」「ドーシテ」
空はどうして青いの? それはね、光が云々・・・という答えを子どもは期待していないらしい。 『絵本と子どものこころ』p.212に書いてあって、そうかとおもう。
幼い子どもの「ナゼ」「ドーシテ」は、それは自分のためにどのように役立つのか(有用性)だれが何の目的で造ったのかを暗に問う意図がこめられているとかんがえてもいいでしょう。
子ども自身が納得できる、自分のこととして世界を説明する、理解する。似たような話しで「イヤイヤ」というのがあるが。これは本当に嫌だからしたくないのか、そうではないのか、「イヤ」という言葉がもつ呪力を、子どもが試しているのか。気になるところです。
【2歳】ウハウハ期にウハウハできないから思春期を迎えられない?という仮説。
を勝手に立てた。 今、ナルシシズムの本を読みながら、幼児期に適切に心の仕組みをつくれなかった子が、大きくなって、ナルシシストになって人を不幸にしていく話を読んだ。 保育園を見学しまくっていた時期に、2歳児クラスがどうも2歳児っぽくない印象を受けたのを今でも覚えている。 そして1歳児のクラスを見た時、あまりにも窮屈で過酷な保育環境に、大人の叫び声で子どもの声が聞こえない保育室の雰囲気を、今でも覚えている。 あれをしたらあれをする、これをしたら、次はこれ。 そういう流れ作業が目について、情緒的な関わりはほとんどない。いや、一切なかった。 (誇らしげにある保育士が「おしめを替える競争をしていたよ!」と冗談半分で言っていたが、狂っている。) 児童福祉施設、乳児院でも同様のケースをみてきた。(いやいや、ちゃんと子どもと関われているところは、関われている。組織のあり方で、がらっと変わってしまう) この背景には、大人の組織が言語レベルではなく行為レベルでしか成り立っていない、コミュニケーションではなく、ただの支持・命令・規則でしか動けないという文化が影響している。 言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。 「やることやってから喋れ!」というアレである。 いやいや、それをやるかやらないかが問題なんだけど。が、通じない。 「まずは3年黙って働け!」というアレである。 いやいや、3年間、新しい時代の人たちの思考力・感性を無力化してどうするの。 発達は生まれた瞬間から始まる関わり合いの積み重ねだ。 0歳、1歳のとき、、、、 ーーーー
ーーーー 2歳になる前に、子供は保育士から暴力を受けるとしよう。(暴力が当たり前の文化になってしまった組織ではごくごく当たり前に子供は暴力にさらされている) 学校のネグレクトに気がつく【児童虐待に気付きにくい理由】 そうすると、2歳になってウハウハすること、自分を出すこと、ほとばしる感情、自立心、もしくは挑戦する心、探究心を出すことができない。 1歳のときにすでに、心がすり減らされているからだ。とおもえてしまった。 「怒られる」「怒鳴られる」 小さい子も立派に学んでいる。 小さいなりに、無力なりに、生き残ろうとする心のしくみがはたらく。 その子が大人になって、自立して、しあわせを感じて生きていけるだろうか。 それが問題だ。多くの本の答えは「NO」である。 もちろん「NO!」 ーーーー
ーーーー お母さんは家で子どもと情緒的な関わりができているだろうか。 人間的に関われているだろうか。 くたくたで会社から帰ってきて、子どもと情緒的に関わることができているのか。 思春期を迎えられない子どもが多い。 探究心、自立心、2歳のウハウハで学ぶことが学べていないのだから、そうなってもしょうがない。 思春期を支える大人、励ましてくれる大人と出会えない子どもが多い。 (それでもちゃんと頑張って思春期を彼らなりにやっている高校生を僕は知っているから、命は本当に神秘的だと思う) たとえ励ましてくれる大人がいても、もはや「命」がクタクタになっていて、思春期を迎えられない子がいるのではないか。 子どもたちから、子ども時代を搾取する大人が、保育士という資格の下、社会福祉法人という名の下に、公然と、笑顔で、子どもを迎えにきたお母さんを出迎える。 もちろん、本人はそれが普通だから、気がつかない。 小学生になっていじめが起きたり、人間関係がうまく行かなくなるのも、当たり前だ。 発達は、積み重なって行くものだから。 と、おとのねさんはおもいましたとさ。 8050問題の解釈と学歴、マスコミ、景気の関係
2歳のイヤイヤで大人の階段のぼる
子供が立ち上がって、一人歩きして、走るようになるときには、もうエネルギーの塊。興味の塊。だという話だ。今まで素直だったのに・・・なんていうお母さん、お子さんは大人になったんです! とおもってほしい。 意欲にあふれた、感情が溢れている、そして行動して試してみたいという飽くなき(悪なき)おもい。 言葉が使えるようになり、言葉をどう使ったらいいか、わからずに「買って買って!」という。大人のルールも態度と言葉で伝えて学んでいってもらう。「ほしい!」という気持ちを言葉に出して、体全体で表現できるのが2歳。「したい!」ことを口に出して体全体で表現できる。 その気持ちをどう実現させてあげるのか。状況に応じてどう我慢したらいいのか。落ち着いて、気持ちを鎮める方法を伝えるのもいい。我慢することが大人の作法であるなら、その作法を子供に学んでもらうこと。それがこの発達段階の課題だし、子どもが大人の世界に入っていくのに大切な学びである。 ー
ーーー 挑戦する2歳。言葉をばりばり覚えていく、使っていく2歳。どれだけ「言葉」と出会っているだろうか?言葉を使う機会があるだろうか? 「落ち着きがない」「多動」の子は「言葉」つまり「思考」に使うエネルギーを使えずにすべて行動に出している気がする。人間にもエネルギー保存則が働いている。一人の人間の中に生み出されるエネルギーを出していかないと、病気になるかもしれない。 子どものエネルギーを「言葉」に向かわせるにはどうするか。 大人が子供にじゃんじゃん話す、子供にじゃんじゃん聞く。子供が話せる環境をつくる。子供が聞ける環境をつくる。これに尽きるとおもう。子供たちが自分たちでこの機会を作る遊びがある。 ままごとだ! 子どもどうしてお互いの生活の中から得られた言葉を出し合い、学び合う。これはすごい!大人の行動を模倣したり、自分の見たもの、経験したものを別のものにも当てはめる。与えられた経験を自分で作り出していく。まさかそんなことを2歳児が・・・と思えるような学びが、ままごとにはある。 だから、この時期に、お父さん、お母さんが「子ども」になることで子どもが「お父さん・お母さん」らしく振舞うことを覚えるかもしれない。なんておもうのは、おかしいことだろうか。
子どもの「遊び」は魔法の授業
真実はこうだ。「ニューロンから近隣の人まで」と題する報告書に掲載された、全米医学研究所学術会議による広範な研究によれば、健全な知性と情操の発育の鍵になるのは、「親や保育者との信頼できる養育関係」だということだ。子どもといっしょに仲良く皿洗いをするだけで、大切な交流をしていることになるのだ。子どもとする何気ない会話が、世界や子ども自身について何かを教えるのである。親は子どもが日々の出来事を解釈したり、ちょっとしたらいらいらや混乱した気持ちを整理したりするのを手伝ってやる。と同時に、「フィルター」ーある情報を素通りさせ、ホラー映画やテレビのイブニングニュースなど子どもが対処しきれないものを阻止するフィルターーとしての役割も果たす。その結果、子どもは自分が大切だという感覚や、自分に能力があるという感覚を抱くようになる。子どもとのやりとりはまた、こちらが意識的な努力をいsなくても、子どもの知的能力の発達を促す。親子の会話では、親が子供にその日にあったことを話させるのが自然である。そうすることで、子どもが人生の物語を組み立て、解釈するのを親は助けているのだ。(p.31)
いうことを聞かない?
「いうことをきかない」にもいろいろある。 パターン1:とにかくイヤイヤという時期のイヤ 「イヤ」という言葉を覚えて、使ったらどうなるかなーくらいに思っている。別に悪気もなく、とにかくイヤという言葉を試したい。いやといった手前、イヤを撤回するのもちょっと・・・というくらいの気持ちでイヤといっているので、まずは「いいよべつに」と言ってあげたらいい。(次、同じことをするとき、もう一度イヤというかどうか観察したらおもしろい) 子供にとっては、いたずらみたいなもので、大人がかまってくれるのが面白いのかもしれない。言葉が自由になって、体も自由になって、「言われたことを拒むとどうなるんだろう」とおもって実験しているだけかもしれない。 イヤイヤ期とは、喜ばしい、成長のステージだ! パターン2:やりたい!ぱたーん したいしたい!自分でしたい!というのなら、やらせてあげたらいいね!失敗してもいい条件をつくってあげたらいい。やらせてみたり、こういう理由で困っちゃうから、今はやめてほしいといった雰囲気を伝えればいい。(話を聞かない、なら、目を合わせてきちんと言葉を喋る、話しかける、聞いてもらった経験が少ないのかもしれない。行動を要求されるばかりで、心が満たされない場合、そうなりがちだ) 好き嫌いがある子だったら、嫌がらせに(おもしろはんぶんに)「じゃぁ、ピーマンのどんな料理だったら美味しくなるんだろう?」と工夫をしてみるといい。「好き嫌いはよくない」はよくない。 パターン3:行儀が悪い。ということについて。 今図書館で本を読んでいる私の隣で、お母さんと小さな子供がおしゃべりをしていた。お母さんは小声で、子供もそれにこたえて小声で。(小声で喋るという暗黙のルールが図書館にはあるらしい。いいか悪いかはさておき) お母さんが、オトナが、模倣の対象になっていない。だから行儀が悪くなる。 お母さんのしつけが悪いのではなく、子どもがお母さんをみて真似ようとしていないだけかもしれない(お母さんに不満があるのだ。不満を受け止めてもらっていないのだ)。 別のパターンもあるだろう。発達の段階を踏まずに、強要されるしつけ!積み木で床を叩く動作を食事の場でスプーンと机で再現しようとする子がいるとしよう。 食べる場所と遊ぶ場所、食べる時間と遊ぶ時間が区別できていないだけかもしれない。(小さい時は仕方ないでしょう!手づかみで、食べていいでしょう!)楽しく手づかみで食べる経験をして、それから、大きくなっていって、遊びを通じて手先が発達していっておはしとかスプーンを持ってたべられるようになるまで、待つ。というか、挑戦したくなった時に「私もお箸使いたい」と自分から言うような子どもでいてほしい。○歳になったらお箸で「練習」しなくちゃいけないとか考えなくていい。器用になる練習を食事の時にしてどうなる!!!??子どもに任せてみよう。(任せられる子になるように、関わりあおう) 新しいことを学ぶためには段階がある。その段階を「無理やり」踏ませようとする近代の教育システムが家庭に持ち込まれて苦しんでいる子どもたちが、少なからずいるようにおもっている。 「僕もそれやりたい!」「私もそれやりたい!」とおもえるようなかっこいい大人の姿を見せられるような、豊かな暮らしをしていたら、子どももそれをちゃんとみて、真似てくれるはずだ。
子どもの喧嘩、泣かせる、などなど
1つの研究では、子どもは風景の模型を提示され、彼自身のいまいる位置以外の位置からそのh宮系の外観を表現するように求められた。その方法は、たとえば、子どもの向かい側に座っている人形から見た風景を示す写真を、一連の風景写真の中から選ばせるというものであった。4〜5歳児は彼ら自身の観点から撮った写真を選択することに固執した。これに対して、これより2〜3歳年長の子どもは、他者の観点を表現することができたのである。(『言語発達-初語から学童期まで-』P.S.デイル 村田孝次訳 p.336)
「心の理論」は大脳新皮質とともに4歳から発達することになっている。これまでは自分とお母さんの世界だったのが、他の誰かにもつながっていく時期。逆に言えばこの時期までは他の人への思いやりなどは心からわかっているのではないかもしれない。他の子のモノをとって泣かせても「あれ?泣いちゃった」くらいにしか思っていないかもしれない。4歳をすぎて同じ状況になったときに、「あれ?泣かせちゃった」とおもえる心はどう育つだろう。「ああ、嫌な思いをさせちゃったな」と考えるしくみは“自然と”でてくるんだろうか? 私はこの経験が、お母さんと子供の間にあったかどうかが大切だとおもう。家の中でもいい。誰かと誰かが喧嘩して、仲直りするのをみているだけでもいい。自分が泣いたときにお母さんに、お父さんにしてもらったことを思い出せるだけでも、泣かせてしまった子に自分を重ねることができるかもしれない。そしてお母さんにしてもらったように、お父さんとお母さんが仲直りしたように、その子に心を、気を配れるかもしれない。 子ども同士で喧嘩が起きたら止めに入って“解決”してしまう大人、介入、干渉する大人は子ども同士で学び合う環境を壊してしまうのでやめたほうがいいとおもう。
お母さんが言葉の大先生である件
What did you see? … You saw what?(whatを強調している) これまでに問いかける、様子を見る、何かして欲しいという情報が非言語(発話以前の仕草や表情・音声)で伝わるようなコミュニケーションをしていなければ、難しい。でなければYou saw what?という子供にとって理解しがたい文が求めているもの(なぜ母親はwhatを強くいうのか。これまでに今と状況はあったか。といったことを考えるだけの経験がなければいけない) 言語発達は認知発達を促し、認知発達は言語発達を促す。 言葉によって世界に目を開くこともあれば、世界に目を開いて言葉を身につけることもある。 その子のきっかけがなにかはわからない。ただ同じことを繰り返さず、まるで季節のように、天気のように、いろいろな表情を見せながら相対する世界を経験させること。 世界を眺めているだけ、認知だけではつまらない。そこに感情、人間らしさ、関わり合い、おもしろさが感じられなければ、「せっかく生まれて来たのに!」とおもってしまうかもしれない。子どもがくれる幸せを受け取る。それだけで子供もお母さんもハッピーハッピー! 子供:fan.(扇風機) 母親:Hm? 子供:fan.(扇風機) 母親:Bath-room?(お風呂?) 子供:fan.(扇風機) 母親:Fan! Yeah.(扇風機!) 子供:Cool!(そうだよ!) 母親:Cool. yeah. Fan makes you cool!(そうなのね、扇風機が面白いのね!) この対話でこどもは、一回一回発音を変えながら、fanをくりかえし、聞き手が理解し、承認するまでこれを続けた。事実、この子供は、自分のいったことを反復を通じて、おとなが承認するまで繰り返した。おとなが理解すると、はじめてほかの語へと移ったのである。(『言語発達研究』村孝次p.212) オトナが見ている世界とは違って、子どもは一つの言葉にいろいろなオモイを乗せる。お母さんもそれを感じてみてほしい。「ネコさん」・・・「ネコさん?」・・・「ねこさん!」「猫さん!」・・・・こうして遊んで見たら、こどもは「話をする」「自分の感情を出す」「興味を共有する」ことに意欲を持つ。 「猫さん」という言葉を聞き取れたからといって、「猫さんが何しているの?」といったような、対話のターンをすぐにとってしまっては、子どもは少し遊び足りないかもしれない。(話題を継続しながら、話し手が変わることをターンアバウトという) 「牛乳」「牛乳?」「牛乳」「牛乳がほしいの?」「うん」「喉が渇いたの?」「うん」 そこで牛乳を出さずに、「お水にする?」といってもいい。そうしたら、子供はどう答えるか。 対話とは、あそびであって、学びであって、相手次第で結果が変わっていく、至高の喜びの場だ。
8歳、9歳:ファンタジーと現実のあいだ『子どもの心的世界のゆらぎと発達』
8歳、9歳の、対話可能性。ファンタジー。
『子どもの心的世界のゆらぎと発達』木下 孝司 ファンタジー、創造性とは何か。 創造性のない個性は、切れない包丁だ。 ーーーーー 何も芸術家という職業につくために必要なことではない。 「ここにはない姿」「ここにはない何か」を思い描き、そこに向かっていく、つくっていくという人間の自然な姿だ。 インドネシアでは多くの創造的な人たち、芸術家に出会った。 ある人は、かつて栄えていた「帆船」の文化を省みて、海を移動する移動図書館を作った。 ある人は、コーヒー屋を営み、「僕はコーヒーを気にしてはいない。コーヒーを飲みに来る人のことを気にしているんだ」という言葉を僕に送ってくれた。今までにない、コーヒーを売らないコーヒー屋さんだ。 誰も決めてはくれない、自分一人の命の燃やし方。 一人で燃やすものでもない。 それをビジネスにする人もいれば、お金にはならなくても毎日が輝き続ける生活を送る人もいる。 誰も自分の人生を決めてはくれない。 流れていったら、流れ着く人生もある。 けどやっぱり人間は一人一人がオリジナリティを発揮するしかない。 「わたし」というものがあるからだ。 ひとりひとりに天の才が備わっているからだ。 ファンタジー、創造性という言葉を私が使う時、それは「自分の人生を自分でつくる」チカラを意味している。 不安定な社会で、これほど大切なチカラがあるだろうか? このチカラはどうやって身につくのだろうか。 大人はどうやって子どもたちにこのチカラをつけていってもらったらいいのか? それはオトノネのテーマでもある。 創造性は、教育の、子育ての、大きな指針であると思う。 個性という言葉の内実は、創造性にある。 創造性は、この現実世界の正しい知識、認識、経験の深さがあってはじめて生まれてくるように僕はおもう。 目の前にあるもの、(自分の中で起こっていることを含めて)目の前で起きていることを正しくみれなければ、感じていなければ、ファンタジーのチカラは現実世界に創造されず、虚構の世界にとどまってしまう。(そして多くの若者が御三家から中堅大学を経て若者サポートセンターへと向かうことをご存知だろうか。もちろんデータは非公開なので数値が言えないところが日本らしい) 創造性のない個性は、切れない包丁だ。 創造性を使うには???? 自己選択能力、自己調整能力、メタスキル だ。
麻生は神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の犯人である少年に関する新聞記事の解釈に、次のような見解を述べています。 私が危惧するのは、この種の一般に流布しがちな見解が、ファンタジーと現実の関係について謝ったイメージを生み出してしまう危険性である、少年Aの問題は、ファンタジーが肥大し、現実が侵食されたことにあるのでは決してない。むしろ、彼の問題は、ファンタジーを生み出す力が十分に育っていなかったことにあるように思われる。堪え難い過酷な現実が目の前に聳え立つとき、私たち人間にはその現実に対抗するもう1つのリアリティを生み出す力が備わっている、それが物語やファンタジーを生み出す力である、少年Aの問題は、決してファンタジーの過剰にあるのではない。むしろ逆に、ファンタジーの希薄さにあるように感じられる。 麻生はその証拠として、少年Aのファンタジーにはオリジナリティが少なく、コピーが目立つことも指摘しています。用事が魔法のステッキやブレスレット、ヒーローベルトを手に入れて、そのまねをすることで今とは違う自分になろうとすることは他社のアイディアのコピーです。しかし、まねをしてみても返信できなかった時、どのようにすれば実現可能なのかを考え、自分なりに繰り返し修正を加えながらその実現可能性を試そうとする姿は、子どものオリジナリティが成せるものだと言えるでしょう。これは、これまで紹介してきた実験での用事の姿とも共通するものです。(略)他者の生み出したものにあこがれ、それを超えたものにするためには、自らの知識や経験をつなぎ合わせ、あれやこれや試行錯誤することが欠かせません。ヴィゴツキーは「創造物は経験(既有知識)の諸要素を様々に組み合わせることによって生み出されるものである」とし、「想像と経験は相互に依存する関係である」と述べています。経験や既有知識の量が多いほど、そのダンンペン同士の組み合わせが奥生じて想像力は広がりを見せ、その結果生まれた創造物はより豊かなものになるといううのです。このことからも言えるように、非現実的で魔術的な想像そのものが危険なわけではないのです。毎日の生活を思い切り生きているなかで獲得された知識をもとにした現実世界に根ざしたものであれば、非現実的で魔術的な想像も人間の生活をより豊かにするものとなり得るのです。4〜5歳頃の幼児はまさにこの現実と創造の世界を豊かに生きる住人になり始めているのだとおもいます。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.154)
ーーーーーー 蛇足になるが、この本ではファンタジーという概念を共同幻想まで広げている。筆者の言葉によれば、「公的虚構」というものだ。個性、一人の人間が「自己」の天の才を発現するものを「私的虚構」だとすれば、サンタクロースは「公的虚構」だ。 作られている世界観、価値観が「ウソッコ」だったということに気づくのは9歳前後だという。 「いい子にしていれば」とか「一番になれば」とか「我慢していたら」という価値観、「どうしようもないんだ」「自分はこうなんだ」という気持ち、今まで感じたこと、経験してきたことが再構成される。 9歳。小学3、4年生。 これは2歳、15歳とはまた別様の思春期ではないか。 と僕は今思った。 ーーー
ーー 数列的には(これは僕のあそびです) 1+7×0=2 1+7×1=8(9にはならなかった・・・7でなく8にしたらよかったか) 1+7×2=15 生物の現象は指数的だというが、局地的にみればここは線型的、本当に長い人生のごくごく一部、ということだろうか。 この計算を続けると、 1+7×3=22(大学卒業?) 7、8年刻みのライフイベント笑 7、8年ごとに、自己は大きく揺れ動くのか!??? 1というのは、いわゆる初語がでてくる一歳のことです。 8は無限の意味をもっている。∞ 八百屋は野菜ならなんでも売ってるから8。 八百万の神はたくさんの神様。 八方美人は全方位に対応している。(この考えをつきつめると数秘主義とかいわれてしまう) 繰り返される成長。 子ども時代は、なんとまぁ輝いてみえることか。 大人だって、輝けるはずだ。と、僕は思う。 思春期、とは違うかもしれないけど発達のポイント、節目として5歳をいれたら。。。 そうやって思索にふけってしまうのが僕のいいところか、悪いところか。 ーーーーーーー 初潮が早まっているこの時代、思春期の定義を拡張するのもいいかもしれない。 教育制度が、時代についていっていない。 だからオトノネ!!!笑 小学3、4年生が、otonone-オトノネ-に来るのに、ちょうどいい時期、だということだろうか? ファンタジーは、創造力は子どもたちの助けになる。 現実の世界、今ある世界を俯瞰的に眺められる、もう一つの視点をつくれる、世界は塞がれてはいない、窓があって、扉があって、外の世界と繋がっているということを知っていることは、現実世界を生きることの役に立つからだ。
ドキドキワクワクの源泉となる思いは、いったいどこでつくられていくのでしょう。筆者は、その鍵は幼児後期から児童前期(4歳半〜8歳)にかけての多元的世界の形成、すなわち、「リアル」世界でも「アリエナイ」世界でもない「第3の世界」の形成にあると思います。私たちは児童後期以降、表面的にはリアリティを基準に世界を大きく二分割していきていきますが、実際には、潜在意識に刻み込まれた多元的世界を胸に潜め、それに励まされて生きていくのです。児童文学研究家の松岡は、これと似た事柄を「サンタクロースの部屋」という巧みな言葉で表しています。「心の中に、ひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中に、サンタクロースを収容する空間を作り上げている。サンタクロースその人は、いつかその子の心の外へ出ていってしまうだろう。だが、サンタクロースが占めていた心の空間は、その子の中に残る。この空間がある限り、人は成長に従って、サンタクロースに代わる新しい住人を、ここに迎え入れることができる」。これとまさに同じことが、多元的世界の形成にも言えるように思います。(略)幼児後期から児童前期にかけての多元的世界の形成こそが、その後、多様な価値を受け入れたり、新たな価値を作り出したり、新しいことに対して常に新鮮な気持ちで接していけたりする、そうした豊かな人間生活を私たちに可能にさせてくれるのではないかとおもいます。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.188)
ドキドキワクワクの人生。 心が大事。
小学生がダイエットをしている話
お母さんと喋っていると、いろいろな「子どもの今!」が見えてくる・・・ テレビに出てくるアイドルが「ダイエット」をしているから、小学生の女の子たちもキャベツを食べてダイエットをしているという。(今や、テレビではなくスマホでそういう記事をみているのかもしれない・・・) テレビはなんのためにあるだろう。 テレビは、コマーシャルのためにある。 コマーシャルは、商品を売るためにある。 家、食品、ファッション、生き方、新しい商品・・・CMだけではない。番組自体が「購入意欲」を出させるようなしくみになっている。アイドルにダイエットをさせるのは、ダイエット商品を売るためだし、話題を作るためにダイエットをさせているだけだ。 その話は置いておこう。 ダイエットをする子どもたちの気持ちはどんなんだろう。 もう簡単に言ってしまうと。 「認められたい」 この一言ではないか。 なぜアイドルに憧れるのだろうか。「みんなからみてもらえる」「いろんなひとに好きになってもらえる」「なんか、キラキラしている」 自分はこれでいいんだ、と、小学生以前に思えている、自尊感情、自立心がある子はダイエットをしない、と考えることもできる。 もしくはこんな事情かもしれない。 学校でみんな喋ることがなくてテレビの話をする(この話題の作り方も昔と変わった)。どうやら誰かがダイエットを始めたらしい。なんか話題についていくには私もダイエットをした方がよさそうだ。。。 いじめの原理と同じか笑! ダイエットが体に悪いという知識ならいくらでも手に入るけれど、それを知りながらダイエットを始めた女の子がいたら、その子の話を聞いてあげてみて欲しい。もしかしたら、人間関係で悩んでいるかもしれない。 小学校高学年になると、ほとんど子どもとして、人間として完成している段階だ。この時期の性格、傾向、思いやりなどはそのまま大人になる時の基礎になる。 次にくるのは、思春期!お母さん中心で作られてきた価値観、世界観が、社会の中で一度壊されて、作り直される時期。体も心も変わっていく。女の子は、思春期が男の子より早くやってくるという。こういった変化に、大人もきちんと反応してあげたら、子どもはのびのびと、しっかりと、思春期の課題から多くのことを学べるんだとおもう。
【思春期・自立とは】「ひと」の自己受容と自立のプロセス
障害児も健常児も変わらない自己受容と自立が思春期の課題
『発達相談室の窓から』p.93-96
障害を受容しつつ、「自分」をつくること
思春期は「自分が自分であること」を探し出していく時期であり、そ れだからこそ、からだの面では不安定になっていくこの時期に、子ども は自らの「障害」「病気」に気づくことは先にも述べました。この時期 にありのままの自分の姿・障害を受容して、自分のからだをうまくコン トロールし、つきあっていく術を獲得せねばならないのです。教師や親 にいくら寄り添う気持ちがあっても、代わることはできません。子ども 自身の歩いていく道なのです。私たち大人にできることは、それまでに 自分の気持ちをきちんと外に出せるようにしておくこと、出してもいい のだと伝えておくこと、時には「願いがかなわないこともある」と必要 な壁となって相手との間で調整できる力をつけさせておくこと、失敗や 気持ちの落ち込みだって必要なことなのだと支えてやれること、大人に なる過程のなかで誰もが通る大事な試練なのだと支えてやれること…… などなどです。 先のリョウくんは中学部に入ってから「泣く」「怒る」こ とが増えました。自分でやりたいけれども上手にできない(できないと 思い込んでいる)、でも手伝ってもらうのはイヤ、やってもらうのはもっ とイヤ、だけど側にはいてほしい、側にいると「一人になりたい!」と また怒り出す、といったふうに、いろんな場面でもめました。お母さん はリョウくんの気持ちに寄り添った対応をしようとしつつ、かまえばか まうほど逆に泣いたり怒ったりするリョウくんに、距離をおくことの大 切さと、この時期には「泣くこと」も「怒ること」も必要なことだと分 かった、と話されました。 悩みながら、とまどいながら、障害があっても「自分は自分であって いいのだ」と子どもたちが思えるように、寄り添いたいものです。間違っても、この子は力がなくてそんなことを考えているはずがない、などと 思わないこと。二重の試練を乗り越えていく子どもたちに敬意をはらい たいものです。
自立のために「場所」「条件」をつくること
子どもたちは一人で考えて、悩んで、「自分は自分であっていいのだ」 と考えるわけではありません。いろいろな経験が、さまざまな人との出 会いが自分をつくる要素になっていきます。障害がなければ、「親離れ」 は反抗と共にやってきて、はなばなしく事件を起こします。あちこちに、 当然のように心配や迷惑や被害をかけながら、親を乗り越えていくので す。障害をもつ子どもたちにだって、そんな「自立」のための経験やス ペース(仲間・空間・時間)が必要ではないでしょうか。親から離れて も、不安にならずに、生活できること、思いを伝えられることが大切で す。新しい人たちの中で、新しい経験をいっぱいしながら、新しい自分 に出会えることが、障害のあるなしにかかわらず必要なのです。できれ ば「思春期の嵐」が吹き荒れるまでに、比較的、体調がよく、安心して 新しい場や人に任せられる時期に「自立経験」を作っておきたいもので す。 どんなに気持ちの分かる、くみとれる親御さんであっても、子ども たちは思春期、親との生活だけを望んでいるのではないのだ、と感じる ことがあります。誰だって親から離れたい、一人になりたいと感じるこ とはあるのです。寄宿舎や施設を経験した障害をもつ子どもたちを見て いると「お父さん、お母さんがいなくても私は大丈夫! ちゃんと生活 できるよ」とでも言いたげな自信に満ちた顔にたくさん出会います。寄 宿舎や施設は親が面倒がみられないから預ける所、というマイナスのイ メージではないのです。どんなに重度の障害をもっていても、寄宿舎や 施設の生活を通して、子どもが「私は一人でも大丈夫!」という自信を つけると、それは「そうなのか、この子は私がいなくても大丈夫」とい う親御さんの自信につながるのです。 そんな、自立のための場所づくり・条件づくりが今こそ必要です。子 どものためにも施設は大事、とどんなに思っても、親が安心して子ども を生活させたいと願うような施設も設備も、まだまだ十分ではありませ ん。一方では親の方の健康問題も必ずといっていいほど出てきています。 子どもたちの命を守り、生活を築く場所をつくること、親にとっても安心して子どもを託せる場所であること、たくさんの人とかかわってとも に育ちあえること、そんな「場」が必要です。子どもたちが生活の主人 公として学校や施設で育つように、親もまた、施設や地域づくりの主人 公として、かがやきたいものです。 親御さんが「子どもには子どもの人生がある」「私にも私の人生があ る」と心の底から思えるときにはじめて、障害をもつ子どもたちもまた 『障害をもっていても、私は私』と思えるのではないでしょうか。
【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
バイリンガル環境で育った子供が、帰国して、「9歳のときに英語が喋れなくなる」のはよく聞く話。 これがどういうことかというと、脳が内言を強化する時期。 つまり今までに育ててきた言語能力が、前頭葉を刺激して「自己内対話」を行う時期。 この時期に、子どもは自分で考えて言葉を使って、自分の状況を説明したり、考えたりする。 その言葉を「口に出して」話し、応えてくれるだれかがいて、世界を理解するための、大人の言葉かけを前頭葉のなかに刻み込んでいく。 だから日々日常の中で使わない言葉を脳内に止めるコストよりも、脳は、日々日常にある言葉を使って自己対話能力を大きくしていこうとする。 「8歳、9歳で英語を忘れる」のはそのためだと僕はおもっている。 この時期に「宿題を全部終えてから」と言ってしまえば、好きなことをする前に嫌いなことをやらなきゃダメという価値観をつくるし 発達に合っていない理不尽なできない宿題でも「やらなきゃダメよ」といわれれば、人生そんなもんかとおもってしまう。 怒られてばっかりいたら、「どうせ僕は」という回路をつくるかもしれない。 逆に、感謝の気持ち、人間関係、オシッコやうんこのように怒りや悲しみを排出すること、 羨ましい!が妬みにならず尊敬の念になるような変換装置をつくること。 他人の気持ちについて話す機会をもつこと。 落胆した時、がっかりした時に、自分を励ませるようになること。 自分の使う言葉を、しっかりと噛みしめること。 世の中の仕組みを理解すること(感情はつくられるもの。それをどう使うかは、自由。とか。学校だけにこだわらなくてもいいんだよ。ほら、こういう人もいる。とか。) そうした「心の言葉」が脳に刻まれるといい。 こうした心を渡せるのは、本当に、一番身近なのは、お母さんだ。 これはもう、そうなのだ。 お母さん! ーー
ーーー そういう大切な時期、子供はなんだってできるようになる。 なんだってやらせるのはいいが、会話、対話によってこのような非認知能力、情動知性、社会的情動スキルの黄金期をやり過ごしてしまっていないか。子供は常に、学ぼうとしている。学ぼうとしていることを学ぶことを励ますだけでいい。 今、お母さんたちの不安の声が聞こえましたが。 その不安をマネージメントするのは、お母さんの宿題。 お母さんができない(やりたくない)宿題を子どもに押し付けないように。 例えば、「◯◯したくない」と子どもが言ったとしよう。 どうしたの?何があったの?もう少しお話してくれる?といって、まず感情が整理できるように。 「したくないことでもさせなきゃ忍耐力がつかないのではないか」と考えたら、アウトです。 それは、病気の学校の先生の考え方に近いような、、、
幼年期の刺激で発達しやすいのは、高度な精神的能力や人格というよりむしろ基本的な感覚運動能力である。しかも、そうした能力を培う力は成長するにつれ非常にゆっくりと衰えていく。(『こどもの「遊び」は魔法の授業』p.61)
「そのようなとても早い時期に、概念やいろいろなスキルを教えるのは、まったくの時間の浪費である。たとえ、丸暗記をさせてもそうだ。なぜなら、体験を伴わない理解は、学習にならないからだ。(『こどもの「遊び」は魔法の授業』p.61)
どうして多くの日本人は、しあわせになろうとしないんだろう。 子どもがいつでも教えてくれるのに。
【子どもに学ぶお城の壊し方】生きるとは○○○○○をつくること【批判的精神とは】
○の中に何が入るでしょうか。 仲間? 家族? お金? 時間? 地位? ーー
ーーー 最近、生きるということが「自分ルールをつくること」だと感じた。 「ルール」を変えていくこと。といってもいいだろう。 もちろん「自分ルール」だ。 今まで作ってきたルールがある。 あるものは無意識であって、あるものは意識できる。 例えば食。 習慣になっているというのは、無意識のルールになっているといってもいい。 レトルトのカレーを食べ続けて肝臓を壊したおとのねさんは再び大豆を中心にした生活にシフトしました。 対人的なルールもある。 「心」のあり方だ。 例えば「これこれこういう人に会ったらこうする」とか、「こういう状況ではこうする」といったもの。 「心」のルールの多くは自分を守るものだ。 「命」のルールは、自分がより自分として生きる、喜びを感じるものだろう。 命を大切にするルールを、僕らは顧みているだろうか。 「心」のすり減りを食い止めようとする、なんとか耐え忍ぶためだけにエネルギーを使っていないだろうか。 僕たちは「命」を大切にしているだろうか。 ーーー
ーー ダイゴが「習慣にすると楽だ」といっていた。 習慣になるまで、意識的に続けてみる。そうすると、「次」がある。 自分で決めた新しいルールを身につけていこう。 例えばかの有名なジョブズは着る服をルーチン化して、無意識にして、意識は創造的な仕事にまわした。 イチローはカレーを食べ続けていたらしい。 心のエネルギーは限られている。 選択肢を減らして、創造的になれる生き方を目指すには、「自分ルール」をつくることが大切だ。 僕の師匠であるアーティストのガクトもそういっていた。 今になって、なるほどとおもう。 例えば部屋を片付ける、いらないものを捨てる、というのも「自分ルール」をつくることになる。 情報を整理し、取捨選択し、「実行」することにエネルギーを注ぐ。 「ルール」とは行動の枠組みをつくるものだ。 ーー
ーー 数学で学ぶメタスキル も同じだったりする。 ただし数学ではルールは決まっている。 ルールを知って、習慣になるまで、考えなくてもできるようになるまで基本的な所作を身につける。 そうすると、次の新しい何かが入ってくる。 頭で理解しただけではだめだ。 無意識にできるようになるまで、鍛錬すること。繰り返すこと。 そうすると、次に進める。 もっと別のことを感じることができる。 数学には原理や公理があるように、「自分ルール」でも原理や公理をつくることができる。 それすらも変えられるのが、人間の凄みのようにおもう。 ルールを自分でつくるのだ。 (そうしてソクラテスは毒杯を飲み干した) ーー
ーーー 「自分ルール」を作り出すのは魂だ。命だ。 ある人はブラック企業、ブラック学校で、もしくはブラック家庭で「とりあえずやりすごす」心の仕組みをつくるかもしれない。 それも「自分ルール」だ。 「自分ルール」には2種類あるとおもう。 一つは「闇を歩く」ルール。 もう一つは「光を歩く」ルール。 我慢、忍耐、辛抱、ただただ心をすり減らす、弱らせていくルールを課している人もいる。 一方では心を開いて命が強くなるようなルールを課す人もいる。 (最近僕は、闇を歩くために強くなった自分というものは、社会的にはあまり認められないとおもうようになった。自分がしあわせにはならないと感じ始めた。もちろん、闇ルートを歩いて強くなった自分も、自分なのだが。光のルートを今、探っている) 「ルール」は「心」のあり方であり、「命」の燃やし方だ。 ー
ーー 多くの人は、僕も含めて、今まで使ってきた「ルール」に縛られている。 「こうすべき」「ああすべき」「こういうときはこうする」 けど、それが不思議に思われる、違和感を感じるときがある。 どうしようもなく堕落したとき。 体が悲鳴をあげるとき。 そういった瞬間に、「ルールを変える」ことを意識してやっていきたい。 「ルールを変える」のは、実は、5歳くらいになって僕らがだれでも遊びの中で経験することだ。 5歳のときに学んだこのメタスキル は一生使える。 ルールを作り、おもしろくなかったら、不都合があったら、どんどん変えていく。 「学校に行く」「宿題をする」「会社で働く」「みんなと仲良しする」 「命」のあり方を、「心」が支えいる。 批判的な精神とは、このようにまず自分に向けられるものであって、他者の悪口をいうものではない。 ということを忘れずにいたいものだ。 ーーー
ーー 無意識の自分ルールを「自動思考」と呼ぶことがある。 自分を相対化できない、客観視できない、ただ流されているだけ、振り返れない、感じられない。 仕事で、宿題で、「どうしようもない」状況で、「ルールに従う」ことで精一杯になっていないか。 そういう時もある。 だからこそ、「違和感」を感じた瞬間を大切にしたい。 「ルールを作り出す」ことこそが、僕には人間らしいようにおもえる。 「違和感」は「命」の叫びだ。 よくよく感じ取って、「命」を「心」で抱きしめてあげよう。 と、僕も自分に言い聞かせる。 「命」は「わたし」を超越している。 生きるとは、「心」で自分の「命」を大切にすることなのだとおもう。 命を大切にするルールを、作り続けていこう。 変え続けていこう。 「わたし」の「命」の本質がわかって、「心」を使うことほど、しあわせな生き方はないように、僕はおもう。 誰も「わたし」の「命」になど興味はない。 「わたし」が自分の「命」を大切にて燃やさなかったら、宇宙の片隅で鈍く光る「わたし」を見つけてくれる人が、一体どこにいるだろうか。 そうして多くの人が、「ブランド」「ラッピング」という「他人のルール」にこだわる。 ようにおもう。 僕にはそれが、不自然におもえるのだ。 ーー
ーーー 自分で作った砂の城を簡単に壊して笑っている子どものように、自分で一生懸命つくりだした「自分ルール」を笑いながら壊していく心を、子どもから学びたい。
学童期に大切な「学び」を保障する場所。
0歳から1歳 子ども(体外胎児期 0歳:感覚と感情の経験 1歳から4歳 子ども(幼児期 1歳:ニューロンの再構築(一度出来上がったシステムが、全く新しくなる) 社会的所作の獲得開始(食べる・排泄する・) 2歳:みえない友達 3歳: 4歳:サリートアン課題ができる 5歳から8歳 子ども(学童期 指先の細かい動き 5歳: 6歳: 7歳: 8歳: 9歳から12歳 子ども(思春期 9歳:数学的抽象概念の理解・言語的な社会化(内言の発露) 10歳: 11歳: 12歳: 13歳から18歳 大人(思春期 感情にまだ名前がない、未分化な状況がある。 人間らしいシナプスが作られるようになるという1歳児から、子どもは、少しずつ、「名もなき感情」が生まれた時の「対処法」、感情との「対話法」を学んでいく。あこがれ、うらやみ、とまどい、怒り、、、少しずつ、少しずつ、、、、それがある程度、その子のデフォルトは、3歳になるまでに固まるという(保育士さんの経験則)。 高次認知的情緒とよばれるこうした「いろんな名前のついた感情」に、子ども自身が、子どもの内部で、心で対処していけるようになる。 友達を脅す子 友達に媚びる子 誰にでも対等に関わる子 ひとりで遊ぶ子 そしてどの子が持っている力も、社会化することで、「天の才」として、伸ばすことができる。(個別化) それを子ども時代の大脳辺縁系の発達のままにしてしまうのではなく、人間として、大脳新皮質を育てることが大切だと、オトノネさんは思っています。 それは全て、人との関わり合いの中で、遊びの中で育つ。 プリントをたくさん解くことで育つのではない。 ーーー
ーーー 3歳までの遊び方・学び方で、その子のその後の育ちがだいぶ、決まるらしい(保育士さんの経験則)。 実際、脳はいくら臨機応変だといっても、その時その時「育てたい部分」がある。 ある部分が、適した時期にある程度でき、そしてその次に、「基礎」をもとにして、新しい部分を作っていく。 人間の脳が、辺縁系の上に、新皮質がプラスされているように。 同時に全部、ではなく、やはり優先順序が、そのときどき、発達の段階で異なるということ。 乳幼児には、呼吸器や筋肉など、とにかく生きるために発達する。 幼児期には、人間として生活する所作を学ぶ(甘える・怒る・駄々をこねる・一人で静かにあそぶ・誰かにいつもひっついてあそぶ)。【自主性】 学童期には、鍛えられた探究心、身体性を最大限に使って、あそぶ。ルールを理解できる。(知識・技能・関心の個別化・深化)【自主性・創造性】 思春期(子ども)には、すでに独立して、他者から自立して内言をつかい、話し合うことができる。協同して学べる。ルールをつくれる。(自立・協同)【自主性・創造性・(小さな)社会性】 思春期(大人)には、子どものときに培った「天の才」を極めて、社会化するような学びを深める。多様性に接する。【自主性・創造性・(大きな)社会性】 18歳になったら、「職場」で学ぶ。 (大学は、もともと、研究者を要請する場所だった。大学という「職場」で学ぶことだった。それが今は、教育基本法改正(改悪)によって、高校と同じ「学校」になってしまった。今は「幼稚園」だけが学校に含まれているが、これから「認定こども園」を学校に入れようという動きが見られるだろう。それは、日本がアルイミで終わる瞬間だ) それからは、組織を選んだり、自分にあった場所を探したり、、、いろんな生き方がある。 学び直すのもあり、、、外国にいくのも。旅をするのも。 次の発達段階、発達課題を見越した関わり合いが大切。 一つ前の段階から、次の段階のタネを育てていく。 例えば、学童期に創造的に「粘土」とか変わるために、「砂場」でたくさんあそぶこと。とか! それは思春期になって、自分の「天の才」として、「土」の仕事を目指すきっかけになるかもしれない。 学童期の最初の段階、5歳で象徴的な「創造」「集中」「深化」の例として、他にKAPLAが挙げられる。 時間をかけて、ひとつのイメージに向かって、作り上げていく。 身体的な発達については、「検診」で診断される。 身体的な発達が遅れて入れば、その分だけ、精神的な発達にも影響があると考えるのが道理だが、そうとも限らないこともある。 アームストロング博士は有名だし、オトノネはクシュラを例として挙げたい。 1歳児半検診で「両手で叩ける」ことが検査項目にある。 身体的な機能、発達していく心を見越して、環境を与えること。 そんな当たり前を、おとのねはあたりまえにやろうとしています。
子供が学校に行くことの親にとっての意味
小学生、中学生、高校生が学校に行くことにあまりいい思いを抱いていなかった。 学校で学べることは社会性でなく集団性であると言ってきた。 そこに肯定的な意味をみつけられたのでメモしておく。 学校は子どもたちが人生観を作る場所だ。人生観を問い、多くのことを疑問に思い、「なんで勉強しなくちゃいけないの?」「なんで先生はあんなことをいうの?」とか、友達との付き合い方も。 だから学校という職場で起こった出来事をイベントと考えて、大人として、その子が「社会」とどう付き合って言ったらよいかおやから学ぶこと。 それが学校に行く意味だ。 学校以外に生きる場所を失った子どもたちの宿命に、お父さんお母さんはどう関わりますか? 学校に行くことでお父さん、お母さんが子どもに知恵や価値観を与えたり、育てたてることができる。 この点からも、お父さんお母さんが学校と一緒になって成績のことを言うことがいいことだとは思えない。 子どもが学校で学ぶ以上に、お父さんお母さんが現代という時代、学校という場所について価値観をもっていなくてはいけないのではないだろうか。 (子どもはなんだかんだいって親の背中を見て育つ、お父さんお母さんが輝いていたら、子どもも輝く、かもしれない???) 逆に考えてもいい。 新しい時代が始まっている。社会は変わっている。 子育てを通じて、お父さんお母さんが「現代」を学ぶいい機会でもある。 お互いに学べる親子関係、なんて素敵なんだろう!
子供の自立とお母さんのライフサイクル
子どもとともに、お母さんも変わっていく。 子どもが自立すると、お母さんの暮らしが変わっていく。 というような話を聞いたことがある。 実際、そうらしい。 「あの幼稚園にいくために」野を超え山を越え、引っ越しをするお父さんお母さんもいる。 子どもが生まれて、保育所入って、習い事初めて、帰ってくる時間が変わっていって、云々。 だから適した仕事も変わる。 仕事を変えないために誰かに預ける。 (5歳くらいになったら「おりん」みたいに丁稚奉公に出されることもあったくらいだから、いいのだけれど。。僕は僕なりに思うところがあって、母乳で育てて、3歳くらいまでは一緒にいてほしいとおもう) 子どもとお母さんの結びつきは大きい。 だからこそ自立の時にしっかり自立を見守ってほしい。 でないとお母さんと子供で心中することになりかねない。 で、離乳のときから、もう自立が始まっていると考えていい。 最終的な自立は15歳でいいとおもう。 それ以降、何歳までも、引き伸ばせる。 お子さんは自立します。 お母さんは、その後の人生、どう生きますか? その後の人生に希望を持てないお父さんお母さんが、躍起になって子どものお世話をしていると、誰も幸せにはなりません。 ーーーー
ーーーーー インドネシアの児童養護施設の視察に行った時、唖然としたのが。 所狭しと寝ている状況で、みんな笑顔だということ。 先生も笑顔だ。 日本では個別化、個室化、家庭に近づけようとしているけど、予算が回らず結局、路線変更をしている。 日本は何を守っているのだろう?誰を守っているのだろう?誰から、何から守っているのだろう?
思いやりと「心の理論」の関係『子どものあそびは魔法の授業』
他人の視点を考慮できないないということは、悪さをするとき、復讐心や悪意を持ってそれをすることはありえないことを意味している。悪意を持って何かをする(一部の大人が得意なこと)ためには、以下のような執行プロセスが必要である「( )するのを邪魔したままに僕は腹を立てている。でも、僕がこりずに( )をすれば、ママはきっと困るに違いない。そうすればママに仕返しできる」。しかし、もし子どもが母親の心を想像できなければ、そんなことなど考えつきようがない。(『子どものあそびは魔法の授業』p.318)
つまるところ、4歳になるまでは子どもには悪気はないということだ。怒りをぶつけて「叱る」ことは子どもを不安にするだけでしかない。(怒りをそのままぶつけたら、子どもでなくとも、誰でも「いや」な気持ちになるしかないだろう。怒りをぶつける人に出会ったらどうするか?これも子供はお母さんから学ぶようにおもう)
ふと考える。心の理論と共感は違う。心の理論は思いやりに応用ができるが、共感に基づく思いやりが先だ。
「心の理論」は4歳以降でないと生まれてこないことが実験でわかっている。しかし、2歳の子でも、悲しそうな友達や母親に毛布をあげる。これは「延滞模倣」だとおもえば説明がつく。悪気も何もない。ただ、真似てみるだけだと思えば、説明がつく。心から、前頭葉を介さずに、ただただ、自然な反応として生まれるこの行為を思いやりと言ってもいいかもしれない。思いやりは道徳の授業では身につかない。信頼できる人が思いやりを持って誰かに接する経験、思いやりを持って振舞われた経験がなければ、心の理論ができても、思いやりを持った行動をすることができない。
4歳にならない子どもが「思いやりある行動」をしてくれたら、それは、もうとんでもなく、お母さんにとってもしあわせな出来事だろう。人間らしく、人間としてよりよく育っているという、証なのだから。
ところで、心の理論=間主観性=おもいやりと思われがちだがそういうこともない。
ロバータの息子ジョーディは3歳になろうとしていた頃、夏の美しいたそがれどき、ベビーカーから月を見上げて言った。「僕らは彼らにとって月?」ロバータはびっくりした。ジョーディが尋ねたのは、月の住民の視点についてだったからだ!(『子どもの遊びは魔法の授業』p.321)
3歳になろうとしているとき、すでに月の目線にたっている。心の理論の実験は、実験室の中で生まれた「課題」に対する答えであって、もっと切実な、子どもがうんと真剣に考えたり感じたりするのなら、心の理論はもう3歳になったらできているとおもってもいいのかもしれない。
自信、自立心、意欲
「自信がないからできない」「自信がない」
気持ちがでない、の言い換えですね。
気持ちはどうやって生まれるのでしょうか?
嫌だ、やりたくない、とおもっていることをやるには?「勉強しなさい」と言い続けることではありませんね。「もっと自信をもって」と言われても困ります。
自信を持ってやるとは、意欲的にやる、ということです。「これでOK!」とにこやかに言えるか。そのために「これをやったらご褒美」を子どもに与えるのはよくありません。物欲的な人になってしまいます。他人に対しても物で釣る人になってしまいます。
自信がない子は、「ダメだ、ダメなんだ、どうせできない・・・」と思っています。だから、だれかが手伝って一緒に「なんだ、できるじゃん」という経験を重ねるのです。
誰かと一緒に経験を重ねること。ここに、気持ちが生まれる泉があります。孤独は辛いものです。心にひとりで向き合うのは、とても大変なのです。自信も、自立心も、意欲も、誰かに支えられながら育っていくものです。
小さい時、一人で歩き回れるようになった赤ちゃんが後ろを振り向いて、「お母さんいるかな?」「あ!お母さんがいる!」といって、また走り出したのを覚えていますか?支えてくれる人がいれば、自立心も、自信も、意欲もでてくるのです。
人間はそういう、生き物です。
子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てるのが教育。
託児所で学んだこと。 10ヶ月の子。 離乳食を口の中にスプーンで入れてもらった後に、指を口の中に入れる癖がある。 そこで保育士の先生。 指を口の中に入れる癖はよろしくない、それは癖になる。 ということで、「大丈夫、口の中に入っているよ」と言って口に入れた指を手でどかす。 けどそれが何回も続くので、口に入れるスプーンをもっていく場所が悪いのか、という仮説を建てたその先生は、場所を変えて食べ物をあげて見た。 それでも、やっぱり指を入れる。ん?となって、また次の時に、どうして指を入れたがるのか、その先生は解明するだろう。 ーーー
ーーー 子どもは小さい時、「泣いて勝とうとする」という。 泣いたら、何かしてもらえる、という癖をそのまま、2歳までもっていくと、いわゆる「魔の2歳」と呼ばれるのではないかと僕はおもっている。 泣くという行為(泣いたらなんとかしてくれる!)が、逃げ回ったり、手を出したりする行動(暴れたらなんとかしてくれる!)になるのではないか。 今度先生に聞いてみよう。。。 ーーー
ーー 小さい頃から濃い味に慣れてしまった子どもは、薄い味を食べられなくなる。 今時の小学生の給食で好まれるのは「ラーメンと唐揚げ」だという。仕事帰りのお父さんとおなじメニューじゃん。 いやいや、伝家の宝刀、カレーはもちろん。人気だそうです。(最近出会った栄養士さんの話) どんな食生活をしているのか。 癖はなかなかなおらない。 いや、いつでも直せる。 直すための環境が揃えば。 自我が発達していれば。 自分で「あれ?」とおもうか、環境がそうさせるか。 だから離乳食のときに、食べ物を噛んで味わえるようになった時に、いろんな味を、歯ごたえを経験させることが大切だと、先生は言っていた。 その後、好き嫌いがでてきても、大人になってから、必ず、その味に、食材に、出会えるきっかけがある、とのことだ。 学校でも、いろんな先生に出会うだろう。 嫌いな食材を食べさせられることでまいってしまう子もいる。 今は、その子には、その食べ物は、人間関係は無理なのだ。 今は。 大人になってから、苦手な人とであったときに、自分なりに関係を作っていけるようになる。 僕自身がそうだったから、子どももきっとうそうなると信じている。 ーー
ーーー 「泣いて勝つ」というコミュニケーションの作戦を子どもはとろうとする。 乳児期に、離乳食の前までにそれを覚え、使い続けようとする。 けどいつまでもそれじゃダメだと、「教える」ことは大切だろう。 「待たせる」こともあっていい。 ぜひ、待ってもらおう。 待って入ればちゃんと助けてもらえる、眼差しをくれる、暖かさをくれることを「教えて」あげよう。 待つことは、大切なメタスキルだ。発達の課題だ。 待つという経験を、赤ちゃんの時からさせてみよう、 たぶんそういうことなんじゃないか。 「魔の2歳児」が本当にあるかどうかわからないが(今度先生に聞いてみよう)、関わり方一つで、「教える」ことを意図することで、子どもは順序よく、無理なく発達していく。子どもという一つの宇宙が育っていくための、子どもというひとつの自然がシステムを作り出すための、必要な種を渡していく。そんなイメージだろう。 ーーー
ーーーー 種を蒔いていく、蒔かれた種を育てていくはずの学校で、子どもの大地が、子どもの泉が、子どもの森がまるで「公害」のように汚染され、傷つけられていくことがある。もしくは、全く種がお世話されないか。子どもは泣くだろうか。暴れるだろうか。「学校に行きたくない」というだろうか。お父さんお母さんが子どものメッセージを受け取って、守ってあげることが親としての責任なのだろうか。 お金のための仕事をしなくてはならないお母さんがたくさんいる。 今しかできない、子どもを育てるという仕事と両立できるんだろうか。 昔だったら、「おしん」の時代なら、小学生といえば、もう立派に仕事をして、働ける年齢。 大人が水をやり過ぎたり、日光を当て過ぎたりして種をダメにしてしまっていないか。 (そんなこといったら何をしていいかわからなくなってお母さんは不安になってしまうかもしれないが) けど今の小学生は、、、学校以外に行き場がない子が多い。 学校は、この意味で、牢獄だ。 子どものための社会資源が足りない気がする。 子どもの自然を守り、小学校に上がる前に蒔かれた種が育つための環境が、整っていない。 ーーーーー 最近、安い納豆についているタレを使わずに、家にある醤油をかけて食べたら。 納豆がすっぱかった。 納豆の味は納豆のタレの味だったわけだ(それからちょっと高い「ちゃんとした」納豆を食べることにした) 安いものはいくらでも出回っている。 オトノネは、やっぱりちょっと高くていいとおもう。 じゃないとオトノネさん過労死します。 ーーーーーー ある種の行為が癖になると、それで神経が作られるようになる。 その神経を作り変えていくだけの、自然な、多様な人間に出会う機会に恵まれた子どもは、しあわせだ。 多様性の中に、おとのねがあってもいい。
内言が生まれる9歳
どうして9歳の子供にできて、大人にできないのだろう。 マッカーサーが言ったように、日本人は精神的に、10歳だということを、素直に受け入れてもいいのかもしれない。(といってしまえば、多くの国が、10歳レベル、ということになる?)
「教える」といった表現自体は、4歳になった頃にはあまりみられないが、年中も5歳頃には見られるようになり、年長にはより一般的なものになってくる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.168)
◆年長児のA子は編み物がとてもじょうずで、器用に長く編むことができる。同じ組のI子は、じぶんも編みたいのだが、どうしてもA子のようにはうまくできず、どのように編んだらよいのかをA子に聞いている。A子はI子の様子を見ながらI子に編み方を順序立てて教えている。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.174)
5歳:共同作業ースキルを知っている人が知らない人に教える。 9歳:異質さを繋げる。気づく、認める。
共同経験の効果が混合ペアの初心者のみに見られた。熟達者と共同で組み立てた経験が、事後テストでのレゴブロック課題の遂行に顕著な促進効果をもたらしたのである。そのやりとり過程を分析すると、初心者同士に比べ金剛ペアの初心者は相手(熟達者)の行動をより頻繁に観察することがみられ、熟達者も、熟達者同士の場合よりも説明やデモンストレーションを与えることが見られる。つぎはどこにレゴを置くべきか、なぜここにブロックを置くかなどを初心者に話すことが観察されたのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.175)
5歳であることを終わらせたらいけない。 大人も、5歳児のようにあるといい。
年長も6歳頃になってくると、子供同士が対等にアイデアや考えを出し合い、話し合いながらの協同的な課題解決がより巧くできるようになる。その表れが、「こうしたらどうや」「こうしたらいいやん」と、子どもたちがアイデアや工夫を持ち寄りながら協同でじぶんたちの遊びをつくりあげたり、問題解決的な場面において子どもたちがそれぞれの意見や工夫を第愛、もちよりながら解決していこうとする姿にも見られる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.177)
============== いまではいじめは小学校からはじまっている。中学校になるといじめの強さも規模も大きくなって取りざたされるようになるが、小学校の中学年で不穏な雰囲気ただよう学校の雰囲気が強まるようだ。どういうことか。いろいろなお母さんがいるから一概には言えないが、9歳頃になると内言が発達し、4人でグループ学習をしてもみんな対等に関わり合える、異質な人としてコミュニケーションができるようになる、というようなことを佐藤学が講演会で言っていた(経験則らしい)。9歳からの発達課題はなにか。「どうしたらこの世界で、うまくやっていけるのか」をみつけることだと、今僕はおもう。それは異質な他者との「人間関係」を学ぶことである。感情だけではなく、内面性、深い場所にある自己、他者にとっての他者にとっての自己を含めた複雑な人間関係の中でホンネとタテマエのバランスをとる生活、人間関係をデザインしていくこと。虚構の世界へ向かっていたファンタジーが、「わたしという一人の人間は一方でこうであり、他方でこうである」という同時にいくつもの面をもっていることを認識する。それは心地の良いものではないかもしれない。大人たちが、何を「よし」とするか。そして子ども自身が、何を「よし」とするかという対立構造も生まれるだろう。 ワタシと友達の間ではOKだけど、その友達にとってはNGなことがあったらどうするか。部活でみんなと一緒にいるのは楽しけど、たまにいじめがあっていやだ。とか。ワタシがどう考え、どう行動したらいいか。 うれしいけどかなしい、といった2次感情が同時に生まれてくるのが何歳か忘れたが、それを基盤として今度は感情を超えて、「ひとりのわたし」の行為や振る舞いが多面化するのを手伝うことだ。日本の文化としては、オモテを闇に葬る、愚痴を言う、影でいじめをするという抑圧を子どもが学ぶ傾向がある(いまでは3歳からもう抑圧が始まっているようだが)。心の理論の二次、三次の能力もここで試される。自分から離れている関係の人に与えるワタシの行為、言葉の影響を考えることができる。考えてしまう。「われわれ」のなかに「われ」をどう位置づけるか。「われわれ」
忘れ物を小学校に届けるお母さん
「学校の迷惑になるから」「みんなの迷惑になるから」「(親が)先生に怒られるから(!??)」 そうして子どもの問題解決能力は育たなくなりましたとさ。 「お母さんがなんとかしてくれるよ!」 おしまい いや、思春期になったらね、「あ、それじゃまずいんだな」っておもうんだけど、思春期がくるのが、大学生とか、社会人とか、親が死んでからっていうパターンもあるのです。人によって、発達はまちまち。 正しいもなく、悪いもなく、ただただ、その子と、その子の環境なのです。 忘れ物を届けに行ったらいけない、というわけではないですよ! 心が大事。
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