「問題行動」は子どものSOS【子どもの願い・大人の願い】
どこでも換気扇や扇風機にばかり興味のある子ども、いつも同じ本ば かり ペラペラめくっている子ども、その「こだわり」を何とか止めてあ げたいと思います。しかし、すでに述べたように、自閉症の子どもたち の「こだわり」は、「わかっちゃいるけど、やめられない」ものです。
子どもには、新しい人やもの、そして新しい空間にとても不安が強まる発達段階があります。それが「安心できる自分の世界」と、そうでない「他者の世界」を区別し、「他者の世界」に不安をもつ「二分的世界」です。しかし、不安なだけではありません。「こわいけれども興味があ る」のです。自閉症の子どもたちは、この葛藤を乗り越えていくのがむずかしいようです。不安や葛藤をものによって支えられようとし、ものを操作することによって、心理的に安定しようとしています。これが 「こだわり」とみられるのでしょう。
人は、ものにだけ支えられるのではなく、人によって支えられる存在 ではないでしょうか。自閉症の子どもたちに、心の支えとしての信頼で きる人間関係を形成することが必要なのです。しかし、目が合いにくい からといって、おとなの方から無理に目を合わそうとすると、かえって 視線をそらせます。いっしょに遊べないからといって、無理に正面から 遊ぼうとすると、逃げていくかもしれません。そんなとき、少し子ども と間をもって関わろうとすると、子どもの方から視線を合わせてくれる ことはないでしょうか。子どもの方からおとなの背中や膝を求めてくる ことはありませんか。そのまなざしやタッチを受けとめると、表情がやわらかくなり、心がつながったと実感できます。
子どもに信頼される関係をつくることはたいせつです。しかし、人間 関係はおとなが決めるのではない、子どもが選び取るのです。自閉症の 子どもたちは、対人関係がとりにくいというよりも、相手のことを認識しつつ、わざと無視しているようなところがあります。相手をうかがっ ているのでしょうか。そんなとき、子どもからのサインがおとなに受け とめられることによって、その相手への信頼が生まれてくるようです。 そして、やがてはA先生とはがんばるけれど、B先生には甘えたいとい うような子どもなりの区別した人間関係をつくろうとするかもしれませ ん。それも、子どもががんばって生活するために、自分なりに心理的バランスをとろうとしているのです。(白石正久『発達の扉(下)』p.64)
自閉症は、乳児期の後半から1歳半の発達の質的転換期にかけて、そ の障害が現れ出します。したがって、1歳半健診において、確実に発見 したい障害の一つです。幼児期に目立つ多動さは、3歳頃までに強まり ます。この時期に、多くの場合おとなは子どもを追いかけ、抑制しよう とします。しかし、多動さのなかで子どもは一定の順序で周囲のものにはたらきかけ、空間を順序だて理解しようとしているのです。もし、こ のときにおとなが追いかけたり抑制しようとすると、探索の順序が混乱 し、周囲の環境を理解することができなくなります。この混乱と周囲へ の不安によって、追いかければいっそう逃げていくような多動さに発展 してしまうのです。また、相手の意図を感じるようになる時期でもあり、 抑制しようとすれば逃げ、戸に鍵をかけようとすればそれを開けても外へ出ようとするでしょう。お母さんが家で子どもと向かい合いがんばっている姿は、おおよそこのようなものになってしまいます。それは、子 どもの障害と出会って間もないお母さんにとっては、当然のことです。 だからこそ、1歳半健診の後、時をおかず療育の場に誘ってあげたいの です。開放的な広い空間のなかで探索を許された子どもたちは、部屋から出ていくこともありますが、周囲を知り得て、やがて自分の空間に戻れるようになります。そのとき、自分の空間のなかで楽しい世界がある ことも知って、次第に自分の居場所を確定していくのです。このとき、 多動という障害は、発展しきらないで軽減の道に入ることができます。(白石正久『発達の扉(下)』p.84)
「問題行動」の裏には、子どもの願いがある
自閉症児の場合には、しばしば「問題行動」が困ったこととして、ま た、いかに対処すべきかという問題としてあげられてきました。しかし、 「問題行動」はすべての自閉症児に同様に現れるわけではありませんし、いつでも見られるわけでもありません。ある時期に獲得すべき力がその 障害のために獲得しにくくなっているとき、そして、その困難さが外の 条件――とりわけ、子どもにとって適切でないはたらきかけ――とぶつ かったときに「問題行動」となってしまうのではないでしょうか。
まわ りから見たら「問題」な行動には違いないのですが、子ども自身の側か ら見ると、外の世界が見えてきて、自分なりに取り入れようとするから こそ、つまずき、こだわって、ぎくしゃくしてしまう、結果的にまわり とのトラブルを増大してしまうことになってはいないのでしょうか。新 しいことが見えてきて取り入れようとするとき、挑戦しようとするとき、 私たちも、子どもたちと同じようにためらいます。相手(新しいこと) との距離をはかり、ためらい、いきつもどりつしたあげく、ようやく足 をふみだすことができるのです。障害をもっている子どもたちの場合も 同じです。人とのかかわりが弱いといわれている自閉症児だって同じな のです。そして、いきつもどりつ(やってみたい、でもできるようにな るだろうか)という気持ちの育ちにくい自閉症児だからこそ、その気持 ちを育てるはたらきかけは根気よく、ていねいにしなければなりません。 ていねいに土台を育てて、気持ちを支えるなかで、子ども自身がいきつ もどりつの葛藤を飛び越えて、新しい世界を切り開いていくことができ るような援助が保育や教育のなかで必要とされているのです。(『発達相談室の窓から』p.141)
障害をもった子どもたちがみせる困った行動は、「問題行動」と呼ばれることがあります。しかし、「こだわり」を例にして述べたように、「問題行動」の裏側には、子どもたちの前向きな葛藤が横たわっているのです。
自閉症の子どもたちがみせるパニックも、多くの場合には、子どもに「○○をしたい」「○○がほしい」などという要求が生まれてきている結果です。あるいは、「常同語」のような一方的なことばも、自分に何かをさせよう、何かを言わせようとしている相手の意図を感じて、それをなんとか回避したいと思っている子どもなりの工夫のようです。自分の頭を叩くような自傷行為といわれるものも、イライラした気持ちの発散であるとともに、実はそれをがまんしなければならないと思っている葛藤のあらわれとも感じられます。友だちを叩くような他傷行為も、実は相手に関心をもっていることのあらわれのようでもあります。もちろん、いろいろな行動の背景は、一人ひとりの子どもによって、さまざまに 異なっています。私たちがたいせつにしたいのは、すでに述べたように、このような行動を、障害のあらわれとみるだけで終わらせず、背景にある人としての心の世界を理解しよ うとする姿勢です。「どうしてなのかな」と子どもの心に入って考える、その姿勢があれ ば、一人ひとりを理解することは、けっしてむずかしいことではないでしょう。
障害があろうとなかろうと、人は矛盾をのりこえて発達していく存在です。しかし、障 害をもっている子どもたちは、自らの障害とも向かい合い、そこで生まれた矛盾をも、の りこえていかなければならないという特別の存在です。どんなに障害が重くとも、発達へ の願いを放棄してしまう子どもはいません。だから、矛盾をのりこえるときの葛藤は強い ものがあるのです。そんな子どもたちの心の世界に入って、いっしょに障害と向かい合い、 矛盾、葛藤をのりこえていくような保育・教育をしたいものです。 「そんなとき、「問題行動」とみていたことの裏に、きっとその子の心のありさまを発見することができるでしょう。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.67)
「問題行動」「こだわり」から心を読み取る。
「こだわり」だけではないですが、子どもの「困った行動」、あるい は「問題行動」というのは、なぜ起こるのでしょうか。自閉症だから 「こだわり」が強くなるというのでは、あまりにも単純なとらえ方だと 思います。人間のしていることに、心の理由のないことは何もありませ ん。もちろん障害による問題も大きいのですが、それだけではないもの が関わっているはずです。
これは、すべての人間に通じる問題、普遍的な問題だと思っています。 心のなかに悩みをもっているときに、特に人間関係の不安が強いときに、 ものへの「こだわり」が強まっていくのです。なぜか。それはものによ って心が支えられている状態だということです。
わたしたちだってそうです。何か嫌なことがあったり、むしゃくしゃ したり、自分の仕事が認められなかったときなど、パアーッと高いもの を買うと、気持ちがスウーッとして翌日からがんばることができたり、 ちょっといいレストランに行っておいしいものを食べたならば、それで 気持ちが晴れて、また翌日は元気でがんばろうということもあります。
ゆうた君は特に人間関係の不安が強かったのでしょう。だから初めて 入った保育園でその不安を沈めるために、心の支えをつくるために、電 灯を点けたり消したりというようなこだわりの世界に入って行ったと考 えられます。 こう考えると、ゆうた君の行動は当たり前のことだと思います。ただし、人間というのはものに心を支えられるだけの存在ではありません。 (白石正久『発達の扉(下)』p.92)
【子どもの不安と願い】問題行動?は子供の「成長したい!」SOS
白石正久『発達相談室の窓から』p.144-p.149
2)お母さんへの甘えが強くなり、お母さんや保母を媒介に、遊び・模倣・友だちへの興味をひろげていった時期(3歳~5歳2か月頃)
3歳すぎよりお母さんへの甘えが強くなってきた圭くんは、後追いを はじめました。お母さんへの甘えだけではなく、保母さんなどの顔もま じまじとのぞきこむようになり、お母さんや保母さんの指さしたものに も目がいくようになり始めたのです。友だちも気になる存在として目に 写り始めると、逆に不安が強くなりました。運動会などいつもと違う場 面には入れなくなったり、理由もなく泣いたり笑ったりすることも、た びたび見られました。このころ、検査のボールのやりとりで、検査者の 「ころころしてごらん」のことばかけに怒った表情で検査者を見てその 手を払いのけたのですが、その後で、その払いのけた手にボールを渡し てくれました。また、名前を呼んだときにも、ぱっと顔を見てくれたのですが、すぐに怒った表情でそっぽをむいてしまいました。そして、お 母さんの首に即座に手をまわし、頬をくっつけ、キャーキャーはしゃぐ といったふうで、表情の変化の激しさが印象的でした。「相手」や「相 手の領域」に気づき、自分と相対するものとしてとらえ始めたところで 不安が高まっているのを感じることができました。
この時期、家でも、園でも、ていねいに対応することで不安を受けと めてもらった圭くんは、その後、お母さんや保母さんを支えに、知って いる人を増やし、お友だちへの関心をひろげていきました。大好きになっ た遊びを「もっとして」というように、何度も保母さんの手を引っぱり に行ったり、手遊びの模倣が出てきたり、友だちのやっていることにも 入っていける場面が増えました。検査でも、ボールのやりとりに、にこ にこして投げあうことができました。「お母さんにもポーンして」「先生 にもポーンして」との指示にも応じて投げてくれます。名前を呼ぶと、 「はぁーい」といい声でこちらを見て返事をしてくれました。相対する 世界を前にして生じた不安を、お母さんや大好きな保母さんによって支 えられ、支えられることで新しい世界・人との関係を広げようとする心 の動き――今、まさに「主人公」になろうとする力を見ることができま した。要求の指さしが出てきたのもこのころです。
大好きな「相手」をつくり、相手と世界を共有することの楽しさが広 がっていったこの時期にも、問題行動として「異食」が出てきました。 鉛筆の削りカスやひげそりのカスを食べたり、灯油をなめたり、ワイン グラスを口に入れて噛むようになったのです。対人面では人との関係も 確実に広がり、あそびも広がるようになったこの時期に、なぜ異食が出 てきたのでしょうか。いろいろな物を口に含むことでまわりの反応があ りました。その反応を期待するように異食の種類も広がりました。圭く んの異食に限らず、「主人公」になろうとする力・なりたい心や相手の 反応を期待する心が生まれてくると、わざと叱られるようなことばかり するのは、子どもにはよくあることです。相手を求め、相手とかかわりたい、相手の反応を引き出したいと願っているのです。しかし、子ども はいろいろな行動で大人の反応を引き出しながらも、ほめられたり、し かられたりすることを通し、その反応の裏側にある相手の感情にも気づ くようになります。さらには、ほめられればうれしい、しかられれば悲 しいと自分の感情も豊かにつくり始めます。もし、相手の反応の裏側に ある相手の感情(内面)を発見できないまま、相手との関係を深め、相 手の反応を期待しようとすると、表面的な(内面的なものを落としたま まで)反応の大きさだけを求めるようになってしまうのです。圭くんの 異食は相手とかかわりたい、きりむすびたいとの願いの現れだったのです。
3)自分から相手を遊びに誘うことができるようになるとともに、自分のつもりが出てきて、相手の意図との間で衝突、混乱を深めた時期 (5歳3か月~8歳)
保育所の年長児になるころから、給食の用意が始まると、カバンを持 ってホールへ行き、先に座っているなど、日課のなかで見通しをもって 行動にうつることができる場面が増えてきました。「パパして!」と大 好きなかけっこを圭くんはお父さんに誘います。対人関係のうえでも、 自分がリードして、そのことでほめられることを期待する、という姿が 見られるようになりました。ことばの理解や発語も増えてきました。友 だちのことばや行動もよく模倣するようになりました。しかし、ことば を模倣すればほめてもらえるのでことばは増えたのですが、実物と結び ついていないことばも多く、やはり形式的に取り込みやすい自閉症児の 姿はここでも現れていました。
しかし、一方では「主人公になりたい心」の高まりのなかで、模倣だ けではなく、自分の「つもり」もで出きました。「○○がしたい」のに、 「今は○○の時間」とそれが止められると、「あかん」「いや」「やめて」 という自分のことばも出てきました。それだけでなく、自分の意思を通そうとお母さんや保母さん、お友だちをたたく、つねることが出始めた のです。ちょうど、就学の時期とも重なり、お父さん・お母さんの学校 選択への迷い、養護学校への入学、あわせて学童保育所への入所と、環 境が大きく変化したことも、この嵐に拍車をかけることになりました。 圭くんのなかで育ってきた「自分のつもり」を受けとめてもらえる場や 人をもう一度、新しい場所で圭くん自身がつくり直さなければならなかっ たのです。相手の意図もすぐに受けとめることはなかなかできません。 圭くん自身の葛藤は、自分の手を噛んだり、壁や床への頭突きになりま した。相手に対しても(とくにお母さんに対して、その次にはお父さん に対して、先生たちにももちろんでます)噛む、つねる、頭突きをする などがひどくなり、「自傷」「他傷」という問題行動は一挙に噴き出すか たちになったのです。
検査場面でも、かけっこにお父さんを自分のほうから誘うようになっ たころは、こちらのやることをじっと見ていた後で、模倣するというこ とができ始めました。描画課題では、検査者が円をかいてみせると、し ばらくモデルの円を見た後で、その下にきれいな円錯画を描いてくれた のです。しかもほめられると恥ずかしそうな表情を見せてくれました。
しかし、混乱を深めるようになってくると、検査を拒否して怒りだし たり、部屋に入ることも拒否する、検査者がお母さんと話すだけでパニッ クになってしまうという状態になりました。この時期は待合室で話した り、外をいっしょにうろうろ歩きながら話したり、どんなときにどんな 場面でパニックになってしまうのかをいっしょに考え、圭くんが求めて いるものが何なのか、どう対応することが私たちの側に求められている のかを、あわただしい時間のなかで話し合ったのでした。学校でも、学 童保育所でも先生たちが傷だらけになりつつも、体当たりで圭くんを受 けとめてくれました。病院にも面接にこられ、圭くんの今の状態・対応 など確認しあうことができました。パニックは続いていましたが、気持 ちを受けとめた対応がしてもらえることが増え、受けとめるなかでは「パニックになるときには、ちゃんと理由がわかる」と言ってもらえる場面 が学校でも学童保育所でも増えました。そんななかでパニックがおさま る時間も少しずつ早くなり、2年生になるころには徐々に落ち着きを取 り戻しはじめたのです。
圭くんの場合には、入学という環境の変化がパニックの大きな引き金 になりました。しかし、圭くんのなかで自分の「意図」「つもり」がしっ かりふくらんできたことと、それに相対するものとして「相手の意図」 もまたあるということに気づいたことがパニックの土台にあるのです。 相手の意図や思いに気づいたことで、自分と相手の意図を調整したいの ですが、うまく調整することができない、という葛藤が「自傷」「他傷」 という形になったのです。「自傷」も「他傷」も出方が激しいだけに、と もすると「どうやってやめさせるか」という対応になりやすいのですが、 「自傷」「他傷」の奥に秘められた子どもの願いをくみとることができな くては本当の解決にはならないのです。パニックになってしまうからと、 子どもの要求にすべて応じるわけにはいきません。パニックと引き換え に何かの条件を与え、外からパニックを押さえてしまうなどのやり方は、 もっともまずいやり方といえるでしょう。パターンの入りやすい子ども たちですから「パニックをおこしたら○○をさせる」とか「○○をした らあとは自由にする」などという条件は一定入りやすいといえます。し かし、そうやって与えられた外からの枠づけは、結局は子どもたちの自 主性を奪い、自分で考え、相手との間で気持ちを調整し、自分で決めていく力をも奪ってしまうのではないでしょうか。
それでは、自分と相手の意図の調整はどんな取り組みのなかで、どの ようになされていくのでしょうか。相手の意図が受けとめられるために は、まず、自分の意図や思いが大切に受けとめられる経験が大事です。 設定された「○○をしなければならない場」だけではなく、自由に自分 を発揮できる場・自分のペースで遊ぶことのできる場が必要です。そん な遊びに相手(先生たち)がつきあってくれたり、側にいて面白そうな遊びをさりげなく、でもそれとなく誘うようにやってくれていると、こ の先生なんだか面白そうと心をゆるす場面が増え、少しずつ相手を受け とめられる土台が作られていくのです。ここを急ぎ過ぎてはいけません。 相手に噛みつき、たたく一方で、相手の手を求め、相手があくまでも寄 り添ってくれるのを子どもたちは求めているのです。相手の世界を少し ずつ自分の世界のなかに取りこもうとしているのです。自分の世界に取 り入れようとするからこそ、少しがんばっては、その反動のように自分 の世界に入りこみ、ホッとひといきつくのです。そんないきつもどりつ のなかで、自分の意図と相手の意図の調整がなされていくのです。時間 はかかるのですが、ここはぜひ大切にしたいところです。
子どもたちの10年後、20年後……いずれ親ばなれしようとする子ども たちの思春期、青年期……を考えたとき(自閉症児にとっても当然のご とくです)、このような葛藤をのりこえていく経験をどれだけていねい に積んできたかによって、予後が左右するといっても言い過ぎではあり ません。事実、思春期を迎えて、それまでとくに問題になることもなかっ た子どもが、突然パニックをおこしはじめるのはよくあることです。今 のパニックに振り回されてその対策(おさめる方策)に追われるのでは なく、10年後、20年後を見通して、パニックになってしまわざるをえな い子どもの葛藤にじっくりつきあい、子ども自身がのりこえていく過程 をていねいに用意することが、保育・教育のなかで求められているのです。
4)自分と相手の意図との間での衝突・葛藤をのりこえて、自分から相 手にはたらきかける手段としてのことばを獲得、いっしよに取り組 める活動を少しずつ広げはじめた時期(8歳1か月~)
3年生になった圭くんは、みんなの輪の中にいる時間も増え、給食の 準備ができるまでや、先生の話やゲームのあいだなども待っていられる ようになっていました。お母さんの話では、2年生の3学期ころから発達課題にあわせたグループでの取り組みがなされるようになり、得意なクッ キングや絵カードをつかってのことばあわせなど、圭くんの自主性を育 てるような楽しい活動が取り組まれたのが大きかったようです。一輪車 にも挑戦して乗れるようにもなっていました。その楽しい活動を通して、 「○○してから○○する」という見通しももてるようになってきたので す。この「○○してから○○する」という力がついたことで、多少いや な場面でも、お母さんやお気に入りの本を心の支えにがんばれる力がつ いてきたのでした。まだまだ、自分なりの思い込み・パターン・「つも り」などがあって、それがくずれるとパニックになってしまう場面もあ るのですが、前もって「○○してから○○するからね」と声をかけてお けば、相手の意図も受けとめられるようになってきたのです。
また、ことばが相手と通じあえる手段としてわかってきて、つかえる ようになったことも落ち着きをみせる大きな要因になりました。発音は 不明瞭であったり、自分でつくったことば(たとえばファミリーマート をバーキチバンコ、ガムをガマンなど)であったりするのですが、通じ あえることばが増えることで、要求もパニックで出さなくてもことばで 伝えられるようになったのです。
検査場面でも、検査拒否・入室拒否となってしまった2年余りの時期 を越え、ちょっと恥ずかしそうに、時には怒って、時には好きな本に見 入って、それでもしばらくするとまた気持ちを立て直して、検査に向かっ てくれるようになりました。モデルと自分の関係を独立したものとして とらえ、積木課題で、トラック・家・門の模倣など2次元の構成課題も 一挙に獲得、描画での顔の出現、身体各部(目・耳・鼻・口)や絵カードに も「可逆の指さし」で答えてくれました。ほめられるとはにかむだけで なく、ちょっと得意そうな表情を見せるなど、相手の感情を受けとめて、 自分の感情もまたふくらませていくというような調整のしかたができる ようになってきたのです。
5年生になっての来院は30分近くかけて一輪車で来てくれました。積木での階段構成や模様構成(カラー積木でモデルと同じ模様を構成する) も得意そうにやってくれます。絵単語(12枚の絵カードの名称)にこと ばで答え、大小比較もできるようになっていました。ワープロの操作を 覚えて文字も覚えてしまいました。
自分なりの主張もはっきりしますが、前もって状況を説明しておくと、 気持ちや場面の切り替えもあまりもめることなくすんでいます。圭くん の言いたいことも、またこちらの言いたいことも通じるのですが、「今 日は何をしたの?」とか「どこ」「なぜ」などの疑問詞はこの子たちの一番苦手なところとして残っています。
お母さんは、「とっても大変なことがいっぱいあったけれど、大変な ことのあとには必ずこの子の成長がみえました。あのころを思うと今は 落ち着いたなあ、と思えます。今は落ち着いているけれど、またきっと 何かがあるのだろうと思うし、でも、たとえ何かがあったとしても、こ の子のかわろうとするサインなのだろうと、受けとめられるような気が します」と述べておられました。
「問題行動」の裏には、子どもの願いがある
自閉症児の場合には、しばしば「問題行動」が困ったこととして、ま た、いかに対処すべきかという問題としてあげられてきました。しかし、 「問題行動」はすべての自閉症児に同様に現れるわけではありませんし、いつでも見られるわけでもありません。ある時期に獲得すべき力がその 障害のために獲得しにくくなっているとき、そして、その困難さが外の 条件――とりわけ、子どもにとって適切でないはたらきかけ――とぶつ かったときに「問題行動」となってしまうのではないでしょうか。
まわ りから見たら「問題」な行動には違いないのですが、子ども自身の側か ら見ると、外の世界が見えてきて、自分なりに取り入れようとするから こそ、つまずき、こだわって、ぎくしゃくしてしまう、結果的にまわり とのトラブルを増大してしまうことになってはいないのでしょうか。新 しいことが見えてきて取り入れようとするとき、挑戦しようとするとき、 私たちも、子どもたちと同じようにためらいます。相手(新しいこと) との距離をはかり、ためらい、いきつもどりつしたあげく、ようやく足 をふみだすことができるのです。障害をもっている子どもたちの場合も 同じです。人とのかかわりが弱いといわれている自閉症児だって同じな のです。そして、いきつもどりつ(やってみたい、でもできるようにな るだろうか)という気持ちの育ちにくい自閉症児だからこそ、その気持 ちを育てるはたらきかけは根気よく、ていねいにしなければなりません。 ていねいに土台を育てて、気持ちを支えるなかで、子ども自身がいきつ もどりつの葛藤を飛び越えて、新しい世界を切り開いていくことができ るような援助が保育や教育のなかで必要とされているのです。(『発達相談室の窓から』p.141)
障害をもった子どもたちがみせる困った行動は、「問題行動」と呼ばれることがあります。しかし、「こだわり」を例にして述べたように、「問題行動」の裏側には、子どもたちの前向きな葛藤が横たわっているのです。
自閉症の子どもたちがみせるパニックも、多くの場合には、子どもに「○○をしたい」「○○がほしい」などという要求が生まれてきている結果です。あるいは、「常同語」のような一方的なことばも、自分に何かをさせよう、何かを言わせようとしている相手の意図を感じて、それをなんとか回避したいと思っている子どもなりの工夫のようです。自分の頭を叩くような自傷行為といわれるものも、イライラした気持ちの発散であるとともに、実はそれをがまんしなければならないと思っている葛藤のあらわれとも感じられます。友だちを叩くような他傷行為も、実は相手に関心をもっていることのあらわれのようでもあります。もちろん、いろいろな行動の背景は、一人ひとりの子どもによって、さまざまに 異なっています。私たちがたいせつにしたいのは、すでに述べたように、このような行動を、障害のあらわれとみるだけで終わらせず、背景にある人としての心の世界を理解しよ うとする姿勢です。「どうしてなのかな」と子どもの心に入って考える、その姿勢があれ ば、一人ひとりを理解することは、けっしてむずかしいことではないでしょう。
障害があろうとなかろうと、人は矛盾をのりこえて発達していく存在です。しかし、障 害をもっている子どもたちは、自らの障害とも向かい合い、そこで生まれた矛盾をも、の りこえていかなければならないという特別の存在です。どんなに障害が重くとも、発達へ の願いを放棄してしまう子どもはいません。だから、矛盾をのりこえるときの葛藤は強い ものがあるのです。そんな子どもたちの心の世界に入って、いっしょに障害と向かい合い、 矛盾、葛藤をのりこえていくような保育・教育をしたいものです。 「そんなとき、「問題行動」とみていたことの裏に、きっとその子の心のありさまを発見することができるでしょう。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.67)
コメント