経済はお金だけで回ってはいない。オキシトシンというしあわせ通貨。

  1. 経済はお金だけで回ってはいない。オキシトシンというしあわせ通貨。
    1. アダム・スミスの「見えざる手」の正体
    2. 交換するのは貨幣だけか
    3. 「お金の移動」だけでは得られない、信頼し合うよろこび
    4. 善が善を呼ぶHOME回路
    5. 皇帝ペンギンに見る「助け合い」ーただしこれは「愛」でも「信頼」でもない
    6. 貧困の正体ー信頼が生まれないストレス社会
    7. 格差の正体ー共感が生まれない「隷属」社会
  2. 美しき快楽を求めて。共感し合う「ボトムアップ型」の民主主義
    1. 自己イメージから離れて「人」になる瞑想ーマインド「リセット」で共感が増す→『あなたの脳は変えられる』へ
    2. 芸術の力。歌と踊りでオキシトシンを分かち合う。
    3. キリスト教ー歌と踊り
    4. 平和は刑罰では生まれないー赤ちゃんの世話をする警察官
    5. 生活空間をデザインするーオキシトシンを生み出す環境をつくる
    6. 内集団バイアスの危険性
  3. 下からの資本主義(健全な近代社会)をつくるのための、個人が「生み出す力」
    1. 宗教革命が経済を変える
    2. 下からの資本主義の3度の失敗
    3. 個人が変わらなければ、ただ落ちて行くだけ。
    4. 黒船来なかったらただ落ちて行くだけだった江戸と同じ
  4. 怒る神・愛する神ー適応する人
  5. 信頼を裏切る人がいる社会で生きる技術
    1. 善悪を判断するあかちゃん
    2. 「タダ乗り」をしてくる人を、罰することで、安定した好循環が生まれる。
    3. 「お返し」ができない5パーセントの人たち
    4. 怒りが溢れる社会。オキシトシン欠乏社会から自分の身を守る。
    5. 信頼のない社会では認知の力で「しつけ」るしかない?
    6. 遺伝的にどうやっても共感を持てない人ー精神病質者を信じてはいけない。
    7. オキシトシン欠乏症の人はオキシトシンではなく認知で人間関係をつくるーうまくいかない
  6. EQが高く、SQが低い?人間カメレオン【自己欺瞞】共感できない社会性のあるナルシシスト
    1. 自己犠牲もしくは恨み
    2. 自己疎外・自己欺瞞

経済はお金だけで回ってはいない。オキシトシンというしあわせ通貨。

アダム・スミスの「見えざる手」の正体

 

経済は「競争」では繁栄しないトラストファクター

ポール・J・ザックの本を読んで、うわぁ、ついに来たか!とおもった。

プロセス指向心理学のアーノルド・ミンデルが「個人の精神の健全さは診断できるが、社会の健全さはどのように診断したら良いかわからない。答えが出ていない」ということを何年か前に公演か本か何かで話していたからだ。

ついに、出た!

とおもった。

「信頼」のオキシトシンをどれだけ生産しているかで、社会の健全さを計測することができる。

ストレスホルモンの多さでも計測できるのだろうけど。

当たり前といったら、当たり前の指標だ。

それからいつかの選挙で山本太郎さんが「都民に10万円を配る」公約を出した。10万円だけでなくて、「やさしさ」のような何か、なんという表現だったか忘れたが、お金だけでない何かも渡してほしい、コロナで苦しんでいる店がある、というお話だった。

その記事を見たときにはたとおもった。

経済は、お金だけで回っているのではない。

言葉ややさしさ、温かみ、人間の良い姿が回る経済、市場の姿が、脳裏に浮かんだ。

交換するのは貨幣だけか

「見えざる手」で有名なアダムスミス。それを現代の経済学者は「好き勝手やってもいい」と勝手に解釈してしまった嫌いがある。だって、「見えざる手」が市場を正常に保ってくれるんだから!え?バブル?恐慌?それは・・・たまに起きることさ!なんて思っていないだろうか。

 

アダムスミスが言わんとしていたことはなんだろうかと考えてみた。考える暇もなく、思いついた。

250年前、グラスゴー大学という知る人もあまりない大学の無名の教授が『道徳感情論』と題す る本を出し、優しく寛大な行動は、他者への愛着の感覚から生まれると主張した。困っている人を目 にすると、「相互同感」という絆ができるのだそうだ。

今から振り返れば、これはほとんど自明に思える。困っている人を目にすれば、ただちに大きな力 が働きうるので、たとえば兵士は仲間を守るために手榴弾の上に自らの体を投げ出したりする。普通 の人でさえ、地下鉄の線路に飛びおりて、駅に入ってくる列車から見ず知らずの人を助けようとする ことがある。

ところが、『道徳感情論』はセンセーションを巻き起こし、著者のもとで学ぼうと、突如としてヨ ーロッパじゅうから学生が群がった。(『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.47)

有名な『国富論』以前にアダムスミスは「相互同感」「絆」「良心と善行」を人間は生まれた時から持っていると述べた。教会に抑圧されていたこの時代、アダムスミスの考えがセンセーショナルだっただろう。そして現代、またセンセーションを起こそうとしている。起こしてほしいと思う。

『道徳感情論』によれば、良心と善行は人間の心理的性質として本来備わっており、社会的な関 係からごく自然に引き出されるという。つまり、善悪を見分けるのは、人間が生まれつき持っている 能力で、私たちの奥底から湧きあがってくるボトムアップ型の反応なのだ。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.48)

アダムスミスは他にも、人は利己的な存在だ、というようなことを言ったらしいが、これもコフートの自己心理学によって回収されてしまう。

つまり、自己を充実させるためには他者が必要だから、「自己の充実」という利己的な振る舞いをしてもそれは他者の「自己の充実」になる限りにおいて、まったく矛盾しないということだ。

自分という資源を他者に提供することが、自分という資源を豊かにすることになる。

「お金の移動」だけでは得られない、信頼し合うよろこび

オキシトシン反応を促しているのが信頼だと、どうしたら言えるだろ う? たんに、お金を受け取ったからではないことを、どうすれば確かめられるのか?

これを調べるために、対照実験を行った。設定は信頼ゲームとまったく同じで、他人に対する信頼 の要素を排除する点だけが違った。プレイヤーBに送金するかどうかをプレイヤーA自身に決めさせ るかわりに、その判断をランダムにしてもらうようにした。何せ低予算の、独立プロダクションの映 画制作者流の科学実験だから、ディスカウントチェーンまで車を飛ばして透明のプラスチック容器を 買ってきて、まわりに布テープを貼って中が見えないようにし、0から10までの数字を書いたピンポ ン球を入れた。信頼には基づかない、ランダム型のこの実験では、私が誰かのコードナンバーを呼び、 そのプレイヤーAがみんなの前でランダムにピンポン球を1個取り出す。すると、それに書かれた数 字に相当する額がプレイヤーAの口座から引き出され、ランダムに選ばれたプレイヤーBの口座にそ の3倍の額が振り込まれる。このように、あいかわらずお金の移動はあるものの、その根っこには人 間どうしの絆はない。

誰かがその人を信頼することにして送ったお金を受け取ったプレイヤーBのオキシトシン・レベル は、プラスチック容器からランダムにピンポン球を取り出して決めた額を受け取った学生のオキシト シン・レベルよりも3パーセント高かった。そして、思いがけない入金が誰かの信頼に基づくもので あることを知っているプレイヤーBは、ランダムな幸運に恵まれた学生と比べて、返す額が2倍近かった(前者は入金額の4パーセント、後者は5パーセントだった)。

もう一つおまけがある。最初の送金が信頼に基づいているときには、送金額とプレイヤーBの反応 のあいだに、直接的な対応が見られた。送金額が多いほどオキシトシン・レベルも高かったし、オキ シトシン・レベルが高いほど、プレイヤーAへの返礼額も多かった。ところが、ランダムな送金を受 けたときには、オキシトシン・レベルと、プレイヤーBがどれだけ気前よく返礼するか(あるいは、 しないか)という判断とのあいだに、まったく相関がなかった。

こうして私たちは、人間におけるオキシトシン分泌を促す、非生殖的刺激の第1号を発見したのだ。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.45)

善が善を呼ぶHOME回路

「ディセティの研究は痛みの知覚に頼っていたので、この効果全体を引き起こす、決定的に重要な要 素を除外してしまった。オキシトシンを生み出すニューロンと、オキシトシンの受容体だ。オキシト シンは、自らが分泌させる二つの快楽神経化学物質セロトニンとドーパミンとあいまって「Human Oxytocin Mediated Empathy(ヒトオキシトシン媒介共感)」回路、略して「HOME」回路を作動 させる。ドーパミンは相手が感謝の笑みを見せるような「他人に優しい行動」を強化し、セロトニンは気分を高揚させてくれる。このHOME回路がある からこそ、私たちは(少なくともたいていの場合)道 徳的な行動を繰り返すのだ。あとで見るように、スト レスやテストステロン、心的外傷、遺伝子異常、さら には心的条件づけさえもが、そうした効果を抑え込み かねない。だが、これらの影響に主導権を譲らないか ぎり、HOME回路は自己強化していく。

人間はさまざまな影響にさらされているので、よく も悪くもなりうるが、安定した安全な状況では、オキ シトシンのおかげでたいてい善良だ。オキシトシンは 共感を生み出し、共感が原動力となって私たちは道徳的な行動をとり、道徳的行動が信頼を招き、信頼がさらにオキシトシンの分泌を促し、オキシトシンがい そうの共感を生み出す。これこそ、私たちが「善循環」と呼ぶ行動のフィードバック・ループだ。(『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.106)

皇帝ペンギンに見る「助け合い」ーただしこれは「愛」でも「信頼」でもない

そこで私たちは、経済学という実際的・合理的な科学の創始者アダム・スミスにまたしても戻ってく る。彼の著作の数段落ではなく全体を読み通すと、利己主義の追求は現にすべての人に有益であると 彼が主張していることがわかる。ただし有益なのは、私たちの中でほとんど常時働いている力、すな わち強欲と攻撃性に対抗し、それに徐々に変化を与える相互の共感を考慮に入れた場合にかぎるのだ。 「ドキュメンタリー映画『皇帝ペンギン』を見たことがあれば、この不運な生き物の父親たちが足と 腹の脂肪で卵をくるむようにしながら、零度をはるかに下回る南極で、猛烈な風の中、まるまるひと 冬立ち尽くすことを知っているだろう(繁殖サイクルのこの段階では、母親たちはすでに南極海― そちらのほうが暖かいが、カリブ海のリゾートにはほど遠いーへと去っており、そこでイカの赤ん 坊を食べながら産後の回復を図っている)。

父親とまだ孵化していない子どもたちの生存には、父親たちが身を寄せあって熱を逃がさないこと が欠かせない。だが、そのあいだのローテーションも必須だ。誰もが交代で身も凍るような外縁部と、 温かくて居心地のよい中心部と、そのあいだの各段階を均等に分担する。どのペンギンも温かくして いたいし、自分の卵を孵したい。これが利己主義の部分だ。だが、温かくしているには、群れが必要 だ。群れ全員の体熱が合わさらなければ、自分も未来のわが子も凍えてしまう。群れを生かし、それ によって自分自身も生かしておくためには、誰もが公平にふるまい、協力するしかない。卵を抱えた 父親ペンギンたちの場合には、誰もが交代で温かい中心部に入り、やはり誰もが交代で尾羽をカチカ チに凍らせながら外縁部でも過ごす。

これらのペンギンにとって、向社会的な行動と、各自の究極の自己利益(生存と繁殖)とは区別のしようがない。彼らの向社会的な行動は、各自の利益と全体の利益を一体化し、「善循環」を生み出 し、さらに、果てしないループをたどってその循環を強化する。これこそスミスが考えていた経済行 動のモデルだ。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.237)

貧困の正体ー信頼が生まれないストレス社会

経済分野で私が行った初期の研究(それがオキシトシンの研究につながった)から、信頼の度合い が高い社会を生み出すのを妨げるものがわかった。信頼は、そしてひいては繁栄の度合いは、収入の大きな格差が人々のあいだに壁を作るときにはかならず下降線をたどる。民族や宗教、言語の違いも、 そうした壁にしてしまった場合には、同じことが起こる。貧しさも信頼を強力に抑え込む。生きてい くだけで精一杯の人は、そのストレスのせいでオキシトシンの働きが抑え込まれてしまうのだ。8か 国の6800人を対象とした最近の研究で、脅威にさらされている社会も寛容さが減ることがわかっ た。このように、社会のレベルにおいてさえ、私たちがほん とうに力を合わせなければいけないとき に、ストレスがオキシトシンの分泌を妨げ、邪魔をしかねないのだ。 社会に対するこうした影響は、個人のレベルでオキシトシンの分泌を妨げるものとぴったり噛みあ う。そうした障害は、すでに論じたとおり、遺伝子や心的外傷、ポジティブな情動を排除するほど過 剰な理性への依存、そして、これが最大の犯人かもしれないが、テストステロンとその行動のレパ トリーに含まれる怒りと敵意と懲罰だ。

もっとオキシトシンが豊富で、信頼に満ち、繁栄する社会を生み出すのに必要な根本的な材料は、 神経科学的作用が与えてくれるが、そうした社会に至るために私たちが採用する政策は、政治的プロ セスの中で練りあげなければならない。だから私はここで、社会という船をどのように漕ぐべきかで はなく、どちらに舵を取るかについて、いくつか思うところを披露したい。 私の研究から、この航海の助けとなる四つの重要な要因が見つかっている。
(『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.264)

格差の正体ー共感が生まれない「隷属」社会

似たことは、子どもたちについても言える。夏休みにはセーリングを習う宿泊型の講習会や、海や 山でのスポーツ訓練合宿に参加し、やがて名門大学に進学する子どもたちは、毎年夏になるとスーパ ーで食料品を袋に詰めるアルバイトをして過ごし、大学の学費を手に入れるためにやがて軍隊に入る 子どもたちと、ほとんど、あるいはまったく接する機会がない。軍隊の人員の大半を供給する小さな 町の家庭は、大都市の国際的な文化や価値観とは縁がないに等しいことが多い。

こうしたことを考えあわせると、国内での交換学生プログラムを行うのが適切かもしれないという 気がしてくる。一流大学進学を目指す私立の中等学校の生徒と小さな町や田舎の子どもたちが知りあ い、互いの生活を経験する機会を与えるのだ。こうした交換の必要性は、それをやり遂げるのがどれほど難しいか考えれば、いっそうはっきりする。ニューヨークのマンハッタンのアッパー・イースト サイドに溶け込むとしたら、パリの弁護士の息子か娘のほうが、カンザス州マンハッタン郊外の農場 の子どもよりもずっと簡単にやってのけるだろう。カンザスの子どもには言葉の壁はなくても、国内 の文化の壁はとてつもなく高い。この種の交換制度のお手本は、メイン州の「平和の種」サマー・キ ャンプで、そこではイスラエルとパレスティナのティーンエイジャーが一緒に参加する。最初はお互 い警戒しあっている子どもたちのあいだに、わずか数週間で絆が生まれ、それがポジティブな変化を 招き、その効果は一生続く可能性もある。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.274)

美しき快楽を求めて。共感し合う「ボトムアップ型」の民主主義

自己イメージから離れて「人」になる瞑想ーマインド「リセット」で共感が増す→『あなたの脳は変えられる』へ

信仰心の篤い人は、ときどき、瞑想や祈りを通して深く内省することによって自己の外に踏み出そ うとする。熱心に瞑想している人の脳を科学者がスキャンすると、フランシスコ会の修道女であろうと仏教の僧侶であろうと、これらの信仰心の篤い人には頭頂葉(自意識の維持を助ける脳の部位)の 活動の大幅な低下が見られる。自分が宇宙と同化していると感じられるようになるエクスタシスを得 るには、これはかなりよい方法のようだ。

私は最初、宗教について調べてみようと思い、標準的なマインドフルネス瞑想と、「メッタ」と呼 ばれる瞑想法のどちらか一方を、それぞれ別の学生のグループに教えてみた。 メッタとはパーリ語 (訳注 : 原始仏教の経典で使われたインドの言語)で「思いやりに満ちた愛情」を意味する。トレー グを開始して4週間後、どちらのグループも信頼、寛大さ、思いやりが増したが、メッタ瞑想グルー プのほうが上昇の度合いが大きかった。信頼ゲームでは、メッタ瞑想グループは信頼の度合いが8パ ーセント上昇したが、マインドフルネス瞑想グループは7パーセントしか上昇しなかった。私たちはまた、瞑想をしているあいだと、他人とのお金の分けあいについての決定をするあいだ、両グループ のメンバーのスキャンも行った。すると、彼らの脳の実行機能領域が静まり、焦点を自己からそらしていることがわかった。HOME回路も社会的な課題と向きあうあいだは活性化し、より思いやり 深い決定をする方向にオキシトシンが彼らを向かわせていることを、はっきりと示していた。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.197)

芸術の力。歌と踊りでオキシトシンを分かち合う。

エクスタシスへ至るには、もう一つとても一般的な方法がある。すなわち音楽と踊りで、両者はと ても激しくなることが多く、「エクスタティック (恍惚状態)」という言葉はここから生まれた。何千 年も昔、組織化された宗教が生まれたのは、私たちの祖先がこのアプローチには相乗効果があること に気づいたときだった。熱帯多雨林のどこかの村の焚き火を囲む部族の踊り、スーフィー神秘主義の くるくる回る修行僧、詠唱や歌、宗教的恍惚状態で不可解な言葉を発する異言、ペンテコステ派のよ うなカリスマ的な宗教の、全身を揺すったり、手を叩いたりする動作などを考えてほしい。歌や踊り は共同体の儀式の一部になったとき、いっそう力を持つ。一人ひとりが互いに結びついているだけで なく、神とも結びついているように感じられるからだ。つまり、彼らはオキシトシンと、オキシトシ ンによって分泌されるセロトニンを分けあっているように見える。 踊りは喜びも悲しみも表現できるが、正しく行えばかならず、より深いレベルで命と接触できる。

映画『その男ゾルバ』の中で、お金に困ったイギリスの男がエーゲ海に浮かぶ島にやってきて、いくつか精神的痛手を負い、ついには経済的な成功への最後の大きな望みも失ってしまう。なす術のない 破局に見舞われたとき、彼は泣きも嘆きもせず、神を呪いもしなかった。彼はこのギリシアの島での 暮らし方を手ほどきしてくれる、気さくで素朴な男に向かって、こう言ったのだ。「ゾルバ、私に踊 りを教えてくれ」

踊りはなんとも人間的な行いだ。あなたはこれまで気づかなかったかもしれないが、子どもは教え なくても自然に踊り出す。母が修道院の修道女見習いだったときに修道女たちがよくスクエアダンス をしていたという話をしてくれた。よく知らなかったり、それほど好きではなかったりした女性たちと笑いながら動きまわることで、互いを隔てる壁が崩れ、彼女たちへの親近感がぐんと増したという。 踊りは実験にはうってつけのテーマのように思えた。宗教色のない儀式の研究という選択肢も与え てくれたからだ。いろいろな種類のダンスをざっと調べてから、私は「コントラダンス」と呼ばれる、 古いニューイングランド風スクエアダンスに決めた。誰もがまったく同じ動作をするという点と、誰 もがかわるがわるパートナーを替えて全員と踊るという点が実験に好都合だった。それに、たまたま 自宅からそう遠くないところでコントラダンスのグループを見つけることができ、そのうえ踊り手た ちが科学のために喜んで血を提供してくれるというのだ。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.200)

キリスト教ー歌と踊り

キリスト教では四つの異なるギリシア語の単語で表される4種の愛を大事にしている。性的 な愛は「エロス」、親子の愛は「ストルゲー」、友愛は「フィリア」、神の愛は「アガペー」だ。とは いえ、その違いはそれでも曖昧だ。たとえば、バプテスト派の「庭にて」という讃美歌は、信仰をま るでイエスとの情事のように表現している。その歌の中で、話し手が「露でまだバラが濡れているあいだに」一人で庭にやってくる。繰り返し出てくる歌詞はこうだ。

主は私と歩み、語らう

おまえはわがもの、とおっしゃる

そこにとどまりつつ分かつ喜びは

ほかの誰一人味わったことがない 

第二節はこう始まる。

主が話されると、その声の 美しさに鳥たちが歌うのをやめる

詩の言葉を少し新しくすれば、おおげさな感情表現は、「イカした彼」や「マイ・ガール」のよう なポップスの歌詞とあまり変わらない。 「古くいかつい十字架」のような讃美歌には途方もない愛と途方もない苦しみのイメージがあるので、 癌患者のベン少年についてのビデオと同様、間違いなくオキシトシン(と共感)を誘発する。だが、 バプテスト教会での伝統的なオルター・コール (訳注:祭壇からの招き。福音主義の說教師が説教の終わり に、進み出て信仰を表明するよう会衆に呼びかけること)の際の讃美歌「あるがままの私」では、どの節 の終わりにも無視しようもない含みのある歌詞が繰り返される。

何一つ申し開きできない、あるがままの私

その私のためにあなたの血が流された

そして、あなたは私を招く

ああ、神の子羊、私は行きます、私は行きます 

これはたんなる共感ではない。エクスタシスだ。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.207)

平和は刑罰では生まれないー赤ちゃんの世話をする警察官

コロンビアの首都ボゴタは美しい町で、近ごろは大勢の観光客を惹きつけている。だが 1980年 代と、0年代初期には、頭のおかしい人でもなければ、そこを訪れようなどとは思わなかった。現在 アメリカとメキシコの国境沿いで見られるのと同じ種類の麻薬戦争に巻き込まれており、通りでは麻 薬カルテルどうし、またはカルテルと警察とが激しい戦いを繰り広げていた。最終的に警察側が勝利 し、暴力が収まったのにはたくさん理由があるが、ボゴタを生き返らせた功績のかなりの部分がアン タナス・モックスに帰せられる。哲学教授から市長に転身したモックスは、モラルを取り戻すにあた って、ボトムアップ型のアプローチで厳しい取り締まりを行った。 「モックスは、悪い行動を抑制する努力の一環として、一見馬鹿げたことをした。街角でパントマイ ムをやらせたのだ。じつは人は、警官に違反切符を切られるよりも公衆の面前で恥をかくことのほう を恐れる。だから、この一見馬鹿げた策も、筋が通っている。パントマイムの役者たちが、無謀運転 をするドライバーや、規則や信号を無視して道路を横断する歩行者をからかうと、そういうドライバ ーや歩行者は現に行動を改めた。

モックスはまた、恐れと不信のくびきを脱し、傷ついたボゴタの社会構造を再建するために、金曜 の晚と日曜日に町のかなりの部分から自動車を締め出し、通りを住民パーティの場に変えた。「女性 のための晩」という催しも始めた。男性に、家にとどまって子どもたちの面倒を見るように促し、女性警官が待機して秩序を保つなか、70万人の妻や母親が外出して祝った。もっと日常的な問題に取り 組むために、モックスがテレビに出てシャワーを浴び、節水の仕方を実演して見せると、水道の使用 量が10パーセントも減った。モックスは「汝~すべし」「汝~すべからず」といった高圧的な規則で はなくユーモアと独創性を頼みに、共感を育み、社会的資本(と道徳的資本)を築いた。市民に任意 稅として10パーセント余分に税を払ってもらいさえした。そして、自主的武装解除の日を定め、殺人 発生率を以前の4分の1のレベルに下げるのに役立てた。 「市長としてのモックスの、ときに馬鹿げたふるまいは、「偉人とは童心を失わぬ人なり」という儒 教の知恵を体現している。ここから得られるさらに大きな教訓は、人間どうしの共感的なつながりは、 トップダウン型の規則と懲罰に対する恐れがうまく機能しないときにも、成功を収めうるというもの だ。

前の章で、市場に人間味が加わると、オキシトシン・レベルが高まり、「善循環」に弾みがつく様 子を見てきた。今度は同じ目的をもっと広く、社会全体で達成する方法を見ていこう。ここでもまた、 カギを握るのは人間的なかかわりで、それがオキシトシンの急増をもたらし、その結果、共感が増し、 それがさらに人間的なかかわりを増やす。

この前ニューヨークに行き、町の変わりようを目の当たりにしたとき、私はモックスとボゴタのこ とを思い出した。危険な通りを、人が時間を過ごしたいと望むような場所、あたりに漂う好感情に自 分も貢献したいとさえ思えるような場所に変える努力がおおいに進んでいたのだ。ブロードウェイの かなりの部分が歩行者専用になり、カフェのテーブルや椅子が並び、通行人が腰を下ろして語りあい、 愉快な雰囲気を楽しむように誘っている。街全体がこぎれいになり、犯罪の発生率が大幅に下がった。 かつてはもっぱらドラッグの売買と使用の場だったブライアント公園とマディソン・スクエア公園で は、今では食事をする人の姿が見られ、木々はイルミネーションで飾られ、遅くまでにぎわっている。 以前は食肉加工が行われていた殺風景な地区には観光客があふれ、町の西側に延びる廃線の線路に沿 って革新的な公園が開設され、絶賛されている。

防弾チョッキをつけた3人のいかつい警察官がリオデジャネイロの保育所の床に座って、おむつ姿 の赤ん坊を膝の上で跳びはねさせている写真を新聞の第一面で見たときにも、モックスの「童心」の ことを思い出した。写真に写っているなんとも不思議な取りあわせは、ブラジルでもとりわけ貧しく 疲弊した、「神の街」と呼ばれる悪名高いスラム街での光景だ。以前、この地区はあまりに暴力に満 ちていたので、警察がすっかり手を引き、住民は、ロケット弾発射機で派手に撃ちあう10代のギャン グたちのなすがままになっていた。見限られた住民は、警察に対する不信と恨みを募らせるだけだっ た。当局が介入するたびに見せる信じがたい残忍さも、同じ結果をもたらした。

ところがその後、地域密着型の警備体制が導入され、警察官が保育所を訪ねて赤ん坊たちと這いま わるだけではなく、年長の子どもたちとサッカーをしたり、彼らにギターやピアノの弾き方を教え りするようになった。当初、こうした「警察紛争解決班」は、ドラッグ絡みのお金でまだ買収されて いない、警察学校の新卒者から編成しなければならなかった。だが、基本的な秩序がいったん回 ると、ドラッグの密売人たちは支配力を失った。大型の土木機械を搬入して、汚物だらけの狭い 底をさらうことができ、週3回のゴミ収集が始まった。学校の退学率が急降下し、あるハイスクールの出席率は90パーセントも伸びた。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.256)

生活空間をデザインするーオキシトシンを生み出す環境をつくる

1960年代前半のジェイン・ジェイコブズ (『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会)) から今の時代のロバート・パットナム(『孤独なボウリング ― 米国コミュニティの崩壊と再生』(柴内康文 訳、柏書房))まで、社会の観察者は、人間のスケールで機能する、相互に連結した複数のコミュニテ ィを生み出すことで人的資本を築くように提唱してきた。ジェイコブズはニューヨークのグリニッチ ヴィレッジの美点を絶賛した。グリニッチヴィレッジでは、こちらにオフィスパーク、あちらに分譲 住宅地、ショッピングモールは高速道路の一つ先の出口を下りたところというふうにはなっておらず、 人々がすべて数ブロックの範囲内で生活し、働き、遊び、礼拝し、買い物をし、場合によっては小学 校に行くことさえできた。このようにさまざまな活動が入り乱れて行われているので、人々は互いに (そして自分自身も)、ただの労働者や隣人、親ではなく、その全部として、つまり、生活のあらゆる 側面が一つにまとまった総体である、1個の完全な人間として知ることができた。

2010年のイギリスの選挙で、デイヴィッド・キャメロンは、国を蘇らせる方法として、(村の ような透明性と責任と統制を伴う)グリニッチヴィレッジのような「村」の感覚をイギリスじゅうで もっと生み出すという考えに基づいて、選挙運動を展開した。首相に選出されたキャメロンは、地方 分権、地元主導、市民主導の公立学校といったすべておなじみの政策を提唱したのに加えて、人々 出かけていって他人と接し、経済的な自己依存や企業家精神という観点からだけではなく、慈善的 寄付も含め、市民としてあらゆる側面から物事を起こすという発想を推し進めた。この点では、彼は 古代ギリシアの人々にまでさかのぼっていたわけだ。古代ギリシア人は、公的な生活に積極的に参加 しない人のことを指す「idiotes」という言葉を持っていた。そこからどんな英語の単語が派生したか、 想像してみるといい (訳注 : 英語には「馬鹿」「間抜け」を意味する「idiot」という単語がある)。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.262)

内集団バイアスの危険性

ダーウィンはこう主張している。信仰心が生まれて存在しつづけたのは、信仰心のある社会のほう が進んで協力し、公益のために犠牲を厭わないからで、そういう社会は、自己中心的な人の集団 共通の信仰と自己を超越した目的意識という、人を社会的に結びつけるものを持たない集団―との 競争に勝てたのだ、と。

だが、この二重の魔力には、宗教熱の高まりのマイナス面も見られる。とてつもない共感を生み出す内集団のつながりによって、人は公益のために進んで犠牲を払うようになるのだが、同時に、どんな外集団への敵意もかき立てられかねない。神が味方についているという恍惚とした感覚が高じると、 ほかの集団のメンバーはたんなる「他者」ではなくなる。彼らは一掃しなければならない「罪人」や 「異教徒」や「悪魔の子たち」となりうる。エクスタシスが呼び起こす神のイメージは、火のついた 十字架を持ち、白い頭巾をかぶったクー・クラックス・クランを演出する際に、また、ナチス時代に ヒトラーのためにヨーゼフ・ゲッベルスが計画した大規模な集会において、恐るべき効果を発揮した。

私は内集団バイアスを生む宗教がある理由を理解したかったのだが、まず比較の対象とする、結び つきが強いものの宗教と関係のない集団を調べる必要があった。何度か会って話し、山中での過酷な 哨戒・待ち伏せ演習に参加して痣だらけ、傷だらけになったあと、私はクレアモント大学に置かれて いる予備役将校訓練部(ROTC)大隊長ウィリアム・フィッチ中佐をようやく口説き落とし、士官 候補生に信頼ゲームをしてもらうことができた。ゲームの相手は、ほかの士官候補生と、クレアモント大学の学生農地でROTCに参加していないボランティアの両方だ。士官候補生たちは、内集団の連帯感を強めるために、私の研究室の外を5分間行進した直後に意思決定をした。行進は彼らにと って典型的な「儀式的行動」だ。

福音主義キリスト教徒であることを表明している学生たちにも信頼ゲームをやってもらった。相手 は、同じキリスト教徒と、福音主義キリスト教徒でない学生の両方だった。学生たちには宗教的な儀 式として、私の研究室で5分間礼拝して歌ってもらった。対照群として、どの宗派にもグループにも 属していない学生たちを募って「赤」と「青」の二つのグループに分け、完全に無作為に内集団と外 集団を作った。対照群としての参加者は自分がどちらのグループに属しているかを意識するように、 同じ色の人と5分間電話ゲームをした。私は儀式の前後に全員の採血もした。

すると、次のようなことがわかった。対照群では、プレイヤーB(信頼される経験をしたあと、お 金を返す選択肢を与えられた人)は、ゲームの相手が內集団のメンバーだろうと外集団のメンバーだ ろうと3パーセントを送り返した。つまり、「赤」と「青」という私たちが用意した、人工的で無作為な集団による違いは何もなかった

士官候補生のプレイヤーBが返した金額にはかなり内集団バイアスがあった。彼らは相手が仲間だ ったら引パーセント、そうでなかったら10パーセントを送り返した。福音主義者たちにも同じことが 言えた。彼らは同じようなバイアスを見せ、同じキリスト教徒に対しては必パーセント、そうでな 人に対しては5パーセントを送り返した。 連帯感を高めたあとのROTCメンバーと比べてさえも、福音主義者のほうがずっと強い内集団バイアスを持つことがはっきり表れたのは、プレイヤーA(プレイヤーBを信じられる度合いに応じて最初に送る金額を決める人)の場合だった。福音主義者のプレイヤーAは限度額の84%を内集団のプレイヤーBに送金したが、外集団のプレイヤーBへの送金は日パーセントで、3ポイントの 開きがあった。ROTCの士官候補生の場合、内集団と外集団の違いは、限度額の日パーセントとか パーセントで、その差は7ポイントだけだった。対照群では、当該のプレイヤーBが赤だろうと青だ ろうと送金額は同じで、平均すると彼らは限度額の8パーセントを送金した。ここから、有意義なつ ながりのないグループでは信頼のレベルがずっと低いことがわかる。

福音主義者たちの行動の違いの一因はストレス・レベルの高さにある。対照群と比べて5パーセン ト高かった。彼らはどうしても社会的な相互作用を気にしてしまうのだ(一方、ROTC士官候補生 は対照群よりもストレスが7パーセント少なかった)。赤の他人よりも仲間の利益を優先することは 予測できる。だが、内集団バイアス、それも儀式によって高まったバイアスの問題点は、私たちが社 会的な生き物として切望する、つながりを持つ機会を制限してしまうことだ。 

今日、世界の主要な宗教のメッセージは、普遍的なつながりと愛が実現することを約束するので共 感を呼ぶ。つながりを持つ必要性は私たち人間の性質の一部であり、イエスやブッダのような宗教家 は、あらゆる人を愛し、そうすることで逆にすべての人から愛される方法がわかっていたようだ。ところが内集団バイアスがあると私たちは、あまりにも安易に一部の人をほかの人よりもずっと愛するようになるらしい。自分の属する集団のメンバーだけを愛すると、じつは経済的なペナルティーを課されることになる。福音主義者は部外者を信頼する度合いがかなり低かったので、信頼ゲームのあと持ち帰った金額はROTCの士官候補生たちよりも9パーセント少なかった。 

(『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.212)

下からの資本主義(健全な近代社会)をつくるのための、個人が「生み出す力」

なぜ日本は行き詰ったか

教育とはなんのためにあるのだろう。

ということを、広い視点で考えたことがなかったとおもう。

安冨歩さんの話を聞きながら、「とにかくまず自分が自分を大切にする」ことの大切さが、全体の変化につながる、ということは頭に残っていたが。

日本の封建的社会を崩すには「下からの資本主義」を起こす一般人の「生み出す力」が必要なのだ。

という言葉でハッとした。

 

どうやってこの暴力の世で「命」を強めて行くのか、「心」を強めていけるのか。

 

 

それから日本型の儒教と中国型の儒教の違い。

中国型儒教は日本型儒教のように政府に 忠誠を尽くすことを強調せず、各個人が自分自身の良心に忠実であることを強調しているからである。 (森嶋通夫『なぜ日本は行き詰まったか』p.12)

 

宗教革命が経済を変える

封建時代の後に成立した上からの資本主義は、国家(政府)の出資資本や封建時代に蓄積された資本 により設立された上位にある産業から出発した。しかしそれがある程度の発展段階に達すると、民間 の個人により設立された私企業の株を一般個人が購入することにより、一般個人の資金にも依存する ようになった。このことは上からの資本主義が下に移行しはじめたことを意味する。経済がこのよう な段階に達すると株式取引所が設立されるが、日本で株式取引所が設立されたのは一八七八年である。 その後第一次世界大戦が勃発し、西欧諸国がヨーロッパで防衛戦を展開したので、中国市場が空洞化 した機会に日本は中国市場を独占した。そのころまでには、日本は関税自主設定権を獲得していた。 日本企業は大企業だけでなく小企業も中国貿易で大成功し、経済は一挙に下からの資本主義に向かっ て進んだ。 下からの資本主義には、それを支えるにふさわしいエートスがなければならない。国家主義的な日本型儒教は、下からの資本主義を支える役割をすることができないだけでなく、それを破壊するもの であり、その発展を阻害するものである。下からの競争を正当化するには、他人との関係において自 分自身の良心に対する誠実を重んじ、嘘をつかないことを主要徳目とする中国式儒教の方が適している。経済が上型から下型に切り替えられるに際しては、エートスが日本型から中国型に切り替えられ ているという前提が満たされねばならなかった。このことは私が前著で強調した「エートスと資本主 義の間の不安定性定理」の説明となるであろう。なぜかと言えば、まず資本主義は上からの資本主義 から始まらねばならない。そのためにはそれにふさわしいエートスー国家の勢力を是認し盛り立て るようなエートスーが広く行き渡っていなければならない。儒教はウェーバーが強調したように、 東洋のプロテスタントといわれるにふさわしい合理的な倫理観を主張している。だがそれは封建諸国 を統一させる情熱を人々にもたらさなかった。そのためには中国式の元来の儒教に手を加えて日本型に改造する必要があったのである。宗教改革こそが俗世を躍進させるという命題は、こうして東洋でも成り立つ

同じ論理に従うと、上型から下型に移行する際には、第二の不安定性定理の登場、すなわち第二の宗教革命が必要とされる。日本はこの時に日本型儒教を拒否して、中国型儒教への切り替えを唱道すべきであった。そうしていたならば、昭和の初期に軍国主義がおこらず、国全体が右傾することはな かったであろう。いわゆる「大正デモクラシー」―第一次大戦後大正天皇の時代に人々によって支 持された民主主義運動―が昭和時代にも活力を失わず、それゆえに日本は下からの資本主義を定着させる力を持つことができたと考えられる。しかし当時の日本国民はそうは考えなかった。日本は日本的儒教精神人々はそれを日本精神と呼んだ―で成功したのだから、それをますます高揚させ て、日本を欧米列強に負けない国にすることが可能であると考えた。こうして日本は軍国主義の国に なり、下からの資本主義を指向しえなくなった。それどころか統制経済、計画経済の道を追求し、経済は国民生活のためのものでなく、戦争のためのものになってしまった

このような問題を当時の哲学者、社会科学者の誰もが取り上げなかった。社会科学者の多くは当時 でもマルクス主義者であったが、彼らは経済のイデオロギー的基礎をマルクス主義以外の眼で見るこ とはなかった。宗教哲学者は儒教に日本型と中国型があることを指摘することすらなかった。したが ってそれらの宗教の型と経済活動との相互関係を論じるなどは考えもしなかった。そういう問題に興味を持つ経済学者といえども、ナチズム・ファシズム型の経済、自由主義型の経済と、「日本精神」 のもとで発展した経済を比較するだけであり、常に「天皇を頂点として戴く日本経済万歳」でおわる 自己中心的な結論で満足していた。

こういう哲学の貧困は戦後にも害悪を及ぼした。戦後の教育改革で、占領軍は日本の教育をアメリ カ式の教育に切り替えることを主張した。そうしてアメリカの論理が、アメリカのことを知らず、そのうえ戦時中は軍国主義を唱道していた教師によって教えられたのである。このとき文部省は国家主義的な日本型儒教とともに、個人主義的で人道主義的な中国型儒教をも棄ててしまったのである。し たがって日本は戦後、日本型儒教を持つ戦前派とアメリカ式新教育をうけた戦後派からなる二層社会 になった。最初のうちは前者が後者を引っ張っていったが、ついには地位は逆転し、前に述べたよう に、日本は長い時間がたった後に、急角度に全く性格の異なる国に変わってしまった。この時もし、戦後の教育が中国型の儒教教育を許すものであったならば、と人は考えるだろう。西欧人の眼から見 て、このような新日本は今の日本よりも一層異質であるかもしれない。しかしダライ・ラマは西の眼には極めて異質であるにもかかわらず、支持され尊敬されているように、そのような中国型日本 経済は異質であっても、しっかりした筋が通っているという意味で、現在の日本より重視されると思われる。

運の悪いことに、戦後の日本経済は、支配的なエートスが戦前派のものから戦後派に切り替わる頃に、上からの資本主義から下からの資本主義へ転換する時機がきた。上からの資本主義のもとでは国家の意志が経済を左右しうるし、下からの場合には市場の法則が全てを決める。ベーム・バベルクが 問題にしたような「勢力か経済法則か」の時代になったのである。しかし純粋な形の経済法則にした がって下からの資本主義を律するためには、その経済における各個人の社会的勢力は平等でなければ ならず、そのためには意志決定に際して一人一票の民主主義が成立していなければならない。さもな くば一種の経済の勢力論を述べえたとしても、純粋経済学のものではない。上型から下型への切り換 え時には、縁者びいきと競争が同時に現れ、日本が現在そうであるように経済犯罪が多発する。(森嶋通夫『なぜ日本は行き詰まったか』p.4)

 

第七章では主として次の二点について論じる。第一は、資本主義が上型から下型へと転換するため には、民主主義が発達している必要があるかどうかということであり、第二は資本主義が上型である ことに伴う長所は何であるかということである。まず後者より始めよう。上型の短所は国家権力が経 済に関与することによって、経済を構成している企業や家計の経済的業績に二極分解が生じることで ある。それゆえ長所もまた、国家の関与が企業や家計の業績に何らかのプラスの影響を与えるかどうは国民のためのものではなく、天皇のためのものであったこと、および天皇政府は上からの資本主義 のための富国強兵策を議会に承認させ続けたこと、を考えるなら明白である。またヒトラーの登場も 議会政治的に極めて合法的に成し遂げられたことはよく知られている。(森嶋通夫『なぜ日本は行き詰まったか』p.13)

 

下からの資本主義の3度の失敗

革命だけで一挙にして近代的資本主義社会が達成されるのではない。完成された近代的な競争資本主義―私はこれまで、そのような社会を下からの資本主義と呼んだーに到達するまでには、 私が上からの資本主義と呼んだ過渡期が存在せねばならない。もちろんこの過渡期の形態も一様では ない。その上に立てられる上部構造、とくに政府が封建的性格の強いものか、近代的なものかに応じ て上からの資本主義の性格は異なってくる。そういう上部構造の変化に応じる経済システムの変化を 理論的に確定することは難しい。今はそれらの歴史的叙述で満足するよりほかはなく、『成功』(一九 八四年)でも私はそのようにした。しかしそのような上からの資本主義の移行期の最後には、上から の資本主義を下からの資本主義に転換するという第二の大きい社会的・経済的変換が待っている。そこで日本は三度もつまずいてしまったのである。

第一回目は近代以前とはいえ相当近代化されている中世の最終段階、すなわち徳川時代(一六〇三 ー一八六七年)におこった。その時代(日本の歴史家はそれを近世と呼んでいる)は中央集権的封建時代といわれる封建時代と民族国家時代の混合の時代であった。各藩の大名はそれぞれ半独立の政府を形成し、その下に政・官・財の三角形を形成した。政は大名・家老・高級武士から成り、官は中級武 士から成り立っていた。財には物納された藩の年貢米その他を大坂市場で売りさばく中・下級武士と、 藩の財政に関与する御用商人がかかわっていた。第三のグループは最初の二グループの支援を得て、 徳川時代の上からの資本主義(または準資本主義)を構成しており、その時代の最初の一○○年間に繁 栄した。そのような経済は諸藩および徳川中央政府の双方で繁栄した。それは元禄時代末(一七〇三 年)頃までは健全であったが、それ以後は施政者は緊縮財政をとらざるをえなくなった。各藩は城下 町の町人に帰農をすすめた。帰農した人たちは農業を資本主義的に運営し(いわゆる商業的農業)、農 村で村落産業を興した。これらが日本での下からの資本主義の源泉をなすが、それらは決して上から の資本主義の衰えを補うほどには発展しなかった。この主な理由は、大商人は藩経済が依存している 三角形に属していたので、下からの資本主義には十分な資金が回ってこなかったからである。このよ うに政・官・財の三角形の金融難が徳川中後期の日本経済の発展を阻害した。

第二回目の困難は、明治維新以後の日本の近代資本主義の発展過程において、一九二〇年代の後半 から一九三〇年代の半ばにかけてのころに生じた。その時代を、当時の日本人が恐怖の心をもって聞いた言葉「昭和維新」で特徴づけることができる。「昭和維新」という語は日本での右翼傾向の強化を象徴しており、資本主義の拒否を主張していた。それは日本に真に競争的な資本主義を実現することなく、日本をファシズムに方向転換させ、ついでアメリカ、イギリスその他ほとんどの世界の各国 に挑戦して、最後には自分自身を破滅させた。敗戦後、日本は再建のために立ち上がった。驚異的な大成功の後に、日本は経済的には一流国に復活した。かしそこに建設されたものは、上からの資本主義としての日本であった。それは下から発生した諸企業を差別する二重構造の経済である。それは 中途半端な体制であって、早晚上下を差別しない一重の経済に転換されなければならない。私は一九八〇年代後半から一九九〇年代初めに日本がそういう重大な時期に達したと考える。通常日本人はそ の時代を「バブル」期と呼んでいるが、このバブル期に三度目のつまずきをした。本章では後にこれ について論じるが、早晚その効果が出つくして、日本はそれほど致命的な傷を受けずに立ち直れるの か、それとも決定的な打撃を受けて経済大国という敬称を返上することになるのかが特に問われるで あろう。後者の場合には、その後の落ち行く先はどの程度に深い奈落であるかも探求されねばならな い。(森嶋通夫『なぜ日本は行き詰まったか』p.320)

個人が変わらなければ、ただ落ちて行くだけ。

日本人は追いつき精神に満ちており、その結果、儲け商売を企てることに極めて貪欲であることは よく知られている。人々のこの態度が現在の危機を引き起こしているように思われるが、他方におい ては、これを改善する機会を次々と失って、最後にはナショナリストに助けを求めることが極めて有 りうると見られている。すでにそのような声が政界の隅々ではもちろん、ジャーナリズムでも声高に 聞こえはじめている。多くの学者が彼らに賛成しているし、他の者はあまりにも弱くて議論しない。 とにかく、右翼グループの復帰は将来の議題の一項目である。

したがって現在の国家指導体制の崩壊後に、下からの資本主義を期待するのは難しい。カトリック 教義は聖職者たちの間にはほとんど行きわたっているが、一般信徒はその戒律によって影響されない ままにおかれているのと同様に、儒教の原理は徳川時代には主として少数派の武士階級に影響を及ぼ していただけで、他の人々は物質生活を享楽することを許されていた。日本の現在の社会は、文化と 国民の生活様式については徳川時代後半のそれらと多くの共通点があるという徴候が見られる。経済 は元禄時代(一六八八一一七〇三年)にピークに達しており、その後減退して、明治維新(一八六七ー 六八年)の勃発まで決して回復することがなかった。このように長い期間中、彼らが勤勉で誠実であ ったために認められてきた日本人のエートスは死滅しており、人々は刹那的快楽にふけった。

明治維新の時には日本人は成し遂げねばならないことの明確なリストを持っていたので、彼らは幸運であった。彼らはまず民族国家を設立せねばならなかった。先輩国から情報を収集し、得られた方 式に従うことにより、新日本を建設する仕事を遂行することは容易であった。しかし現在の危機の場合には、類似した航海図は全く入手不可能である。進歩的な国の建設に必要なあらゆるものはすでに 達成されている。そのうえ、日本は勇気、公明正大さや正直のような資質をそなえている有能なやる 気のある人物に乏しい。彼らのすべてが傑出している必要はないが、大部分の者がこれらの条件を充 たしていなければならない。どのようにしてこのような人々を多数見出すことができるだろうか。も ちろんこれは教育の問題である。しかし戦後の新制教育がわれわれがいま必要とするタイプの人たち を造りだすことに失敗したことは、すでに知られている。下からの資本主義を形成するために必要と する重荷を負うことができる多くの人を造りだすことは、民族国家を造るために活躍する少数の傑出 した人物を得るよりもはるかに難しい。日本がこれから造りだす多数の人々の資質との関係において、 日本の将来の地位が決まるであろう。もしそれが低ければ、日本は国の順位づけでの大きい下落を受 け入れなければならない。(森嶋通夫『なぜ日本は行き詰まったか』p.350)

 

黒船来なかったらただ落ちて行くだけだった江戸と同じ

二一世紀の最初の四 半期は、日本はその絶対平和主義的なアプローチのゆえに、全く活動的でないであろう。どんな国際 紛争に関しても日本人の声を聞くことはないであろう。一般的に言えば、彼らは単に快楽主義的で、 拝金主義的でわがままである。彼らは義務感がなく、無宗教であり、自分の国に対して愛情がなく、 かつ神を讃える気持は少しもない。日本は、新古典派経済学の教科書が労働倫理に関して何も論じないのと同じように、人々が労働倫理に縛られていない国になるであろう。

しかしながら、日本の近代史のなかにこの種の精神的に消沈した社会を見るのは驚くにあたらない。 元禄時代のあと、各藩の主要な町の人口が減少しつつあったことは、ほとんどすべての藩に見られた。 藩の経済は元禄時代の終わりの一七〇四年以後、大苦境に陥っていたことは事実だが、それらの大部分は明治維新まで一五〇年以上にわたって生き延びている。この年月の間に、各藩の主要な町には知識階級が現れだした。徳川時代の初期に栄えて元禄時代にそのピークを記録した文化は、大きい町か ら小さい町へと広がりはじめた。ついには、地方や村落にまで広がった。 これは鎖国主義の政策のもとで日本におこった一種の静態均衡である。もし徳川時代末に「黒船」 が日本にやって来ず、そして外国貿易の便宜をはからせようとして開港を求めなかったとすれば、こ の均衡は保持され続けたであろう。その場合には尊皇派は現れなかっただろうし、またもし若干現れ ていたとしても、彼らが人気を得ることはなかったであろう。現在の危機においても、もし日本が鎖 国することができれば、いかに低かろうとも、一つの均衡に落ち着くであろう。日本はどんな右翼革 命をも避けることができる。そして日本人の政治的無気力のゆえに、徳川時代後期の人々がそうであ ったようにこの状態に満足するのでないかと私は考える

この歴史および現在の状況を考えると、日本は緊急に真の愛国主義の政治家と実業家を必要として いる、と人は結論するかもしれない。しかし、すでに政治的無気力のタイプになっている人を転換させ、短期間にそのような人々を得ることは困難であり、また危険でもあろう。たとえそのような人々 を多く得ることができたとしても、今われわれが確立したいと願っている下からの資本主義を造り上 げるには彼らは十分でない。せいぜい上からの資本主義の再生に成功するだけである。しかしこれで すら達成するのは非常に難しい。なぜかといえば、そのタイプの資本主義は今では日本では機能しえ ないことが証明されているからである。 (森嶋通夫『なぜ日本は行き詰まったか』p.354)

 

怒る神・愛する神ー適応する人

ゼウスとジュピターとエホバというテストステロンの神を崇める伝統は、ヘブライ語で書かれた古 い経典(キリスト教徒はそれを「旧約聖書」と呼びはじめていた)を奉っているあいだは守られてい た。ギリシア哲学の伝統は、イデア (訳注 : 肉眼で見えるものではなく、心や魂で見る物事の真の姿)から 成る、この世とは別の完全な世界、すなわち平凡な私たち人間には「鏡におぼろに映った」(訳注: 「コリントの信徒への手紙1」第3章2節(日本聖書協会『聖書』新共同訳)) かたちでしか見えない精神的 な領域というプラトンの概念の上に築かれた宇宙観を採用することによって維持されてきた。

パックス・ロマーナ (訳注 : 古代ローマ支配による平和)が多様な文化を互いにふれあわせ、特定の 場所と結びついていた各種宗教の絆が社会の流動性によってゆるくなるなか、古代ローマの権力は旧 弊な慣習を打破した。そこへ折よく登場したキリスト教が、神の国は、どこそこの丘やどこそこの聖 なる泉を見下ろす場所に建つあの寺院やこの寺院の中ではなく、個々の信者の心の中にあると説くこ とで、その隙間を埋めた。そういう意味では、じつはキリスト教は、何十という多様なアプローチを とりながらボトムアップ型の道徳的な力として始まった。

しかし、もっとトップダウン型の正統的な やり方を望む人々が最終的に勝ち、「優しい羊飼い」が気づいたときには、自らの遺産が究極の指揮 統制組織であるローマ帝国に取り込まれてしまっており、それが、じつに階層的なローマ・カトリック教会に変身した。 それでも、ボトムアップ型という考え方は、キリスト教が打ち出したもっとも重要な新機軸として 残った。数々の好戦的な宗教をあいだに挟んだあとでの、「思いやり」への回帰だ。戦闘的な社会で 完全な市民としての権利を与えられていなかった女性や奴隷などがディオニュソスを崇拝するカルト に大きな魅力を感じたのとちょうど同じように、キリスト教は、どんなに卑しく、どんなに権力者や 富裕層から侮蔑されている人も差別することなく、万人に神の愛を差し伸べた。慈愛に満ちた寛容な キリスト、オキシトシンたっぷりの神の子羊が、キリスト教を2000年以上も続く精神世界の一大 勢力たらしめたのだ。

アジアでは、長い歴史を誇る多くの宗教が、誕生と再生という果てしないサイクルに終止符を打て ば苦しみから解放されるという教えに従って、思いやりに着目してきた。個人よりも集団を重視する アジア社会では、規則に従うという考え方がすでにしっかりと根づいていたため、怒りの神はいらな いようだった。とはいえ、祖先の存在を意識させることによって、そしてまた、悪い行い、とくに自 分の所属する集団に不名誉をもたらす行為は恥と感じさせる手法に大きく依存することによって、規 則の遵守が強要されていた。

というわけでまたしても、ほかのあらゆるものと同じように宗教の場合も、モラル分子の根底にあ る真実として、私たちは生まれつき思いやりがあるか攻撃的であるかのどちらか、あるいは生まれつ き寛大か残酷かのどちらかということはないといえる。むしろ私たちには、生まれつき「適応力」が ある。私たちは、自分を制御する二つの正反対のホルモンにより、状況によってどちらの方向にも傾きうる。ただ、寛大で優しく信頼できる存在でいることが、たいていはまず間違いなく最善の道とな る。だから、私たちはそうできるように導いてくれる道徳的な手本、たとえばイエスやブッダやダラ イ・ラマを信奉してきたのだ。

宗教が呼び起こすイメージと並んで、集団での食事や按手 (訳注 : キリスト教で聖霊の力が与えられる ようにと人の頭に手を置いて祈る行為)という儀式が、昔からかならず宗教的な集まりの一部になって いるのは、それによってオキシトシンが増加するからだ。 

信頼ゲームを用いた私たちの研究では、オキシトシンの上昇値がもっとも大きく、もっとも信頼の 置ける人は、自分は信心深いと述べていた。リチャード・ドーキンスらには悪いが、自分のことを信 心深いと思っているこれらの人々は、人生の満足度や精神的な健全性でも最高値を記録した。万事を善の結果につなげるのに決定的に重要な要因は、イエスからジョン・レノンに至るまで、さまざま な教祖が強調している。必要なのは「愛」だけなのだ。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.219)

 

信頼を裏切る人がいる社会で生きる技術

人間が社会的な哺乳動物として何百万年もかけて進化するあいだ、一人ひとりの生存は、本人がど れだけうまく集団と調和するかに、また集団の存続は、個々のメンバーがどれだけうまく協力するか にかかっていた。狩猟採集民だった私たちの祖先が成人するころには、誰が嘘をついていて誰が真実 を語っているかを判断する能力の有無は死活問題だった。誰に子どもを見ていてもらったら安心か? リーダーを権力の座から引きずりおろし、新たな提携関係を築くときが来たら、どうすれば自分の待 遇を改善できるか? そして、助けを必要としている人がいるのを察したとき、それが誰なら自分を 犠牲にすべきか?(『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.114)

善悪を判断するあかちゃん

人間の赤ん坊は、もともと他者を助ける傾向があるばかりでなく、たとえ相手が生き物でないとき でさえ、優しくふるまうものを好み、そうしないものを嫌う。これは、心理学者のフリッツ・ハイダ ーとメアリー=アン・ジンメルが1944年に制作した幾何学図形のアニメーションを赤ん坊に見せ る実験で何度となく示された。このアニメーションには扉のついた箱と、ボール、小さな三角形、大 きな三角形が出てきて、大きな三角形が小さな三角形とボールを脅すように見える。視線の向きから 判断すると、赤ん坊は「優しい」幾何学図形に惹かれ、「意地悪な」図形を避けようとする。このア ニメーションをスキャンしているコンピューターにとっては、自閉症の人の多くにとってと同じよう に、漫画の景色の中を図形が動いているにすぎない。だが、社会的に発達した人間の脳は、意味をひねり出す性向があるので、善と悪、悪漢と犠牲者が出てくるドラマが展開しているところを目にする。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.113)

「タダ乗り」をしてくる人を、罰することで、安定した好循環が生まれる。

30ラウンド目には、クラブBは膨大な利益をあげており、全員が気前よく出資していたので、制裁 の必要性は現実にはほとんどなくなっていた。罰の脅威があれば十分だったのだ。一方、クラブAの 資産はゼロになった。

クラブBが大金を稼げたのは、自らコストを引き受けて、ただ乗りをする人を罰したプレイヤ ちの手柄だ。最初の何ラウンドかでは、互いに罰しあったところで、(仕返しによってTOP回 得る快感を除けば)何の明白な利益もなかった。だが、やがて「善循環」が始まり、善に報いるだけ でなく悪を制裁することによって向社会的行動を奨励する制度が最高の見返りをもたらすことがはっきりした。 

それが信じられなければ、(以前はともかく、2011年ごろの)テキサス州の不動産の価値をア リゾナ州やネヴァダ州、フロリダ州の不動産の価値と比べるといい。テキサス州民は不動産市場をカ ジノに変えさせないような規則を定めてそれを執行したので、近年の住宅バブルの大損害を免れた。 そして現在も彼らはとても順調で、不動産の価値はしっかり上がりつづけている。それにひきかえ、 やはり日差しに恵まれたテキサス州以外の3州は、カジノのような発想を受け入れ、明日という日などやってこないかのようにお金を注ぎ込んだ。あいにく、明日はちゃんとやってきて、そろって破綻 した。

TOPは社会のメンバーが規則に従って行動することを促すのが長所だ。一方、みくびられたと感 じた者が腹を立て、若い男たちの殺しあいにつながるのが、やはり短所だ。また、駐車スペースをめ ぐる怒鳴りあいや、酒場での喧嘩、そして数えきれないほどの家庭内暴力にもつながる。テストステロン・レベルの高い男性のほうが離婚することが多く、子どもと過ごす時間が少なく、あらゆる種類 の競争に参加し、性交渉の相手(と学習障害)が多く、失業する頻度も高い。

というわけで、やはり何事もバランスが肝心なのだ。だから自然はテストステロン(攻撃性と処 罰)にオキシトシン(共感と協力)とタッグチームを組ませ、両者の割合がその場の状況に応じて変 わるようにしたのだろう。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.140)

「お返し」ができない5パーセントの人たち

私たちは、UCLAで行った最初の信頼ゲームの実験でオキシトシン障害の証拠を見つけていた。 その実験で最後に扱った被験者は肥満の男性で、あまりに太っていたので、研究を手伝ってくれてい たビル・マッナー医師は、彼の静脈を探り当てるまでに4回も針を刺さなくてはならなかった。その若い男性の採血が終わってから、私はさんざん痛い思いをさせたことを詫びた。 「いえ、気にしないでください」と彼は言った。「とても面白い実験ですね。明日もまた来ていいで すか?」

これを聞いて私は好奇心をそそられた。たった1回採血するために3度も4度も針を刺されたら、 たいていの人はいい気はしない。そこで私はちょっと調べてみた。

するとこの人物はプレイヤーBになっていたことがわかった。彼とペアを組んだプレイヤーAは、 自分に与えられた10ドルを1セント残らず彼に送金していた。ということは、それを3倍した30ドル が与えられたわけで、最初の10ドルと合わせて彼は合計で40ドルを手にした。それなのに、プレイヤーAが両者の受け取る金額の総計が増えるようにと全額を投じたにもかかわらず、この男性は1セントたりとも相手に送り返していなかった。

このように、どんなときにも互恵的な行動をとれない人たちのことを、行動経済学の専門用語で 「無条件非返礼主義者」という。私たちの研究室では、たんに「ろくでなし」と呼んでいる。

実験を進めるうちに、被験者の大多数を占める学生ボランティアのうち、約5パーセントがこのよ うな人だということがわかった。信頼ゲームの対戦相手が、彼らのことを信頼してどれだけ多くのお金を送ってこようと、1セントも返さなかった。この場合、トラウマとは関係がなかった。彼らはみな優秀な大学生で、深刻なトラウマを経験したことはなかった。血液を分析したところ、この5パー セントの学生たちからは、なんと、過剰なオキシトシンが検出された。最初これは直感に反するよう に思えたが、HOME回路は総体的なオキシトシンのレベルに反応するのではなく、直近のレベルの急上昇にだけ反応するという事実を考えると納得がいった。彼らは受容体のオフのスイッチが働かず、 HOME回路にオキシトシンがあふれかえり、機能障害を引き起こしていたのだ。レベルが急上昇し ないから際立った差が出ず、オキシトシンによって脳が活性化しない。オキシトシンによって脳が活性化しないので、共感や互恵関係が生まれない。彼らのような無条件非返礼主義者にとっては、そもそもオキシトシンが多すぎることが問題の始まりなのだが、私たちはこの状態を「オキシトシン欠乏 障害(ODD)」と呼んでいる。なぜなら、彼らはオキシトシンを分泌すべきときにまったく分泌しないからだ。 

そのうちに、オキシトシンの反応を鈍らせたり損なったりするものには、じつはおおまかに言って 三つのカテゴリーがあることがわかった。一時的なもの、後天的なもの、そして器質的なものだ。

誰にでも不愉快な日はあるし、仕事上の悩みを束の間抱えていたり、通勤で散々な思いをしたりし てオキシトシンの分泌反応が鈍くなることもある。アリシアのようなトラウマの犠牲者が後天性のオ キシトシン障害の一端にいる一方で、社会的には正反対のところに位置する人たちが、高い地位や精神的な頑迷さによって共感する能力を失うこともある。器質的な障害には数々の遺伝的疾患が含まれており、もっともよく知られているのが自閉症で、いちばん極端な例が精神疾患だ。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.155)

怒りが溢れる社会。オキシトシン欠乏社会から自分の身を守る。

イギリスで、「ホワイトホール・スタディ」と呼ばれる、行政府の公務員に対する長期の調査を疫 学者たちが行ったところ、健康と幸福にとって最悪なのは、責任が重く権限が小さい職であることが わかった。これらの中間層の職では、強いストレスがかかったときに分泌されるコルチゾールの供給 スイッチがしばしばオンのままになる。これは、保険の規制によってがんじがらめになっている医師や、わが子は悪さをしないと思い込んでいる親と規範や規律を徹底させない学校の管理職とのあいだ で板挟みになっている教師や、舞台上でスポットライトを浴びながら堂々と演じるのを夢見ているの に、チケット売りや後片づけばかりやらされている多くの人が陥っている苦境と同じだ。

このような社会的ストレスがとくに問題となっているのは、今やそれが社会にはびこっているから だ。職が保証される期間はだんだん短くなり、お金を稼ぐために次の職を見つけなくてはという不安 な思いは、慢性ストレ の原因になりうる。そんなわけで、社会の勝者が、勝利に誘発される多量の テストステロンによってオキシトシンの分泌を阻害されている一方で、うまくいっていない人たちは 八方ふさがりの現状に怒 りや欲求不満を覚え、共感が欠如してしまうことになりかねない。 

アメリカには、底辺のブルーカラーの男性のほうが男らしい という神話があるが、収入と地位がす なわち人間の価値である社会では、低い地位にいることは屈辱的になりうる。これは、黒革のベスト を着てハーレーに乗ったり、スキンヘッドにしてタトゥーを入 れたりして、恐ろしげな姿を誇示することによって敵意をむき出しにする人が、低所得の男性にこれほど多い理由の一つかもしれない。そ れは、パーカーにサングラス、尻まで下げたズボンという姿のスラム街の若者にも当てはまる。

社会的に低い地位にいるという屈辱と、現実の経済的な不安定状態とが合わさると、苦境に立たさ れているという感覚によって、オキシトシンの働きを妨げるジヒドロテストステロン(DHT)が一 気に分泌されることもある。最近の政治論議が2極に分裂しがちなのも、一つにはこのせいだろう。 怒りと、共感の欠如のせいで、じつに安直に相手を責めたり非難したりというネガティブなループが 生み出される。その「相手」が不法移民だろうと、「原理主義者の間抜けども」だろうと、「エリーたち」だろうと、関係ない。一方、「エリートたち」は自らの行動|ウォール街へ公的資金を注入 したり、企業幹部たちが政府に援助を要請するのに自家用ジェットでワシントンまで飛んできたりと いった行動――が一般人の目にどう映るかを予測することに関しては、はなはだ鈍感なようだ。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.163)

信頼のない社会では認知の力で「しつけ」るしかない?

私が最初に会った囚人の女性は、ルームメイトを1回突き刺していた。「イライラさせられたんで す」というのが彼女の言い分だが、ハ工を叩きつぶす理由にはなっても、人を殺す理由にはならない。

ジェンという別の囚人は、二人の子どもがいるホームレスの十歳の女性だった。今ではオレンジ色 の囚人服を着て手足を拘束されていた。下っ端の覚醒剤の密売人で、ハルーンによる面接は1年6か 月の刑に服するか、同じ期間、薬物治療センターで拘禁治療を受けるかどちらにするかを決めるため のものだった。ジェンの母親も麻薬常用者で、一緒にやる人がほしくて、ジェンが18歳のときに覚醒 剤を教えた。ジェンの人生はそのときから転落の一途だった。義父から繰り返しレイプされ、家から逃げ出し、別の麻薬常用者と結婚したが、その男に意識を失うまで殴られた。結局ジェンは子どもた ちを失い、路上生活者にまで落ちぶれた。「母が刑務所に電話をかけてきて、私に『愛しているよ』 と言っても、私は同じ言葉を返せません」と、ジェンは私に語った。

10ドルの最後通牒ゲームで、見知らぬ相手にいくら払うと提案するか私が尋ねると、ジェンは5ド ルと即座に答えた。私はこれをきちんと書きとめてから、どうしてそんなに公平なのかと尋ねた。 「麻薬の売人をしていると、ごまかしたら命がないから」と彼女は言った。ゲームのプレイヤーBと して受け入れられる最少額はいくらかと訊くと、彼女は「1セント」と答えた。なぜ? 「あたりま えでしょう。私はホームレスだから」 

極端に衝動的な人を除けば、ほとんどの囚人は公正さと互恵主義の基本的な感覚をある程度はまだ 持ちあわせていた――少なくとも、お金に関する診療所内での決定については。これらの研究から、 さまざまな合理的視点が行動に影響を与えていることがわかっただけでなく、私たちが意識的な思考 を行い、必要に応じて共感的反応の度合いを認知的な力によって下げられることも実証された。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.183)

遺伝的にどうやっても共感を持てない人ー精神病質者を信じてはいけない。

精神病質者は、他人に強い興味を持つが他人に対応する能力がほとんどないウィリアムズ症候群の患者とは正反対だ。精神病質者には認知のレベルでは驚くべき社会的能力があるが、問題は、とにか く自己本位で他人のことなどおかまいなしである点だ。共感が欠けているので彼らは他人を物として 扱い、それでも認知的技能のおかげでまんまとやりおおせている。 心理学者のアンナ・ソールターは、敬虔な看守にまつわる話をしている。彼をジョーと呼ぶことにしよう。ジョーは、ほかの人が精神病質者として切り捨ててしまった有罪の強姦犯に同情を示した。

この囚人が、イエスに帰依して生まれ変わったと断言したとき、ジョーは彼のために仮釈放審議会 に話をし、もし彼が釈放されたら自宅に引き取るとさえ約束した。数か月後、刑務所を出たこの囚人 がジョーの娘をレイプして殺害したとき、ジョーは当然悲しみに打ちひしがれたが、とりわけ落胆もした。

「どうして私たちにこんなことができるんだ」とジョーは元囚人に尋ねた。「あんたを信用していた のに」

罪を重ねた元囚人は笑った。「あんたには、どうしてもわからないだろうな。オレは精神病質者だ! オレたちはこういうことをやるのさ」

人を信じようというジョーの気持ちが仇になり、彼は――そして、不幸なことに彼の娘も―はな はだ無防備になってしまったのだ。信仰によって思考が歪められると、ちょうど経済学あるいは優生 学によって思考が歪められたときのように、モラル分子が機能を果たせなくなる。モラル分子の仕事 は、私たちを「善く」するというよりむしろ、私たちがもっとも適応性のあるかたちで身近な環境と 調和を保てるようにすることだ。それは(もちろんいつもではないが)たいてい、向社会的にふるま うことを意味する。

とても信心深い人は、他人の中に善を見たり、他人の要求に合わせたりしようと一生懸命になるあ まり、自分が相手をしている人がよからぬことをたくらんでいるのを警告するサインをときおり見落 としてしまう。これでは適応性があるとはいえない。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.187)

オキシトシン欠乏症の人はオキシトシンではなく認知で人間関係をつくるーうまくいかない

2011年、ある撮影隊が7つの大罪についてのドキュメンタリーを撮るために私たちの研究室を 訪れた。その際、ステファニー・キャスタニエという型破りな若い女性を一緒に連れてきた。「アプ レンティス」(訳注:見習い候補者のなかからオーディションで1名の採用者を選ぶテレビ番組)でドナルド・ トランプ版を見た人なら、カナダ生まれの不動産事業の達人として、彼女に見覚えがあるかもしれな い。その番組で、彼女は強欲の女神さながらだった。とても魅力的で女性らしいけれど、不動産業界 の熾烈な競争の中で恐るべき押しの強さを見せ、30歳足らずで資産が100万ドルを超えた。

私は、彼女のHOMEシステムを調べるために一連の実験を企画した。すると、ビジネスの上では あれほど攻撃的なのにもかかわらず、彼女のテストステロンの値は並外れて低いことがわかった。と ころが、彼女には遺伝子異常があり、その体は、とてつもない量のDHT――手厳しい行動をしばし ば引き起こす強力な物質――を、わずかしかないテストステロンから生成できる。DHTは、当然な がらオキシトシンの働きを妨げる。それでステファニーは、悪びれもせず自ら認めているように、多 くの男たち同様、信じられないほど衝動的で、あまりうまく共感できないのだ。だが、彼女の話はさ らに続く。

ステファニーが子どものころ、父親はドラッグの密売で大儲けしていたので、一家にはたっぷりお 金があったが、無法地帯のようなところに住み、マシンガンをベッドの下に隠し、現金を枕カバーに 詰め込んでおくような暮らしをしており、異様な(そして、ときに暴力的な)出来事は日常茶飯事 った。ステファニーが中学生のころには、父親自身もドラッグを使ううちに街の売人に落ちぶれ、あ げくのはてには薬物中毒のホームレスになった。このころの父親はドラッグに注ぎ込むため、彼女の スニーカーやジャケットや教科書など、ほんの数ドルにでも換金できそうなものは何でも盗もうとし た。父親の中毒者仲間に自分も売り飛ばされるかもしれない、そうでなくても誰かに押し入られてレ イプされるかもしれないという恐れを感じて、ステファニーは野球のバットをベッドの脇に置いて寝 た。ハイスクールを卒業するまでに、両親ともエイズで死んでしまった。 私たちは、例の、ベンという脳腫瘍を患う幼い男の子のビデオをステファニーに見せた。すると彼 女は、胸を打たれて必死で涙をこらえていると言った。ところが、血液検査をすると、オキシトシンは分泌されていなかった。 つまり実際には共感していないということだ。強靭な回復力を発揮して抜 け目なく逆境を切り抜けてきた彼女は、如才ない受け答えをする術を知っているだけだったのだ。

テスト結果を伝えるためにステファニーに電話したとき、その内容を知りたくないかもしれません が、とひと言警告した。内面をあからさまにしすぎるかもしれませんから、と。彼女はぜひ知りたい と答えた。オキシトシン欠乏障害(ODD)の特徴の一つは、恋愛関係を維持できないことだ。それ を指摘すると、ステファニーは笑いながら、新しいランニング・シューズに履き替えるように次々に 男性とつきあっている、と言った。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.169)

 

この記事のまとめ

「命」はよろこんでいますか。

「心」はよろこんでいますか。

EQが高く、SQが低い?人間カメレオン【自己欺瞞】共感できない社会性のあるナルシシスト

日本にはよくあるパターンでしょう。

自己犠牲もしくは恨み

子ども時代からはじまっています。

年長児になると、まだホンネが顔を覗かせる年中児とは違って、じぶんの本意を沈潜させてしまう。逆に言うと、その分だけ、じぶんの本位を満足させなかった他者への恨みやつらい感情を残すことにもなる。その他者への恨みつらみがあとまで尾を引いてしまうことにもなるのである。それが、まったく別の機会に〈あなた〉への仕返し的に恨みをはらすといった行動となって現れる。(略)先にも述べたような対人的な関係で過去の経験を「根にもつ」とか、過去の出来事に対するこだわりから、それにとらわれ、今を生きることを犠牲にしてしまう。また、未来のために今を犠牲にするといった本末転倒な生き方の景気をも同時に生み出していくのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.185)

自己疎外・自己欺瞞

他人の目を気にして、自分の本心がわからなくなってしまった子どもたちもたくさんいます。親の評価、学校の評価、他人を基準にして生きてきた代償は「自分の人生」です。

しかし対人能力と欲求や感情のバランスが崩れていたら、それは空虚な成功しかもたらさない だろう。心からの満足を犠牲にしての人気取りなのだから――こう言っているのは、ミネソタ大 学の心理学者マーク・スナイダーだ。スナイダーは、社会的な器用さばかり追求したために人間 カメレオンのようになってしまった人々について研究している。人間カメレオンの内面は、「僕 の本当の姿は他人から愛されようとして僕が他人の心の中に作りあげてきたイメージとは全然ち がう」と言った詩人W・H・オーデンの言葉がぴったり当てはまりそうだ。外面と内面のトレー ドオフは、社会的器用さが自分自身の感情を認識し尊重する能力を上回ってしまった場合に起こ る。愛されるためなら ――好かれるためだけでも――人間カメレオンは一緒にいる人の好みどおりに変わってしまう。一見とても好ましい人なのに長続きする親友がいないというのが人間カメレオンの特徴だ、とスナイダーは指摘している。誠実な社会的知性と本当の気持ちがほどよく釣り合った状態の方がはるかに健全であることは言うまでもない。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.186)

もちろん、EQの高さを使って、高いSQで応じれば、本人も満足するでしょう。本心から、高いEQを使いさせすれば。

SQの高さとは、どれだけ魂の「本音」に耳を傾けているか、それが「健康的か」どうかで決まるものです。

 

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