リッチネスとは?貧しさと豊かさとは?しあわせな生き方とは?

ストレスとオキシトシンとリッチネス

経済は「競争」では繁栄しない

幸せとはなんだろう

ここで紹介しておきたいのが、つい最近私の人生に起こった、物事の本質を露わに する出来事だ。それはオキシトシンがほとばしり、私がほんとうに一歩外に踏み出すことができた瞬間だった。 

準備すること2年、パプアニューギニア行きの許可がやっと下りた。儀式の踊りの前後で現地の部族の戦士から採血するのが目的だ。この実験で、オキシトシンの分泌が普遍的なものかどうか検証で きる。西部山岳州は火山が連なる起伏の多い緑豊かな土地で、ほぼ途切れることなく雨が降る。そこ にマルヶ村はある。 

カリフォルニアから30時間の旅だったこともあり、到着したときには正直なところ、ちょっとまい っていた。体を洗っていない現地の人々の体臭にただただ閉口したというのもあったのだろう。そこ の住民の数は約1000人で、私たちの大昔の祖先に近い暮らしを営んでいた。草葺きの小屋を作り、 ヤムイモとキャベツで生きていた。じつを言うと、彼らは食人という習慣をやめてからせいぜい2世 代しかたっていなかった。男たちの体には泥がこびりついていたので、実験を始めていざ採血となっ たときには、消毒綿を4、5回替えてこすらないと皮膚が見えなかった。彼らの「衛生設備」はただ の溝で、手を洗う石鹸も水もなく、手を拭く葉があればまだましだった。彼らは泥の中を裸足で歩き まわり、古着を着ていた。 

カルチャーショックと深刻な時差ぼけに襲われたのに加えて、血液サンプルを冷やす液体窒素が到 着していないことにうろたえてしまい、私は丘の斜面に座り込んで、どうしようか頭を悩ませていた。 青白い顔をした雲つくばかりの大男の西洋人である私は、好奇心の格好の的になっていたようだ。と いうのも、少しずつ、私を取り囲むように村人が集まりはじめたからだ。しばらくすると、よちよち 歩きの子どもから歯の抜けた老婆まで、私を見に大勢の人が集まった。彼らは私を囲むようにして座 り、私を眺め、しだいに近づいてきた。客を夕食に「供する」という地元の風習が頭をよぎったが、 「毒を食らわば皿まで」というのが私のモットーだ。

子どもたちが恥ずかしがっているので、私はおかしな顔をしてみせた。すると子どもたちは笑いだし、それからみんながにっこり笑った。そしても っと近くに寄ってきた。誰も彼もが私に触りたがり、私と握手したがった。動物の皮と鳥の羽根と草 でできた自分たちの頭飾りを次々に差し出しはじめた。私は老女たちをからかいだした。そのうちの 一人はずっと笑いっぱなしで、やたらと私のあばらのあたりを突いてきた。そのあと私は、ジャング ルの匂いを胸いっぱいに吸い込み、私に染みついている西洋の思想も偏見も懸念も、すべてしばらく 忘れた。

これは人生が一変する経験だった。 彼らほど親しみやすくて楽しい人々には接したことがなかった。なにせ彼らは生活に必要なものを に入れるには1日1時間ばかり働けばよく、あとはひたすら社交に勤しむ(血液を分析すると、ス トレスホルモンの値は、ほとんど意識がない人間の値と変わらなかった)。とはいえ、驚くほど勤勉 にも思いやり深くもなれる。しょっちゅう降ってくる雨から発電機と電気設備を守るために、彼らに 頼んで小屋 (木の枝を柱にしてその上に防水シートをかぶせたもの)を作ってもらったときには、柱1本1本をシダと紫の花で飾ってくれた。 別の面でも驚くほど心が広かった。彼らが豚を1頭屠るのを見たことがある。彼らはじっくりとそ の豚を焼きながら、頃合いを見て表皮をはいだ。そして首長がぜいたく品である肉をもったいぶった 仕草で各家庭に平等に配る。肉がみんなに行き渡るまで誰も食べない。後日、私たちが帰国するとき に、何も持っていない彼らが儀式を催し、私たちメンバー一人ひとりに美しく包装した贈り物をくれ た。それには首長のメッセージがついていて、この贈り物を私たちのそれぞれがもらうことがなぜ大 切なのかという理由が書いてあった。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.221)

幸せと満足と豊かさと貧しさ

何年も前、初めて国内各地で信頼の度合いを測定したとき、私は活の変数を調べた。いずれも、オ キシトシンの分泌やテストステロン、社会レベルでのストレスと結びついている可能性があるものだ。 これらの変数のうちでもっとも強い相関が見つかったのは、幸せと信頼だった。この緊密な相関は、 国家の所得レベルとは無関係に成立しつづけた。豊かであろうが貧しかろうが、信頼に満ちた社会に 暮らしていると人は間違いなく幸せになるのだ。 

興味深い話だ。だが、私たちは大国として幸せを気にするべきなのだろうか? 奇妙にも、建国の 父たち(ニューエイジのいかれた連中とはおよそいえない)は独立宣言の中で、「幸福の追求」を 「生命」や「自由」とともに人間の「奪うことのできない」権利の一つとして挙げた。そして、幸せ には見かけ以上のものがある。 

卒業式の講演者は幸福と満足を区別し、前者はたんに楽しい気分、あるいは渇望の一時的充足であ るのに対して、後者は長期的で、より深く、より有意義な快感を指すと言うことがある。駐車スペー スが見つかったときには「幸せ」な気分になる。一生懸命に働いてお金をため、子どもを立派な大人 に育てあげたときには「満足」を感じる。 

毎度のことながら、ギリシア人は私たちが言おうとしていることにおそらく打ってつけの言葉を持 っていた。それは「エウダイモニア」という単語で、「栄える」という意味があり、私たちが探して いる望ましいもの(それは「幸福」と呼ばれることが多い)は、欲求のたんに一時的な、あるいは表 面的な充足ではなく、幸せがみなぎった状態で、生理的作用全般に影響を与え、免疫系も改善し、長 く健康な人生や包括的な繁栄の増進につながりうる。エウダイモニアは、ドナルド・トランプではな く西洋文化の土台を築いた哲学者たちによって定義された「よき生活」なのだ。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.280)

アリストテレス (彼もまた、およそ愚者とは言いがたい)は、自分の倫理体系をそっくりエウダイ モニアの上に築きあげ、徳を目指して努力するのは、道徳にかなえば幸せになれるからだと述べている。 

2010年、私は信頼ゲームの別のバリエーションを使って、アリストテレスの考えを確かめてみ た。この実験では、大学生の年代の女性の人に全員プレイヤーBになってもらい、そうとは知らせず に同額(以ドル)を、プレイヤーA(実験の協力者)から送った。こんな設定にしたのは、このとき は刺激の大きさに対する反応の大きさを調べるのではなく、一貫して同じ刺激を与えるのが目的だっ たからだ。こうすれば、オキシトシンをたくさん分泌する女性が、ほとんどあるいはまったく分泌し ない女性とどう違うか、突き止められる。 

ゲームを始める前に、自分の生活についてどう感じているかを示すような調査やテストを被験者に 受けてもらった。こうすれば、信頼ゲームの結果(赤の他人が自分を信頼してくれたために起こった オキシトシンの増加と、それがもたらす、相手への寛大さ)と調査やテストの回答(幸福、言い換え ればエウダイモニアの基準値の指標)との相関が調べられる。 

結果はというと、オキシトシン・レベルが大きく上がった人は、送り返す金額が多かっただけでな く、生活の満足度も高く、不都合なことが起こっても回復力があり、鬱の徴候を示す点数が低かった。 いちばん多くのお金を送り返した人たち(気前がよくて、ひょっとすると有徳の人でさえあるかもし れない)は、研究室をあとにしたとき、ポケットに入っているお金はいちばん少なかったが、飛び抜 けて幸せだった。そして、これらのオキシトシン分泌の達人たちは人間関係の達人でもあった。恋愛 関係の質が高く(その結果、ほかの人よりも少ない相手と多くセックスをする)、友達が多く、家族 との間柄が緊密で、見知らぬ人に対して気前がよかった。 

というわけで、オキシトシンは私たちを向社会的で道徳的にする脳のメカニズムと結びついている だけではなく、ドーパミンとセロトニンというHOME回路の要素を活性化することで私たちを幸せ にするメカニズムともつながっている。充実した人間関係があると私たちは幸せになる。そして、心 理学者や疫病学者が長年実証してきたように、人は幸せなほうが健康だ。オキシトシンは心臓血管の ストレスを減らし、免疫系の働きを高める。私たちの人生を幸せにするだけではなく、伸ばしてもく れるのだから、大昔からあるこんなちっぽけな分子にしては上出来ではないか。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.282)

寛容さと信頼と収入

最近私は、寛容をわが子に教えるのは重要だと言う人の割合と、彼らが他人はどれだけ信頼できる と考えているかと、各国の平均収入を調べた「世界価値観調査」のデータを分析した。道徳性の一指 標である寛容さと信頼が、その国の平均収入とどう関係しているかを知りたかったからだ。次ページ に掲げたグラフを見ればわかるように、寛容さと信頼は、平均収入とほぼ完璧に足並みをそろえて増していく。

例外もあるが、生き延びるのがやっとの収入レベルから離れる人が増えるにつれて、安心 感が高まり、そのおかげで、人を信頼したり寛容になったりする余裕が生まれる。寛容な国はより革新的で、繁栄を持続させるのに必要な技術的刷新も生み出していることも調査からわかっている。 「善循環」の輪が回転しながら、貧困から繁栄への道筋を見事に進んでいく様子が見られるが、問題 は、市場の成功の出発点であるとともにこれほどの利益を生み出している自己強化型の道徳性を、先 進社会はどう維持すればいいのかだ。言い換えると、最大の幸福をもたらす繁栄を維持しつつ、同時 に、1頭20万ドルもする攻撃犬が新しいステイタスシンボルになり、勝者総取りの不安定な状態へと 転落していくような社会にしないようにするにはどうするかだ。 

宗教の場合、動機の力としてオキシトシンがテストステロンに優る度合いに応じてポジティブな方 向に傾いたことがわかった。では、市場が道徳的にポジティブかネガティブかというと、それほど驚 くまでもないが、答えは商業活動がオキシトシンの分泌と結びついている度合いにかかっている。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.240)

リッチネス

リッチネス

Richnessという言葉がある。豊かさと訳される。インドネシアに行った時に、ふと数人が使うRichという言葉が気になっていた(インドネシア語が話せないので英語で話していた)。ワタシはこの言葉をよく知らないでいた。使わないでいた。 この世界はどれだけリッチなんだろう。 目の前に海がある。この海から魚をとれる人は、リッチだ。 その魚をさばいて、美味しく食べられる人はリッチだ。 目の前にドングリがある。そのドングリをアク抜きして食べられる人はリッチだ。 リッチな人は、目の前にあるものをどう使ったらいいか、目の前にあるものとどう関わったらいいかを知っているような気がする。 砂漠はリッチだろうか。きっとそのリッチさは肥沃な大地とは違うんだろう。 そのリッチさを見つけられるだろうか。砂漠のリッチさを、使えるだろうか。 もしかしたら、それはオアシスに見つかるのかもしれない。いやもっと、別のリッチさがあるかもしれない。 空はリッチだろうか。ある人は、そこに物語を作り出して、語った。 目の前に稲穂が揺らめいていても、それを稲穂だと知らない人は稲穂のリッチさをしらない。 目の前で起こっていることが何かわからず、それとどう関わればいいのかわからない人がいる。 私たちは、今この瞬間にも起きているかもしれない世界のリッチさを感じれているだろうか。 世界と関わってリッチになる関わり方を、どれだけ学んできたのだろうか。一体誰が、そんなことを喋っただろう。 自分がリッチにだってなれる。リッチなものと関わる技術とは、リッチでないものをリッチにする技術だ。 春になった。美味しい野菜が食べられるのは、リッチな大地から生まれたリッチな野菜を仕入れてくれるリッチなおばあちゃんがいるリッチなやおやさんがあるからだ。それをできるだけリッチに食べる工夫をしよう。それだけで、春がリッチになる。少しだけ、ボクは春のリッチさをいただこう。 私をリッチにする何か、私がリッチでいられる何か、そんな何かに、僕も食べてもらおう。そしたら私は、春になれる。

リッチネス2

昔、リッチネスという言葉について書いた。 公園でグンデルをしながら、風成に興味を持って来てくれる子がいる。実はバリ島で風船おじさんがいるのを、僕は「イイ!」とおもって真似をしたのだ。 風船と、日本のリッチネスについて考えた。 バリ島では風船おじさんは商売をする。お父さんお母さんは風船を買う。日本でも服を買ったりおもちゃを買うだろう。けど本当に子供が欲しい「風船」(もう本当に人気だ!グンデルより人気!)にお金を払わなくちゃいけないとおもっているお母さんはいない。タダでもらうことに、慣れてしまったのか。もちろん僕もタダであげようと思ってきている。ただ、それがタダなのを、みんなどうおもっているのか。誰も聞いてくれない。きいてよ! まず風船が公園にあること自体日本ではおかしなはなしなんだろう。 「怪しい商売」と思われてもしかたないか。 ここからがリッチネスの話。 子供が本当に欲しいもの。それだけの価値があるものがオトナにとっては大したことではないらしい。お金を払うに値しないことが、コドモにとって大切で、おもしろくて、わくわくする。 だから子供はお金がなくても遊ぶのだし、お金とは関係なく楽しむ。オトナは将来のためにお金をつかう。目の前にある「風船」にお金をかけるバリ島のリッチネスと、どこにもない「将来」にお金をかけるリッチネス。 文化によって、リッチという言葉は違う。 私は子どもたちと一緒にいたほうが、自分がリッチになるとおもっている。 そのリッチネスを分けてもらうために、私は風船をもっていっている。

この記事のまとめ

しあわせは、「命」を育てること。

しあわせは、「心」を守ること。

子どもの中に、0歳からしあわせのお守り(心)を育てる

SQ生きかたの知能指数

さいわい、この情動傾向は生まれつき決まったものではなさそうだ。たしかに、もって生まれた気 質には「明るい」とか「暗い」といった傾向があるものの、これまでの研究によって、「子供時代に どんなふうに育てられたか」ということと「成人してからどのくらい喜びを感じられる人になるか」 ということのあいだには関係がある、とわかってきている。幸福感は、情動の波を克服して平静で幸 福な気分に戻ることのできる心の回復力に支えられている。ストレスからの回復力と幸福を感じる能力とのあいだには、直接的な結びつきがあると思われる。

デイヴィッドソンは、次のように述べている。「数多くの動物実験データから、子育てのうまい親 ――マウスならば、子をかいがいしく舐めて世話する親は、機嫌が良くストレスに強い子供を育 てます。動物でも、人間でも、肯定的な情動傾向のひとつの指標は、慣れない環境などのストレス状 況下で探求心や社交性を見せるかどうかです。新奇なものを脅威と見るか、チャンスと見るか、の違 いです。親から大切にされて育った動物は、見知らぬ環境をチャンスと見て、積極的に探求しようとします」

こうした動物実験の結果は、人間を対象とした研究結果とも合致する。デイヴィッドソンは、現在 五○代後半にさしかかろうとしている被験者たちを高校卒業時から数年ごとに評価してきた。デイヴ ィッドソンのグループが幸福感の設定値を測ったところ、回復力が最も強く毎日を上機嫌で過ごして いる人たちの脳は独特な活動パターンを示していた。興味深いことに、子供のころ大切に育てられた と記憶している人たちの脳は、前頭前野の左側が活発に活動していて、楽しそうな脳のパターンを示 していた。

子供時代が温かい記憶として思い出されるのは、その人が上機嫌なせいで人生がばら色に見えてい る、というだけのことなのだろうか? そうかもしれない。しかし、デイヴィッドソンはわたしに、 「脳が幸福を感じる経路を敷くうえで、幼児期の人間関係で味わった喜びの量がきわめて強い影響を 及ぼすように思う」と話してくれた。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.276)

しあわせって何?

しあわせとは あるがままの自分、大切な他者と居合わせることであり、 あるがままの自分、大切な他者と何がしかを仕合わせることである。 自由のない幸せは執着である。 しあわせとは 求め得られるよろこびではない。 しあわせは感情ではない。 しあわせは、そこに居合わせた自分や他者の命を燃やし輝かせる炎に似ている。

ーーーーーー しあわせを感じたのは、いつだろう。 ああ、この人は、この人のありのままの姿で、今、目の前にいる。 ああ、この人は、この人のありのままの姿で、一緒に、僕と一緒に何かをしている。 と感じたのは、いつだろう。 いつだって誰かが僕を利用してくるように思えてしまう、不安と恐怖でいっぱいの世の中で、僕が僕らしくいられたのはどんなときだろう。 しあわせは「たのしい」とか「うれしい」とは違う。 と、僕はおもう。 おいしいものを食べた「よろこび」とも違うように、僕はおもう。 悲しみですら、共に居合わせ、何がしかの振る舞いや言葉で仕合わせることで、それはしあわせになる。

ーーーーーーー しあわせとは「仕合わせ」 仕え合わせる、何かを、「し合う」こと。 しあわせとは「居合わせ」 ありのままの姿で、出会うこと。

ーーーーーーー 情動知性は語りかける。 「これが、あなたの命だよ。今燃えている、目の前のこれが、あなただよ」 そのほむらの中に、誰かの面影が映っているだろうか。 誰かと、何かと、「居合わせた」「仕合わせた」記憶が、映っているだろうか。 自分の顔が、炎の中で、他者と合わさって、重なり合って、燃えている。 形なく、自由に、燃え尽きるまで、燃え続ける命という現象の本質が、しあわせだと、僕は思う。 しあわせを見つめる時間を、大切にしたいと、僕はおもう。

受け入れる

この世は地獄だ。 と受け入れてみよう。 もう変えられない、地獄。 (一部の人は地獄の中に別のシステムをつくろうとしているが) そうしたら、笑って暮らすだけでもいいんじゃないかと思えてくる。 心配することも、悲しむことも、怒ることもない。 誰かに支配されているなど考えていても、しょうがない。 将来の心配もせず、 笑って暮らすために、子育てをしてもいいのかもしれない。 何があっても笑顔でいる子どもは、幸せだろう。 笑いながら、信念が芽生えた時に、生まれてくる世界がある。 地獄の中に生まれる、心が作り出す大切な世界をもっている人は、しあわせだ。 もちろん、信念などなくとも、しあわせになれるのだだろうけれど   ーー   世の中を、天国だと受け止めてみよう。 一瞬一瞬が、人が成長する瞬間であり、よりよい自分に向かっていく、笑いあえる瞬間になる。 何を憂うことがあるだろう? 食べていける、生きていける、今、生きている。 それだけでもう全部、笑ってもいい。 命はしあわせになるようにできている。 取り越し苦労なんて、しなくていいのだ。

「味わう」

何かが起こった。何かをやった。その後に、どれだけ私たちは「味わって」いるだろうか。 味わうこと。時間をかけて、味わうこと。コトバにできない不思議な味も、味わうこと。 苦い味も、嫌な味も、美味しいものも全部。 味わった後に、どう表現したらいいかわからないかもしれない。 そういう時は誰かがいて、一緒に見つけてくれたら幸せだ。 他の人はどんな味だったんだろう?一人だけで食事をしていたら、ちょっぴりさびしい。 「悲しい」ことは悲しもう。「嬉しい」ことはうれしがろう。頭じゃなくて、体で悲しんで、体で喜ぼう。 その時誰かが隣にいてくれるとしたら、なんて幸せなことなんだろう。なんてありがたいことなんだろう。 「課題ができた」「成績が出た」できごとに追われて、「よかった」「わるかった」という基準だけじゃおもしろくない。 一緒にできごとを味わいなおすことは大切だ。味は、深いものだ。味わったものが、本当の経験になる。 「こんなことをした」「あんなんだった」。ちゃんと味わうことは、常に変わっていく心を知ることにもなる。 本当に大切なことは、本当の気持ちは、もっと深いところにあって、これから起きようとしているかもしれないのだから。 どこから芽がでるかわからない大地の、心の世話をしていくには、現実の世界は、ちょっとあくせくしている気がする。 ゆっくりいこう。 「結果が全て」 未来のことが気になって、ちゃんと味わえないことがたくさんあるかもしれない。ほしいものを手に入れるために躍起になることは、当然、生きていればよくあることだ。けれども、どこでもドアで移動するだけじゃつまらない。道中を楽しもう。いま個々で起きていることも楽しもう。一番欲張りかもしれないけれども、今ここに生きている自分のことも、世話してあげよう。忙しいなぁ!  

あなたにとってのリッチネスとは何かー欲望を刺激する過剰な世界から身を守る『あなたの脳は変えられる』

  あなたの脳は変えられる 「やめられない! 」の神経ループから抜け出す方法 現代人は、短期的な報酬―かえって人の渇きを増すような報酬―の渦に巻き込まれる 瀬戸際を泳いでいるようなものである。そんな中で、まさにその強化と同じプロセスを利用するこの種のツールがあれば、食べ物であれ、お金であれ、名声であれ、権力であれ、自分が求めるものがどのくらいあれば十分なのかを見極める機会を与えてくれるのではないだろうか。それを発見する旅を通じて私たちは、より永続的で満ち足りた報酬を見つけだすだろう。 マインドフルネスを学べば、気づきと気遣いを深める生き方を身につけることができる。ド ーパミンの分泌を求めて機械的にレバーを押し続けるよりも、あらゆる行動に注意を向けつ つ、関わるものすべてを意識的に選択する生き方である。そのとき私たちは、浅い興奮に満 たされるだけの人生ではなく、より幸せで健康的な人生を見出すだろう。 (『あなたの脳は変えられる』ジェドソン・ブルワー p.324)

「自分語り」

人は自分の物語をもっている。「ワタシはこういう生き方をして、こう生きている、こう考える」というパターンがある。 昔の自分の行動を繰り返す、その奥底には強烈な演出者がいて、演技者に指示を出している。「次、君はこうしなさい」とか。もしくは俳優のうちの一人が、わがままをいって、他の俳優を振り回している。 次第に、俳優たちは、「ワタシってなんなの?」といってやる気を無くす。誰かが演出家に、支配者にこういった。 「いやどうかな、ここ、こうしたらおもしろいんじゃない?」「ここはホントはこうなんじゃない?」その場で生まれでてくる誰かの声、気持ちに耳を傾け、新しい物語、新しい風景、新しい場面を作り上げていくこと。自分語りとは、無視されてきた自分の俳優たちと一緒に、物語を作り直し、舞台をつくることだ。オンナジ風景じゃ、つまらない。新しい場面に、新しい舞台に、新しい人生に、タイトルをつけよう。何かやってみたら「やってみたら、おもしろいじゃないか」ということになるかもしれない。 物語を変えていくなかで、登場人物に名前がつくかもしれない。今まで見えていなかった風景に出会うかもしれない。新しい感覚・できごとを大切にしよう。初めて気がつけた誰かの気持ち・自分の気持ちを大切にできるように。言葉を使おう。もしかしたら、今までギャーギャーいっていた演出家が、役者が、仮面を外して新しい姿になるかもしれない。何が起きるかわからない。言葉は見えないものを探る力になる。 「自分探し」という言葉がある。 謎めいた言葉だ。まるで迷子になった自分がいるみたいだ。迷子になっているわけではない。見えていないのだ。だから自分探しじゃなくて「メガネ外し」がいい。「自分を誰かにみてもらいたい、評価されたい」という気持ちがある。確かに誰かと一緒に、本当に、ちゃんとみてもらえる人は幸せだ。その「誰か」が「自分」である人も、幸せだ。自分をちゃんと、ワタシの中のいろんなアナタを、一人ひとり世話して、耳を傾けて、一緒に何かやって、暮らせる人は幸せだ。「ああ、楽しくない」というアナタの隣で「ん〜、楽しいかも」といっているアナタがる。そういう一人ひとりをちゃんとみてあげよう。失踪してしまっているアナタもいるかもしれない。それこそ、探しに行かなければ!多分その子は、今まで無視されてきて、どこかに隠れてしまっているのだから。大丈夫。ふとしたときに、顔を出して、その子はいつでもアナタを見守っている。

【魔法の使い方】『ふらいんぐうぃっち』

『ふらいんぐうぃっち』

日常。 暮らし。 魔法は? 魔法使いって、どんなひと? 物語を見ていくうちに、このアニメから伝わってくるものが、はっきり感じられるようになってくる。 魔法が使える人がでてくる物語で、ドンパチやるアニメもある。 魔法が使える人がでてきて、こんなにも、日常を見せてくれると、魔法の部分が、鮮やかに、彩られる。 魔法って、なんだろう。 リッチネス。

天然の人間とは?

もしお店で「天然ものの人間だよ!」と売り出されている「人」がいると想像してみた。 それはどんな人間だろう?「地場産」の人間が売られているとしたら?どんな人が買うだろう。「グローバル」な人を買う人もいる。誰に買ってもらうのか。薬漬けで育った人もいる。過保護で育った人もいる。笑顔いっぱいで育った人もいる。野に咲く花のように育った人もいる。親の不安を一身に注がれて育った人もいる。 自分を自分でどう売り出すか。 誰に売るか。 商品としての自分の価値を、誰かに与えられるだけでなく、最後は自分でつくらなくてはいけない。 自分で価値を創造することが、能動的に、自由に、しあわせに生きるひとつのやり方だとおもう。 つくりつづける人、学び続ける人を、オトノネは応援したい。

中村天風の実践哲学における「笑い」で食卓を見直す

今、感情の本をいろいろと読みながら、「しあわせな出来事は、しあわせな気分の時により思い出すことができる」と書いてあった。逆に「悲しい気分の時は、悲しい出来事しか思い出せない」ということになるのだが。。。 かつて、中村天風の本を読んでいた時、「ご飯を食べる前に、思いっきり、笑うこと」が書かれていた。 これは科学的に、すぐれている。 感情があって表情が作られるだけでなく、表情が、感情をつくるという経路は存在する。 笑うことで、いいことを考えて、ポジティブに、しあわせになることを考えるような習慣が身につくという。 実際、僕はアホみたいに「いっただっきまーす!!!」と笑顔をつくって、一声、叫んでから食べるようにしている。 儀式みたいなものだが、まぁそれなりに効果をあげているのではないかとおもってます。 食卓で、テレビをみんなで見て呆然としていませんか。 お母さんがつくった、美味しい料理で幸せな気持ちになっている時に、楽しい話も、一緒にしてみると、「しあわせ」の種が育てられるのかもしれません。 僕が育てられなかったものです苦笑 ーーーー

ーーーー ポジティブな人に人は惹かれる。 笑っている人に、人は惹かれる。 ニコニコわらっている人が、どこか仏めいて見えるのも、そのせいだろう。 ニコニコ笑っている人は、ストレスフリーに見える。 笑っている人をみると、こっちも笑いたくなってくる。 子どもは、しあわせの源を知っている。 こっそり、教えてもらおう。 ーーーーー

ーーーー 学校で先生たちの言葉からストレスを受けながら、友達とのおしゃべりや部活動でしあわせを見つけようとしている子どもたちがいる。それはそれで、すばらしい「しあわせ」をみつけるスキルだとおもう。それはそれで、学びがいがある。 笑っている子どもたちをみていると、本当に、僕は心から尊敬してしまう。 だがしかし、「ストレス耐性」をつけることが学校の本意であっていいのだろうか。 これは「教育とは何か」という哲学の話であって、心の話であって、伝わらない人には、伝わらないのだけれど。。 ーーー

ーーーー 最近、おとのねさんは疲れてきていて、悪い考えが浮かぶことが多かったり、笑えていない気がしている。 そんな時には、休むのが一番だ。と、おとのねさんはおもっています。 こうした感情・心との付き合い方も、この年齢になって、少しは上手くなってきたきがする。 眠れおとのねさん! 中村天風が気になる方は、スタイルに応じてこの3冊の中から選んでみてはいかがでしょうか。 「まえがき」だけでも、みる価値があります。内容は濃いですが、その分、じっくり読める一冊。 運命を拓く

エッセンスだけ、かいつまんで、読めます。

中村天風 怒らない 恐れない 悲しまない

「格言」っぽい感じで言葉が選ばれています。

ほんとうの心の力 ーーー

ーーー ちなみにですが。 人は、音楽を聞く時も、その時の気分moodで選曲を変えますね。 気分を高めるときの曲があったり、悲しいときに聞く曲があったり。 けどその経験が、誰かと共有されることほど、人間らしいことはないと、僕はおもっています。 それが、ライブコンサート(祭り)だったりするのですが。 ーーーー

ーーー 蛇足ですが。幸福な気分にさせて(いい話をして)、人を思考停止させる(気分moodで人を動かす)ことは、日常茶飯事に行われています。「うちの学校からは優秀な生徒が」とか「うちの塾からはこんな合格者が」とか。もしくは、TVショッピングでも。イイコトだらけの世の中で、情報リテラシーをメタスキルとして学ぶことは、イコール、心を守ることだと、僕はおもっています。 情動に流されず。 だが、 情動を観察して、情動に委ね、情動に導かれることも大切。 情動・感情のチカラとEQ うん、人間っぽい! 幸福な気分になって、思考を停止して、自己暗示的に「自信」をもった状態、また、「自己肯定感」というmoodを持った状態を作り出すことで、人はもっている能力を発揮できる、というのも事実だ。この「情動」の操作も、うまく利用すれば、人はしあわせになれるし、悪用されればされたで、騙されてしまう。新興宗教でもよく「奇跡」「自分に秘められたチカラ」を体験させるようなしかけが施されている。進研模試には、要注意である。 語るとはどういうことか。『悲しみに言葉を』

オトノネさんがインスタをやっている件

SNSの使い方をまだまだわかっていないオトノネさん。 インスタでオトノネさんの食生活が見られます笑 https://www.instagram.com/otonone/ 食事は大事。 イイものを食べたら、イイよ笑 豪華なものじゃなくて、贅沢なもの、豊かなもの、リッチなものを食べよう。

ある日、「本気で食べないとヤバイ」とおもったオトノネさん。 まだまだ食生活が乱れていますが。。。 この食材、どう使うんでしょうか?

こうなりました。 材料の味をどう生かすか。 素材の味をどう生かすか。 安い納豆を、安い納豆についている「タレ」をつけないで食べたら、めちゃくちゃまずかった。 世の中に出回っている「凄」そうなもの 安い!すごい! 安いものに手を出す人が増えたら、そのうち、おいしい納豆、ふつうの納豆が、なくなりはしないかと、おもう。 ファンが、支えてくれるんだろう。

バリ島の「感情」

バリ島に行って、ダランという語り部の先生にお世話になった。 そこで話を聞いていると、感情は3種類あるという。 それは、平穏、悲しみ、怒り。 しあわせ、がなかったことに驚いた。 バリ島では、喜ぶという感情が、どう表現されているのかわからない。 ーーー ーーー 日本では喜怒哀楽という言葉がある。 怒りと哀しみはわかるが、喜と楽の違いがわかりにくい気がする。 こんなふうに区別してみた。 接近(ある状態) 喜び・嫌悪 喪失(ない状態) 楽・悲しみ 好ましいものが近くにあれば、喜び 好ましくないものが近くにあれば、嫌悪 好ましくないものが近くになければ、楽しみ? 好ましいものが近くになければ、哀しみ 平穏(インドネシア語でダマイ)とは、喜びと楽しみを合わせたものなのか。 怒りとは、嫌悪と哀しみを混ぜたものだろうか。 インドネシアの語り部のストーリーは、だいたい、決まっている。 出来事が起きる。 怒り10% 出来事が起きる。 怒り40% また何かが起きる。 怒りが溜まっていく。 そして、戦いが起こる! 戦いが終わった後で、、、平穏が訪れる。 僕の言うしあわせとは、心が落ち着いた状態であって、何かが得られて嬉しいというものではない。 うれしいことをうれしいと感じるメタスキル かもしれない。 僕の言うしあわせとは、和やかさのことで、平穏のことで、自由に、のびのびと生きることだとおもった。 だとしたら、今の僕は、なかなか、穏やかではないなぁ笑 ーーーー

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保育雑誌を読んでいて、天野耕太さんの記事に出会う。 こういう、すごい人がいるんだな。 「平和」を心に抱いて、世界を巡業するサーカス団。 そういえば、作家のミヒャエル・エンデ(時間泥棒の『モモ』の話で有名)も、サーカスの人たちの社会的な役割、人間にとってのサーカスをよくよく考察した人だった。 演技団。 ーーーーーー

ーーーーーー 愛でる、という言葉がある。 これは「目出る」がオリジナルの日本語であるようにおもえる。 目が飛び出るくらい、みつめる、ということだと、僕は思って言う。 しあわせには自然発生的なものと人工的なものがある。と言う記事は、前に書いた。 僕の言う幸せは人工的なものであって、「しあわせになる」心ひとつで手に入るものだ。 これは、「得られなければ、幸せではない」という辺縁系レベルの感情ではなく、「なくても、それで、しあわせ」をつくりだす、想像の世界を作り出す新皮質レベルの感情だ。 「美味しいものを食べて幸せ!」ももちろん、大切だろうけれど。 誰かと一緒に暮らしながら、学んでいく「しあわせ」も味わえるようになったほうが、どうやら、人間らしいと僕はおもっている。 そうおもったら、一人分のお金だけ稼いで、あとは、小さく、生きていくのがいいのかもしれない。 おとのねさんは、どうやら、焦りすぎている気がする。 《放課後の学校》、趣味で、始めようか? 無料にしたらいい???笑 そんな考えすら、浮かんでくる。 そうして、厚生労働省は、文科省に予算も、社会的影響力も、とられてしまいましたとさ。 おとのねさんは、いつも悩んでいます。

最良の学びの場は、豊かな暮らしそのものだ。豊かさとは何か、そのこたえは?richness

児童期は自分の力を発見して行く場。系統立てられたレッスン、一斉授業、「やらされることをやる」習慣は自然な学習意欲を損なう。

子どもの「遊び」は魔法の授業という本を読みながら。知ることと行うことのバランスの悪さにほとほと困ってしまう。これでも行動しているつもりだけど、全然、達成感が、まるでない。

この時代の中で、僕自身が育ってきた中で、これから僕自身がこう暮らしていきたい、子どもにもこういうふうに暮らしていって欲しい、育っていって欲しいという気持ちがある。僕の中で「うまく育たなかったこと」を本を読んで気がついて、いろんな人に出会いながら、「うまく育たなかったからできるようになったこと」をどう生かすか。その答えが今の所otonone-オトノネ-だ。

本屋に行くといろんな本が並んでいる。情報が多すぎる。最近は新しい流れがでてきたが、お父さんお母さんが見る子育てや勉強の本は「知育」とか「参考書」とか。テレビをつけているとコマーシャルが流れる。まわりのお母さんたちが早期教育を始める。その一つ一つが子どもからチカラを奪う。実に、奪う。そういった大人たちに“抵抗”するチカラが子供にあるだろうか。文化的な、地域的な圧力、「そのようにすべきだと取り決められたもの」が本当にいいことなのか、立ち止まって“判断”するチカラが子どもにあるだろうか。

お母さん・お父さん、身近な人が“抵抗”も“判断”もしていなかったら、子供は“従順”と”無念”の中で暮らすことになってしまう。心が壊れてしまう。(そういった話の研究は日本ではなされないし、情報にもなかなかのらない。)もちろん、DVを受けているのにそれを幸せだと思っている人もいる。ただ、それは僕が目指している精神ではない。逃げたいときは逃げる。休むときは休む。やりたいときはやる。社会の中で自己調整をしていくチカラ、抵抗できることとできないことを知ること、つくろうとおもえばつくれること。

あそびを知る大人になって、大人同士、子供どうしが遊べる社会をつくっていくこと。それがどんなやり方でもいい。そのチカラを家族だけでなく、周りの人、地域まで広げられる人もいればそうでもない人もいる。(僕は広げるのが苦手だし、遊んでくれるひとをいつも探している)

人間は便利な機械ではない。テスト(作業効率を計測する試験)で高得点を得られることで出荷(大学に行く、企業に行く)されるイメージなら、機械として壊れ、人間として苦しむかもしれない。実にそうだとおもっている。(もちろんその狂気から立ち直ってよりよく生き直す人もいる)

大人が、自分の暮らしを「豊か」だと思える環境の中で育てば、子供は「豊か」に育つ。オトナが「ストレス」に対処する行動を真似て、子供も「ストレス」に対処する。ストレスを子供にぶつける(お母さん。お父さんの不安を子供におしつける!子どもの将来を案じて!おせっかい!)オトナと暮らした子どもは将来、生まれてくる子どもに同じようにする(虐待の連鎖)。「勉強」をしている状態が「豊か」な人と学べば、子供は「勉強の豊かさ」を学ぶかもしれない。それが受験勉強という将来役に立ちそうにない(多くの場合実際、たたない)経験を有意義なものにしたいotonone-オトノネ-のオモイだ。

多くの情報はマスコミによってもたらされ、多くの資本を持っている「市場主義経済の権化」によって操作されている。私は正しいこと、美しいこと、善いことをしたい。良心をもった学者、芸術家として、リッチに生きたい、と、おとのねさんはおもいはじめた。学校という世界も、情報が統括され管理された、文化的な圧力をもった場所だ。「学校」に利用されず、利用できる人になってもらおう。オトノネが求める生徒は、そういう生徒だ。

お金!

人を笑顔にする人のチカラ

生徒が帰って、別の生徒がやってくる時、生徒同士が鉢合わせる。 小学生の子が終わって、お母さんと話をしていた。 次にきた高校生が、小学生と鉢合わせた。 小学生は、ホワイトボードに絵を描いていた。 あとで、高校生の話を聞くと。 「子どもが嫌いだったけど、かわいいなっておもえた」という。 変わったというか、改めて、子どもに出会った。 感じ方が変わっていたことに驚いたという。 ーーーー

ーーー 人が人と出会って変わることは大切だとおもう。 人が新しい人と出会うことで、成長した自分を感じることもある。 他者は大切だ。 僕自身、音楽家としての才能を韓国でたまたま「見つけてもらった」。 自分一人で自分の意味を見つけることは難しい。 「自分はこれだ!」とかおもっていても、誰かが「それでいいよ」と言ってくれたり、一緒にやってくれる人がいないと、自分に「なれない」ことがある。 そういう仲間探しをしていくのが、人生の意味のように感じることもある。 人と人が出会って生まれるもの。 富山県でも、石川県でも、居場所になる場所、人が出会える場所がたくさんできてきた。 ひとそれぞれが、「自然」になって、多くの人と出会えることが自然になったらいいなぁ。 小さな小さな小学生が、高校生をはっとさせるチカラをもっている。 ーーーー

ーーーーー ただそこに「自然」にいるだけで、誰かをしあわせにするチカラを、だれもが持っている。 あれもしないと、これもしないと、不安になる世の中で、大切な「自然」を忘れていないだろうか。 ひとりひとりが「自然さ」を大切にすることで、世界はもっとおもしろくなるし、笑顔がもっとふえるとおもうんだけど。 高校生である、中学生である、小学生である、お父さんである、お母さんである、先生である、生徒であることを超えて、「私」として自立できる心を(病理的なナルシシズムに陥らず)大切にしたい。 歩きながら、人と出会いながら、しあわせを育てていこう。 ーーーーー

ーーーー ゲームにはまっている高校生。 ゲームの世界で、2000人のファンが彼と対戦するために待っている状況もあるという。 そういう「自然」だって、ありうる笑 (彼はニートで一生を過ごすようだが、それはそれで、「自然」なのだろう) お父さん、お母さんに一生、守られなくてはならない「自然」すら、大切にすれば、誰かを幸せにできるだろうか? (ピアニストのグールドは、完全に、守られて「自然」を育てた。そして、世界中の人の心を動かした) 自分の中にある豊かさ、リッチネスを大切にしていけばいいだけかもしれない。 忘れてしまったものを、思い出すだけでいいのかもしれない。 大事にしていた自分が袖を引っ張るのを無視して「こっちにいかなくちゃいけないんだから!」といって、その子を置き去りにした瞬間があるかもしれない。 On the path to happiness, you will discover all that you want to be or do, or have. うーん、たまたま拾ったこの英文、好きになりました。 ーー

子どもがもっている無限の余剰を僕たちが受け取ること。

オトノネのお母さんたちはたまに、僕にご飯を持ってきてくれる。 僕はもう泣きながら手を合わせて食べる。 美味しい。 おいしい。 このご飯、もちろん、家族のためにつくったしあわせを、僕がおすそ分けをもらっているだけ。 それが、うれしい。 余剰、というものがある。 お金でなくてもいい。 ただただ、溢れ出たもの。 しあわせって、そういうものだとおもう。 ーー

ー リッチネス、という言葉をインドネシアで聞いた時に、ああ、リッチってそういうことなんだなと感じた。 青森で漁師をしながら、親方が趣味で、好きで釣った魚を知っている人に分ける。 しあわせの溢れた部分を、数珠つなぎにする。 しあわせのわ。 僕も取れたホタテを知っている人に送って、おいしいといってくれたことを今でもよく覚えている。 ホタテを送るお金で給料がなくなったけど笑 ーー

ーー 子どもはしあわせの塊だ。 溢れ出ている。 僕は少しだけ、おこぼれをもらう。 家でご飯をつくるお母さんは、しあわせをつくっている。 ご飯を食べるしあわせ。 ご飯の場所を一緒に楽しむ。 しあわせの数珠つなぎ。 ーー

ーー 余剰が、ないのだろうか。 お金も時間も、大人たちには足りない。 あってもあっても足りない。 どんどんなくなっていく。 子どもは? 子どもはしあわせの達人だ。 子どもに教えてもらおう。 僕は、いつも教えてもらっている。 ーー

ーー 最近、オトノネの子と公園で、放課後に遊んだ。 校門前で知り合った男の子も遊ぶ!とうので、待ち合わせて遊んだ。 その子がいうに、いつもなら、家でスマホと宿題をしているだけだという。 リッチネス。 もっと子どもから分けてもらおう。 たったそれだけなのに。 と思ったりする。 また、遊ぼう。 ーー

ーー 自分がしあわせになったときに、そのしあわせを渡したら、みんなしあわせになる。 保育園が無償化しても、それでしあわせが増えるかどうか。 そういう話を大人たちがしているようにはおもえない。

しあわせって何?ーICF国際生活分類の答えー学校についていけなくなった子のためにできること

ICFはWHOが定めた「人間の生活機能と障害に関する状況を記述することを目的とした分類」だ。 ICF 各要素の定義 心身機能 :身体系の生理的機能(心理的機能を含む) 身体構造 :器官、肢体とその構成部分などの、身体の解剖学的部分 活動 :課題や行為の個人による遂行 参加 : 生活・人生場面への関わり 環境因子 : 人々が生活し,人生を送っている物的・社会的・態度的環境 個人因子 : 個人の人生や生活の特別な背景 簡単に見てみよう。 大切なのは、「健康状態」である。 「健康状態」は「心的機能・身体構造」と「活動」と「参加」が影響する。 「心的機能・身体構造」と「活動」と「参加」は「環境因子」と「個人因子」が影響する。 well being(よい存在・健全な存在)でいるためには、 自己の充実「活動」 他者との関わり「参加」が大切だということだ。 これが、学校の授業の中で、どれだけ保証されているのか。 ーーー ーーー この分類は「障害者の生活状況」を理解する枠組みとしてつくられた。 学校で「障害」に阻まれて進んでいないが、学年だけは進んでいく子どもたちにも使える枠組みだ。 障害は、人が作り出すもの。 学校の中でつくられる障害、お父さんお母さんが、正しく「学校の仕組み」を理解して、お父さんお母さんが、環境因子を変えてあげてください。 お子さんの「個人因子」を変えようとするのは、間違いです。 はっきり言います。 環境を変えましょう。 ちなみに、 お父さんお母さんも、環境の一部です。 お父さんお母さんがしあわせなら、子供も、しあわせをもらえるのです。 しあわせになる方法を、お母さんが知っていたら、お父さんが知っていたら、それをそのまま伝えられるのです。 しあわせでないから、しあわせになってほしい、、、、 その願いを、コドモは背負わされて息苦しい思いをしているのかもしれません。

【花火大会】お餅を食べて、学んだこと。学ぶよろこび。食べるよろこび。

もちを初めて、食べた。 今度オトノネで餅つきをするというので実験をすることになって、作って食べた。 もち米を入れたら、機会が最後まで作ってくれる笑 で、最後に、、食べる、、、、

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なんだこれは!? 丸い塊になった餅を人差し指と親指の間でひねってとる。 なんだこの感触は。 柔らかさ、温かさ、そしてこれまでに体験しない餅と重力との対話。 それから口に持って行く前に、きな粉をつける。 なんだこの感触は。(硬い餅にきな粉をかけて食べたことしかない。) 口に入れるまでの経路は例えばおにぎりをたべるときとは違う。 なんだこの感覚は。 それから歯を噛み合わせる。 なんだこの感触は。 なんだこのあたたかさは。 やわらかさは。 そしてこの味は。 これはもう、神経細胞の花火大会だ。 「もちとはなんぞや」と問いかけるわけでもない。 ただ「もち」を経験するところに喜びを感じる。 喜びを学習する。 よろこびを、学ぶ。 オトノネで、学ぶ。 オトノネは、人間の価値を、大切にしたいとおもっています。 —

— 新しい言葉、あたらしい世界観、新しい「知」、新しい体験の価値はなんだろうか。 テストで点数をとることであろうか。 まさか。 ただ、この「価値」の問いの答えによって、その人の心がわかるように、僕は思う。 毎日世界がキラキラ輝いて見えていたときのことを、僕たちは思い出せるだろうか。 かつて僕らは歩くことそれ自体に喜びを感じていた。 地面から「やわらかさ」や「あたたかさ」「かたさ」や「つめたさ」を感じて花火大会をしていた。 地面から受けるその感触を受けて、対話をしていた。 それがいつのまにか、対話をやめて、ただただ、地面を歩くための場所、モノ、目的のための手段にしてしまった。 地面の気持ちなど、「今日の地面」などどうでもよくなってしまった。 地面との楽しいおしゃべりをやめてしまった、 のだろうか。 心次第では、歩くだけでも、人はしあわせになれるのかもしれない。 ただただ明けて暮らすだけでも、人はしあわせになれるのかもしれない。 たぶん、そうなんだろう。 と、できたてのおもちを食べておもった。 硬くなって、焼くだけのインスタントなお餅しか食べられない子どもは、今日も穴埋め問題プリントをやったり、ノートの穴を埋めたりしているんだろう。 本当のお餅、生きているお餅、重力と対話するお餅笑の喜びを知らずに。本当の学びの、喜びをしらずに。 なんてまぁ、貧しい国なんだろう。 ーーー

ーーー グーグル社が作り上げたマインドフルネスは「ストレス社会」で「ストレス」を少なくするために開発されたスキルだ。 「ストレス社会」の中で、マインドフルネスをメタスキルとして使えば、心のあり方として使うならば、「ストレス社会」自体が、消えてなくなるのかもしれない。 「ストレス社会」は実在しない。 ただ心のあり方が、「ストレス社会」を作り出しているとおもえば、本当に、、、心が大事なのだとおもう。 ーーーー

ーーーー それにしても、餅コメを入れたらつくところまでやってくれる機械をつくるのは、日本人らしいというのか。 機械をつくって、機会を使う時間を失ったのも、日本人らしいというか。 機械を使おう! 機会をつくろう! というわけで、月一回はモチフェスをしたいなとおもっています^^

善悪の彼岸ーポジティブでもネガティブでも優劣はない

心のある記事が、心のない記事にされてしまっている現場を発見。 もともとはこのツイートをみて、ん?とおもって調べていた。

心のない記事 不平不満を言いまくると「脳が物理的に変わる」と科学的に判明! 愚痴を言うだけで「深刻なリスク」 今、金沢の西南部中もショッカーや魔王に叩かれている。 心ある行いが、心のない行いに責められている。 心あるもとの記事

In fact, our brain possesses something that is called the negativity bias, meaning that the brain has a tendency to focus more on what’s wrong via our perception, not what’s going right or the positive events in our life. These negative thoughts can actually drown out the lighter experiences over time so that you aren’t able to even see the good events that are taking place in your life. Neuroscientist, Dr. Rick Hanson sums up the negativity bias quite nicely, “Negative Stimuli produce more neural activity than do equally intensive positive ones. They are also perceived more easily and quickly.”

What Happens To Someone’s Brain When They Complain Too Much 不平不満を言うこと、だけでなく、不安や心配、ネガティブな世界に生きていたら、「よろこび」に「気がつく」ことができなくなる。 「しあわせ」が入ってくる窓がどんどん小さくなってしまう。 外向性と神経質傾向の二つの因子の説明を見ていたので、ああ、と思うところがあった。 『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ ネガティブだからこそ、小さなしあわせに気が付けるかもしれない。 ポジティブだからこそ、小さなしあわせに気が付けないかもしれない。 ポジティウブでもネガティブでもいいから、小さなしあわせに、気が付けるようになりたいなぁとおもう。 小さな「なにか」を感じていようとおもう。 息を吸ったり吐いたりしている、霞を食べるしあわせを感じるには、まだまだ遠い笑

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