ビジネスの原理と子育ての原理:やさしさと自信は弱みか、強みか。

  1. ビジネスの原理と子育ての原理:やさしさは弱みか、強みか。
    1. ビジネスは情を売る。
    2. 「挨拶係」がビジネスの要:上手に「見せかけ」ましょう。経済は「競争」では繁栄しない』
  2. 親に「安心」を売る塾という名の魔王
  3. おとのねさんが泣いたワケ(福祉というビジネス):経営者は外車に乗る
  4. 同調性が高い人は損をする?:共感能力がビジネスの原理に取り込まれる時『残酷すぎる成功法則』
    1. 同調性が低いほど、成功しやすい(没落する)競争社会
    2. 貧困するギバー、裕福なギバー。(お金の話)
    3. リッチネス・幸せなギバー(オキシトシンの話)
  5. ビジネスの原理に取り込まれないための作戦『残酷すぎる成功法則』
    1. 信頼と裏切りのゲーム理論 :ビジネスの原理に飲み込まれない方法
    2. 外向性はビジネスの原理。内向性は子育ての原理。
  6. うわべだけのラッピング、ビジネスの原理は「見せかけ」る技術を育てる『残酷すぎる成功法則』
    1. 自信は傲慢、ハッタリであってもよい効果を生む:自己イメージの効果
    2. 傲慢・自分勝手な人を評価してしまう人:「見かけ」が大事な世の中
  7. 自分を過大評価することは、自分を騙す欺瞞社会・人間疎外社会を生み出す。暴力社会を助長する・自己破壊的になるリスク『残酷すぎる成功法則』
    1. 間違っていることに気がつくためには、痛手が必要になる:固定される自己イメージ
    2. 家族を、会社を破壊する自己欺瞞の人たち:自己イメージと現実の乖離:自信に満ちた妄想
  8. 子育ての原理は、自己洞察を深める。過信しない。だから成長する。
    1. ビジネスの原理はラッピング(見せかけ)にコストを支払う
    2. ビジネスと子育て、二つの原理で人間社会を生きる

ビジネスの原理と子育ての原理:やさしさは弱みか、強みか。

ビジネスは情を売る。

愛を売る、と言われて思いつくのはホストとかキャバクラとかいう夜のお仕事だったりなんだり。 塾も学校も愛を売っているケースがある。 いやいや、愛は残念ながらスキルなので売れない。

情のエネルギーを注ぎ込む「型」になんと名前をつけたらいいのか、考えてみよう。 ーー

ーーー 塾にいる「やさしい」先生。 通学中にお腹が痛くなって迎えに来てくれる先生。 頑張って進級「させて」くれる先生。 どれも、「愛情」のあるいい先生のように思える。 行為レベルでは。 ーーー

ーー 言語レベルではどうだろう。 「やさしーくしていないと生徒はやめていくから甘やかす」 「迎えに行かないと学校何してんだと言われるし、生徒からもなんで来てくれなかったのかといわれるから行く」 「教育委員会からの評価も下がるし、親への対応もめんどくさいから進級させる」 これはどんな「情」からくるのだろうか。 ーーー

ーー 学校も塾も、情を売るサービスだといえるだろうか。 安心を売る塾。 卒業資格を売る学校。 「立場」や「役」をどう考えるか。 塾や学校は「安心を売る」「卒業資格を売る」ことで立場を守っている。 そのために「やさしい」とか「迎えに行く」とか「進級させる」という役を担う。 それが、ビジネスの原理。 僕にはどういうわけか、塾や学校がキャバクラやホストクラブと同じように思える。 愛のない情の世界で、子どもたちは、今日もスマホを手に、レバニラを探して歩いているのかもしれない。 レバニラかとおもって注文したら、ニラしか入っていないのが、「自然」な世の中になってしまった。 「レバニラ」を頼んだら、「ニラ」がでてくることに、違和感がなくなってしまった。 「ご注文の、レバニラです!」「え?レバーは入っていないんですか?」「え?入っていますよ?これが、レバニラです!」 そうして、「ニラ」を「レバニラ」と呼ぶようになった。 ビジネスの原理から子どもをどう守るか。 お母さんが、ビジネスとして子供を育てていたなら、もう、ニラばかりで、子どもは別の進化を遂げ始めている。 と、僕は感じている。 レバーのない世界で、子どもたちは、新しい生き方を、探し始めている。 レバーを諦める人もいる。 レバーを探す人もいる。 二つの文化が、お互いにお互いを尊重できるなら、いいのであるが。

愛は、情ではない。

 

 

「挨拶係」がビジネスの要:上手に「見せかけ」ましょう。経済は「競争」では繁栄しない』

経済は「競争」では繁栄しない

心理学者のキャスリーン・ヴォースはミネソタ大学の経営学大学院で、二つの被験者グループにコ ンピューターを使った課題に取り組ませた。数分後、彼らの目の前のコンピューター画面にサブリミ ナルのメッセージを表示した。一方のグループには、水の中で魚たちが きらめく画像をほんの一瞬見 せた。もう一方のグループには、きらめくお金の画像をほんの一瞬見せた。

心理学ではこれを「プライミング」と呼ぶが、日常語では「暗示の力」という言葉で知られている。 被験者は画像を目にしたという意識的な認識はまったくないものの、このごくかすかな影響は、お金 について考えられるように仕向けられたほうのグループの行動を変えるだけの力を持っていた。プラ イミング直後に与えられた課題で、このグループの被験者は、他人を助けたり、他人に助けを求めた りする度合いが低く、一人で物事をこなす可能性が高まった。また、面接のために椅子を並べるよう に頼まれると、お金について考えるようにプライミングされたグループは、他人とのあいだに物理的 に大きな距離を置いた。 

取引が引き起こす「善循環」は、人に代わって利益が関心の的になったときにはいつも、先細りに なりかねない。マフィア映画で「個人的な問題ではない。ビジネスだ」という台詞を耳にしたら、ま もなく誰かがやられると思って間違いない。 だからハーバード経営学大学院のサービス業界専門家フランシス・フレイは、ビジネスの背景にある基本的な考え方は「人の役に立つこと」だと学生たちに念を押す。なんと素晴らしい発想だろう! 商業が宗教的な天職のように聞こえてくるではないか! 商業がもたらしうる善を考えると、商業に 携わろうというのはけっして悪い目標ではない。すでに見たとおり、他人に尽くすとオキシトシンが 分泌され、道徳的な行動の「善循環」が始まる。市場は日々他人に尽くす機会を与えてくれる。

それでも、グローバルな商業と大規模な金融取引は、じつに簡単に抽象的で人間味のないものにな ってしまうから腐敗しやすい。それもあるので、金融サービスのいびつな成長がアメリカ経済にとっ てこれほど大きな問題になったのだ。ディスカウントチェーンのウォルマートのような巨大企業は、 店の入り口に「挨拶係」を配置して、そのような印象を帳消しにしようとする。 「条件が悪いと、対面の取引でさえ人間味を失い、人を商品と見るような非人間的なものになりかね ない。それがあるからもちろん、人間味ある対応を売り物にする競争が市場で起こるのだ。

トロント・ドミニオン銀行に売却されるまで、コマース銀行はアメリカで最高の成長率を誇る銀行 だった。貯蓄利率がいちばん高かったわけではないし、小切手口座を提供する以上のサービスもほと んどなかった。もっとも、それこそが肝心の点だ。コマース銀行は、多目的の複雑で強力な大手金融 機関ではなくただの小口取引銀行という市場の隙間を見つけ、もっとも便利な営業時間にもっとも親 切な従業員に応対させることで圧勝した。提供するサービスや商品を単純に保ったため、複雑な内容 を説明させるために経営学修士号を持った金融の天才たちを大勢、高額のサラリーで雇わなくて済ん だ。実際、コマース銀行が職員を採用するときのいちばん大切な基準は、「この人はくつろいでいる。 ときに笑顔を見せるかどうか」だった。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.248)

親に「安心」を売る塾という名の魔王

あくまで、多くのお父さんお母さんの状況を僕が察しているわけでして。 オトノネのブログファンの方にはあまり新しい内容はないとおもいながら。 「じゃぁそもそも誰のために、この記事を書いているんだ?届けたい人に、届いて居ないじゃないか」と、 新年早々鬱々としているおとのねさんです。

ーーーーーー 塾とは何か。 優れた塾とは何か。 優れた塾とは「親に」より便利でよりお手軽によりたくさんの安心感を提供する塾のこと。 このために合格実績やらさまざまに細分化されたコースを用意したり、「偏差値30から!」とか、「発達障害のお子さんのためのシステム」とか、送迎サービスを売ったりする。宗教とあまり変わらない。テレビのショッピング番組と変わらない。 (だからオトノネは塾ではありません。オトノネです。) そうして子どもを塾に通わせながら、親は「安心」というサービスをうける。 子どもの学びではない(そうでなかったらなぜ何ヶ月も、何年も、子どもが学べて居ない塾に通わせることができるんだろう?)。 それが洗脳であっても、「行かないとお母さんが困るから(富山高校生の言葉)」という子どもの親への気遣いであっても。 「安心」したいという不安はどこからきているのか? 不安な世の中、こんな恐ろしいお母さんもいるという。

削除されたみたいなので別のページから貼りなおします。

実際、こういうお母さんがたくさんいる。 東大京大早慶でなかったとしても、「学校の定期テスト」レベルでやきもきしているお母さん。 「定期テスト対策」をさせているお母さんが多い。 「大学受験対策」を、小さい時に、頭を撫でながら行なっていく、こんな長期間にわたる「対策」で心が死ななかった子どもがいたら奇跡だ(もし、子どもに思春期すら許されなかったのなら、、、)。 それだけこの世のなかには不安が、魔王がチカラをもっている。 医療もそうだ。 宗教もそうだ。 教育もそうだ。 福祉もそうか? 政治なんてまさにそうだ。 頭をおかしくする、健康にならない、薬漬けにする、やたらレントゲンを撮りたがる医者(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。 心を救う以上に、心に巣食う宗教(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。 生徒の学びよりも自己保身にまわる学校(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。 福祉ではなく福死の現場(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?)。 倫理も論理もあったものではない政治(どうしてあれだけブラックになれるのだろう?) 不安が、魔王が、そこら中にいる。 悪霊に満ちている。 平和どころではない。 だから、「不安」を金儲けにする、「安心」を売るサービスが増える。 それは本来、教育業ではない。キャバクラやホストクラブと同じだ(実際、キャバクラ化・ホストクラブ化している学習塾・予備校の状況を、目の当たりにしてきたから言える)。「こんなコースをとったら?」「増やしたら?」「夏期講習だよ!」「ドンペリ開ける?」笑 いやべつにいいんだけどさ。。。 塾で出会う先生が、一体どんな先生か。 それで塾がキャバクラ・ホストクラブになるか、USJになるか、それとも人間としていろんな成長ができる場所になるかが決まってくる。 結局、塾のシステムでも合格実績でもなく、先生選びが大切。

ーーーーーーーー シューベルトの『魔王』 僕が中学校時代に出会って、譜面も読めないが全て友達の力を借りて弾いていた曲。 今日、ラジオ番組で流れていて、ああ、そういうテーマとして読み替えられるんだなと感じた。 芸術の力を、僕はうまくつかえていないようだ。

すでに子供は、魔王の手の中にある。 子どもはそれに気づいているが、親は気がついていない。 子どもは小さく、親に抱かれる。 子どもはそれに気づいているが、親は気がついていない。 そのうち、子どもはの心は、死んでしまう。 まず、魔王の存在を、きちんと感じてみよう。 感じすぎると、病むから注意(魔王を見るにも心の修行がいるようだ・・・)。 ーーーーーーーーーー 治らない肩こりの痛みを和らげるために通い続けるマッサージ店と似ているかもしれない。 それで肩こりの原因となる心的肉体的負担が減るわけではない。 定期テスト対策で、子どもの何が成長するのか。 定期テスト対策をする習慣(もしくは赤点後の課題さえすればなんとかなるんだという処世術)を学ぶんだろうか。 子供がプレッシャーをうけずにいられる場所、という価値すら、輝いて見えてしまうほど、日本は不安に満ち満ちていると僕は感じている 子供にとっての塾の価値はなんだろう。 塾に価値があるとしたら、お客さんとして、学校のように叱責もされず、プレッシャーもうけず、ただただ過ごせる場所、という価値なのかもしれない。 それすらも、子供にとってはプラスになりうる。 そういう世の中になった。 新年一発目のブログは、「魔王」でした笑

教育は社会問題。 「成績が悪い」のはお子さんではなく、地域全体であり、日本です。 もう1人で悩むのは、やめませんか? 多くの事柄を個に起因して、社会(組織)としてとらえずにチカラ散財させることで、僕たちは力を奪われている。 魔王に。

協力することを、学んでこなかったからだ。 いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。 みなさん、初詣で何かお祈りしてきましたか? 祈りの言葉を間違えると、魔王のチカラが増えてしまうので注意! 魔王のチカラを増幅させる塾や学校(自民公明党)には、注意! 心が大事。

ーーーーーー 学歴社会、理想の母親像、テレビの中にでてくる豪邸、もしくは貧乏暮らし、「不安」を買い取り、「安心」を売るしくみに溢れた世界から、自分の身をまもるために。・・・やっぱり、子どもとしてきちんと成熟させてから、大人にしてあげたいとおもう。 社会は、こうした個人の歪みを和らげられずに、逆に歪みを拡大し、「不安」と「怒り」の市場を拡大させようとしている。 ああ、こわいこわい。 どうやって笑ったらいいか、わからなくなる。

 

おとのねさんが泣いたワケ(福祉というビジネス):経営者は外車に乗る

おとのねさんは泣いていました。
この記事では、その理由を、お伝えします。

世界を勘違いしていた自分が情けなかったのか。
解釈はいろいろだけど。

無力感からか。

泣いていました。
混乱して、泣いてしまいました。

なんて小さな、小さな塾なんでしょう。
なんて弱い、弱いおとのねさんでしょう。

情けなくて、泣いたのかもしれません。

ーーーーーーー

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とある社会福祉法人が新しい事業をするというので、法人の偉い人と話す機会があった。
子ども関連の事業を立ち上げるけど、ノウハウがなく、人を探しているという。
で、結局何のためにその事業をするのかということを聞くと。

新しい事業をしないと、生き残れないから。

ということ。

僕は、現在の、大部分の放課後ディサービス、保育所、児童発達支援の「ずさんさ」を見てきたから、同じようにやったら不幸が増えるだけだと言った。

考え方が違うと一蹴された。
考えたこともないのだろう。

現在の、福祉に携わる人たちが薄給で長時間労働していて、時間もお金もなくて子育てもうまくできていないという話をしたら。

私はお金に困ったことがないからわからないと一蹴された。

新しい事業は、法人を潰さないためだ。
雇用者を守るためだ。
地域住民の人へのアピールだ。という。

福祉サービスは溢れている。
お客の取り合い。
それって福祉なの?

高齢者福祉業界は民間で高いお金を払って高いサービスを売る事業所が増えてきている。富山ではまだそうした民間参入はないが、新しい施設は、高額な利用料をとって運営するという。では、お金がない高齢者は?

そうした格差の問題は役所の仕事であって、私たちの仕事ではないと。

僕とは見ている世界が違う。

この人は、社会福祉法人の理事長から直々に命を受けて、この新規事業に着手している。
退職した後、いわゆるあまくだりだ。
役所とのコネもある。退職金もがっぷりもらっている(オトノネに寄付してくれといったら今はこの仕事が楽しいからそれどころではないと言われる)

話を聞いていると、心が伝わらない。
「能力の高さ」をプレゼンしていたように僕は思う。

自分たちが生き残ることを考える。
極めて当然のことかもしれない。
戦乱の世の中、食うか、喰われるかだから。

心なんて、いらないののだろう。

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ナチスの党員の一人に、アドルフ・アイヒマンという人がいる。
いかにユダヤ人を強制収容所に送るかを計画し、合理的に、効率的に実行した人が、戦後の裁判で言った言葉。

「命令に従っただけだ」

心なんて、いらないのだろう。

心をもっていたら、殺されていただろう。

ーーーーーー

同じ福祉という言葉を使う、全く別の心をもった人間が目の前にいて使っている言葉の響きを聞いて、僕は泣いた。

かつて福祉というものは、篤志家(とくしか)が財産を叩いて、だれからの援助もなく心を尽くしていくものだった。
それが日本では「西欧と比べられても遜色ないように」と補助金を使って誰でも行えるものになった。

海外に対して成果をアピールする福祉の定期テスト対策。

事業所は「へいへい、お金をもらえるなら、あなたのお役にたちますよ」といいさえすれば、福祉を始められる。
欧米諸国にたいしてのアピールができれば、国は目標を達成できる。

福祉の本質は「日本の福祉の成績を上げること」であり、評価するのは「欧米諸国」といったところか。

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「必要最低限の生活」という言葉がある。

日本国憲法 第二十五条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

努めるというのは、努力義務であって、やらなくても罰則はない。
福祉は、必要最低限の生活のためにあって、だから生活保護レベルの給与しか払わなくてもOKらしい。

生活は必要最低限にして、心は最大限、豊かにしようか。

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事業を維持するために。
資金がいる。
時代は変わる。
新しいサービスが必要になる。
「よりよく」するために。
もし雇用者に十分なお金を払っていたら?新しい事業ができない。
雇用者が働いている組織のために、組織が潰れないために、儲けなくてはいけない(理事長が外車にのっていても)。

そもそも雇用者は「薄給を承知で」働いている。
だから、何も問題はない。

考え方が違うだけ。

働くことの対価に不満があれば、仕事を変えればいいだけ。

ーーーーー

社会福祉法人には歴史がある。
理事長が自分のお金で作った法人は、利益を一人が独占できる(外車パターン)。
昔ながらの、みんなが寄付を出し合ってつった法人は、理事が毎年変わっていく。

結局、一人一人人間が違うように、組織もひとつひとつ違うということ。
僕はその組織に文句をいうことはできない。

ただ僕は福祉という言葉を二度と使いたくないとおもった。

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るろうに剣心という漫画がある。
「ある出来事」がきっかけで、悲しみの末に、「殺さず」を誓い、逆刃刀で戦う剣士の話。

キングダムという漫画がある。
「ある出来事」がきっかけで、悲しみの末に、「殺しまくる」を誓い、誓いの矛で戦う剣士の話。

どちらの漫画の主人公にも、仲間がいる。

ワンピースという漫画がある。
いわゆる「悪い」海賊もいるし、「いい」海賊もいる。
どちらの海賊団にも、仲間がいる。

いろんな「つながり方」がある。

どちらかが潰れ、どちらかが生き残る。
争い。

よりよく生きるために。

必要最低限の生活を、雇用者に強いよう。
それが、現在、日本で組織が生きるルールだということ。

経済格差で悩んでいる人は、その職を選んだのだから、仕方がない。
積極的に自己責任を負っているのだから。
しょうがない。

僕が他人の生活にあれこれ口を出すことではない。

多くの事業所の福祉は国の「定期テスト対策」に協力しているのであって、本来の福祉well-beingを目指してはいない。
教育も、福祉もこの点、似ているようにおもう。

ルールは簡単だ。
これが現実だ。

現実が、これだ。

では、ゲームを始めよう。

ーーーーー

僕が泣いたのは、どうしようもなくコミュニケーションができなかった心の断絶を感じたからだった。
今でも覚えている。大学生の時、重度知的障害者施設で実習をしたとき、僕は泣いた。

その時と似ている。

ゲームを始める前から、泣いている。

ーーーーー

僕には僕の心があって、心の使い方がある。
が、こんな不安定な心では、前頭前皮質は発達できやしない。

手に余る。
なんと弱々しい。

僕は自分の心に幻滅したのだった。
なんという傲慢な、なんという世間知らずな、なんという、愚かな。

困っている人がいると思っていた。
けど困っている人はいなかった。

喜劇として笑うしかない。

一人ごっこ遊びをしている、ドンキホーテ。
サンチョがいたからこそ彼の旅は側から見て笑える文学になったのだろうが。

泣いている場合ではない。
自分の無力さに癇癪を立てている場合ではない。
それじゃぁ子どものままではないか。

とりこぼした「発達の課題」に今更とりくんでいるおとのねさんでした。

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経営者が一人で出資してつくった社会福祉法人は、経営者の私物だ。
みんなが出資してつくった社会福祉法人は、みんなで理事をまわしていく。

これから民間が参入して、お金をもった老人は、高額だけど、そっちを選ぶ。
だから高額のサービスを提供する。

子どもは?

子どもにも高額なサービスを提供するか。
高岡市の大人が子どものために高額な福祉サービスを選ぶか。
選ぶしかなくなるのだ。
その近くにある保育所が市立で、役所は費用がかかるその保育所を潰したいから。
(地方公務員として雇うよりも、賃金を安くできるから)
市立が潰れたら、その地域には、新しくできる高額の保育所しかなくなる。

選べない。

なんと戦略的な。
その人物は役場ともコネクションがあるから、そこまでできる。
役所も私物化される。

けどそれが現実。
放課後児童クラブも高岡市は民間に補助金を出さない方針だが。
それも、コネで解決するという。

そうして「地域に選ばれる社会福祉法人」を目指すという。

事業が縮小したら、それだけ雇用者が(もちろん無償で)残業する時間が減る。
それでいいではないか。
経営者がもらう利益が減るだけで。

けど老朽化で建物を建て替えないといけなかったり、なんだかんだお金は必要だ。

もう頭がパニックになる。

善悪なんてこの世にはない。
ただみんな勝手に自分がしあわせになるために生きている。
伸るか反るか。
自分次第。

世の中のルールは変わらない。

僕はまだこのルールを使いこなしていない。
僕は僕ひとりのしあわせだけ考えたらいいんだろうか。
それってしあわせなんだろうか?

僕は目の前の人が苦しんでいるのが気になる。
目の前の子どもが大人の金切り声の中で暮らしているのが気になる。

塾業界もそうだ。
一斉授業。効率的な経営。
利益は経営者に。
事業拡大。
収益を上げる。
競争。

目の前の生徒は見えていない。
見えているのは、遠くにいる、まだ塾にきていない親。
目の前にいる生徒は見ていない。
そういう塾が、お金を儲ける。

学校もビジネスだ。
生徒を追い込み、囲い込み、契約し、利益(実績)を得る。
学校の場合は収益が上がるわけではない。
ただ学校の見栄がハレルだけだ。
それでどれだけの生徒が苦しんでいるかなど、見向きもしない。
「ここを選んできたんでしょ?だったら、やりなよ」
たしかにそうだ。

たしかに。
目の前の生徒は見えていない。
見えているのは、学校の名誉であって、生徒の人生ではない。
目の前にいる生徒は見ていない。

同じ世界にいるはずなのに、これだけ考えていることが違う人間がいる。
そんな当たり前のことを、僕は今、学んだのかもしれない。

こんなわけだから、好きなことをして、ヘラヘラと生きていければいいんじゃないかとおもう。
ポジティブに生きる、人工的に幸せをつくりだす能力が、生きる力かもしれない。

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サイコな人が経営している社会福祉法人は弱肉強食の原理で成り立っている。
組織の内部に対しても。

僕は強く、やさしくなりたいとおもった。
雇用者の限界を超えた仕事をふりわけて新しい事業に手を伸ばそうとしているサイコが強者になる世界。
僕はそんな世界で、強くなりたいとおもった。

ありのままでいて、自分が強くなる姿勢。
合気道でもそう。自分の姿勢がかわれば、強くなる。
僕も強くなろう。

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僕が出会ったこの人のパーソナリティ特性は明らかに「この仕事」に向いていた。
仕事が楽しくてやめられない、という。

誰のための仕事をしているとか、そいういう倫理には興味がない。

ただ拡大することがおもしろいのだ。

こういう人はいる。

羨むことも、嘆くこともなく、ただ自分を強くしていくしか、ないのかもしれない。
風車に向かって行く姿がドンキホーテにならないためには。

僕は弱いから、まだ強い人と戦えないというだけだ。
僕は強くなれるだろうか?
大切なものを守るために?

僕が強くなるためには。
僕のパーソナリティ特性を極限まで突き詰めるしかない。

それは、不足した僕の一部を、誰かに助けてもらうことを意味するのだけれども。

「お金に困ったことがない」管理職が、薄給で長時間違法労働をしながら目の前の利用者に日々関わり合っている献身的な労働者によって支えられているように。
お金はあるが、福祉には興味がない経営者が社会福祉法人をつくり、巨大化していくように。

本性を出すことが、強く生きることになるんだろうとおもう。
僕はこの時代で、僕らしく生きるために、いろいろと、捨てることがたくさんあるようにおもう。

僕は僕の持っているものを出す。
それで、何か、もっとハッピーなことは起きないか??????

「私にはひとつ目的があります。それはもう一度金持ちになることです。私にはそれができる。金持ちの生活がどんなに素晴らしいかわかっていますからね。人生なんて、金がなければ生きる値打ちはありません……引退なんかしたくないですね。死ぬまで働きたいと思っています。いまはロシア語を勉強しているところです。ロシアの女性は世界一美しいし、生き生きしていますからね……いつかウクライナ出身の女性と結婚して、彼女に良い生活を見せてやりたいと思っています」一度は頑張って百万長者にのし上がり、それからすべてを失い、またもや何もかもはじめからやり直そうとしているこの人物。彼の楽天主義、断固たる決断力、そして捨て身の蛮勇ぶりには、感服せざるを得ない。何よりも、彼がそうしようというのは、必要に迫られているからではないのだ。ビルにとっては、チャレンジを引き受け、報酬を手に入れることが猛烈に楽しいのである。(『パーソナリティーを科学する』p.98)

マリアが他の人のためのさまざまな活動に道徳的満足を感じているのにくらべて、この人物が異常なほどの関心を寄せるのは、自分の個人的な成功である。「私には未来の自分んお姿を見ることがdけいる。そのとき、私は偉大な仕事を達成し、革命的な新しいアイデアを発見し、全世界の人々から畏敬の念を持って見られている。」そのような将来の展望が他の人々から利己的とみられることについて、彼ははっきりとこう述べる。「そんな批判は、頭の悪い人間どもが私の評価を落とそうとしているだけのことだ。自分より劣る人間たちのことになると、なぜいつもこの利他主義という考え方に屈服しなくてはならないのか。私が重視するのは、他のだれの利益でもない、つねに、疑いなく私の利益である……サバイバルとはそういうものではないのか」(略)「私は人を助けるのは好きではない」ー別の場面で彼は言うー「人道的な愛に駆り立てられて人類の病を救おうなどと、考えたこともない。」明らかにこの報告とマリアの道徳的満足についての報告は、調和性のスペクトルの対局にある。そして私たちの大半は両者の間のどこかに収まるのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.178)

 

同調性が高い人は損をする?:共感能力がビジネスの原理に取り込まれる時『残酷すぎる成功法則』

同調性が低いほど、成功しやすい(没落する)競争社会

「ゴマのすりかた」を教える子育てはいかがですか?爆

「見栄を張る」親の姿をみて育つ子は、ビジネスの原理を身につけるかもしれません。

残酷すぎる成功法則

『ハーバード・ビジネス・レビュー』誌 によると、同調性(人と仲良くつき合っていくことを重んじる性格)の 低い人間のほうが、同調性が高い人間より年収が約一万ドル多いことが 明らかになった。ちなみに財政面の信用度(クレジット・スコア)も同調性が低い人間のほうが高い。

悲しいことに、人間には、親切は弱さの表れだと勘違いする傾向があるようだ。

私たちが人を評価するとき、その八〇%は「温かさ」と「有能さ」と いう二つの評価軸によって判断するのだという。ハーバード・ビジネス スクールのテレサ・アマビールによる研究『優秀だが非情』によると、 人は「温かさ」と「有能さ」は逆の相関関係にあると認識している。つ まり、誰かが親切すぎると、その人物はきっと能力が低いのだと推測す る傾向があるのだ。現に、嫌なヤツのほうが、第三者には力があるよう に見えたりする。また、規則を破る者のほうが、従順な者より権力があるようにも見える。

しかも、これは単なる認識の問題ではない。嫌なヤツは実際、親切な人より仕事ができる場合がある。企業のCEOは、サイコパスの頻度が 高い職業だが、調査によると、これらのネガティブな特性はむしろ、 リーダーになる可能性を高める。仕事の能力も抜群で、誰よりも梯子を速く駆け上がる経営者は、チームの一員であろうとする人間ではない。 また、業務の遂行に一辺倒になる人間でもない。彼らは、権力を握ることに照準を合わせている人間だ。 

さらに追い打ちをかけるようだが、嫌なヤツのほうがうまくいくばか りでなく、踏みつけられている善人は命を落としかねない。職場で力が ない(権限や裁量権がないなど)ことは、肥満や高血圧以上に冠動脈疾 患の重大なリスク要因だ。働きに見合う給料をもらっていないと感じて いることも、心臓発作のリスクを高める。その一方で、上司へのゴマすりは結果として職場でのストレスを軽減し、幸福感のみならず体の健康状態も改善する。

こうした情報は、善人のあなたには受けいれがたいものかもしれな い。けれどもおそらく、職場で要職に就いていないと、執行権限が縮小 され、ストレスが増すのだろう。平たくいえば、無力感は人を黙らせる ということだ。

貧困するギバー、裕福なギバー。(お金の話)

ペンシルバニア大学ウォートン・スクール教授のアダム・グラント は、「成功」という尺度で見たとき、最下位のほうにいるのはどんなタ イプの人なのかを解析した。するとじつに多くの「ギバー(受けとる以上に、人に与えようとするタイプ)」がいることがわかった。 技術者、医学生、営業担当者、いずれの調査でも、ギバーたちは、締 め切りに遅れる、低い点数を取る、売り上げが伸びないなど、捗々しい結果を残せずにいた。

倫理的なビジネスや、利他的な行動は成功につながるかというテーマ で研究を重ねてきたグラントにとって、この結果は人一倍こたえるもの だった。もしグラントがここで分析を終えていれば、まさに悲惨な日に なっただろう。しかしそうはならなかった。インタビューの際に、彼は 私に次のように語ってくれた。

それから、「ギバー」が敗者のほうにいるなら、最も成功している勝 者には誰がいるのだろうと、スペクトラムの反対の端を見てみました。 すると心底驚いたことに、トップのほうにいるのもまた「ギバー」たち だったのです。いつも他者を助けることを優先している人びとは、敗者 ばかりでなく、勝者のほうにも多く登場していました。

「マッチャー(与えることと、受けとることのバランスを取ろうとするタイプ)」と、「テイカー(与えるより多くを受けとろうとするタイ プ)」は中間に位置するという。ギバーは成功に最も近い位置と最も遠い位置の双方にいた。また同じ研究によると、目立った業績をあげてい るエンジニア、最優秀の成績を取っている学生、利益の大半をもたらし ている営業担当者はいずれもギバーだった。

これらのことは、あなたも直感的に納得できるだろう。私たちは皆、 無理をしてまで他者を助けて自分の要求を満たせなくなったり、テイ カーにつけ込まれ、食い物にされたりする殉教者がいることを知ってい る。しかしその一方で、頼りになるので誰からも愛され、皆から感謝さ れるので、ゆくゆくは成功する者がいることもよく知っている。

しかも、ギバーが得意とするのは最高益を達成し、トップの成績を取ることばかりではない。彼らはまた、裕福になることにも秀でているよ うだ。社会学者、アーサー・ブルックスが慈善事業への寄付と所得の関 係を統計学的に調べたところ、ある世帯が一ドル寄付するごとに、寄付 をしなかった世帯(宗教、人種、子どもの数、居住区、教育レベル等、他の条件で等しい)に比べ、所得が三・七五ドル上昇することがわかっ た。寄付した額と、その年の所得の上昇に明らかな関係があることが証されたのだ。 

あなたは困惑して頭を 掻いてしまうだろうか? この章の初めで、嫌なヤツはうまくいくことを見てきたのに矛盾するではないかと。たしか に、平均すると嫌なヤツはうまくやる。しかし、頂点のほうに位置する のはギバーたちなのだ。

最高の所得を得ている者は、おおむね人を信頼している。『適度な信 頼』と題された研究で、被験者は他者をどの程度信頼しているかを一〇 段階評価で答えるように言われた。すると、「八」と答えた人びとの所得が最も高かった。これは、成功者のトップにいるのはギバーだったと するグラントの研究結果と一致する。

一致するのはそれだけではない。九以上と答えた人びとの所得は、八 と答えた人びとの所得より七%低かった。成功の尺度で敗者にもギバー が多いように、これらの人びとはテイカーに利用され、つけ込まれてい るのかもしれない。

では、一番苦労しているのは誰か? なんと信頼度が最低レベルの人びとの所得は、八と答えた人びとの所得より一四・五%低かった。この 損失は、大学を卒業していないことによる損失に匹敵する。 

 

リッチネス・幸せなギバー(オキシトシンの話)

最後に、幸福度の問題がある。嫌なヤツが出世したり、裕福になるこ とは数多くのデータによって示されているものの、彼らは、必ずしも人生を楽しんでいない。ところが、道徳的な人びとは幸福度が高いことが 調査で裏づけられている。かなりの不正行為をしても平気な人より、社 会道徳を重んじる人のほうが、人生に対する満足度が高かった。その幸 福度の上昇分は、たとえば、収入の若干の増加、結婚、教会に必ず行くことなどから得られる満足感に相当した。

これは、モルドバ人が思い違いをしている点でもある。人を信頼しな いこと、たがいに助け合わないことにより、彼らは幸福になれる多くの 機会を逃しているのだ。調査によると、私たちは自分自身にお金をかけ るより、他者のためにお金を使うほうが幸せになれる。週に二時間でも ボランティア活動をすれば、人生への満足感が増えると予測できる。さ らに驚くべきことに、他者を助けるために時間を提供する人は、忙しさ が減って、自由な時間が増えたように感じるのだという。

短期的な状況の多くで、ちょっとしたごまかしや横暴さは人をだし抜 き、利益をもたらすかもしれない。しかし、時間が経つとそうした行為 は社会的環境を害し、じきに人びとはたがいの意図を見抜き、誰も公益 のために働こうとしなくなる。

ビジネスの原理に取り込まれないための作戦『残酷すぎる成功法則』

残酷すぎる成功法則

テイカーが長期的に得をしないことはわかった。ここで最下位に終わ るギバーについても触れるべきだろう。勝者になるギバーと、敗者になるギバーの違いは、決して偶然によるものではない。グラントによれ ば、あまりにも利他的なギバーは人を助けるために自らを消耗し、テイ カーにつけ込まれ、成功からほど遠い業績しかあげられない。

この手のギバーに朗報。人に与えすぎないように自制するために、実 行できることがある。たとえば、ボランティア活動は週に二時間と決 め、それ以上はやらない。ソンジャ・ライウボマースキーの研究による と、のべつ幕なしに人を助けるより、時間数を決めて助けるほうが幸福感が増し、ストレスも軽減されるという。たとえば週に一日を親切する 日と決めれば、自分のことをおろそかにせずに人助けができる。とくに 「年に一〇〇時間」はお薦めのマジックナンバーだ。

グラントは、ギバーにはもう一つ切り札があるという。それはマッ チャーだ。彼らは、善が報われ、悪が罰せられることを望むので、テイ カーを罰してギバーを護ってくれることがある。ギバーがマッチャーの 仲間に囲まれている場合には、テイカーによる搾取をそれほど恐れる必要はない。

信頼と裏切りのゲーム理論 :ビジネスの原理に飲み込まれない方法

協力関係がこの上なく重要であることをここまで学んできた。それで もあなたはインチキをするだろうか? それとも信頼を大切にするだろ うか? 協力と信頼をおろそかにすれば、モルドバのような社会になる 恐れがある。だが人を信じれば、騙される可能性がある。信頼すべきか、せざるべきか、どうすればこのジレンマにうまく対処できるだろう? 

科学者が信頼の問題を扱うとき、よく根拠にするのが「囚人のジレン マ」というゲーム理論だ。 あなたと友人が銀行強盗をして捕まったとする。警察は二人を別々の 部屋で尋問する。隔離されているので、友人と相談することはできな い。そして警察から次のような取引をもちかけられる。

・友人が首謀者で、あなたに不利な証言をしなければ、友人は五年の刑 で、あなたは釈放される

・あなたが友人に不利な証言をせず、友人があなたに不利な証言をすれ ば、あなたは五年の刑で、友人は釈放される。

・双方がたがいに不利な証言をすれば、二人とも三年の刑になる ・双方が証言を拒否すれば、二人とも一年の刑になる

二人がたがいを信頼できるとわかっていれば、答えは簡単だ。揃って黙秘すれば、二人とも一年の刑で済む。しかし相手を信頼できるだろう か? 警察に縮み上がって口を割るのではないか? あなたが黙秘して も、友人が証言すれば、向こうは釈放で、あなたは五年の刑だ。これが 一回かぎりのゲームだとすれば、「双方が証言し、二人とも三年の刑」 というのがリスクを回避した選択になる。だが、実社会での状況により 近づけて、このゲームを二〇回するとしたらどうだろう? 長い目で見 た勝敗の行方は、もっと複雑になる。

それを解明しようとしたのが政治学者のロバート・アクセルロッド だ。同氏は、東西冷戦の激化とともに、人びとを信頼と協力に向かわせ る契機になるものを探ろうとした。どんな戦略が最も効果的か? そこで、くり返し型の囚人のジレンマで利得が多くなる戦略を調べるため、 さまざまなゲーム戦略を募集し、コンピュータ・プログラムによる総当たり戦のコンテストを行った。

心理学、経済学、数学、社会学などさまざまな分野の研究者が、一四種の戦略(加えて、「でたらめ戦略」の一プログラム)を携えて参加し た。

あるプログラムはただひたすら親切で、どんなにひどい目に遭わされても相手に協調する姿勢を貫いた。対照的なのが「オールD戦略(悪人 戦略)」と名づけられたプログラムで、どのゲームでも必ず相手を裏切 る。その他のプログラムは、二つのプログラム間のどこかに位置する。 もっと複雑なプログラムでは、だいたいにおいて協調的だが、たまに こっそり裏切りに転じ、相手をだし抜いた。また別の「テスター」と名 づけられたプログラムは、相手の反応を窺いながら裏切り行為をしていき、相手がそれに気づいて報復してくると、今度は打って変わって協調的になった。

どの倫理システムが優勝しただろうか? 衝撃的なことに、最終的に 利得の合計が最も高かったのは、最も単純なプログラムだった。それは たった二行のコードから成り、しかも誰もが子どものころから馴じみの ある戦略、「しっぺ返し」だった。

この「しっぺ返し戦略」は、「囚人のジレンマ」の初回ラウンドでは まず協力し、その後は前回のラウンドで相手が選んだ選択を真似し続けるというものだ。つまり、前回相手が協調したなら、今回自分も協調す る。前回相手が裏切ったなら、今回自分も裏切るというわけだ。 

このいたって単純なプログラムが、コンテストで一番になった。アク セルロッドは再度総当たり戦を開催した。今度はさらに多くの専門家に 参加を呼びかけたので、六二種類のプログラム(戦略)が参加した。そ のなかにはいっそう複雑化したアルゴリズムや、しっぺ返し戦略の変型 などがあった。ところがまたも、勝利したのは単純なしっぺ返し戦略だった。

このささやかな戦略のどこに魔法の力が秘められているのか。アクセ ルロッドは、たった二行のコードが最強である理由としていくつかの重 要な点をあげた。

彼が気づいたのは、ギバーとテイカーに関して私たちが見てきたこと と同じだった。すなわち、初めのうち、いい人は踏みつけられてしま う。「悪は善より強い」という研究結果同様に、嫌なヤツはあっという間に利得を得るのだ。優勝者であるしっぺ返し戦略でさえ、初回で自分から協調するので、早い段階では貧乏くじを引く。 

ところが時間が経つにつれ、悪者は協力者ほど大きな利益を得られな くなる。もししっぺ返し戦略が、毎回協調を選んでくる相手と出会うと、利得の総和は莫大になる。「テスター」のようなプログラムでさ え、裏切りで得られるわずかな利益より、相手の出方に合わせるほうが 大きな利益が得られるとわかる。

しかもアクセルロッドはこれで終わりにしなかった。ほかの研究者た ちと、より良いプログラムを構築しようと研究を重ねた。しっぺ返し戦 略は二度のコンテストで優勝したが、人の弱みにつけ込む「捕食者」プ ログラムを打ち破るために、彼らは邪悪な要素を補強したのだろう か? じつはその逆で、補強したのはさらなる善の要素、寛容さだっ た。 

「しっぺ返し戦略」を改良した「寛容なしっぺ返し戦略」はより優勢に なった。単純に相手の出方を真似るだけでなく、たまに裏切られた後で も許し、協力する態度を示した。「悪人戦略」に対しては、しっぺ返し 戦略のときよりさらにわずかな点数を失ったが、潜在的に善人のプログ ラムをデス・スパイラルから救いだすことにより、失った以上の莫大な 利得を得たのだ。 しっぺ返し戦略が成功した大きな要因は、協力的で、寛容で、ほかのプレーヤーにとって対応しやすく、それでいて必要とあらば報復も辞ない点にあった。 

外向性はビジネスの原理。内向性は子育ての原理。

通常は外向型人間のほうが勝っているとされる領域でも、じつは内向型人間のほうが成功しているという調査結果も見られる。プロスポーツ 選手の場合と同様に、私たちは、リーダーも人が好きで外向的な人間だ ろうと思っている。そして前章で見てきたように、調査によると外向型 人間はリーダーになりやすく、また、その資質があると見られやすい。 

だが、彼らは本当に成果をあげているのだろうか? 

アダム・グラントがリーダーシップについて研究したとき、じつに興 味深い傾向を発見した。外向的な人と内向的な人のどちらがすぐれた リーダーになるかは、彼らが統率する人びとのタイプによるというの だ。従業員が受け身の場合には、社交的でエネルギッシュな外向型の人間が本領を発揮する。しかしながら、目的意識のある人々を率いる場合 には、内向型のリーダーのほうが望ましい。彼らはよく耳を傾け、後ろ 盾となりながらも部下の自主性を重んじるからだ。

外向的な人は、最初こそ饒舌さや、主導権を握りやすい性格からリーダーとして有望視されるのだが、ともすれば支持が長続きしないと調査 で示されている。彼らはリーダーの役割を担ってから、傾聴する能力の 不足を露呈し、チーム内での支持を失う。

私たちの社会は外向的な人を買いかぶり過ぎる場合があるのだ。じつ は、あまり耳にする機会はないものの、外向性にも多くのマイナス面が ある。息子も娘も外向的な子に育つようにと祈る前に、外向性が犯罪や 不義、自動車事故、自信過剰、金融的リスクを厭わない性格などと結び ついている事実を考えてみたほうがいい

外向性の欠点について、あまり聞かされてこなかったのはなぜだろう? 率直に言って、これは「宣伝能力」の違いだろう。外向的な人のほうが内向的な人より多く、しかも外向的な人のほうが友人が多く、話 す機会も多いことは明白だ。スーザン・ケインが指摘したように、外向性を評価するバイアスが私たちの職場、学校、文化、とりわけアメリカ という国に浸透している。

要するに、外向型人間にも内向型人間にも成功者がいて、世界は間違いなく両方を必要としているのだ。だがあなたは、そのどちらでもない 公算が高い。人びとの三分の一は筋金入りの内向型人間と外向型人間から成り、残りの三分の二は、両向型人間で構成されている。つまりスペ クトラムのどこかに位置する人が大半なのだ。 

外向型と内向型の中間である両向型人間には強みがないかというと、 そんなことはない。意外なことに、一流の外交員には両向型の人間が多い。この仕事では優位に思われる外向型人間は、おしゃべり過ぎたり、 横柄だったりする。内向型人間は相手の要望をよく聞くが、押しの強さ に欠ける。アダム・グラントの調査によれば、優秀な外交員は、外向型 ─内向型のスペクトラムの中間に集中していたという。 

ここから重要な教訓が引きだせる。もしあなたが片時も独りでいるのが耐えられないなら、経営学修士の学位を取り、従順な人びとの指導的 立場に就くのに向いている。逆に、対人の仕事が耐えられなければ、自 分が情熱を注げる対象に一万時間打ち込み、その道を究めるのはどうか。

うわべだけのラッピング、ビジネスの原理は「見せかけ」る技術を育てる『残酷すぎる成功法則』

自信は傲慢、ハッタリであってもよい効果を生む:自己イメージの効果

ときには、うわべだけの自信でも、勝敗を分けることがある。 ズバリ言うと、成功する人は最初から自信を持っている。そして成功をおさめるにつれ、ますます自信を持つようになる。『エコノミスト』 誌がトップ実業家に影響を与える思想的指導者と認めたマーシャル・ ゴールドスミスは、次のように語る。

成功する人は同業者に比べて、自己を買いかぶる傾向が強い。私が主 宰する研修プログラムに参加した五万名以上を対象に、仕事ぶりをどう 自己評価しているか調査したところ、八〇~八五%の人は、自分が同業 者の上位二〇%に位置すると回答。また、七〇%の人は上位一〇%に位置すると回答した。回答者が外科医、パイロット、投資銀行家など、社会的認知度の高い職業に就いていると、自己評価はさらに高まる傾向に あった。

一流実業家のなかに、自信不足の者はまず見られない。今日、各家庭 に灯りをともしている発電・送電システムの開発で知られる電気技術者 ニコラ・テスラは、署名をするときに自分の名前ではなく、「GI」と サインすることで知られていた。GIとは、「偉大な発明家(Great Inventor)」の略であり、謙虚さとはあまり縁のない人物だったことを物語る。

また、『自己評価と収入の関係』と題する研究によれば、自信度は少なくとも 、 、 、 、賢さと同程度に、最終的にその人がどれほどの収入を得るかを 左右する重要な要素だという。 

(略)

自信を持てば持つほど、利益がもたらされる傾向がある。研究による と、人は自信過剰なほうが生産性が伸び、より困難な課題に挑戦するよ うになり、それにより職場で頭角を現すことになる。自信過剰な人は、 実質的に業績を上げている人より、昇進する可能性が高い。すでに述べ たように、最初に口を開き、たびたび発言する──つまり自信がある態度 ──だけで、周りからリーダーと見なされる。

過剰な自信は、勘違いにつながらないだろうか? その通り。しかし、それも良いほうに働く。マーシャル・ゴールドスミスは分析する。

「成功者は、良い意味で〝妄想状態〟にある。彼らには、自らの経歴を、自分が何者で、何を成し遂げてきたかの証明としてとらえる傾向が ある。こうした過去の肯定的解釈は未来に対する楽観主義を増幅させ、 ひいては将来の成功の確率を高める」。

ある研究によると、「自分を欺くことは、ストレスの軽減、ポジティブな自己バイアス、苦痛への耐性強化と関連し、これらすべてが、競争的な仕事において意欲と業績を向上させる」という。

傲慢・自分勝手な人を評価してしまう人:「見かけ」が大事な世の中

自信は傲慢さなのかという疑問が出てくる。自信によっ て私たちは〝嫌なヤツ〟に成り下がるのだろうか? あいにく、傲慢さがプラスに働く面もある。ナルシストで鼻持ちならない自信家の王様や女王様は、就職試験の面接で良い点を取るという。そうした研究の執筆者はこう述べた。

「人びとは別にナルシストを雇いたいわけではないのだが、結果としてそうなりやすい。なぜなら、彼らは自信にあふれ、有能な印象を与えるからだ

さらに、自信家はリーダーの地位におさまる可能性が高い。自信過剰な態度は、チームの生産活動を高めるが、自信不足は悪影響を及ぼすという。 自信はなぜそれほどまでに強力なのか? 自信があると、コントロー ルできているという感覚が得られるからだ。マーシャル・ゴールドスミ スは次のように説明する。

自分は成功できると信じている者は、ほかの者なら脅威とみなすところにチャンスを見いだす。彼らは、不確実性や曖昧さを恐れず、喜んで受けいれる。彼らは、より多くのリスクを負い、より大きな利益を達成する。選択肢がいくつかあれば、自分自身に賭ける。成功する人は、「内部要因思考」をする傾向が高い。すなわち、自分は運命の被害者だと考えない。同様に自分の成功も、運や偶然、定めによるものとは思わ ず、自分自身のモチベーションや能力の賜物だと考える。たとえ幸運によるところが大きくても、成功を引き寄せたのは自分だという信念を持ち続ける。

 

自分を過大評価することは、自分を騙す欺瞞社会・人間疎外社会を生み出す。暴力社会を助長する・自己破壊的になるリスク『残酷すぎる成功法則』

「公の立場で他者を欺くCEOは、やがて私生活において自分自身を欺きかねない」

この主張に納得するだけの十分な理由がある。

心理学者のダン・アリエリーは、試験でカンニングする機会を被験者に与える実験を行った(彼らは、試験の監督官が不正を見分けられるこ とを知らなかった)。もちろん、試験で不正をした者は良い点を取っ た。だがここで、興味深いことが起こった。別の試験後に、それぞれの 出来ばえを尋ねたところ、不正を行った被験者はそうでない被験者よ り、自分の点数を高めに評価していた。言い換えれば、先の試験で不正 行為により高得点を取った者は、自分が賢いから良い点を取ったと錯覚 していた。他者を欺く者は結局、自分を欺くようになるのだ。 

これは非常に危険である。実際にはほかの誰かが操作しているのに、 飛行機を操縦しているように装い、次回、自分は良いパイロットだと信じ込んで操縦室に入るようなものだ。

小説家のナサニエル・ホーソンは次のような言葉を遺した。 「どんな人でも、自分に対する顔と、世間に対する顔を長らく使い分けていたら、しまいには必ず、どちらが本当の自分かわからなくなってし まうだろう」

要するに、見かけを装うのは間違った戦略だ。他者を欺くうちに、必ず自分まで欺くことになるだろう。(『残酷すぎる成功法則』エリック・パーカー)

間違っていることに気がつくためには、痛手が必要になる:固定される自己イメージ

 

柳龍拳も触れずに人を倒すことができる。この術で、柳は一度に一 二人以上の敵を倒せる。その光景を映したビデオは圧巻だ。ときには三 人の弟子たちが同時に柳に向かっていく。柳が手首を振ったとたん、ま るで顔面を殴られたかのように弟子たちがばたばたと倒れる。ものの数秒で、すべての敵が倒された。

自身の驚異の能力を証明するために、柳は総合格闘家、岩倉豪からの 挑戦を受けた。勝者には五〇〇〇ドルが支払われることになった。ついに、気功によって人を倒す力を正確に試す機会が訪れた。レフェリーが 両者のあいだに立ち、試合開始を告げた。柳は手を上げて、敵に向かっ て気を集中させた──。

とその瞬間、岩倉が柳を激しく殴った。

勝負は一分足らずで決した。懐疑的だったあなたは正しい。自分の能 力に対する極端な自信は強力な力になる。しかし、物理学、生理学の法 則を曲げるほどの力にはならない。

ちなみにジョージ・ディルマンは、試合によって試されることを一貫して拒否している。

しかし柳龍拳がいんちきなら、どうしてわざわざ対決を受けたのだろ う? 尻を蹴られ、五〇〇〇ドルを失い、インターネットで無数の人に 見られて恥ずかしい思いをしてまで?

柳は明らかに、自分がいかさまだとは思っていなかった。自分には気 功で人を倒す能力が本当にあると自信を持っていたのだ。弟子たちもそ う信じていた。そうでなければ、じつは効力のないまじないの〝パン チ〟に反応して床に転がるはずはない。

作家で神経科学者のサム・ハリスはこう言う。

柳龍拳の誤った思い込みがどのような経緯で生じたのかはわからない が、一たび誰もがこぞって転びだすと、彼の妄想がどのように維持され たかは容易に想像できる。柳の視点に立って想像してみよう。もしかし たら自分は、少し離れた敵を倒すことができるのではないかと考えていたとする。すると弟子たちが見計らったように揃って倒れるようになり、それが何年も続き、自分には本当にそうした能力があるのだと信じ始めたのかもしれない。 

こうした経験をするのは武道家にかぎらない。企業経営者にもよく見 られる。そしておそらくあなたにも。自信は、能力を向上させ、成功を 引き寄せる。また、他者にあなたを信用させる。その一方で、自信には 極めて危険な面もあり、妄想や傲慢さにつながる恐れがある。そしてあ なたの過剰な自信が現実に直面すると、柳龍拳のように手痛い思いをす るだろう。

ことわざにもあるように、「〝そこそこ腕のいい〟ワニ・レスラー (米先住民の伝統であるワニとレスリングをする人)は存在しない」。 実力をともなわない過剰な自信は、命取りになりかねない。 人は誰でも多かれ少なかれ錯覚をしている(わが子は人並み以上に思えるし、運転が下手な人の多くはそのことを認めない)。だが、一定の 閾値を超えたときに、問題が生じる。不幸にも、私たちはこの問題につ いてあまり話し合わない。誰もが、自信をもっと高めたいと思ってい る。自信があれば気分が良いからだ。

家族を、会社を破壊する自己欺瞞の人たち:自己イメージと現実の乖離:自信に満ちた妄想

ハーバード大学ビジネススクール名誉教授のリチャード・テッド ローは次のように述べている。

私は過去四〇年にわたって企業などの経営史について指導、および執筆をしてきました。これまで研究した企業や経営者に関して印象深かっ たのは、本来避けることができ、また、避けるべきだった間違いを犯した者がいかに多いかです。それらの間違いは、たんに後知恵によってで はなく、当時その瞬間その場で入手可能だった情報に基づいて、避けることができたものです。これらの間違いはいずれも、当事者である人びとが現実を否定したことに端を発していました。

私たちは、能力がないことを嘆くのに多大な時間を費やすが、作家の マルコム・グラッドウェルがハイポイント大学で語ったように、自信過剰であることのほうがはるかに大きな問題だ。

なぜか? 能力がないことは、経験不足な人びとの問題であり、ほか の条件が同じなら、私たちは未熟な者に権力や権威を委ねたりはしな い。一方、自信過剰はどちらかというと熟達者に見られる問題であり、 そうした者はしばしば大役を任せられる。能力のなさにイライラさせら れるのはもちろんだが、無能な者が深刻な被害をもたらすことはそれほ ど多くない。むしろ取り返しがつかない事態を引き起こしかねないのは、自信過剰な者なのだ。

傲慢さは、ただ妄想や勘違いにつながるだけでなく、実社会で数々の問題を起こす。

 

子育ての原理は、自己洞察を深める。過信しない。だから成長する。

ビジネスの原理はラッピング(見せかけ)にコストを支払う

ここでは、自信がもたらす弊害について見てきた。現実を受けいれないことと、傲慢なヤツになることだ。ビジネス心理学者のトーマス・ チャモロ・プレムジックが『ハーバード・ビジネス・レビュー』誌のな かで述べているように、この二つの問題をなくすだけで、大きなプラスの効果が得られる。

自信を抑えれば、傲慢な印象を減らせるばかりか、現実離れの妄想にはまる可能性も減らすことができる。たしかに、自信が控えめな人物のほうが、他者を責めずに、自身の誤りを認める可能性が高い。また、人の手柄を横取りすることも稀である。こうした点は間違いなく、自信が控えめなことの最も重要な利点である。控えめな自信は、個人だけでなく、組織や社会全体を成功へ向かわせることを示しているからだ。

つまりこのことは、自信があまりないことの長所を示唆している。自信は、学んだり改善したりすることをとても困難にする。すべての答えがわかっていると思う人は、もはや探そうとしなくなるからだ。思想的指導者のマーシャル・ゴールドスミスはこう言う。

「自信に満ちた妄想は、何かを達成するのに役立つが、何かを変革するのを困難にする」 

私たちは、確信がないときのほうが、新しい考えを柔軟に受けいれ、 受動的にも能動的にもアンテナを広く張って新たな情報を求める。逆に自分の力に自信があるときは、それほど注意を払わなくなる。その必要がないと感じるからだ。

『権力、競争力、助言の聞きいれ──権力者はなぜ助言を聞かないか』と いうそのものズバリの題名の論文では、被験者に権力意識を持たせると、初心者のみならず専門家からの助言も無視するようになることが証明された。 

他者の考えに耳を傾けることは、知力を高める。ある研究では、社会 的な交流が実際に人を賢くするという結果が示された。もっとも一つ気をつけなければいけない。人との交流で認知機能を向上させるには、相手の観点で考える必要がある。よほど注意を払っていないと、それは難しい。

傲慢さは二重の意味で災いする。まず、自信満々になるあまり、人の話を聞かなくていいのだと思い込む。すると誰も異論を唱えなくなるのはもちろん、長期的には、誰もあなたと話したいと思わなくなってしまう。あなたが無惨に失敗でもしようものなら、彼らは嬉々として喝采するだろう。気配りを推奨したとは言いがたいマキャベリでさえ、指導者には、内々に率直に話をしてくれる人が必要だと忠告している。そうでなければ、しまいにはびくびくしたイエスマンばかりに囲まれることになると。

小説家のジェームズ・ボルドウィンはかつてこう述べた。「直面した からといって、すべてを変えられるわけではない。だが、直面しなければ何一つ変えられない」。

プレムジックは、謙虚さには二つの利点があるという。現実を把握できることと、傲慢にならずにすむことだ。謙虚さは、結果的に自己の改善を促してくれると彼は言う。現実の自分となりたい自分のギャップを認識できるからだ。それに、周りが思うより能力があることは、尊大な態度のわりに実質が劣っているよりはるかに良いことだ。じつは人びとに謙虚さを強いるだけでも、驚くほどの成果がある。医師にはともすれば尊大な者が多いとされる。ある病院(ジョンズ・ホプ キンス大学病院)は患者の感染を減らしたいと思い、医師に対し、治療前にチェックリストの項目を必ず実行するように要求した。医師にとってはいささか屈辱的だった。だが経営陣は真剣だったので、医師が手順を実行しない場合には介入できる権限(上層部のお墨付きで)を看護師に与えた。

その結果どうなったか? なんと、留置日数一〇日間でのカテーテル 感染率が一一%からゼロになった。自信過剰な医師はそれまで必要な手 順を省いていたが、いざ規則に従うように強制されると、効果は劇的 だった。さらにこの実験を導入した別の病院では、最初の一五週間で八人の命が救われ、二〇〇万ドルの経費が節約できた。

というわけで、針路を外れないかぎり、自ら鼻柱をへし折ることも悪くないかもしれない。プレムジックの話の続きを聞いてみよう。

ビジネスと子育て、二つの原理で人間社会を生きる

自信が不足していると人は悲観的になるが、悲観主義が野心とコンビ を組むと、目覚ましい業績をあげることがよくある。何の道であれ、究めるには自分自身が最も厳しい批評家になる必要があり、出発点から自信満々だと、それがほぼ不可能になってしまう。

なんてことだ、ネガティブなことにも意味があるとは。客観的に見て最悪なこと(たとえばタイヤがパンクするとか)とはわけが違うようだ。

批評眼を持ってものごとに取り組めば、自分の欠点を見つけて落ち込むこともある。しかしそれはまた、改善への一歩である。ある心理学的調査によれば、ネガティブな感情は学習意欲を生むという。もしテスト でAを取れば、あなたは満足してそのまま進むだろう。ところがもしFを取ったら、なぜそうなったのか知りたいと思う。

『どこが間違っていたのか教えて』と題する研究では、人が専門家を目指す途上で転機が訪れることを示している。初心者は、まだ得意でないことに励み続けるために、肯定的なフィードバックを必要とする。しかしやがて転機が訪れる。次第に熟達するにつれ、いっそう腕を上げるために、彼らは否定的なフィードバックを求めるようになる。初心者のころと違い、今や正すべき点はわずかだからだ。

これは、楽観主義とグリットに関して学んだこととつながる。私たち は前進し続け、他者を味方につけるために楽観主義と自信を必要とする。しかし、問題点を見つけて改善するには、否定的な考え方と悲観主義が必要だ。つまり、成功するには、楽観主義と悲観主義の両方が欠かせないのだ。

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