ねばねばべきべき教と過保護と立場主義と自動思考と硬直マインドセット

  1. ねばねばべきべき教と過保護と立場主義と自動思考と硬直マインドセット
    1. 複雑な感情と自動思考
  2. 安冨 歩「東大話法」みんな大好き立場主義から心の健康を守るには?
    1. 言葉の力
    2. 魔界の言語
    3. 「言葉」は「心」
  3. 「欺瞞」を生み出す立場主義
    1. 「立場主義」という文化としての学校
    2. 言葉を正す
    3. 鼻で笑う「強さ」を
  4. 自動思考を変えるには?ストレスを減らすか前頭葉をフルに使うか。
  5. 思考の悪循環を変える方法
    1. EQを高めるには??
  6. 「べきねば」教!しつけがオキシトシン受容体を減らす可能性
    1. トップダウン型「べきねば」抑圧アプローチ
    2. 「べきねば」抑圧アプローチは理性で人間性を抑え込む
    3. 抽象的な「べき」「ねば」、「競争」志向が共感を低める
    4. 「べきねば教」は「常識」という神を祀る宗教である。
    5. ストレスでオキシトシンは出なくなる
    6. トラウマが扁桃体のオキシトシン受容体を破壊する:共感できない体
  7. 硬直マインドセットとオキシトシンのないストレスフルな生活
    1. 硬直マインドセット=自己嫌悪・学習性無気力
    2. 硬直マインドセット=ナルシシズム
    3. 硬直マインドセットは「短期的な結果」を求める
    4. 硬直マインドセットは、暴力を生み出す。
    5. 抑うつを引き起こす硬直マインドー学習性無気力
    6. 時間を費やして努力して情熱を注ぐプロセスに喜びを感じない「硬直マインドセット」
    7. 自己防衛としての硬直マインドセット:自己欺瞞
    8. 自尊心を守るために、不平不満を言う「学習しない」マインドセット
    9. 硬直マインドセットは、可能性を閉ざす。
  8. 硬直マインドセット(固定観念)は他者への寛容を減らすー共感欠乏・人間疎外社会の礎
  9. 過保護・過干渉はなぜおこる?大人のコミュニケーション障害
    1. 過保護の原因
  10. 過保護ですか?ーストレンジャーテストでわかる親子関係
  11. 子どもを人として尊重する
    1. 挫折と回復の経験
      1. 獅子を谷に落とす
  12. 【あなたの宗教は何?】学歴社会と儒教とべきべきねばねば教:森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』
    1. 国家主義・全体主義 v.s. 自由主義・個人主義
    2. 日本は中国由来の、儒教国。
    3. 「学歴社会」=「儒教社会」
    4. 日本は大学を中国(儒教社会)を真似て作った。
    5. 全体主義・国家主義の大人が子供に教えていること

ねばねばべきべき教と過保護と立場主義と自動思考と硬直マインドセット

「象」は扁桃体、「象使い」は新皮質とばっさり説明してきたけれど、新皮質のなかにも「素早く」判断する部分がある。

眼窩前頭皮質と呼ばれる部分です。

「べきべき」「ねばねば」という思考、固定観念を担当しています。考える必要がないためごく「当たり前」に自然な情動として感じられることでしょう。

新皮質のさらに奥の部分、複雑な判断をする前頭前野を経由せずに、「考えずに」ただただ「おもう」レベルです。批判的に自分の決断をフィードバックすることはせず、「学び」はありません。代わりに、素早く反応できますが。

頭がいっぱいストレスだらけになっている大人によくあるパターンです。

眼窩前頭皮質と帯状回をつなぐ回路は、数多くの可能性の中から最善の反応を選択する際に力を発 揮する。この回路はすべての経験を査定し、価値――好き嫌いを与えて、意味づけをおこなう。 最近では、この情動にもとづく計算が根本的な価値観となり、それにもとづいて脳が行動を組み立て る(各々の瞬間において優先順位を決定する)のではないか、と主張する学者もいる。とすると、こ の神経回路は人間の社会的意思決定においてきわめて重要だということになる。この部分で考えてい ることが、人間関係の成否につながるのだ。 社会生活において、こうした判断がすごいスピードでおこなわれているか、考えてみるといい。だ れかと初めて顔を合わせた瞬間、脳は好きか嫌いかの判断をわずか約○・五秒のうちに下している。

判断の次は、その相手にどう反応するかという問題になる。好き嫌いの判断が眼窩前頭皮質にしっ かり伝わると、そこで○・二秒ほどかけて神経に活動指示が出される。すぐ近くにある前頭前野も並 行して活動しており、社会的状況に関する情報を提供する。すなわち、その瞬間においてどのような 反応が適切か、などのより洗練された感覚を追加するのだ。

眼窩前頭皮質は、状況などのデータを参考にして、最初の衝動(ここから逃げ出そう)と最善の方 法(それらしい言い訳をする)とのバランスをとる。本人にしてみると、眼窩前頭皮質の決断は意思決定ルールを意識的に理解した結果としてではなく、「こうすべきだ」という感覚として認識される。

要するに、いったん相手に対する評価が決まると、眼窩前頭皮質がそれに続く行動の決定に手を貸 すわけだ。眼窩前頭皮質は生の衝動を抑制して、有益な行動を考える――少なくとも、あとで後悔す るような言動を止めようとする。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.110)

複雑な感情と自動思考

後悔、妬み、劣等感、悲しみ、プライドといった複雑な情動も、眼窩前頭皮質レベルで起きているようです。「そうそう、ここは、悲しむところね」「そうだよ、これは劣等感だよ」「これは、プライドが傷ついたね」と囁いているのかもしれません。

後悔、恨み、妬み・・・そういった情動が役に立つのか、目の前の状況に対して、メリットがあるのか、はたまた自滅的な情動なのか・・・脳の発達の過程で、前頭前野を通じた「表の道」の情動のマネジメントを学べなかったら、ただたた、「回路」を消費するだけの人間になってしまうのだろう。

かのような状況では、SQなど、考えることはできない。

英国リバプールに住む一人の男が、六つの数字を当てるロトくじを買っていた。男は毎週毎週飽き もせず、同じ番号|A、7、8、1、2、1 でくじを買いつづけていた。 ある日、テレビを見ていたら、その番号で二○○万ポンドが当たった、というニュースをやっていた。ところが、その週にかぎって男はくじの更新を忘れ、くじは前日に期限切れになっていた。 失望のあまり、男は自殺してしまった。

この悲劇的なエピソードは、拙劣な判断に対する後悔の念について書かれた科学論文の中で取りあ げられたものだ。こうした感情は眼窩前頭皮質で生まれ、くじを買いそびれた男性を押しつぶしたよ うな自責の念や自己非難となって心を苦しめる。しかし、眼窩前頭皮質の主要な回路を損傷した患者 にはこのような後悔の念はいっさい起こらず、どんなにまずい選択をしても涼しい顔をしている。 (略)

こういう患者は、ふつうの人なら地団駄を踏むような失敗をしても、いっこうに何も感じないま ったくの他人を相手にキスと抱擁の親密な挨拶をしたり、三歳児しか笑わないような下らないジョー クを口にしたりする。自分の恥ずかしい話を相手かまわず嬉々として喋りまくり、自分が見苦しいこ とをしているという自覚がまったくない。礼儀作法についてきちんと説明できるにもかかわらず、自 分がそれに違反する行為をしていることには気づかない。眼窩前頭皮質を損傷すると、「表の道」が 「裏の道」を指導監督できなくなってしまうのだ。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.117)

さまざまなコマーシャル、不安と欲望に満ちた世界で、前頭葉を働かせなかったら、消費文化はどんどん加速していくでしょう。ひとりひとりの人間性が、社会をつくっていきます。

消費を促す組織は、前頭前野を黙らせて、「裏の道」を強くする作戦をとっているのですから。

安冨 歩「東大話法」みんな大好き立場主義から心の健康を守るには?

原発危機と東大話法

『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩

 

安冨歩さんの本は「生きるための経済学」をきっかけにいくつか読んでいた。
安冨歩『生きるための経済学』シジョウとイチバ

で、最近youtubeでもいろいろしゃべってくれていて、勉強になる。
安冨さんは学者というより、本当に本当の事実、真実を追う研究者であり、芸術家でもある。
東京に行ったらばったり会いたい人です笑

言葉のレッスンに力をいれている、というよりメタスキルに力を入れている、心を大事にするオトノネとだだガブリな思想?をもっている安冨さん。

名刺の抽象性、名詞のもつチカラをブログに書いたことがあるが、それを歴史的な事件にまで広げてくれるとは。。。

 

言葉の力

子路は言った。「衛の君主が先生に政治をさせたとしましょう。先生はまず何をなさいますか」
先生は言った。「必ずや、名を正す」
子路は言った。「これだから、先生は迂遠だ」

「子路」というのは孔子の弟子の名前で、「衛」というのは国の名前です。子路は「先生は迂遠だ」と行っていますが、もちろん、迂遠ではないのです。何か大変な危機的事態になっている時、最も恐ろしいことは、人々が欺瞞的な言葉を使うことです。

たとえば日本は、戦争に負けそうになって、毎日、B29が飛来してナパーム弾を落としている時に、「日本は神の国だから負けない」という言葉を振り回していたので、自体をどうすることもできませんでした。降伏することすらできなかったのです。自体をなんとかするためには、「このままでは確実に負けて、国土が焦土になる」という自体を反映した言葉で施工し、行動しなければなりませんでした。

しかしそれをすることは、当時の政府の枢要な地位にあった人々にはできませんでした。そのために自体はどんどん悪化し、沖縄で膨大な犠牲者を出し、東京が焦土となり、二発の原爆を投下され、それでも戦争をやめられませんでした。最後に「日ソ不可侵条約」という紙切れ一枚を根拠に、友好国だと勝手に思い込んでいたソ連が参戦して、満州国に新ニュしてきたことで、ようやく幻想が剥がれ落ちました。そこで「国体護持」という言葉が見出され、日本は本土決戦の前に、かろうじて降伏することができたのです。なぜそんなに降伏するのが怖かったのかというと、「鬼畜米英」という相手に貼ったレッテルを、自分で新んじて「降伏したら全員殺される」と思ってしまったから、と言う側面があったと思います。

そもそも、そういう「危機」を生み出すのが、この言葉の歪みです。自らの国のあり方や、国力や、軍事力について、正確な言葉を用いなくなったことで、この国は暴走し、あの愚かで無意味な戦争に突入してしまったのです。言葉が歪むことで、人々が事実から目を背け、事実でないものに対処することで、全ての行動が無駄になり、無駄どころか事態を悪化させます。そして正しい言葉を使おうとするものは「非国民」扱いされ、口を封じられ、それでも封じないと殺されました。こう言うことが続くことで、表面上の平穏が維持され、やがて暴走が始まり、最後に破綻したのです。

(略)

これが「名を正す」ということの力です。孔子はそれうえ、「必ずや、名を正す」と言ったのです。名を正さないことには、何も始められないからです。

とはいえ、正しく言葉を使うことは、大変、勇気のいることです。たとえば、家庭でも、夫婦仲が悪くなっているというのに、「夫婦なんて、どこだって、こんなもんだ」ということにして、「夫婦仲が悪い」という言葉を出さないでいることにより、果てしない欺瞞と隠蔽とが生じ、困難と苦悩とが生まれます。それは夫婦のみならず、家族全員を窒息させてしまいます。

あるいは会社でも、こんなことをやっていたらいつまでも続くわけがない、とだれもが思っている事業が、いつまでも続けられるケースが多いのですどうしても、「これではだめだ」と言うことができず、無意味な労働と資源の浪費が続き、挙げ句の果てに会社が危機に落ちいぅてしまうのです。

それがどんなにつらくてひどいことであっても、事実にふさわしい言葉が用いられることにより、人間は事実に向かって対応することが可能となります。この勇気さえ持てるなら、人間は自体を乗り越えていく知恵を出すことが可能となるのです。その時、自体は好転し始めます。そればかりか、「危機」は新たなる「機会」へと変貌します。これが「名を正す」ということの意味です。(p.36)

学校という魔王の使う言葉、暴力、もしくは会社でのそれをそのまま「黙認」する、言葉にしない、無責任を取る(爆)ことで暴走が止まらない状況がある。それは「合格実績」だとか「大学」だとか「学歴」だとか「上場会社」とかいろんな言葉の物語を支えている。沈黙が、日本を支えている。
子どもが沈黙する、日本の言語環境。空気読む(言葉が育たない)文化??
大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。
言いたいことが言えない。

「発達障害」「ウィスク」「遅れ」「学校」「支援級」「通常級」「いじめ」「保護者」「先生」「不登校」「生徒」そんな言葉の一つ一つが、呪いの言葉としてしか使われていない現状がある。一体、その言葉は、何を指し示しているのか、わけがわからない。

「いじめ」についても僕はブログで書いている。
「発達障害」についても書いている。
「不登校」についても書いている。
「合格実績」についても。

だが、だがしかしだ笑
多くの記事を読んでもらっているのに、反応がないし、届かないらしい。
言葉というのは、そういうものだ。と、諦め、られないのが、僕だ笑

僕の言葉の使い方は、まだ弱いのだ。
と、反省しながらも。

言葉の重み(俳優と演出家の役割)
困っているけど声を出せないお母さんなう

どうしたものかな?とおもいながら、ちょっと試してみたいことがあったりする。
(お楽しみに!)

まぁなんにせよ呪詛の強さに驚く。

「自然(自由)」と言うことについても書いている。
「子育て」と言うことについても書いている。
「責任」と言う言葉についても書いている。
「大人の宿題」と言う言葉についても書いている笑

ブログのカテゴリーに「言葉の玉手箱」を作ったのも、現実を知るために言葉を改めなくては、新しい言葉を作らなくてはいけないと思ったからだ。
本来、それは詩人の役割だった。
詩人はどこに行ったのか?キャッチコピーを考えて商品を売る魔王の手先になっってしまった。

この点、安冨さんも詩人だろうと僕はおもう。

宿題をやらないだけで、非国民扱いされる、学校はまだまだ戦争状態だ。日本はまだ、いまだに、戦時を生きている。

魔界の言語

仮面ライダー新1号のオープニング主題歌の後には、

かめんらいだー本郷猛は改造人間である。彼を改造したショッカーは、世界制覇を企む悪の秘密結社である。仮面ライダーは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ!

という、私が子ども時代にしびれたナレーションが入っていますが、仮面ライダー・小出裕章も改造人間です。原子力村ショッカーが大学や大学院でいろいろ教え込んで、小出さんを改造したのですから。仮面ライダー・本郷猛が、精神まで改造される前に逃げ出し、ショッカーによって改造された身体を武器に戦っているのと同じように、小出さんはわずかの仲間とともに人間の自由のために原子力ムラと戦っています。小出さんもライダーも、ショッカーや原子力ムラが次々に繰り出してくる「怪人」と戦い続けていますが決して傷つかず、倒れません。

石森章太郎は、「世界がショッカーに支配されかかっており、人間の自由を守るには、一人一人が仮面ライダーとなって戦い続けるしかない!」という驚くべき真実を、当時の子どもたち(すでに私のように中年になっていますが)に伝えようとしていたのだと私は考えています。こんなことを大真面目に書くと、頭がおかしいのではないか、と思われるでしょう。それは覚悟の上です。私も、以前はこんな風には考えていませんでした。私が考えを改めたのは、東京大学に就職してからです。それも、しばらくはそんな風には考えなかったのですが、何年かの間、いろいろと奇妙で不愉快で悲しい体験を繰り返すうちに、ある時、ハタと、

「東大って、ショッカー?!」

と思った瞬間に、一挙に多くのことが理解できるようになったのです。それで考えが変わりました。それから東大で生きるのが、随分と楽になりました。それ以来、「東大=ショッカー」説をあちこちではなしていたのですが、みなさん面白がってはくれるのですが、本気にはしてくれませんでした。しかしそれでも負けずに話していたところ、今回の原発事故が起きたのです。すると、ある精神科医の友人が、

安冨さんが東大について行っていたことは、面白いなと思っていたけれど、やはりお袈裟に行っているのだと思っていたんです。でも、原発事故で東大の人がテレビにたくさん出てきて、むちゃくちゃなことを行っているのをみて、「ああ、本当だったんだ」と思いました。特に、ネットで大橋教授という人の話す様子を見て、「こんなにも純粋の悪意を持った人間が、実在するんだ」とショックを受けました。それで、やっと本当だとわかりました。

と言ってくれました。(p.88)

僕は実はこの本を今読んだばかりで、ショッカーという言葉も今、なるほどなとおもった。

その前に、ラジオ番組で、話の最後にシューベルトの「魔王」が流された時、ああ、魔王ってたくさんいるよな。魔王に囲まれて僕らは暮らしているよなとおもった。

僕は純粋な悪、というもの、笑顔で近づいてきてさも正しいようなことをにこやかに喋りナイフで刺してくる人とたくさん出会ってきたので「魔王」の甘いささやきに覚えがあったのです。

それは学校の先生だったり、塾の経営者だったり、保護者だったり、会社員だったり、それこそ、道端で出会う人であったり。

「純粋の悪意を持った人間が、実在する」

しかもすぐ近くにいる。
その事実を、事実として認められますか。

そしてそういう人が役職のトップになる世の中だということを、認められますか。
(その傾向はパーソナリティー特性の本でも書いてあった)
『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ

僕は、「魔王」という言葉で理解したものを、安冨さんは「ショッカー」という言葉で理解していた。
言語は違ったけれども、同じものを指している。僕は「魔王」は弾いたこともあったし身近だったが、仮面ライダーには疎かった笑

言葉をつくる。
事実を表す言葉を使う。
事実を認識していく。

そうして、心ができていく。

「東大って、ショッカー?!」と思った瞬間に、一挙に多くのことが理解できるようになったのです。それで考えが変わりました。それから東大で生きるのが、随分と楽になりました。

と書いているのは、本当のことだとおもいます。「知る」ということが、「心」をつくるためには必要だからです。
「見えない」「感じない」のでは、どうして心がつくれるでしょうか。(それが多くの子どもたちの状況だとおもうと、悲しくなります)

で、世の中にたくさんいるショッカー(魔王)たちの使う欺瞞の言語に「東大話法」と安冨さんは名前をつけました。
新しい言葉をつくりましたー!

その言語を生み出した文化は、

徹底的に不誠実で自己中心的でありながら、
抜群のバランス感覚で人々の好印象を維持し、
高速事務処理能力で不誠実さを隠蔽する。(p.114)

こと、だそうです。

これは東大に限らない、日本のいたるところでみられる文化だと、すぐにわかりますか。
思い当たる節が、多々あるように、おもいます笑

 

「言葉」は「心」

東大が憎いからと言って、東大を解体しても、無駄なのです。東大を潰せば、京大か慶応か早稲田か知りませんが、どこか他の大学がその機能を担って「東大化」するばかりです。必要なことは、「東大話法」に代表されるような、日本社会に蔓延する欺瞞話法を鋭く見ぬ浮くことです。他の人が仕掛けてくる「東大話法」を感知して、騙されないことです。これは自分自身を例外にしてできるものではありません。ここの人が、自らの中の「東大話法」を見出して取り除くことに努力せねばならず、そうすることではじめて、他人の欺瞞も見抜けるようになります。自分は欺瞞話法を駆使しつつ、他人の欺瞞話法を見抜くというのは、無理な相談だからです。そうやって多くの人が「免疫」を作動させれば、東大関係者も「東大話法」などを振り回せなくなり、真摯な思考に向かって一歩踏み出すことが可能となります。「東大話法」は東大だけが作り出しているのではありません。東大話法を振り回されていると恐れ入って感心したり、納得したりする人もまた、重要な加担者です。東大という権威をもっ東大話法を話せば、多くの人が納得し、その納得がまた東大の権威をも違える、というう相互依存構造になっているのだと私はかんえてています。単に相互依存しているばかりではありません東大話法を振り回せr多人が、畏れ入ってしまうと、今度はその人に東大話法が侵入してしまいます。かくてその人が今度は、別の人に東大話法を振り回します。それは単に言葉遣いがうつるというばかりではなく、その欺瞞的精神の作動そのものの感染です。誰かが東大話法を振り回し、誰かがそれに恐れ入ると、それが東大話法の話者を生み出し、その話者がまた東大話法を振り回し、さらに東大話法の話者を生み出します。人々が麺系を作動させないでいる限り、こうやって東大話法が鼠算式に自己増殖するのです。この自己増殖を放置すれば、あっという間に、社会全体が東大話法に感染します。

ですから、私が本書の読者にお願いしたいことは、東大話法を使っている人を見たら、感心して納得するのではなく、「これは東大話法だ!」とはっきりと認識して、笑っていただきたい。ということです。人々が東大話法を聞くたびに、納得するのではなく、笑っていただければ、東大話法を維持している相互依存関係は崩壊します。(p.192)

悪口、非難の文体をもった言葉がネット上で溢れている。
「やめろ!」「不正だ!」という人たちは、例えば「東大が潰れたあとで別の東大がでてくる」ことをわかっていない。政権が変われば日本はよくなる、と考えているのだろうか。

いやもちろん、自民公明党が調子乗りすぎだから止めた方がいいのは正しいとおもうが、その先が、ない。政権を握った途端に、ナポレオン化するだろう。これは日本の言語文化の問題なのだ、精神文化、心の問題なのだと、安冨さんはいっているのだろうし、僕もそうおもう。

けど現実は、自分の問題として、誰かのせいにする人が多い。
僕自身が、大切なことをまだ自分ごととしてみれていないことがある。

大人が子ども時代にやり残した宿題を、誰かに押し付けている。
それが、「自然」な世の中で、笑おうとしている子どもたちを僕は尊敬してしまう。

一人一人が「言葉」を正して生きていく。
東大話法が溢れた「自然」の中で、欺瞞の心に感染されないように「健康」でいることが大切なのだと。
そのために「鼻で笑いましょう」と言っている。

ということは、ほとんどの人間と、話ができずに、鼻で笑う関係になってしまうだろう。
笑い合う人が増えるというのだから、いいものかもしれない。

「欺瞞」を生み出す立場主義

安冨さんは、「職」「役」「家」そして「立場」という言葉を検討する。

「職」は大化の改新で「氏」の連合体を天皇中心で中央集権させ官僚体制をつくるための仕組みであった。
例えば焼き物を作る「職」を担っていた土師氏という「氏」という単位が、平安末期には藤原家といった「家」に移行していった。

中世末期から近世初期にかけて、戦国大名は「職」ではなく「役」の体系を作り上げた。
「役」という言葉が、つくられた。
武士には「軍役」が課された。農民には「百姓の役」が課された。

で、

「役」は「家」と並行して成立したようです。

「氏」という大きな組織が「家」という小さな組織に再編成され、それに伴って「職」という言葉は「役」という言葉に変わった。

うーんちょっと掴みかねるので引用しておきます。

とおもったけど打ち込む元気がないことに気づきました。。

「家業」をすることで「家」は「役」を果たすことになり、「家業」が崩壊すれば、「役」を担えず、「家」は「立場」を失う。

ん?家業って、役なの?

 

「立場主義」という文化としての学校

このように「役」という概念は、日本社会の根底を支える哲学なのです。この「役の体系」は現代社会にも大きな影響を与えています。それは「役場」「役所」「役人」「重役」「取締役」「役員」「役者」「役割」「役得」「役回り」「役立たず」といった用語を見れば明らかでしょう。ここから先は私の考えなのですが、少なくとも現代日本社会においては、「役」がその背後にある「立場」と密接に相互作用している、と思います。つまり、

役を果たせば、立場が守られる。
立場には、役が付随する。
役を果たせなければ、立場を失う。

この原理は、国家体制と無関係なところでも明確に作動していきます

たとえば現代日本の企業がそうです。現代日本社会では、個人の自由が憲法で保証されているはずですが、
企業の中ではそんなものは、そう簡単にはつううよううしません、地涌石で就職し、自由意志で勤務しているはずなのですが、尾藤さんのいうような「企業の一員としての自覚に基づき、その責任を主体的に担おうとする」というような「誇りある」ことにはなかなかならないのです。

なんだか知らないけれど、いろいろな事情で自分にある役が回ってきて、その役を担っているという立場上、その役を果たさないと自分の立場がなくなってしまうので、その恐ろしさのあまり、身を粉にして役を果たす、という感じです。そうやって私が必死で立場を守るべく役を果たすことで、私の上司や動力も立場を守ることができて、その上司や同僚もまた必死で立場を守るべく役を果たすために頑張ることで、私の立場も守られます。

そういう立場と役との相互依存関係の巨大なネットワークが形成されていて、それが全員の必死の努力でかろうじて維持されているように見えますもしも誰かがどこかで「わがまま」を言って役を果たさないと、そこに穴が空き、そのほころびが急激に拡大して大穴となってしまい、周囲に大変な迷惑をかけるように思えるのです。しかし、そのネットワークの全体が、いったいどこに向かっているのか、自分の果たしている役が、いったいその全体とどういう関係にあるのかは、もはやサッパリわかりませんただひたすら、役を果たして立場を守っていれば、なぜか給料が振り込まれ、一定期間にわたってそれを続けていれば、どういうわけか昇進するのです。(p.221)

僕は軽く笑ってしまった。

親という立場と子どもという立場も同じじゃないかと。
多くの狂ったお母さんが、子どもをこういう関係に追いやっている。それと同じじゃないかと。
子どもは子どもという立場で、お母さんはお母さんという立場で。
お互いのメンツをかけて、依存しあっている。

立場を守るために役をつくる。役を作るために、、、いらない仕事を作る。
これは天下りの仕組みだし、立場をより強固なものにする仕組みでもある。
(本の中ではこの後に、原子力関係の「法人」がどれだけたくさんの「立場」の人間の天下り先になっているかを説明している。具体的に笑)

原発は、天下り先をつくるために、ある。
という事実をみんな知っているんだろうか。

最近の大学入試の外部なんちゃらに英検が入っているのも、文科省主催の全国学力テストも、英語の必須化、プログラミングのうんちゃらも、天下り先を増やす、立場を守るために役をたくさんつくっている、いらない仕事を作っているだけだということを、教師が知らない世の中だ。現実を知らない人間から何を教わっているのか??そうそう、先生と生徒という立場を教わる。

「立場」という戦時の文化を学ぶのが、学校だ。
と、はっきり言ってしまえそうだ。

そうすると学校の東大話法はあっさりと理解できる。

大学入試改革も、天下り先をつくるためにやった。
という事実をみんな知っているんだろうか。

僕らはただ欺瞞の言葉で語りかけられているにすぎない。
欺瞞に埋め尽くされている世の中で、頭がおかしくなるのが「自然」だろう。

もう声も届かない。
なのに。
発狂してしまったことを東大話法で隠蔽するお母さんもいる。

「この子には、自由を与えています」

虚しい。

 

言葉を正す

母親という立場を守るために、子どもという立場をつくりあげ子どもという役を与えて、子どもという仕事をさせるのは、もうやめませんか。
というのがオトノネの考えです。

学校という立場を守るために、生徒という立場をつくりあげ生徒という役を与えて、生徒という仕事をさせる学校から子どもを守りませんか。
というのがオトノネの考えです。

国という立場を守るために、国民という立場をつくりあげ国民という役を与えて、国民という仕事をさせる国から子どもを守りませんか。
というのがオトノネの考えです。

どうするかって?
言葉を正すことです。

鼻で笑う「強さ」を

最後に、どれだけ日本の多くの人が、「立場」に頼って生きているかがわかる話を引用します。
この話は衝撃でした。

これは家庭の中でも、会社の中でも、ママ友同士でも、どこでもありうることですね。

お子さんを守るために、福島市から関西に逃げられた方にお伺いした話では、放射能を恐れて非難するのは「非国民扱い」であり、夜逃げするようにしてスーツケース一つで、誰にも見送られずにきた、とのことでした。多くの人が山下教授の見解を信じており、それに疑いを挟む話をすることすら、憚れる状態だ、とのことです。

その方のお考えでは、福島県では、地元社会の束縛を嫌う人は、すでにほとんど出払っていて、残っている人々は、この近世以来のシステムに依拠する人々だとのことでした。そうすると、影響があるのかないのこあわからないような、しかも権力や権威が「影響はない」と言っている放射性物質を恐れて、「役」を捨てて逃げるというのは、決して許されることではない、というのです。

このような態度は、尾藤正英さんのおっしゃる「役の体系」を前提として考えれば、よく理解できます。日本の近世社会は地域集団と土地とが深く結びついており、ムラが土地を捨てて移動することは、ほぼあり得ないことでした。役の体系も、この住民と土地との結びつきを前提として形成されていました。それは、福島県だけの話ではないのです。東京でも同じことでした。ある関西在住の私の知り合いは、原発が爆発する前に、関東に嫁いでいた妹を、家族ごと非難させていました。ところがしばらくすると、原発が爆発したばかりだというのに妹が帰るというのです。驚いて理由を聞くと、

「ゴミ当番が回ってくるから」

というのでした日本の近隣社会で、ゴミ当番などの「役」を果たさないと、どれほど恐ろしい制裁を受けるかを、みにしみて感じている主婦が、このような判断をするのは、ある意味、当然なのです。放射性物質が大量に降り注いだ地域でも、「ゴミ当番」のために避難を諦めた人は、たくさんいるはずです。(p.235)

近世を生きている、もしくは戦時を生きている人たちが、富山県にも大勢いる。
それが、日本という土地に生きてきた人たちの積み上げた歴史の姿なのかとおもう。

マッカーサーが、「日本人は10歳だ」といったのも、わかる気がする。
それは悪口でもなんでもなく、西欧文化でいうところの「個」が自立できない土壌が、日本にはある、という事実を表現しているのだとおもう。

こんな現実、事実を知ると、心が揺らいでしまう。危ない危ない。心のシステムがしっかりしていなかったら、絶望してしまうだろう。
【ヒトラーに告ぐ】学び(知)の危うさ。だから、心が大事。知と心の違い。

だから、みんなショッカー(魔王)になっちゃんだけどね。
絶望して、ウルトラマンは、最近、闇落ちするらしいね。(子どもが教えてくれました)
ウルトラマンもショッカーの方にいっちゃう世の中だよ。

心が大事。

さてさて、僕も、鼻で笑う練習をしようかな笑

ーーーー

追記『合理的な神秘主義』p.287に
「官僚的」と呼ばれる性質について説明で、
「生存の不安からくる確実性や厳密性への渇望といった鬼気迫るものではなく、他人からとやかく言われないため、より端的にいえば「叱られない」ためのものであって、手続き的厳密性・整合性・隠蔽性に傾斜している」。

と書いてあった。

「叱られない」ため、というところが、腑に落ちた。

===

ここまで書いてきて、思うことがある。

東大話法という言語話者と、そうでない人がいるこの国で、二人はどのように生きていけるのか。
鼻で笑ったら、相手にされなかったら、東大話者はたぶん面食らってしまう。

言語環境、文化が違いすぎて、話にならない。
異なる文化の人間が混ざっている。

別にどちらかが正しい、というわけではない。
東大話者が大多数を占めており、息苦しい社会で、どちらの言語を習得させるか。どちらの文化を体得させるか。
子育てでは、その選択をまず、なによりも先にしておくといいのかもしれません。

学校では、東大話法を学びます。
地域でも、東大話法を学びます。
家庭で東大話法を使えば、その子は東大話法しか使えなくなるでしょう。

徹底的に不誠実で自己中心的でありながら、
抜群のバランス感覚で人々の好印象を維持し、
高速事務処理能力で不誠実さを隠蔽する。(p.114)

お子さんにこのような人になってほしいなら、そのように育てる、ということです。

「小さなガンジー」たちは、「僕は、私は東大話法なんて喋らないからね。東大話法に洗脳されたくないからね」と言っている子なので、お母さん自身の言語環境(心)を変えた方がいいのかもしれません。

話が通じないけど、別にどちらが悪いとかでもない。相手は「純粋の悪意を持った人間」です。
そういう異質な人が集まっているという認識が欠けている人たちが、東大話者だとしたら(自己中心的だからきっとそうだろう)、それこそ、少数派の人は大多数の東大話者の暴力から自分の身を守る心のしくみをつくったらいいのでしょう。

へらへらと、笑ってしまおう。

暴力に屈しない。
流れるようにー

さらさらさらーーー

自動思考を変えるには?ストレスを減らすか前頭葉をフルに使うか。

進化的に古い脳、大脳辺縁系の扁桃体は「好き嫌い」を決める場所でした。扁桃体は幼児期に「基礎」が作られており、前頭葉よりも早く「とりあえず完成」する。

では、扁桃体レベルで、「好き嫌い」が変わるか。

大人になって「嫌い」が「好き」になった経験、「好き」が「嫌い」になった経験はありますか?

固定観念、偏見は「学習」によって変わるらしいのです。

朗報でしょうか。

固定観念を修正するための単純な実験を見てみよう。黒人に対して潜在的偏向をもっている人たち に、ビル・コスビーやマーティン・ルーサー・キングのような多くの人々から尊敬されている黒人の 写真を見せ、一方で、連続殺人犯ジェフリー・ダーマーのように人々に嫌悪されている白人の写真を 見せる。実験は短時間で、一五分間に四〇枚 写真が提示される。

扁桃体にこのようなごく短時間の教育をおこなっただけで、被験者の潜在的偏向の測定結果に劇的 な変化があらわれた。無意識に抱いていた反黒人的姿勢が消えたのである。しかも、二四時間後に再検査しても、この変化は維持されていた。偏見の標的にされている集団の中から皆の尊敬を集めてい る人物を選んで強化療法(あるいは人気テレビ番組)に頻繁に登場させたとしたら、こうした変化は そのまま定着するだろう。扁桃体はつねに学習を続けており、偏向にとらわれたらそれきり、という ものではない。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.444)

自動思考を超えること、新しい経験を心を開いて受け止めることは「変わる」ために大切なことです。

そのためには前頭前野の働きで「気づく」かどうか、にかかっていますが、「共感」によってつまり「裏の道」をつかって自動思考を変えることだってできます。

新しい癖、新しい習慣をつけていくには、やはり、心を知り、心を大事にすることが何よりも、大切です。

この記事のまとめ

自動思考を変えるには、まず、別の回路をつくりましょう。

思考の悪循環を変える方法

前頭葉、思考は情動をマネジメントする。

が、思考によって情動が「暴走する」こともある。情動の氾濫を止めるはずの前頭葉が、逆に情動の流れを加速させてしまう。

次の例は、夫婦の喧嘩。

子供たちが騒々しく走り回っていて、父親のマーティンはいらいらしている。マーティンは妻 のメラニーに向かって棘のある口調で言う。「子供たちを少し静かにさせられないのか?」 マーティンの本心は、こうだ。「メラニーは子供を甘やかしすぎる」。 夫の怒りに反応して、メラニーの中にも怒りがわいてくる。表情をひきつらせ、眉根にしわを 寄せて言い返す。「楽しくやってるんだからいいじゃないの。どうせ、もうすぐ寝る時間なんだし」。

メラニーの本心――「また文句言いはじめた。いつもこれなんだから、嫌になるわ」。 いまやマーティンは怒りをあらわにしている。メラニーを威嚇するかのように身をのりだし、 両のこぶしを固く握って、いらいらした声で言う。「俺が寝かしつければいいのか?」

マーティンの本心――「あいつは何かというと俺にたてつく。俺が主導権を取らなくては」。 マーティンの様子を見てぎょっとしたメラニーは、おとなしく言う。「いいえ、私が寝かしつ けてくるわ、今すぐ」。

メラニーの本心――「この人、手に負えなくなりかけてる。子供にけがでもさせると大変だか ら、ここは私が譲っておこう」。

この会話例―言葉のやりとりと内心の本音と―は、認知療法の創始者アーロン・ベックが 結婚生活をだめにする思考例として報告しているものだ。メラニーとマーティンの感情的な口論 の背景には彼らの思考がある。そして、その思考はもう一段深いレベルの「自動思考」(ベック の言葉)によって決定されている。「自動思考」とは自分自身や自分の人生にかかわる人々につ いて瞬間的に脳裏にうかぶ仮定的背景のようなもので、そこには深層に存在する心的態度が反映 されている。メラニーの思考の背景にあるのは「彼はいつも怒って私を脅す」という自動思考 だ。マーティンの頭の中にあるのは「彼女には俺をこんなふうに扱う権利はない」という自動思 考だ。メラニーは、自分自身を結婚生活の罪なき犠牲者のように感じている。マーティンは、不当な扱い(と自分で思っている)に対して腹を立てるのは当然だと感じている。

自分は罪もないのに犠牲になっている、あるいは、自分の怒りは正当である、といった思考は うまくいっていない夫婦間でよく見られる思い込みで、怒りや傷ついた気持ちをますます煽りた てる。自分の怒りは正当だという考えが自動的に頭に浮かぶようになってしまうと、思い込みは どんどん激しくなっていく。自分が犠牲にされていると思っているほうは相手のやることなすこ とすべてをそういう目で見るようになり、思い込みをくつがえすような相手の親切な行為を認め ようとしなくなる。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.210)

EQを高めるには??

自動思考を改める、というのではハードルが高すぎて飛び越えることができそうにない。

1歳児の「情動マネジメント」と同じで、まず「プラス」の感情で二人が居られる状況を深めていくといい。二人がイライラする問題、ではなく、二人が楽しめる状況を作る過程ででてくるイザコザを、前向きにマネジメントしていくことが大切だ。

お互いに共感する能力を使う場面を増やすことで、喧嘩をするにしても「健全な喧嘩」ができるようになるだろう。不一致があって当たり前。じゃぁどうするか?「簡単な問題」からやっていく。

もし「悪循環」の喧嘩になりそうになったら、、、とりあえず、お互いのために「ストップをかける」という約束をしたらいいだろう。自分の感情の状態を監視する能力は基礎の基礎。一呼吸入れて、優しい口調で「今、イライラしていてどうしようもない。あなたもイライラしているかもしれないけど、今話すのはやめましょう」と言えるだろうか。

「べきねば」教!しつけがオキシトシン受容体を減らす可能性

マインドセット経済は「競争」では繁栄しない

トップダウン型「べきねば」抑圧アプローチ

母は私を生む前には修道女だっ た。母はロレット修道会で4年間過ごしており、私はラテン語のミサに出たり、香を嗅ぎながらミサ で司祭を助ける侍者を何年も務めたり、白手袋をはめた手で部屋の汚れを検査されたりする子ども時 代を送ったので、人間はみな罪を背負って生まれ、卑しい情―私たちが道を踏み外さないように、 きつく抑え込み、容赦なく統制しなければならない情に突き動かされていると思い込み、それ 何の疑いも抱いていなかった。 「母の見方は、人間の性質を支配する古典的なアプローチであり、西洋の歴史を通じて強い影響力を 揮ってきた「汝~すべし」「汝~するなかれ」といった規則だらけの、トップダウン型のアプローチ だった。母は、たえず罰の脅威にさらされていないかぎり、無私の道徳的な行動は不可能だという仮 定に基づいて子育てをした。彼女にとっては、罰は恐ろしければ恐ろしいほどよかった。そうだ、ヒ エロニムス・ボスの地獄絵図でも思い浮かべたらいい。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.31)

「べきねば」抑圧アプローチは理性で人間性を抑え込む

世俗の哲学者の大半は、人間の自然の傾向について教会がとっていた陰鬱な見方にとてもよく似た 見方を堅持し、私たちに正しいふるまいをさせるために、やはり教会と同じようなトップダウン型の アプローチをとった。唯一の違いは、教会が怒れる神の脅しで人間を屈服させたのに対して、哲学者 は抑制を押しつけようと奮闘する力として、人間の理性を考えていた点だ。プラトンは、肉体を元気のいい馬になぞらえ、その野生的・動物的な衝動を心が御者として操ろうとしているところを描いた。 2000年後、純粋理性はドイツの哲学者イマヌエル・カントという、なおさら熱烈な擁護者を得た。

カントの見るところ、私たちに人間性と自由を与えるものは一つしかなく、それは理性によって考 案し、自らに与えた規則に沿って行動することだった。そうした規則のうちでもっとも根本的なのは、 「善に行き着くには、自分の行動が普遍的な法になるとしたらとるような行動を、つねにとらなけれ ばならない」というもので、これをカントは「定言命法」と呼んだ。

だがカントの「純粋理性」はあくまで純粋だったため、彼はいかなる行為であれ真に道徳的である には、道徳律のためにだけなされなければならないと主張したので、脱線した嫌いがある。道徳にか なうのが気持ちがいいので道徳的に行動したなら、それは価値がないというのだ。そして、結果が うあろうと、例外はない。嘘をつくのが普遍的な法に違反するのなら、ぜったいに嘘をついてはなら ない。たとえ精神に異常を来した殺人者があなたの友人を狙っていて、ほんとうの居場所を教えたら その友人が殺されてしまうときにさえ、だめなのだ。

このような「純粋な」論法はいささか冷酷で、実際的でないかもしれないが、それはたいていのト ップダウン型のアプローチに伴う多くの問題の一つにすぎない。宗教的な教えに頼る、私の母のも のようなトップダウン型のアプローチは、世界にはおよそ4000もの異なる宗教があるという明 な事実にぶち当たる。(『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.48)

抽象的な「べき」「ねば」、「競争」志向が共感を低める

すでに述べたとおり、優生学からくる人種差別主義の概念であろうと、「合理的利己主義」のよう な一見穏やかなものであろうと、抽象的な考えは、共感を、そしてそれとともに道徳的な判断力を損 ないかねない。コーネル大学の経済学者ロバート・フランクが明らかにしたところによると、「自己利益」という考えが学問の中心となる経済学を専攻する学生は、1年から4年へと学年が上がるにつ れて、実験で人を信頼したり寛大な態度をとったりする度合いが減るという。ほかのどの学問分野で も、学生の行動に対するこの反社会的な(もっとよい言葉がなくて申し訳ない)影響は見られない。

ここでまた、自己利益にまつわるアダム・スミスのもともとの考えが思い出される。この考えは曲 解され、その後経済研究の構造に織り込まれ、その結果、私たちのビジネス文化の大半にも織り込ま れ、勝者総取りの姿勢を作り出すのを助けてきたのだった。この姿勢は、長期的な繁栄にも社会の幸 福にも貢献しない。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.186)

「べきねば教」は「常識」という神を祀る宗教である。

全知全能の神がいれば、社会は懲罰を外部に委託することができた。「罰を下しているのは 神だ……私だけではない」と言えるので、罰したいのはやまやまでも、かかわりあいにならずにその 日その日を生き抜いていきたいと思う人全員のプレッシャーがいくらか軽減される。神を登場させれ ば、懲罰を上方に委託することもできる。この全知の神は少し恐ろしいだけでなく、その恐怖要因は、 正しいことをしなさいというメッセージを強め、それを内在化するのにひと役買う。結局、神から隠 れられるところはないからだ。神はどこにでもいてすべてお見通しなので、罪を犯した人はいつかは 報いを受けることになる。たとえ今、殺人の罪からうまく逃げおおせているように思えても。 「どんなかたちであろうと、見られているという自覚を持たせておいたほうが、人は善い行動をする ことが研究からわかっている。十戒を表示する、コンピューター端末上に目を表示する、ゲームをし ている子どもに魔法のアリス姫が見ていると言う、あるいは亡くなった大学院生の霊が研究室に出没(『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.215)

ストレスでオキシトシンは出なくなる

他人の苦悩を目にすると、私たちは注意を惹かれ、 相手の経験していることの一部を経験する。それがオ キシトシンの分泌につながりうるが、自分自身の苦悩が特定の閾値を超えているとそうはならない。自分が 非常な苦境に立たされたときには、時間と資源を投資 して他人を助ける余裕はあまりないものと自然は想定 している。ストレス・レベルが高いとオキシトシンの 分泌が妨げられる。自分自身が生死の淵に追い込まれ ている人にとって、たいていの場合、オキシトシンは 二重の意味で不適切だ。オキシトシンは、必死に生き 延びようとするときには邪魔になりかねない共感的な 気遣い(思いやり)をかき立てるばかりか、不安が伝 わって調整される脳の部位である扁桃体の働きも鈍ら せてしまう。

(略)

とはいえ自然は、このようなオキシトシンを原動力とする生理的反応に、多少の道徳的判断も組み 込んだ。私たちは子どもやかわいい動物は進んで助ける。一つには、何が原因で困っていようと、彼 らのせいではないのがわかっているからだ。相手がホームレスの大人や薬物常用者となると、私たち はそこまで情け深く寛容にはなりづらい。一部の人にしてみれば、10代の女の子が妊娠したら、やは り冷たくあしらって当然となる。自業自得というわけだ。 助けるかわりにこのように非難する傾向には、前頭前皮質の「膝下野」と呼ばれる部位がひと役買っている。この部位にはオキシトシンの受容体がたっぷりあり、HOME回路におけるドーパミンの 分泌を調整することで共感の度合いを調節しているようだ。ドーパミンが出ないというのは、他者と 関与しても報酬が与えられないことを意味し、したがって、私たちが共感して手を差し伸べる可能性 は低くなる。

このように、ここでもオキシトシンが自己と他者、信頼と不信、接近と回避のバランスを維持して いる。脳がオキシトシンを分泌すると、そのバランスが共感の方向に移り、私たちは資源を提供して 他者を助ける。急増したオキシトシンが消えると、共感の感情を抜け出して、HOME回路がリセッ トされ、次に起こる相互作用を評価する準備が整う。テストステロンなどの懲罰を促進する要因が主 導権を握ると、私たちは進んで命綱ではなく石を投げる。

だが、肝心の疑問が残っている。なぜ自然選択は私たちを思いやりのある行動に向かわせたのだろ う? そのような行動は、少なくとも短期的には、自分にとって不利にしか見えないのだが。なにし ろ、割を食う羽目になるのはいつも善人と相場が決まっているのではなかったか?(『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.107)

トラウマが扁桃体のオキシトシン受容体を破壊する:共感できない体

動物は極度のネグレクトや虐待に遭うと、ほかの個体との関係を築く生理的作用(オキシトシンが 分泌されることで可能になる)が停止してしまうことがある。私はクリニックを訪れ、信頼ゲームを 使って、人間でも同様の結果になるという証拠が得られるかどうかを確かめてみた。

最初に調べたのは9歳のアリシアという患者で、2歳のときから義父に繰り返しレイプされた。足 に身体的な欠陥が何もなかったにもかかわらず、車椅子でやってきた。医師たちが立ってみるように 励ますと立ちあがり、足を引きずりながら動くことができたが、本人は自分の足がすっかり麻痺して いると信じ込んでいた。

アリシアは痛ましいほど調子が悪そうだった。血液採取のときには、首をうなだれたままで、目を 合わせようとしない。それでも彼女は協力を惜しまず、信頼ゲームをきちんとこなした。だがプレイ ヤーBとして送金を受けたときに、相手が信頼感を示しているにもかかわらず、彼女のオキシトシン のレベルは急上昇しなかった。私たちが思ったとおり、少女期に受けたトラウマが、彼女のオキシトシン受容体の機能を停止させてしまっていたのだ。 

(略)

その後この患者たちに、普通なら共感を呼び起こすような、苦しんでいる人たちの写真を見せなが ら、脳画像検査を行った。彼らのようなトラウマの犠牲者は、扁桃体が機能していなかった。扁桃体 というのはオキシトシン受容体が高密度に存在し、情動を調節している部位だ。だから、信頼ゲーム の実験中のアリシアとちょうど同じように、彼らは情動面で平板であり、写真に対して何の反応も示 さなかった。 (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.156)

硬直マインドセットとオキシトシンのないストレスフルな生活

硬直マインドセット=自己嫌悪・学習性無気力

自分の能力は石版に刻まれたように固定的で変わらないと信じている人――「硬直マインド セット = fixed mindsetの人――は、自分の能力を繰り返し証明せずにはいられない。知能も、人間的資質も、徳性も一定で変化しえないのだとしたら、とりあえず、人間としてまともであることを示したい。このような基本的な特性に欠陥があるなんて、自分でも思いたくな いし、人からも思われたくない。

教室でも、職場でも、人づきあいの場でも、自分の有能さを示すことばかりに心を奪われて いる人を私はこれまでたくさん見てきた。ことあるごとに自分の知的能力や人間的資質を確認せずにはいられない人たち。しくじらずにうまくできるだろうか、賢そうに見えるだろうか、 バカと思われやしないか、認めてもらえるだろうか、突っぱねられやしないか、勝ち組でいら れるだろうか、負け犬になりはしないか、といつもびくびくしている。 それとは違った心の持ちようもある。(『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.13)

硬直マインドセット=ナルシシズム

硬直マインドセットの若者が理想のパートナーと考えるのは、

  • 自分をあがめてくれる人
  • 自分は完璧だと感じさせてくれる人
  • 自分を尊敬してくれる人

言いかえると、自分の資質をそのまま温存してくれる人が理想の相手なのである。

しなやかなマインドセットの若者が望むのは別のタイプだった。彼らにとっての理想のパー トナーは、

  • こちらの欠点をよくわかっていて、その克服に取り組む手助けをしてくれる人
  • もっと優れた人間になろうとする意欲をかきたててくれる人
  • 新しいことを学ぶように励ましてくれる人

もちろん、あら探しをしたり、自尊心を傷つけたりするような人を望んではいなかったが、 自分の成長をうながしてくれる人を求めていた。自分は完全無欠な人間で、もう学ぶことなど ないとは思っていないからだ。(『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.28)

硬直マインドセットは「短期的な結果」を求める

CEOはまた別の面でも選択を迫られている。短期利益を追求する経営戦略をとって自社の 株価を急騰させ、いっときの英雄を装うか、それとも長期的な業績向上に努めるか。つまり、 ウォール街の批判を覚悟で、その後もずっと会社が健全に成長していくための基盤を築くか。

サンビーム社の経営再建のために招かれたアルバート・ダンラップは、硬直マインドセット の持ち主だった。短期戦略を選んだ彼はウォール街の寵児となる。株価はいっとき急上昇した ものの、結局、サンビームは経営破綻に陥っ しまった。

IBM社を窮地から救うために呼び寄せられたルー・ガースナーは、しなやかマインドセッ トの持ち主だった。IBMの企業文化や方針を徹底的に改めるという、とてつもない課題に着手したとたんに株価が低迷。彼はウォール街の冷笑を浴び、さんざん失敗者呼ばわりされた。 けれどもそれから数年後、IBMはふたたび業界トップに返り咲いたのだった。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.31)

硬直マインドセットは、暴力を生み出す。

いじめは、人に優劣をつけるところからはじまる。どっちがえらいか、どっちが上か。そし て強い方が弱い方を、くだらない人間と決めつけて、毎日にようにいやがらせを加える。いじ め加害者がそこから得ているものは、シェリ・リーヴィが調査した少年たちの場合と同じく、 自尊心の高揚感だ。加害者は特に自尊心が低いというわけではないが、他人を見下し、卑しめ ることによって、自尊心の高揚感を味わうことができるのである。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.241)

化学の授業がはじまった当初は、大多数の学生が意欲満々だった。ところが学期の途中で異 変が生じた。硬直マインドセットの学生は、すんなりうまくいっている間だけは関心が保たれ ていたが、難しくなったとたんに興味もやる気もガクンと落ちこんだ。自分の賢さが証明されないと、面白く感じられないのである。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.34)

テニスのジョン・マッケンローは硬直マインドセットの人だった。才能がすべてだと思って4 おり、学ぶことが嫌いだった。逆境を糧にして奮起するのではなく、うまくいかなくなるとす ぐに酒に逃げこんだ。だから、本人いわく、可能性を出し切ることができなかった。 とはいっても、並みはずれた素質の持ち主だったので、4年間、テニス界の世界ナンバーワ ンの座にとどまり続けた。当時の様子を本人が次のように語っている。

マッケンローは試合中、手の汗を吸収するためにおがくずを使っていた。そのおがくずが気 に入らなかったときのこと。彼はおがくずの缶に近づいていき、ラケットで殴ってそれをひっ くり返した。エージェントのゲーリーが驚いて駆け寄ってきた。

「注文したのは君だろ」。ぼくは怒鳴りつけていた。「おがくずが細かすぎるぞ。これじゃ まるで猫いらずじゃないか。ちゃんとしたのを持ってこい」。ゲーリーは飛びだして行って、20分後、もっと粗いおがくずの入った新しい缶を持って戻ってきた……ポケットから 20ドルが減っていた。組合従業員に金を払って、断面5×10センチの木材を挽いてもらっ たのだ。世界ナンバーワンの実態はこんなものだった。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.44)

抑うつを引き起こす硬直マインドー学習性無気力

まず、硬直マインドセットの学生たちの方が抑うつの程度がひどかった。その原因を分析し たところ、自分の問題点や失敗が頭から離れないせいであることがわかった。もっと言うと、 失敗したのは自分が無能で役立たずの証拠だ、という思いで自分を苦しめていたのだ。「おま えはバカだという言葉が頭の中でぐるぐるまわり続ける」「自分はろくでなしだという思いに つきまとわれる」。やはり、失敗者という烙印を押されて、そこから抜け出せなくなっていた (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.53)

時間を費やして努力して情熱を注ぐプロセスに喜びを感じない「硬直マインドセット」

Q しなやかなマインドセットの力で素晴らしい業績を上げ、トップにまで上りつめた人の 話をいろいろ聞いてきました。でも、しなやかマインドセットの人が目指すのは、他人に勝つことではなく、自分自身の成長ではないのです?

トップに上りつめた人の例を取り上げたのは、しなやかマインドセットの偉力を示すため、つまり、才能は伸ばせると信じていると潜在能力が最大限に発揮されることを示したかったか らだ。

さらに言うと、勝敗にこだわらず、自分に納得のいく生活を送っている人の例を挙げても、 硬直マインドセットの人には説得力に欠けるからでもある。楽しく生きるか、人に勝つか、ふ たつにひとつなら、やはり人に勝つ方がよいと思うかもしれない。

しかし何と言っても重要なのは次の点だ。つまり、マインドセットがしなやかな人は、自分 のやっていることを愛していて、困難にぶつかってもいやになったりしないことだ。マインド セットのしなやかなスポーツ選手、実業家、音楽家、科学者はみな、自分のやっていることを 心から愛していた。それが、硬直マインドセットの人たちとの違いである。

しなやかマインドセットの人には、その道のトップになろうなんて考えてもいなかった人が 多い。好きで好きでたまらないことに打ち込んでいるうちに、いつの間にかそうなっていたの だ。何とも皮肉な話だが、硬直マインドセットの人が必死で追い求めているトップの座を、情 熱を傾けて取り組んだことの余得として手に入れてしまうのである。

もうひとつ重要なことがある。硬直マインドセットの人にとっては、結果がすべてなので、 失敗したり1位になれなかったりすると、それまでの努力がすべて水泡に帰する。他方、しな やかマインドセットの人は、結果がどうなろうとも、今、力を注いでいることそれ自体に意義を見出すことができる。たとえば、ガンの治療法を求めて研究を重ね、結局は有効な治療法が見つからなかったとしても、研究してきたことそれ自体の価値が薄れることはない。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.68)

自己防衛としての硬直マインドセット:自己欺瞞

硬直マインドセットの生徒たちは、小学校から中学への移行期を「脅威」と感じていた。実 際、硬直マインドセットの生徒にとって、思春期は自分の優劣が決まってしまう審判のときだ。 自分は頭が良いか悪いか。美しいか醜いか。スマートかダサいか。勝ち組か負け組か。しかも、 マインドセットがこちこちだと、敗者になったら最後、ずっと敗者のままでいるしかない。

当然、思春期の子どもの多くが、あの手この手を使って、学ぶのではなしに自我を守ろうと する。よく使われる手のひとつが努力をしないこと。この年頃には、ナージャ・サレルノ・ゾ ネンバーグのように、優れた才能があっても努力を止めてしまう子が出てくる。

こうした「努力しない病」は、思春期の子どもが大人からの自立を主張する手段だと考えら れているが、それは硬直マインドセットの子どもの自己防衛策でもある。(『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.81)

 

自尊心を守るために、不平不満を言う「学習しない」マインドセット

リーヴィは、思春期の少年たちの自尊心のレベルを測定した後、その少年たちに、女子に対 するネガティブな一般通念――たとえば、女子は男子よりも数学が苦手であるとか、合理的思 考では女子は男子にかなわないとか――をどの程度信じるかを尋ねた。その後でもう一度、そ の少年たちの自尊心のレベルを測定した。

硬直マインドセットの少年たちは、ネガティブな一般通念に賛成を表明することによって、 自尊心のレベルが上がった。つまり、女子は男子はど頭が良くないと思うことで、自分に自信 が持てるようになったのである(しなやかマインドセットの少年たちは、そのような通念にあまり同意 しなかったが、したとしても、それによって自尊心がアップすることはなかった)。

相手が自分より劣っているほど気分がいいーこのようなメンタリティは、友だち関係をそこなう。だれにでも経験があるだろう。才気煥発で魅力あふれる愉快な人なのに、一緒にいる と、自分が救いようのないダメ人間に思えてくるような人。「私が勝手にいじけてるだけなの かしら」と思ったりする。

いや、そうではない。そういう人たちは、自分がいかに優れているかを見せつけるために、 あなたを踏み台にしているのだ。あからさまにけなしてくる場合もあれば、そういう気持ちは 隠しているのに、何げない言動の中にふとそれが出てしまうこともある。いずれにせよ、自分 の価値を誇示するために、あなたをダシにしているのである。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.234)

 

硬直マインドセットは、可能性を閉ざす。

硬直マインドセットの理想を描く親は、自分の子どもが才能あふれる完璧な子でないと気が すまない。そうでなければ、クズだと思ってしまう。だから、子どもには間違いを犯すゆとりもなければ、その子特有の個性――興味、くせ、願望、価値観――が芽生えてくる余地もない。 うちの子はちっとも言うことをきかないとか、決められたことができないとか、硬直マインド セットの親たちがいらいらしながら話すのを何度聞いたことかしれない。 ハイム・ギノットが、7歳のニコラスのこんな言葉を紹介している。

父の頭の中には理想の息子像があるんだ。それとぼくをひき比べて、父はひどく落ちこむ。 ぼくには父の夢をかなえられるだけの力がないから。幼い頃からぼくは父の失望を感じて きた。父はそれを隠そうとしたけれど、声の調子、言葉づかい、沈黙といったちょっとし たところにしょっちゅう表れた。ぼくを理想像のコピーに仕上げようと頑張ったものの、 それは無理だとわかった瞬間に、父はぼくに見切りをつけた。けれど、父が残した深い傷 は消えず、自分は失敗者だという思いにつきまとわれている。

子どもの心にしなやかマインドセットの理想を植えつけようとする親は、頑張れば手が届く ような目標を子どもに与える。そして、長い目でその成長を見守ろうとする。生き生きと活動 しながら社会に貢献できる豊かな人間に成長してくれることを願うのである。 しなやかマインドセットの親が「わが子にがっかりだ」と言うのは聞いたことがない。(『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.280)

硬直マインドセット(固定観念)は他者への寛容を減らすー共感欠乏・人間疎外社会の礎

経済は「競争」では繁栄しない

 

ホルモンのせいで起こったこの物の見方の変化は、政府そのものも含め、公的機関に対する信頼の 深まりにつながった。オキシトシンのせいで、特定の政策や政治的な考え方への信頼が増したわけで はなく、オキシトシンを与えられた人たちは、政府を信頼する人へ前よりも強い信頼を示したのだっ た。これこそ、民主主義の土台ではないか。

その後、私たちは研究をさらに一歩進めることにした。仮にオキシトシンが人々の政治的な好みに影響を与えるとすれば、それはどんな影響か知りたかったのだ。この実験のために、参加者に自分の政治的な立場(無党派か、二大政党のどちらかの党員か)を表明してもらった。それからオキシトシ ンを与え、「ヒラリー・クリントンに対する感情を評価してください」とか「ルドルフ・ジュリア ニに対する感情を評価してください」といった項目のリストに記入してもらった。 あまり意外ではなかったが、オキシトシンを与えられた民主党員は、民主党のヒラリー・クリント に対しては30パーセント、連邦議会に対しては3パーセント高い好感情を報告した。だが彼らは、 ライバルの共和党の候補者に対しても、よりポジティブな感情を抱いており、プラシーボを与えられた民主党員よりも、共和党のルドルフ・ジュリアーニに対しては5パーセント、ジョン・マケインに 対しては30パーセント、好感度が高かった。オキシトシンを与えられた無党派の人は、民主党と共和 党のどちらに対しても高い好感情を見せたが、特定の候補者については、その傾向は見られなかった。 一方、共和党員(政府への不信がイデオロギー上の立場の核を成す政党に属する人)に対しては、モ ラル分子は何の効果もなかった。オキシトシンによって、共和党の候補者に対してだろうと、民主党 の候補者に対してだろうと、議会に対してだろうと、少数派に対してだろうと、信頼が深まることは なかった。

ここからいったい何がわかるだろう? オキシトシンは個人のレベルで現に共感と社会的なつなが りを引き起こすことができ、それが社会のレベルにまで広がりうるが、オキシトシンは個人間の力が 直面するのと同じ障害に、社会的な力としても直面することがうかがえる。オキシトシンの働きを妨 げる一要因は、深く根を下ろした固定観念だ。それが「合理的利己主義」だろうと、「あいつらはろ くでなしだ」というものだろうと、「政府は敵だ」だろうと変わらない。  (『経済は「競争」では繁栄しない』ポール・J・ザック p.260)

 

この記事のまとめ

過保護は養育者の自己欺瞞です。

過保護・過干渉はなぜおこる?大人のコミュニケーション障害

不思議なもので、お母さんは常に「過保護」の傾向があるようにおもいます。自分の心配を勘違いして、「子どもが心配している」ように感じていたり、自分の情動マネジメントができずに、子どもを使って自分を安心させている、という印象を受けるケースが多いのです。

もちろん、健康的な、子どもと自分をきちんと区別したお母さん、子どもの尊厳、「命」を大切にしているお母さんもいます。(別の記事で書いた通り、子供の育て方はお母さん自身が子供だった時どのように育てられたかに影響を受けますが、社会的な圧力によって「べきべきねばねば病」になっていることもあるとおもいます)

過保護の原因

本題です。

なぜ過保護になるのか。

お父さんであれば「長男」に対する執着は社会的に要求されている圧力によるものなど、「べきべきねばねば病」であるケースが多いようですが、お母さんだと事情が違うようです。

過保護、過剰な世話を焼くことで自分自身を落ち着かせている可能性があります。オキシトシンを分泌するために、子どもを道具として使っていると思ったら、これが人権侵害だとわかるでしょうか。

不安、心配といった情動をマネジメントを、他人に助けてもらうのはよいのですが、子育ての名の下に子どもを巻き込むのは、犯罪です。

カリフォルニア大学ロサンゼルス校の心理学者シェリー・テイラーによると、他者の世話をしたり助けたりしているあいだ、 女性の体内ではさらに多くのオキシトシンが放出され、それによってさらに気分が鎮静化するという。 他者の世話をしたり助けたりする衝動は、女性特有のものかもしれない。アンドロゲン(男性ホルモ ン)は、オキシトシンの鎮静効果を抑制する働きがある。エストロゲン(女性ホルモン)は、オキシ トシンの効果を促進する働きがある。この違いが原因で、脅威に直面したとき男性と女性は非常に異 なる反応女性は仲間を求め、男性は単独で対応する―を示すものと考えられる。たとえば、実 験で被験者にこれから電気ショックを与えると告げた場合、女性の被験者は他の実験参加者と一緒に 待つことを選び、男性被験者は一人で待つほうを好む。男性は女性に比べて、テレビやビールなどの 単純な気晴らしで不快ストレスをまぎらわすことがうまい。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.366)

社会が、どれだけ不健全になったのかを、おもわずにはいられません。

この記事のまとめ

過保護は、養育者の「情動マネジメント」のチカラが低いと起こります。

過保護ですか?ーストレンジャーテストでわかる親子関係

なんでも手を焼いたり、世話をしたり、「自分がいなかったら」という態度は、過保護で、干渉的で、支配的であるかもしれません。

親子の関係をテストする「ストレンジャーテスト」があります。お母さんがいなくなった時に、子どもはどう反応するか、お母さんがやってきた時に、子どもはどう反応するか、1歳の段階で、多くのことがわかるといいます。

就学前までに効果的な自制スキルを発達させた幼児はたいてい、とても支配的な母親が注意を求めると、そばを離れずにいる代わりに、ほかへ気をそらし、母親から(「1メートル以上」)距離を置き、部屋を探検したりおもちゃで遊んだりした。支配的な母親から距離を置き、母親が近くそぶりを見せると、文字通り離れていった幼児たちは、5歳のときにマシュマロ・テストで長く先延ばしにすることができた。注意コントロール作戦を使って欲求不満を「冷却」し、もっと幼かったときに支配的な母親から自分の気をそらしたのと同じやり方で、報酬とベルから気をそらすことで成功したのだ。

これとは対照的に、同じぐらい支配的な母親を持ちながらも、注意を向けるように言われた時にそばを離れなかった子どもは、マシュマロ・テストに挑むと誘惑のもとに注意を集中し、たちまちベルを鳴らしてしまった。

母親があまり支配的でない幼児に関しては、話が違っていた。母親が注意を引こうとした時に、そばを離れなかった子どもは、5歳になったときにマシュマロ・テストでより効果的な自制と「冷却」の戦略を見せた。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.70)

子どもを人として尊重する

子どもの選択と、自由意志があるという感覚を後押しすることで自主性を奨励した母親の子どもは、のちにマシュマロ・テストで成功するのに必要な種類の認知的スキルや注意コントロールスキルが最も優れていることがわかった。(略)すなわち、幼児を過剰にコントロールする親は、子どもが自制のスキルを発達させるのを妨げる危険を犯しているのであり、一方、問題解決を試みる際の自主性を支え、奨励する親は、子供が保育園から帰ってきて、どうやってマシュマロを二個手に入れたかを嬉々として聞かせてくれる可能性を、おそらく最大化しているのだろう。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.71)

挫折と回復の経験

わたしの知りあいでニューヨークに住む裕福な夫婦が、中年になってようやく子宝に恵まれた。こ ういうケースは、子供を溺愛しやすい。この夫婦も、一人娘のために乳母を数名雇ってつねに大人の 目が行き届くようにし、店ごと買い取ったかと思うほどたくさんのおもちゃを与えた。

しかし、お城のようなドールハウス、ジャングルジム、おもちゃがぎっしり詰まった部屋を与えら れていても、この四歳の女の子は淋しい思いをしていた――この子は、一度も友だちと遊んだことがないのだ。なぜか? 大切な娘が他の子から意地悪されるかもしれない、と、両親が心配したのである。

この夫婦は、子供の周囲からあらゆるストレスを取り除いてやれば愛するわが子は幸せに育つ、と いう誤った考え方をしていた。

こうした考え方は、心の回復力と幸福に関するデータを誤解した結果だ。過保護は、学習の機会剝 奪に等しい。いかなる代償を払ってでも子供の苦痛を排除してやらなければならないという考え方は、 この世の現実と相容れないし、幸福をつかむ方法を子供が自力で学習する機会をつぶしてしまう。 ストレスから逃げ回ってかりそめの幸福を守るよりも、子供が自力で情動の嵐を克服する方法を学 ぶほうが大切だ、と、研究者は考えている。子育てがめざすのは、現実逃避の「ポジティブ」心理学 ではなく、何が起こっても子供が自力で心の安らぎを取りもどせるようにしてやることなのだ。

たとえば、子供がおろおろするような状況に遭遇したとき、親が「別の角度から見る」ことを教え てやれば、子供は不快な情動を解消する万人共通の方法を学習できる。こうして親が少し手を貸せば、 子供は困難な局面に陥ったときでも明るい面に目を向ける工夫をおぼえていく。神経レベルでは、こ うした学習成果は深いストレスをコントロールする眼窩前頭皮質の回路に取りこまれる。

子供時代に人生のさまざまな失敗に対処する方法を学んでおかないと、情動面で準備不足のまま大 人になってしまう。幸福に生きるために必要な知恵を身につけるには、子供のうちに痛い目に遭う経 験をしておかなければならない。いわば、日々の人間関係で避けることのできない心の動揺に備える 基礎訓練だ。脳が心の回復力を習得していくメカニズムを考えてみると、ただ単調に楽しく無難な子 供時代を送るのではなく、社会生活の荒波にもまれる練習をしておくことも重要なのだ。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.277)

獅子を谷に落とす

適度な恐怖を味わう体験のメリットは、リスザルを使った実験によって証明された。生後わずか一 七週 (人間でいえば乳児)のリスザルを、週一回、住み慣れた飼育舎から出して、知らない大人のサ ルたちがいる別の飼育舎で一時間過ごさせる。これを一○週にわたっておこなう。まだ乳離れもして いない小さなリスザルが震えるほどの恐怖を感じていることは、しぐさからはっきりと確認できた。

そのあと、右のリスザルも含めて乳離れ直後(しかし、情緒面ではまだ母ザルに頼っている時期) のリスザルたちを母ザルと一緒に見慣れない飼育舎に入れる。この飼育舎には別のリスザルはおらず、 あちこちにおやつが隠してあったり冒険できる場所が作られている。

以前に週一回知らないサルのいる飼育舎に入れられてストレスを体験しているリスザルは、母親の そばを一度も離れたことのない同月齢のリスザルに比べてはるかに勇敢で好奇心も強く、新しい飼育 舎を自由に探検して、おやつを手に入れた。それまで母ザルのそばから離れたことのない子ザルたち は、怯えて母ザルにしがみつくばかりだった。 当然、独立心旺盛な子ザルたちには恐怖による神経の興奮は認められなかった(もっと幼い時期に知らない飼育舎に入れられたときは、おおいに興奮が見られた)。恐い場所に定期的に連れていかれ た経験が、ストレスに対する予防接種の役割をはたしたのである。

ストレス体験は、適度な範囲ならば、発達期の脳にとって脅威を克服し平静を回復する方法を学習 する有益な機会になると思われる。人間でも、サルでも、幼年期に対処可能な範囲のストレスにさら された場合、それを克服した経験は神経回路に刻みつけられ、大人になってストレスに直面したとき に回復力の強さとなって表れるはずだ、と、神経科学者たちは考えている。恐怖から平静へという経 験を積み重ねることによって心の回復力を支える神経回路が形作られ、情動をコントロールする大切 な能力が育つ。

「わたしたちは、対処できるレベルの脅威やストレスにさらされることによって、心の回復力を養う ことができます」と、リチャード・デイヴィッドソン が説明する。ストレスが小さすぎれば、成果はない。ストレスが大きすぎれば、恐怖をつかさどる神経回路に間違った学習成果が刻みこまれてしま うおそれがある。たとえば、ある映画が子供にとって恐すぎるかどうかを判断するには、生理機能が 平常に戻るのにどのくらいの時間がかかるかを観察すればよい。恐怖による精神的・肉体的な興奮状 態が何時間も続くようならば、それは心の回復力の鍛練にはなっておらず、回復に失敗している状態だ。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.280)

【あなたの宗教は何?】学歴社会と儒教とべきべきねばねば教:森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』

なぜ日本は没落するのか

「学歴」を信仰する人は儒教の考え方をしている。

いやぁ、社会がだって、そうでしょ・・・という考え方が儒教的、ということだ。

 

1:日本は儒教国である。

2:「学歴社会」は儒教の作り出す社会のしくみである。

3:儒教の要点は次のよう(→僕が勝手にわかりやすく翻訳しました)

(一)父母に孝順なれ、→ 親に従順でありなさい。

(二) 郷里に和睦せよ、→ 地元の人と仲良くしなさい。

(三)長上を尊敬せよ、→  年長者には頭を垂れよ。

(四)子孫を教訓せよ、→ 子供はしつけなさい。

(五)おのおの生理(生業)に安ぜよ、→ 働きなさい。

(六)非為をなすなかれ、である。→ 悪いことをしてはいけません。

 

国家主義・全体主義 v.s. 自由主義・個人主義

 

今まで私は戦前の教育は全体主義、国家主義的であり、戦後の教育は自由主義、個人主義的 であると述べたが、以下ではもう少し内容に立ち入って戦前、戦後の日本人の思想について述 べることにする。

日本人は、さまざまな宗教や思想に対して寛容である。まず宗教から始めるが、国内では、 実に多くの宗教団体が時を同じくして活躍してきた。近代の日本人にとって主な宗派といえば 神道・仏教・儒教であり、これに加えて、近代に入ってから受容した各派のキリスト教、さら に、もっと最近になって形成された多くの新興宗教がある。こうした幅広い多様性は、日本人 の寛容さとともに、精神生活に対する彼らの無関心をも示している。これらの宗教のうち、大半の日本人にとって最も影響力が大きいのは儒教であろう。これは宗教といっても、結婚や葬 式といった儀礼の場に無縁であり、また生死の問題にも取り組んでいないという点で、最も宗教色が薄く世俗的である。 (森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』p.44)

 

日本は中国由来の、儒教国。

徳川時代(一六〇三ー一八六七年)を通じて、儒教は武士階級の倫理的なバックボーンとなっていた。明治維新から第二次世界大戦の敗戦に至るまでの学校における道徳教育は、厳格に儒教倫理に沿ったものである。にもかかわらず、儒教が寺院や教会といった施設を持つことは稀であったため、儒教の教義が子供たちに伝えられるのは、学校の教室や家庭の居間だったのであ る。武士階級の子弟でも、高学歴でない親を持つ子供にとっては、儒教倫理を学ぶ場所は教室 以外にはありえなかった。そのような子供たちの多くは、そうした道徳教育を押しつけがまし いものと感じていた。だからこそ、占領軍司令部(GHQ)が学校でのこの種の道徳教育を禁止したことを、日本人は歓迎したのである。結果として、一九九〇年代に活躍する日本人の大半 は、儒教に対して殆ど何の敬意も抱いていない。この事実は、儒教が鼓吹してきた禁欲主義が 現代日本ではほぼ消滅したことを意味する。時が経つとともに、これがますます顕著になってきたのは、家庭における戦前の生活の記憶がますます薄れていったためである。 GHQが日本政府に対し多くの根本的改革を命じたのはよく知られている。新憲法の施行、 完全非武装化、財閥解体、土地改革、教育改革などである。そのなかでも、長期的に見て最も 強力な影響を生み出したのは、新旧の教育システムの切替えである。すでに述べたように、そ れは日本の大人の社会を、新たに育ちつつある青少年の社会から切断した。と同時にそれは日本の国家主義(ナショナリズム)にも決定的な打撃を与えた。 日本のナショナリズムは古く六世紀の頃にすでに育成されていた。日本が儒教を輸入した頃、 中国という強大で、はるかに進んでいた国がすぐ隣に存在していた。また朝鮮も、日本より進 んでおり、文化面でもはるかに優越していた。こうした環境の下で、日本人は古代から自己防 衛的な態度をとるように躾けられていた。すでに七世紀末に、ナショナリズムの精神が勃興し ている。国を防衛するには、国は国力を持っていなければならない。こうして日本人は物質主 義的な傾向を持つようになり、ひいては世俗生活における豊かさに強い関心を持ち続けるに至 ったのである。 (森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』p.45)

戦後、日本人はナショナリズムの危険を思い知らされると同時に、他方では、遅かれ早かれ 日本にもヒトラーのような人物が将来登場するのではないかと危惧してきた。しかし現在では、 一部の人を除いた一般の人は、そうした危険がすくなくとも近い将来には訪れることはないと 安心している。二発の原子爆弾は、日本のナショナリズムを完膚なきまでに破壊した。しかし 同時に、彼らは自信をも失い、国際的な問題に対する発言もやめてしまったのである。世界の 大国の陰に隠れて、いかに痛烈に非難されようとも、日本人は物質的な利益を追求しつづけた。 しかし一九九〇年代になって右傾化が人目を引くようになった。

「学歴社会」=「儒教社会」

儒教国家においては、人々の社会階級は、その人の学業の成果にしたがって決まる。学校教 育の期間は、知的トレーニングの期間であるだけでなく、子供たちがさまざまな社会階級に割 り振られていく期間でもある。西側の社会にも多かれ少なかれ類似の現象が見られるが、儒教国家においては、それが一層顕著である。高等教育を受けるのが珍しかった頃は、大学を卒業 したというだけで知識階級の一員と見られていた。戦後の新教育の時代にも、子供には高等教育を授けてやりたいという「儒教精神」は親の世代の心の中にあった。こうして、すでに述べ たように、大学進学率は四〇パーセントに達するようになり、大学を卒業をして職を見つける ときに、生まれた子供のほぼ半数近くが同一線上に並んだのである。そしてその線上の人は、 戦前よりはるかに個人主義的・自己中心的な若者たちであり、そういう意味で戦後社会は、平等主義、競争本位の社会になったのである。 (森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』p.47)

 

日本のような儒教国では、人は教育の有る者と無い者に分けられる。戦後の日本では大学を 出ているかどうかが、教育の有る無しの基準である。儒教の言葉でいえば、大学を出た人は君子であり、出なかった人は小人である。だから親はわが子が小人の烙印を押されないように、 必死になって子供を大学に行かせる努力をした。入学試験は苛烈を極め、競争率は高く、塾や 予備校に子供を通わせた。文部省はちょっとでも入学難を緩和するようにと、あらゆる努力を し、大学の学生収容力を大きくした。その結果、生まれたものの四〇パーセントが大学に行くようになった。

こうなると大学卒業生は希少価値を持たなくなった。日本では君子がざらにいるようになったのである。そうなると君子は、君子らしく振舞わなくなる。君子は天命と大人と聖人の言をおそれるというが、日本の大学出は電車の中で漫画本を読み、老人や幼児を連れた婦人を見て も席を譲らない。だから彼らは、エリートと呼ばれることを嫌い、日本は社会を引っ張る機関 車不在の国に成り果てたのである。 (森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』p.39)

大学進学率が二〇パーセントを越え、四〇パーセントに達すると、小学校時代の中位ないし 中位尻の生徒ですら大学に行くようになった。入学試験により選別された結果、ある種の大学には成績の悪い者は入学しにくいから、選抜が厳しくなされている大学が存在するが、そのよ うな大学でも学内の雰囲気は昔と比べるとはるかに雑然、騒然としており、アカデミックな仕 事をするのに不適当な環境になっている。(私は最近数年間、秋に二、三カ月間ほど、日本の大 学で講義してきたが、環境は昔の高校(旧制)よりはるかに悪い。湯川秀樹は三高時代に朝永振 一郎と、当時の大学程度ないしそれ以上の理論物理学の問題を論じあっていたといわれるが、 そういう環境は欧米の大学にあっても、もはや日本の大学にはない。)そういうわけで大学で すら、エリート達のための場所でなくなったのである。日本の文部省の役人は、一〇歳台の後 半が、学問的にも思想的にも最も急速に発育する時期だということを理解していないように思 われる。 (森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』p.41)

 

工業化時代直前の日本は儒教国で、そこでは学習や学問は高い権威を持っており、「したがって教育という考え方自体が、無教養で俗物的なイギリスの社会におけるより高い価値を持っている」とド ーアは述べている(一九七六年、四四頁)。だが儒教は日本にしっかりと根づいているし、それは工業 化時代直前よりも遥か昔にまでさかのぼる。すなわち、聖徳太子(五七三十六二一年)の昔以来、日本 人のモラル・バックボーンであった。現在の日本人は、もしかするとイギリス人よりもとんでもなく 無教養で俗物かもしれないが、それでもまだ人間を無学な者(小人)と学のある者(大人)の二階級に分 けるという意味では儒教徒である。通常、教育での競争の成果に比例して所得は支払われるのだとし ても、日本での教育ラット・レースは、元来は高い所得を目指すための経済的な競争ではなくて、学 のある人の側に属するためのラット・レースであ。このことは女子学生の場合を見れば明らかであ る。なぜならば、日本ではほとんどの女性は短大や大学卒業後の数年間しか働かないにもかかわらず、 彼女たちの間でも教育ラット・レースは男子学生と同じく熾烈である。彼女たちが短大や大学の入学試験を受けるのは、卒業後によりよい職につくためでなく、二層に分かれた社会の上の層のメンバー になるためであるのは明白である。それがなければ、彼女たちが上の層に属する男性と結婚すること はたいへん難しい。日本の女子大学は、イギリスのフィニッシィング・スクール(教養学校)と同様、 学生の社会階層を決めるための機関であって、いくつかの例外を除いては、学問的でも職業教育的でもない。同じように男子学生にとっても、学士号やディプロマなどの役割は中世時代に家系図や家柄 の記録が演じたものと変わらない。会社は「大人」階級から新入社員を採用するから、儒教国日本で は、志願者はその階級の一員であることを証明するために、卒業証書を提示せねばならない。男女と もに、もし彼らが学歴を獲得できたならば高い社会的階級に属することができるが、もし大学進学に 失敗すれば両親が属している上の階級を失うことは極めて容易である。このことは今もって変わって いないが、女性の職業意識は現在は高まっている。 (森嶋通夫『なぜ日本は行き詰まったか』p.22)

 

日本は大学を中国(儒教社会)を真似て作った。

すでに述べましたように、ヨーロッパの大学は僧院から出発しましたが、中国では官吏 養成所でありました。したがってヨーロッパの大学は俗人たちにとってあまり魅力のない所でしたが、中国の大学は人生の登竜門です。日本帝国は、清帝国に追いつき、追い越すために、日清戦争の八年前に東京帝国大学をつくったのですが、そのために東大が中国式 大学(官吏養成所)になってしまったのは、日本にとってひじょうに不幸なことでした。日 本人は立身出世するために大学に行ったのです。しかも中国も日本も、儒教国はみなおし なべて知識人優位の国であります。したがって日本には、西欧にないような大学進学への 強力な incentive が充満していたといわねばなりません。大学から魅力を徹底的にとり除 いてしまわないかぎり、猫も杓子も大学につめかけて過当競争が生じるのは当然です。

だから日本に試験地獄をつくった元凶の一人は、孔子さまだということになります。儒 教では世の中の人々を君子と小人にわけて考えます。君子とは徳の習得に励む人(もしく は徳のすでに出来上がった人)のことを言いますが、徳治主義を主張する孔子の政治理論 では、治者すなわち社会の上層部の人々は、理想としては、全員が君子でなければなりま せん。君子はまた教養ゆたかでなければなりません。

これにたいして小人とは徳のない人であり、徳治主義の原理によれば、彼らは被治者で あるべきです。孔子は人々を、徳と教養が豊かであるかどうかで、君子と小人に分け、君 子が治者になり、小人が被治者であるような社会を構想したのです。もちろんこのような社会は孔子のユートピアにすぎず、「近頃の治者たちはどうですか」と尋ねられたときに は、彼は「ああ、つまらない人たちだ、とりあげるまでもない」と答えていますが、彼の 徳治・教養主義的社会観は、長いあいだ儒教が正統派の地位にあった中国では、受け入れ られ定着しました。そしてほぼ同じような考え方が日本をも支配したのです。

このような社会観の下では、なによりも literati(知識階級、すなわち君子)と illiterate (無学者すなわち小人)を選別することが必要であり、治者すなわち官僚は知識階級のなか から選ばれればなりません。こうして中国では、西欧の人にとっては信じられないほどの 昔(八世紀のはじめ、唐の時代)に、官僚選考の試験制度(科挙)が始まりました。もちろん 現実には、儒者(学者)は全員が君子であるとはかぎらず、小人儒(悪徳儒)も少なからずお ります。それゆえ小人が試験に合格して高位高官についたために、悪政が行なわれたこと がしばしばありましたが、中国歴代の王朝は、試験を厳格、公平に施行しさえすれば、か ならずや小人儒は排除できると確信して、試験をますます厳密にする努力をしました。 高位につきますと、賄賂がたくさんもらえて、本人だけでなく、一門もうるおいますか ら、大家族制度の中国では、一門のうちで頭のよい者を選んで特訓し、科挙試験を受けさ せました。最初のうちは、学校がなかったので、特訓は学のあるおじいさんにしてもらう とかの形で private に行なわれておりましたが、学校のある時代になっても、生徒の目的 は科挙に合格することにあるのですから、彼らは学校の勉強をせずに、受験勉強ばかりし ました。その結果、ひじょうに巧妙なカンニングの方法が発明され、試験が厳格になるに したがって、カンニング法もますます高級化しました。 こうして科挙は、最初目的にした ような、小人儒を落とすための試験でなくなり、逆に小人儒を選んで、彼らを高位高官に つけるための梯子になってしまったのです

西欧の場合、examination と schooling は一体で、学校で 学んだことを試験でたしかめるという関係にあります。し たがって授業と試験勉強の分離はなく、みなさんがきっと 驚くくらい、イギリス人はカンニングをしません。しかし 孔子さまの国のように、出世するかどうかを試験だけでき める(日本もそのような国です)場合には、examination は schooling から分離して一人歩きをはじめます。本家本元 の中国では、試験はますます厳正、苛酷、しかも大々的に行なわれましたが、試験がむず かしくなればなるほど、誰もが学校教育を無視して受験勉強に専心するようになり、学校 はまったく荒廃に帰しました。 このようにして、八世紀には世界一の文化国家であった中 国は、二〇世紀はじめには、民衆は無学文盲に放置され、政府は奸智な役人たちで運営さ れるという無恥無道の国――革命の他に救う道がないというような国になってしまっ たのです。

このように儒教国家は、知識階級と無知識階級から成る階級国家です。知識階級は中央 でも、地方でも、政治の実権を握り、さらに徴税権をも独占した彼らは、経済の実権をも握ってしまいました。知識階級に属するかどうかは家柄できまるわけでも、財産の量でき まるわけでもなく、その個人が国家試験に合格するかどうかで決まりますから、このよう な国家では、猛烈な試験地獄が生じるはずです。日本も明治以来、官僚主導型の資本主義 国家として発展しましたから、中国とほぼ同じようなコースをたどりました。そして八世 紀はじめから二〇世紀はじめまでの約千二百年の中国の歴史を、日本は百年の間にフルス ピードで駆け抜けて現在にいたったのです。中国や日本では、知識階級は筋肉労働を嫌悪 し、その結果、労働者は小人であると軽蔑されました。子どもたちはそのような蔑視をま ぬがれるために、我も我もと大学につめかけました。女性については、孔子は「女子と小 人は養い難し」と述べて、女性を小人の側に入れましたが、日本では君子と結婚するため には女子も大学を出ていなければならないとして、短大という名の対君子用花嫁学校が繁昌しました。こうして世界無比の試験地獄が日本の年中行事になったのです。

西欧の国ぐに、その典型であるイギリスもまた階級社会です。しかしこれらの国では階 級は財産をもっているかどうか、どのような財産をもっているかどうかで、資本家階級、 地主階級、労働者階級に分けられます。子どもは親と同じ階級に所属します。子どもが成 長して大人になりますと、独自の階級に所属しますが、世代間の階級移動が困難な場合に は、息子と親が同じ階級に所属する率はひじょうに高くなります。階級が固定化して、貧 乏な家に生まれた子どもが、貧乏を宿命づけられるのはよいことではありません。おそらくこのような社会には、儒教社会のように、頭のよい子どもを試験の成績に応じて君子階 級に昇格させ、怠けていた金持ちの子どもを小人社会に転落させるという階級交流がぜひとも必要でしょう。 (森嶋通夫『学校・学歴・人生』p.98)

全体主義・国家主義の大人が子供に教えていること

更に、戦後日本の学校で教えられた欧米的な価値観が、胡散臭い代物であったことを指摘し ておかねばならない。個人主義と利己主義が不分明のまま教えられていた。自由主義は、アナ ーキズムにつながりかねない教義として教え込まれた。教育現場にこのような混乱が生じたの も無理はない。教師自身、こうした概念を正しく理解してはいなかったからである。彼らは、 終戦までは日本の儒教的な教育のエキスパートとして、国家の第一原理たる天皇に私心なき忠誠を捧げるように、子供たちに教えていたのだ。 (森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』p.48)

儒教倫理の要点は、中国明朝の洪武帝(在位一三六八一九九年) によって、以下のようにまとめ られている。すなわち、

(一)父母に孝順なれ、

(二) 郷里に和睦せよ、

(三)長上を尊敬せよ、

(四)子孫を教訓せよ、

(五)おのおの生理(生業)に安ぜよ、

(六)非為をなすなかれ、である。

明治天皇が一八九〇年に発布した「教育勅語」は戦前の日本に甚大な影響を及ぼしたが、これは明らかに洪武帝の「六諭」を基礎としたものである。いうまでもなく、プラトンの哲学と比べ ると儒教倫理は非常に素朴であり、普遍的な倫理と見なされないような項目も含んでいる。 (たとえば、「隣人の意見に常に同意すべきだ」というような。)したがって、儒教には多くの 通俗的解釈がある。私は日本の現在の政治家は相変わらず儒教的であると考えているが、それ は有権者のための利益を追いかけることが郷党との和を高めることだと考える人をも、儒教的と見なした上でのことである。

洪武帝の「六諭」の、(一)(二)(四) に見るように、儒教では社会の縦の関係を重視する。こ れはエリート主義や、最悪の場合は依忙贔屓を助長するだろう。この倫理の下で、個人の行動 は、自身と密接な関係を持つより大きな集団の幸福・繁栄をもたらすような方向に向けられて いる。洪武帝の「六諭」や明治天皇の「教育勅語」に見る限り、個人の業績は重視されておら ず、また個人の業績を評価する普遍的な原理も明確にされていない。自律的な子供を育てよう という欧米流の教育とも正反対の立場であろう。儒教社会では、個人はそれぞれの業績にのみによって評価されるのではない。そこには厳格な平等主義的評価の原則は存在しないのである。 日本の戦後教育は、このような儒教倫理への郷愁を持ち続ける教師たちによって、普遍主義・ 平等主義の教義が未熟のままに教えられたのである。文部省もこのような基本的な問題につい ては問題提起すらせず、放置したままであった。 (森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』p.48)

 

 

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